ディッキー - みる会図書館


検索対象: 黄泉の河にて
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1. 黄泉の河にて

「ほかのやつら、部落へ帰る。黒い連中、それがいいみてえた。ジム判事、言うとおり」 ーケットは、自分たちが心から彼らの立場を案じているということがわかってもらえれば、六 〇年代の公民権デモに参加した人間、信頼をけっして裏切らない人間たということが伝わりさえす れば、ディッキーの態度もほぐれてくるたろうと期待した。ところが、好意的な働きかけに、目手 はかえって恐布心を募らせ、日ごと用心深くなっていくようたった。 マングロープの小島には乾いた地面がないので、昼の休憩には、メキシコ湾へ注ぐ水路べりにあ ちくてい る廃土と貝殻の築堤へ舟を着けた。漁船や、たまに通りかかる自家用ポートが利用する場所た。ア リスもそこでは、脚を少し伸ばせるし、茂みの陰で用を足すこともできる。しかし、泥灰土はかん かんに焼けていて、日光浴をするような場所はなく、また、空腹の吐息をつくディッキーがそばに いては、夫婦ふたりたけで昼食と会話を楽しむわけにもいかなかった。 ある日、 ーケットは、舟上をわずかでも華やがせようと、ラム酒の壜を持ち込んた。ガイドを のけものにするのは不自然たと思い、妻が両眉を吊り上げるのを無視して、たつぶりの炭酸で割っ た酒をディッキーに差し出した。。 ティッキーは驚いた顔をしたが、断わりはしなかった。楽しい款 抜きのあとには、笑みさえ浮かべ、テープを聴かせてもらえないかとアリスにおうかがいを立てて きた。アリスはもちろん、複雑な心境になったが、それでも気前よく機械とイヤホーンを渡し、デ ィッキーは束の間のモーツアルトを楽しんた。このテープレコーダーはい くらするのかときき、ア リスがロごもりながら「そうね、二百ドルぐらいかしらと答えると、ひきつったような声でひと しきり笑う。「お客さん、チップはずめば、おらも買える ! 」

2. 黄泉の河にて

黄泉の河にて をもう一本くれや」たみ声で言う。女将は振り向きもせずに後ろへ手をのばして、冷蔵庫から一本 取り出し、客が慎重にナイフで栓を抜いた。「これで八本目じゃねえかな」手の中でゆっくり壜を 回しながら、老人は目を丸くしてながめた。 女将がうなずく。「それに近いこたあ、確かたね」うなるような声。 ディッキーは消えたきり出てこず、 ーケットは体重を片方の足からもう片方へ移しかえながら、 ( 見入った。 古い噛み煙草の広告カードこ 「勘定を払うのは俺じゃねえってことは、わかってんたろな」挑みかかるような表情をして、老人 は濡れたラベルを親指で壜から剥いた 「誰が払おうが、ジム判事は気にしないたろうさ。ジムに言ってごらん 「何言ってやがる。俺の面倒はせがれがちゃんと見てくれらあ ! 使いきれないぐれえ、稼いでつ からなー 『父ちゃん、好きなたけ飲んできていいぜ』と来たもんたー しいか。け′九にー ) 女将がちらっとバーケットのほうを見る。「本人がいたら、『父ちゃん、たばらも、 なよ』って言うとこたろうさ」そしてスツールを降りると、引きずるような足取りで奥から出てき 、」 0 ヾ、 ケットよ、。 ティッキ ] がもう現われないたろうということをようやく唐った。 「いらっしゃい。コーヒーですか ? プラック ? それとも、黒と白のミックス ? 「北部じゃあ、みんな、黒白混ざったコーヒーを飲むちゅう話た」女将の投げた餌を無視するパ ケットに、 老人のひとりが畳みかける。「ジム判事が言うとった」 「売ってもらえるなら、ラムを一本欲しいんだが」 2

