た第三党ができた場合の有権者の反応をさぐる調査を行なった。 それによると、自由党の支持率はそのとき一〇。ハ 1 セントだが、労働党のジェンキンズ派など穏健 グループと自由党が一諸になると支持率は三五パーセントとなり、保守党支持者の二〇バーセントと 労働党支持者の四四パーセントがこの党を支持する結果となった。また保守党の進歩派グループと自 由党が一諸になった場合は、支持率は四〇バーセント、保守党支持者の五五パーセントと労働党支持 者の二五パーセントが移動する結果となった。 この結果からタイムズ紙は、二大政党ともお粗末な状態にある以上、中道第三党がつくられれば、 ポーナスを与えてもよいのではないか、そのような政党が政権に近づく土壌は十分存在すると結論づ けた。 しかし、保守党が金持の党、労働党が組合の党という色彩はぬぐえないとしても、小選挙区制のも とで、歴史のある両政党を割って本格的な第三党をつくることはなかなか困難であろう。タイムズの 調査は、むしろショック療法で両党の穏健派の党内での立場を強めさせようとする援護射撃とうけと 祖るべきであり、自由党は、次の総選挙で議席を多少増やすとしても、保守労働両政党に対抗する政党 のとなるには自力ではい上がる以外になく、二大政党はなおつづくとみなければならない。唯一の興味 主は、自由党に過大な期待はかけられないにしても、二〇ー三〇の議席を確保して、保守・労働両党の 民間でキャスチング・ポートをにぎる時がくるかどうかということである。
また選挙でいずれかの党に投票するものの、特定の政党を継続して支持するかどうかという点にな ると、同じ調査で保守党支持者が一一六パ ーセント、労働党支持者が二七パーセント、自由党支持者が 四パーセントで実に三九パーセントは特定の支持政党はないとしている。この四割近い層が、選挙の 勝敗の鍵を握る浮動票の層であると同時に、小選挙区制下の二大政党で、選挙に際して時には心なら ずも保守、労働いずれかの党の支持者にくみこまれている層でもある。 イギリスの政党政治は、一七世紀からはじまり、保守党と自由党という保守系政党同士の争いが、 一九二〇年代後半から保守党と労働党の対立となった。しかし第三党の自由党は、議席の数はともか 、政府の公式行事あるいは毎年秋の定期大会のテレビ中継、さらにラジオ、テレビの政党の時間な どについては、二大政党並みの取扱いをうけている。 総選挙で過半数を獲得した方が内閣を組織し、野党第一党は「女王陛下の反対党」と呼ばれて、党 首のもとに全議員の投票による「影の内閣」をつくり、下院での討議では各閣僚の発言に「影の内 閣」の「担当相」が対抗し、政府が統治し、決定する権利を認める一方で、これを批判し、建設的な 意見をとり人れることを要求する、というのがイギリス流二大政党政治の仕組みである。 元 のそれでは国民の多くが、何故この制度がうまく機能していないと考えるのだろうか。またそれぞれ 義 主の政党の固い支持者が意外に少ないのだろうか。 民 一つの理由は、イギリスの小選挙区制度が選挙民の意志を多数党に有利に、あるいは少数党に不利 に集約する動きをするためであろう。例えば、七〇年の選挙で勝った保守党は、得票率は四六パ
は、引退した首相の恩給程度、チャールズ皇太子の手当も現職首相の給与並みでよかろうという意見 を出した。 野党労働党は、王室の不動産収人など明らかにされていない部分の公開を求めるとともに、王室予 算を毎年国会で審議すべきだと提案した。 政府が賃金抑制政策をとり、失業者が一〇〇万に達しているとき、王室財政について十分な情報を 与えられないまま、べースアップが実現したことへの不満を示すロイヤリストもあった。 しかし、引上げを支持した四八パーセントの声は、女王一家がイギリスで果たしている役割を考慮 してこの制度を維持するために、この程度の支出は原価計算として安くついているという判断にもと 冫いまさら自転車にのせるわけにもいか づいていた。また王室一家をスカンジナビアの王室のようこ、 ず、観光資源としても、おもちゃの兵隊のような近衛兵とともに大事にしなければなるまいというこ とでもあろう。 ただ、王室である以上何らかの形で秘密のヴェ 1 ルに包まれた面が必要であるにせよ、王室財政が いずれガラス張りの家計簿に移らざるを得ないのは、時代の勢いであろう。インフレがすすみ、再び 家女王の請求書を出さぎるを得なくなる日が早くくるほど、財政面の近代化を迫られることになるわけ 室 王
