も、フルートが決まっているらしかった。 見れば、何でもないような岩が大小四、五個、ご 奈々たちはその言葉に、素直に頷く ろりと転がっているだけだった。しかし、 「この近辺から、阿曾になります」今度は猫村が説「この辺りでぶつかったのね : : : 」沙織は桃田の指 明する。「吉備津神社御竈殿の巫女さんの出身地で差した緑の山並みを、うっとりと眺めた。「確かに すねーー。あ、あそこが、矢喰宮です」 猫村が指差したけれど、どこにも神社など見えな 「そしてこの近くを、血吸川が流れています。傷つ かった。しかしタクシーはスピードを落として、田 いた温羅の血で、真っ赤に染まったという川です。 んばの真ん中ーー松の木が生い茂っている近くに停またこの川を南に八キロほど下った所には、やはり まった。 温羅の血で真っ赤に染まったといわれている赤浜と 桃田たちにつられて、奈々たちもタクシーを降り いう場所があります」 る。すると、松の木の生い茂る中に、ばつんと鳥居「赤浜のあたりで血吸川は砂川と合流します」猫村 があった。 が受けて続ける。「そしてそこは、雪舟誕生の地で こうしん 「ここが矢喰宮です」桃田は言う。「先ほどの吉備もあるんです。ちょうど庚申山の西の麓辺りです の中山に陣を構えた吉備津彦命が放った矢と、あちね」 らに見える鬼ノ城から温羅の放った矢ーーあるいは「色々と名所があるね」沙織が感心したように唸っ とうてき あなど 投擲した石ーーが、この辺りでぶつかり合って落ちた。「こりや岡山、侮れんわ」 たといわれています。そしてあの岩がそれだと言わ バカな感想を述べる沙織の背中を押すようにし れています。矢喰いの岩」 て、奈々はタクシーに戻った。 あかはま 102
「もちの論ですーとオヤジのような返答をする。 「何千年もね。気が遠くなるね」 と頷いた。 相変わらず恥ずかしい。 沙織の言葉に猫村は「はい 「あと、ここから少し南に行った所にある小高い丘 たてつき 再びタクシーに乗り込み、今度は矢喰宮に向か 片岡山の上に、楯築神社という社もあります。 う。タクシーの運転手も、 そこには、温羅と戦うために吉備津彦命が築いたと 「あんたたち、えらい詳しいしゃのー いう大きな石の楯が五つも残されています , などと感嘆した目つきで猫村たちを見た。しかし 「本物なの ? 」 ) えそんなことも、と謙虚 一一人は表情も変えすに、し さあ、と桃田が笑った。 ふんきゅうば に答えただけだった。これが本心ならば、明日香と 「本当は、弥生時代の墳丘墓らしいんですけれど、 いう子はもっと詳しいのだろうか でもその石たちは全部、きちんと鬼ノ城の方を向い 「このまま真っ直ぐに行くと」桃田がほんの少しだ ているそうですよ 「ふうん : 。しゃあ、意外と吉備津彦命の説の方け体を捻って、奈々たちを振り返る。「その大きさ、 つくりやま が真実だったりして。というよりも、折角なんだか全国第四位を誇る、造山古墳があります。全長三百 z ル、高さ一一十四メートルにも及前方後 五十メート らそっちの方が、ロマンがあるよね 「はい 。そんな古代からの伝説の遺物が、吉備円墳です。そしてそのまま行けば、備中国分寺や、乢 ふどき 中そこかしこにあるんです。なかなか素敵な土地でこうもり塚古墳などの点在する、吉備路風土記の丘乢 自然公園です。でも今日は、矢喰宮から総社に向か しよう ? 気に入っていただけましたか ? 」 いましよ、フ」 微笑む桃田に沙織は、
て小松崎を見た。「ぜひ、お聞きしたいです。機会 かこうがん やがてタクシーは、大きな花崗岩の道標の前で停 があれば」 まった。見ればその奥に石の鳥居が見える。ここが 「後からやって来るだろう、きっと」 鯉喰神社なのだろう。しかしあたりを見回しても、 「あーーーそうなんですか : 「まあ、余り保証はないがーー・・。運良くきちんと登石の鳥居と石灯籠、そして小さな社殿しか見えな 。その上一面は、のどかな田園風景。 場したら、その時にゆっくりと聞いてやってくれ。 とにかく奈々たちは、タクシーにそのまま待って しかし、もしかしたら徹夜になっちまうかも知れな いてもらって参拝することにした。 いぞ。