だけど、上の男の子は一歳になる前に病気で亡くなった。残ったのは娘一人で、それが ばくの母さんだ。 母さんは山中家のたった一人の跡取りだから、婿養子を取らなければならなかった。そ うしないと山中の家が絶え、牧場も処分しなければならないし、お墓を守る者もいなくな ってしま、つ。 ところが、父さんも不知火牧場のたった一人の跡取り息子だった。運の悪いことに一人 、。いつだったか母 っ子同士だったのだ。二人が結婚するときは、ものすごくもめたらしし さんが笑いながら話してくれたけど、どうしようもなくなって駆け落ちするところまで追 い詰められたそうだ。 父さんと母さんがいなくなったら不知火牧場も山中牧場も共倒れになってしまう。それ では、どっちも困るから、両家の親同士が話し合い、母さんは不知火牧場に嫁に行くが、 子供が生まれたら、その子を山中家に養子に出す、という約東をした。 生まれるのが男なのか女なのかもわからないし、子供が何人生まれるのかもわからない。 子供が一人しか生まれず、その子を山中家の養子にしたら不知火家の跡取りがいなくなっ てしま、つ。 いや、それどころか、子供が一人も生まれないかもしれない。 不知火のじいちゃんが山中のじいちゃんにそう一一一一口うと、 しらぬ むこ
ハソコンの画面を睨みながら、純一が一言う。 「その不知火牧場ですが、今はありませんねー 「廃業 ? しいえ、火事で燃えたみたいです。一九九七年の大晦日です . 「一二年前だねー 「わたしも調べてみます , 麗子が着席し、キーボードを叩き始める。 しばらくすると、 ち「その当時の地元の新聞記事があります。その火事で一家五人が亡くなっています。牧場 しんすけ 経営者の不知火慎介、妻の沢子、それに三人の幼い子供たちです」 「ばくの見付けた記事には、一家心中ではないかと書いてありますー 前「一家心中か : : : 」 名 「あった ! 部 純一が大きな声を出す。 第 「その一家だけでなく、牧場にいた馬たちも何頭か死んだようですが、助かった馬もいた ライム、ピッピ、ローレン、スコ そうです。名前が載っています。バンビ、ジンジャー ット、ダイアン : : : 七頭が助かっています」
410 「違うんですか ? 」 「いや、たぶん、そうだろうけど、その二人、学生のように若かったというよね。馬を買 い取って面倒を見るだけのお金がありそうには見えなかったって。彼らは、馬を浦河に連 れ帰って、どうするつもりだったんだろう ? 」 「預けるあてがあったんでしようか ? 」 「芝原君、馬たちが浦河の何という牧場で生まれたか調べられるかな ? 」 「やってみますー 「ばくも手伝いますよ 麗子と純一がパソコンを操作して調査を進めている間、新九郎はコ 1 ヒ ] を飲みながら 思案を重ねる。頭の中で様々な可能性を吟味し、それを元に推理を組み立てているのだ。 一時間ほど経った頃、 「わかりました」 と、麗子が興奮気味に立ち上がる。 「不知火牧場です。どの馬も浦河の不知火牧場で生まれています」 「おおつ、やったな」 珍しく新九郎が大きな声を出す。 「待って下さい
ってきたから、一度でも警察に疑われて、事件の関連性を調べられたら言い逃れのしよう かないのだ。 「迷うことなんかないよ」 「そうだな」 結局、ばくは梅里の意見に賛成した。 いつものように日曜日の深夜にクラブに忍び込んでスコットを安楽死させ、藤岡にも死 んでもらった。 ち 月曜日の午前の便で、ばくは札幌に帰った。 馬飛行機の中で、ばくは物思いに耽った。 ハンビ、ライム、ピッピ、ローレン、スコット : : : 不知火牧場の火災で生き残った生産 前馬たちの行方を追ったが、 一頭として幸せに暮らしていた馬はいなかった。みんな、ひど 名 い目に遭っていた。ライムやピッピと一緒に死んだ馬たちも、そうだ。 部 なぜ、馬たちがそんな目に遭わなければならないのか、ばくにはわからない。人間の都 第 合で虐待されているとしか思えない 肉親をすべて失い、天涯孤独の身となったばくにとって、不知火牧場にいた馬たちだけ が家族のようなものだ。だから、行方を追った。
