このためケルシュテンは、戦争のさ の、住宅建設労働の見通しについて調にすればよいと、いうつもりはない。 なかにヒムラーの告白のきき役となっ もっとはっきりいおう。〃根こそぎ〃 査した。のちに一九四二年、ヒムラー は二度目の訪間をしたが、このときはとは殺すか、殺されるように仕むけるていた。ケルシュテンによると、ヒム 一団のユダヤ人囚人の " 処理〃 ( 絶滅 ) ことだ。わたくしは、男を殺して、子ラーは " 死者の身体をふみこえて、新 を見ることにきめた。かれは吐き気をどもたちを育て、われわれの息子や孫しい生命を創造することは、偉大な呪 たちにとって、復しゅう者にするよういだ″といった。 もよおした。 ヒムラーは、汎ゲルマン帝国主義と ヒムラーは、Ø()D 士官あるいはナチな危険は、おかしたくない。われわれ 幹部との秘密会では、冷酷そのもののは、これらの人々を地上から消滅させいう昔ながらの夢で、自分をささえて 演説をしたが、そのことばは、すでになければならないという、きびしい決いた。英帝国をモデルにした植民制度 で世界を制覇し、ドイツ帝国によって 何度も引用したように、ナチの歴史の定に追いこまれているのだ。 ヒムラーのヨ 1 ロツ。ハを支配するという夢であっ 一部となるものであった。 マッサージ師た。 ロシア人やチェコ人の身の上に ヒムラーはこの計画から、神を除外 ヒムラ 1 のマッサ 1 ジ師であるフェ なにがおこったかは、わたくしにはす こしも関心がない。 : かれらが、わリクス・ケルシ、テンは、回想録を出することはしなかった。かれはケルシ殺 ュテンにこう語っている。 れわれの文化の奴隷として必要なのか版したが、このなかで非公式にのべて 量 いるように、ヒムラ 1 は、しなければ「自然の背後に、なにか、より大きな大 どうかという点だけである。 一万人のロシア女性が対戦車壕を掘ならないことに、ひじように悩んでい存在がある。もしわれわれが、それをげ って、疲れきって倒れたとしても、わた。 認めるのを拒否すれば、われわれはマの ルクス主義者となんら変わりない。わ労 たくしに関心があるのは、対戦車壕が若いころの精神的な悩みが、ヒム一フ 1 の胃けいれんの原因となり、慢性胃たくしは、隊員は、神の存在を信奴 完成したかどうかという点だけであ る。 じなければならない、といいたい」 病となった。ケルシュテンのマッサ 1 ジだけが、ヒムラ 1 を救った。 わたくしは、男たちだけを根こそぎ
してこの独立した政治警察は、ドイツ警察で支配し、権限を強めていった。 その収容所を閉鎖した、と主張した。 ゲシュタ最大の州プロシアで、ダリューゲとデ四月には・ハバリア〔・ハイエルン〕を、 イ 1 ルスによって、とうぶんのあいだ十月にはハンプルク、そして十二月に ポが発足 はメクレンプルク、リューベック、ウ ゲ 1 リングは四月二十六日に、プロ支配されていた。 ヒトラーはヒムラーをミュンヘン警ュルテンベルク、ヾ シア政治警察を、プリンツ・アルプレ ヒト街八番地にあるかれの本部に移転察の長官に任命した。あきらかに二番ン、チューリンゲン、アンハルトの各 州を支配した。そして一九三四年一月 した。この地名はのちに、ナチ政治犯目のポスト以外のなにものでもなかっ た。しかしヒムラ 1 はこれを利用するには、オルデンプルク、プレーメン、 用の刑務所、訊問される犠牲者にとっ サキソニー〔ザクセン〕にも政治警察 て、最悪のあっかいをうける場所としことができた。ヒムラーは、のハ て悪名をはせた。六月にこの警察は公イドリヒをつかい、ゲーリングの方式をつくりあげた。 ヒムラーの にしたがって、急ぎ配下の警察を粛清 式に改名されて「ゲハイメ・シュタ 1 強制収容所 ッポリツアイ」、秘密国家警察、もしくした。ミュンヘンには、ベルリンと同 かれはまた、ミュンヘンから約一九 はゲシュタボと名づけられた。ゲ ーリ様に政治警察ができた。そして、おお ングは、ヒムラーとおなじように、こ くの警官はこの新しい主人につかえるキロのダッハウに、かれの″モデル〃 の時期に統一ドイツ政治警察の長官に態度を明らかにした。かれらのなかに強制収容所をつくった。一九三三年三 なる夢をいだいていた。