前の男が振り向いた。 ニックは札入れをしまい、受話器に近づいた。しばらくそれを見つめていたが、やがて向きを 変えると明るく暑い通りへと出ていった。 彼は夕方まであてもなく歩きまわった。・ とこを通り、何を見たかなど覚えてはいなかった。気 がついてみると、人混みのする細い通りこ、 ーのけばけばしいネオンが、その両側を派手 に照らしている。制服や私服の兵隊たちが、何人かずつにかたまって歩いている。あらゆる年齢 のヴェトナム人が、電気攪拌器から女まで、ありとあらゆるものを売りつけようと声をからして いる。ニックには、その声もほとんど聞こえなかった。 そのプロックの中央で彼は急に足を止め、まわりもよく見ずに車で混雑する車道へとび出した。 車のホーンがけたたましい音をたて、自転車やスクーターに乗った男たちは、拳を振りあげた。 彼は縫うようにして車道を渡った。歩道を数歩走り、前を歩く兵隊の肩を軽く叩いた。 「マイケル ! 」 そのが振り返った。 ニックが一歩あとへさがった。「すまん : : : 人ちがいだ」 兵隊はうなずいて歩いていった。 「いいそ、あんたの番だ」 133 密林 1970 年
「上々さ」 」彼女は、言いかけてやめてしまった。マイケルが通路を奥へ向か 「私ね、思ったんだけど って、行ってしまったのだ。 リンダは、空箱に囲まれて床にしやがみこんでいた。声を落として泣いている。 : どうしたんだ ? 」 マイケルが彼女の肩に手を触れた。「リンダ・ 彼女は振り向き、涙の流れる顔で見あげた。頭を振った。「わからないの」 「何かあるんだろう ? 」 「私 : : : ただ、とっても寂しいの」 マイケル冫 こよ何とも答えられなかった。深く息を吸いこんで言った、「外に、車を停めてある んだ」 「いいの」彼女はもう一度頭を振った。「ひとりにしておいて。すぐによくなるわ。本当よ」 マイケルはためらっていたが、すぐにうなずくと、向きを変えて通路を戻っていった。外へ出年 て車に乗りこむと、寄りかかって頭をのけそらせ、何も考えまいと努めて天井を見つめた。 店員が最後のカートを集め、店のなかへ押していった。電気がひとつ、ふたっと消えはじめ、郷 ジャケットのボタンをかけながら、店員が出てきた。次は女の子だ。ふたりはいっしょに通りを 歩いていった。次に、別な女の子。リンダが現われるまでに、何分かが過ぎた。
素晴しいそ。俺たちはみんな、おまえらに恩ができちまった」 リンダに目をやった。 / 彼女もそれ マイケルは、ふたりの老人にていねいなことばを返しつつ、 には気づいていた。無意識に、彼女は店のウインドウに映る自分の姿を見つめ、髪を整えた。 、つこ。通りの向こうを、石炭を運ぶ列車がゆっくり 彼を祝う老人から離れるのに、何分かかカナ 彼とリンダは、黒い貨車を見つめていた。最後尾の車掌車が通り、列車の轟 と通り過ぎていく。 音も次第に消えていった。そして、製鋼所から次の騒音が発せられるまで、一瞬の静寂、一瞬の 緊張感が漂った。 マイケルは、リンダの頬に軽くキッスをした。彼女は大きな目でマイケルを見つめた。彼は肩 をすぼめてリンダの手を取り、通りを歩きつづけた。気が落ち着かなかった。 ・きみが奴を愛していたことは知って 「リンダ : : : 俺は、ニックが気の毒でたまらないんだ。 いるし、いつまでも人の心は同じじゃないってこともわかってる。つまり : : : きみが話をしたい のかどう・かもよくわから : : : 」 リンダは彼の手を軽く握るだけで、何も言わなかった。 ーマーケットの通路は、木枠や箱でごった返していた。白い仕事着をつけた女の子たち がそれを開け、罐にプライスを張り、それを棚に並べている。支配人はいかつい顔をして、顎に 肉のついた、丸い男だ。葉巻を噛むようにくわえ、いろいろと指示をとばしている。 160
