二大政党 - みる会図書館


検索対象: イギリス 伝統社会の断面
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して、彼を落選させるため、補欠選挙の日取りをおくらせる戦術をとった。補欠選挙は、与党と野党 の間で了解がっかなければ実施できない慣例を利用したのである。 投票は七三年三月に行なわれた。タ バーン氏は全得票の五八パーセントを獲得、労働党の公認候補 を一万三、〇〇〇票引きはなして選出された。得票は二万二、〇〇〇票で、七〇年の総選挙のときより 二、〇〇〇票多く、保守党票も九、〇〇〇票減ってかなりの部分が彼に投じられたことを示していた。 補欠選挙では大勝したが、次の総選挙、あるいは次の次の総選挙で、タバーン議員が引きつづき労 働党候補に勝てるかどうかはわからない。また補欠選挙にかけた勇気と意気込みで、労働党内部の改 革運動をすすめたらどうだったのかという疑問も残る。しかしこのタ バーン事件に対する選挙民の反 応は、代議士についての選挙民のイメージがどのようなものであるか、また代議士と選挙民の間にあ る政党の存在にどれだけ幻滅を感じているかを示しているといえる。 イギリス国民が、世論調査で「もし今日総選挙が行なわれるとしたら、どの政党 ニ大政党のすき間 に投票しますか」ときかれると、保守、労働両党はそれぞれ四〇パーセント近く の支持率を獲得し、第三党の自由党が七、八バーセントを獲得する反応を示す。自由党の支持率が増 えている傾向はあるが、二大政党は、国民の間にしつかり根をおろしているようにみえる。しかし国 民の半分は、二大政党間に大きな違いはないと考えており、現在の二大政党政治は、うまく機能して いないと考えている。特に二大政党の働きについては、七二年夏の調査によると保守党支持者の四九 ーセント、労働党支持者の五七パーセントがうまく働いていないと考えている。

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また選挙でいずれかの党に投票するものの、特定の政党を継続して支持するかどうかという点にな ると、同じ調査で保守党支持者が一一六パ ーセント、労働党支持者が二七パーセント、自由党支持者が 四パーセントで実に三九パーセントは特定の支持政党はないとしている。この四割近い層が、選挙の 勝敗の鍵を握る浮動票の層であると同時に、小選挙区制下の二大政党で、選挙に際して時には心なら ずも保守、労働いずれかの党の支持者にくみこまれている層でもある。 イギリスの政党政治は、一七世紀からはじまり、保守党と自由党という保守系政党同士の争いが、 一九二〇年代後半から保守党と労働党の対立となった。しかし第三党の自由党は、議席の数はともか 、政府の公式行事あるいは毎年秋の定期大会のテレビ中継、さらにラジオ、テレビの政党の時間な どについては、二大政党並みの取扱いをうけている。 総選挙で過半数を獲得した方が内閣を組織し、野党第一党は「女王陛下の反対党」と呼ばれて、党 首のもとに全議員の投票による「影の内閣」をつくり、下院での討議では各閣僚の発言に「影の内 閣」の「担当相」が対抗し、政府が統治し、決定する権利を認める一方で、これを批判し、建設的な 意見をとり人れることを要求する、というのがイギリス流二大政党政治の仕組みである。 元 のそれでは国民の多くが、何故この制度がうまく機能していないと考えるのだろうか。またそれぞれ 義 主の政党の固い支持者が意外に少ないのだろうか。 民 一つの理由は、イギリスの小選挙区制度が選挙民の意志を多数党に有利に、あるいは少数党に不利 に集約する動きをするためであろう。例えば、七〇年の選挙で勝った保守党は、得票率は四六パ

