ヒムラ - みる会図書館


検索対象: ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊
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1. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

これらのうち何人かは、今日なお、 ヒムラーの本部事務所にいるものやスがふえ、またこれらのは、一に 〃、つまり収西ドイツで裁判にかけられている。年 収容所を担当するものは、軍務からはぎりの古手の″エリ 1 ト ずされることになってはいたが、一九容所長やその副官たちに監督されていよりは大半が低能で、野蛮な行動をと 四二年から四三年にかけて、東部戦線た。名目上は、四万人の男女隊員りがちだが、かれらは、一九四〇年代 が緊迫してくるにつれて、このうちのが、ドイツ内外の全強制収容所組織にに、警察や軍隊から、無能を理由にク ビになった人たちだった。これらのも 積極的な〃エリート〃たちは、しだい参加していたが、のエリ 1 トとい うふるい夢は、いまや悲しむべき状態のは、収容所ではワイロをとったり、 に戦場へ召集されていった。これはヒ 権力をカサにきて、いばっていたのだ トラーが、あらゆる有能なドイツ人のとなった。 係官のった。 動員に、力をいれはじめたためでもあ これらのうち何人かは、ほんとうの 質低下 った。 このためヒムラーは、の高齢者この間に、小規模な労働収容所の形サディストだった。ムチつかいのウィ グル 1 プを、中核とせざるをえなくな式をとった、数百におよぶ補助収容所ル ( ルム・ポーガ 1 は、一九六四年フ ランクフルトでの裁判に顔をみせた。 り、きわめて積極的に応募してきたは、各地にひろまっていた。 ッ ポ 1 ガーは「一九三二年、 ()0 にはいッ アウシュビッツ収容所のヘスや、べ " 外国人みの数が、どんどんふえてい る以前は職業警官をやっていた。 った。これら外国人は、予備警察としルゲンーベルゼン収容所のクラマ シ しかし大半の人間は、無感覚な連中ウ てヒムラーに奉仕すると同時に、収容や、あるいはブッヒエンワルト収容所 ア 所の看守や、収容所でちょっとした行のコッホとイルゼ夫人が、これほど高で、野獣のように愚鈍だった。かれら 政官の仕事をやったりしていた。 い地位にあったとは、だれも考えてもは、どこの国でも、町なかや刑務所や本 の しまいには、強制収容所は、できるみなかったろう。収容所では、いかに売春宿を掃除したら、かならず出てく るような種類の人間だった。ドイツで絶 だけ独立して運営するようなかたちに地位の低いものでも " 模範的〃ドイツ なっていった。比較的少数の地上人だとの口実で、のポストを確保最良の人間は、戦線で戦っていたか、 工場で熟練工として働いていたのであ 部隊が、囚人を監督して働かせるケ 1 することができた。

2. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

ラーの希望によってそれぞれ″解任〃たら、国防軍は、ゲシュタボのでっちシアで大量絶滅を実行することになる する、という陰険な手段をもちいた。 あげだ、ということを暴露できたかも残忍な行動隊の先遣部隊である秘密 プロンベルク元帥は、以前に売春婦しれない。そしてヒムラーとハイドリ 部隊が、一九三八年、ドイツ軍にし をしていた女と結婚したという理由でヒも面目をうしなったかもしれない。 たがってチェコスロパキアにはいる態 失脚したのだが、この女性にかんする しかし、事はそのようにははこばな勢をととのえた。これら秘密部隊 警察の記録は、結婚式がすむまでに完かった。ゲ 1 リングはオーストリア併は、侵略軍隊のあとを追っていき、反 備していなかった。しかもこの結婚式合という事件のため、聴聞を短時日で抗する民間人を″清掃みし″除去〃す には、ヒトラーもゲ 1 リングも出席し切りあげ、フリッチュの名前は公けにるいつぼう、ユダヤ人と共産主義者を ていた。フリッチュの失脚のさいは、 しながらも、ゲシュタポが爼上にのせ全滅させるつもりだった。 ゲシュタポはさらに露骨に干渉し、フ られるのはふせいだ。これはすべてが しかし結果的には、この時点では、 リッチュは同性愛だというまったく誤まったく不運な誤解にもとづくものでこれら初期の行動隊が出かける必要は った告発を用意した。これは、訊問のある、とかれはのべた。 なかった。ミンヘン協定の結果、ズ さいに、唯一の証言とはなったが、じ フリッチュはすっかり幻滅を感じてデーテンラントは " 平和的〃にドイツ つはデタラメなものだった。 隠退し、翌年、死を覚悟してポーラン人の手にわたされ、翌年のポヘミア、 は、こうした不名誉きわまるド進攻作戦のさいに前線に出陣、事実モラビア地方の占領も平和のうちにお化 策謀にたいへんな侮辱を感じ、このよ上の自殺をとげた。 こなわれて、スロパキア保護領ができ うな信じがたい証言を検討するために 偽装国境あがったのである。 て え 名誉回復の裁判をひらくのを許可する 紛争事件ズデ 1 テンラントでは、ヒムラ な よう、ヒトラーに圧力をかけた。 しかしながら、ヒムラ 1 は開戦にそは、現地のドイツ人、ヘン一フィンの指そ ゲーリングが裁判長をつとめた。もなえて、行動を開始する万端の準備を導する自由軍団〔ドイツ祖国戦線〕を、戦 しもオ 1 ストリア併合という劇的な出ととのえた。ニュ 1 ルンベルク裁判で有事にそなえて自分の指揮下にいれよ 来事が、この聴聞裁判を妨害しなかっ証拠が提出されたが、ポーランドやロ うと計画したが、そう考えるまでもな

3. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

た。ヒムラーは、ヒトラ 1 の分割統治は、ゲシュタボの任務がつぎのように すればの運動も、国家の資金にた よるかわりに、自分自身でやっていけという基本政策をまねて、この二つの規定されていた。 己「ゲシュタボの任務はプロシア全土を るはずであった。将来を考えれば、か部門を同時に支持した。収容所を支酉 なりの資本となる富を獲得できるかもし管理する権限をめぐって、内部つうじて、あらゆる反州政府的な傾向 の権力機構は、戦前の拡張期に複雑にあるものを調査し、これらを抑圧する しれなかった。 とともに、あらゆる不穏の根をさぐ 囚人労働、じっさいには奴隷労働をいりくんだのであった。 ウイルヘルム・フリック内相にしてり、その結果について判断をくだすこ 利用して、石を切り、砂利をつくり、 : ゲシュタボの指令と レンガやセメントをつくるため、会社も、フランツ・ギュルトナ 1 法相にしとである。 か、内情は、法廷といえども公開され がつくられた。ドイツ兵器工場、ドイても、やゲシュタボに干渉するこ ッ採土採石場である。一九三四年のはとはできなかった。二人とも、やることはない」 ゲシュタポは内務省と協力して働い じめに、頑強な労働者あがりの元海軍ゲシ、タポが市民をつかまえ、かれら 士官オスワルト・ポ 1 ルが、指導を裁判にもかけずに″保護拘留〃するたとみられているが、その協力関係に 部のいわゆる事業経営部門の責任者にのをやめさせる権力をもとうとしたがついて、ハイドリヒと部下はまったく ムダだった。 無視していた。 任命された。 当時、秘密国家警察本部でハイドリ化 ヒトラ 1 は一九三六年に、ヒムラ 1 内部で、ハイドリヒを長とする ヒの副官をしていたウエルナー・ベス cn 部門と、ポ 1 ルを長とするこの部門とが布告した事柄はすべて、閣僚布告と のあいだに対立が生じた。ハイドリヒおなじ法律上の重要性をもっと発表しト博士は、プロシアでこの新しい法律て が実施された直後、こう書いている。 の部門は、収容所を処罰のセンターとた。そのヒムラーは、いまや全ドイツ な して監視し、のちには絶減計画のセン警察長官として認められていた。 ーー・国家社会主義者の総統国家がっ 憲法のカくられたことによって、ドイツには、戦 タ 1 とするわけだが、いっぽうのポー も及ばず国と指導者への非難攻撃を、強制的な ルの部門は、金かせぎのために奴隷労 プロシアの一九三六年二月の州法に手段で弾圧する政府組織が、初めてで 働の原則をすすめようとする機関だっ

4. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

トラーはすぐそれに応ずる態度さえし 一撃がくわえられたのは、一九三四プした長いリストをもとに、かれらの めした。 年六月三十日の未明。ヒムラーを頭に名前がチェックされ、リストの名と符 このような突然のゼスチ = アをしめいただくによってなされた。その合すちと外へつれだされ射殺された。 して、ヒト一フーは側近たちからの圧力前夜、ヒトラーはミ、ンヘンに飛び、氏名チックと銃殺は、ゲーリングが に譲歩した。レームとを追放しな車をつらねてテーゲルンゼー〔 ミュン中止を命じるまで夜どおしつづいた。 ければならない。 ( イドリヒのが ( ン南方五〇キロの湖〕のサナトリウベルリンその他各地で射殺された何百 用意した書類は、レームにたいする証ムにむかった。レームはまだ床につい人ものなかには、元首相シごフイヒャ 拠、さらに地位の上下をとわず、数百ていた。かれはべッドから引きずりだ ーがいた。自分では気がすすまぬまま 人の不忠誠容疑にかんする証拠がすっされ、車に押しこまれたまま、急ぎミ 副首相の座にあった。ハー。ヘンは、ゲー かりそろっていた。はいまやナチュンヘンにつれかえされた。 リングのとりなしでかろうじて一命を 党諜報機関として、ヒトラーに公式に激怒しながらも、レームと対面してとりとめた。現職の副首相を殺害する 認められ、あらゆる情報を収集してい当惑したヒトラーは、訊問や処刑などのは、たしかに、まずいとかんがえた たのだった。 いやな仕事は部下にやらせた。だが責からだろう。 ヒト一フー 褐色シャッ団は一カ月の公式休暇が任者たちのあいだには、あるていどの 出され、レームは病気療養のため部下混乱があった。レームは、ベルリンで 「総統」に をつれて。 いつぼうヒトラーは、すべてがふた ハバリアにひきこもった。くのナチ演習日がおわったのちの七月二 るべきものがなんであるかに気がつい日、ミュンヘンで銃殺された。これが たび順調になったことをみせようとし たヒムラーは、各地の主要機関をいわゆる″長いナイフの夜みであった。 て、首相官邸の庭で、ガーデン。ハーテ 視察し、ヒトラーへ忠誠をふかめるよ ゲーリングとヒムラーは、これをき イをもよおした。ゲーリングは、ヒン う強調した。六月末には、レームその つかけに一連の殺りくを開始した。各デンプルク大統領が、臨終の床につい 他が「クーデター」を計画していると地からの関係者がゲーリングの私ていながら、ヒトラーにこんどの全面 の秘密報告ができあがった。 邸につれこまれた。ハイドリヒがタイ的行動を祝った親書をおくったのを見

5. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

分の氏族帳をいつも携行し、結婚相手少女を妊娠させたとしても、たいていた理想の肉体の基準に、ほとんど資格 にえらんだ娘についても、承認許可証のばあい、その男はその娘と結婚しながなかった。しかし一九三一年六月、 を入手せねばならなかった。このよういでもすんだ。また、だれかの先祖をあらゆる面で、かれの要求をみたすわ にしてダレの事務所には、隊員一十八世紀までさかのぼってみたとき、 かい男を採用した。それがラインハル ハイドリヒだった。 人一人についての " 血統〃の記録があいくらでも、いいかげんな血統をでつ った。それは一七五〇年までさかのぼちあげることができた。 ′イドリ ってみても″アーリア人〃としての血 この " 法律″が、そもそも最初から ヒの登場 が汚れていないことが、証明されてい無意味だったのは、それが人種問題と ハイドリヒは、良家の出で元海軍中 なければならなかった。 いう有害な前提にもとづいていただけ尉だったが、レーダー提督〔一九三五 この仕事を実施するため、人念な方でなく、それをこまかく管理する人間 ~ 四三年、ドイツ海軍総司令官〕にち 法が考案されたし、やがて年がたつにに腐敗があったからである。ヒムラー かいある著名な実業家の娘を誘惑し、 つれての隊員数もふえ、こうしたにたいして、お世辞をつかわねばならのちに捨ててしまったかどで、退役さ 骨のおれる調査をやる調査班の数もそなかったが、氏族帳はやがて冗談としれたばかりの男だった。しかし、ヒム れに比例してふえた。ヒムラ 1 は、いてしか、通用しなくなってしまった。 ラーにとってハイドリヒは、理想的に ちばん大事な仕事をかかえていた戦争外国からみると、ヒトラー政権はのみえた。背が高く、美男で、すばらし のさなかでも、個々の隊員の系図しらちに金髪で青い目の青年、亜麻色の髪い頭脳の持主だった。ハイドリヒは・ハ べに時間をさこうとした。まさに迷信で、かたくひきしまった胸の少女 イオリンがじようずだったうえ、外国 にちかいものだった。 かの女らの肉体は写真刊行物やナチの語に通じ、またスポ 1 ツマン、とくに 万事がバカ・ハ力しかったことはいう戦争映画、宣伝ニ = ース映画などにひフ , ンシングとスキーの専門家として までもない。一般の法律を遵守するよんばんに登場したがーー・で代表される有名だった。また女好きだった。 ようになった。 りも、違反するほうが名誉とされるこ 一六歳のとき、右翼国家主義の自山 ともあった。もしも cncn 隊員が一人の ヒムラ 1 は、他人にたいしてさだめ軍団運動に参加していたので、政治的

6. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

く、自由軍団はなんなくヒム一フーにひチな冒険家アルフレ 1 ト・ナウョクスうっされた。 きわたされた。自由軍団の指導者の一が、計画を実行することになった。ナ犠牲になった収容所の囚人たちは、 人、カール・ヘルマン・フランクは、 ウョクスは、一九四四年アメリカ軍の ″カンづめ〃という暗号でよばれた。 かれらはの医師たちから、あらか 現地の指揮官と同時に警察長官ともとへ逃亡した男である。 なり、 t-oco 長官ヒムラーのために現地何着かのポーランド兵士の制服と、 じめ致死の注射をうたれており、その の治安をはかることになった。 収容所から連れてきた数人の囚人をつあと銃撃によって " 負傷″したことに された。 ヒムラーは、ポーランドとの開戦当かって、国境ちかくのグライヴィッツ これは、ヒトラーがポーランドにた 初に、一つの恥ずべき功績をあげるこにあるドイツ放送局を襲撃させ、ポー とを許可された。これがいわゆる「グランド軍がドイツにたいして戦争を開いしておこなった残酷な「プリツック ライヴィッツ」作戦であった。これは始したかのようにみせかけたのであっ リ 1 ク」〔電撃戦〕を正当化するため ゲシュタポ長官ハインリヒ・ミュラー た。ポーランドの制服を身につけた死に利用した国境″事件〃の一つで、こ が計画した、ドイツ・ポーランド国境体や死にかけた人たちが、地上に横たうしたキャンペーンは、約三週間つづ での偽装国境紛争事件である。ハレンえられ、軍や新聞カメラマンの写真にいたのであった。

7. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

一九三三年、ベルリン・スタジアムの演壇 ものに、 r-o を堕落させたくなかっ王国皇太子ワルデック殿下、伯爵シ、 にたっヒムラーとクルト・ダリューゲ ( 右 ) 。 ーレンプルク将軍、プルンスウィック た。こうしたものたちの暴力行為のお 病壇の下ワルデック殿下 ( 右端 ) とゼップ・ ディートリヒ ( 右からニ人目 ) がいる かげで、ヒトラーにたいする産業界の大司教などがいた。 一九三三年一月三十日、ヒト一フーが 支持は、うしなわれかけていたのであ リングーーーこの段階ではヒムラーでは る。それだけに、とハイドリヒ配首相に就任した瞬間、ヒムラーとハイ ドリヒは、他のナチ指導者とおなじよなかったーー・を主役とする、はなばな 下のに特殊な訓練をほどこし、規 うに、ただちに行動にうつれる用意をしい戦略がくりひろげられた。 律規定を設ける大きな理由があった。 警察国家 かれらはこの規定によって、危険人物していた。ヒトラーが首相に就任した への第一歩 だけで、ナチ党が政権をにぎった、とか をどしどし摘発し、犯罪を告発するこ んがえるのは誤りである。それは政権当時の閣内勢力バランスは、ナチ指 とができるようになった。 ( イドリヒの仕事は、組織のな収奪陰謀の第一段階だったのである。導者たちにとって一見不利であった。 ナチ党は、表舞台、裏舞台をとわず、ヒンデンプルク大統領をはじめ他の政 かで将来の警察国家を示唆する最初の ものだった。いつぼうではすでさらにおおくの困難な仕事をしなけれ党指導者たちとの取り引きの結果、ヒ に トラー新首相にたいして三対一の多中 に、ナチの社会的な威信をきずきあげばならなかった。とくにヒトラーに独 る力として利用されていた。一九三三裁権力をあたえる「全権賦与法、が三数、つまりナチ党一二人にたいして旧来も 年以前でさえすでに、王族、貴族、退月二十三日共和国議会で採択されるまの政治家九人、という閣僚構成にしタ 役将軍、それに教会の高僧までが、でがたい ( んだった。ナチ党は議会でた。右翼で副首相のフランツ・フォンシ ペンは、これでヒト一フーをじゅ の中に名誉職をもとうという風潮に最大の単独政党ではあったが、絶対多 なった。戦後ニュールンベルクの国際数を獲得してはいなかった。これはゲうぶんに牽制できると信じていた。と ーリングが議長にえらばれていても不ころがパーベンは、ナチ党閣僚の一人ム 軍事法廷に提出された証拠書類のなか に、何人かの名前があげられたが、そ可能だったのだ。ただちに計画的行動ゲーリングが、プロシア州内務大臣と なることを承諾した。プロシアは。ハー のなかにはたとえば、メクレンプルクをとる必要があった。その結果、ゲー

8. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

うな指揮官から、下っぱのものまで、 けだすには、なにがいちばんよいか、囚人の約一二分の一はユダヤ人で、 きめようとする気持と、連合軍と単独の看守は四万人だった。しかし囚人の囚人が自然に死んでいくのを見まもっ 講和の交渉をしようとする考えとのあ大半ーーおそらく二五万人ーーは戦争ている以外に、なにひとつできなかっ いだを、さまよっていた。 最後の冬におこなわれた強行軍のあいた。 東部にいた囚人たちは、一九四四年だに、死ぬ運命にあった。したがって、 ついにヒムラーは、四月十日に、英 九月以降の数カ月間、長い行列をつく絶滅は焼却炉だけではなかったのであ国軍にたいし収容所を明けわたした。 、歩かせられるという残酷な移動をる。 五日後、最初の英国調査官のデリック させられた。一九四五年一月、ソ連軍最後の数週間、三月から四月にかけ ・シントン大尉がこの収容所にやって がアウシュビッツにはいったときは、 て、ヒム一フーは、赤十字の保護のもと きて、ク一フマー大尉と対面した。 わずか三〇〇〇人ほどの救いようのなに、スカンジナビアと中立国スイスへクラマー大尉は、英国の将校と正式に い病人が、建物にのこされていた。 ユダヤ人の囚人を疎開させざるをえな会う、最初の収容所指揮官となったわ くなった。 一九四五年初期にのこっていた数百 けである。 ほどの収容所の状況を、明確にするこ ヒムラー、英に英国と米国の両軍が、の絶滅政 とはむずかしい。一九四五年一月中旬 収容所明け渡す策の一部をじかに知ったのは、一九四 におこなわれたある調査によれば、ド そのころ、ベルゼンのようないくっ五年のこの四月である。連合国により ィッ国内の収容所にいる男女囚人数かの収容所は、八〇〇〇人の収容能力押収されたとゲシ、タボの記録に は、七一万四二一一人、そのうち二〇を大幅にこえて、ほんとうの死の収容よって、かくされていたこの犯罪が白 万二六七四人は女性だった。またこの所となった。そこでは、クラマーのよ 日のもとにさらされたのである。 198

9. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

だったからだ。 ロ〕に一〇カ月間幽閉された。わかい五年に権力獲得の運動を開始した。そ 一九二三年〔大正十二年〕かれは入党ヒムラーがもっていた旗の主が、投獄れまでの経験から、不法手段はひきあ されていたわけである。 わないことを学びとって、いわゆる合 した。このときの写真がいまものこっ ているが、おごそかに直立不動の姿ヒトラーの褐色シャッ運動、つまり法的手段で、道をひらく決意をかため 勢で立っており、ヒトラ 1 のミ、ンへ〔突撃隊〕の隊長は、悪名たかいた。つまり、あらゆる選挙を戦って、 ン一揆に参加したときの旗を、しつかエルンスト・レームだった。はナできればドイツ共和国議会と州議会で りにぎっている。ミ、ンヘン一揆の結チ党の支柱であり、街路をわがもの顔多数の議席を獲得することだった。 ナチ党の出先機関は職業化し、有能 果、その翌年に、この未来の総統はラに行進したり、ついには法を遵守する ンズベルク城〔ミュンヘン西方五〇キドイツ人大衆にまでテロをはたらくよな人間があつめられだした。党綱領を うになった。しかしレ 1 ムは一九二五巧妙に演説し、党のスポークスマンと 年、隊長をやめポリビア〔南米のして名をあげた頭のきれる若い扇動者 ヨーゼフ・ゲッペルスは一九一一六年、 中央〕の軍事顧問となった。 ス ル ヒムラ 1 は、グレゴールおよびオッ ベルリンを″征服みするために派遣さ トー・シュトラッサー兄弟のところで、れた。当時のベルリンは " 赤い町〃と よばれていた。強力な左翼の運動があ ちいさな仕事をもらった。この弟は、 ゼヒトラーがいないあいだ、ナチ党のたったからである。 ョめに働き、ヒトラ 1 が釈放されたあと、 ゲッペルスは、背のひくい、ビッコ 相 しばらくのあいだ、運動の指導権をめの毒舌家であり権力をカサにきた傲慢 伝 ヾレとなった。 な男だったが、ベルリンではめざまし くり - ヒトラーの一フィノノ チ ナ ドイツ議会にい成功をおさめた。そしてまもなく党 議席を獲得の宣伝部長となって、つづく数年間 ヒトラーは釈放されたのち、一九一一おおくの選挙を戦った。

10. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

および国家の保護にかんする大統領布し、絞首刑に処せられる。すなわち扇ヒトラーは、軍部、銀行家、実業家 告第一条にもとづき、貴下は、公共治動的な演説をするもの、集会をひらくの″トップ〃の人たちの信頼をかちと 安と秩序のため、保護監禁されるものもの、徒党を組むもの、他人といっしる必要があった。いいかえれば、ヒト とする。理由は、反国家活動の容疑でよにプラブラ歩きするもの、反対政党ラーを政権の座に押しあげるのに役だ ある」 の宣伝に、残虐な話をつかわせる目的った街頭の歓呼の叫びが、いまや秩序 ヒムラーは、収容所の規律をまもるで、強制収容所にかんする情報を真偽をたもつよう要求され、できうること ための規則を細心の注意をはらって書をとわず集めるもの、などである」 なら、解散をもとめられたのである。 きあげた。これにはすでに、もっとも ゲーリング、 一九三三年三月、ヒト . ラーの全権賦 恐ろしい恐怖政治の一端がみられてい与法成立後、恐怖政治の第一段階がは ヒムラーを懐柔 た。恐怖にかりたてるようなうわさをじまった。しかしナチ党内部にはトラ ゲーリングは生まれつき移り気な性 たくみに利用したのである。たとえプルがあった。それはゲーリングがニ格で、しかも麻薬の影響からのがれる ば、強制収容所の拘留期間は " つぎの ュ 1 ルンベルク法廷でのべたような、 ことがどうしてもできず、ある瞬間に 知らせがあるまで〃に公式に発表され・強制収容所同士の競争関係のようなもは、気分がめいっているかと思うと、 ることになっている : : といったようのであった。 つぎの瞬間は精力的になる傾向があっ な。このばあい、刑期が長びくような またこれにくわえて、レ 1 ムがひきた。ヒトラーの権限が絶対的なものだ うわさをたてることも認められた。そいるナチ褐色シャツの手におえぬ失業ということがわかると、ゲーリングの れは、さらにおじけづかせる効果を、者集団は、ヒトラーが政権につく 興味は、空軍などいろいろな他の仕事 もたらしたからである。 と、やかましく報酬を要求したり、反にむけられた。 もちろん、こうしたニュースを流す対者への復しゅうを要望した。 かれは自分の地位を高めるために、 のには、とくにそれに適した、しかもは、首相の座についたヒトラ 1 自身のなんでも屋になろうと考えた。″好人 信頼できるものがえらばれた。 権威に、重大な脅威をもたらしたので物〃として知られ、しかも大衆の人気 「以下の犯罪者たちは扇動者とみなある。 を博したいという願望から、かれは、