して、彼を落選させるため、補欠選挙の日取りをおくらせる戦術をとった。補欠選挙は、与党と野党 の間で了解がっかなければ実施できない慣例を利用したのである。 投票は七三年三月に行なわれた。タ バーン氏は全得票の五八パーセントを獲得、労働党の公認候補 を一万三、〇〇〇票引きはなして選出された。得票は二万二、〇〇〇票で、七〇年の総選挙のときより 二、〇〇〇票多く、保守党票も九、〇〇〇票減ってかなりの部分が彼に投じられたことを示していた。 補欠選挙では大勝したが、次の総選挙、あるいは次の次の総選挙で、タバーン議員が引きつづき労 働党候補に勝てるかどうかはわからない。また補欠選挙にかけた勇気と意気込みで、労働党内部の改 革運動をすすめたらどうだったのかという疑問も残る。しかしこのタ バーン事件に対する選挙民の反 応は、代議士についての選挙民のイメージがどのようなものであるか、また代議士と選挙民の間にあ る政党の存在にどれだけ幻滅を感じているかを示しているといえる。 イギリス国民が、世論調査で「もし今日総選挙が行なわれるとしたら、どの政党 ニ大政党のすき間 に投票しますか」ときかれると、保守、労働両党はそれぞれ四〇パーセント近く の支持率を獲得し、第三党の自由党が七、八バーセントを獲得する反応を示す。自由党の支持率が増 えている傾向はあるが、二大政党は、国民の間にしつかり根をおろしているようにみえる。しかし国 民の半分は、二大政党間に大きな違いはないと考えており、現在の二大政党政治は、うまく機能して いないと考えている。特に二大政党の働きについては、七二年夏の調査によると保守党支持者の四九 ーセント、労働党支持者の五七パーセントがうまく働いていないと考えている。
ジーランドのバターは、フラン いのは、 @O 加入が食料品など物価値上りのきっかけになる、ニュー スのバターより安いのに今後は入らなくなるのではないかといった主婦を中心としたいわば感情的な 反対論である。しかしそれだけではない。実利的なイギリス国民にとって、個人的にプラスになるこ とが当面認められないものに賛成するのはむずかしく、子供や孫の代には長期的な効果がでてくると いうのであれば、あえて自分から賛成の手をあげるほどのことはないということになる。それより も、 @O 加入で何かイギリスらしいものが失なわれるという愛惜の情が先に立つのである。 もう一つ、体制側の意気込みとは逆に、イギリスは、 @0 の中で指導的な役割を果すことはむずか しかろうという悲観的な見方があることである。 ZOP«の調査によると、 QO の将来について、イギ リスは O の指導国家になるとみるのが九パーセント、イギリスはおくれをとるとみるのが三五パ セント、各国がどんぐりの背くらべとみるのが四六パ ーセントとなっていた。 王もしイギリスで、フランスのように、あるいはアイルランド共和国、デンマーク、ノルウェーとい つった他の加盟申請国のように、加盟に先立って国民投票を行なっていたらどのような結果となったで 合あろうか。 連 またもや世論調査の結果で恐縮だが、 @0 加盟について国民投票を行なってはどうかという問いか セント、 けに対して、七八パーセントが賛成していた。この内訳は、加盟反対の人々のうち九一。 労働党支持者の八七パーセントが国民投票を求めていたのは当然として、加盟支持者も六六パー Ⅲ 、保守党支持者の六四パーセントがこれに賛成していた。
