入するやいなや、アッというまにつか まってしまった。 ドイツ軍が七月に侵入したウクライ ナでは、一五〇万以上のロシア系ユダ ヤ人が、絶滅の脅威にさらされた。け つきよく最後には、約一五〇万がナチ の手をのがれて東部へ移動していった が、数百万人は、東部ポーランドとソ 連のドイツ占領地にのこり、どうする こともできずに、ドイツ人につかまっ てしまったのだった。 行動隊の 虐殺記録 行動隊の仕事については、りつばな 記録がある。おおくの報告書が本部に のこされてあって、戦後の裁判に利用 された。これらの報告書は、徴にいり 細にわたる完ぺきなものだった。 たとえば、行動隊隊は一九四一年 十月五日までに一二万五〇〇〇のユダ ヤ人を殺し、行動隊隊は十一月十四 日までに四万五〇〇〇人を、行動隊 0 1
ソ連て、 ( 親衛隊 ) の村民虐殺はふつうのことだった 隊は十一月三日までに七万五〇〇〇人ようなものがある。 市行政当局にあたえた。刑の執行はと を、さらに行動隊隊は十二月十二日「隊員ならびに南部警察連隊二個部隊どこおりなくおこなわれた。なに一つ までに五万五〇〇〇人を殺したと記録の協力により、特別突撃隊四班は、事件はおこらなかった。ダヤ人にた動 されている。合計三〇万人が、初期の九月二十九日と一一一十日に三万三七七一 いする " 再定住措置〃は民衆のすべて 絶滅作戦で殺されたのである。行動隊人のユダヤ人を処刑した。金銭、貴重の賛同をえた。じっさいにはユダヤ人す 隊は、軍隊から積極的な援助をうけ品、下着、衣服はすべて没収し、ナチを抹殺するという事実は、これまでのの たと主張したが、これはおかしい。 党福祉機関〔 ZØ> 〕に処理をまかせところ、ほとんど知られていない。も魔 行動隊の典型的な報告書は、たとえた。これらは、ドイツ人に使用させる っとも新しい経験によると、これが抗 ばキエフ地区からおくられた、つぎのか、あるいは困窮者に使用させるため議をうけるようなことは、ほとんどあ
道 義 的 な 意 味 で い う な ら フ て かた は わ た く し に 、れ こ し措 ん 工官 ご 。を が処 は 、そ 軍 分た画隊 ど ひ るす ど要 い でな も 刑カ の か れ は 知 て い た を ど部 の よ う に 強 調 し た大 を 説 明 て い こ と でた し 力、 ら ま た し . ほ実を 行 を 求 し ま し こ の 措 置 が れ し た た月 と き わ し は こ う し . オこ と っ と た し よ う は こ の ど令責 オこ 隊 を と 殺 の 必 要 の除 日 力、 日 に コ フ イ フ に き れ わ れれ の 力、 てヾ 。だ れが い つ た い の任わ イ 工 フ に しつ ら 四外大 し て い し 、た S 長 十 と と い い 、わ た ま し た オ レ ン ノレ フ ヒ ム フ 1 が れ は ぜ い の ヤ 。人 と S 農束 民 を かわ の し は 。責 ーま 自 し 任命 う よ れる かす そを 処 に り でお意 ど 、刑れた わ で 糸勺 の と ダ隊別 ュ軍特 は勢 の情 う い と コ殺数 ニ射ー にれ 時が 同 で任 人資 の - 工 . フ の 、は ど い の で し の に さ ら つ も ょ い ら 計 武 部 隊 視 ム 135 魔手のばす S S 行動隊
