1 にのこった他のユダヤ人も、奴隷労オーストリア、ズデーテンラント、ポたばかりか、長官の指令する政治 ヘミアーモラビアの占領のさいーー・警活動と相反するべつの命令系統をつく 働の対象となった。ロージ〔ワルシャ りだした。警察行動にかんする指令 ワ南西一二〇キロ〕にあるゲット 1 で察行動隊は、総統の特別指令にしたが は、一九四〇年五月から一九四二年六 って、先遣軍隊とともに進駐した。ポは、とくにくいちがった。 月までに、一〇万の住民のうち三万人 1 ランドには、行動隊は戦闘部隊とい数千人におよぶポーランドの指導者 っしょにはいった。そしてまず予備的グループを抹殺せよという命令がださ が死んだ。 れたが、この命令については、軍隊の はポ 1 ランドで、侵略にあたつな仕事をやり、その結果、逮捕したり、 司令部はツンポさじきにおかれ、下級 ての役割の。ハターンをつくったよう重要な政治文書を没収、保管して、ド だ。ユダヤ人再定住の仕事は、突ィッへの敵対運動に大打撃をあたえる幹部だけが知っていた。このため、警 撃部隊の〃ドクロ部隊〃ーーー約七四ことができたのである。こうした敵対察との行動は、勝手気ままで、残 〇〇人 , ーーと、これを補佐するハイド 運動は、移民者、フリーメーソン〔中忍で、しかも許可なくおこなわれたよ リヒの行動隊、に編入されたドイ世の石工組合を母体とし、世界の友愛うにみえたのである。 犠牲者よりも ッ警察との組みあわせで、実行されたをとなえる国際秘密結社〕、反政府的 ようだ。 殺害方法に関心 教会団体などによって指導された、第 ヒムラーは、がなすべきことに ハイドリヒ自身、一九四〇年七月の三帝国にたいする世界的規模の運動だ 専念した。だがそれ以上に注意をした 覚書のなかで、行動隊の活動と、かれった。 くのは、殺害や追いたての議牲になるもら らが直面した困難について記してい 下級幹部との協力、しかも、おお る。つまり、国防軍司令官たちによるのばあい、陸軍との協力は、一般的にのよりも、それを実行するものたちにい 抵抗があって、このようなことがソ連うまくいった。これにたいして、軍部ついてだった。翌年ひらかれた士を の侵略のさいに再発しては困るというの上級指揮官たちは、国家の敵を根こ官たちの秘密会議で演説したヒムラー隣 のである。 そぎにするための姿勢が、基本的にちは、これら忠実な隊員が、これま これまでのあらゆるばあい がっていた。このことはマサツを生じで全ドイツ人のために、いかに厄介な
付表Ⅱ S S の階級、主要関係部門の呼称 S Standartenfuehrer Oberfuehrer Brigadefuehrer Gruppenfuehrer Obergruppenfuehrer Oberstgruppenfuehrer Reichsfuehrer SS S S S 長官 最上級集団指揮官 上級集団指揮官 集団指揮官 旅団指揮官 上級指揮官 連隊指揮官 ドイツ陸軍・空軍 元帥 上級大将 大 中 大 Obersturmbannfuehrer 上級突撃大隊指揮官中 将 将 佐 佐 佐 Generalfeldmarschall Generaloberst General Generalleutnant Generalmajor Oberst Oberstleutnant Major Sturmbannfuehrer Hauptsturmfuehrer Obersturmfuehrer Untersturmfuehrer 突撃大隊指揮官 少 主突撃中隊指揮官大 上級突撃中隊指揮官中 下級突撃中隊指揮官少 Hauptmann Rittmeister 尉 Oberleutnant 原寸 Leutnant ・戦争末期には、親衛隊戦闘部隊 ( 武装 SS 、 WaffenSS ) の階級は、陸軍とおなじになった。