支持していたことを考え合せると、イギリス国民のがん固さに驚かされる。 1_0 -4 00 ー ー一 1 亠 1 一 1 果 0 イギリスが第一回の加盟申請をした六一年七月に行なわれた ZOA の世論 ーセントと圧倒 調査では、加盟賛成が七八パーセントに対して反対が二二パ 査春対 00 っっ 0 調年反 4 2 6 4 的な支持があった。しかしドゴール大統領の拒否権にあい、ウイルソン内閣 論 が二度目の加盟申請をする頃には、の調査は三七対四一と逆転し、ド 盟 ゴール大統領の二度目の拒否権発動後はますます消極的となっていった。 この傾向は、七〇年に三度目の交渉がすすんでいた段階で、賛成一三パ 体者者者 持持持セント、反対六四パーセントといった最悪の状態となったが、七一年夏交渉 支支支 党党党 表 がまとまると、保守党支持層が党派的な忠誠心から賛成側に復帰し、政府の 守働由 全保労自も浸透して七月には賛成三四パーセント、反対四四パーセントにまでも ーセント反対四三パ どし、七二年春には賛成四二パ ーセントとほば賛否が均衡するまでに至った。こ のうちわけは表 3 の通りである。 しかし、一旦思いこむとなかなか考えを変えないイギリス人特有の執念深さとヒース首相の不人 気、それに物価高に対する不満が一緒になって、賛否の割合をくつがえすことは、ついにできなかっ た。一九七三年一月一日拡大æo の発足を前にして行なわれたギャラップの調査は三九対四一、 OX 0 の調査は三八対三九にとどまった。 イギリス国民のこうした消極的な反応は、どのような理由にもとづいているのであろうか。一番多 ワ一
である。ポンドの価値維持にこだわらずに六七年秋もっと早い段階で切り下げにふみきっていたら、 オクスフォード大学のグループの試算によると、五パーセント以上の経済成長率と五〇億ポンドが失 なわれずにすんだはずだという。 もう一つは、七〇年に勝てたかも知れない選挙に敗れたことである。七〇年六月の投票日を前にし て、イギリスの五つの世論調査機関のうち四つは、与党労働党の勝利を予測していた。残る一つのオ ビニオン・リサーチ・センター 6 0 ) の調査は、投票日当日になって、調査対象の追跡調査による ; 、こ、 ( 棄権率が低 有権者の意志の変化や保守党支持者の方が労働支持者に比べて投票にいく意志カカオし パーセントながら保守党の優勢を予測した。 い ) ことなどで調査を修正した結果にもとづいて一 またの調査は、労働党は保守党を四パーセントリードしながら前の週に比べてリードが八パ 1 セントも減ったことを明らかにしていた。 また 0*0 の選挙後の追跡調査によると、保守党に投票した人の八パーセントは、選挙期間中に支 持政党を労働党から保守党に変えたと答え、その理由として、投票日の三日前に発表された前月の貿 易赤字が三、一〇〇万ポンドに達したことにみられる経済情勢の悪化や物価の急速な値上りに対する 労働党政権への信頼感の喪失をあげている。つまり、ウイルソンは、投票日前一週間ほどの有権者の 中に起きていた変化に十分気づかず、対応策もとっていなかった。 さらに労働党は、労働者票をかり出して、投票させなければ勝利をかちとれないのに、楽勝ムード ーセントないし四パーセントはバカンスに出かけ、 の中で、しめつけが足りなかった。有権者の三パ 6
し、イギリス人の多くが宗教改革でプロテスタント化するとともに、プロテスタントに改宗したこと である。例えばロンドンデリーは、もともとデリーと呼ばれていたか、一六〇九年に、ロンドンの商 人に開発がまかされたことからロンドンデリーと呼ばれることになった。これらの植民地域は、イギ リスのアイルランド支配の足がかりあるいは拠点となり、南のアイルランド共和国が独立したあとも 北アイルランドがイギリスの一部として残る結果となった。 もう一つはアイルランド人が一貫してカトリックを信じ、特に中世の暗黒時代にキリスト教文化を 守った誇りをもっているのに対して、支配者側のイギリス支配階級内部では、ヘンリー八世のイギ リス国教会設立をきっかけにプロテスタント側に傾斜したことにからんで、さまざまなトラブルがあ り、アイルランドがこれに巻き込まれたことである。 