レジスタンスに出くわしたら、どこでは、対ソ戦を担当する軍司令官にあてがては、これが〔親衛隊〕による絶 も、ただちに秘密警察と死刑執行人のた指令に署名した。この指令は、行動滅計画に発展した。絶滅対象は、政治 二役を演じた。軍の高級将校のおおく隊に宿舎と糧食と乗りものを提供して代表や人民委員ばかりだけではなく、 は、ヒムラーの突撃部隊がやったやるよう、司令官たちに要請したもの一般の戦争捕虜もふくまれていた。 これらのソ連兵捕虜は、ドイツ軍に ことをみて、大へんなショックをうけだった。ドイツ陸軍は、この殺りく行 ながら、ポー一フンドからもどってきた。為で積極的な役割を演じたわけではなとらえられてから、ユダヤ人とおなじ 赤軍人民委員かったが、殺りくに加担した事実は、 ように、のぞましくない人間の階級に いれられた。ソ連兵捕虜の大々的な死 の殺害命令だれも知っていた。 ヒト一フーのソ連侵略は、一九四一年行動隊は、五〇〇人から一〇〇〇人刑執行の結果、ユダヤ人にたいして考 ずつの四隊にわかれた。この仕事にはえられたのとおなじような、絶滅計画 六月二十二日にはじまった。ヒトラー は、できることなら、冬がやってくる総数一二〇〇〇人をこえる人数は必要での完全な。ハターンができあがっていっ まえに、モスクワとレニングラード へなかった。かれらは数カ月のあいだにたのであった。 「電撃戦」をかけようと決心した。 一〇〇万人を絶滅させたといわれてい 一九四四年〔昭和十九年〕五月一日 の行動隊が、ふたたび軍についる。ラウル・ヒル・ハーグの推定だと、 付けドイツ軍最高司令部の報告による と、つぎのような統計数字があきらか ていった。こんどのばあいは″治安〃 一九四二年の春までに、行動隊と 動 のためという大義名分はともかく、最突撃隊によって、約一四〇万人のユダにされている。 行 赤軍で捕虜になったものの総数は、 初から大量虐殺せよという秘密指令をヤ人が死んだ。 うけていた。もっとも行動隊の報告で 一九四一年六月六日、ヒトラーが布五一六万五三八一人。 " 消耗〃によっす は、出くわしたユダヤ人はすべて〃。ハ て死んだもの二〇〇万人。移送中のキの 告した「赤軍人民委員の殺害命令」 ルチザン〃ということになっていた。 〔コミッサールべフェール〕のことをャンプで死んだ将兵一一八万人。逃亡し魔 侵略よりかなり以前の一九四一年三忘れてはならない。この命令にひきつようとして射殺されたもの、もしくは 月、ヒト一フーの幕僚長・カイテル元帥 づいて、いろいろな命令がだされ、や強制収容所におくられたもの一〇三万跖
トラーは、自分がきらった何百万人も的に人を殺すということは、慣れない ()n 行動隊〔アインザッツグルツ。へ〕 は、すでにのべたように、ドイツ支配の人間を殺した責任を、まぬがれるこ人間には、とうていできないことであ 下のポーランドを " 浄化。する目的でとはできない。人種問題を理由としてる。ふつうの人間は、戦場で人を殺す 実施された大量殺りくは、当初は反対のが、精一ばいだった。数は比較的す 編成されたものであった。ポーランド くなかったが、人をあつめて、いくっ の獲得は、ヒトラーにとって、ドイツ派を制圧するという見せかけで、おこ かのグループをつくり、これを軍隊の 民族統一をめざしたヨ 1 ロッパ政治地なわれたのであった。 理再編成の第一歩とはなったが、本来この作戦を実施したのは、ドイツ軍うしろにつけて送りこんだのは、ヒム たいした意味はもたなかった。だがヒ隊ではなかった。血も涙もなく、組織ラーの仕事だった。これらグループは 魔手のばす (D(J) 行動隊
