の忠 一九三四年〔昭和九年〕から三五年 秘密警察によって、完全に全国を支 誠の誓い 配できるようになったヒムラーは、自のあいだに、不適格者約六万人が任務 は、軍隊とはまったくべつな存 分自身の自由なやり方で粛清したいとをとかれ、の全勢力は約二〇万人 考えた。当初、苦難の時期に〔親に ~ った。それ以後、戦争がはじまる在で、考え方も訓練の仕方もちが 0 て 衛隊〕は人集めを急ぎすぎたため、ヒまで、〈の応募者はすべて " 北欧いた。かれらは事実上、独立した準軍 ムラーが名づけた " 北欧人の国家社会人 , 〔世界最優秀民族と考えていた〕隊、いわば一種の自由軍団であづて、 としてのたかい水準に適しているかど軍隊ではなかった。かれらは非常呼集 主義兵士の秩序〃のきびしい試験に。ハ でもされないかぎり、その存在もめだ うかが要求された。 スできないものたちがいた。 開戦にそなえて強化
一フ もっとも強力なものは、偉大な使ム ぎり、帝国の将来が保証されたと、 アーリア人の偉大さは、その知カ る 命の完遂を運命づけられよう。 かんがえてはならない。この世のあ にもとづいているのではなく、むし すべての教育、訓練制度は、子どに らゆる権利のなかで、もっとも神聖 ろ、地域社会への奉仕に、全力をつ もに、自分たちが他のすべての人た権 なものは、人間が自分のために耕せ くそうとする、その意志にもとづい に ちに匹敵する人間だ、との確信をい ている。ここにおいて、その自己保る土地をもっ権利であること、また、 だかせる方向にむけられよう。 あらゆる犠牲のなかで、もっとも神 存本能は、もっとも優雅な形態とな 人種混こう時代に、種族の血統の る。 聖なものは、そのために流される血 わが種族の子孫たちすべてが、自であることを、けっして忘れてはな最良の要素の保持という義務に全力 をつくす国家は、いつの日か、地球 らない。 分の土地をもてるようにならないか ナチの人種理論家 . ワルター・ダレ ヒムラーの残忍な副官 ラインハルト・ハイドリヒ海軍主計官
国家をつくった。だれでも知っているん首相の座につくと、あっというまにの新生国家を再武装した。そして六年 ように、一九三三年〔昭和八年〕一月、地位をかため、数カ月のうちには、文後にドイツを戦争にまきこんだ。 しばらくのあいだ、かれは、北極圏 首相の座につき、ドイツの政権をにぎ字どおり、おもうままにドイツを支配 から地中海沿岸まで、またモスクワ郊 った、前代未聞の邪悪な支配者がこれするようになった。 ヒトラーの恐怖政治は、わずか一二外やレニングラードからフランス西部 をつくりだしたのである。 ヒトラ 1 は、その十数年まえには裏年しかつづかなかった。だがこのあい海岸と低地国地方 ( ベルギー、オラン 町で扇動家のくらしをしていた。九年だに、ヒトラ 1 は、ドイツ人とおなじダ、ルクセンプルク三国 ) にいたる領 まえにはミ = ン ( ンで武装蜂起して失血をもつ人たちを統合して、ドイツ帝土を占領し、その支配者となった。 敗し、投獄されていた。だが、いった国の国境を修正、大きく拡張し、かれ九四二年までにヒトラーは、ノルウ = 警察国家の創設者 . 一九三六年、親衛隊を閲兵するヒトラーとヒムラー ( ヒトラーの左後方 )
のがさなかった。虐殺から一カ月後のさな痕跡をとどめるにすぎなくなっ リングやゲッペルス、それに co 長官 八月二日、ヒンデンプルク大統領は死 た。 t-o はヒトラーとナチ党のためであり事実上の警察長官ヒム一フーに、 んだ。 に、政治的な規律を実施する、最高機あずけられていった。 ヒトラーは首相府と大統領府を併合関としてのこった。そしては秘密 つぎの五年間、すなわち一九三四年 し、自分自身が「総統」〔フューラー〕諜報機関を、またゲシュタポは訊問官から三九年までのあいだに、ナチ勢力 であることを正式に宣言した。