いは、その建設で地域の生活のレベル、質はよくならなければならない、地域の環境を生かし高める ものでなければならないということである。そのためには、大都市の人口緩和をめざすという第一の 目的が十分果せなくても止むを得ないし、それは当然だという考え方である。第一号のステイプネジ で、人口は当初の計画が一四万人であったのを八万人を限度にし、その後は第二世代が世帯をもつよ うな時だけ、住宅の建築を認めるというきびしい態度をとるようになったのは、この現われである。 重点はあくまで住民のための内容の豊かな生活の実現である。 ここでは、三つのニュータウンを訪れようと思うが、その前にニュータウン建設で中心的な役割を 果している開発公社の機能だけを説明しておこう。 開発公社は、役所でも民間のディベロッパ ーでもない。 ニュータウンの建設予定地域は、いくつか の町村にまたがり、しかもそれらの自治体には都市計画をすすめる能力も人員もないために、開発に ついて独自の権限をもった公社を設立して計画を推進し、町づくりがある程度すすんだ段階で、町村 を合併して新たにできるニュータウン当局の計画および開発部門として吸収させるという仕組みとな っている。 したがって公社は、ニュータウン建設の基本計画をつくり、 環境省などと協議する一方、公聴会、 説明会を通じて、関係者や地元住民の意見をきく。政府から正式に建設許可がおりると、契約および 収用で用地を取得し、一切の工事を行なうのである。公社には理事会と計画専門家の専務理事のもと に事務局がおかれる。理事会の構成を一番新しい中部ランカシャー地区に建設予定のニュータウンに
がかりに建設がすすめられたものは少ないのではないだろうか。 イギリスのニ = ータウンの思想的な系譜をさかのばると、産業革命にもとづく労働者住宅街の悲惨 な状態、過密で不健康な生活に対する反省に至る。民間の有志によって田園都市協会が設立され、ロ ンドンの周辺にレッチワース、ウエルウイン・ガーデン・シティといった実験都市がつくられはじめ たのは、一九〇〇年前後のことであった。そして初代の会長リース卿を中心とする諮問委員会 が、ニュータウン法の制定を答申し、ロンドン北方のステイプネジを指定第一号として、ニュータウ ンが動きだしたのは戦後の一九四六年、労働党のアトリー 政権のもとであった。 それから四分の一世紀の間に、全国で三三のニュータウンが指定された。イングランドとウェール ズでは、ロンドン周辺に一一、 ハプール、マンチェスター周辺に四、 ハ 1 ミンガム周辺に二など合 わせて二三、スコットランドは、グラスゴー周辺に集中して六、ヒ / アイルランドにもベルファースト 周辺など四つのニュータウンの建設がすすんでいる。 一九七一年の国勢調査によると、これらニュータウンの各都市の人口は合わせて一六〇万人、一九 万六、〇〇〇の新しい住宅、学校四四三校、工場一二七、一三、二〇〇の店舗がつくられた。七二年ま でに投下され、または投下予定のはっきりしている資金は計一五億ポンド、一兆円をこえる。 ニュータウンの発展もあって、イギリスの五大都市の人口は、この一〇年間に次のような変化をみ ている。 しかしここで誤解があってはならないのは、ニュータウンは、わが国でいうべッドタウンではない