本書では、いわゆる 親衛隊 (Allegemeine-SS) についても、 S S 大佐とい うように陸軍に相当する呼称をもちいた。 のみ ) 、総統 Fuehrer( ヒトラーのみ ) がある。 ・本書にあらわれるナチ党、軍関係などのおもな部門 の呼称は下記のとおりである。 ・上記のほか、国家元帥 Reichsmarschall( ゲーリング ナチ党、国家社会主義労働党 NSDAP Natinal Sozialistische Deutsche Arbeiter Partei 親衛隊、 SS Schutzstaffel 突撃隊、 SA SturmabteilunÉ 保安部隊 ( S S 諜報部 ) SD Sicherheitsdienst ゲシュタポ ( 秘密国家警察 ) GESTAPO Geheime Staatspolzei クリポ ( 刑事警察 ) KRIPO Kriminalpolizei 国家保安本部 RSHA Reichs Sicherheits Hauptamt 武装親衛隊 ( S S 地上部隊 ) Waffen S S 国防軍 ( 1935 年以降のドイツ陸海空三軍 の総称 ) Wehrmacht 国防軍最高司令部 OKW Oberkommando der Wehrmacht 陸軍総司令部 OKH Oberkommando der Heeres 軍諜報部 ( アプウェーア ) Abwehr
ーゼンベルクである。ローゼンベルク ゴール・シュトラッサーがいた。シ、同性愛で有名だが、有能な指揮官だっ トラッサーは、そのころ北部の党指導た。重大な選挙戦のさいに、ヒトラー は、十九世紀ドイツの″社会進化論″ 者で、右翼というよりは、むしろ社会の突撃隊となった褐色シャツの軍隊思想からうけつがれた " アーリア人 主義者であって、ひところは、党の全は、しつかりと統制する必要があっ種″の優越性という、なまはんかな理 国指導権をめぐって、ヒトラーとあらた。というのは、選挙戦が、市街戦や論で、人間を淘汰選別して育成するこ そったことがある。 もっと卑劣な暴力行為でおこなわれたとなどを、ひそかに考えていた。 からだ。 二番目は元空軍の勇士、ヘルマン・ ローゼンベルクとその弟子ワルター ゲーリング。かれは一九二三年、ミュ ヒト一フ 1 の政治ドラマをささえた役・ダレの思想によって、ヒムラーは、 ンヘンでヒトラーといっしょに行進し者のなかには、なお、つぎのような人をエリートの運動ーー世界最強の たちがいた。 たが、ミュンヘン一揆が失敗したと 「支配民族」〔ヘレンスフォルク〕の ヒトラーの親友で、ヒトラーが一九人種的 " 純潔みを誇示するーーにしょ き、スウェーデン生まれの夫人ととも うという夢の″哲学的″な基礎をつく に国外へ逃亡した。かれはこのとき重二四年、ランズベルク城で " 予言的″ 傷を負った。かれの麻薬常用癖は、こ書『マイン・カンプ』〔我が闘争〕をりあげた。 のときにもらった鎮静剤からはじま書いたときロ述筆記させたルドルフ・ しかし、こうした役者たちも、ヒトム ヒ へス〔のちに英国に逃亡した〕。 ラーが、かれらをみちびく星として出る る。ゲーリングは一九二八年スウェー 一アンからもどったが、ヒトラーともと 凶悪な反ユダヤ主義者で、わいせつ現しなかったら、なんの役にもたたなに どおりの関係になるまでには、だいぶ文書ーーーこれをユダヤ人の道徳をやっ かっただろう。太陽のまわりを惑星の権 に 苦労した。 つける " 証拠〃にしたーーの収集家、ように、まわっていたのである。 AJ ュリウス・シュトライヒャー。 戦後の腐敗 三番目は、すこしあとになるがエル AJ ンスト・レームがいた。ヒトラーは、 そして、いわゆるナチ運動の哲学者 でナチ拡大 一九二五年一月から一九三三年一月 かれをポリビアからよびもどし、昔やであり『二十世紀の神話』 ( 一九三〇 ったの指揮をまかせた。レームは年 ) の著者である、アルフレ 1 ト・ロにかけて、ヒトラーの権力奪取陰謀