そしてかれは、は、のちにゲシ、タポ長官となるハイ月のことだった。ヒムラーの " 保護監 禁〃にかんするみじかい命令書は、つ 自分の敵を自由に逮捕する権力がほしンリヒ・ミュラーがいた。 いと、あからさまにロにしていた。 一九三三年四月から、全ドイツの統ぎのように書いてあった。 いつぼうヒムラーは、いちばんほし一政治警察の長官となった一九三四年「一九三三年二月二十八日付けの人民 四月までのあいだに、ヒムラ 1 はヒト がっていた権力をしばらくはもてず、 ヒムラーは、ゲーリングによって一時期は ゲ 1 リングの非情なエネルギーのまえラ 1 の力をかりて、ゲーリングのプロ おさえられていたが、最後にゲシュタポを に、譲歩しなければならなかった。そシアをのぞく各州を、つぎつぎと政治支配した
ひじように露骨になった。カナリス提ムラーがしたがわなければならなかっ避けつづけてきた。一九四三年八月、 ヒム一フーは内務大臣となり、ただち 督の統率する軍諜報部 ( アプウェ 1 ア ) た人間は、ヒトラー以外に、だれもい が一九四四年、〔の諜報組なかった。一九四〇年、ヒムラーは四〇に、内務省の大半の仕事を、かれが完 織〕に吸収されただけでなく、国境警歳のときに布告を発し、警察の任務に全に掌握していた国家保安本部に移管 つくすべてのものは、最高指導者したのであった。 察 ( グレンツポリツアイ ) までもが、 ヒムラーは自分の権力を、人目につ としてのヒム一フーだけに、忠誠をつく ゲシュタボに権限をうばわれてしまっ こ 0 かないように大事にした。心の底では すよう要求された。 このため、ヒムラ 1 の行動についていぜんとして事務屋的な世捨て人だっ 終戦までに、プリンツ・アルプレヒ ト街の建物〔ゲシタポ本部〕は、ヒ裁判ざたがおこっても、法廷に警察組た。中産階級特有の良心から、かれは ム一フーの行政拡張によってどんどん拡織のメン・ハーを召喚できたのは、ほか自分の立場を利用して富を蓄積しよう とはしなかったし、またゲーリングの 大され、最後にはベルリンに三八階建ならぬヒムラーだけだった。しかもこ ように、はでな王侯きどりもしなかっ の特別法廷の裁判長は、ヒムラー てのビルができあがった。 あくまでの息のかかったの判事にほかならた。 かれは、書類と、書類が積みあげら " 陰の人なかった。 ヒトラーをのぞいて、ナチ指導者のれたデスクに満足していた。宿命的な ヒムラーは一〇年のあいだに、約二 〇〇人の組織の指導者から、ヨーロツなかでヒムラーほどの権力を行使でき官僚であること、絶対的な主人にたい する絶対的な召使いであることに、満 。ハの大半におよぶ全ドイツ警察活動のた人間は他にいない。しかしヒム一フー 絶対的な支配者となったのである。ヒはその性格から、脚光をあびることを足していたのである。
な資格もあった。この運動は第一次大関だった。かれはヒムラーの右腕となリン・グやゲッペルスたちは、すこしで り、ヒムラ 1 が決断を長びかせているもヒトラーに影響力をおよぼそうとし 戦後の困難な時期に、ドイツの法と秩 ようなときは、その冷酷な力で事を処て、たがいに、しよっちゅういがみあ 序をまもるための、独自の思想をもっ っていた。ヒムラ 1 は、他の党員たち 理した。 ていた。 と同じように、共和国議会で重要な役 ヒムラーは、その鼻メガネの奥にか かれはカトリックの信仰をうしなっ ていたので、難なくヒムラーの異教徒くれた忠誠かっ忠実な党員、多少追従割をもってはいなかった。かれらが議 的な儀式に喜んでしたがった。もちろ的であっても皮肉をこころえた、独特席をもっていたのは、国家を収奪しょ ん、まったく・ハカげたことと自分ではのイメ 1 ジをつくりあげた。だれがみうとする陰謀の単なる一時的手段にす ても、かれがほんとうにおそろしい人ぎなかったのだ。 考えていたのだが。 この段階でとどまっていたことは、 司とはみえなかった。むしろかれには 諜報組織の尸 ヒムラーにはちょうど似あっていた。 「保安部隊」親衛隊長官の肩書は、かちすぎてい かれは、忠実で勤勉な人間とみられる ヒムラーはかれを、あらたに創設した。かれは人種の″純潔〃という、も たの諜報組織「保安部隊」っまりのわらいのタネになるような、奇妙なだけでじゅうぶんで、それ以上は望ん一 でいなかった。かれはむしろ自分を、ム の隊長に任命した。ハイドリヒは考えをもった男にすぎなかった。 ヒ かれは、ゲ 1 リングやゲッペルスの将来の精神的指導者、いうなれば、る ただちにこれを高度に組織されたス。ハ イ網にしたてあげた。これは、各人にようなやりかたで、ヒトラーの側近仲を弟子とした予一一一口者だと、考えていに カ たのである。 ついての必要な記録をあつめた秘密機間にはいろうとは思わなかった。ゲ 1 権 に AJ
