梅里と二人でパルテノン乗馬クラブを訪ねた。 日曜日ということで、多くの会員が馬に乗って さして規模の大きなクラブではないが、 レッスンを受けている。 オーナーの清原正行に会い、ダイアンに会わせてほしいと頼むと、意外なことに気軽に 承知してくれた。 ち 清原は五〇歳くらいの小太りの中年男だ。 馬ダイアンはレッスンに出ていた。マンツーマンの個人レッスンではなく、部班という集 な団レッスンだ。これは一人のインストラクターの指示で、何人かの騎乗者が簡単な運動を の 行うものだ。技術のレベルアップのためのレッスンではなく、馬に楽しく乗ることを目的 名 とするレッスンである。 部 「がんばってますよ、ダイアンは」 第 わはははつ、と清原が笑、つ。 清原からは、今まで出会ってきたオーナーたちのような意地の悪さは感じない。 ほレ - っ 気になったのは、ダイアンが元気がなさそうに見えたことだ。歩様も悪い。というか、 「了解です」 ぶはん
416 ほとんど跛行している。そんな状態で速歩や駈歩をさせられるのは、馬にとっては苦痛以 外の何ものでもないはずだ。 「一日にどれくらいレッスンに使うんですか ? 」 梅里が訊く。 「平日だと三鞍、週末で忙しいときは六鞍くらいかねえ」 「使いすぎじゃありませんか ? 「楽じゃないだろうけど、あの子は、ただの練習馬だからさ。会員さんの自馬や半自馬に なったり、月単位の専有馬になったりすれば、その契約金や預託料がクラブに入るから、 そんなにレッスンに使、つ必要もないし、馬も楽だよ。だけど、練習馬だとなかなか稼ぐこ くぶち とができないから、結局、数をこなすしかないわけさ。馬だって自分の食い扶持を稼ぐの は大変だよ」 清原が肩をすくめる。 レッスンが終わり、次のレッスンまで時間があるというので、間近でダイアンを見せて ていせんば もらうことにした。蹄洗場に繋がれたダイアンに近付くと、ダイアンは、ばくを見て鼻を 聰 2 らした。まさか、 ばくを覚えているはずがなし ゝ。最後にダイアンに会ったのは、一二年 も前のことなのだ。人懐こいのである。 「これ、ひどいな : : : 」
事前にホームページをチェックしてはいたものの、実際に自分の目で見るまでは、どん なクラブなのかわかったものではないということを、ほくたちは上総ふれあい牧場で思い 知らされていた。あの牧場にしても、ある時期からまったく更新されていないことが変だ とは感じたものの、ホームページそのものはきちんとしていたのだ。 だが、スパルタン乗馬クラブはホームページと同じように、実際の建物などの施設も立 派できれいだった。広い敷地にいくつもの馬場があり、そこでスタッフが会員をレッスン していた。とても活気のあるクラブに思えた。 駐車場は満車に近く、高級車がたくさん停まっている。 「すごいなあ。ライムちゃんは、こんないいクラブにいるんだね。レッスンに出てるかも しれないね , 車から降りながら、梅里が笑顔で言う。 「そうだな : レッスンに出ている馬だけでなく、遠くの放牧地にも何頭もの馬の姿が見える。のどか で平和な光景だ。 競走馬を引退したサラブレッドが生き残る道は限られている。種牡馬や繁殖牝馬になれ る馬はほんの一握りで、ほとんどの馬は乗馬クラブ以外に生きていく道はない。 しかし、性格や気性など、様々な理由で、乗用馬に向かない馬もいる。そういう馬たち
「だから、心不全と言われてもピンときませんでした。丈夫な人でしたから 「どういう状况だったのでしようか ? 「朝飼いと馬房掃除は二人でやってましたが、それが済むと、わたしは自宅に戻って事務 処理をするようにしていました。日中は馬たちは放牧に出しますし、あとは夫が会員さん のレッスンをしたりするくらいで、それほどにしくないんです。レッスンも毎日あるわけ ではありませんから。夕方になると、また牧場に戻り、馬たちを馬房に戻してタ飼いを食 イ ナベさせます。それで一日の作業を終えて、二人で自宅に帰るようにしていました ク 「レッスンのない日は、ご主人は一人で過ごすことが多かったわけですね ? 」 プ「そうです。あの日は月曜日で、そもそも乗馬クラブはお休みでしたから、夫は一人でし ザた。夕方、わたしが牧場に戻ると、夫の姿が見えなかったので、おかしいなと思って探し 一たら厩舎で倒れていました。すぐに救急車を呼びましたが、もうダメだというのはわかり フました」 ア 「なぜですか ? 」 部 「息をしていなかったし、手や顔が冷たかったからです」 第 「ご主人が亡くなったのと同じ日に馬も死んだと聞いたのですが」 「ああ、スコットですね。はい、馬房で死んでいました 「同じ日ですか ?
