役人を辞め、選挙運動をつづける条件で銀行づとめをした ) 。 一九五〇年の選挙で、一三三票の差で、かろうじて初当選した。この五〇年の選挙から保守党は戦 後の回復期に入り、保守党調査部出身のパウエル ( 元保健相、右派の指導者 ) 、マクラウド ( 七〇年ヒース 内閣の蔵相就任直後に死亡 ) 、それにモードリング ( 前内相、副党首 ) らの新人が登場した。ヒースの下院 ッパの鉄、石 での処女演説は、のちに@(-) 加盟を実現した首相となった人にふさわしく、「西ョ 1 ロ 炭の共同管理についてのシューマン計画との調整をはかり、ヨーロッパを発展させよ」というもので あった。 ヒースが保守党内で次第に重きをなした一つの原因は、一貫して国会対策の道を歩んだことであ 深夜まで議事堂に釘づけとなるこの仕事は、選挙区のてこ人れその他からいってつらいものだった が、ヒースは院内副総務を六年間、イーデン、マクミラン両首相の下で院内総務を四年っとめた結 果、党首脳と近くなる一方、若年議員の間にヒース親衛隊をつくるのに役立った。 祖またヒースは、マクミランかバトラーかという保守党内の二つの潮流では、大学の先輩のマクミラ のンを選んだ。マクミラン首相の下で、 @0 問題担当相として第一回の加盟交渉をすすめ、ドゴール大 統領とわたり合 0 た。 民 マクミランが引退したあとの後継者に、ヒューム伯を支持し、六四年の総選挙で野に下ってからは 「影の内閣」の蔵相となった。この頃ヒースの下で、ウイルソン内閣の予算案を追求したピーター・
けのものであった。これに対して陛下の答辞のお言葉のテキストの方は、あらかじめ日本で印刷して きたと思われるものだった。 「過去において日英両国の関係が常に平和と友好であったとは申せません」と太平洋戦争にふれた くだりが、女王自身の発意によるものかどうかはわからないが、少なくとも女王が前の晩までこのよ うな表現を使うかどうか検討していたことは明らかである。陛下が女王のこの言葉に直接こたえなか ったことがあとで論議されたが、こたえるべきであったかどうかはともかく、あいさつ一つについて も、両国の王室、皇室および宮内当局の姿勢の違いがあるように思われる。 さて、女王の主な権限としては、議会の召集、解散、法律の裁可、枢密院の主宰、恩赦、叙勲など があるが、憲政上最も重要なのは首相の任命であろう。普通は、総選挙で過半数をとった保守、労働 どちらかの政党の党首を自動的に任命していればよいのであるが、保守、労働、自由の三党がてい立 して多数党がなくなるような場合、あるいは多数党があっても、明白な指導者がいないような場合、 誰を選任するかは女王の役目となる。 一九五七年に保守党のイーデンが辞職してマクミランが後を襲った場合と、一九六三年にマクミラ ンが引退してヒューム伯が浮かび上った場合の二つについて、ややこれに近い状態があったが、保守 党内の大勢が最終的に両後継者にまとまったため、女王の選択が問題となることにはならなかった。 しかし、小党が分立して政策協定がまとまらなかったり、多数党が事実上分裂するような事態が万一 生じた場合、イギリス国民にとって大きな問題であることはもちろんのことだが、女王がいかに収拾