で、ヒムラーがたえず論議しハイドリ名誉とは忠誠を意味する。であった。 さいカギをかけてはならないと命令し ヒがそれをつねに実行にうっす二つの 「の人間にとって、一つの絶対的たことがある。これは、隊員はっ 基本線によってつらぬかれていた。一な規則がある。それは、われわれとおねに信頼できるという想定があったか つは " 頑強さ。を尊敬すること。つまなじ血の人間にたいしては、正直であらであった。あるとき、ヒムラ 1 はこ り政敵や、収容所内の″害虫〃〔人間 、礼儀正しく、忠誠で、しかも友好的ういったと記録されている。 のクズ〕にたいする頑強さである。もでなければならないということだ。し「しかし、こうした騎士道 . 的な態度 う一つは、内部の仲間にたいするかし、異なる血にたいしては、まったを、ユダヤ人や共産主義者にたいして 忠誠、つまり同志への奉仕であった。 くべつである」とヒムラ 1 はいった。 もとろうとするのは、狂気のさたと考 のモット 1 は〃われわれにとって ヒムラ 1 は宿舎の戸棚類にいっえねばならない。 ワルター・シェレンベルク
をあたえられたのは、一九三六年のこ勇士の一人〕と称し、自分こそヒトラ 秘密政治警察の長官職にあることは、 1 の副官だと信じていた。だからこ 自分にとって、よくないことになるか とであった。 ヾレ、ヒそ、かれは、プロシアのゲシュタポを ゲーリングがなぜこのライノノ もしれないことに気がついた。 やり手のヒムラーにわたし、かれと同 ヒトラー総統はこの不愉快な職をムラーを懐柔し、かれと手をむすんだ 親衛隊長官ハインリヒ・ヒム一フーにかについては、他に重大な理由があっ盟をむすぶという取り引きをしたのだ びきわたすよう、ゲーリングを説得すた。それは、危険な手におえぬ人物レった。そしてヒムラーはこの仕事に真 ームが、一九三三年十二月に閣僚の一剣にとりくみ、ヒトラーにおおいに気 ることに成功した。ヒムラーはヒトラ 1 に、政治警察を単一の国家権力のも員となったからであった。これは、こにいられるようになった。 暗黙のスケジ、ールのなかで、つぎ とに統合するよう、しつこく要求してのように優遇することによって仲間た いたのだった。ゲーリングはニ = 1 ルちに気をもませておく、というヒトラにおこった事件は、ドイツからレーム 1 の直感的な自己防衛の性質によるもを追放することだった。当時レームの ンベルク裁判の証言で″総統がわたく しにそうするよう要望し、またそれがのだった。突然、なんの相談もなく昇びきいるは、隊員数約一二〇〇万と 正しいことだと語り、国家の敵と戦う進させれば・ーーよくゲ 1 リングがそう推定され、一つの巨大な、私設軍隊と に 化していた。しかし、ヒムラ 1 の中 には、全ドイツをつうじて、統一され考えたように 1 ー自分こそはヒトラー た方式にするのが必要だと説明したとのお気にいりだと考えたがる人たちとハイドリヒの秘密資料をもっても き、わたくしは実際に、警察をヒムラに、絶大な心理的効果をもたらしたのすれば、レーム追放はたやすいことでタ あったろう。ヒムラーはまず本部をペシ である。 1 にひきわたしたみとのべている。 ルリンにうっし、ゲーリングとともに、 突撃隊のレ ヒムラ 1 は一九三四年四月二十日、 ヒトラーの頑強な意志にそって協力し一 ーム追放へ プロシアのゲシュタポをひきつぎ、ハ ム ゲ 1 リングは、みずからヒトラ 1 のた。 イドリヒを副官とした。しかしヒムラ ヒ ヒトラー総統は思いがけない幸運に ″。ハラディン。〔中世フランスの物語 1 が全ドイツ警察長官としてヒトラ 1 に正式に認められ、閣僚としての地位にでてくるシャルマーニ = 大帝の一二すっかり気をよくしていたが、慎重な