回前後のスビーチを行ない、二、五〇〇人から三、〇〇〇人を叙勲あるいは表彰し、二五〇人を接見す る勘定となる。また即位以来の二〇年間にイギリス国内のほとんどすべての州 ( 県 ) を訪問したことに なる。 そして、各地を訪問するたびに、つとめて民衆と接触することを心がけている。一九七二年なかば の世論調査によると、「女王はもっと民衆にとけこむべきだ」とするのが四八バーセントに対して、 「これまでの努力で十分だ」とするものが四九パーセントとわずかながら現状を是認するものが上廻 った。ただし、これを階級別にみると、中流の上の階級では六一バ ーセントが是認し、三六。 トが反対しているが、下層労働者階級となると、「もっととけこめ」が五六パ ーセント、「十分」が四 ーセントと、王室一家の精励ぶりもイギリス社会の底辺には、十分うけ入れられていない、ある いは、うけいれられにくいようだ。 第二次エリザベス時代が、いつまでつづくかは別として、即位後二〇年あまりの ニ 0 年の勤務評定 歳月と、ジョージ六世や現女王の行き方ときわめて対照的だったウインザー公 ( 工 ドワード八世 ) の死去で、この時代の中間的な評価を試みようとする試みは少なくない。 家 もし退位せずに王座を守りつづけたとすれば、エドワード改革王とでも呼ばれたかも知れない故ウ 室インザー公は、失業地帯を視察にいけば、労働大臣がはらはらするほど「何とかしなければ : : : 」と 同情を示し、王室に好意的でなかった下層階級からも理解された。宮殿内の古い慣例に従うのをいさ ぎよしとせす、仮にシンプソン夫人との恋愛事件がなくても、いずれ既成勢力との大衝突は避けられ
父は第一次世界大戦がはじまると、造船会社のビッカーズ社に徴用されたが、そのため労働組合に 入らざるを得ず、古参の組合員との閭にあつれきがあったようで、子供心にこの話を聞かされたヒー スは、組合ぎらいとなったといわれる。ただこれはややうがちすぎた話だが、大戦後父が独立して棟 りようとなったこともあって、組合に対する何らかの先人感をもつようになったのはたしかなのであ ろう。このことは後に彼が何故保守党入りをしたかという問題ともからむのであるが、父が自営の大 ェであったことや保守的なケント州の土地柄が、ヒースの道を決めたと言える。 グラマー ・スクール ( 中・高校 ) は、州の奨学金で通ったが、音楽にうちこみすぎたためかオクスフ オードやケン・フリッジの奨学生の試験は落ち、自費給費生としてオクスフォードのバリオリ・カレッ ジに入った。イギリスの首相では、アスキスとマクミランを出したカレッジである。 学生自治会の委員長をつとめ卒業後徴兵されて、第二次大戦が終ったとき、砲兵部隊の中佐待遇の 将校になっていた。 復員して公務員試験をバス、運輸省でロンドンのヒースロー国際空港の建設計画などを担当した が、四カ月後に保守党から立候補するための選挙区をさがしはじめた。 ヒースにとって幸いだったのは、ロンドン郊外のべックスレーで土地の有力者に見込まれ、候補者 になることができた点である。この選挙区は、ロンドン郊外の保守色は強いながらも保守・労働のカ がかなり伯仲したところで、選挙は苦戦が予想されたが、後にロンドンの特別区の一つに編入された ほど市内に近く、サラリ ーマン生活を送りながら、政治活動を行なうことができた ( ヒ 1 スはまもなく
っとがまんし、警笛もあまり鳴らさず、袖をすりあわさんばかりで事故を起さないのが、イギリス人 である。 議事堂前広場のラウンダバウトが混んでいなければ、少し進んでウエストミンスター寺院に寄って みよう。七世紀にサクソンの王が建てた教会あとにエドワード懺悔王によって一一世紀にたてられた この寺院は、歴代の王、女王の戴冠式の式場であり、エリザベス一世をはじめ近世までの多くの王や 歴代首相、詩人などの墓や碑があることで有名である。国賓としてイギリスを訪問する各国の元首 は、ロンドン到着の日の翌日にこの寺院の入口近くにある無名戦士の墓に花輪を捧げて記帳をしたあ と、内陣をみるのが慣例となっている。七一年秋にロンドンを訪れた天皇、皇后両陛下の場合もそう であった。 寺院の入口の方からみて、無名戦士の墓の左側におかれた記帳台のそばにロイド・ジョ ージ一兀首相 の墓がある。