近いの ? 御飯に帰るのかい ? タミエはちょっと吃驚して、叢に沈めてある教科書袋のこ とを思い出した。この人の家には子供がいないんだな、とタミエは思った。日曜日でもなく て旗日でもなくて春休みでも夏休みでもない日に、朝から子供がそこらにいても、学校なん てこと思いっかないんだな。 ともあれ、そう聞いてタミエは、ふいに飢えを思い出した。ポケットにはサクランポが 拾ってあったけれど、急に気が付いた飢えは、到底そんなものをしゃぶることで治まりそう になかった。おじさんはどうするの ? お結びがあるんだ。男は肩から吊っているズックの 袋を叩き、簡単に付け加えた。帰んなくていいんなら一緒に食べよう。 背に若カエデを控えたツメクサの密生に二人は並んだ。凄いほど晴れている。躰がほてつ ていて、ツメクサの葉の柔かな冷さが快い。男がタミエとの間に拡げた包みには、海苔で巻 いた大きな握り飯が六つあった。小さな水筒も取り出された。それから煙草人みたいなもの をタミエに差出した。タミエが、中身を承知のような振りで開けたら、もう一度中蓋があっ てから湿った綿が入っていた。さすがのタミエもわからなくて、それでも小賢しく、どう ぞ、というように男に渡したら、男はそれを千切り取って指先を拭いた。タミエも真似をし た。いい匂いがして手が涼しかった。 一つめは二人とも同じ位の速さで食べた。二つめにはタミエの速度がずっと落ちて、男の 三つめが終る頃までかかり、終ると、手のねばねばをスカートで拭いた。飲んでいいよ、と びつくり タミエの花
さよなら、とタミエが叫んだ。男が振り向いた。さよなら、と男も言った。そしてまた さっきの姿勢になり、また歩き、またかがんだ。タミエはそこに突っ立ったままツッジやャ マアジサイに見え隠れする男の後姿を眺めていて、また叫んだ。さよなら。男の声が小さく 返った。さよなら。 四度目にはもう一言葉が聞き取れなかった。弛い斜面を下りて行く男の姿は、足の方からだ んだん隠れた。もう少しですっかり見えなくなろうという時、俄かにタミエは跳び上がり、 高く両手を打振りながら、迸るように叫んだ。 シャガがあったら教えてね。 声が到いたのか、男の頭が振向いて、片手を上げた。さようなら、と言われたつもりで あったろう。そしてもう見えなくなった。 シャガがあったら教えてね。 タミエは見えない男に向って、執拗に叫び続けた。叫びやめたらばもう、二度とあの花を 見ることができなくなるとでもいう風に。 終りには声も嗄れ、息も切れた。ツメクサの腕輪もほどけ落ちた。それでもまだ叫び続け た。呪文のように。 シャガ、シャガ、シャガ。
男が水筒を片手で押して寄越したので、タミエは磁石付の小さな蓋で七杯位飲み、満足し て、白いツメクサの花の腕輪を編み始めた。 男は同じ勢いで四つめも平らげ、水筒を飲み干し、それからちょっとの間黙ってタミエの 手許を見ていた。なよやかでまっすぐな茎の先で、くるくる捩れて咲く濃い桃色の花を編み ちりば 混ぜると、その塵のような小花が、鏤められた宝石のようにあでやかに見えた。 その花のことはまだ訊かなかったね。うん、これはグルグルソウ。そうか、ス。ヒランテ ス・スイネンスイス : : : 男はまた呪文のようなことを言った。ずいぶんいろいろ教わったっ けが、きっとまだたくさん、僕の気の付かなかったのがあるだろうね。今咲いてるのだけ じゃなくて、もう終っちゃったのとか、これから先のとかさ。 そりゃあもう : : : タミエは憐れむように請合った。自分のまわりに数多の草木が溢れ返っ て、目も鼻も口も塞がれるようであった。そりゃあもう、どんなにたくさんあることだろ う。