あいいろはんてん 放水車も見える。その周りには藍色の半纏を着た消防団の人たちが固まっている。 ぼうぜん 何もしていない。火を消そうともせず、呆然と炎を見つめているだけだ。 その理由はわかる。 手の出しようがないのだ。ちつほけな放水車ではどうにもならないほど火の勢いが凄ま じいのである。 「待ってろ」 そう言い残して、勝山さんとじいちゃんがワンポックスカーを降りる。エンジンを切る とヒーターが止まってしまうので、エンジンはかけたままだ。 ばくは夜空を焦がすように燃え上がる炎を、じっと見つめる。 生まれ育った不知火牧場が燃えている。 それなのに、なぜか、悲しさは感じなかった。 自分でも馬鹿だと思うが、不知火牧場が燃えてなくなったら、みんなで山中牧場に引っ 越してくればいいと思った。 周りを見ても、父さん、母さん、弟や妹たちはどこにも見当たらなかった。どこにいる んだろう、早くここに来ればいいのに、外は寒いから、ワンポックスカーに乗ればいいの に、と考えていた。 だけど、いつまでも誰も来ない。 すさ
詳しい事情を知る新九郎が駆けつけなければ、今後の対応を決めることができないのだ。 途中、麗子から電話がかかってきた。 二人組のうち、一人の正体がわかったかもしれない、という。 「山中恭介、一三歳の大学生です : 不知火牧場の火事で一家五人が亡くなったが、恭介は長男なのだという。幼い頃、祖父 母の養子になったので、火事が起きたとき実家におらず、祖父母の家にいた。だから、助 かった。 大学の学生課から手に入れたという写真を麗子は転送してきた。 ホワイトピジョンファームに着くと、新九郎は鍋島夫妻に、その写真を見せた。 「ああ、この人ですよ。ジンジャーに会いに来たんですー 幸子が言、つ。 「なるほど」 新九郎がうなずく。予想した通りである。山中恭介は不知火牧場の火事で生き延びた馬 たちの行方を追っているのだ。 「どこに行ったかわかりますか ? 」 いえ。パトカーが来たので、母屋に戻ったんですよ。その間にいなくなりましたね」 「どうやってここに来たかわかりますか ? 車ですか
ロっ : 「バンビ、覚えてるか ? 「バンビって : : : あのバンビ ? 」 忘れるはずがない。不知火牧場で最後に生まれた牝馬だ。人懐こくて、ばくがそばに行 くと喜んで駆け寄ってきた。白い靴下を履いているかのように、四本の脚の蹄のすぐ上に 白い毛が生えていた。シフォンケーキのように愛らしい仔馬、それがバンビだ。 「今更、こんなことを知らせるのがいいか悪いかわからないんだが、バンビの居所がわか ってな : 一二年前の大晦日、不知火牧場は火災で全焼した。 、ノビ、ライム、ピッピ、ジンジャー、ローレン、ダイアン、 牧場には七頭の馬がいたノ、 スコットである。この一二年、七頭の馬たちのことを時折、思い出すことがなかったわけ ではないが、 自分が生きることに精一杯で馬たちがどうしているか、詳しく調べたことは この一二年、馬たちはどうしていたのか、まだ生きているのか、それとも死んでしまっ たか、そんなこともわからないのだ。 馬の平均寿命は、それほど長くない。病気にかかったり、怪我をしたりしなければ、三 〇歳くらいまで生きることもあるが、それはかなり稀である。馬の二〇歳は人間の八〇歳
