ハリー - みる会図書館


検索対象: 黄泉の河にて
19件見つかりました。

1. 黄泉の河にて

薄墨色の夜明け 「まあね」マックが親しみのこもった笑みを返す。二本の指にはさんだ煙草を、男並みに太い親指 ではじくと、先端がおびえた小鳥の尾羽のように揺れた。 「そろそろ、クお猿の館クへ行かなきや」と、 ハリー・マーヴィン。小児病棟を受け持っハリーは、 ソープル博士をまねて、自分の仕事場にあた名をつけていた。アンは最初、子どもにつきものの 騒々しさから来た命名か、あるいは、猿みたいにかわいいという意味合いが含まれているのだと思 った。しかし、小児病棟をはじめて訪れたときに、予想をはるかに超える寒々しい現実を肌で感じ させられた。そして、その命名の的確さは、きびしい就業規則にそむくものたった。収容されてい る人間の大半が、どんな治療の手も及ばず、ソープル博士ですらさじを投げるような状態であるに もかかわらず、職員は彼ら全員をク患者クと見なし、そう呼ばなくてはならないことになっている。 ハリーがロにしたあた名に、マックはしわたらけの顔をあからさまにしかめたが、何も言わなか った。現実的な女性であるマックは、、 ノリー・マーヴィンが怠け者ではないことを知っていたし、 軽薄なところはあるにせよ、とてもよく職務をこなしていると認めていた。それでも、この命名は 承服しかねた。アンがすでに感じ取った危うさを、マックもどうやら胸の奥で感じているようたっ た。たとえほんの一瞬でも、預かった病人をおとしめるような言動を受け入れたり、彼らが敬意や 愛情を受けるに値しないとか、人間以下の存在でしかないとかいう評価を是認したりすれば、つま り、ひきつった笑いをいったん漏らしたが最後、すべての建て前が崩れ、ここは病院ではなく監獄 になってしまうのた ハリー・マーヴィンにも、そのことはわかっていた。ふたりのほうを見て、当惑ぎみに眉を寄せ 7 77

2. 黄泉の河にて

薄墨色の夜明け 神様に感謝せにや 明けがた五時には、男性病棟の騒ぎも収まった。夜空の暗黒が、冬の夜明けの薄墨色に変わろう としている。アンは寒気の中にびとりたたずみ、煙草を吹かしながら、アーネスト・ハムリンの安 否に思いを馳せた。目の前の凍てついた地面を、何台もの消防車がなおも赤いライトを点滅させ、 小さな声をあ パックしていって、各棟の出入口にホースの先端を突っ込む。中の男性患者たちは、 げたり、上階の鉄格子をたたいたりしていたが、その叫びはしたいに 興奮の色を弱め、抗議の響き を帯びてきた。怒号が少しずつ、不機嫌なうめき声に、そして哀れつばい泣き声に形を変え、つい には、何かの金属が力なく鉄格子を打っ音が、間遠に聞こえるばかりとなる。十二月の早暁のしじ ビ コリンズと まを侵すのは、今や消防車の放水ポンプの音たけたった。あとで、アンは、ハー いう老人が噴流の直撃を受けて壁にたたきつけられ、数分後に頭蓋骨折で死亡したことを、ハリー から聞かされた。 「かわいそうに、コリンズ爺さんは、よろよろとホースの前に出てきたらしい。でも、そのホース は、きみの友たちのアーネスト・ハムリンに向けられたものだったんた」げつそりやつれて、無精 ひげを生やしたハリーは、ロヾ ] ト・エスポジート少年のことで胸を痛めていた。少年は、父親の 折檻がもとで二度の入院生活を経たのちに、ライムロックに送り込まれ、最近ようやく快復の兆し を見せていたのたという。 アンとハリーは、本館の地下でコーヒーを飲んでいた。 「なぜ、ア ] ネストを ? 」アンは尋ねた。