「さて、ボウリングはもう十分だと思うけどな」スタンが言った。「みんな、何したい」 「猟に行こうかと思ってたんたが」アクセルが答えた。 「誰がおまえに訊いた ? 」スタンが言った。 「俺はマイクに言ったんだ」アクセルが答えた。「奴なら行くさ。だが、女はだめだ」 「そう、マイクなら行くよ」ジョンが合づちを打った。 ュなっマイク ? 」 マイケルはためらって、 リンダに目を向けた。ふたりはしばらく見つめ合っていたが、やがて リンダがレーンから歩き去っていった。マイケルは、彼女のうしろ姿を見つめていた。 「行くさ」彼が答えた。 アクセルが自分の腿を叩いた。「当然だ ! 」 スタンがびよんびよん跳びはねている。「むかしみたいだな ! ええ、マイク ? そうだろ ? 」 「まったくだ ! 」マイケル、アクセル、ジョンの三人が、声をそろえて言った。 年 風がマイケルの頬を刺して赤らめ、雪を運んで山の高い尾根を吹きぬけてゆく。すでに二時間 前に夜は明けているのだが、空は灰色で薄暗い。葉を落とした木々は銀色の氷に覆われ、唸りを郷 あげる風が枝をきしませ、その折れ目が氷に包まれて見え隠れしている。 マイケルは一対の足跡を追っていた。足跡の穴のまえに数インチ、足を引きずった跡がついて
たマイケルのキャデラックが置かれている。その横には、錆だらけの、ニックのビックアップ・ トラックだ。その陰には、うしろ向きにたくさんの新しい車が停まっている。トレーラーのなか からは、音楽や笑い声が響いていた。 なかでは、工場の労働者や、びったりしたスラックスとセーターを着た女の子たちがひしめき 合っている。アクセルとジョンが、新しいビールの小樽を叩き、リンダは人とことばを交わして も落ちつけぬ様子で、心配げに歩きまわり、何度となく窓の外へ目を向けている。スタンは窓際 の最良の場所に陣取り、ずっと外を眺めたままだ。 / 彼の黒い髪は下へ垂れている。あつらえたズ ポンをはき、大きなカラーのついたノリのきいた花柄のシャツを着こんでいる。彼はいくらか太 って顔も丸味をおびているが、鋭い肉食動物的な感じはそのままだ。 車が近づいてくるたびにスタンはとびあがり、指をさして興奮して叫んでいた、「あれだー マイケルだそ ! 」 みんなが寄り集まり、車が通り過ぎてしまうと、スタンはこう言った、「まだだ。まあ、すわ っててくれ、来たら教えるから」 アクセルが樽のせんを打ち抜き、ジョッキをいつばいにして高々とかかげた。「アメリカ国旗 に乾杯 ! 」 みんながその音頭に従った。「アメリカ国旗に乾杯 ! 」 150
あげた。アクセル・ペダルを踏む力をゆるめずにいると、キャデラックの後輪が雪や水しぶきを 巻きあげ、ふらっきはじめた。彼は後部の振りを修正しようと、小刻みにハンドルを動かした。 頂上に近づくと車輪がス。ヒンをはじめ、彼はギアを落としてエンジンの回転をあげた。スリップ や横滑りをしながらエンジンを唸らせ、キャデラックは平坦な所までのひと息をのりきった。彼 はプレーキを踏み、エンジンを切ってサイド・プレーキを引いた。 マイケルは貸衣装屋のタキシードを着、まるで服を着せられたペットのような妙な気分で車を 降りた。それとは不釣り合いに、足には登山靴をはき、ズボンのすそをそのなかへ押しこんであ る。普通の靴は手にもっているのだ。 , 冫 彼よ、でこ・ほこになったニックの。ヒックアップ・トラック のまわりの湿った雪を踏みしめて、重い足どりで歩いた。。ヒックアップの運転席のリア・ウイン ドウには、銃の置かれていないライフル掛けが見える。 トレーラーは銀色の車体だが、 シリコンで目張りのしてある鉄板の継ぎ目には錆が出ているし、 屋根からはがれ落ちたタールで汚れている。ふたりはそれを、中古の中古で建設現場で買ったの だった。そこは、町と製鋼所を見おろす丸い丘のスラッグ捨て場だった所だ。見た目にはひどい ものだが、ふたりで雨風はしのげるように修理して自分たちの家として使い、とにかく、ふたり ともそれが大いに気に入っているのだった。 マイケルは玄関口の雪を蹴とばしてどけ、ドアを開けた。
