ゲシュタボの大規模な作戦は一九四〔。ハリ東方三五〇キロ〕、ル 1 アン〔。ハ境駅や郵便局を支配した。 二年に全フランスにひろがった。このリヒ 」東一二〇キロ〕、リョン〔マルセ このようにしてフランスは、綿密に とき、ゲシュタポは、フランス・ビシイユ北方三〇〇キロ〕、マルセイユ、組織されたゲシュタボの支配網につつ 1 政府のいわゆる自由地域を公式に接モン。ヘリエ〔マルセイユ西方一五〇キみこまれた。このなかには殺人部隊が 収した。 ロ〕、さらにビシーなど、一七カ所におり、熱心なナチの手先や協力者が、 ゲシュタポ本部は、当然のことだが地方本部がおかれた。また五〇カ所以フランス社会の各階層のなかに浸透し パリにおかれ、ポルドー、ナンシ 上の支部と、二〇カ所以上にわたる国ていたのであった。 123 目をおおうゲシュタボの拷問
デンマーク、オランダ、ベルギ無残な警察国家を、アッというまにつ織を一歩一歩のぼりつめていった。 フランス、ルクセンプルク、ユー くってしまった。ドイツ軍隊〔国防他のものたち、なかでもゲーリング ゴスラビア、ギリシャ、チェコスロ・ 軍〕や一般警察のおもてだったカの背やゲッペルスらが脚光をあびながら、 キア、ポーランド、およびロシアとウ後に、さほどめだたないが、〔親その才能をすりへらしていたあいだ クライナのかなりの部分を掌中におさ衛隊〕とその仲間であるゲシュタボに、ヒムラーはのカで権力をにぎ め、四年間占領していた。 〔秘密国家警察〕の力があった。 っていた。 co の支持によって、ヒム しかしわずか三年後に、ヒトラーは ヒト一フー政権に奉仕したドイツ軍部ラ 1 は総統の側近のなかで、もっとも たった数平方メートルしかない本拠べ隊の " 合法的″な全面戦争には、恐怖てごわい存在となった。 ルリンの廃虚の地下に身をひそめるこ 以上の、犯罪行為があった。しかも人他の大多数の人たちとちがって、ヒ とになる。一九四五年四月、ヒトラー道に反する罪をヒトラーの名のもとにムラーには、禁欲主義の影響がなかっ は、自分の支配した国が崩壊するのをおかしたのは、これら特別な秘密の軍た。かれは自分が信じていること みとどけられぬまま自殺した。 隊だった。 つまり、北欧〃アーリア〃人種の人種 ヒトラーが世界史に登場したこと 親衛隊の総元的優越性と、ドイツ支配による帝国世 で、五〇〇〇万人以上の老幼男女の生 締・ヒムラー界制度の確立、および支配民族として 命が犠牲に供せられた。これらの人び 〔親衛隊〕は、その発足当初、の規則ーー・がどういうことかを正確に とは、戦場で、集中爆撃で、大量虐殺少数の人間が、ナチ集会の演説者たち知っていた。 で、飢餓で、絶滅計画で、さらに強制の身をまもるため、暴力を行使するの だからこそ、ヒトラーが極秘作戦 収容所や刑務所での虐待のために死んが目的だったが、のちに、ハインリヒ ″最終計画″の任務を最後にゆだねた ・ヒムラーを後見人として、はかりしのは、ヒムラーと若干の隊員だっ 人類の歴史のなかで、ヒト一フーがのれない権力をもつにいたった。ヒムラ た。″最終計画〃とは、ヨ 1 ロツ。ハ こした記録に匹敵するものは、ほかに ーは狂信的な国家主義者であり、舞台 ユダヤ人を絶減させるという、戦争中 はない。かれは高度に組織された冷酷うらでの陰謀によって、ナチの階級組期から後期にかけてクライマックスに
国家をつくった。だれでも知っているん首相の座につくと、あっというまにの新生国家を再武装した。そして六年 ように、一九三三年〔昭和八年〕一月、地位をかため、数カ月のうちには、文後にドイツを戦争にまきこんだ。 しばらくのあいだ、かれは、北極圏 首相の座につき、ドイツの政権をにぎ字どおり、おもうままにドイツを支配 から地中海沿岸まで、またモスクワ郊 った、前代未聞の邪悪な支配者がこれするようになった。 ヒトラーの恐怖政治は、わずか一二外やレニングラードからフランス西部 をつくりだしたのである。 ヒトラ 1 は、その十数年まえには裏年しかつづかなかった。だがこのあい海岸と低地国地方 ( ベルギー、オラン 町で扇動家のくらしをしていた。九年だに、ヒトラ 1 は、ドイツ人とおなじダ、ルクセンプルク三国 ) にいたる領 まえにはミ = ン ( ンで武装蜂起して失血をもつ人たちを統合して、ドイツ帝土を占領し、その支配者となった。 敗し、投獄されていた。だが、いった国の国境を修正、大きく拡張し、かれ九四二年までにヒトラーは、ノルウ = 警察国家の創設者 . 一九三六年、親衛隊を閲兵するヒトラーとヒムラー ( ヒトラーの左後方 )