3. 黄泉の河にて

黄泉の河にて 「すぐに事清を調べたちゅうことは、きのう申しましたな ? つまり、ディッキーをここに呼んで、 こう言ったです。やったのがおまえたろうとジョニーたろうと、わしはたいして気にせんが、さっ さとけりがっかんようなら、ふたりともきつい目にあう、苦役についてもらうことになる、とね。 そしたら、ディッキーが話したですよ。ジョニーは、沼杉の林に住むインデアンの女に入れあげと る。そうたったな、ディッキー ? 」判事は頭を後方に傾け、肩越しにディッキーに話しかけた。 「金を作ろうと躍起になっとる。そうたったな、ディッキー ? 」喉の奥で笑って、手の力を抜いた ので、黒人は逃げるように部屋を出ていった。 「つまり、ジョニーがやったというわけですね」 「いや、はっきりそうとは言っとらんですよ、先生。見たわけじゃあありやせんしね。たが、ゆう このあとすぐ、 べの騒ぎを考えりゃあ、ジョニーが何かについて何かを知っとることは間違いない。 あやつをここへ引っ張り出して、おたくのテープの機械をどうしたか、わしとスペックとでしゃべ らせやすよ」 ーケットは一言った。 「すぐに戻ってきます」。 コーヒーを持って出てきたディッキーは、調理場へ押し戻された。バ たまげているようたった。 りの表青に、 「おい、あのテープレコーダーを持ってくるんた」 「ジョニーが盗った ! あの晩、家に持って帰ったー アリス奥さんにどなられて、ジム判事に捕まった ! 」 けど、恐ろしくなって、返しに行ったら、 ーケットの顔に疑いの色を見て取り、必死 ーケットの顔に浮かんた賁

4. 黄泉の河にて

ットは、浮き立っ気持ちと安堵感に表情を崩し、ディッキーがテープレコーダーまで返してくれる のを待った。ところが、差し出されたのは汚れたプラスチックのコップで、 ーケットはそれに酒 を注ぐと、壜をディッキーに返した。 ' カイドは喉を鳴らして飲み干し、壜を荒つばくマングロープ 林に投げ捨てた。 「ディッキー、もしかして : : : 」早くも黒人の頭が、首の骨でも折れたみたいに 」左右に振られる。 「テープレコーダーを知らないか ? 」先走った否定に調子を合わせるように、パ ーケットは急いで 言い終えた。 カイドは激青を宿した黒い仮面の奥に引きこもり、目を丸くした。 「いんや、知らねえ、おら、何も見ねえー ディッキーは体を櫓のほうへ乗り出して、舟の向きを変えた。剥げかけた緑のペンキを踏み締め る足がねじれ、乾いた潮水を銀色にまぶしたどす黒い皮膚に、縄のような血管が黒く浮き出す。 「誰も厄介な立場に追い込みたくないんた」しばらくして、しけったマッチを何本も擦り、しけっ た煙草の吸い口をむなしく吸いながら、 ] ケットは一言った。「できれば、ウイドウンさんにも知 らせたくない」 ディッキーの頭は、首を締めつける縄から逃れようとでもするみたいに、 っそう激しく振られ こ。「ため。ジム判事怒らせる、 さらに何か言いかけて、ロをつぐむ。 「わたしを信じてくれないかーパ ーケットはそう言って、反応を待ったが、ディッキーは目を合わ せようとしなかった。捨て鉢なつぶやきを漏らす。「あの同じ場所、いちばん釣れる。行って、も う一匹釣る」

5. 黄泉の河にて

なずく。それからまた、ロもとをほころばせた。「すぐに勘定を済ませていたたきやす」にらみ続 けるバーケットに向かって、満院げな表情で言う。「お発ちになるとゆうべうかがったもんで、次 の予約を入れちまったですよ」 「真夜中からけさまでのあいたに ? 」 「はいな、真夜中からけさまでのあいだに」ウイドウンは笑いをこらえていた。「あの部屋は、こ こにいるスペックに引き渡しやす。スペックは、住む場所にたいへん不自由しとりやしてね。そう たろう、スペック ? 」 どのよ ディッキーが廊下から顔をのぞかせた。壁のほうを向いて言う。「お客さんのコーヒー 「先生は、白黒混ざったのがお好みた。でしよう、先生 ? 、判事はため息をついた。「ディッキー ちょいと来な」法律家に目を向けたまま、指先でディッキーの前腕を軽く押える。 焦点の定まらないディッキーの視線は、ウイドウンの頭上にあるセクシーなカレンダーの、肌も あらわな白人女性のほうになんとなく向けられており、それに気づいたスペックが、猟犬のように 張り詰めた上体をゆっくりと起こした。「おい、黒んば」抑揚のない声で言う。ディッキーはびく んと頭を回して、窓の外に目をやり、ウイドウンの手に力がこもった。 「パーケット先生は『おい、黒んぼ』なんちゅう言いかたがお好きでないたぞ、スペック。この町 ニグラ じゃあ、白と黒がちゃんと混じり合っとる。『おい、黒助』と言わんとな」 判事は客をちらっと見上げて、ため息をついた。

