フランス - みる会図書館


検索対象: イギリス 伝統社会の断面
25件見つかりました。

1. イギリス 伝統社会の断面

両国の中には、 O <O やエール・フランスのコンコレド : フカ大西洋を現実に横断するようになり、 例えばバン・アメリカンの一等乗客の半分がコンコルドに移るようになれば、各社は再考するだろう という強気の見方もある。 しかしその収拾方法はともかく、両国にとって、コンコルド計画の教訓はすでに明らかである。イ ギリスやフランスといった中程度の大国が、国家の威信をかけて巨大技術の開発を行なうには、費用 がかかりすぎ、また巨大技術の開発にともなう複雑な問題をコントロールにするには、両国政府は英 知が足りなかった。お互いにもたれかかる無責任体制であったということである。 フランスの技師マシューがナポレオンに、二頭立ての馬車が通れる石だたみの海 英仏海底トンネル 底トンネルを英仏海峡に掘ることを献策したのは一八〇二年のことである。もし この案あるいはスエズ運河の成功後ヨーロッパに高まった建設ムードに乗って海底トンネルができて いれば、イギリスは一九世紀のうちに島国でなくなっていたわけだが、実際は一八七二年に設立され た海峡トンネル会社がイギリス側、フランス側双方から二キロあまりの試掘を行なっただけで、イギ リス政府は工事中止命令を出した。 障害は資金面と同時にトンネルを通って攻められるのではないかという軍事的な不安、イギリス上 層部に根強くあったフランスに対する不信感であった。タイムズ紙がこの反対運動の先頭に立ってい た。このため計画が本格化したのは第二次世界大戦後の一九五七年、海峡トンネル研究グループが発 足してからである。 108

2. イギリス 伝統社会の断面

コンコルドによる騒育は、試作機の〇〇二号機の場合、離着陸時一一四から一一五デシベルで、ジ ャンボに比べやかましく、正式に就航するものには消音機をつけてジャンボ並みとすることになって 、る。しかしコンコレド : ノカ従来の旅客機の水準をのりこえた技術を売物とするならば、騒音の基準を すでに空港周辺の住民から苦情の多い既成のジャンボ、七〇七、ー八などと同じ値を求めている のは、そもそも最初から技術的なきびしさが足りなかったと批判されても仕方がないであろう。 コンコルド計画が決まったとき、世界の一六の航空会社が合せて七四機を購入する仮契約を行なっ た。数が多いのは、 O <<O 、エール・フランス、パン・アメリカンの八機ずつ、つぎに、、ア メリカン航空、イースターン航空、ユナイテッド航空の六機ずつ、それにカンタス ( オ】ストラリア ) ( ェア・カナダ、ルフトハンザ ( 西ドイツ ) の四機、の三機などがつづいていた。 このセールスのため、フランス側は七一年にポンビドー大統領が早くも試乗し、暮れのニクソン大 統領との大西洋アゾレス諸島での会談にはコンコルドで乗り込んだ。イギリス側はややおくれながら 七二年一月、女王の夫君エジンバラ公、五月マ 1 ガレット王女が試乗したが、ヒース首相がのったの は女王の試乗に先立っ五月中旬のことだった。 しかしかんじんの各社の仮契約を本契約に切り替える交渉は、両国政府の息のかかった *O<O 、 エール・フランスについてすら難航し、結局運航費用で損失が出た場合政府が補助することで、七二 年なかばようやく本契約にこぎつけた。 CQO<o は五機、エール・フランスは四機と、いずれも当初 の予定八機を下廻った。 0 o は、七五年四月から、ロンドンⅡニューヨーク間一日二便、ロンド 106