れの両手はほっそりしているが長すぎ るほど長く、まるでクモの足のようだ った。すてきな容姿をだいなしにした のは、おしりが大きすぎたことで、こ れがかれを女性的にし、よけいに不吉 な感じをもたぜた。これほど大柄な男 にしては高すぎる声をだし、かれの演 説は神経質で、きれぎれに声を出し 国全体が、 ( イドリヒの強烈な個性隊【、 によってひきずりまわされた。かれは 同僚たちにくらべて、はるかに傑出戦 し、の大きな諜報機関を支配した のとおなじように、これらの同僚をもっ 支配した。 ハイドリヒは、他人の道徳的、人間て 的、職業上、さらに政治的な弱点につ国 いて、信じがたいほど敏感な知覚をも っていた。 シェレンベルクの性質には、一見し月 ただけではわからない魅力的なところ年 がある。それはかれのユ 1 モア感覚、
してこの独立した政治警察は、ドイツ警察で支配し、権限を強めていった。 その収容所を閉鎖した、と主張した。 ゲシュタ最大の州プロシアで、ダリューゲとデ四月には・ハバリア〔・ハイエルン〕を、 イ 1 ルスによって、とうぶんのあいだ十月にはハンプルク、そして十二月に ポが発足 はメクレンプルク、リューベック、ウ ゲ 1 リングは四月二十六日に、プロ支配されていた。 ヒトラーはヒムラーをミュンヘン警ュルテンベルク、ヾ シア政治警察を、プリンツ・アルプレ ヒト街八番地にあるかれの本部に移転察の長官に任命した。あきらかに二番ン、チューリンゲン、アンハルトの各 州を支配した。そして一九三四年一月 した。この地名はのちに、ナチ政治犯目のポスト以外のなにものでもなかっ た。しかしヒムラ 1 はこれを利用するには、オルデンプルク、プレーメン、 用の刑務所、訊問される犠牲者にとっ サキソニー〔ザクセン〕にも政治警察 て、最悪のあっかいをうける場所としことができた。ヒムラーは、のハ て悪名をはせた。六月にこの警察は公イドリヒをつかい、ゲーリングの方式をつくりあげた。 ヒムラーの にしたがって、急ぎ配下の警察を粛清 式に改名されて「ゲハイメ・シュタ 1 強制収容所 ッポリツアイ」、秘密国家警察、もしくした。ミュンヘンには、ベルリンと同 かれはまた、ミュンヘンから約一九 はゲシュタボと名づけられた。ゲ ーリ様に政治警察ができた。そして、おお ングは、ヒムラーとおなじように、こ くの警官はこの新しい主人につかえるキロのダッハウに、かれの″モデル〃 の時期に統一ドイツ政治警察の長官に態度を明らかにした。かれらのなかに強制収容所をつくった。一九三三年三 なる夢をいだいていた。そしてかれは、は、のちにゲシ、タポ長官となるハイ月のことだった。ヒムラーの " 保護監 禁〃にかんするみじかい命令書は、つ 自分の敵を自由に逮捕する権力がほしンリヒ・ミュラーがいた。 いと、あからさまにロにしていた。 一九三三年四月から、全ドイツの統ぎのように書いてあった。 いつぼうヒムラーは、いちばんほし一政治警察の長官となった一九三四年「一九三三年二月二十八日付けの人民 四月までのあいだに、ヒムラ 1 はヒト がっていた権力をしばらくはもてず、 ヒムラーは、ゲーリングによって一時期は ゲ 1 リングの非情なエネルギーのまえラ 1 の力をかりて、ゲーリングのプロ おさえられていたが、最後にゲシュタポを に、譲歩しなければならなかった。そシアをのぞく各州を、つぎつぎと政治支配した
事となった。またヒトラーによって、 ポ 1 ランドの国境が根本的に書きかえ られ、旧ドイツ領のいくつかがドイツ 帝国に返還され、孤立していた東部プ ロシアも、地理的に大ドイツに再統合 されることになった。 フランクの総督府は、クラカウ〔。ホ ーランド南部〕に本部をおいていた が、ワルシャワもその領内にあり、ヒ トラー侵略前は、ポ 1 ランド全領土の 約四分の一、全人口の三分の一を支配部 していた。つまりフランクが支配して闘 いた国民は約一二〇〇万人だった。 誇大妄想の隊 フランク総督親 フランクは一九三九年十月、ポーラ cn ンド総督に任命された。ヒトラーとわ ずか一〇分間のあわただしい会見後の ことだったが、このとき、かれは新し進 い任務をきかされたのだった。かれは 四二冊におよぶ日記のなかに、ほとんラ どヒステリックにちかい誇大妄想的なポ 繼、翔第 ( 蜷を、ーを