3. 黄泉の河にて

いたかったたけさ。それに、この病院で、クお猿の館ぐらい気の滅入る病棟はない。たって、あ そこにいると、ついつい希望を持たされて、それが必ず裏切られるんた。入院してる子どもたちの 多くが、根本的に正常か、あるいは、正常になる見込みがある。たたし、それは 「わかるわ ! アーネスト・ハムリンに会ったこと、ある ? 」 そのアーネストって ? 話の腰を折られて、ハリーがいらたたしげに首を振る。「誰たい、 「患者よ。今、作業療法に来てる人。でも、根本的に正常なの。わたし、話をしたのよ」アンはそ の事実を証拠のように挙げ、たんたん早口になって付け加えた。「その人が言うのはーー」 ハリーが一一 = ロい、 くるっと背を向ける。 「たぶん、みんな正常なんたろうよ」 「アーネスト・ハムリンは、ほんとうに正常なのよ」歩きたしたその背中に、アンは叫んた。 ハリーが去っていくのを見送ってから、外扉のほうを向き、晴れない気持ちのまま、なかへ入っ 、パッグのなかをまさぐる。びりびりしているのはいつものこ た。内扉をあける鍵を取り出そうと とたが、きよ、つはおまけに、、 ノリー・マーヴィンのせいで気が立っていて、鍵を床に落としてしま った。 はじめてこの作業療法室ーー自制の能力のある患者たけが、特別の監視もなく入室を許される部 屋なので、ライムロックのなかでいちばん危険の少ないはずの部署ーーーを訪れたとき、アンは恐怖 心から来る嫌忌の念に襲われ、たちまちめまいと吐き気を覚えた。冷や汗をかき、寒けがして、立 っていられなくなった。その激しい嫌悪感は、まったく根拠がないたけに、アンをおびえさせた。 ここに来る患者たちには、恐布心をかきたてるようなところなど何もない。あるとすれば、たぶん、 180

4. 黄泉の河にて

とわめき散らして、鎮静室へ引っ張っていかれたと思うわ」 なおも続きを待っている。 「この機会を、最大限に利用すればいいんじゃないかしら。いつでも話したいときに、わたしに話 しかけてくれたら、うれしいわ」気持ちが落ち着かないときの癖で、アンはどんどん早口になって いった。「わたし、あなたの勇気に敬服して、たから、なんとかしてあなたを助けてあげたいの」 「おれを助ける ? 「ええ。あなたはここにいるべき人じゃないと思うの。間違ってると思う」そう言ったとたんに後 海し、こわくなった。「わたしにできることは、たぶん、あまりないでしようけど」腰を引きぎみ に付け加えると、アーネストの思い詰めたようなまなざしが、いったんこわばり、それからまた和 らいた。アンの一一一一〕葉に希望をかきたてられたわけではないと、取り繕うたけの心馳せを持っている のた。 「あんたにできることは、何もないよ、アン。とにかく、ありがとう」ふたたび顔をそむけて、 「じゃあ、また」と言った。向こう隅の老女が、近づいてくるアーネストをうさんくさそうに見つ めた。そして、床が水浸しになったみたいに 、左右のかかとを椅子の横木に載せ、スカートをたく し上げて : アンはハリー・マーヴィンのところへ行って、助一言を求めた。 「困った箱入り娘たな」アンの質問に答えて、ハリーが言った。「世の中の現実というものが、ち っともわかってない。 きみはなせ、ライムロックでボランティアをやっているんた ? なぜ急に、 792

5. 黄泉の河にて

薄墨色の夜明け り、物を壊したりし始め、それがある意味で抑圧の解放となって、やがては病院全体に広がった。 疫病みたいにね」 「アーニーは今、どこにいるんでしよう ? 」アンは小声できいた 「フェイハルビタールを投与したわ」看護婦のひとりが事務的な口調で言う。「今は、上の集中治 療室にいる。でも、すぐに重度障害者病棟へ移されるはずよ」 ハリーが畳みかけた。 「そして、ずっとそこにいることになるだろう」 故意にーソーベル博士 「自傷行為を起こしたからね。理由はわからないが、彼は自分を傷つけた。 「たぶん、取り返しはつかない は、くすんた色をした小さな指の先でこめかみを軽くたたいた 本人には、もう話したよ」 「誰かほかの人を傷つけたんでしようか ? 」 「いや」ハリー・マーヴィンがすかさず割って入る。「単に、ほかの患者を死なせる原因を作った たけさ。きみも知るとおり、あの男は正常すぎて、人を傷つけることなどできないからな」 アンはそのあ いい加減にしなさいーマックが言った。立ち上がって、部屋を出てい に会いたいんです、マック」 マックが励ますようにうなすく。 「気がすまないでしようからね。会ってらっしゃい。さっき聞いたように、集中治療室にいるから。 かわいそうな坊やーマックは備品室へ入っていって、荒つばくドアを閉めた。 217

