ジーランドのバターは、フラン いのは、 @O 加入が食料品など物価値上りのきっかけになる、ニュー スのバターより安いのに今後は入らなくなるのではないかといった主婦を中心としたいわば感情的な 反対論である。しかしそれだけではない。実利的なイギリス国民にとって、個人的にプラスになるこ とが当面認められないものに賛成するのはむずかしく、子供や孫の代には長期的な効果がでてくると いうのであれば、あえて自分から賛成の手をあげるほどのことはないということになる。それより も、 @O 加入で何かイギリスらしいものが失なわれるという愛惜の情が先に立つのである。 もう一つ、体制側の意気込みとは逆に、イギリスは、 @0 の中で指導的な役割を果すことはむずか しかろうという悲観的な見方があることである。 ZOP«の調査によると、 QO の将来について、イギ リスは O の指導国家になるとみるのが九パーセント、イギリスはおくれをとるとみるのが三五パ セント、各国がどんぐりの背くらべとみるのが四六パ ーセントとなっていた。 王もしイギリスで、フランスのように、あるいはアイルランド共和国、デンマーク、ノルウェーとい つった他の加盟申請国のように、加盟に先立って国民投票を行なっていたらどのような結果となったで 合あろうか。 連 またもや世論調査の結果で恐縮だが、 @0 加盟について国民投票を行なってはどうかという問いか セント、 けに対して、七八パーセントが賛成していた。この内訳は、加盟反対の人々のうち九一。 労働党支持者の八七パーセントが国民投票を求めていたのは当然として、加盟支持者も六六パー Ⅲ 、保守党支持者の六四パーセントがこれに賛成していた。
一八世紀のはじめイギリスに滞在したイタリア貴族が記したところによると、ロンド ンでは、ウエストミンスター界わい、ロンドン塔、セント・ポール寺院、ロンドン・ プリッジ、ハンプトン・コートなどを見物したという。 当時のロンドンの人口は七〇万人程度だったとみられている。バッキンガム宮殿は、バッキンガム 公爵が初期の館を建てたばかりで、未だ王室のものではなかった。テムズ河にかかっていた石の橋 は、ロンドン・プリッジだけ、ビッグ・べンも未だ建てられていなかった。しかしこの観光コース は、今日のロンドンを見物する観光バスのコースと基本的には変わらない。 その後一八世紀後半に、バッキンガム公爵邸を手に入れたジョ ] ジ三世は、隣のグリーン の一部を宮殿の庭としてとり込んでしまったし、一八四八年にはバッキンガム宮殿の拡張工事のた め、バッキンガム・ゲイトとパレス・ロードの住民が立ちのきを命じられた。一八六六年には宮廷の 中にあった裁判所が独立の建物をもって一本立ちをすることになり、ストランド地区で建築工事が行 なわれたが、このために四、〇〇〇人あまりが家を失ったという。現代であれば住民団体の反対など で大変なさわぎとなるところであるが、こうした工事がお上の威光で行なわれ、ロンドンの名所を追 1 ロンドンム「日 188
これに対して保守党政府は、国民投票に付する方式は、イギリスの議会制民主主義の原則に反する としてこれをしりぞけた。それでは七三年三月北アイルランドの将来を決める住民投票を行なったの は何故か、北アイルランドは、本来イギリスの一部ではないということなのか。本当の理由は、世論 調査の動向からみて、勝利をおさめる自信がなかったこと、投票が行なわれる場合、加盟の賛否をめ ぐる保守、労働両党の内部分裂が表面化するのを恐れたことが考えられる。 しかし、愛国的なイギリス人のこと、もし国民投票が行なわれていれば、あるいは総選挙が行なわ れていれば、たとえわずかの差でも加盟支持が反対を上廻り、加盟をめぐってもやもやしている国民 になんらかの刺激を与える結果をもたらしたことであろう。 @(-) 加盟は、そうしたハプニングもなく 実現し、国民は腕ぐみをして政府のお手並拝見と、もよう眺めをきめこんでいるわけである。 @0 加盟法案が上院で審議されたとき、上院に議席をもつ前労働党首ゲイッケル氏の未亡人は、 「第一回の加盟申請当時、夫は加盟に反対していましたが、もし生きていたら、今度の加盟に賛成し たと思います」とのべた。これに対して、ゲイッケル氏の死で労働党首となると直ちに彼女を上院議 員に推せんしたウイルソンの方は、首相だった七〇年に三度目の加盟の申請をしながら、交渉がまと まると反対にまわった無節操で無原則な政治家であるとしてマスコミから袋だたきに会った。そして 加盟賛成を貫き通し、副党首の地位もすてたジェンキンズ前蔵相は政治家の鑑であるかのように 賞揚された。 ウイルソンの反対論は、先にもふれたように、悪い条件でまで加入することはない、イギリスは十