Ⅱ民主主義の元祖 一九五一年に保守党が返り咲き、チャーチルが組閣を終わったとき、側近の一人が、「首相、・ cn ・モリソンのことを忘れていましたが、彼をどうするのですか」とたずねた。チャーチルはとっさ に「議長はどうかね。彼は向いているよ」と答えたという。 モリソンを議長にしたいというチャーチルの要請に対して、アトリーは、特に異議は唱えなかった が、労働党内はおさまらなかった。これはプラウンの下で副議長を長くしていたミルナー議員が、議 長昇格を心待ちにして、閣僚の椅子まで断わっていたためで、アトリーは労働党の下部を説得するこ とができず、結局投票によって争い、モリソンが当選した。閣僚の経験者は、行政に甘くなるという ので、議長にしない慣例があったが、モリソンの議長就任はこれを百年ぶりに破るものであった。 一九五九年にモリソンが引退したあと、マクミラン首相は、野党の労働党から議長を出させること を考えて、ソスカイス議員はどうかと内々労働党のゲイッケル党首に相談した。しかし労働党には、 別の有力候補があり、またマクミラン首相の推したソスカイス議員は、首相とオクスフォード大学の 同じカレッジの出身であるという、その意図を勘ぐられるような背景もあって、この話は流れ、保守 党は・フラウン元議長の娘むこのフォスター議員を議長にした。 フォスター議長が一九六五年に亡くなったとき、当時の労働党内閣は、議会での議席差が四議席し かなかったため、ウイルソン首相は、できれば保守党から議長を出してもらいたい意向だったが、保 守党のヒース党首は、労働党のキング副議長の昇格を求めたため、ウイルソンは止むなくこれを受け 入れ、議席差は三議席となってしまった。
でもあり、直ちに協定を結んだのであったっ開発費用は両国の割り勘、エンジン開発の三分の二と機 体の開発四〇パーセントをイギリス側が担当することになった。イギリス側にいわせると、コンコル ドという愛称は、 ( イギリス航空機製造会社 ) の重役の子供の思いっきによって、つけられたと しかし、ドゴール大統領は、マクミラン首相の期待に反して、イギリスの #-Ä O 加盟に拒否権を行使 し、マクミランが計画にふみきった理由の一つは消えてしまった。 しかも六二年の協定締結に先立って、実はコンコルドの行く手を大きく左右する予言がスウェーデ ーグ博士から行なわれていた。それは超音速飛行で生じる衝撃波の被害の ンの航空専門家、ルンドバ ため、内陸部を超音速で飛ぶのはむずかしく、コンコルドの航路は限られたものになろうという予測 であった。販売予定機数はこの予測をとりいれて、六四年までにいつのまにか四〇〇機から二〇〇機 王に減らされ、開発費用は二億二、五〇〇万ポンドに上っていた。保守党内閣の内部では早くも、「キャ ス っンセルすべし」という声がではじめた。 イ この点で一九六四年の労働党内閣の誕生は、コンコルドに見切りをつける第一のそして最も適切な 合 機会だったはずである。閣内の主要閣僚は計画放棄を主張し、フランス側との折衝に入った。フラン ス側も、当時のポンビドー首相をはじめ外相、蔵相らは、イギリス側の申入れを渡りに舟とひそかに 歓迎していたといわれる。しかしドゴール大統領は首をたてにふらなかった。 Ⅲ イギリス側に残された道は、計画の一方的破棄しかなかった。ところが英仏協定には免責条項が設 103
2 ヨーロツ。ハのかけ橋 コンコルドは空を飛ぶ超音速旅客機で、地面を結ぶ橋ではないし、イギリスとヨ コンコルドの夢 ーロッパ各地を結ぶ旅客機でもない。拡大@O の主要国であるフランスとイギリス が個別に結んだ協定による共同プロジェクトである。 しかしイギリスの加盟申請がなかったら、この計画は現在のような推移はたどらなかったかも 知れない。この点でコンコルドは、あの自い巨体に、環境破壊の危惧だけでなく、 QO 加盟にからむ どろどろした英仏関係をかかえていたのであった。 一九六二年に、コンコルド開発計画が明らかになったとき、その将来はまことにバラ色に包まれて いた。大西洋をマッハ二・二で三時誾二〇分で横断、ロンドンⅡ東京間が八時間、開発費用はわずか 一億五、〇〇〇万ポンドないし一億七、〇〇〇万ポンド、五年後の六七年に就航し、九〇年までに四〇 〇機売れれば費用は回収でき、両国はそれぞれ二〇億ポンドずつの外貨収入があるだろうという御託 宣であった。 この計画がフランスからもち込まれたとき、当時のマクミラン首相は、構想そのものが無難にみえ たのと、第一回の加盟申請を出したはかりで、すべてはドゴール大統領の決断にかかっていた折 102
