じだったが、議員より高級官僚の方が報酬がよいというのが、常識となってきた。参考までに、議員 および議会の役職と、政府、国営企業首脳の年間給与を並べてみよう ( 表 2 ) 。 なお議員には、自宅と議会、ロンドンと選挙区の間の一等パスあるいは航空パスが支給され、議員 の妻あるいは夫が、年に回ロンドンへくる交通費、秘書手当が支給される。上院議員は出席するた びに八ポンド五〇ペンスの日当が支給され、歳費はない。 ド 0 0 ) , 0 0 0 0 0 0- 0 1-n 」号 ) ン 0 0 均 7 7 5 7 5 5 0 7 年 1 1 よ 11 1 亠っ朝ワ 3 、 1 冖 / ( 町ん 5 また落選議員に三カ月分の退職金と、積立て制度で年額七 年 6 五〇ポンドの年金が支給される。 の 相授官官官帥裁裁長長 , いずれにせよ、議員という職が、金銭的には報われない 教次次長総社 業 仕事であることはたしかで、イギリスの国際的地位の低下 企 学省蔵裁公鉄 鋼 O 工 も手伝ってか最近はオクスフォードやケイフリッジの卒業 首大各大高元鉄国シ 府 生で政治を志す人がめつきり減っているという。この点 と 員ン 0 【 0 0 0- 0 0 0 0 0- で、のどから手が出るほど金が欲しいにもかかわらず、選 4 c-D CO 0 【 0 イ 00 1 ワ】 挙前となると身辺を特に清潔にしなければならないという の ことで、金銭の収支に非常に神経質となり、インタビュー 員長首務長長官相相 主員 の謝礼でもうけとらないほどである。反面、選挙後だと、 議員党議議次 民議 外内 ーに二〇〇ポンド要求するという心 五分ほどのインタビュ 院入党院院務 表 下歳野与下上政閣閣臓の強い人も現われるのである。これはすべて、清潔であ
五三年五月、女王の戴冠式の一週間前にヘリコプターで国内旅行をしたとき、チャーチル首相は、 バッキンガム宮殿の政務担当秘書長を呼びつけて、「女王一家の発展を心得ていないのか ( 英語を正確 に訳すと女王一家を根絶やしにするつもりか ) 」とどなりつけたという。 フィリップ殿下が女王の夫君となって力を注いだのは、王室および王室をとりまく宮廷当局の民主 化、財政の合理化、イギリス連邦の中心としての王室の役割の強化、科学技術の振興やスポーツの発 展などの音頭とりであった。 女王夫妻がバッキンガム宮殿の主となった頃、もしサンドイッチが食べたいとすると、まず小姓が その御意向をうかがって管理官に報告し、管理官が司厨長に材料があるかどうかを確認し、担当コッ クがきまり、できあがったサンドイッチを管理官に届け、小姓が参上するという古式な仕組みがとら れていた。今日では電話一本ですむようになっているが、一事が万事こうした能率化、あるいはテレ ビ番組「ロイヤル・ファミリー 」に象徴される王室を民衆の中にとけこませる改革の多くは、女王の 功績とされているが、実際にはフィリップ殿下がイニシアテイプをとり、女王はむしろ宮殿内部の保 守派に引きづられがちであったともいわれるほどである。 フィリップ殿下のもう一つの積極面は、各種の団体や運動のかざりものとして使われるのをいさぎ よしとせず、時代を先取りして活動するところにある。 彼が一九七〇年を自然保護の年とする運動を組織しはじめたのは、六三年のことだった。七〇年二 月、ストラス・フールでヨーロッパ環境保護会議が開かれたとき、彼は次のようにあいさっした。
ル議員ら右派議員と一諸になった。賛成は三五六、反対は二四四だった。 投票の結果が報告されると、本会議場から異様などよめきがひびいた。未だにかつら姿の議長のあ とに与党野党の議員が党首を先頭にそれぞれ一列にな 0 て退場するとき、ヒースとウイルソンは一言 も口をきかなか 0 た。玄関近くの廊下で待 0 ていた傍聴者達の間から、ヒースに向 0 て「プー」とい う野次がとんだ。すると後ろの方にいた傍聴者からこれに対抗して拍手が起った。 