それはを、それぞれ有事のさいにすみやかにの領域は拡大された。一九三五年にべ ルサイユ条約は破棄され、一般徴兵制 国家の最高元首であり、ドイツ軍隊の行動させ、強迫しながら訊問できるよ 最高司令官でもあった。制服を着たすうな体制にかためられた。 度が施行された。一九三六年には非武 べての人間は、それぞれ忠誠の誓いを 以上はヒト一フーの首相在任一八カ月装地帯フィンラントが占領され、ロ 1 たてる義務を課せられた。 間の結実であった。警察国家ができあマ・ベルリン枢軸が宣言された。いつぼ 七月二十日には、すっかり評判がったのである。ドイツの国内情勢にう、オーストリアはドイツに併合 ( ア をおとした«< から正式に独立した。 安心したヒトラーは、しだいに注意をンシ、ルス ) され、チェコスロパキア とポーランドに圧力がかけられはじめ レ 1 ムその他の指導者をうしなった外にむけはじめた。国内問題と治安問 こ 0 は、これでナチの歴史のなかで、 題は、かれの代理人たち、とくにゲ 1 ヒムラー、ゲシュタポも掌中に
いただろうか ? へスーー。ーはい。 毎日一万ニ へスーー・大多数の人は知らなかった エーメンーー・それなら、あなたはど 千人以上が・ と思います。というのは、かれらをだ うして、こんなことができたのか ? へスがのためにつくりあげた、 ます手がうたれていて、殺されにいく いろいろと疑いはもちまし文字どおり、死人の社会 , ーー・大量虐殺 というような疑いがおこるはずがなか キャンプ たが、ただ一つ決定的だったことは、 も所在地によって事情が ったからです。たとえば、建物のあら厳格な命令があったことです。ヒムラちがっていた。トレプリンカの話が、 ゆるドアや壁に、シラミとりやシャワ 1 長官は、その命令について説明してそれを証明している。 ーをあびにいく、と思わせるような文くれましたが、その理由も決定的なも 人所してくる囚人たちに、連れてこ 句が書きこまれていました。 のでした。 られたところが、住宅ふうの労働セン エーメンーーーあなたは、わたくし ターだとあざむくため、ニセの鉄道駅 ルドルフ・ヘス【アウシュビッツ収 に、死ぬ直前、犠牲者が意識不明の状 容所長。一九四五年、逮捕後の写真がつくられていた。しかしそれでも、 態におちいるといったが ? 囚人たちが団結してとった断固たる行 へスー・・ー、そうです。わたくしが自分 動は、の武力のウ一フをかくことが で知ったかぎりでも、あるいは医務官 できたのである。トレプリンカ収容所 からきいた話でも、意識不明ないし死 は事実上、囚人たちのレジスタンスに ぬまでに必要な時間は、温度とか、ガ よって閉鎖された。 ス室内にいる人間の数によってちがい だが、アウシュビッツはのこった。 ました。意識をうしなうには、数秒間 この一つの町のように大きな機構は、 から数分間かかります。 そこに住むものを、一度に破壊できる 工 1 メンーーーあなた自身の家族や子 ように考えられていたのであった。一 どもたちのことをかんがえて、犠牲者 九四三年から四四年の間、最盛時には に同情したことはありますか ? 約一〇万人の男女が住むことができた
範と、 ()0 がいわゆる″アーリア人〃 の血統の代表として責任をもてるよう に、その″純粋〃な血筋を追跡する方 法などを規定するために設けられた。 それによると、黒髪より金髪が、スラ プやラテンよりゲルマン人が、このま れた。そしてその結果、一九三一年十 をこえた。しかし、それでもなお ()D 人によってはじまっていた。 なぜなら、かれらはヨーロツ。ハ各地二月に、親衛隊婚姻法が成立した。そ は名目上の一部だった。 ()D と の重要な個条はつぎのとおりである。 は、ともにドイツの増大する大量失に住んでいて、すでに輝かしいドイツ 結婚しようとする隊員はすべ 業者にたよりとされていたのである。