警察 - みる会図書館


検索対象: ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊
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1. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

してこの独立した政治警察は、ドイツ警察で支配し、権限を強めていった。 その収容所を閉鎖した、と主張した。 ゲシュタ最大の州プロシアで、ダリューゲとデ四月には・ハバリア〔・ハイエルン〕を、 イ 1 ルスによって、とうぶんのあいだ十月にはハンプルク、そして十二月に ポが発足 はメクレンプルク、リューベック、ウ ゲ 1 リングは四月二十六日に、プロ支配されていた。 ヒトラーはヒムラーをミュンヘン警ュルテンベルク、ヾ シア政治警察を、プリンツ・アルプレ ヒト街八番地にあるかれの本部に移転察の長官に任命した。あきらかに二番ン、チューリンゲン、アンハルトの各 州を支配した。そして一九三四年一月 した。この地名はのちに、ナチ政治犯目のポスト以外のなにものでもなかっ た。しかしヒムラ 1 はこれを利用するには、オルデンプルク、プレーメン、 用の刑務所、訊問される犠牲者にとっ サキソニー〔ザクセン〕にも政治警察 て、最悪のあっかいをうける場所としことができた。ヒムラーは、のハ て悪名をはせた。六月にこの警察は公イドリヒをつかい、ゲーリングの方式をつくりあげた。 ヒムラーの にしたがって、急ぎ配下の警察を粛清 式に改名されて「ゲハイメ・シュタ 1 強制収容所 ッポリツアイ」、秘密国家警察、もしくした。ミュンヘンには、ベルリンと同 かれはまた、ミュンヘンから約一九 はゲシュタボと名づけられた。ゲ ーリ様に政治警察ができた。そして、おお ングは、ヒムラーとおなじように、こ くの警官はこの新しい主人につかえるキロのダッハウに、かれの″モデル〃 の時期に統一ドイツ政治警察の長官に態度を明らかにした。かれらのなかに強制収容所をつくった。一九三三年三 なる夢をいだいていた。そしてかれは、は、のちにゲシ、タポ長官となるハイ月のことだった。ヒムラーの " 保護監 禁〃にかんするみじかい命令書は、つ 自分の敵を自由に逮捕する権力がほしンリヒ・ミュラーがいた。 いと、あからさまにロにしていた。 一九三三年四月から、全ドイツの統ぎのように書いてあった。 いつぼうヒムラーは、いちばんほし一政治警察の長官となった一九三四年「一九三三年二月二十八日付けの人民 四月までのあいだに、ヒムラ 1 はヒト がっていた権力をしばらくはもてず、 ヒムラーは、ゲーリングによって一時期は ゲ 1 リングの非情なエネルギーのまえラ 1 の力をかりて、ゲーリングのプロ おさえられていたが、最後にゲシュタポを に、譲歩しなければならなかった。そシアをのぞく各州を、つぎつぎと政治支配した

2. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

。ヘン自身がドイツ総監、いいかえればな仕事と、プロシアに警察国家をつく除しているーと、ゲッペルスは当時の りあげる初歩的な仕事とに、時間をわ出来事を記録していた日記のなかで、 州首相をしていたところである。 ナチが警察国家をきずきあげるためけてつかった。プロシアでも二月四日ひやかしている。 政治警察つくっ のクサビの一端をうちこんだのは、まに地方議会を解散した。すぐその翌年 たゲーリング さにゲーリングのものとなった、このに書いた小著『再生したドイツ』のな かでゲーリングは、とくにイギリスに ゲシュタボの前身である最初のナチ 役所だった。プロシアはそれまでドイ 政治警察や、最初のナチ強制収容所を ッ最大の州で、その領内には首都ベルむけて、つぎのようにのべている。 リンをはじめ重要な産業センターがあ「まず最初に、わたくしにとって大事つくったのが、ヒムラーではなくゲー っこ。 リングであったことは、ナチの歴史の だとおもわれたことは、警察力をしつ いつぼうドイツ国会議長としてのゲかりと自分の手ににぎることであつおもしろい点である。 ゲーリングは、ヒムラ 1 に相談せず 1 リングは、ヒトラーが首相に就任した。そこでわたくしは、まず徹底的な た翌日、議会を解散した。ナチと他の人事改革をやった。三二人の警察署長に、ベルリンの指導者クルト・ダ おもだった競争者たちとが、もはや合のうち二二人をクビにした。翌月にはリューゲ ( 以前はゴミ処理担当士官だ に 意できないとわかったからだった。あ数百人の警視と数千人の巡査部長を解ったが、当時は将官になってい中 らたな選挙を五週間さきの三月五日に雇した。そして新たな人間をやといいた ) を新たにプロシア警察の長官とも 実施することにした。そのころゲッペれたが、これらのものは、すべて突撃し、さらにゲ 1 リングのいとこイルゼタ と結婚したルドルフ・ディ 1 ルスを、 ルスは選挙戦の指揮者として、ナチ党隊や親衛隊の人間だった」 の絶対的勝利のため、かれ自身がいう「ゲーリングは " オージアス王の牛舎 , ベルリン警視庁部長に任命した。ゲ —部はプロシア州政治警察のこと 〔ギリシャ神話。三千頭の牛を飼いな ″プロ。ハガンダの傑作〃を試みた。だ がそこまでにいかなかったのは、みながら三〇年間一度も掃除しなかったで、これがのちのゲシ、タボとなるわム が、ヘラクレスがアルフエウス川の水けである。 が知るとおりである。 ゲーリングは当時、選挙という重大をひいて一日で清掃したという〕を掃ディ 1 ルスはこの仕事に、昔からべ

3. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

一九三三年ニ月、国会議事堂の火事 ルリンにいた警察力の協力をえた。そだった。他の連中は、略奪で暮らすよ りほかはなかった。 ひかえて、競争相手を制圧する絶好の れはワイマール政権時代、戦後の混乱 国会議事機会であった。ベルリンだけで約五〇 や極右極左にたいする防衛のために組 織されていたものだった。かれらの大 堂に放火〇〇人が逮捕された。 そのうえ、社会民主党やカトリック 部分は、ディ 1 ルスをふくめたゲー 非常時の大きな兆候は、国会議事堂 ングの新しい組織に、ただちに参加すの火事であった。一九三三年二月二十中央党の大会も終始妨害をうけ、二月 る意向をしめした。ディ 1 ルスは、ゲ七日の夜、議事堂はナゾをひめて炎上だけでも、五〇人をこえる反対政党の 1 リングの指揮下に、プロシアの政治したが、これがナチ自身の指図でやっ著名人が、暴力行為をうけて死んだ。 警察を支配したのだった。 たしわざであることは、ほとんど確実二月二十九日、憲法で保障されてい た一般市民の自由がはく奪された。こ だった。しかし決定的な証拠がなく、 大多数の職業警官は、失業者の仲間 入りをしたくなかったので、ナチのたナチが関係していたかどうかをめぐるのことは、だれもが逮捕され、裁判も うけずに、拘留されうることを意味し めに働くつもりでいた。ゲーリングは論議は、いまだにときおり、もちあが やがて、かれ自身がでっちあげた ( 典っているのである。だが、ナチ協力者た。 に 三月五日、国会の、最後のいわゆる中 型的なナチのやり方だが ) 非常事態下が議事堂に放火したのかどうかの点に の国家治安という名目で、配下の正規ついて、ヒトラーもゲーリングも、強〃自由〃選挙がおこなわれたが、ナチも 党は選挙民を脅迫するというような悪 警察を武装し、二月二十二日には、こ気であった。 れに二万五〇〇〇人の隊員と、一 これは国家を収奪しようとする共産らつなことをしたにもかかわらず、投シ 万人の隊いを補充した。 党の陰謀だと公表され、ただちにナチ票数のわずか四〇。 ( ーセントしか獲得ゲ " 警官の。ヒストルから発射された弾丸は武装警官と、の補助隊員をできず、ヒトラーが形式上必要とした一 ム は、わたくしの弾丸である〃と、ゲーリ 共産党員のところへ派遣した。このな絶対多数をとることができなかった。 ヒ しかし、共産党議員がいなくなったの ングは公言した。警官たちの日給は一二かには多数の元国会議員たちがいた。 マルク、しかもかれらは乗り物は無料またこれは、数日後にせまった選挙をで、それもたいして重大なことではな

4. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

警察国家での生活とは、どんなものかで、地位をたもてるのである。警察今日の訊問者が、明日は囚人になるか だろうか ? とくに、ドイツ・ナチ政国家では、たとえどのような地位にあもしれない。指導者連中でさえ、だれ 権の機関や協力者たちが管理した警察ろうと、だれもが、いちおうは容疑者かが突如として姿をけし、大衆にほと としてみられており、政府に忠誠か不んど顔の知られていない人物が、その 国家での生活は、いったい、どんなだ 忠誠かを記録する秘密文書に記載され空席をうめるかもしれないのである。 ったのだろうか ? 一般市民にとって、警察国家で暮ら 警察国家社会では、なに一つとしてているのである。 すことは、その市民権のすべてをうし 安定していない。暴力あるいは権力者予想もしない突然の " 宮廷革命〃 に追従するヤリテの能力があるかないか、または上層部の権力交代の結果、なうわけではないにしても、その大部 恐怖の警察国家

5. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

一につくられたと秘密警察ーー。・のな ムかに、同じくライバル関係にある二つ るの諜報組織があったわけである。一つ 説はハイドリヒが支配した ( つまり ) であり、もう一つはカナリスが 屋管理した軍諜報部〔アプウ = ーア〕で のあった。 カナリスはハイドリヒより一七歳年 ン上で、以前に一度海軍でハイドリヒの 上官だったことがある。しかしいまや 二人は油断なく警戒しながら、しかも 同僚の役割を演じていたのである。ハ イドリヒはときどきカナリスとクロケ ット〔芝生でやる球戯〕をしたり、ま た提督夫人が室内楽ファンだったの で、かの女と・ハイオリンの合奏をした。 いつぼう t.n co は、 ハートタイムの ″予備〃隊員をふくめて大世帯になっ た。ヒムラーは一九三七年一月、国防 軍将校のある会合で演説したさいに、 強制収容所の看守、いわゆる " ドクロ 部隊〃の数は三五〇〇人で、これに収

6. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

これらのうち何人かは、今日なお、 ヒムラーの本部事務所にいるものやスがふえ、またこれらのは、一に 〃、つまり収西ドイツで裁判にかけられている。年 収容所を担当するものは、軍務からはぎりの古手の″エリ 1 ト ずされることになってはいたが、一九容所長やその副官たちに監督されていよりは大半が低能で、野蛮な行動をと 四二年から四三年にかけて、東部戦線た。名目上は、四万人の男女隊員りがちだが、かれらは、一九四〇年代 が緊迫してくるにつれて、このうちのが、ドイツ内外の全強制収容所組織にに、警察や軍隊から、無能を理由にク ビになった人たちだった。これらのも 積極的な〃エリート〃たちは、しだい参加していたが、のエリ 1 トとい うふるい夢は、いまや悲しむべき状態のは、収容所ではワイロをとったり、 に戦場へ召集されていった。これはヒ 権力をカサにきて、いばっていたのだ トラーが、あらゆる有能なドイツ人のとなった。 係官のった。 動員に、力をいれはじめたためでもあ これらのうち何人かは、ほんとうの 質低下 った。 このためヒムラーは、の高齢者この間に、小規模な労働収容所の形サディストだった。ムチつかいのウィ グル 1 プを、中核とせざるをえなくな式をとった、数百におよぶ補助収容所ル ( ルム・ポーガ 1 は、一九六四年フ ランクフルトでの裁判に顔をみせた。 り、きわめて積極的に応募してきたは、各地にひろまっていた。 ッ ポ 1 ガーは「一九三二年、 ()0 にはいッ アウシュビッツ収容所のヘスや、べ " 外国人みの数が、どんどんふえてい る以前は職業警官をやっていた。 った。これら外国人は、予備警察としルゲンーベルゼン収容所のクラマ シ しかし大半の人間は、無感覚な連中ウ てヒムラーに奉仕すると同時に、収容や、あるいはブッヒエンワルト収容所 ア 所の看守や、収容所でちょっとした行のコッホとイルゼ夫人が、これほど高で、野獣のように愚鈍だった。かれら 政官の仕事をやったりしていた。 い地位にあったとは、だれも考えてもは、どこの国でも、町なかや刑務所や本 の しまいには、強制収容所は、できるみなかったろう。収容所では、いかに売春宿を掃除したら、かならず出てく るような種類の人間だった。ドイツで絶 だけ独立して運営するようなかたちに地位の低いものでも " 模範的〃ドイツ なっていった。比較的少数の地上人だとの口実で、のポストを確保最良の人間は、戦線で戦っていたか、 工場で熟練工として働いていたのであ 部隊が、囚人を監督して働かせるケ 1 することができた。

7. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

男たちだった。それ以外には大量虐殺マンが、つぎに絶滅させるユダヤ人五突然、家の前の路上で車にプレーキを の技術者が計画した、人種根絶計画の万人の輸送計画をねっている。悪名たかけ、寝ぼけまなこの、おびえた人間 手順を実行にうっすため集められた、 かいメンゲレ博士 ( 元 t-nco 医師で、今を、妻子の手から引きさらっていくの 労働班にもこの仕事がゆだねられた。 なお。ハラグアイにひそんでいる ) も、 は、これらの男たちである。かれら 親衛隊の物語は、すべて・ハカげたこおなじ黒い制服に身をかため、アウシは、中世のような拷問器具をつかった と、つまらぬこと、薄気味わるいこ ュビッツの囚人収容所の道に立ち、乗り、あるいは素手で、残忍な訊問をお と、おそろしいことばかりである。そ馬ムチをふりまわしながら、すぐ死刑こなう専門家だ。かれらはきびしい経 してこれが何百万もの罪のない人たちにするもの、あと何週間かの奴隷験によって、人間が耐えられるギリギ に、もっとも非人道的な苦しみをおし労働者として生かしておくものを、選リの限界、そして自分たちがほしい情 つけたのだ。 びわける指図をしていた。 報を、正しくてもまちがっていても、 親衛隊のなかには、レセプショ 親衛隊と密接もっとも効果的にききだす舞台道具が ンの。ハ 1 ティで、ヤミの酒をのみなが な秘密警察どんなものか知っていた。 ら、新しい黒い制服についたチリをは ゲシュタポは、 r.n よりもさらに巧 ひとたびナチが政権をにぎると、 らっている、にこやかな要人がいるか は、以上のような、あるいはもっと妙に、警察国家を動かすのに欠くこと と思うと、公衆の目からかくれて、おおおくの処罰権限をにぎった。そしてのできない恐怖支配の芝居がかったテ びえる婦女の顔を平手打ちして悲鳴をかれらの背後には、と密接に結託クニックをまなんだ。恐怖支配を芝居 あげさせる、おなじ優美な服装の男がしながらはたらく、ゲシュタボの男女がかった方式でやるのは、追跡された 、略奪されたり、罰せられねばなら 同居しているのだ。 がいた。ゲシュタポは制服もしくは平 会議で演説し、礼儀ただしい拍手を服の警官で、ドイツの、のちにはドイない人たちに、それだけの心理的効果 うけるヒムラーが、フチなしの鼻メガッが占領した諸国での政治的治安を維をおよぼすからである。疑いをもたせ ておくのも、べつのやり方だ。なぜな ネをズリあげているとき、いつぼうで持する特殊な任務をもっていた。 ら、何カ月も何年間も、その人間に日 は、暗がりの密室でアドルフ・アイヒ真夜中にタイヤをきしませながら、

8. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

月には一八歳から二五歳までの青年は、規則違反を発見するか、あるいは本部の設置によって、連携されることⅢ は、法令によって強制的にドイツで働でっちあげて、それを訊問の口実につになったのである。 かされることになった。しかしデンマかうことだった。ゲシュタポは、一般国家保安本部は、行政的な理由でい くつかの部にわかれた。このなかに 1 クでは、このような徴用はいっさいに、このようなことはしたがらず、逮 なかった。ただし、この国の経済は、捕するからには、すくなくとも書類のは、国内諜報 ( ドイツ国内のスパイや 隠れ家を管理するとともに、スパイそ けつきよく、ドイツの被害をうけるこ上に、なにかが必要だとかんがえた。 とになったのだが・ かれらはそのために、かげにかくれてのものは、その対象に応じて、世論、 労働者の困窮度は、とくにポーラン書類や文書をつくろうとする傾向があ人種間題、文化と教育、宗教的関心、 ドでひどかった。かれらは食糧や、病った。そして、その内容を犠牲者にみ産業と労働、上流社会、その他にグル ープ化される ) 、ゲシュタポ ( 多数の 人とか失業者用にまだのこっていた仕せたり、みせなかったりした。 事の配給通帳を、さしとめられないよ ヒムラ . ーは、こうした数おおくの仕支部をつうじてドイツ国内と占領諸国 うに、命令にしたがわねばならなかつ事を、長官として、ハイドリヒの内での政治的破壊活動を監視するのを た。こうしてドイツには、最高約五〇力をかりて遂行した。ヒムラーの中心専門職とする ) 、刑事警察〔 〇万人の外国人労働者が徴用された。 勢力をなす警察部隊は一九三九年九 0 〕、外国諜報 ( 占領地域だけでな その大部分は、ポ 1 ランドからのもの月、ポーランドが陥落したあと再編成 く、あらゆる重要な外国地域をふく だったが、八七万六〇〇〇人はフラン され、一般的呼称が国家保安本部〔む ) の各部がふくまれていた。 スからだった。 < 〕となった。これによって、 国家保安本部の本部は、昔ながらの 「国家保安本部」は国家警察活動の全面的な管理をす住所、プリンツ・アルプレヒト街八番 に警察部隊を統一ることができるようになった。そして地にあった。ゲシュタ。ホの正規メンバ これらを管理する複雑な仕事は、す昔のように、純粋な党機関と国家機関 1 をふくめて国家保安本部で働く人間 との区別がなくなった。あらゆる警察はすべて、その制服にの腕章をま べての手によって演じられた。か れらが、しなければならなかったこと活動は、ゲシュタポをふくむ国家保安いていた。

9. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

ゲシュタポ / 目次 ー恐怖の警察国家 2 S S とともにオ雀力にぎるヒムラー 3 ヒムラ ゲシュタポも掌中に 6 9 4 開戦にそなえて S S 強イヒ 5 隣国を食いあらす S S 目をおおうゲシュタボの拷問 7 魔手のばす S S イテ動隊 8 奴隷労働・のあげく大量虐殺 、、絶滅の本音アウシュビッツ ー 0 戦局不利、収容所を解放 ー夏東に西に難民の大移動 夏 2 警察国家の末路 イ寸表 I 、Ⅱ 参考 1 文献 6 221 218 2 199 1 156 138 124 117 87 50

10. ゲシュタポ 恐怖の秘密警察とナチ親衛隊

【右】大将ゼップ・ディートリヒ えている。 きることになった。 このようにしてとゲシ = タポはムラーの部隊は、ヒト一フー政権の ことなった政治思想をみとめようと したり、考えるだけでも、国家組織の一九三六年までに、旧憲法にもとづく公式な " 片腕。となり、文字どおりド ィッの市民生活を完全に支配した。 国家の介入権から、免除されるものと 健全な団結に脅威をおよぼす危険な兆 とゲシュタボの干渉をうけないです 候として、冷酷な措置をうけるであろ考えられるにいたった。 いっぽう、ドイツ国民大衆は、法律んだのは、ドイツ軍隊の人間だけだっ 国家の敵を発見し、監視し、適当な時上の制裁に、二つの方式があると考えた。たとえばゲシ = タポは、軍の将校 た。一つは憲法に定められた国家裁判を逮捕することはできなかった。たと 期に、それを骨ぬきにしてしまうこと であり、もう一つはヒトラ 1 が定めたえ証拠をにぎったとしても、かれらに が、政治警察の予防的な義務である。 できることは、その情報を軍諜報部に このために政治警察は、最終目的達成 " 法律〃規則であった。 に必要なあらゆる手段を、自由に行使このヒトラーの規則は″憲法外の総わたすことだけだった。 軍諜報部は一九三五年以降、カナリ できなければならない。 統権限〃と説明された。この権限は、 どのような破壊的攻撃をうけるか、市民権をめぐって意見対立がおこるよス提督を長官としてのしあがってきた どのような形の脅威が生じてくるかはうなばあい、いつも最優先された。そが、このカナリス提督は秘密の皮政府 予測できないから、政治警察が行使すしてヒトラーの独裁をささえたのは分子で、一九三八年以後、自分の管轄化 " 非常事態。命令にもとづく政府だっする諜報部を反ヒトラーの積極的な抵 る手段をあらかじめ法的にきめておく た。ドイツは、一九三三年から一九四抗運動の中心にしてしまった。この独て ことは不可能である。 このような事実から、政治警察は、 五年まで、ヒトラーによって非常事態特な部門から、特異な陰謀が生まれでな そ たのだった。 国家を防護する一つの新しい、独自な下におかれていたのであった。 に 対立するニっ競争関係にたった二つの組織 , ーー総戦 団体だと考えられるようになった。そ の諜報組織統であり最高司令官であるヒトラーに してメン・ハ 1 は、公式な義務にくわえ て、自分自身が戦闘部隊の一員だと考レーム粛清でを骨ぬきにしたヒ直属する正式な軍隊と、ヒム一フ 1 の下