入れ替り立ち代りこの山に芽ぐみ花開き実る木々草々の種類は、とても数えきれるもの ではない。そしてタミエはみんな知っている。よく知っている。葉の付き工合も、蕾の形 も、花びらの裏側の色も、樹皮の匂いも、茎の折れ方も、花期の長さも、しべの数も。 男は水筒をしまって、かわりにさっきのとはまた別の帳面を出し、タミエに頼んだ。なん でもいいから、今までに言わなかったので思い付いたのを言ってみてくれないか。 どうしたものか、そうしたら途端に、目鼻を蔽うばかりに溢れ返っていた花や葉が悉くど
したくない、最後のタミエの花であった。 ハハコグサと言われて、違うよ、あれはね、カタクリマプシ、と言ったのは、常の、知っ たかぶり好きの性癖からだけでなく、そう呼び変えることで辛うじてその草を他者の支配か ら守ったつもりになろうという、懸命の抗戦、強奪への反旗であった。そして、その作業を 重ねながら、単に感覚的博識ともいうべき己れの世界に比べて、男の世界には地図があり帳 面があり、みんなとの協定みんなの支持があるという堅固を確実を安定を、ひしひしと感 じさせられて来たタミエにとって、今、泪まみれで庇うべきいとしくも脆い自分の世界は、 こど 凝って集まってあの花となり、繚乱とタミエを充たしていた。 シャガも綺麗な花だよ。うすうい藤色で、茎の感じはちょっとナデシコみたいかな。とん がった濃い色の葉で、気をつけて探せば冬も枯れないでいる筈だ。野生の花らしくなくて温 室咲きの西洋花の感じだけど、あれで純日本産だし、あんまり日の当らない、林の中なんか に咲くんだ。そのテンニンゴロモっていうのも、シャガの一種じゃないかな。 葉も茎も、男の言う通りなのである。シャガじゃない。タミエはどきどきしながら叫ん だ。シャガよりもずっと綺麗で、ずっと大きいの。 大きいってどの位 ? ヤマュリよりもっと。男はそれで、まじめに目を瞠った。そんなに 大きいの ? じゃあ、丈もヤマュリ位ある ? ううん、丈はこの位。タミエはツメクサの花 の三倍位のあたりへ手を伸ばした。それでそんなに大きい花が咲くのかい ? タミエの花
今やタミエの中には、純白に仄紫の影を差したあの花が、途方もなく巨きくなって咲き重 なる。 花びらは何枚 ? 七枚。タミエがきつばり言った。 しかし本当のところその花の形は、確かにタミエには見えながら、つきつめられれば総て びよう 朧ろに眇として、花びらの数も斑の色も、こうとはっきり一言葉にならない。すれば消え、や めれば漂う。七枚、はあてずつぼの数であったが、同時に、七枚花弁の花を曾て知らないタ ミエが咄嗟になぞらえた、タミエの花の非有なる優越、珍らかな麗質のしるしである。 七枚 ! と男が叫んだ。ほんとかい ? ほんとさあ。よし、男は立ち上がって袋を肩に掛 けた。そいつを捜そう。一緒に来てくれるかい ? ツメクサの腕輪を嵌めながら、タミエは 少しためらった。でもあたい、どの辺だったか覚えていないわよ。いいよ、歩いてるうち思 い出すかもしれない。 二人はまた連れ立って歩き出したが、今度は昼前とは違って黙りこくっていた。七枚花弁 というのは子供の錯覚で、ヤマュリより大きいというのも相当ひどい誇張であるとしても、 とにかくテンニンゴロモという名の美しい花を見たい、それがシャガの変種だとわかればそ れはそれでいいと男は熱中していたし、タミエはといえば、あの花を見たいという切望と、 男に語って聞かせた巨大なテンニンゴロモは決してないのだという虚しさと、万が一あった ら、という奇妙な期待と、それからもしあの花をみつけたらの歓びと重なって、ああシャガ