さきに一九六九年夏のロンドンデリー の暴動の遠因としてデリー の壁をめぐる戦いをあげたが、こ れも名誉革命でオレンジ公ウィリアムにイギリスを追われたカトリック系のジェームズ二世が、アイ 捌ルランドを足場に復権をはかろうとして、一六八九年八月アイルランドのカトリックの圧倒的な支持 残のもとにロンドンデリー のウィリアム支持のプロテスタントを囲んだのに対し、プロテスタント側が カついに城をもちこたえたのを記念したものである。 イ 北アイルランドのプロテスタント側は、その翌年の一六九〇年七月、ベルファーストとロンドンデ ア ) ーの中間にあるポイン河畔で、オレンジ公ウィリアムがジェームズ二世を最終的に撃破した戦いと 合せて、二つの大きな勝利を、二〇世紀の現在に至るまで後生大事に忘れずに、毎年夏になると戦勝 貶 9
て発展するものだけに、この法律が実質的に定着するまでには時間がかかりそうだし、従来の労使関 係がこの一片の法律でそう変わるものでもない。 例えば、七二年の国鉄ストの際、政府は組合員の声なき多数が組合幹部の闘争を支持していないと 信じて全員投票を求めたが、組合員は圧倒的多数でスト続行を支持し、組合側に有利な条件で収拾を はからざるを得なかった。 組合側だけを責めても解決には役立たないのだが、一般のストライキをみる目は、引きつづきスト をやりたい者にはやらせろ、自分たちで苦しめばよいという冷たさと、他人のことに介人しない無関 心さ、さらに社会の分業の仕組みがうまく働らかないことに耐えるイギリス的がまん強さを発揮す 以下よ、 をいくつかのストライキと、そのもとでのイギリス国民の生活ぶりである。 一九七二年春の国鉄労組の要求は、一四バーセントの賃上げであった。組合側は、他 鉄道スト の組合はもっと高額の賃上げを獲得している、国鉄の人員縮小に協力している、生産 性が上がっている、近代化計画が労働強化となっている、物価が急上昇しさらに上がる勢いをみせて いる、などを理由にあげた。 当時組合員の平均給与は三二ポンド五九ペンスだが、賃金は職種によってさまざまで、運転士は一 週四〇時間と時間外四時間で三五ポンド、信号手は時間外が一二時間で三六ポンド、荷物係は時間外 が一 0 時間で二八ポンドということになっているが、運転士の場合マイル手当てと称する運転手当て 炻 6
ようとしたヒース首相の政策に非難が集中した。 くり返すようだが、英連邦首相会議は今や各国首脳の単なる意見交換の場の意味しかなく、統一見 解を出すところでもなく、特定の国に特定の政策を押しつける場でもない。このことは各首相にわか っているのに、何故本家に対する強い批判が行なわれ、連邦からの脱退とか連邦の解体といった声が でるのか。要するにイギリスが一見進歩的な旧宗主国のような顔をしながら、植民帝国の過去を絶ち 切れない、むしろ絶ち切らないためにほかならない。 ソビエト繿隊がインド洋に一〇隻以上も行動していることは、イギリスだけでなくスリランカ、マ レーシアなどをはじめかなりの数の国の関心事である。しかしそのために「何故人種差別の南アに対 潜用の兵器を輸出しなければならないのか」とアフリカ諸国は疑う。するとヒース首相は反論する。 「それでは何故フランスが南アに武器を売るのを非難しないで、イギリスの政策だけを問題にするの か」。イギリスと南アとの経済的な結びつきが大きいことはたしかであり、保守党内に南アあるいは ロ 1 デシアの人種差別政権を支持する右派グループが存在し、このグループの@(--) 加盟支持をとりつ けたいお家の事情もあろう。しかしここには旧植民地帝国にきびしく求められているモラルへの配慮 がない。国際政治の流れの中では脱皮したはずだが、意識の上あるいは時折とる現実の政策の上で は、基本的脱皮がなされていないことの表われであり、自から影響力を弱めている。 ビアフラ戦争、インド・パキスタン戦争といった旧植民地での血なまぐさい争いの源をたどると、 かってのイギリスの植民地支配や分割統治に至るが、イギリス自身は話をそこまでさかのばらせず、