ヒムラー ヒムラ 1 は一九〇〇年〔明治一一一十一一一には、ヒムラーは士官学校にはいる資 ナチ入党 年〕に生まれた。父親はカトリックを格のある年齢になっていた。かれは健 ドイツが負けて戦争がおわると、ヒ 信仰する人格者であり、教員だった。康に自信がなかったが、軍人になると ドイツ南部のパ・ハリア〔・ハイエルン王いう野心にとりつかれていた。そのうムラーは軍人になることを断念して、 国〕のハインリヒ王子の家庭教師をやえ、戦時下の学校生活のあいだに、か農業の勉強に転向した。もちろんかれ ったことがあり、その名をとって息子れの熱狂的な国家主義がカづよくそだは、新しくできたナチ党にはいるのを ためらわなかった。ナチ党は、かれの をハインリヒと名づけた。 てられていた。 考え方にびったりの右翼国家主義運動 第一次世界大戦がおわる一九一八年 (f) とともに権力にぎるヒムラー
アウシュビッツでおこなわれた最後くなるし、このように大多数を殺してやわらげ、あるいは、かれらを釈放し の大量絶滅行為は、ハンガリー・ユダしまうことは、だんだんむずかしくなてしまったらどうかとの個人的な圧力 ヤ人の大虐殺だった。一九四四年のおってきて、収容所の最大の問題になつをつねにかけられていた。また国際赤 わりに、大量虐殺収容所は、ソ連軍のていた。が搾取する労働力の市場十字からも、職員の収容所訪問を許可 はうしなわれつつあったのである。 進撃におびやかされるようになった。 し、食糧と小包み供給や、苦しみを軽 ヒムラーは、 ()0 〔 co の諜報組減するために、とりきめをしようとの ヒムラーとは、絶滅計画全体に ついて第二案をかんがえていた。囚人織〕のシェレンベルクとケルシュテン要求が、ヒムラーに公式にだされてい た。じっさい、ヒムラーは、なにをし は労働力として、だんだん役にたたなの二人から、ユダヤ人の現状をもっと 戦局不利、収容所を解放
一九二七年、ヒムラーはベルリン出行動的な人間にはみえなかった。しか へ 身の看護婦と結婚した。かの女はヒムもゲッペルスのように、知識人とよば ルラーより七つ年上だった。二人はミ、れるような気どりもなかった。むしろ ル とるにたらぬ一官僚だった。ただ他の ンヘン郊外の田舎に小さな農場をかっ ものとちがう点は、一貫した忠誠心と 官たが、ヒム一フーはの仕事がおおく を副 ななるにつれ、農場の仕事にかまってお熱情的な国家主義、人種的誇り、それ 忠れなくなった。そして一九二九年、わに困難な仕事に直面したとき、すべて の ずか二八歳のときに、全体を支配を犠牲にできる能力などによって、 統 ップにのしあがっていスタミナがあ 総するようになった。の長官という 偉大な称号をもらい、死ぬまでこの地ったということだ。 、ヤ位にあった。 ヒトラー座の イ 主役あつまる このころ親衛隊は、その特殊な任務 のわりには小規模なもので、〔突ヒトラー座の主役があつまりだし ュ ル撃隊〕に従属していた。ヒムラーが指た。ヒムラーは、一九三〇年までは、 ウ揮する隊員は、わずか二〇〇人ていど著名人物の中にはいっていなかった。 だった。ヒムラーは、本質的には事務かれは演壇にたって人目をひくような ( 屋だ 0 たことを、理解しなくてはなら男ではなかった。むしろ権謀術数の人 ない。かれは慎重な男で、ねばりづよ物だった。 の さをもっていて、行政的なこまかい仕やがて一九三〇年代の初期に、ヒム 一伝 ラーは重要人物のひとりにかぞえられ 一」事に情熱的にとりくんだ。 ダ かれは目がわるく、胃がよわかっ るようになった。著名な演説者には、 ュ 反た。やせた病弱な身体のため、とてもまず、ヒムラーの昔のやとい主、グレ ッ
プルンナ 1 をふくむ、ヒムラーにとっ てきわめて貴重で大量の人材だった。 ユダヤ六百 万人の処置 ドイツのにとって重要人物は、 すべてウィ 1 ンにいた。ヒムラ 1 、 イドリヒ、シェレンベルク、それにア イヒマンといった面々である。 カルテンプルンナ 1 は弁護士出身だ が、顔は無表情そのもので、巨大なぶ