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検索対象: ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊
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1. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

うな指揮官から、下っぱのものまで、 けだすには、なにがいちばんよいか、囚人の約一二分の一はユダヤ人で、 きめようとする気持と、連合軍と単独の看守は四万人だった。しかし囚人の囚人が自然に死んでいくのを見まもっ 講和の交渉をしようとする考えとのあ大半ーーおそらく二五万人ーーは戦争ている以外に、なにひとつできなかっ いだを、さまよっていた。 最後の冬におこなわれた強行軍のあいた。 東部にいた囚人たちは、一九四四年だに、死ぬ運命にあった。したがって、 ついにヒムラーは、四月十日に、英 九月以降の数カ月間、長い行列をつく絶滅は焼却炉だけではなかったのであ国軍にたいし収容所を明けわたした。 、歩かせられるという残酷な移動をる。 五日後、最初の英国調査官のデリック させられた。一九四五年一月、ソ連軍最後の数週間、三月から四月にかけ ・シントン大尉がこの収容所にやって がアウシュビッツにはいったときは、 て、ヒム一フーは、赤十字の保護のもと きて、ク一フマー大尉と対面した。 わずか三〇〇〇人ほどの救いようのなに、スカンジナビアと中立国スイスへクラマー大尉は、英国の将校と正式に い病人が、建物にのこされていた。 ユダヤ人の囚人を疎開させざるをえな会う、最初の収容所指揮官となったわ くなった。 一九四五年初期にのこっていた数百 けである。 ほどの収容所の状況を、明確にするこ ヒムラー、英に英国と米国の両軍が、の絶滅政 とはむずかしい。一九四五年一月中旬 収容所明け渡す策の一部をじかに知ったのは、一九四 におこなわれたある調査によれば、ド そのころ、ベルゼンのようないくっ五年のこの四月である。連合国により ィッ国内の収容所にいる男女囚人数かの収容所は、八〇〇〇人の収容能力押収されたとゲシ、タボの記録に は、七一万四二一一人、そのうち二〇を大幅にこえて、ほんとうの死の収容よって、かくされていたこの犯罪が白 万二六七四人は女性だった。またこの所となった。そこでは、クラマーのよ 日のもとにさらされたのである。 198

2. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

入するやいなや、アッというまにつか まってしまった。 ドイツ軍が七月に侵入したウクライ ナでは、一五〇万以上のロシア系ユダ ヤ人が、絶滅の脅威にさらされた。け つきよく最後には、約一五〇万がナチ の手をのがれて東部へ移動していった が、数百万人は、東部ポーランドとソ 連のドイツ占領地にのこり、どうする こともできずに、ドイツ人につかまっ てしまったのだった。 行動隊の 虐殺記録 行動隊の仕事については、りつばな 記録がある。おおくの報告書が本部に のこされてあって、戦後の裁判に利用 された。これらの報告書は、徴にいり 細にわたる完ぺきなものだった。 たとえば、行動隊隊は一九四一年 十月五日までに一二万五〇〇〇のユダ ヤ人を殺し、行動隊隊は十一月十四 日までに四万五〇〇〇人を、行動隊 0 1

3. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

がきめられた。総督府地区〔ポーラン ド中部〕では、この制度が一八歳から 六〇歳までのすべての人間に適用され た。そして最後には、これら住民は戦 前の水準のままの最低賃金で、ドイツ のために働く植民地の奴隷のようにな った。物価はインフレでどんどんあが っていたのである。 またポー一フンド人に許可された唯一 の教育は、技術教育で、これもドイツ のために鉄鋼、石炭を生産する仕事に 適するようにするためだった。しかも かれらの学校は、ゲルマン種族の子弟 用につくられたりつばな学校とは、差 別されていた。 西部地区では、若者たちに″志願〃 労働者としてドイツへいくよう、あらら ゆる種類の圧力がかけられた。それはい ドイツの戦闘員やに奉仕する人間を をふやそうとの魂胆からであった。し隣 かしベルギーでは、この " 志願〃制さ えなくなった。たとえば一九四二年一二

4. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

ほんとうの戦争、つまり人種戦争と右翼で国家主義者という資格じゅうぶ官ーーポン大学の教授で " 一人は言語 いうものは、無慈悲なもので、どちらんの若者はすくなくなかった。優雅な学者、もう一人は教育学者″だった にひろいあげられた。二人はシェ かいつぼうが跡かたもなく消滅するま制服を身につける本部は、ちょう どこれらの若者たちのために、あったレンベルクに、法律の勉強をつづけな で、戦われるのである」 がらの″名誉職″につくことをす したがってØ()D 士官は、できるかぎようなものだった。 いちばん年の若かった一人が、ワルすめた。 り頑強さの模範とみなされた。囚人、 ・シェレンベルクだった。かれが その結果、かれはフランクフルト警 とくにヒトラーがポーランドに侵略しタ 1 てから数週間の間に、囚人の数はどっ戦後に発表した回想録は、内部の察本部にうつったが、ここでかれは とふえたが、このときは、囚人を殺す陰謀などについて、おもしろく書いて″党の最高機関〃のス」ハイとして利用 いる。シェレンベルクは一九一〇年にされる ( かれはそう主張している ) こ ことが望ましいと考えられた。 シェレンべ生まれた。ポン大学で法律と医学を学とになった。そして最後にかれは、べ ルリン本部スタッフの正規メン・ハ 1 と ルク登場び、一九三三年に参加した。 一九三四年〔昭和九年〕以後にには " 一般よりすぐれたタイプの人なり、ハイドリヒのもとで働いた。か に参加した特定階級のものたちについ間〃がいるというのが大きな理由だつれはハイドリヒという人物を描写して いるが、それはきわめて綿密に観察し て、しばらく考えてみよう。この中でた。ビャホ 1 ルでケンカばかりしてい 頭角をあらわしたのは、明朗な若い弁るは〃問題外〃だが、隊員はたものである。 ハイドリヒは背が高く、異常な 大きな威信と社会的な有利さをもって 護士、行動する知識人たちだった。ド ほど広いひたい、小さくて、動物のよ ィッの大学では、官界であれ産業界でいると、かれは強調した。 はじめはパ 1 トタイムの仕事だったうに鋭く、落ち着きのない、しかも無 あれ、管理職につこうとする人たち は、法律を学ぶのが基本である。これが、これは週末の自由な時間も、行進気味な力をもった目、けだもののよう らの学生で、ヒトラ 1 新政権のもとでやら訓練に追われるので、これをいやな長い鼻、そして、大きくて厚いくち がった。しかしその後、二人の士びるをもった印象的な人物だった。か すみやかに立身出世をしようと望む、

5. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

アウシュビッツでおこなわれた最後くなるし、このように大多数を殺してやわらげ、あるいは、かれらを釈放し の大量絶滅行為は、ハンガリー・ユダしまうことは、だんだんむずかしくなてしまったらどうかとの個人的な圧力 ヤ人の大虐殺だった。一九四四年のおってきて、収容所の最大の問題になつをつねにかけられていた。また国際赤 わりに、大量虐殺収容所は、ソ連軍のていた。が搾取する労働力の市場十字からも、職員の収容所訪問を許可 はうしなわれつつあったのである。 進撃におびやかされるようになった。 し、食糧と小包み供給や、苦しみを軽 ヒムラーは、 ()0 〔 co の諜報組減するために、とりきめをしようとの ヒムラーとは、絶滅計画全体に ついて第二案をかんがえていた。囚人織〕のシェレンベルクとケルシュテン要求が、ヒムラーに公式にだされてい た。じっさい、ヒムラーは、なにをし は労働力として、だんだん役にたたなの二人から、ユダヤ人の現状をもっと 戦局不利、収容所を解放

6. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

よるアイヒマン逮捕と、それにつづくなかで、代表的なものは国際赤十字での数カ月の間、赤十字は収容所にはい エルサレムでの裁判は、戦後のもっとあった。一九二〇年代と三〇年代のありこむことに努力していた。 も注目すべき事件の一つとなった。へ 一九四五年の一月に、赤十字役員団 いだ、すでに戦争捕虜の保護について スは約一年間つかまらずにいたが、英合意した条件とおなじように、こんどは、ベルリンでリヒャルト・グリュッ 国憲兵に発見され、開廷中であったニ の戦争のばあいも、追放された民間避クスと会見した。赤十字側は、グリ、 ックスが収容所の総監督官であること ュールンベルクの国際軍事法廷に重要難民にかんする合意をえようとして、 な証拠を提供することになった。 国際会議でさまざまな試みがなされを知った。そのときと、そのつぎの会 ゲシュタボの長官、ミュ一フーは、た 合も不成功におわったが、赤十字代表 た。しかし民間人をあっかう条約は、 ぶんロシアへ姿をかくしたものとみら一九三九年にはまったくなかった。その一人一人が、そのあいだ、いくつか れるが、いまだに消息がっかめず、うのために国際赤十字は、収容所を訪問の収容所のようすを見ようと努力し わさのタネになっている。かれは現在する権利を拒否された。けれども一九た。すでにのべたように、シェレンべ ルクとケルシュテンとが、すでにヒム 七〇歳になっている。 四三年からは、非ユダヤ人捕虜あての ラーに圧力をかけていた。それは一定 ヒムラーは五月二十三日、英国の憲小包みは許可されるようになった。 兵に身分を明らかにしたのち、自殺を ( 親衛隊やカボスが、この小包みのかぎられた数の、ユダヤ人の生命を とげた。かれの死体は現在、リ、ーネからどのくらい″通関税。をとったか保護することだった。 一九四五年の二月からスウェーデン プルク〔ハンプルクの南東約五〇キ想像できる ) ロ〕ちかくの、墓標のない墓の下に横 一九四三年十一月から四五年の五月赤十字のベルナドッテ伯爵は、ヒムラ たわっている。 ーと直接交渉し、ユダヤ女性の囚人の までに、約七五万個の赤十字の小包み 国際赤十が収容所へとどけられた。それと同時ために、収容所を疎開させるよう、ヒ 字の活躍に、の手中にあった非ユダヤ人捕ム一フーから合意をとりつけることに成 収容所にいる捕虜たちの苦痛をやわの身もとについて、情報を人手する功した。赤十字代表はまた、オラニエ らげようと努力したいろいろな組織の最初の仕事がはじまった。戦争の最後ンプルク〔ベルリンの北方〕から徒歩で

7. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

、ーー廴ド三 を生部んだときに逮捕せずに、その人間が、 ポまだまだ安全だと思いこませるように ュおよがしていた。 容疑者が ( もしベルリンにいたばあ い ) いったん逮捕され、ゲシュタポ本 部に連行されたら最後、もうだれもか レばってくれるものはいなかった。ゲシ ュタボの訊問テクニックは、書物や映 画でよくとりあげられているが、サデ イスティックな訊問官が、アーク灯の カ下で汗をかいて苦しがる囚人を、きび しく訊問し、最後には、拷問で殺して しまうかのような、ふりをしてみせる のだった。 実際問題として、訊問の方法はいろ いろあった。訊問担当官の人柄や、囚 人の社会的地位、さらに国家に反抗し た " 罪状″のていどによってちがって いた。ディートリヒ・ポンへーファ 1 牧師のような囚人は、直接拷問をく わえられなかったが、一九四三年四月 から、一九四五年四月にフロッセンビ 118

8. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

たことなどについてしゃべった。さらからこそ、また国民を他の連中より巧 た。つまり、すぐれたゲルマン人の血 を保護する重要性と、堅実な北欧人のにまたかれは、のいろいろな専門妙にみちびくことができるからこそ、 血統を、ヨーロツ。ハにひろめることで分野についても説明した。 価値があるのだ。われわれは、つぎの あった。 たとえば″党の、長期的にみれば国一〇年間に、全世界のドイツと戦う半 ヒムラー家の、偉大な思想諜報機関である人間的な敵を絶滅する戦争をおこすこ の考えのことや、強制収容所内で″下劣とを、はっきりと認識しよう。ドイツ 最初のうち、ヒムラーは、の人な犯罪人や怪物ども〃を管理するおそ人は、北方人種の基礎をなす国民であ 間は金を受けとらないといっていた。 るべき、また純粋な仕事をする〃ドクり、 人類の文化のにない手である このような人種の追究は奇妙な結果 隊員は、自分の制服は自分でつくらな口部隊〃のことなどを、説明した。そ ければならないほどであった。しかしして、かれは " われわれほど人道的なをまねいた。一九三六年に、最初の 一九三七年になると、人隊を望んでも、国民は他にはない〃とつけくわえた。 の産科病院がつくられた。これらは 一〇人のうち一人しか認められなかっ最後にかれは、ドイツ警察のことにヒムラーがとくに自慢にしていたもの ついて誇らしげに語った。〃国内治安で、あらゆる隊員、とくにびねく た。隊員の数は二一万をこえた。 " 応募者の両親や兄弟姉味の政治的評の問題をすすんで解決するのは、れて独身でいようとしていたものは、 判をききだし、一七五〇年までさかのと警察の義務である。そしてこれこそ、 これらの病院を援助するために給料か ぼった先祖の記録も要求した〃と、か ドイツ人の人種的優越性の大きな原因ら金を差しひかれた。これらの病院で れは語った。 になるのだみと結んだ。 は嫡出子、私生児のいかんをとわず、 かれは一八歳 ( 入隊最少年齢 ) から ″われわれは、数のうえでわれわれを純粋な血の赤ん坊が生まれた。ここは 五〇歳までのすべての coco 隊員に″健追いこそうとし、つねにそれを望んで「生命の泉の家」とよばれたが、ここ 康管理〃をしたことや、毎週『マイン いる他の連中とくらべて、はるかに価には母や子にとって、気持のよい、し ・カンプ』〔我が闘争〕を学ばせるこ値がある。われわれは、われわれの血かも出産にふさわしい環境があった。 とで、かれらの精神的な健康を維持しが他人よりおおくのものを創造できる ヒムラーは、隊員にたいし、血統の

9. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

ヒムラ 1 は出席していなかったが、東ともに、かれらもその会議にくわわっ半は、人口移動の問題や、かれらの仕 部領土の管理に関係ある高官はすべてた罪をみとめている。 事への適性、ドイツにとって無用な数 出席した。これらの士官のうち何人か会議は、ハイドリヒが議長をつとめ百万人の " 最終解決。の問題だった。 は、戦後、この会議の状況のくわしいた。かれは、自分がゲーリングからョ 一月におこなわれたこの会議につづ 説明をもとめられたが、ここで大量虐 1 ロツ。ハ・ユダヤ人問題の〃最終解決〃いて、いくつかの会議がびらかれた。 殺が論議されたことを明らかにするとの準備を依頼された長官であるむねを同年三月と十月の会議には、も、つと若 説明した。そして、この計画がどのよ手の士官が参加し、アイヒマン自身が ヒムラーのマッサージ師、フェリクス・ケ ルシ、テン【終戦まてヒムラーの腹心の部うに組織されているかを、ゲーリング議長をつとめた。十月には、アイヒマ 下だった につねに知らせておかなければならなンは直接ヒムラーにたいして責任を負 い、とのべた。 っていた。ハイドリヒはすでに死んで さらに「大半の人間は、まずまちがいたからである。 いなく " 自然減少〃によって消えてい これらの会議の席上、アイヒマンは、 くだろう。最後まで生きのこれたものの医師たちが大量断種の実験をし は、もっとも強力なレジスタンス派にていることを、熱心に説明した。やが ちがいないから、処刑せねばならなてユダヤ人はアイヒマンの手で苦しめ い。なぜなら自然淘汰されてのこったられるのである。アイヒマンは、ユダ 人間は、新しいユダヤ運動の生殖細胞ヤ人を奴隷労働と絶減収容所に大量移 とかんがえられるからである。歴史の動させる責任者となるのだった。 経験をみるがよい」とつけくわえた。 奴隸労働 そこで、それぞれの特殊領域でのユ と絶減 ダヤ人に、どのようなことがおこりう 一九四一年までに、は三つのお るかが、くわしく論議された。その大もな活動分野にわけられたといえる。 152

10. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

食べものは極度にたりなかった。 りだった。そしてハーベッカー自身、このときに、まだ生きている仲間の人 しかしかれは、ゲシュタボに役だつほんとうの拷問に手をつけはじめた。 たちに、まったく危害をおよぼさない ようないっさいの情報を断固としてあ シュラブレンドルフの両手を背中でようなかたちの自白をするという、妙 たえなかった。かれは、なんとかしてクサリでしばり、指先に大きなクギを案をおもいついた。 行きづまり状態にもちこもうとした。 さしこむというやり方で、指を一本ず拷問は、たちどころにゃんだ。かれ つまり、かれのほうこそが、ハ ーベッっ組みあわせて固定してしまった。まは自白書をつくった。これはあらゆる カーをうちまかさなければならなかっ た、のちには、皮ヒモで木ワクにしばゲシ、タポがほしがったものだった。 たのだ。 りつけ、とがったペン先で大モモや足このあと、かれがたえしのばなければ ーベッカ 1 のチームには、少女がをつきさすという方法もとった。そしならなかったのは、他の仲間の囚人た 一人ふくまれていたが、最後にとうとて、ついには中世の引き伸ばし木ワクちとおなじ苦痛だけだった。つまり、 う実力行使を開始した。ハー にしばりつけられた。これをゆっくり 飢えと、しつかり手錠をかけられたま 自身が、かれをなぐりつけ、少女にも とねじったり、引きのばしたりするこま、ギラギラするハダカ電球にてらさ おなじことをするよう、けしかけた。 とで、かれの肉体は、苦痛のあまり、 れて寝なければならないことだった。 他の訊問官たちは、それまで甘言をろけいれんした。かれが病気のときは、 ゲシュタポは、 cn と同様、ヨーロ うしていたのを突然やめて、手のひら質問攻めという方法がとられた。 ッパでドイツが支配する、あらゆると をかえしたようにロぎたなくののしつ どんなばあいでも、かれは最後にはころにいた。たとえばジャック・ドラ た。こうしたことに、あらかじめ心の失神し、回復させるために監房へつれ リュ〔一九一九年フランス生まれ、警 用意をし、神経をそこなわれないよう もどされた。あるときは、かれの身体察官の身でレジスタンスに参加、ゲシ にしておかないかぎり、これで参っては血だらけになっていた。そして心臓、タボにとらえられて八カ月拘禁され しまうのがふつうである。 マヒをおこしたこともある。かれは自た〕はゲシ、タボについて書いた本の シュラブレンドルフの沈黙は、 分自身のがまんづよさにおどろいた。 なかで、とくにフランスでの秘密警察 べッカーの怒りを、ますます増すばかそして最後に、自殺をかんがえたが、組織について記している。 122