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た第三党ができた場合の有権者の反応をさぐる調査を行なった。 それによると、自由党の支持率はそのとき一〇。ハ 1 セントだが、労働党のジェンキンズ派など穏健 グループと自由党が一諸になると支持率は三五パーセントとなり、保守党支持者の二〇バーセントと 労働党支持者の四四パーセントがこの党を支持する結果となった。また保守党の進歩派グループと自 由党が一諸になった場合は、支持率は四〇バーセント、保守党支持者の五五パーセントと労働党支持 者の二五パーセントが移動する結果となった。 この結果からタイムズ紙は、二大政党ともお粗末な状態にある以上、中道第三党がつくられれば、 ポーナスを与えてもよいのではないか、そのような政党が政権に近づく土壌は十分存在すると結論づ けた。 しかし、保守党が金持の党、労働党が組合の党という色彩はぬぐえないとしても、小選挙区制のも とで、歴史のある両政党を割って本格的な第三党をつくることはなかなか困難であろう。タイムズの 調査は、むしろショック療法で両党の穏健派の党内での立場を強めさせようとする援護射撃とうけと 祖るべきであり、自由党は、次の総選挙で議席を多少増やすとしても、保守労働両政党に対抗する政党 のとなるには自力ではい上がる以外になく、二大政党はなおつづくとみなければならない。唯一の興味 主は、自由党に過大な期待はかけられないにしても、二〇ー三〇の議席を確保して、保守・労働両党の 民間でキャスチング・ポートをにぎる時がくるかどうかということである。

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会とテレビ 2 二大政党政治 保守党首相への道ヒースの変身ウイルソンのいばらの道造反 議員二大政党のすき間 Ⅲヨーロツ。ハ連合イギリス王国・ 拡大@0 加入 三度目の正直もよう眺め変化の実態の将来 2 ヨーロッパのかけ橋 2 コンコルドの夢英仏海底トンネル っ一 3 英連邦の前途 くい違い脱連邦と 0 Ⅳ北アイルランド残酷物語 受難の歴史 ー・ . ッ々 , ・ルニ 受難の日誌サミュエル・デヴェニー ー・デービッド . ノ マクガークトニ ) ー・マッキルホンマリー・ ンオリ ーと・フリージうらみの歴史北アイルランド問題のむ 118

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ーセントを獲得した。その前の六六年の選挙では、労働党が四八。ハー ントであったのに議席の五二パ セントの得票率で議席の五八パーセントを獲得した。これに対して第三党の自由党は、七〇年の選挙 で二一一万票、七・四バーセントの得票率だったから、この選挙が比例代表制で行なわれていたら四 五議席はとれるところ、小選挙区制のためにかろうじて六議席を確得したにすぎなかった。自由党が かかげている穏健で進歩的な内外政策を考えると、もし自由党が四五議席をもっていたら、イギリス の政治の流れはかなり変っていたものと思われる。 この意味で小選挙区制のもとの二大政党政治は、多数党の議員数を国民の意志以上に増やして、政 権そのものの数の上の「安定」に役立っ代り、少数党に投票した国民の不満は高まるという結果をも たらす。 問題はこの小選挙区制による二大政党政治の「おきて」を素直に受け人れるかどうかである。ヒー ス、ウイルソン両党首の項でもふれたように、保守党政権、労働党政権ともに、イギリスの現実に直 面して、それぞれの支持層の期待を裏切るような政策をとらざるを得ない事情がある。保守党政権も インフレ対策から労働党顔負けの所得政策を実施したし、労働党政権はポンドの価値維持のため賃上 げ抑制を労働者階級に強いた。選挙民は何ともやりきれないのは当然である。 さらにいわゆる中流階級が次第に増えるマス・プルジョア社会の傾向から、保守・労働の二大政党 の接点あたりにいる穏健なグループの割合いが多くなっていることもたしかである。 この点でタイムズ紙は、七二年九月、現在の自由党に保守党の進歩派または労働党の穏健派が加っ