それでも構わなければ」 だんかずら 正面の石段を数段上がると、まるで段葛のような 「それは構いませんけれど」猫村は笑う。「そんな 参道があり、広々とした田畑をバックに備前焼の狛 に変わった方なんですか ? 」 「百聞は一見にしかすだ。会えば分かるだろう。充大が鎮座している。 ゆが 参拝は、一人一分もかからすに終わった。 分に変人だ。奴の立ってる場所では、地軸が歪んで そしてふと見上げれば、確かに拝殿の屋根瓦に るんだ。だからうつかり近づくと、こっちも自分の は、水に泳ぐ鯉の絵柄や、鯉の文字が見える。 視占 ~ か揺らいしま、つ」 「ここには温羅も祀られているんです」参道を戻り 酷い言われようだ。 ながら、猫村が奈々たちを振り返る。「おそらく、 奈々はチラリと小松崎を見たが、この大男はいた って真面目な顔を崩すことなく、「本当だぞ」など楽楽森彦は温羅の見張り役になっているんだと思わ れますー と念を押していた。 100
説明する。しかしさすがに身動きが取れないよう で、前を向いたままだ。「そうしますと、足守川を 渡って三叉路に出ます。その近くに、鯉喰神社があ ります 奈々たちは吉備津神社を後にして、次の目的地に 「この神社は」桃田が受ける。「ご存じのように、 向かう 天気も良いし、この近辺は吉備の里サイクリング矢傷を負った温羅が、大雨を降らせて鯉に化け、血 コースになっているので、時間があれば本当はレン吸川から足守川に出て瀬戸内海に抜けようとしまし た。それを吉備津彦命が鵜に化けて喰ったといわれ タサイクルでまわれば良いのだろう。しかし、 ている場所に建てられています」 「タクシーで行きましよう」と桃田が提案する。 さるたひこ ささもりひこ 「祭神は、楽楽森彦命と猿田彦命といわれていま 「ちょっと辺鄙な場所にも行きたいので」 / 松す。楽楽森彦は吉備津彦命の臣です」 これから、鯉喰神社、矢喰宮と見てまわり、ト 崎たち三人はそのまま総社に出るらしい。そして楽楽森彦ーー さっき吉備津神社で猫村から聞いた時にも思った 奈々と沙織は、鬼ノ城へ行く 観光用の大型タクシーに、無理矢理五人乗り込のだけれど : : : 何か引っかかる名前だ。でも、それ 少なくとも、楽楽森彦という は何だか分からない。、 む。後ろのシートに小松崎、沙織、奈々。前のシー トに桃田と猫村。二人ともスリムなので、なんとか名前は、岡山に来て初めて聞いた名前なのだから、 以前にどうのこうのということはないだろう。でも なりそうだった。 「このまま旧山陽道を真っ直ぐに行きます。猫村が崇から何か聞いたことがあるような :
取に現れた忍田という警部の口調にもそれはにじみれていたからな。身を隠すとしても、部屋の隅に縮 出ていた。 こまっているしか方法はなかっただろう」 「結局あの日、土蔵を出入りしたらしい人の足跡「ーーー確かに , 「そうだろう。そんなことをするくらいならば、あ は、母屋との間を往復しているものしか発見されな かった。ということは、犯人は健爾くん殺害後、母の警部が言っていたように、裏の竹藪にでも逃げ込 屋に戻ったとしか考えられない。それなのに明日香んだ方が早い」 が出会っていないのはおかしい と」 「でも・ : ・ : 足跡が残る」 「でも : ・ ・ : 私は本当に誰ともすれ違わなかったの」 「しかし、母屋に逃げ込むよりは安全だろう。ただ 「信しるよ。お前が嘘をつくはすはないし、そんなし、塀を乗り越えられればの話だけれどもね。この 理由もない」 点は確かに不可解だな どうした ? 何を考え 「私が : : : 不思議に思っているくらい : もしか込んでる ? 」 したら、誰かとすれ違っていたのかしら・ : ええ : : : と明日香は、喉に物が詰まったような咳 をした。 「それはないだろう。いくら一間の幅があるといっ たって、一本の廊下だ」 「不可解ーーーで思い出したんだけれど。私、すっと 「でも、途中で一回折れ曲がっているーー」 考えていたんですけれど : : : 今回の事件の動機は一 「無理だね。まあ、可能性としては、途中の和室か体何だったのかしら」 ら家の中のどこかへ逃げ込んだというところだろう 「どうしたんだ、急に ? 」 「いえ、すっと不可解だったの。健爾さんは、決し が、しかしあの時、和室の襖も嶂子も全部開け放た ふすましようじ