父は第一次世界大戦がはじまると、造船会社のビッカーズ社に徴用されたが、そのため労働組合に 入らざるを得ず、古参の組合員との閭にあつれきがあったようで、子供心にこの話を聞かされたヒー スは、組合ぎらいとなったといわれる。ただこれはややうがちすぎた話だが、大戦後父が独立して棟 りようとなったこともあって、組合に対する何らかの先人感をもつようになったのはたしかなのであ ろう。このことは後に彼が何故保守党入りをしたかという問題ともからむのであるが、父が自営の大 ェであったことや保守的なケント州の土地柄が、ヒースの道を決めたと言える。 グラマー ・スクール ( 中・高校 ) は、州の奨学金で通ったが、音楽にうちこみすぎたためかオクスフ オードやケン・フリッジの奨学生の試験は落ち、自費給費生としてオクスフォードのバリオリ・カレッ ジに入った。イギリスの首相では、アスキスとマクミランを出したカレッジである。 学生自治会の委員長をつとめ卒業後徴兵されて、第二次大戦が終ったとき、砲兵部隊の中佐待遇の 将校になっていた。 復員して公務員試験をバス、運輸省でロンドンのヒースロー国際空港の建設計画などを担当した が、四カ月後に保守党から立候補するための選挙区をさがしはじめた。 ヒースにとって幸いだったのは、ロンドン郊外のべックスレーで土地の有力者に見込まれ、候補者 になることができた点である。この選挙区は、ロンドン郊外の保守色は強いながらも保守・労働のカ がかなり伯仲したところで、選挙は苦戦が予想されたが、後にロンドンの特別区の一つに編入された ほど市内に近く、サラリ ーマン生活を送りながら、政治活動を行なうことができた ( ヒ 1 スはまもなく
た大見出しを一回だしておしまいというあっさりした反応であった。 この大幅値上がりが、賃上げと実際にどれだけ関連があるのかわからないが、いつまでも無策のま まで過ごせるわけはない。七二年秋、また物価・所得政策が始まった。 賃上げや製品の値上げに政府が介人して、凍結させたり、限度を設けたりする政策は、イギリスで は別に目新しくない。戦後初めての労働党内閣や一九六一 ー六二年の保守党マクミラン内閣の際も強 制的なものではないにせよ行なわれたし、労働党のウイルソン内閣では六五年から七〇年の総選挙の 敗北までつづいた。 保守党内閣による物価・所得政策の特徴は、就任当時、所得政策は〃政治哲学〃として行なわない と宣言し、労使の賃金交渉や物価、所得関係の事情調査やデータの整備に大きな成果をあげていた物 価・所得委員会を解散させたヒース首相が、「国運をかけた政策」と称して実施したこと、ウイルソ ンの所得政策には、組合出身のカズンズ技術相が抗議して辞職したのに、ヒ】スの根本的な政策転換 に閣内から辞職者がでなかったことである。 賃金引き上げによるコスト高が物価引き上げを招き、また賃上げにはねかえるという悪循環をたち きり、インフレを押えようというヒース版の物価・所得政策は、第一段階として七二年一一月から五 カ月間の賃金・物価凍結が行なわれ、つづいて賃金引き上げをおよそ七パーセント以内、配当を五パ ーセント以内に押え、生産者価格の上昇は原料の値上がりや基準以内の賃上げなどにもとづく不可避 的なコスト上昇を除いて認めないなどの第二段階に入った。別々になってはいるが、価格委員会と賃 1 / 8