Ⅶ環境を守る 1961 年 1971 年 単位万人 799 738 101 1 11 川 6 ことである。大都市の過密化を緩和する ことはねらっているが、大都市から移動 した人口の多数が、日中大都市に通勤す るものではなく、大多数の住民はそのニ ュータウンまたはその周辺に働き口があ ・ ( プール少るように、地域の開発をすすめている。 ロ このためにランコーンには、雇用省 人 の ( 労働省 ) のコンピューター・センター 市 グラスゴー都ステイプネジには公害防止関係の二つの 大 巨大な研究所、プラックネルには気象 ス 庁、スコットランドのイースト・キルプ ギ ーミンガムイライドには国税庁のコンビューター・セ ンターといった具合いに政府機関の分散 も行なわれ、民間企業の誘致には外国資 本への働きかけも行なわれて、日本の企 業が進出しているものもある。 ニュータウンのもう一つの重要なねら マンチェスター ロンドン 235
があるためロンドン近郊で週四〇ポンド、ロンドンⅡエジンバラ間などの遠距離列車の運転士の場合 は週六〇ポンド、四万円あまりにも達していた。 ーセントを回答したが、組合側は全国に順法、時間外労働拒否、休日労働拒否を指 国鉄側は一一バ 令、休日労働拒否では、土曜日の夜一〇時から月曜日の朝六時までダイヤが完全に止まった。さらに イングランド南部では山猫の職場放棄が行なわれた。 政府側はバー ー蔵相が、「この国は国民の信任をうけた政府に統治されるのか、それとも組合の 利己的な要求に脅かされるのか」と闘争を非難した。しかし、スト中に行なわれた世論調査は、組合 1 セントと、四五バ 1 セントが批判的 側に同情できない人が二九バーセント、怒っている人が一六パ な態度を示したが、一方、組合に大変同情するという人が一四パーセント、まあ同情するというのが 二四パーセントとスト支持も三八パーセントを占め、世論を二分した。 汽車のかわりに自家用車で出勤する人のために、ロンドン中心部に通じる道路は、車の流れをよく ーク、近衛騎兵の閲兵場などが臨時 するためすべて駐車禁止となり、ハイド・パ 生駐車場に開放された。 人そしてストに冷却期間を設け、国鉄側の回答が一般組合員にうけ人れられるかどうか調べた方がよ ス いという世論に押されて、政府が投票を行なってみたら、見事にスト続行という結果がでてしまい、 ギ イ ーセント値切っただけの一三パ 結局要求を一バ ーセントで妥結するという政府の面目丸つぶれの結果 となった。 16 /
た大見出しを一回だしておしまいというあっさりした反応であった。 この大幅値上がりが、賃上げと実際にどれだけ関連があるのかわからないが、いつまでも無策のま まで過ごせるわけはない。七二年秋、また物価・所得政策が始まった。 賃上げや製品の値上げに政府が介人して、凍結させたり、限度を設けたりする政策は、イギリスで は別に目新しくない。戦後初めての労働党内閣や一九六一 ー六二年の保守党マクミラン内閣の際も強 制的なものではないにせよ行なわれたし、労働党のウイルソン内閣では六五年から七〇年の総選挙の 敗北までつづいた。 保守党内閣による物価・所得政策の特徴は、就任当時、所得政策は〃政治哲学〃として行なわない と宣言し、労使の賃金交渉や物価、所得関係の事情調査やデータの整備に大きな成果をあげていた物 価・所得委員会を解散させたヒース首相が、「国運をかけた政策」と称して実施したこと、ウイルソ ンの所得政策には、組合出身のカズンズ技術相が抗議して辞職したのに、ヒ】スの根本的な政策転換 に閣内から辞職者がでなかったことである。 賃金引き上げによるコスト高が物価引き上げを招き、また賃上げにはねかえるという悪循環をたち きり、インフレを押えようというヒース版の物価・所得政策は、第一段階として七二年一一月から五 カ月間の賃金・物価凍結が行なわれ、つづいて賃金引き上げをおよそ七パーセント以内、配当を五パ ーセント以内に押え、生産者価格の上昇は原料の値上がりや基準以内の賃上げなどにもとづく不可避 的なコスト上昇を除いて認めないなどの第二段階に入った。別々になってはいるが、価格委員会と賃 1 / 8