彼は陛下が五〇年前に皇太子としてイギリスを訪問されたときの首相であり、随行者の 話によるとチェッカーズの首相別邸でもてなしをうけたとき、陛下は「あなたは国家の柱石です。世 界の平和のためにどうか長生きをして下さい」と述べて老首相を感激させたという。無名戦士の墓へ の参拝は公式行事であり、イギリス国民は、陛下がこの無名戦士の墓に敬意を示すことで、第二次大 戦の責任間題に一つの区切りをつけようとしていただけに、この参拝の一瞬はヨーロッパ訪問の日程 の中でも、最も緊張した一瞬であったことは理解できる。 しかし、陛下が参拝のあと、さらに、五〇年前に言葉をかわした老首相の墓に敬意を示すなり、何 194
えて、あらかじめ世論工作を、しかも外国の放送局を利用して行なったことは疑いない。 第二にいわゆる王室費というもののあいまいさと、外部からはうかがい知れない王室財産の大きさ である。 王室の収人支出というものは、昔は政府の予算そのものであった。二〇〇年ほど前まで、外国に派 遣するイギリス大使や裁判官などの給与は宮廷費から支払われていた。このために王室は、農場や鉱 山などを経営し、漁業権料をとりたて、空席となっているイギリス国教会の主教の収入をとりあげ、 ビール税や郵便切手など印紙税をかけていた。 ージ三世の時代に、大部分の世襲的な収入を しかしそれでも予算の不足をきたすようになり、ジョ 国庫に帰属させる代わりに、内廷費をうけとり、個人的な性格の強い支出にあてることになった。 その金額は、ビクトリア女王の前のウィリアム四世 ( 一八三〇ー三七年 ) の頃、五一万ポンド、エドワ ード八世それに女王の父ジョージ六世の間は四一万ポンドであり、この金額は、即位のとききめられ たあと、その治世の間は変えない慣例であった。インフレの脅威もないよき時代であったのであろ ジ五世は、四 う。しかもビクトリア女王は、在世中に二〇〇万ポンドのへそくりを残し、孫のジョー 人の息子に一人一〇〇万ポンドずつをおくることができたという。 国王あるいは女王のもう一つの収人源は、世襲の不動産からの収入である。 ロンドンのリ ークやピカデリ ケンジントンなどを含む一一万ヘクタールの土地 からの収人は国庫に入るが、サンドリンガムの御用邸やバルモラル城周辺の御料地のような私的な不
た大見出しを一回だしておしまいというあっさりした反応であった。 この大幅値上がりが、賃上げと実際にどれだけ関連があるのかわからないが、いつまでも無策のま まで過ごせるわけはない。七二年秋、また物価・所得政策が始まった。 賃上げや製品の値上げに政府が介人して、凍結させたり、限度を設けたりする政策は、イギリスで は別に目新しくない。戦後初めての労働党内閣や一九六一 ー六二年の保守党マクミラン内閣の際も強 制的なものではないにせよ行なわれたし、労働党のウイルソン内閣では六五年から七〇年の総選挙の 敗北までつづいた。 保守党内閣による物価・所得政策の特徴は、就任当時、所得政策は〃政治哲学〃として行なわない と宣言し、労使の賃金交渉や物価、所得関係の事情調査やデータの整備に大きな成果をあげていた物 価・所得委員会を解散させたヒース首相が、「国運をかけた政策」と称して実施したこと、ウイルソ ンの所得政策には、組合出身のカズンズ技術相が抗議して辞職したのに、ヒ】スの根本的な政策転換 に閣内から辞職者がでなかったことである。 賃金引き上げによるコスト高が物価引き上げを招き、また賃上げにはねかえるという悪循環をたち きり、インフレを押えようというヒース版の物価・所得政策は、第一段階として七二年一一月から五 カ月間の賃金・物価凍結が行なわれ、つづいて賃金引き上げをおよそ七パーセント以内、配当を五パ ーセント以内に押え、生産者価格の上昇は原料の値上がりや基準以内の賃上げなどにもとづく不可避 的なコスト上昇を除いて認めないなどの第二段階に入った。別々になってはいるが、価格委員会と賃 1 / 8