年が明けて一九七二年、加盟にともなう国内法整備のための国会の攻防が始ま もよう眺め るのを前にして、週刊雑誌「エコノミスト」は、″進攻の年〃と題して、山高帽に こうもりがさの金融マンや青い作業服に技術を象徴する工具をもった労働者が大陸の津々浦々に入り こんでいく絵を表紙にかかげ、 @(-) 諸国へのなぐり込みをあおった。 イギリスが拡大@0 加盟によって開かれる市場を、このようにして十分活用できるならば、加盟の 王際支拡う代償は安いものとなる反面、従来のイギリスが加盟によ 0 ても変わらないとすれば、この代 ス しすれにして 償はまことに高い授業料となろう ()O 諸国はイギリス弱しとたかをくく 0 ているのだが ) 。、・ ギ イ もその鍵をにぎっているのはイギリス国民である。 合 連 今度のイギリスの拡大ß(-) 加盟の特徴の一つは、この加盟についてついに過半数の国民の支持ある いは祝福を得られなか 0 たことである。このことは、拡大 QO にイギリスの将来をかける保守党政権 あるいは一部の経済界首脳の、思いつめたような願い、期待に水をかけるものであるが、加盟交渉中 あるいは交渉妥結後に全国で展開された政府の大がかりな世論工作、あるいは大多数の新聞が加盟を
で新聞を読みながら朝食をとる。食卓におかれたロンドンの各新聞のうちまず目を通すのは、スポー ツ新聞の競馬欄だという噂もあるが、これは御当人に確認するわけにもいかない ついでに女王と馬についてのエビソー ードを紹介してしまうと、女王になってはじめてアスコット の競馬に行幸したとき、場内をパレードして、真直ぐにロイヤル・ポックスに人る慣例を破って、調 教用の馬場にひいきの馬を見に行ってしまった。全観客は起立したまま女王の着席を待ら、そのうら 女王の姿を馬場にみつけて大笑いとなった。父ジョ 1 ジ六世や祖父ジョ ージ五世の晩年は、一つか二 っレースをみると帰ってしまったのに、その日彼女は全レースを楽しんだ。これは二三年ぶりの出来 事だった。 午前九時になるとその日の予定の打合せを始め、九時半には執務室に入る。女王を待っているのは 閣議や内閣の国防・外交委員会の記録、在外公館からの重要な公電、議会での討議の要約などで、閣 議の議題は事前に知らされる。これらはいずれも女王の「知らされる権利」にもとづいて報告される ものであるが、内閣と国会の関係者にとっては、毎日この報告の作成が頭痛の種である。首相は毎週 原則として火曜日に政務を奏上するが、かってのように直立不動で行なう必要はなく、最近は椅子に 家 すわり煙草を吸ってもよくなっている。 室女王の仕事は何時に終るというものではない。天皇皇后両陛下がイギリスを訪問されたとき、バッ 王 キンガム宮殿で行なわれた女王主催の晩さん会での女王のあいさつは、前の晩に女王が自から筆を人 れるということで当日夕方まで配られす、また配られたテキストは宮殿のタイプ用紙をコビーしただ
前回はこうした議論について、ウイルソン首相と労働組合の間にある種のコンセンサスができあが らないうちに、政変で所得政策そのものが吹き飛んでしまったが今度はどうなるか。少なくともヒー スと組合の間には共通の場はまだできていないようである。 ロンドンの繁華街オックスフォード・ストリートの東のはずれ、地下鉄トテナム・ 不動産投機 コート・ロードの駅を出ると、見上げるようにそびえたっ三二階建てのビルがある。 一九六五年に建てられた当時は、ロンドンでも最も高い建物として話題になったが、一階が銀行の支 店として使われているほか、人っ気はなかった。 七三年はじめになって、このセンター・ポイント・ビルの店子を求める大きな広告が、東京の新聞 にも掲載された。オフィス面積一万四、〇〇〇平方メートル、ショールーム二、五〇〇平方メートル、 一五〇台収容の駐車場、三六世帯分のア。ハート、 屋上レストラン、「この豪華な複合オフィス・ビル をイギリスの@ O 加盟を機会に、ロンドンあるいはヨーロッパ本部として使いたい組織に特別の条件 で提供します」と書かれてあった。 日本企業の西ヨーロッパ進出をあてこんだたくみな広告のようにみえるが、日本の新聞にまで広告 をださなければならなかったいきさつは次の通りである。 一九六五年にこのビルが建てられたとき、家賃は一平方フィートあたり一年三ポンド、建物の評価 額は六四〇万ポンドであった。七年たって大気の汚れのためにビルの窓わくもさびだした七二年、持 主が要求している家賃は一平方フィート六・五ポンド、評価額は二・七倍の一、七〇〇万ポンドとな 180