校に行くのにも一時間かかるのだから、そんなに遠いとは思わなかった。 じいちゃんとばあちゃんは、ばくをすごくかわいがってくれて、山中牧場に行くと、い つもごちそうを食べさせてくれた。お小遣いもくれた。 めった 不知火牧場では、滅多にごちそうなんか食べられなかった。おやつも少なかったし、そ の少ないおやつを弟や妹と分けなければならず、しかも、 「お兄ちゃんなんだから我慢しなさい」 と、母さんは、いつも弟や妹にたくさん分けて、ばくは少ししかもらえなかった。 お小遣いも滅多にもらえなかったし、おもちゃも買ってもらえなかった。うちにいると 弟や妹の世話ばかりさせられて、あまり友達とも遊べなかった。楽しいことがあまりなか ったし、文句を言ったりすると父さんに頭を叩かれた。 父さんも母さんも何かというと、 「長男なんだからー と、がみがみ言ったけど、長男といっても史子とはひとっ違い、隆行とはふたっ違いだ。 年齢なんか大して違わないのに、ちょっと早く生まれただけで損ばかりしている気がした。 父さんや母さんには一言えなかったけど、ばくは山中牧場に来て、嬉しかったのだ。 元日から三日まで、不知火牧場に帰ることになっている。明日の朝、じいちゃんが送っ てくれる。
九月ニ六日 ( 土曜日 ) ばあちゃんの納骨をするために一泊二日で浦河に帰った。おじさんたちが強く勧めるの で、今回は勝山牧場に泊めてもらった。納骨の段取りはおじさんたちがすべて手配してく れたので、ばくは何もすることがなかった。お寺に出向いて、お坊さんの読経を聞き、遺 骨をお墓に納めただけだ。 夜、三人で食事をしながら、昔話をした。 おじさんもおばさんも年齢のせいか涙もろくなっており、すぐに涙ぐんだ。不知火牧場 の火事が話題になったとき、おばさんはティッシュで目許を押さえ、声を押し殺して泣い た。ふと、不知火牧場にいた馬たちを見付けることができたら、勝山牧場で預かってもら えるだろうか、もちろん、預託料はちゃんと払、つつもりだ、と相談してみた。 「ああ、そうできれば嬉しいよなあ。あそこで生まれた馬たちは恭介の家族みたいなもん だからな。金なんかいらないから喜んで預かりたいさ。けどなあ、金の問題ではなく、こ っちの体がなあ。馬の世話をするには体力がいるけど、わしらには、その体力がないよ」 おじさんが淋しそうに笑った。 大学を出たら、浦河に戻るつもりだから、そうしたら、ほくも手伝うよ、と申し出たが、 7
いる。馬たちを訪ねるようになった最初の頃は、馬たちが幸せに暮らしていれば、その様 子を見て引き揚げようなどと甘いことを考えていたが、安穏に暮らしている馬など一頭も いなかった。虐待されているか、病気で苦しんでいるか、どちらかだった。 だから、きっとジンジャーも苦しんでいるに違いないと考えた。何かを期待しても無駄 だという気持ちだったのだ。 ホワイトピジョンファームは乗馬クラブではなく、養老牧場だ。乗用馬としての働きを 終え、引退した馬たちが余生を過ごす場所である。高齢で動きが悪くなったり、病気や怪 我で普通の動きができなくなったりした馬たちが預けられている。 ホームページはあるものの、ほとんど更新されておらず、現在の牧場の様子が何もわか ぶあいそう らない。梅里が電話して、ジンジャーのことを確認すると、無愛想な男が電話に出て、ジ ンジャーという馬はいるが、それがあんたの言ってる馬かどうかはわからない、見学した ければ来ても構わないが仕事の邪魔にならないようにしてほしい、 とすぐに切られてしま ったという。その対応がそっけなく、面倒臭そうな感じだったらしく、梅里は、あそこは ダメだよ、きっと、ジンジャーちゃんもひどい扱いをされているに決まってる、と憤慨し ていた。 不知火牧場が焼けたとき、ジンジャーは一五歳だった。すでに競馬を引退し、不知火牧 場で繁殖生活を送っていた。競走馬としての成績は大したことはなかったものの、血統が