ヒム一フーは西部戦線で数週間のあい たらよいのかわからなくて、ひどく神個人的野望の一つが、とにかく実現し た。すなわち、ヒトラー暗殺計画が失だに、さんざんに負けたが、かれの配 経質な、優柔不断な状態にあった。こ 下の隊員たちも、おなじように戦 うしたヒムラーのすてきれぬ不安は、敗におわったその日に、ヒトラーは、 かれをドイツに根拠地をおく予備軍最争に未経験なものばかりだった。しか 戦争の最後の日までつづいた。 しそれでも、かれは一九四五年の一月、 ヒトラー高司令官に、指名したのである。 一九四四年から四五年にかけての冬当時東プロシアを横断し、北ドイツ全 殺害計画 一九四四年七月二十日、ドイツ軍内のあいだに、ヒム一フーの異常ともいう体をおびやかしていたソ連軍に対決す べき経歴の悲喜劇が、最高潮にたっしるため、前線に派遣された。ここでも 部のレジスタンス・グループがヒトラ た。このとき、かれは内務大臣と親衛ふたたび、かれのやることは、あきら ー殺害をこころみ、ほとんど成功しか けた。はヒト一フーを殺しそこねた隊長官〔一フイヒスフ = ーラー〕でかに絶望的だということを暴露した。 時限爆弾をしかけたラシテンプルクあるばかりか、ドイツ軍隊の一部を指かれはとうとう、自分の気にいってい にある総統大本営で、ただちに調査に揮していたのだ。一九四四年の十二るホーエンライヒ = ンの療養所にびき こもり、寝床のなかから、役にたたな とりかかった。その結果、ヒト一フ 1 を月、かれは一フィン軍団の指揮官となっ クーデターにより処分し、連合国と平た。かれはまた、〃武装みの直接い命令をだしていた。 放 一九四五年二月、ついにグーデリア 和交渉をする新政府を樹立しようとい指揮をも引きうけた。 解 かれは自分の新しい任務を、ズプのン将軍は、ヒムラーが、こをこ軍と関を う、かなり大規模な陰謀が軍部内でく わだてられていたことが、あきらかにしろうとのように、すべて忠実に、し係する活動はいっさいしないよう、ヒ容 ト一フーに進言して、ヒムラーをやめさ なった。 かも自己中心にはたした。かれは戦闘 利 不 経験をまったくもっていなかった。かせた。 ヒムラーはこの事件ばかりでなく、 ヒトラーが神経衰弱にかかっているとれがうけた軍事訓練も、せいぜい当時戦争の最後の数カ月、ヒム一フーは、戦 確信するようになって、びどく動揺しの小学生とかわらぬ、幼年学校でうけ収容所の全組織がはまりこんだ絶望的 な混乱状態から、と自分自身がぬ た。そうこうしているうちに、かれのるていどのものであった。
く、自由軍団はなんなくヒム一フーにひチな冒険家アルフレ 1 ト・ナウョクスうっされた。 きわたされた。自由軍団の指導者の一が、計画を実行することになった。ナ犠牲になった収容所の囚人たちは、 人、カール・ヘルマン・フランクは、 ウョクスは、一九四四年アメリカ軍の ″カンづめ〃という暗号でよばれた。 かれらはの医師たちから、あらか 現地の指揮官と同時に警察長官ともとへ逃亡した男である。 なり、 t-oco 長官ヒムラーのために現地何着かのポーランド兵士の制服と、 じめ致死の注射をうたれており、その の治安をはかることになった。 収容所から連れてきた数人の囚人をつあと銃撃によって " 負傷″したことに された。 