3. イギリス 伝統社会の断面

リュセルに本部のある共同体の行政費にあてられる。その大部分は農産物価格を支持するため最終的 にはフランスなどの農民のふところに人っていくもので、フランスのポンピドー大統領と西ドイツの ・フラント首相の間でこの制度を長期的につづけることがきまり、西ドイツは、この負担をできるだけ 減らすためイギリスの加盟を急いだといういわくつきのもの、いわばイギリスの持参金といった性格 のものである。 これらの代償の見返りとして、拡大 QO 内の工業製品についての域内関税は七七年四月までにゼロ となることがとりきめられた。域内では輸出し易く、輸人品も安くなるというわけだが、七二年暮れ ビーター ・ウォーカー通産相が「イギリス産業界は、加人で開かれた市場への進出に熱意をみせ ていないとしかったことからみて、フランス製やイタリア製、西ドイツ製の商品が引きつづきどん どん人ってくることはあっても、イギリス製品が西ヨーロッパ市場に氾濫する可能性は少なくとも当 分はないとみるべきであろう。 大体イギリスの経営者も労働組合も、生産というものは、基本的に注文をうけて行なうもので、一 年に二〇パーセントとか三〇パーセントとか増やすものではないと信じている。この点は O に加人 しようがしまいが変ることではない。とすると「それつ O 」と大陸に乗り込めば、これまでの得意 先を犠牲にすることになりかねないわけで、「まずはじっくり市場調査でもして、ゆっくりいこう」と いうのが彼らの本音で、通産相の方が空廻りしていることになる。この反面わが国のように高度成長 で日本列島の形が変ってしまうということもないのである。

4. イギリス 伝統社会の断面

2 ヨーロツ。ハのかけ橋 コンコルドは空を飛ぶ超音速旅客機で、地面を結ぶ橋ではないし、イギリスとヨ コンコルドの夢 ーロッパ各地を結ぶ旅客機でもない。拡大@O の主要国であるフランスとイギリス が個別に結んだ協定による共同プロジェクトである。 しかしイギリスの加盟申請がなかったら、この計画は現在のような推移はたどらなかったかも 知れない。この点でコンコルドは、あの自い巨体に、環境破壊の危惧だけでなく、 QO 加盟にからむ どろどろした英仏関係をかかえていたのであった。 一九六二年に、コンコルド開発計画が明らかになったとき、その将来はまことにバラ色に包まれて いた。大西洋をマッハ二・二で三時誾二〇分で横断、ロンドンⅡ東京間が八時間、開発費用はわずか 一億五、〇〇〇万ポンドないし一億七、〇〇〇万ポンド、五年後の六七年に就航し、九〇年までに四〇 〇機売れれば費用は回収でき、両国はそれぞれ二〇億ポンドずつの外貨収入があるだろうという御託 宣であった。 この計画がフランスからもち込まれたとき、当時のマクミラン首相は、構想そのものが無難にみえ たのと、第一回の加盟申請を出したはかりで、すべてはドゴール大統領の決断にかかっていた折 102

5. イギリス 伝統社会の断面

これまでの計画では、トンネルはイギリス側のフォークス トン郊外とフランス側のカレー郊外を結び、全長五〇キロあ まり、海底部分三〇キロあまり、建設費は七二年の価格で三 億七、〇〇〇万ポンド、キロあたりの建設費はロンドンの地 下鉄工事とほば同じと見積られている。トンネル通過時間は 四〇分あまりで、これまで連絡船を使うと七時間二〇分のロ ンドンⅡバリ間が、三時間短縮される。なおこのトンネル は、複線の鉄道トンネルで自動車も貨車で運ぶが、自動車が 走れる道路トンネルをつくる計画は、今後内部燃焼エンジン が発達してもない。観光客の増加と自動車の発達で、八〇年頃完成すれば、年間三五〇万人前後の人 と二二〇万台前後の自動車、五五〇万トン前後の貨物を運ぶことになるとみられている。トンネルの 工事自体は、ドーバ ーの白いがけにもみられる石灰岩を掘りすすむため、技術的にはそうむずかしい ものではない。 トンネルが完成した場合、イギリスとフランスの間、さらにはヨーロッパにどのような変化がもた らされるであろうか。海をへだてた偏見が減り、心理的な結びつきが拡がることはたしかであり、こ の傾向は、観光客の往来の増加で促進されよう。 観光客が増えるのは、トンネルが開通すればヨーロッパの観光旅行に、鉄道を活用する転機がやっ レ イ ( ハカ スい " 3 ストン 1 10