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るべきとされる選挙と、実際には日本ほどではないにせよ金のかかる日常活動の二つの面をあらわし ているといえよう。 民主主義の教科書によると、イギリス議会の議長の権威は絶対的なもので、無競争 議長の椅子 で選ばれ、総選挙が行なわれたあとも、議長が引退の意志を表明するまで再選され、 たとえ出身政党が与党から野党になっても引退を強いられないとされている。 〃議会の母〃といわれるイギリス議会のレフリ 1 を美化することは容易だが、未だにかつらをかぶ る議長もしよせんは人間のつくった制度の一つで、選任から引退までどろどろした政治的なかけ引き に利用されることは多く、人選も公正な議事連営の見地からというよりは、時の首相の好みや政治情 勢、党内事情に左右されることが実際には多い。 例えば、一九四五年にチャーチルが敗れ、労働党が天下をとった選挙のあと、当時のプラウン議長 ( 保守党出身 ) は、労働党が当然辞任を求めるものと思っていたら、アトリー首相は、ホワイトリ 内総務が議長と選挙区が隣り合っており、親しかったこともあって留任を申出て、ブラウンを感激さ せた。与党と野党が入れ代って、議長が留任したのは、実は一九二一年以来のことだったのである。 ところがこの拾い物をしたプラウン議長は、いい気になってか労働党は四七年頃には辞めてくれる ものと期待していたのになかなか引退の意向を示す気配はなく、 一九五〇年の総選挙で労働党が六議 席の差で辛うじて勝ったあとも再選された。もっともこの頃は、労働党も党内から議長を出すと議席 差がさらにヘるので、引導を渡せなくなっていた。

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けのものであった。これに対して陛下の答辞のお言葉のテキストの方は、あらかじめ日本で印刷して きたと思われるものだった。 「過去において日英両国の関係が常に平和と友好であったとは申せません」と太平洋戦争にふれた くだりが、女王自身の発意によるものかどうかはわからないが、少なくとも女王が前の晩までこのよ うな表現を使うかどうか検討していたことは明らかである。陛下が女王のこの言葉に直接こたえなか ったことがあとで論議されたが、こたえるべきであったかどうかはともかく、あいさつ一つについて も、両国の王室、皇室および宮内当局の姿勢の違いがあるように思われる。 さて、女王の主な権限としては、議会の召集、解散、法律の裁可、枢密院の主宰、恩赦、叙勲など があるが、憲政上最も重要なのは首相の任命であろう。普通は、総選挙で過半数をとった保守、労働 どちらかの政党の党首を自動的に任命していればよいのであるが、保守、労働、自由の三党がてい立 して多数党がなくなるような場合、あるいは多数党があっても、明白な指導者がいないような場合、 誰を選任するかは女王の役目となる。 一九五七年に保守党のイーデンが辞職してマクミランが後を襲った場合と、一九六三年にマクミラ ンが引退してヒューム伯が浮かび上った場合の二つについて、ややこれに近い状態があったが、保守 党内の大勢が最終的に両後継者にまとまったため、女王の選択が問題となることにはならなかった。 しかし、小党が分立して政策協定がまとまらなかったり、多数党が事実上分裂するような事態が万一 生じた場合、イギリス国民にとって大きな問題であることはもちろんのことだが、女王がいかに収拾

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が沈静化するのをまって、カトリック系各党も含めて北アイルランドの各政治勢力による政治解決実 現のため協議を開く。すでに決まっている比例代表制による市町村選挙を行なう一方、北アイルラン ドがイギリスの一部として留まるかどうかを確認する全住民投票を実施する。これらの結果をもとに して北アイルランド白書を発表し、直接統治から移管する。以上のようなものであった。 ところがプロテスタント側から、予防拘禁されている—関係者、特にガンマンを釈放するの は、虎を野に放つようなものだという苦情がでて釈放ははかどらなかったため、カトリック系政党の 協力が十分得られず、その結果政治勢力の協議は欠席が多く形だけとなった。鎮圧作戦は七二 年終わりになって南の共和国側も同様の方針をとりはじめ、やや愁眉を開いたものの完全にすすまな 。自治体の選挙は、七二年一〇月、その翌々月の一二月はじめに実施すると発表したものの、プロ テスタント側が反対したためわずか二週間後に延期の発表をせざるを得ず、第一回の住民投票は、一 九七三年三月ようやく行なわれ圧倒的多数でイギリスの一部としてとどまることが表明されたが、カ 物トリック系はこの投票をポイコットした。しかも当日ロンドン中心部でによる時限燥弾が爆 残 発、二〇〇人以上の死傷者を出すさわぎまで起きてしまった。 ン このためイギリス政府の『北アイルランド白書』にもり込まれた計画は、プロテスタント、カトリ ィック双方の穏健派を満足させる最大公約数をねらいながら、迫力に欠けるものとなった。その実現の ためには、ストーモントの復活はもはやあり得ないとして、将来の政治的な立場を有利にしようとす る実利にさといプロテスタントの政治屋をたきつける一方、暴動に疲れはてた両宗派の民衆が、過激 151