っておりますので」 は、そのまま鬼ノ城に行くから」 「しゃあ、そうするかな」小松崎も頷いた。「途中 代々ーーといっても、何年、いや何千年なのだ ? 物凄い年数なのではないか ? でお茶してもいいしな」 奈々は もちろん占いの結果に、ホッとしたの 「お酒飲んじやダメだよ。仕事中なんだからね」 もあるけれどーーー気が遠くなるような心地がした。 「分かってるって。俺だって、そんな初対面の相手 と会う前に飲まねえよ」 奈々はーー足取りも軽くーー御竈殿を退出する。 「信用できない」 「さてーーー」小松崎が腕時計に目を落とした。「こ あのな、と小松崎は沙織を睨む。 れからどうするかな ? 」 「俺を、タタルや奈々ちゃんと一緒にしないでくれ 「そろそろ明日香も大丈夫だと思います」桃田も時るか。人種が違うんだからな」 どうして奈々が仲間に入るのだろう ? ちょっと 計を見る。「多分、もうすぐ連絡があるでしよう」 おかしくはないか ? 「その明日香ちゃんとは、どこで会うんだ ? 」 「総社ですー 納得しきれない複雑な思いを胸に、奈々はみんな z の後に続い 「どうやって行く 「もしも、矢喰宮や鯉喰神社を見られるんでした ら、ここからタクシーで行きましよ、つ。その方が士ロ 備線を使うより便利です」 「それがいいよ」沙織が賛成する。「そして私たち
一面真っ黒な部屋を奈々たちがキョロキョロと見 それなのに涼しく感じるのは、気のせいか ? はなだいろかりぎぬ 本当に今でも、あの大釜の地下八尺に温羅の髑髏回しながら待っていると、やがて縹色の狩衣に身を が埋められているのだろうか。そこにいて、土中か包み、黒い烏帽子を被った神官が入室してきた。 ら奈々たちをじっと見上げているのだろ、フか ? 神官は、神事を受ける奈々に向かって一礼した。 ぞくり、とする。 そしてくるりと背中を向けると、裾をシュッと整え 次に奈々の目を惹いたのは、正面の壁ーーその竈て奈々たちの前ーー竈の正面に腰を下ろす。 の背後に掛かっている三本の大きなしやもじだっ 同時に いつの間にかマスクをかけていた た。中央のしやもしは、奈々の身長を軽く越える長巫女さんが、竈の上、お釜の向こう側に正座して、 せいろ さ、そして幅は両手を横に伸ばした奈々の肘くらい 釜の上に置かれた木製の円柱状の蒸籠の中で、中に まではあるだろう。つまり、奈々一人くらいならば は、玄米が入っているという掻笥を、ザッサッと振 すく つやびか 軽く掬えてしまうほどの大きさの物が、黒々と艶光った。 りしながら掛かっていた。そしてその両脇にはそれ神官が祝詞を上げる。 を一回り小さくしたよ、フなしやもじが、これも鈍い 何を言っているのか奈々には全く理解不能だけれ 輝きを放ちながら壁に掛かっている。そしてそれら ど、何故か心地良い響きが部屋中を満たす。 しめなわ しで 三本のしやもしの上には注連縄が張られ、二枚の垂 チラリと斜め後ろを見れば、沙織が神妙な顔をし翫 が垂れていた。 て目を閉じたまま俯いていた。 しばら 奈々たち五人は、その竈が鎮座している板敷きの やがて暫くすると、 間より一段低くなっている部屋に正座する。 のりと
ちょっとドキドキする。 に咲かせていたのだろう。その向こう側には、アジ 別に吉でも凶でも、どうということはないはすな サイ園があり、その後ろには梅林が広がっている。 のに心が騒ぐ。凶だからといってすぐに不幸になる 素晴らしいロケーションだ。 途中、弓道具を背負って弓道場に向かう人たちにわけでもないし、また吉だったからといっておそら でも、 くど、つい、つこともないのたろ、つけれど・ 追い抜かれた。牡丹園の手前に広い弓道場があり、 占いなんて信 しばしばそこで大会が開かれるらしい。この廻廊を人情として悪いよりは良い方がいい このまま真っ直ぐに行けば、細谷川まで突き当たる用していないつもりだけれど。 い、フ 頭では分かっているのに、これはどうしてなんだ ろう ? それとも心のどこかで信じているのだろう 「その川は『古今和歌集』に、 か ? 遠い記憶のタンパク質で ? そんなことを思いながら、奈々は靴を脱いで御竈 真金吹く吉備の中山帯にせる 細谷川の音のさやけさ 殿に入った。その後から、小松崎と沙織が続く。 しろしようぞく あぞめ 白装束の巫女さんーーこの女性が阿曾女なのだろ うかーーーに導かれて建物の中に入ると、一面に黒く と歌われた川ですー 燻された御竈殿は、外の暑さとは隔絶されたように 猫村が説明してくれた。 奈々たちは、廻廊の途中を右手に折れた。するとひんやりとしていた。 しつら 正面に、細長い建物が現れた 右手奥ーー部屋の正面に設えられた竈には火が焚 かれており、大きな黒い釜には湯気が立っている。 あれが御竈殿だ かまど