人の血統を、血縁関係をむすぶことで て、隊長の結婚許可証をとらな ″汚し〃ていたからである。″純潔〃 ヒムラ 1 は、元公務員でのちにヒト ければならない。 ラー内閣の農相となった友人、ワルタは冷酷の原則をともなうものである。 隊員で、結婚許可証を拒否さ一 ダレの師匠、ロ 1 ゼンベルクはこう ・ダレとともに、隊員のための特別 れたにもかかわらず結婚するものム 人Ⅲの理想が、支配的 な婚姻法を考えだした。ダレは一九二書いていた。″リ る は、 cn TJ から除名される。 九年に『血と土』を書いており、ヒム人種の被支配人種統治権を阻害すると 結婚申請の細目を検討するのは、に き、文化はつねに堕落する″ ラ 1 を″血の宗教″に帰依させた。 カ 人種局の仕事である。 親衛隊の 権 それは、人種的に純潔な人間である に 人種局は、氏族帳を管理 婚姻法 とか、〃下級〃な人種におかされたもの AJ から卓越した人間性をもっ金髪の救済ダレはもっとも重要な「人種・移民する。これには結婚許可証が交付さ れたのち、隊員の家族が登記さ 者、といったような異教徒の迷信 " 強局」を組織するため、一九三一年、 下本部にくわわった。この新しい役所れる。 い農民〃が復活したものだった。″ 一九三二年以降、すべての隊員は自 級″人種の浸透は、ユダヤ人やスラブは、こんごがまもるべき人種的規
調子で、かれ自身の虐政ぶりを記しておこっていたかについては、いっさいう。つまり、われわれは原則的にドイ いるが、これはニュールンベルク裁判発表しなかったという。「私はマイダ ツ国民にだけ同情をもつが、その他は のさい証拠物件とされた。証言台にたネックやトレプリンカ、あるいはアウ全世界のいかなる国民にも同情はもた たされたフランクは、精神状態が不安シ、ビッツには、一度もいったことがないということである。他国民もまた 定で、ざんげ者のようだった。 なかった」と、フランクはニュールンわれわれには同情をもっていない。 かれはニュールンベルクで、疑う余ベルクで言明した。しかし、かれは日古くからの国家社会主義者として、 地のない一連の戦争犯罪の事実をつき 記のなかで、が現実にやっているわたくしはつぎのようにいわなければ つけられた。これらは、かれの領土内ことについて全面的に共感していた、 ならない。すなわち、われわれがヨー でおこなわれたものだった ( トレプリ とハッキリ書いている。 ロツ。ハを救うために、われわれの最良 ンカ、ベルゼック、ルプリンーマイダ フランクの血を流しているいつぼうで、全ユダ ネックの絶滅収容所は総督府領内にあ の日記ヤ人が生きながらえているとすれば、 った。アウシュビッツは領外だった ) 。 たとえば、かれは一九四一年十二月それは完全な成功とはいえないという ことである。したがって、わたくしの 罪状をつきつけられたフランクは、ほのある″閣議〃で、かれ自身が語った とんどすべてのナチ党員が、戦後の裁ことばをつぎのように記している。 ユダヤ人にたいする態度は、かれらが 判で窮地に追いつめられたさいにつか ユダヤ人にかんするかぎり、わ消減しなくてはならないという期待に った口実を、おなじようにつかった。 たくしは率直にいって、なんとかして根ざしている。かれらを除去しなけれ ばならない。 それは、ヒトラ 1 と co がやったこと除去しなければならない。 については、なにも知らなかった、と ドイツ帝国で現在ユダヤ人にたいし 紳士諸君、わたくしは、あなたがた いうものであった。 てとられている多くの措置が、非難をが憐びんの感情を捨てさるよう、お願 フランクによると、ヒムラーたちうけていることは知っている。 いせねばならない。われわれは、ドイ は、絶対的な権限をもっており、かれ話をつづける前に、わたくしはつぎッ帝国全体の構造を維持するため、ユ らが専有していた地域でどんなことがの点で、みなさんの同意をえたいと思ダヤ人を見つけしだい、またできるか