6. 黄泉の河にて

薄墨色の夜明け 院させておくほうが、責任重大なんじゃありません ? 」 「うちの患者の半数が、不当に収容されているのだよ、アン。きみたって、受け持ちの病棟に入院 していてもおかしくない知り合いを、十人ぐらいは挙げられるのではないかね。変わり者の老人と か、子どもとか、精神遅滞者とかーーーみんな、無償の愛を受けられる安全な家庭を持っている。た が、ハムリンを受け入れてくれる家庭は、どこにもない」 外へ出たところで、ハリー・マーヴィンと鉢合わせした。まるでアンにいやがらせをするために、 つけ回しているかのようた。ところが、ノ 、リーは非礼を詫びたうえで、ソープル博士が何を一一一一口った かを知りたがった。 ハリーが言った。「州立病院である以上、州政府に任じら 「そのとおりた」アンが話し終えると、 れた職員は、公衆、つまり有権者に対する責任を優先させなくちゃならない。特定の個人、取るに 足らない一個人のことよりもな。精神病院なんて、マックが言うように、政府から見りや、割に合 わない投資たよ」 「取るに足らない一個人って、どういう意味 ? 国のために戦ってきた人よ。そのせいで、ここに 来てるんじゃない ? それを、そんなふうに 「きみは若すぎるな、アン。それに、世間を知らなすぎる。取るに足る個人なんて、このヘムロッ クにはひとりもいやしない。政府から見ても、ほかの誰から見ても、なんの価値もないからこそ、 ここに入れられてるんじゃないか。きみのいとしのハムリンくんは、元機械工たったな。彼がもし、 元市会議員たったり、元市会議員の息子たったり、元市会議員の息子の知り合いたったり、せめて 797

7. 黄泉の河にて

薄墨色の夜明け ハムリンのことがそんなに気になりたした ? 患者に対する医学的な興味からか ? あるいは、社 会学的な ? 患者を救いたいという一心からか ? 違うね。大学で学んた芸術の知識など、おもし ろい仕事に就くのにこれつばっちの役にも立たないからた。それに、給料をもらわなくても困らな い身分だからた。そして、嫁入り前にク何かクしておくのが、若い娘のたしなみたからた。きみの ような人間は、社会になんの貢献もできないから、善行に対する内的欲求を持ってる。たから、き みは彼を助けたいんたよ、アン。善行を施したいのさ 自分の診断に満足しこ、 ナノリーは、これ以上何も話す必要はないと言わんばかりに、アーネスト・ ハムリンのことなど関心を払うに値しないと言わんばかりに、すたすたと歩き去った。アンは、追 いかけていって、尻を蹴飛ばしたい気分になった。けさがたアーネスト・ハムリンのことで話の腰 を折られたのを根に持ち、すねているのが感じ取れたからた。それでも、怒りよりは、心をえぐる 痛みのほうがずっと大きかった。ハ リーの冷酷な言葉のなかに、真実が含まれていたからかもしれ しかし、善行を施すのがそんなに悪いことなのたろうか ? それとも、アンの善行はびとりよが りのうそっぱちたと言いたかったのか ? マックやソープルやほかの職員たちと比較して、いや、ハリー・マーヴィンと比べてすら、アン には、患者を病んた人間として受け入れる気構えが足りなかった。ア ] ネスト・ハムリンと話をす ハリーに水を差される前は、 るまで、患者たちは非現実的な存在でしかなく、アンの哀れみの心 それがボランティア活動の動機たと自分で思っていた も、観念の領域にとどまっていた。この ノ 93

8. 黄泉の河にて

薄墨色の夜明け それ以降、アーネストはあまりアンの病棟へ来なくなった。来てもアンを避けるし、アンのほう も、自分から近づいてはいかなかった。手を差しのべるつもりの努力がすべて裏目に出てしまって、 自分の不器用さが怖くなったのた。それでも、アンはアーネストを見守っていたし、アーネストも、 視線を合わせないよう注意しながらこちらをうかがっていた。アーネストが患者たちの世話をしな くなるにつれて、名を呼ばれる頻度も減っていった。患者たちはどうやら、彼を対等の存在と見な し、みずからの境遇に得心のいかない病人が同病の仲間に対していたく懐疑心と優越感とで彼を遇 することに決めたようたった。一度たけ、アンは彼のそばまで行って、調子はどうかと尋ねてみた が、「絶好調」というぶつきらぼうな答えしか返ってこなかった。かって自分の病棟にアーネスト を迎えることで芽生えた自信が、今は同じ要因によって枠を課されていた。 リー・マーヴィンに刃向 アンは、自分のなかの新たな独善性に気づかされて、衝撃を受けた。ハ かったのも、ソーベル博士に強く意見したのも、マックをけしかけて理事長のもとへ行かせたのも、 そういう自分た。たしかに、そのおかげで、いちばん必要なときに自信が持てた。アーネスト・ しかし、一方でそれは、以前なら思い浮かべる度胸すらなか ムリンには感謝しなくてはならない。 ったような過失の数々へと、アンを駆りたてたのたった。 ハリー・マ 1 ヴィンの言うとおりた、とアンは胸の内でつぶやいた。自分はよそ者なのた。 十二月に入って間もないある晩、アンは電話の音にたたき起こされ、一階へ下りて受話器を取っ こ。「全員に招集がかかったよ、アン」ハリー・マーヴィンが、興奮を押し隠した声で言う。「緊急