連た し理 し ン七 う隊 命に な特 の万 目別 、九 、オし に部 へ ン は〇れ年 、〇 リ き準 ・後 に軍 / 、な ・千 め公年かた身 中育 」事フ てれ た開 。が を士 、な の教 ヾ任練カ ァ 典創一席 あ間 〇ま で始 ルあ っか 。だ 亠言臣 。動 かあ イ リ ヒ の 死 フ年国 ラ演者 年 月 か 世れ記 ド イ ツ 帝 の ノ、 こ を は録公 と ど 九 ハ に つ い て に開九 の で 三演 S ヒ ム フ は 力、 ら S の 危 険 は あ わ せ 、つ た て つ が 。た し え 考 と だ 隊 る え で は な く ヒ ト フ 1 自 自 由 に つ か 員れた ら は 、は訓戦官位 に そ な え で民カ ら ヒ ト フ れ ら の こ と ヒ ノ、 フ さ れ か練争 を う け た た も の 、警地八 S S っ が と は な さ つ た 力、 ら 〇 み人準ら え こ れ ら の い だ に こ ら ふ隊九 は た九九 。〇年 〇 人 九 か で の 1 ザ オど つ た た の は 兀 ド イ ツ 陸 ウ ノ、 よ 軍教軍 に た つ し最三 た高五 と水年 の を う け る ヒ ト こ れ ら の 、ダビデの星洋を強制的につけさせられたユダヤ人 76
ss の軍曹 s A ( 突撃隊 ) 隊員
1 にのこった他のユダヤ人も、奴隷労オーストリア、ズデーテンラント、ポたばかりか、長官の指令する政治 ヘミアーモラビアの占領のさいーー・警活動と相反するべつの命令系統をつく 働の対象となった。ロージ〔ワルシャ りだした。警察行動にかんする指令 ワ南西一二〇キロ〕にあるゲット 1 で察行動隊は、総統の特別指令にしたが は、一九四〇年五月から一九四二年六 って、先遣軍隊とともに進駐した。ポは、とくにくいちがった。 月までに、一〇万の住民のうち三万人 1 ランドには、行動隊は戦闘部隊とい数千人におよぶポーランドの指導者 っしょにはいった。そしてまず予備的グループを抹殺せよという命令がださ が死んだ。 れたが、この命令については、軍隊の はポ 1 ランドで、侵略にあたつな仕事をやり、その結果、逮捕したり、 司令部はツンポさじきにおかれ、下級 ての役割の。ハターンをつくったよう重要な政治文書を没収、保管して、ド だ。ユダヤ人再定住の仕事は、突ィッへの敵対運動に大打撃をあたえる幹部だけが知っていた。このため、警 撃部隊の〃ドクロ部隊〃ーーー約七四ことができたのである。こうした敵対察との行動は、勝手気ままで、残 〇〇人 , ーーと、これを補佐するハイド 運動は、移民者、フリーメーソン〔中忍で、しかも許可なくおこなわれたよ リヒの行動隊、に編入されたドイ世の石工組合を母体とし、世界の友愛うにみえたのである。 犠牲者よりも ッ警察との組みあわせで、実行されたをとなえる国際秘密結社〕、反政府的 ようだ。 殺害方法に関心 教会団体などによって指導された、第 ヒムラーは、がなすべきことに ハイドリヒ自身、一九四〇年七月の三帝国にたいする世界的規模の運動だ 専念した。だがそれ以上に注意をした 覚書のなかで、行動隊の活動と、かれった。 くのは、殺害や追いたての議牲になるもら らが直面した困難について記してい 下級幹部との協力、しかも、おお る。つまり、国防軍司令官たちによるのばあい、陸軍との協力は、一般的にのよりも、それを実行するものたちにい 抵抗があって、このようなことがソ連うまくいった。これにたいして、軍部ついてだった。翌年ひらかれた士を の侵略のさいに再発しては困るというの上級指揮官たちは、国家の敵を根こ官たちの秘密会議で演説したヒムラー隣 のである。 そぎにするための姿勢が、基本的にちは、これら忠実な隊員が、これま これまでのあらゆるばあい がっていた。このことはマサツを生じで全ドイツ人のために、いかに厄介な