東へ移動させることを、かんがえてい決 , 命令をハイドリヒに指示したのたちにいたるまで、範囲がひろがっ た。 るくだりがある。また、戦後、マダガは、かれだった。 けつきよく、数万におよぶものが、 ヒムラーの閉鎖的な集団についての スカルをユダヤ人居住地とするという 昔の夢についても書きのべている。そ話も、同様に明らかになりつつあつなんらかのかたちの直接体験で、その た。行動隊の仕事は、かれらがやって出来事を知っていた。また、もっとお の三月の末、かれはヒトラーから真実 をきいた。 おくの人たちは、ウワサや風聞で知っ いるところを見た人たちにとっては、 " ポーランド総督府の管理下のユダヤじゅうぶんすぎるほど明瞭だった。そていた。問題は殺人の直接経験なしに 人は、現在、東方へ疎開させられていして、おおくのばあい、たとえ本人がは、だれもこのことを本当と信じなか る。そのやり方はきわめて野蛮で、こ否定しようと、行動隊がなんのためにったことだ。だれもそのような大規模 こでくわしく語ることはできない。ごあるのか、ドイツ軍の上級将校と兵士の人類全滅ができるとは思わなかっ た。しかしユダヤ人は労働収容所へお く少数のユダヤ人しかのこらないだろたちが知っていた証拠がたくさんあっ くられ、うたがいもなく苛酷な待遇を う。約六〇。ハーセントは殺され、だいた。 たい四〇。ハーセントほどが強制労働に だが、ひとたび集団殺りくが東部のうけて死んだのだ。 : これは、アーリ 大量虐殺を信じ つかわれている。 収容所のなかにかくされてしまうと、 なかった連合軍 アン人種と、ユダヤ人というバクテリほんとうになにをやっているかを知っ 大量虐殺についての、確実な証拠が アとのあいだの、生と死の闘争なのている人の数はかぎられてしまった。 ではじめたとき、連合国側でさえ、こ路 だ。他のいかなる政府も政権も、このしかしその数は、少数だからといって、 ような世界問題解決のための力をもて無視しきれるものではなかった。収容れをまったく信じがたいことだとしての ないだろう〃 所になにか関係があったとか、ちかく否定した。ハンガリーのユダヤ人たち国 ゲーリングは、ニールンベルクに住んでいたとかいう人たちから、あでさえ、一九四四年、アウシ、ビッツ警 のような信じがたい苛酷な状況で、ユにおくられるため集められたとき、こ で、集団殺りくにかんする知を」 0 さい否定した。しかし有名な最終解ダヤ人捕虜の追放に、まきこまれた人れらのウワサを信じなかったというの
ったという話をきいて感銘をうけたのいたものをつかって、疫病実験をはじ医師、ない医師をとわず、大ぜいの医 だった。だが、この子どもは、のちにめた。この仕事に関係した医師の一人師と称する人間が、まったくデタラメ な、しろうとじみた考えで、この実験 なって、誘かいされていた他人の子だは、医師裁判でこう語っている。 ということがわかった。 「わたくしは、われわれの実験材料ををこころみたのだった。断種のため、 また、ラッシャ 1 の実験は、バカ・ハ生きかえらせようとしているのだと考いろいろな方法がこころみられたが、 力しいかぎりのものにまで堕落した。 えた。かれらはドイツの法律のもとでいずれも失敗した。薬品をつかう方 人間を一定時間、氷結点すれすれの冷生きているのであって、さもなければ法、生殖器に >< 線を照射する方法、さ 水のなかに漬け、あとで収容所の売春死刑をまぬがれない連中だった。 らに子宮のなかへ酸を注人する方法な 婦をつかって体を " 温め〃て生きかえわたくしは当時、自分で自由にきめらどがとられた。男も女も、身体のもっ らせる、というやり方だ。これらの実れる民間人としての医師でなかった。 ともきずつきやすい敏感な場所が、き 験は、空軍にとって、ひじように大事わたくしは : : : 規律のもとで動く兵士ずつけられ、メチャメチャにされて、 なことだ、との理由でおこなわれた。 