レッスンの最後にはクールダウンのために、馬をゆっくり動かしてやる必要がある。そ のときに、馬の横をインストラクターが一緒に歩きながら、その日のレッスンのポイント や注意点を話して、次回のレッスンに繋げるようにする。 「前回も言ったと思いますが、山根さん、とても上手です。体の動きが柔らかいので、馬 かけあし の邪魔をしてません。軽速歩の回転運動がもう少し正確にできるようになったら駈歩に挑 ( 戦しましよ、つか」 ノー 軽速歩を取りながら、きちんと馬を制御できるようになると、次は駈歩の練習をするこ ナ ク とになる。 プ「まだ早いんじゃないですか。普通は一〇〇鞍くらい乗らないと教えてもらえないと鈴木 さんから聞きましたが」 ザ 「それは一応の目安で、人それぞれです。二〇〇鞍乗っても、三〇〇鞍乗っても駈歩がで タ きない人もいれば、三〇鞍くらいで駈歩ができる人もいます。わたしが教えた人で一番早 フ ア かった人は二〇鞍で駈歩ができました」 部「すごいなあー 第「山根さんも、それに近いと思います」 「そう言われると嬉しいね 「鈴木さんは入会を決めたようですけど、山根さんもご一緒にいかがですか ? 乗馬を続
「死ぬよりは、ましじゃないのかね」 「痛み止めを与えてはどうですか ? 「金がかかるよ」 「売って下さい。ばくたちが買い取ります . 「は ? あんたたちがダイアンを買うって ? 」 「いくらなら売ってもらえますか ? 「本気で言ってるのかい ? 」 「もちろんです , 一五〇万てところかな」 ち「そうだなあ : 馬「一五〇万って、法外じゃないですか」 な「そうでもないさ。馬肉にすれば、五〇万くらいになるし、まだレッスンにも使える。あ 前と半年くらいがんばらせてから処分すれば、ちょうど一五〇万くらいの儲けになるからね。 名 こっちから買ってくれと頼んでいるわけじゃないし、あんたらも無茶なことはしない方が 部 ) ゝ 0 、、 とういうつもりか知らないけど、ダイアンを引き取っても何もしてやれないだろう 第 し、あんたらが困るだけだと思うよ。大切な金を無駄にしない方がいい」 じゃあ、これからレッスンがあるから、と清原は蹄洗場から離れていく。 ばくと清原が話している間、梅里は険しい表情でダイアンの脚を触診していた。
420 「どうだ ? 」 「う、つん : 梅里は立ち上がると、重苦しい溜息をつく。 「あいつの言う通りかもしれない。治しようがないかもしれないね。腫れているところは 熱があるから、きっと痛みが続いているはずだよ。半年がんばらせるなんて言ってたけど 無理に決まってる。このまま放置すれば、歩くこともできなくなる。レッスンになんか出 せるはずがない 「レッスンに使えなければ、すぐに処分するつもりなんだろうな」 「買い取るのも難しいね。お金の問題じゃないよ。一五〇万くらいなら、すぐに用意でき る。だけど、苦しみを長引かせるだけかもしれないね 「痛み止めを飲ませてもダメかな」 「これだけ状態がひどいと、かなり強い薬を飲ませる必要があるけど、そうすると、今度 は胃がやられてしまうんじゃないかな」 「脚だけでなく、胃腸も悪くなれば、何も食べられなくなってしまうな」 ししか、よく考えてみよう」 「一度、ホテルに戻ろうよ。どうすれば、 そう梅里は言ったが、それはばくに対する気遣いだ。もう結論は出ているのだ。苦しみ を取り除いてやる手段がなく、今のままでいることがダイアンの苦しみを長引かせるだけ