6. イギリス 伝統社会の断面

イギリスの QO 加盟で QO は大きくなった。反面はっきりしたのは、はこれで経済共同体とし ての安定期に入ろうとしているので、オランダなどの主張に反して、政治統合はおくれるということ である。これは国家の独自性をあくまで守り、プリ = ッセルにあるæo 委員会の権限を押さえようと するフランスのポンビドー大統領と、æo に入ることでイギリスの主権を喪失することを恐れるヒー ス首相の握手で、この拡大@0 が実現することになった事情による。 フランスのストラスプールにあるヨーロッパ議会を、現在のように各国議会の代表によるものでは なく、将来は普通選挙で選んで、 @0 の運営改善にあたらせよう、できれば数年以内に各国の国境を こえた政党をつくって比例代表制の議会をつくろう、という考え方が、ヨーロッパ主義者の間で熱っ ほく語られている。民主主義的な議会制度をつくりあげるという形で人類の文化に貢献したと自負し ているイギリスとして、当然推進しなければならないところだが、慎重論もある。それは特に言葉の 問題である。演説は同時通訳できるが、心をかよわせあう討論のニュアンスは同時通訳できない。近 くなったとはいえ、本当は相変らずお互い違う国なのだ。イギリスで小学校の三分の一がフランス語 を教えはじめたような段階で連邦などっくる可能性はまだない。国家連合がやっとのところだろうと いうわけである。 経済面その他では、七三年春に通貨協力基金、地域開発基金を発足させ、夏には共通の環境保護計 画、暮れに雇用、消費者保護など共通の社会政策をまとめ、七四年から経済通貨同盟が第二段階に入 り、八〇年に完成させるというプログラムがある。 20

7. イギリス 伝統社会の断面

加していったのである。ロンドンの人口はこの頃には二二〇万人あまりとなっていた。 それにしても、ロンドンの少くとも中心部の町並から、パリにみられるような華麗で壮大な都市美 をつくりあげようとする気がいが感じられないのは何故だろうか。イギリスがフランスのような専制 国家でなく、王権が常に制限されていたことも一つの理由だろうし、フランス人に比べて造型能力が ややおとることもあろう。何よりも首都の建設にあたって、実務的に必要に応じてつくり足していっ たことが、肩をいからせない、地味な町づくりという結果をもたらしたものと思われる。 ロンドンの人口は、第二次大戦がはじまった一九三九年の八五〇万人を頂点として下がりはじめ た。もっとも市の中心部、いわば旧市内の人口は二〇世紀のはじめからやや減りはじめ、一九三〇年 頃から急激に減少した。一九六一年の調査では八〇〇万人、七一年には七三八万人、八一年には七一 〇万ないし七三〇万人になるものと推定されている。 現代の変化の中で発展してきたロンドンの町の特色をあげれば、第一に金融・経済の中心シティ、 政治、行政の中心ウエストミンスター、娯楽や買物の町ウ , スト・エンドなど中心部の各地区がそれ ぞれ特色を生かして発展していること、中心部には公園や広場、郊外では庭をたつぶりとって、緑と ン 空間を確保したこと、さらに二〇世紀はじめには工場と住宅を切りはなす思想が生まれ、第二次大戦 ン前に周辺にグリ ーン・ベルトをつくって、ロンドンが郊外の自然をのみこんてしまわないという安心 感をもたらしたことなどがある。 189

8. イギリス 伝統社会の断面

けられていないため、キャンセルすると、損害賠償を請求される恐れがあり、その金額は二億ポンド と見積られた。七二年末までにイギリス政府が支出を約東した約五億ポンドに比べれは、この金額は 安いものであるが、当時としては、これを支払うことは政治的に正当化しにくいようにみえた。しか もウイルソンは、イギリスの高度の技術の活用を売物に選挙に勝ったという事情、また多少の困難は あっても ;AO<O ( イギリス海外航空 ) とエール・フランスが就航させれば、各国の航空会社になだれ現 象が起きて予定の機数は消化できるだろうという楽観的、かっ今になってみれば無責任な予想に押し 流されてしまった。 開発費用の予定は、七〇年までに八億二、五〇〇万ポンドと最初の五倍に達した。このうち四〇パ ーセントは、インフレによるものだったが、残りは設計の変更、予想以上の開発のむすかしさによる ものだった。この間にライバルだったアメリカの超音速旅客機ボーイング二七〇七型機の開発は中止 へと動き、亜音速のジャンボ・ジェット機が登場した。開発開始当時は想像できなかった環境、公害 問題についての世論が世界的に高まってきた。 一九六九年三月、フランス側の〇〇一号機が、つづいて四月、イギリス側の〇〇二号機が処女飛行 に成功、〇〇二号機は、七〇年一一月マッハ一一をこえる飛行を行なった。しかし、開発は予定より数 年おくれていた。 労働党政権がつづいていたら、英仏協定成立後一〇年たち、開発生産から本格的な生産に入る七一 年が打ちきりの決断を下す第二の機会であった。しかし代ったヒース首相は、「打ちきるべし」とい 10 イ