ヒムラーは、ポーランドとの開戦当かって、国境ちかくのグライヴィッツ これは、ヒトラーがポーランドにた 初に、一つの恥ずべき功績をあげるこにあるドイツ放送局を襲撃させ、ポー とを許可された。これがいわゆる「グランド軍がドイツにたいして戦争を開いしておこなった残酷な「プリツック ライヴィッツ」作戦であった。これは始したかのようにみせかけたのであっ リ 1 ク」〔電撃戦〕を正当化するため ゲシュタポ長官ハインリヒ・ミュラー た。ポーランドの制服を身につけた死に利用した国境″事件〃の一つで、こ が計画した、ドイツ・ポーランド国境体や死にかけた人たちが、地上に横たうしたキャンペーンは、約三週間つづ での偽装国境紛争事件である。ハレンえられ、軍や新聞カメラマンの写真にいたのであった。
ハイドリヒが死んだのちを統率 たないくらいであった。のもっ武 り、この訓練学校では、歴史、地理、 ・シェレンベルクは、こ 器は小口径ライフルなどだった。二〇軍事思想、それに人種の " 衛生学″をしたワルター の古城でおこなわれたバカ・ハ力しい出 万人のうちの大半は。ハートタイムで、教えこんだ。 ヒムラーの心の奥には、奇妙な理論来事を、つぎのように描写している。 べつの仕事でそれぞれ生計をたててい でつみかさねられた考えがあった。か た。だがは軍隊とおなじように、 それは一種のの修道院の役割を ヒトラーにたいして特別な忠誠の誓いれがうけたカトリックのしつけ ( かれ をたてていた。 もっていた。 ははげしく否定していた ) は、まだう : そこでは年に一度、 " アドルフ・ヒト一フー、わたくしは総しなわれておらず、イエズス会〔カト秘密会が招集された。メン・ハーはすべ 統であり帝国首相であるあなたに、忠リック教の一派〕の戒律をまだ尊敬して銀のネームプレートに名前が彫られ 誠と勇敢を誓います。わたくしは、あていた。しかし、血と土という古代チたヒジかけ椅子をもち、それにすわっ なたと、あなたがわたくしを指揮する 、ートン人の神話でつくりあげられたて主として精神集中を目的とした精神 よう指名した人たちにたいして、死ぬ異教徒的信念をもついっぽう、チ、ー修養の儀式に専念しなければならなか : の組織はヒムラーによ まで服従を誓います。それによって神トン人の騎士の伝統に興味をもち、そった。 り、イエズス会の戒律の諸原則にもと はわたくしを助けてくれるでしよう〃 れにもおなじように影響をうけた。 異教徒的づいてつくりあげられた。イグナチウ化 一九三二年の初めに、 ハハリアの・ なヒムラー ス・ロヨラ〔イエズス会の創立者、一 1 ト・テルツ〔ミュンヘン南方四〇キ ロ〕に幹部学校がつくられた。 このような中世ふうの野心をはたそ四九一 ~ 一五五六年、スペイン人〕がて え 指導者は、肉体的にすぐれているばうとして、ヒムラーは、ウエストファ定めた奉仕の戒律と精神修養こそ、ヒ な そ リア〔ウエストファーレン州〕にある、 かりでなく、頭の回転のはやいものと ムラーが熱心にマネようとした。ハター に されていた。意識的にふきこまれた政歴史で名高い町、。ハダボーン郊外の森ンであった。絶対的服従が最高の規則戦 治的教養のたかい人間でもなければなのなかの、壮麗な古城ウェーウエルスであり、すべての命令は、疑いをもた らなかった。スポーツや体操はもとよプルクを改装した。 ずに受け人れなければならなかった。