418 清原の一一一一口うように、腫れ上がった部分は石のように固くなっている。大学の実習でフレ グモーネの馬を見たことがあるが、それとは全然違う。こんな症例は初めてだ。 「どうして治さないんですか ? 」 「獣医にも相談したけど、獣医もどうしていいかわからないっていうんだ。理屈から考え れば、髄液が洩れているところを塞いで、骨にくつついた骨膜を削り取れば、元通りにな るはずなんだけど、それをするには全身麻酔をかけて大がかりな手術をしなければならな 。しかも、手術すれば必す治るとも言えないらしいし、金もかかる。実は、獣医からは 処分を勧められてるんだよ」 「え、処分ですか ? 「だってさ、金をかけて手術して、たとえ成功したとしても、すぐにレッスンには使えな いだろうし、この子が稼いで手術費用を回収するには何年もかかる。そこまで時間や金を かけるほどの馬じゃないんだよ。所詮、ただの練習馬だからさ。この子を処分して、他か ら馬を買ってくる方が効率がいいわけさ。だけど、今までがんばってくれたし、性格もか わいい馬だから、動けるうちはレッスンに出して生かしてやろうと思っている 「動けなくなったら ? 」 「処分するしかないねー 「今だって、かなりの痛みを感じているはずですよ
180 ではないんですよね ? 新九郎が訊く。 「ええ、レッスンはしません。でも、お客さまを乗せることはしますよ。ミニチュアポニ ーは子供さんたちの遊び相手ですが、それ以外の馬たちは引き馬といって、スタッフが引 き手を持った状態で、お客さまを乗せて歩きます。広場を一周するだけなら五〇〇円で、 園内をぐるっと一周するのなら二〇〇〇円です。大人はサラブレッド、子供さんはポニー に乗っていただきます」 畑山は説明しながら、厩舎の奧に歩いて行く。厩舎の中は薄暗く、埃つほい。特に奥 の方は、窓もなく、光が差し込まないので、かなり暗い。 「社長は、ここに倒れていました 畑山が地面を指差す。 「何をしてらしたんですかね ? 普段から、ここで仕事をする用事があったんですか」 「それがちょっと不思議なんですが、社長がここにくることは滅多にないんです , 「亡くなった原因は何ですか ? 「急性心不全と聞きましたが : 「普段から体調が悪かったのでしようか ? 「血圧は高かったようです。血圧を下げる薬を服用していると聞いたことがあります。し
「厩舎 ? 厩舎の奧に倒れていました。意識がなく、呼びかけても返事をしないので、すぐ 「はい。 に救急車を呼びましたが、もう亡くなっていたようです」 「月曜日は休園日ですよね ? 」 「そ、つです , 「それでも池田さんは出勤なさっていたんですか ? 」 イ ナ「休園と言っても、お客さまがいらっしやらないだけで、いつも通り、動物たちの世話を ッしなければなりませんから、従業員も半分くらいは出勤しています。社長の休みは変則で、 プ何か他に用事がない限りは、ほとんど毎日出勤していました。朝礼は毎朝行いますし」 ザ「池田さんが倒れていた場所を見たいのですが ? 一「ああ、いいですよ」 フ新九郎たちは畑山に案内されて事務所を出た。 ア 敷地が広いので、事務所から馬たちのいる厩舎に着くのに一〇分も歩かなければならな 一かった。 第 厩舎には一五頭くらいの馬たちがいるが、サラブレッドだけでなく、アングロアラブや 四ポニー、大のように小柄なミニチュアポニーもいる。 「ここにいる馬たちは、乗馬クラブの馬たちのようにお客さんのレッスンに使われるわけ