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である。ポンドの価値維持にこだわらずに六七年秋もっと早い段階で切り下げにふみきっていたら、 オクスフォード大学のグループの試算によると、五パーセント以上の経済成長率と五〇億ポンドが失 なわれずにすんだはずだという。 もう一つは、七〇年に勝てたかも知れない選挙に敗れたことである。七〇年六月の投票日を前にし て、イギリスの五つの世論調査機関のうち四つは、与党労働党の勝利を予測していた。残る一つのオ ビニオン・リサーチ・センター 6 0 ) の調査は、投票日当日になって、調査対象の追跡調査による ; 、こ、 ( 棄権率が低 有権者の意志の変化や保守党支持者の方が労働支持者に比べて投票にいく意志カカオし パーセントながら保守党の優勢を予測した。 い ) ことなどで調査を修正した結果にもとづいて一 またの調査は、労働党は保守党を四パーセントリードしながら前の週に比べてリードが八パ 1 セントも減ったことを明らかにしていた。 また 0*0 の選挙後の追跡調査によると、保守党に投票した人の八パーセントは、選挙期間中に支 持政党を労働党から保守党に変えたと答え、その理由として、投票日の三日前に発表された前月の貿 易赤字が三、一〇〇万ポンドに達したことにみられる経済情勢の悪化や物価の急速な値上りに対する 労働党政権への信頼感の喪失をあげている。つまり、ウイルソンは、投票日前一週間ほどの有権者の 中に起きていた変化に十分気づかず、対応策もとっていなかった。 さらに労働党は、労働者票をかり出して、投票させなければ勝利をかちとれないのに、楽勝ムード ーセントないし四パーセントはバカンスに出かけ、 の中で、しめつけが足りなかった。有権者の三パ 6

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出発した。アン王女は波止場で彼と別れを惜しんだ。愛情が本物であるかどうか、長つづきするかど うか確かめるため、若い二人をしばらく引きはなしてみるのは、イギリス王室の得意の手で、二人の 婚約は六月になって正式に発表され一一月に挙式の運びとなった。 エリザベス二世が戴冠式のときかぶった聖エドワードの冠 ( 正確にいうと一一世紀にエ 女王の権能 一七世紀にチャールズ二世のためにつくられたコビ ドワード懴悔王がかぶったものではなく、 ーだが ) は重さが二・五キログラムほどもあり、実際にはごくわずかの間しかかぶることができない。 このため普段、例えは国会の開会式への臨席などのおりには、ビクトリア女王がつくらせたルビー四 、、パール二七七個 ( うち四個はエリザベス一世のもの ) 、ダイ 個、エメラルド一一個、サファイア一六個 ア一一、七八三個をちりばめた冠が使用されている。 イギリスでは、一九世紀の終りに、議会責任内閣制と政党制度が確立して、王は中立的な国家元首 となり、女王陛下の政府が女王の名において治め、「君臨すれども統治せず」の体制ができあがって はいるが、女王の権能は依然幅広く重い。 バッキンガム宮殿での女王は、毎朝規則正しく八時には食卓につく。夫君の旅行中は、時には一人 4 王冠の重み