6. 黄泉の河にて

ラムと日差しにうたったパーケットは、両手を広げてパランスをとりながら立ち上がった。町民 たちが笑う。「手を貸そうか、ディッキー ? 」 ーケットは言った。 「いんや」ディッキーは舟を固定し、恥じるかのように人々から目をそらしながら、じっと待った。 岸壁を隠れみのにしようとしている感じた。パ ーケットが妻を埠頭へ上がらせようと、下から尻を 押し、その拍子に腿と臀部のあいたの痛々しい赤い線があらわになったとき ( 「砂浜があろうとな かろうと、こんがり肌を焼くまでは帰らないわよー と、アリスは言っていた ) 、見物人はざわめ き、彼女が残りわずかの高さを両手と両膝で這いのぼって、立ち上がり、ディッキーから荷物を受 け取るために舟のほうを向いたとき、またざわめいた。「おらが持ってく」ディッキーがぶつきら ば、つに一一 = ロった。」 前日は荷物を持とうなどというそぶりも見せなかったのたが、あとから夫妻が推察 したところによれば、この豹変ぶりは、判事ジム・ウイドウンの存在に負うものではないかと思わ れた。でつぶりした胸に腕を組んた判事ジムは、菩提樹の下に裏返しに置かれたポートに坐って、 ようすを眺めていた そのウイドウンが立ち上がり 、。、ールグレーの帽子のつばを少したけ上げた。太った男たが、ふ くよかとは言えず、脂肪を圧縮して詰め込んた精悍な顔と、びりつと辛いユーモアの持ち主た。 「大物が釣れたですかな ? 」 「スヌークはまたです」。 ーケットが答えた。「でも、笛鯛のいいのが釣れましたよ」 「結構じゃないですか、先生。そりゃあ結構た。今晩、フライにして差し上げやしよう」判事ジム はにこやかな笑みを夫妻のそれぞれに向けた。「ディッキーはきちんと世話を焼いたですかな ? 」

7. 黄泉の河にて

黄泉の河にて ーケットはかぶりを振った。「帰るんた」込められるかぎりの威嚇を込めて言う。肌をさんざ ーケットは船頭に背を向け、 ん痛めつけた日差しが、メキシコ湾上の黒い雨雲にさえぎられた。バ 釣り竿を舟の中に置いた ーケットは途方に暮れた。どうすれば、この男を おびえたガイドはぶつぶつ独りごとを言いノ 助けることができるのか。中央水路まで戻り、大王椰子の並木や家々の屋根が見えてきてからよう やく、これを最後とディッキーのほうへ向き直った。機先を制して、ディッキーが苦々しげにがな る。「なんで、ここへ来て、厄介の種まいた ? あんた来る前、なんでもうまくいってた ! 」 舟の両端で、ふたりは顔をそむけ合い、押し黙った。最後の手段として、ディッキーを公に告発 するという選択肢も残されているが、自分にそこまでやる意思があるかどうか、疑わしかった。小 型のテープレコーダーとちつばけな怒りを犠牲にする気さえあれば、面倒なク物事の道理クなど忘 れてしまったほうが、話ははるかに簡単た。自分は負けたのた。アリスの言うとおり、家に帰ると しよ、つ 岸では、 ' シム・ウイドウン判事が待っていた。捕獲された生き物を思わせるおどおどした静けさ で、ガイドは並んた白人たちを見ながら、舟を岸壁へ寄せた。白人たちもまた、もの静かで、一様 にのつべりと表情を殺した顔をしていた。 「舟をこっちへ着けろ、ディッキー」判事が命じたが、舳先はすでに杭をつついていた。ディッキ ーがスヌークを陸へ揚げ、、、、 ーケットも続いた 判事が太い腕を肩に回してくる。「テープの機械、でしよう ? 心配なさらんと、先生、ちゃん

8. 黄泉の河にて

黄泉の河にて ーケットは、到着以来初めて味わえた社交の気分に浮かれて、ディッキーに二杯目をふるまい アリスはそれに加わることを拒んた。 空のグラスを置いたディッキーは、ため息をつき、首を振って、微笑んた。「あんたたち、この 町で何か欲しいとき、ディッキーに頼め。おら、ここらでいちばんの黒んば。誰よりいちばん」は しゃぎ声で言う。笑みを顔に貼りつけたまま、夫妻を交互に見た。それから、堂々とではなく、か といって忍びやかにでもなく、長い手をゆっくりと蛇のように滑らせて、パスケットの中に入れ、 サンドイッチを一枚つかみ出す。さすがに、ふたりの見ている前でそれを食べるほど厚かましくは なかったようた。島影の向こうから聞こえるポートのモーター音のほうへ頭を傾け、それにかこっ けて、笑いながらふらふらと、何やら舟をいじりに行った。 ーケットは昔から、ラムの酔いと日焼け止めクリームのにおいに興奮をそそられるたちたった。 。水面のきらめきが光輪のよ 妻に触れたくなったが、アリスはディッキーのほうをじっと見ていた うにその黒い頭を縁取り、イヤホーンの輪郭までくつきり見えて、まるで遠い宇宙の声に聴き入っ ているようだった。 アリスは夫の手の下で、もぞもぞと体を動かした。「ねえ、あなたの理想主義も、好奇心も、 善意も、わたしは大好きよ。ほんと。そうでなきや、お役人となんか結婚するわけがないでしょ う ? ー続く言葉の衝撃を和らげようと、夫の手を取る。「でも、あなたがディッキーにしてること は、愚劣のきわみよ」片手を振って、抗議を退けた。「そんなに頑張って、白い肌をした釣り仲間 になろうとする必要はないわ。びねくれもののスニュークを釣り上げることに専念なさい