9. イギリス 伝統社会の断面

果を引用すると、「女王の側近は、特定の階級出身者で固められすぎているのではないか」という質 問を、各階級とも肯定し、平均五八パーセントが「ずれている」と答えている。 七二年五月に行なわれた女王夫妻のフランス訪問は、ドゴール将軍死後の新しい英仏関係を象徴す るものとして宣伝されたが、七三年春の天皇訪米をめぐるさわぎと同じように、ß0 加盟反対派、特 に野党からは、女王のイプニング・ドレスを借りて @O 加盟の援護射撃をするものであり、女王は保 守党内閣のあやつり人形となっていると批判され政治問題化した。 ところがこれだけの批判を浴び、何としてでも成功させなければならないフランス訪問の演出ぶり がまた批判をうけた。例えばパリ市役所を訪問したとき、市役所前の広場では大勢の児童が両国の国 旗をもって歓迎していたが、女王は子供達についに声をかけなかった。女王と子供達という最も印象 的なシーンが何故外交儀礼のとりこになってしまったのか。ノルマン王朝の発祥の地であるノルマン ディーのルアノこ 、冫いったとき、ジャンヌダークの火あぶりの刑が行なわれた広場を通っても、車を止 めることをせず走りすぎただけだった。何故ここで止まり、英仏の歴史的な関係に関心をよびおこす ことをしなかったのか。公式訪問の成果は、国民にはテレビと写真で伝えられるのに、想像力の働か 家ない側近どもがせつかくの機会をつぶしてしまったという批判である。 室女王の成長とともに、とにかく大きな失点はなしにすんできたバッキンガム官僚も、ここで、いっ 王 までもいい気持ではいられないことを思い知らされた。王室のいっそうのイメージ・チェンジが必要 な中で、どのような役割を果たすか頭の痛いところであろう。

10. イギリス 伝統社会の断面

リのウインザー公病気見舞。 一五日 ( 月 ) ー二〇日 ( 土 ) 夫妻でフランス公式訪問。一七日、 ・フラワー ・ショー出席。オリンビック資金募集観劇。 二一一日 ( 月 ) チェルシー 二三日 ( 火 ) 海軍司令官ら三人接見。首相報告。 二四日 ( 水 ) バングラデシュ大使ら四人接見。枢密院会議。オーストラリア、ニュー・サウスウェールズ ・ハウス開館パーティ。 二五日 ( 木 ) マラウィ大使ら三人接見。 二六日 ( 金 ) バークシャー地方訪問。中学校、動物病理研究所視察。 ( 二八日、ウインザー公死去 ) 二九日 ( 月 ) 接見、訪間などなし。 三〇日 ( 火 ) ロンドン郊外切手印刷工場視察。 三一日 ( 水 ) 駐チリ大使ら三人接見。 ( ウインザー公の遺体イギリスに帰る ) 一方この一カ月間に、夫君フィリップ殿下が単独でこなした予定は、西ドイツ駐留軍の訪問、ニ = ータウンの視察など二三件、アン王女は身体障害者馬術大会、児童施設訪問など一三件、エリザベス 皇太后は、ロンドン大学博士号授与式、フランス・レジスタンス運動関係者レセプレョン出席など九 件。マーガレット王女は、下水処理場完成式など一八件。そのほか女王の従兄弟であるケント公一一 件、グロスター公ウィリアム殿下 ( 七二年八月飛行機事故で死亡 ) 四件などであった。 このような結果、女王は、一年間に四〇回ないし五〇回午さん会あるいは晩さん会に出席し、四〇 6