しかし、レームが一九三一年、 として形のうえではレームの配下にあなっていった。 った。だがヒトラーは、いわゆる分割しかしヒトラーは、自分が支配する総司令官として帰任したとき、ヒムラ ーとの旧交をあたため ( もし、このこ の内部に危険がひそんでいること 支配政策はつねに良策であるという、 ひねくれた考え方をもっていた。それに、じゅうぶん気がついていた。とばがっかえるなら ) 、一九三三年まで がヒトラーの手からとびでてしまうこはふたりはいっしょに働いた。しかし は安全な方策だったし、またすくなく とは、ぞうさのないことだった。そのレームが権力の座にあった期間は比較 とも、そうみえた。 ためヒトラーは、内部に、ヒトラ的みじかく、ポリビアから帰任して三 隊員の数は大幅にふくれあがっ ーに特別に忠誠な第二の部隊をつくり 年もたたないうちに、かれはヒトラ 1 ていた。一九三〇年に一〇万人ていど だったのが、一九三三 ~ 一二四年には約たいと考えた。を「軍隊精神」にの命令で殺害されることになる。 いつぼうワイマール政府は、政情不 三〇〇万人にふえた。この時点でナチみちたエリートにそだてあげるよう、 党は、ぜひとも t-o< を街頭で共産党にヒムラーに指令したのは、ほかならぬ安で、街頭でくりかえされた軍隊式の ヒトラーだった。 行進や争乱に、もはやガマンできなく 対決させる強力な戦闘部隊に編成する は、党大会や会議のさいのたんなっていた。 必要があった。そして共産党 ( 一九三 に 一九一一三年四月、とはとも中 〇年の投票では約四五〇万の勢力があなる見張り役として、小規模な特殊部 った ) にたいして、市街戦をしかける隊であるあいだは、内部の派閥にに政令によって公式に解散を命ぜられも た。この政令は同年七月、シュライヒタ たいしては、なんの対抗策もとらなか よう、たえず挑発していた。 ャーが新首相となって廃止するまで有シ った。それにはまず懲戒規則が必要だ 左翼をおさえつけ、大企業が繁栄で ゲ きる国にするには、いまこそ強力な国った。がはじめて内の反乱分効だったのである。 社会的成信ね 家主義指導者が必要だということを、子に懲罰行為をとれるようになったの 一フ らう親衛隊ム ヒトラーの金づるである右翼産業人たは、一九三〇 ~ 三一年、舞台はベルリ ヒムラーは、の指図にしたがっ ンであり、これはヒトラーの緊急指令 ちにみせるためだった。こうしてドイ て街頭をうろっく無頼漢の群のような ツは " 共産主義にたいする防波堤〃とによるものだった。
オーレンドルフーーー検事さん。わた ぬ学者のような人物とみていた。こう りえない。なおこの措置については、 くしは命令はまちがっていたと思って したタイプの人間はみんなそうだが、 軍部も承認した」 はいましたが、の強制命令をうけ かれは知能程度のひくい連中よりも、 そして翌月には、 ていたので、それを知りながら実行し 「このような大がかりな行動から生じはるかに冷酷で残忍だった。 オーレンドルフを知っている人たちました。自衛のため緊急措置として、 た困難は、ユダヤ人たちに、壁のポス ターによって、移動するように呼びかは、かれは本質的につめたい男で、やああするよう命令されていたのです。 けたために、キエフではぶじに乗りきたらに学術用語をつかって議論するなこのような命令はまちがっていたと、 れた。最初の予想では、ユダヤ人の数ど、むしろ虚栄心のつよい男だったとわたくしはいまでも思っています。し は五〇〇〇ないし六〇〇〇人とみられいっている。しかしかれは、将軍かし、わたくしにとって、それが道徳 という地位を誇りにおもっていた。か的だったか非道徳的だったかは間題で ていたが、じっさいには三万人以上が 到着した。かれらは処刑寸前まで、再れは行動隊の指揮官という任務をひきはありません。なぜなら、こうした問 定住できるものと信じ、このきわめてうけたときに、この地位を獲得したの題は、最高指導者が自分の責任できめ ・こ、つ だった。かれは、べつにめずらしいタなければならないものだからです。こ 賢明な組織に感謝していた。 したやり方で、約七万五〇〇〇人のユイプだったわけではない。