だった。 た。そしていまや二つの完全な外国領い非ゲルマン人を追いはらい、もっと 土ー・ーーチェコスロパキアとポーランド 東部から追いたてられてきたドイツ人 ナチが北方や西方に進攻して、そこ をも征服したのである。 家族を " あらたに住みつかせ〃た。 の国々を獲得したのは、おもに戦略的 ドイツに合併された領土は、行政上 合併されなかった領土は〃保護領〃 な点に重点をおき、ふつう最高支配者 の目的から、ナチ・ドイツ同様、いく となり、三人の合同官憲の支配下におは軍の司令官だった。しかし、ノルウ つかの大管区もしくは地方に分割さ かれた。この三人とは、民間の総督工 1 やフランス、ベルギーのような国 れ、ナチ党の大管区指導官によって統 ( 中部ポーランド総督府のフランクの国では、市民の行動を、じっさいに監 治された。ポーランドでは、これらゲような ) 、ドイツ軍司令官、それに視するのは、現地のとゲシュタポ ルマン化された地域から、好ましくなと保安警察 ( ゲシュタポ ) の指導官であった。 ウェルナー・ベスト博士 オデイロ・グロポズニク
「この犯罪行為に加担しなかった は、ゲシュタボとは、Ø内部で 力を知らないのは、かなしいことだ。 北つくりあげられたものである、と読みの支部を、一つでもえらびだすことは また、かれらが、霧と煙と狂戦士〔 欧伝説。戦場にでれば、ものすごく狂はじめ、つぎのようなことばでしめくできない。の全体が、ユダヤ人迫 くった。 害に積極的に参加し、収容所の見張り 暴で、その力には、いかなる武器をも ってしてもかなわないという〕を愛好「ゲシタボとは、ユダヤ人の絶役を提供した。〃武装〃のいくっ していることも、いまわしいことだ。滅と迫害、収容所での殺りくと野蛮なかの部隊は、捕虜の殺害と占領地域に 行為、占領地域における行政上の横おける残虐行為に、直接くわわった。 さらに、気ちがいじみた無頼漢 ィッ国民の最低の本能をかきたて、悪暴、奴隷労働計画の管理、戦時捕膚のは行動隊の要員を提供し、また当 行をなすことにも自信をもたせ、また殺害と虐待などの目的につかわれた。初、収容所組織を支配していた " 死人 これは憲章で規定されている犯罪であの首部隊〃を吸収し、収容所の見張り 国家主義とは、孤立するものであり、 野蛮なものであると教えこんだーーーにる。この組織の一員であった被告、力を指揮した。 警察部隊は、占領地域の残虐行 ルテンプルンナーは、この組織を、ま 服従してしまったことは、いたましい えにあげた目的につかった仲間の一人為と、そこに住むユダヤ人の絶滅に、 ことだ』 広範囲につかわれた。中央組織は ゲーテはピタリと予言した。というであった」 それから、かれはゲシュタボとこのような諸部隊の活動を指揮し、人 のは、ここにいる被告たちが、その悪 行と、野蛮な行為をおこなった張本人の全部門をかぞえあげ、参加者は戦争体実験やユダヤ人問題の " 最終解決。 といった、特別計画の責任者となって路 犯罪のかどで有罪である、と主張した。 だからである」 の いた。 判決 ロ 1 レン このような犯罪諸活動を認識するこ国 くだる裁判長サー・ジョフリー・ 最終判決となったとき、首席判事たス ( のちのオ 1 クシー卿 ) は、にとにより、が犯罪組織であるとす警 ちは、順番に決定を読みあげた。ソ連かんする判決を、つぎのように読みある言明がまったく正しいことを、法廷 は判決する。 の代表の一人であるポルチコフ大佐げた。