9. 黄泉の河にて

黄泉の河にて ーケットはいらたち ディッキーの耳にも、見物人たちの耳にも、じゅうぶんに届く大声たった。バ を形にすることも捨て去ることもできず、この場からさっさと逃れたくて、町のほうへ歩きかけた。 「ええ、ディッキーはよくしてくれました ! 」アリスが、尿意をこらえるときにいつも見せるいか にも苦しげな表情で言う。 判事ジムは、通り過ぎようとするパーケットの肘をつかんた。「あんたがたがおいでなすった最 初のときに、きちんとお世話するよう、やつにゃあ言っといたですよ。ディッキーぐらい穴場を知 ーケット ってるやつは、この町の黒んばの中にゃあおりませんや」密かなよしみを結ぶように、 にウインクする。「このへんじゃあ、黒助と呼ぶですがね」そう一言うと、見物人のほうへ声を張り 上げて、「みんな、お客さんをきちんとお世話するたぞ、めったにいらっしやらんのたからなー と叫び、本日の冗談と歓待の集いは終わったというしるしに、ヾ ーケットの肩をたたき、解放した。 ウイドウンが顎をしやくって、客の荷物を小屋へ運ぶよう、ディッキーに指示した。急ぎ足で通 り一過ぎる一アイッキーに、ヾ ーケットは感謝の言葉を投げた。見られていることを意識しながら、夫 妻はウイドウン・ビル裏手の白砂の庭に立つ小屋へと、通りを歩いていった。ビルは、白いくたび カルーサ・モーテルのレストラン れた木造の二階建てで、郵便局と判事の事務所、調理場、 が雑居している。 小屋の入口には雑役係が待っていて、ディッキーが置いていったバスケットを手渡してくれた。 ーケットの判断するかぎりでは、赤いスニーカーを履いたこの小柄な黒人ジョニーが、町でたた たいじよぶー ひとり、好意的に接してくれる人物たった。「あの笛鯛、おいしく作ってやるー

10. 黄泉の河にて

の口調で続ける。「これ、ほんとのほんとー もしかすっと、ジョニーがどっかの藪に投げ捨て どこにあるか、おら、知んねえー 「なら、探してこい ジョニーは納屋の中た ! 」ディッキーの腕を揺すったので、コーヒーがこ ぼれた。「そもそも誰から機械を受け取ったか、彼があの男にしゃべったら、どうなると思う ? 」 きみたちふ ディッキーがたたじっと見つめる。「誰が盗ったかなんて、この際、問題じゃないー たりとも、面倒な立場に置かれてるんた ! 」 ディッキーを張り飛ばしてやりたい、 いらたちに任せてどなりつけたい ( 脳足りんの黒んぼ野 ! ) という激烈な衝動に気がついて、 ーケットは突然、言葉を失った。外に出て、ポーチの階 段にどっかりと腰を下ろす。何が起ころうと、勝利は得られないのた。ディッキーがのろのろと、 網戸のところまで歩いてきた。 「とにかく、持ってくるんた ! わたしが見つけたことにするからー たるんた網の向こうから、 ガイドがまたもや、耳障りな声で関与を否定したが、じきにその声もやんた。錆びついたドアの取 つ手が右に左に回る音が聞こえる。 「わたしを信じたほうがいい。いちばん頼りになる味方たーそれでも、黒人はその場に立ち尽くし く。指を広げた両手が、 た。やがて、するりとドアから出て、階段を下り、建物の裏側へ回ってい 胸の内の苦しい葛藤を示していた。 気持ちを落ち着けようと、 ーケットは通りを少し歩いた。東側の木々の黒い梢まて、日がのほ っていた。さっと風が立ち、椰子の葉が激しくわななく。早朝の光のもと、入り江の水は重油さな