Ⅶ環境を守る 1961 年 1971 年 単位万人 799 738 101 1 11 川 6 ことである。大都市の過密化を緩和する ことはねらっているが、大都市から移動 した人口の多数が、日中大都市に通勤す るものではなく、大多数の住民はそのニ ュータウンまたはその周辺に働き口があ ・ ( プール少るように、地域の開発をすすめている。 ロ このためにランコーンには、雇用省 人 の ( 労働省 ) のコンピューター・センター 市 グラスゴー都ステイプネジには公害防止関係の二つの 大 巨大な研究所、プラックネルには気象 ス 庁、スコットランドのイースト・キルプ ギ ーミンガムイライドには国税庁のコンビューター・セ ンターといった具合いに政府機関の分散 も行なわれ、民間企業の誘致には外国資 本への働きかけも行なわれて、日本の企 業が進出しているものもある。 ニュータウンのもう一つの重要なねら マンチェスター ロンドン 235
Ⅶ環境を守る ついてみると、元国会議員二人、地元町村の議員二人、会社重役、ジャーナリスト、サッカー・マネ ージャー、大学教授、銀行家各一人となっている。 ステイプネジ ( 七二年の人口七万人 ) 、ここは第二次大戦前までは、ロンドンからエジンバラにいく街 道沿いの人口五、〇〇〇人の町であ った。ロンドンまで五〇キロ、汽車 0 ロンドン で四〇分の道のりである。 ロ ス .00 ン先にのべたように、一九四六年ニ 0 0 ム ウ タュータウンの第一号として指定さ 0 ミルトンケインズ ン ュれ、五一年から工事を開始、五六年 のに町の中央のショッビング・センタ 辺 周ーを中心とするところが完成、女王 ン ドも出席して、エリザベス・タウンセ ン ロンターと名付けられた。 ショッビング・センターには一五 〇軒の店があるが、イギリスで初め 7 ての車の乗り入れができない地区と ロ 0 0
実現しない御時世であるという点で、伯爵夫人の直観の方が正しかったことを示している。 ロンドンの盛り場の中心として、またイギリスらしからぬけばけばしいネオンの広 ェロスはどこへ 告の氾濫で知られるビカデリー ・サーカスも、一九世紀はじめまで第一ー ント・サーカス、また今のオクスフォード・サーカスは第二リー ジェント・サーカスと呼ばれてい ジェン ジェント・ストリートが、ンヨー・ た。この二つのサーカスはリー シ三世の摂政 ( プリンス・ ウスとリージェント・パ ト ) の住んでいたカールトン・ハ ークを結ぶ道路として計画されたとき、二 つの節目としてつくられ、この摂政が即位してジョ ージ四世となったあと、一六世紀のスチュアート 王朝時代に流行したひだえりにちなんでビカデリー・ サーカスと命名されたのである。広場の中央に あるエロスの像は、慈善運動につくした七代目のシャフッペリー伯爵を記念して一八九三年にたてら れた。サーカスの名の通り円形の広場で、南側からは駅馬車も発着していたが、エロスの像に先立っ て南側にクライティアリアン劇場がたてられたとき、丸味が大分とれてしまった。 この劇場は、実質的に地下にあり、今の消防の規定ではそのような設計では舞台や客席をつくるこ とはできない。このめすらしい劇場を含めてこのあたりを取りこわして道路を広げ、建物を高層化 し、歩道と車道も分離した新しいビカデリー・ サーカスをつくろうという計画が一九六八年頃から表 面化した。プラマー市長の選挙区である地元ウエストミンスター区の計画である。 この青写真をみると、車や二階バスの通る車道は広げられて今と同じ地面にあるが、歩道は高くな って広場を見おろす回廊の二階にあり、サーカスの中央から東側に人工の広場が歩道につながるよう 212