III ヨーロッパ連合イギリス王国 このグループは、イギリス国鉄が大株主となって いるイギリス海底トンネル会社の後身やスエズ運河 を故ナセル大統領に接収されたスエズ運河会社、そ れにアメリカの銀行グループなどからなっていた。 このグループの計画にもとづいて両国政府が六一 年から話し合いをはじめ、六六年には建設は民間の け手で行ない、完成後両国の公共企業体に引渡して償 還する方針が決まっていた。 の このまますすめば七一年には着工の予定だった。 しかしコンコルドの行方に立ちはだかりはじめてい ドた暗雲に影響されたのか、労働党から保守党への政 権交代やホー ・クラフトの就航の結果を見守る ためか、計画実施は延び延びとなり、両国の最終決 定は拡大 QO 発足後の七三年夏以降にもちこされ た。七四年に深層ボ ーリング調査を行ない、七五年 に両国が建設協定を結んで正式着工、八〇年に完成 という運びだ。
七二年夏から労働組合との対決ではなく、和解を強調し、場合によっては労使関係法を一部改正し てもよいといい出した。賃金統制はやらない、所得政策を実施しないといっていた公約とは逆に、所 / 得政策を実施、賃金を凍結した。党内の反対派の巨頭パウエル議員は、「政治家は国民の信頼をうけ たのと違う方向に走ってよいものか」と批判した。 この政策転換が最もはっきり現われたのは、産業政策の面である。ここでは個々の政策をとりあげ るよりも、人事面でその変化をみてみよう。 七〇年一〇月、ヒースは通商、産業関係の各省の機構改革を行ない、次のような人事配置を行なっ こ 0 これが七二年一一月までに次のようなメンバ ーノー・フル商務担当相 ( 閣外相 ) デービス通産相 ( 閣内相 ) ーーイーデン産業担当相 ( 閣外相 ) ーコーフィールド航空供給相 ( 閣外相 ) ーに変わった。 グラント政務次官 リドレー政務次官
客に声をかけないこととともに、馬車時代の御者のエチケットの名残りである。とはいっても天気の ・ラジオやカメラ、時計に至るまで、ロンドン方言のコクニーで陽 話題から日本製のトランジスター 気に話しかけてくる運転手も多い。「ロンドンのタクシーは、東京と違ってちゃんと『サンキュー』 といってくれる」と感心する向きもあるが、東京に比べてマナーがていねいであることはたしかだ : 「サンキュー」の言い方もよく聞いていると「有難と う」というよりは「やあ」程度のものが多い。 行先の町名と番地を言うとわき目もふらず目的地に最 短距離でつくことが好評をうけているが、これは、長年 一の経験もさることながら、タクシ 1 運転手の免許試験に シ ク関係がある。 の この試験は、受験者に実際にタクシーを運転させロン ン ドン市内を流しながら行なわれるが、性格が善良である ン 都、ロか、健康であるかという点のほか、ロンドン中心部の主 な町名や建物、そこへいく最短ルートなどをテストし、 ン 観光客にある程度の話もできるようロンドンについての 常識テストも行なう。 したがってこの試験にバスするのは容易でなく、最底 205
働党ウイルソン首相も、具体的な交渉開始の間際に首相になったヒース首相も変わらなかった。 しかし現実の交渉は、そのような強い立場から行なわれたのではなく、イギリスの貿易や産業の利 益を拡大 O に代弁してもらうためのものであり、イギリスをヨーロッパの一員として迎えることに した@0 側とのいわば条件闘争であった。 この意味で双方に基本的な対立はなく、例えば実質的には、フランスの農民を助けるための共通農 業政策を実施する共同体予算をイギリスがいくら分担するか、英連邦内の砂糖生産国への保証をどう 】ジーランドの酪農製品の利益をどこまで守るかといった技術的な問題がかけ引きの対 するか、ニュ 象となった。しかもイギリスとしては、ヨーロッパ大陸に開ける新しい市場に割り込んで利益をあげ ることよりも、加盟にあたって支払う財政分担金の支出などで国際収支を悪化させることへの心配か ら、過渡的な期間が長くなり、それだけ加盟の短期的な効果がうすくなる形となった。 七一年六月、交渉はまとまり、イギリス下院は一〇月一八日、加盟を原則的に認めた。この夜の下 院での投票はまことに異常で加盟をめぐるイギリス各層の立場をそのまま表わしたものであった。 〃賛成〃ロビーに集ったのは、与党保守党の大多数と、 @0 加盟以外にイギリスの生きる道はなく、 加盟の条件もほば妥当だとしてあえて与党側についた労働党穏健派のジェンキンズ前蔵相らのヨーロ ッヾ ・グループ、それに自由党だった。労働党のウイルソン前首相は、加盟条件がイギリスに不利で あり、国民の多数が反対しているという立場から、加盟絶対反対の左派議員とは理由を異にしながら 〃反対〃ロビーにいき、加盟がイギリスの主権、自主性を失なわせるとして反対する保守党のパウェ