スの政治の最大の問題である。 労働党のディック・タバーン議員は、一九七二年六月、選挙区の労働党リンカーン地 造反議員 区支部から、引退つまり次の総選挙にこの地区を代表する候補者に推せんしないとい う決議をつきつけられた。 この決定は、タバーン議員にとってまことに意外なことであった。何故なら彼は、労働党の将来性 のある議員と自他ともに許していたからである。六二年の補欠選挙でリシカーン地区から三三才で当 選して以来、六四年、六五年、七〇年と四回当選、六六年から内務政務次官、六八年からは大蔵省の 財務担当国務相をつとめ、労働党の中では右派及至は穏健派とみられている旧ゲイッケル派の指導者 ジェンキンズ前副党首 ( 前蔵相 ) と政治行動をともにしてきた。 決議の理由は、彼がジェンキンズ氏ら六五人の同僚議員とともに下院で eo 加盟に賛成投票したこ とである。リンカーンのæo 加盟に反対する左派グループは投票に先立ってタバーン議員に、賛成で はなく、せめて棄権にまわるよう要請、賛成投票するなら選挙区を変えるよう求めていた。しかし彼 は選挙区で世論調査をして、住民の多数は QO 加盟を支持しているとしてこれを拒否、 eo 賛成の立 場を貫いたのである。 イギリスでは、保守、労働両党を通じ選挙の候補者を決める第一次的な権限を選挙区の党支部が握 っているため、現職議員でも必ずしも推せんが得られるとは限らない。七〇年の選挙のときも、労働 党の中東政策はイスラエル寄りすぎると批判した親アラブの婦人議員が、ロンドンの選挙区の圧力
った ( イギリスでは地方議会の与党幹部が行政各部門の監督責任者になる ) 。 プラマー氏としては、彼女の魅力とセンスで再開発に対する批判をかわそうとしたのであろう。彼 女も期待にこたえて活動を開始した。得意のサイン入りの印刷物が各戸に配られた。 「コペント・ガーデンのあとを放っておけば、オフィスとホテルと家賃の高いアパートしかできな いでしよう。地域住民の要求を入れさせるために業者とある程度の取引きをすることは必要です。計 桜や草花を植えることです。違ったアイディアをもって 画の重点はこの地区にもっと公園をつくり、 いる人、何か心配のある人は私に手紙を下さるか電話して下さい」 ロールス・ロイスをのりまわす銀行家の夫をもち、小学校にいく娘のいる彼女は、住民の家を一戸 一戸夜たずねて説得にあたるわけにいかないため、市庁舎での昼食会にまとめて招待すると、親子代 々コペント・ガーデンに住む貧乏人達はおっかなびつくり、ろくにロもきけなかった。しかし住民の 話をきけばきくほど彼女にはその不満がもっともなように思われ、オフィスやホテル、商店街より、 ・センターを重視し、歴史的な建物を保存するよう計画を修正することをはか 住宅、公園、レジャー った。しかしこの考え方は、大口ンドン市の保守党内部および業者からみれば、再開発計画を内部か らこわす裏切り行為ということになり、彼女は庁内で孤立した。切羽つまった彼女は、住宅の割合を 多くするため、政府の環境省の介入を求めようとしたが、この案も再開発委員会で七対六で否決さ れ、彼女はプラマー市長に辞職の手紙を書いた。 「ロンドンの歴史的な遺産に対して、不必要でとり返しのつかない損害を与えることになる計画の 210