トラーのかわりに、ハイドリヒにたいにを意味するか、推測する以外に、い員、地方委員、地区委員のうちの上級、 して、絶滅を意味する、悪名たかい隠まや、なんの方法もない。おそらくこ中級幹部と過激主義者。人民委員。共 語〔最終解決〕をつかうよう、じっさの段階では、中部ョ 1 ロツ。ハの占領地産党と国家に奉仕するユダヤ人。その いに命令したのは、ゲーリングだった域で、人種差別すること以上の意味は他過激分子。 : : : 行動隊はドイツのあ のである。命令書や、正式な会議でなかったであろう。あるいは、せいぜらたな占領地での、反共ないし反ユダ " 特別待遇″とか″再定住〃といったいマダガスカル島に、ユダヤ人ゲットャ運動にともなう粛清に、干渉しては 隠語をつかうことがきめられた。これ 〔居住地区〕をつくるという、ヒムならない。むしろ逆に、こうした粛清 は、絶滅政策をごくかぎられた人間だ ラーの古くからの夢ていどのものにすを、ひそかに奨励すべきである″ けにしか、知らさないようにするためぎなかったろう。 ユダヤ人抹殺命令 ( ほとんどは口頭 ・こっこ 0 ゲーリンでおこなわれたようだが ) がだされた ユダヤ人は、ポーランドで、 co 行 グの命令という証拠は、ナチ当局からも。ハルチ 動隊によって、他のポーランド市民と大量虐殺にかんする命令書の有無にザン側からもみられず、行動隊の報告 いっしょに多数が殺された。しかし、 ついては、まだ捜索がつづけられていにときおり言及されているだけだっ かれらを殺せという命令書は、実在しる。ハイドリヒが、一九四一年七月一一た。この報告にでている数字は ( 前に なかったようである。命令はたんに、ユ日付けで、行動隊司令官におくった処ふれたように ) ″基本的な指令にもと ダヤ人を集めて国外退去させるいつぼ刑命令がある。これはゲーリングからづいて。狩りあつめ、銃殺したユダヤ う、ポーランド市民のなかの " 反政府〃 ハイドリヒに命令がくだされる、ほぼ人の数である。それによると、一九四 分子を逮捕せよ、というものだった。 一カ月まえのことだが、その一部にこ一年から四二年までのあいだに処刑さ しかしハイドリヒは、ユダヤ人の移う書いてある。 れたロシア系ユダヤ人は数十万人にお 送にあたって、これを「もっと時間の " つぎのものは処刑する。 よんだ。 かかる最高機密の、最終目的にさきだ コミンテルンの全幹部 ( その多数は 一九四一年七月一二十一日に、ゲー丿 っ暫定措置」だと語った。これが、な職業政治家であろう ) 。共産党中央委ングがヒムラーの承諾をえて、ハイド 146
ヒトラーが一九三二年〔昭和七年〕九六〇〇票 ( 一九二八年は一〇〇万票せざるをえなくなった。そしてヒトラ に権力掌握 ( の決定的な飛躍をしたこをわっていた ) から、一九三一一年七月 ーは、勝利の栄光につつまれながら首 とは、ひろく知られている。ドイツ共には、一三七四万五〇〇〇票と、選挙相の座についた。 産党と対決するいつぼう、産業人や国区の約一二分の一を制する勢力となっ 突撃隊の勢 こ 0 家主義的な考え方の失業者たちからも カおさえる 支持をうけた。 舞台裏でのさまざまな陰謀によっ この間、〔親衛隊〕は〔突撃 選挙の票あつめにめざましい宣伝戦て、ヒンデンプルク大統領は、一九三隊〕と、とくにちがった役割を演じた をくりひろげ、一九三〇年の六四〇万三年一月、かっての伍長を首相に推挙わけではなか 0 た。ヒムラーはいぜん ヒムラー、ゲシュタポも掌中に