範と、 ()0 がいわゆる″アーリア人〃 の血統の代表として責任をもてるよう に、その″純粋〃な血筋を追跡する方 法などを規定するために設けられた。 それによると、黒髪より金髪が、スラ プやラテンよりゲルマン人が、このま れた。そしてその結果、一九三一年十 をこえた。しかし、それでもなお ()D 人によってはじまっていた。 なぜなら、かれらはヨーロツ。ハ各地二月に、親衛隊婚姻法が成立した。そ は名目上の一部だった。 ()D と の重要な個条はつぎのとおりである。 は、ともにドイツの増大する大量失に住んでいて、すでに輝かしいドイツ 結婚しようとする隊員はすべ 業者にたよりとされていたのである。人の血統を、血縁関係をむすぶことで て、隊長の結婚許可証をとらな ″汚し〃ていたからである。″純潔〃 ヒムラ 1 は、元公務員でのちにヒト ければならない。 ラー内閣の農相となった友人、ワルタは冷酷の原則をともなうものである。 隊員で、結婚許可証を拒否さ一 ダレの師匠、ロ 1 ゼンベルクはこう ・ダレとともに、隊員のための特別 れたにもかかわらず結婚するものム 人Ⅲの理想が、支配的 な婚姻法を考えだした。ダレは一九二書いていた。″リ る は、 cn TJ から除名される。 九年に『血と土』を書いており、ヒム人種の被支配人種統治権を阻害すると 結婚申請の細目を検討するのは、に き、文化はつねに堕落する″ ラ 1 を″血の宗教″に帰依させた。 カ 人種局の仕事である。 親衛隊の 権 それは、人種的に純潔な人間である に 人種局は、氏族帳を管理 婚姻法 とか、〃下級〃な人種におかされたもの AJ から卓越した人間性をもっ金髪の救済ダレはもっとも重要な「人種・移民する。これには結婚許可証が交付さ れたのち、隊員の家族が登記さ 者、といったような異教徒の迷信 " 強局」を組織するため、一九三一年、 下本部にくわわった。この新しい役所れる。 い農民〃が復活したものだった。″ 一九三二年以降、すべての隊員は自 級″人種の浸透は、ユダヤ人やスラブは、こんごがまもるべき人種的規
ヒムラ 1 の統計が信頼できるものと ドイツ人のあいだに〃うわさとしてチナーテ " 今の・ハ・ハリア州北部 ) とマ 広まった。このころは、おおくの政治ウトハウゼン ( オ 1 ストリアのヒトラするなら、一九三七年一月はじめに収 1 の生地リンツ近郊 ) 、そして一九三容所で " 治療された囚人は、わずか 犯は " 治療み期間がおわると釈放され た。しかし、かれらは、もし収容所内九年五月に婦女子用の収容所がラ 1 フ八〇〇〇人だった。『国家の分析』 でおこなわれていることについてしゃ エンスプリュック ( メクレンプルク州の統計によると、これら囚人の数は一 フュルステンベルク近郊 ) に、それぞ九三七年末に一万人にたっし、一九三 べったならば、もう一度 " 社会復帰″ のために収容所にほうりこまれるといれできた。これらの収容所は、さらに七年から三九年にかけておこった事件 う条件つきで釈放されたのだった。しいろいろの支部にわかれ、小さな収容の結果、逮捕の波が高まり、第二次大 かし、かれらはその命令にしたがったセンタ 1 は親収容所をそれぞれの本部戦がおこったときには、収容所の推定 人口は約一一万五〇〇〇になっていた。 ものの、沈黙をまもっていることじたとしていた。 囚人を労 いが、かえってうわさをたかめた。い強制収容所の数が急増したのは、一 働部隊に かに用心ぶかくしても、これらの収容九三八年のオ 1 ストリア「併合」 ( ア 所は、ヒトラ 1 支配にあえて堂々と反ンシュルス ) 、同年十一月ドイツ全土囚人たちは、思想的な″治療〃をう けている間、働かないで、じっとして 対をとなえる人たちへの、もっともおでおこなわれたユダヤ人大虐殺など、 そるべき制裁の場だということが、はナチ政権の、社会にたいする戦争が拡いることは許されなかった。かれらは つきりするだけであった。 大していく出来事がおこったからであすぐに労働部隊に組みいれられた。た 年がたつにつれ、収容所の数はふえる。チェコスロパキアにたいしては二とえば土地の開墾とか、収容所の拡張 た。そのおもなものは、一九三六年に回っづけて侵攻した。一つは一九三八工事や、新しい収容所の建設などだっ ザクセンハウゼン ( ベルリン、オラニ年九月のミュンヘン協定にもとづくズた。働きずきのヒムラ 1 は、自分の意 デーテンラントのドイツ併△ロ、もう一 エンプルク近郊 ) 、一九三七年にブッ のままになるこれら収容所の大きな労 ヒエンワルト ( ワイマ 1 ル近郊 ) 、一九つは、一九三九年三月のヒトラ 1 によ働力を、 ()o の利益となる仕事にふり るポヘミア、モラビア侵略であった。 むけようと、すぐに思いついた。そう 三八年にフロッセンビュルク ( 上。ハラ