らかの意志表示をされたらどうだったであろうか。保守びいきのイギリス国民に迎合せよというので はない。人間の自然な感情の発露として、そのようなハプニングがでてきたとしたら、両陛下をみつ めるイギリスの国民感情に単なる公式訪問にとどまらない何かを加えたのではないかと思われる。 議会前広場を一回りして、官庁街のホワイトホールへかかるとます左側の横丁の奥に、首相官邸、 ダウニング街一〇番地がある。外観は寝室が三つに応接間と食堂位はありそうな建物だが、中はどう してどうして、仮に表をデモ隊がとりまいても、裏から議会へいける抜け道もある。もっともデモな ダウニン がこの横丁に入ろうとしても、最近は大通りにそってさくが置かれるようになったが グ・ストリートの由来は、この建物を建てたサー・ジョ ジ・ダウニングにちなんだもの、隣の一一 番地は大蔵大臣、一二番地は与党院内総務の官邸である。 もう一度ホワイトホールの大通りに出ると、道路の真中に立っているのは戦没者の記念碑セノタ フ、はるかにみえるネルソン提督の記念塔のあるトラファルガー広場に向かって歩き出すと、右手の 国防省の大きな白いビルをはじめ両側に各官庁がつづき、左側には近衛騎兵連なの本部がある。 ウォータールー・プリッジが一八一五年のウォータールーの戦勝の翌々年には命 ンウエスト・エンド 名されたのに比べて、同じくフランスに勝った一八〇五年のトラファルガーの海 ン戦の勝利を記念するこの広場の方は、設計がはじまったのが海戦から実に二四年後の一八二九年であ った。今はバッキンガム宮殿の構内にある王室用の馬小屋や、現在も広場に面してある聖マーチン教 会のまわりのスラム街をとりこわして、高さ六八メートルのネルソン記念塔が建てられたのは一八四 195
所がストランドに移り、また宮廷自体もヘンリー八世がホワイト・ホール宮を手に人れ、セント・ジェ ームズ宮殿を建築するにつれて、議会の使う余地が増え、一九世紀なかばの火災のあと議事堂として再 建された。しかし上院の構内にある玉座のある部屋などは、今日でも宮内庁式部長官が管理している。 さて毎日午後、傍聴希望者が列をつくっている聖スチー・フン門を人ると、すぐ左手にかっての宮殿 ー , 力ある。歴代の王や国家の功労者の柩が葬儀の前に安 の面影をとどめたウエストミンスター 置され、国民が別れを告げるところで、一八九八年にはグラドストーンの、一九六五年にはチャーチ ルの柩が置かれた。 見学者や議員への面会人などでごったがえす中央ロビーから議員ロビーへ抜ける境に、ロイドジョ ジやチャーチルの銅像がある。チャーチル・アーチと呼ばれる入口には、一九四一年のナチ・ドイツ の空襲による被害を記憶にとどめるために、爆撃で痛んだ石をそのまま使用している。一九四五年八 月一五日、議会の開会式が行なわれたとき、下院本会議場は空襲のあと再建されていなかったため、 下院議員達はこの辺に集まり、議長から日本の無条件降伏を知らされたのだった。 祖その破壊された本会議場は、五〇年復元された。議長席から向かって右側が与党、左側が野党、両 元 の側に五列の議員の長椅子が並び、座席は三四六人分、それに脇の椅子などを利用して、九〇人分、議 主員の定員六三〇人中二〇〇人は、全員が出席するとあぶれる勘定となる。立ちん坊や通路にすわり込 民 む議員も多いが、これは予算の発表や重要案件の採決が行なわれる時などで、ふだんは空席が目立 ち、中年の女性議員が、太い足を投げ出して横になったりあぐらをかきかねないしぐさもみられる。
最初の征服は一一七二年のヘンリー 二世によるダブリン占領であった。一 五から一六世紀にかけて失地の大部分 ドを回復したが一五三四年へンリ 1 八世 ラに再び征服された。その後も反乱をく イり返し、鎮圧されながら二〇世紀に入 ア 北って南のアイルランド共和国が独立後 分も反英感情が強く残ることになる。 の太平洋戦争中日本軍がシンガポール 色 灰を占領したとき大喜びをしたとか、ナ チの爆撃機は英本土の夜間爆撃にあた って中立を保ち灯火管制をしていない アイルランド共和国上空にまず達して から、目標のイギリス各都市に向かい、イギリス政府、国民を口惜しがらせたという話もある。 アイルランド情勢を複雑かっ陰惨なものにした原因として、このイギリスによる征服がもたらした 二つの要素がある。 一つはイングランドおよびスコットランドからの植民者が、特にアイルランド北部を中心に進出 グラスゴー 、を . べノレファースト アイリッシュ海リ ・ダブリン デアイルランド共和玉 ン ロ 0 128