とおなじように行動せねばならぬ、一苦悶のあげく死亡した。 実験は年がたつにつれて、ますます そして、ラッシャーが誘かい罪で逮捕医学専門家にすぎなかった」 されるまで、こうした実験はつづけら 断種の拡大された。たとえば、チフスや流行 れたのだった。ラッシャーは、一九四 実験性肝炎のビールスの " 研究〃や、整形 五年、収容所が解放される直前に、ダ だが、あらゆる実験のなかで、もっ外科手術がほどこされた。囚人の手足 とも悪質で、かつ大規模になされたのがぬすまれて、ラーフェンスプリュッ ッハウで銃殺された。 しかしヒムラーは、こうした人体実は、大量断種の方法を発見しようとすクちかくの療養所にいた、ゲーブハル 験の考えに " とりつかれ〃ていた。そるものだった。この実験に成功すれ トの患者にあたえられたことがあっ して、かれにいちばん近い医学顧問のば、一つの民族全体が、単純に、しか た。この療養所は、ゲーブハルトが運 ゲーブハルトは、ポ 1 一フンドの女囚で、 も、やすやすと、一世代だけで抹殺さ営していたところで、ヒム一フ 1 がとき すでにガスえそで死ぬことがわかってれる可能性があった。〃資格。のあるどき療養にきて、慢性胃病の治療をし 142
かれにはに接近できる仕事はまっ 目には、りつばな知識人も堕落した人はアウシュビッツの所長となったが、 たくなかったのである。 最後の肩書は中佐だった。 間としてしか、うつらなかった。 命令に従 はとくに末端組織の中で、ヘス 汚れた仕事をさせる人間をさがすた のような忠誠な人間がほしかった。こめに、 t-D()D は刑務所から人を集めた。 へスの心の奥には、非人間的な宗教 れら忠実な刺客たちは、べつにサディそれが看守であろうと犯罪者であろう ズムに特別な喜びを感じていたわけでと、かれらにとって、ほとんどちがい上の″しつけ〃がある。ニ = ールンべ ルク裁判のさい、アメリカの囚人心理 はなかったが、部下に指図して、やらはなかった。たしかに戦争前は、 せているうちに、アッというまに、こでフルタイムに働けて、しかも仕事に学者・・ギルバ 1 ト博士が、証人 台にたったへスに質問したとき、かれ の仕事に無感覚になっていった。犠牲適した人間を志願制度で集めるのは、 は自分自身のことをくわしく説明し 者のおおくは社会的にも知性的にも、 いくぶんむずかしかったようだ。 かれらより上にいた人たちで、部下た へ、スは一九二三年、とくに残酷な殺た。 一〇年の禁固「わたくしはひじように厳格なカトリ ちが嫉妬心から恨みをいだいていた人人事件の仲間にはいり、 たちだった。 ックの伝統の中で育ちました。わたく 刑をうけた。しかし一九二八年に釈放 収容所にやってきた新入りの囚人たされ " 民族〃農業センタ 1 で働いていしの父親は、きわめてきびしく、狂信 的で、わたくしを神と僧職にささげよ ちの中で、社会的にも職業的にも、まるときに、初めてヒムラ 1 とあった。 : わたくしは祈らな た知性的にも高い地位にあったものた へスのでの昇進ぶりは、おどろうとしました。・ て ちは、囚人の身でも、あるていどは特くほどはやかった。一九三四年にダッければならず、しじゅう教会へいき、 権のようなものがあるかもしれないと ハウの看守だったが、一九三五年に班ちょっとした過ちにも、罪のつぐないな そ 考えていた。しかし、その逆に、野蛮長、一九三六年には特務曹長とをしなければなりませんでした」 に かれは自分の過去が、いかに孤独で戦 人たちからなぐられるだけであり、こなり、同年少尉に昇進、一九三九年に の世でもっともけがらわしい仕事を、 は、新しく建設されたザクセンハウゼあったかを、たえずなげいた。結婚はし すぐにやらされるだけだった。刺客のン収容所の所長となった。開戦後かれたが、妻にたいしてほとんど愛情をも