これは他に類を見ない特異な構造なので『吉備津造 いいんじゃないですか、と猫村と桃田は顔を見合 り』とも呼ばれています。さて : : : 鳴釜神事を申しわせて笑った。恥すかしい。 おかまでん それに、御竈殿では吉凶を占ってもらうのであっ 込みましよう」 て、自分の将来の夢とか願いを叶えてもらうのでは すたすたと社務所に向かって歩いてい 「どなたが受けられるんですか ? 」 ないはすだ。何か変 「あ ? もちろん」当然のように小松崎が言う。 しかしとにかく、奈々が代表して神事を受けるこ 「奈々ちゃんだよ , とに決定した。そして他の四人は、それを後ろから 「え ? 私 ? あ、あの 見学 ( ? ) することになった。 「どうも今一つ、恋愛運が弱くてな。周りのみんな が心配して夜も眠れないんだ。い や、奈々ちゃん自受付で申し込みをして、ます全員で祈殿へ移動 身はとっても良い子なんだけどな : 。だからそこする。神前で神職にお祓いと祈を受けて、奈々た きとう かいろう らへんのことを祈薦してもらいたい」 ちは本殿西側に延びている廻廊へまわる。 ゆる 「本当なの」沙織も調子に乗る。「妹の私から見て 廻廊は地形に沿うように、長く緩やかなスロープ もちょっとねえ : 。まあ、要は自分自身がもっとを描いて下っていた。まるで大蛇が一直線に大地を しつかりすれば というか、自分の気持ちに正直這うようなこの建物の全長は、四百メートル近くに なるとい、フ になればいいと思うのよ、うん」 「ちょ、ちょっと沙織ーー」 左手ーー東側には、サッキが延々と植えられてい る。初夏の頃はきっと鮮やかなピンク色の花を見事 「こんな姉の願いでもいいですか ? 」
き・」、つ の揮毫によるものですね。平賊安民ーー・賊を平らげます」 て民を安んする。吉備津彦命の、温羅退治にちなん 若し教を受けざる者あらば、 だ言葉です」 乃ち兵を挙げて伐て 参拝が終わると、再び猫村が資料に目を落としな がら説明してくれた。 もしも逆らう者がいたらば、兵を挙げて殺せとい 「もうご存しかもしれませんが、吉備津彦命という ひこいさせりひこ のは、第七代孝霊天皇の第三皇子で、彦五十狭芹彦うことだ・ : すじん 桃田は続ける。 命と呼ばれていました。第十代崇神天皇の御代に にしのみち よっのみちのいくさのかみ 四道将軍が置かれると、西道将軍として吉備路「そして実際に吉備津彦命がこの地にやって来て、 鬼たちを平らげたんです。やがて平定が終わると、 に下りました」 この場所に宮を築きました」 「これら四道将軍の実在については、現在では疑問 次に、全員で本殿へとまわる。 視されていますけれど」桃田もノートに目を落と そこには、高い白漆喰塗りの土壇の上に、檜皮葺 す。「一応『書紀』の崇神天皇十年の条によります ながっきひのえいぬついたちきのえうまのひおおびこのみこともっ 入母屋造りの神殿を一一つ並べた、優美な建物が鎮座 と、『九月の丙戌の朔甲午に、大彦命を以て、 うみつみち たけぬなかわわけ くぬがのみちつかわ 陸に遣す。武渟川別を以て東海に遣す。吉備津していた。 つがいおおとり たにはのちぬしのみこと にしのみち 「一般に」桃田が言う。「番の鳳が翼を広げて飛 彦を以て西道に遣す。丹波道主命を以て丹波に遣 ひょくいり も のり みことのり のたま す。因りて詔して日はく。「若し教を受けざる者び立つようなーーーと表現されています。一重比翼入 もや すなわいくさ 母屋造りで、拝殿と共に国宝に指定されています。 あらば、乃ち兵を挙げて伐て」とのたまふ』とあり 0 0