をあげて進んだ。ときたま、人間の居住地と反対側の巨大な怪物を結びつける歩道橋を、人影が 渡っていく。そのひとつを渡る者がいる。きこりが着る格子じまのマキノーを身につけ、下士官 がかぶる毛編みの帽子を耳までかぶり、両手には大きな手袋をしている。運転手とその男の視線 が合い、彼は ( ンドルから手を放してその手を振った。男は一瞬立ちどまり、そっけなくうなず くと歩いていってしまった。 製鋼所のなかでは、半マイルほど先の積載所へ向かってトラックが通りすぎていくとき、マイ ケルが手袋をはめた手をあげて振っていた。 「メガネをかけろ ! 」騒音にかき消されないように、彼は大声をあげた。 額から自分のメガネをずらした。・ : カ同僚の四人が同じようにしたかどうか、振り返って確か めはしなかった。四人とも熟練した男だ。たまたま責任者の当番が自分にまわってきていたので、 指揮をとることについては義務を果たしていたが、男たちのことは心配していなかった。 彼らは、鋳造室の床から数フィート高くなったレンガの台にのっていた。高い天井のあたりを くねくねと走る狭い通路や梁は、はるか上の方にある。彼らが立っているのは、レンガの台に深 く刻まれた溝の上を通る狭い通路で、すさまじい熱を発する怪物的な炉からはいくらか離れてい る。石綿のフードをかぶり、それが短めのチュ ーニックのように腰のあたりまで垂れている。そ
ニックが肩をす・ほめた。 「両親の名前は ? 」 「ルーとエヴァ」 医者はファイルをばらばらとめくり、目的のページを開いた。「両親の誕生日は ? 」 けいれんがひどくなった。「それがどうしたというんだ ? 二〇年以上も前に死んでいるん 医者は頭をかしげて横目で見つめ、ニックを見定めた。 いいだろう」彼は言った。 , 。 彼よ、ニ ックの首についたプラスティックの輪に別な色紙をつけたした。「いいぞ、行け」 彼は予定表に目を向け、急ぎ足で歩いていった。 サイゴン総司令部のテレフォン・センターの壁には、ぎっしりと電話が並んでいる。とてつも なく広いその部屋には、故郷へ電話をする人々の長い列から発せられる声が充満していた。灰色 のズボンと赤いチェックのシャツを着たニックが、リ 歹のひとつに並んでいる。もう二時間も待っ たすえ、やっと前にはひとりきりになった。その男も話を終えたようだ。 ニックは札人れを出し、リンダの写真を見つめた。 る。「その名前はいっからだ ? 」 132
銃弾による傷もきれいに治り、併発症もなかったが、体力が回復してからも、病院当局はさら に一カ月ニックを収容していた。彼は医療本部の神経・精神病棟に収容されているのだ。 ニックは、ゆっくりと廊下を歩いていた。やせ細り、両頬の皮膚がつっ張っている。首にはプ ラスティックの輪がはめられ、そこには色紙が吊られている。彼は焦点の定まらぬ目つきをし、 夢遊病者のような足どりで歩いていた。 マイケルは、彼らがスティーヴンを乗せるのを見つめていた。 戦車が発進した。マイケルの脇を通りすぎるときに、大佐が彼を睨みつけた。「この気違い野 マイケルは、戦車が遠ざかっていくのを見つめた。彼はマグナムをベルトに突っこみ、避難民 の流れに戻った。 「ただ歩くんだ」彼は自分に言いきかせた。「俺は大丈夫さ。ただ歩くんだ」 130
テンがあり、床には破れたマットレスが置いてある。息のつまりそうな小部屋だ。一方、隅には 服が重ねられ、電熱器の置かれたナイト・テー。フルがある。服の脇では、・ rn ・ ( ア メリカ陸軍 ) とマークされた木枠で作ったベビー ・べッドで、赤ん坊が眠っている。 彼女は部屋の中央で立ち止まってニックに顔を向け、腰に片方の腕をまわしてきた。そして、 他方の手で、ニックの性器を包んた。 「私を何と呼びたい ? 」 「リンダがいい」まるで遠くへ声をかけるように彼が答えた。 くに 女は笑った。 「リンダがいいの ? 故郷の女ね」 ニックの手が彼女のプラウスにかかり、不器用に、しかし熱つぼくボタンを外していった。そ してそれを脱がせると、脇へ放り出した。次に、スラックスのボタンを外して彼女をマットレス に横たえると、それとパンティを引きおろした。彼は女の上にひざまずいて眺めた。女はにつこ り笑い、両手と両脚を広げて待った。 年 彼が突然立ちあがり、その部屋にはひとっしかない窓の際へ行った。それはほこりで薄汚れて いる。彼はほこりに目をやり、やがて窓を開けた。暗い裏通りに面している。数十という古いエ林 ア・コンディショナーがまわり、こもったような音をたてていた。兵隊たちが女を連れてその裏 通りを歩いていく。何台かのオ ートバイが通り、軍のジープが大きな音を響かせて走り抜けてい ひと