9. 黄泉の河にて

関心はわたしに移った。 「ヴォルフガング、ツリーの陰から出てきて、キャンディーを一個、従姉に持ってっておあげ 「ばくはヴォルフガングじゃないよ」ロ答えしながらも、祖母の前に出ていった。親からもらった 名前はウエンデルで、愛称はサンディーなのに、マドリーナがわたしをヴォルフガングと呼ぶよう になったのは、まったくの気まぐれからた。ドイツふうのその呼び名で、祖母はわたしの両親をい じめて楽しむというびねくれた諧謔心を満たしていたのではないたろうか。「どのキャンディー ? わたしはきいた。 「どのキャンディーかたって、マドリーナ」ポリーが取り次いた。やることがいちいち鼻につく 「どのキャンディーでもいいのよ」母が口をはさんた。「言われたとおりになさい、 「サンディーって呼んでよ」わたしはキャンディーを探しに食事室に駆け込み、使用人たちにあい さっしたが、たちまち、例年のとおり、食卓のみごとなセンターピースに目を奪われてしまった。 長さ五フィート、マホガニーと骨の台に、一軒の宿屋の前に立っ聖ニコラスと馴鹿を彫ったその手 工芸品は、毎年、雲母をちりばめた綿の雪をあしらわれて、晴れの舞台を務めてきた。百年の長き にわたってドイツ本国のハートリンゲン家のクリスマスに彩りを添える大役を果たしたのち、マド リーナの手に引き継がれたもので、一族全員にとって、クリスマスばかりでなく、過去をも象徴す ひいらぎ る品たった。松と柊の葉に縁取られた周囲には、銀器や数々の。ハーティー料理、マスカット・レー ズン、薄荷菓子、アーモンド、ワイン、クランべリー・ゼリー パターポールなどが、巨大な楕円 を描いて並んでいる。マドリ ] ナの美しい銀器には、先祖代々豚肉に林檎を添えて食べ、黄金のゴ はつか トナカイ ウエンデル」 ノ 04

10. 黄泉の河にて

「騒ぎをおつばじめた張本人たからさ。もっとも、消防士のほうはそんなことは知らずに、たた、 排水管を手にしたあのでか牛野郎が、自分の頭を壁に打ちつけてるのを見て、止めなきゃいけない と思った。それだけのことたよ 「今はどうしてるの ? 」 「誰が ? 」 ート・エス 「アーニーがどうしてるかなんて、知るもんか。興味もないね。興味があるのは、ロヾ ポジートと哀れなコリンズ爺さんのことた」 リーをたしなめる意図が、明らかに汲み 「あれは自傷行為たよ」ソーベル博士が口をはさんた。ハ 取れる。それまで、コーヒーを見据えたまま、黙りこくっていたのた。「ハムリンは発作を起こし て、それをわれわれに知らせなかった。自分で予知はしていたのたと思う。壁に頭をぶつけたのは、 わざとたろう。しかし」と、 ハリー・マ ] ヴィンに向かって言う。「わざと暴動を引き起こしたと は思えない。、 ノムリンが自分を傷つけるのを見て、ほかの患者たちがおびえ、殺気立ったのたろ 「そのとおりたよ」別の医師が言った。「あの病棟にいるわたしの患者から、事情を聞いた。ハム リンが急にわめきたして、洗面所に飛び込み、排水管をねじ取るなり、あたりの物を壊し始めたら しい。すると、同室の患者たちが興奮して、大声で助けを求め、ほかの部屋の連中も、いわばそれ に触発された。当然の成り行きとして、何人かの患者がハムリンといっしょに、鉄格子をたたいた 270