行動隊の上れは、かれの責任です。わたくしはそ ダヤ人が抹殺された」 級士官は、ほとんどがわかい職業的なれを調べることもできなければ、裁定 オーレンド人間ばかりだったからである。 することもできない。わたくしは、そ うする資格はありません。 ルフの陳述しかしオーレンドルフは、すくなく これら行動隊の一つを担当していたとも一つだけ、いい面があった。戦後検察側弁護人ーー・あなたは道義的良 のは、ハノーハー 〔ベルリン西方二五の裁判にかけられたとき、かれはきわ心を、アドルフ・ヒトラーにわたして 〇キロ〕出身のわかい知識人、オットめて率直だった。自分がやったことを、しまったのですね ? いいえ。わたく オーレンドルフ ・オーレンドルフ教授だった。ヒム全然かくそうとはしなかった。 ラーはこの男を、およそ軍人らしから しは、自分の道義的良心を、自分は軍
うな指揮官から、下っぱのものまで、 けだすには、なにがいちばんよいか、囚人の約一二分の一はユダヤ人で、 きめようとする気持と、連合軍と単独の看守は四万人だった。しかし囚人の囚人が自然に死んでいくのを見まもっ 講和の交渉をしようとする考えとのあ大半ーーおそらく二五万人ーーは戦争ている以外に、なにひとつできなかっ いだを、さまよっていた。 最後の冬におこなわれた強行軍のあいた。 東部にいた囚人たちは、一九四四年だに、死ぬ運命にあった。したがって、 ついにヒムラーは、四月十日に、英 九月以降の数カ月間、長い行列をつく絶滅は焼却炉だけではなかったのであ国軍にたいし収容所を明けわたした。 、歩かせられるという残酷な移動をる。 五日後、最初の英国調査官のデリック させられた。一九四五年一月、ソ連軍最後の数週間、三月から四月にかけ ・シントン大尉がこの収容所にやって がアウシュビッツにはいったときは、 て、ヒム一フーは、赤十字の保護のもと きて、ク一フマー大尉と対面した。 わずか三〇〇〇人ほどの救いようのなに、スカンジナビアと中立国スイスへクラマー大尉は、英国の将校と正式に い病人が、建物にのこされていた。 ユダヤ人の囚人を疎開させざるをえな会う、最初の収容所指揮官となったわ くなった。 一九四五年初期にのこっていた数百 けである。 ほどの収容所の状況を、明確にするこ ヒムラー、英に英国と米国の両軍が、の絶滅政 とはむずかしい。一九四五年一月中旬 収容所明け渡す策の一部をじかに知ったのは、一九四 におこなわれたある調査によれば、ド そのころ、ベルゼンのようないくっ五年のこの四月である。連合国により ィッ国内の収容所にいる男女囚人数かの収容所は、八〇〇〇人の収容能力押収されたとゲシ、タボの記録に は、七一万四二一一人、そのうち二〇を大幅にこえて、ほんとうの死の収容よって、かくされていたこの犯罪が白 万二六七四人は女性だった。またこの所となった。そこでは、クラマーのよ 日のもとにさらされたのである。 198
避難民のあるものは、海外におちつく か、あるいは病気で死ぬか、それとも 収容所に老人になるまでいるかであっ ユダヤ人避難民のおもな受けいれ先 は米国であったが、一九四八年五月、 、家英国の。ハレスチナ委任統治停止によっ 年て、新生国家イスラエルも新しい受け いれ先となった。 首脳 の末路 の著名な指揮官のカルテンプル ンナー ( 国家保安本部でのハイドリヒ の後継者 ) はつかまり、戦争犯罪の審 判をまっていた。ポ 1 ル、クラマー オーレンドルフらも逮捕されていた。移 アイヒマンはしばらく米軍にとらわれの ていたが、・ トイツ空軍の伍長をよそお難 い、気づかれずにすんだ。かれは正体西 がばれるのをおそれて、ナチの逃亡ル東 1 トをつかって、南アメリカへのがれ た。一九六〇年のイスラエル捜査官に