マンシ = タイン将軍は、この突進で 婦ソ連軍はまったく動揺しているし、機 の甲師団は危険にさらされていないと確 ア信していたので、落ちつきはら 0 てい こ 0 いまや、マンシタインは、つぎの ・・物物は「む攻撃目標がどこであるかを、いっ命じ ・叱、 : え ( 軍てくれる 0 かと」う 0 とに、最大 0 関 心をよせていた。 マンシ、タインとしては、足のおそ い第十六軍が渡河するのを支援するた めに、ドビナ川の渡河地点をまもって 解いるのが、イヤでイヤでがまんならな かった。これでは、ソ連軍が集結し て、反撃してくる機会をあたえること になる、とマンシュタインはかんがえ マンシタインの機甲軍団は、左翼 のラインハルト将軍の第四十一機甲軍 団よりもはるかに前進していた。ライ ンハルトの軍団〔第一、第六機甲師 団、第三十六自動車化師団、第二百六 102
軍 ヌ川橋頭堡から、。ハリを虎視たんたん 将 ねらっていた。 いつぼう、グーデリアン将軍の機甲 シ将集団は、六月十一日には、ランスを横 に見て南進し、シャロンにむかってい た。この間、アルゴンヌ方面からフラ ンス軍の第三軽機械化師団と第三機甲 たグ 者と師団が、みじめにへった戦力ながら、 勝佐必死に最後の反撃をかけたが、グーデ リアンの機甲集団の敵ではなく、もろ くも撃退されてしまった。 フラン ス降伏 ンとペロンヌ正面でつまづいていたク もはやフランス軍は縦深防御陣地によ フランス軍は十一二日、首都。ハリを放 ライスト機甲集団が、いそいで東方につて抵抗をする実体を喪失していたの棄した。ドイツ軍は十四日、歩兵部隊 転進し、グーデリアン機甲集団の突破である。 が。ハリに人城した。 の戦果を利用して、ラン付近で前進を首都。ハリは二個の強力なドイツ軍戦 ドイツ機甲師団はさらにフ一フンスの 開始し、グーデリアン将軍の機甲集団車の大集団にはさまれて、脅威にさらのこりの工業地区やマジノ要塞線の後 と肩をならべ、ランス東西の地区を突されていた。クライスト機甲集団は十方にむかって突進をつづけていた。各 進した。 一日には、シャトー ーチェリでマルヌ機甲軍団の行動記録が、このフランス フランス軍の抵抗力は予備兵力をも 川をわたって南進し、ホト将軍の第十崩壊の速さと大きさを雄弁に物語って たないために、しぼみはじめてきた。 いる。 五機甲軍団は六月九日に占領したセ 1
3 01 ユユ - である。 手甲あ を機を ドイツ機甲師団と空軍との協同作戦 車ッ果 戦イ戦 銃についていえば、基本的には、ドイツ のぐ機空軍が制空権をにぎ 0 たため、機甲師 こさす 団の機動が、空からの攻撃をうけずに に配手 意のままにすすめられたという間接的 もか卞 と車を な援助があった。直接的には、機甲師 と戦軍た砲 備の仏れリ団が進撃するまえに、空軍がポ 1 ラン 設こ英さミ ド軍の戦線後方を偵察したり、爆撃し 産ては用 はとに装たりして、ポーランド軍の動きを正確 軍力、ど武につかむとともに、移動を妨害してし ッ主期な イの初 , ロ まったという点に、最大の効果があっ ド団戦砲キ て師大走叩 たといえよう。 侵 っ甲次自・ よ機ニ ( 速 ただ前線での直接協力的な爆撃は、 に八第砲時 領第。撃高それほどうまく実行されなかったのラ 占とた突最 で、この問題は研究課題として、今後ポ ア七つは キ第だ体 4 にのこされたのである。 、パは役車 車口ににの員 戦車の威力を各の 戦ス年いそ乗 軽コ叩大は 国まだ認識せず 8 工四こにン }-- チ。ちト ドイツ機甲師団は、戦いのまえから ス 軍、た増のⅱ ッ年れの 準備していた計画、組織、兵器、戦法 イいカた量 ド四に兵げ重によって、当時の、時代おくれになっ
ものとなり、情勢は一変していた。 第四機甲軍を西にむけたことは、ス ターリングラード への進出の望みをた ったばかりか、クライスト将軍の第一 機甲軍のじゃまをし、軍集団の機動 予備兵力をも浪費してしまった。 そのうえ、第四機甲軍がドン川下流 部地域に到着したことで、東方戦場にい 弾るドイツ軍の全機甲戦力のじつに七五 パ 1 セントが、せまい地域に集中する 甲 ことになった。 る す このために戦車の修理部隊は、また 進 も。ハンク状態となってしまった。補給 ク路が混乱し、修理用部品が不足するよ戦 奪 うになった。路傍のいたるところに、 争 フうごけなくなった車両がゴロゴロし、 完全な戦闘力をもっとも必要とする大一フ と 事なときに、戦闘力がしぼみはじめてン よしまったのである。 助 スターリングラス ード占領を厳命 ク一フィスト将軍の第一機甲軍が、ほ昭 戦
車六機甲軍が担当することになった。司 」令官はゼップ・ディ 1 トリヒ将軍〔 大将〕で、四個の機甲師団から タなる主攻撃力を形成していた。 南方地区では、マントイフェル将軍 軍の第五機甲軍が三個の機甲師団をもっ ソて、第六機甲軍の攻撃を援助する れ任務をおびて準備をととのえていた。 破また予備として、のこりの二個の機甲 師団が温存されていた。 歩兵師団中心の第七軍には、おおく の国民擲弾兵師団や装甲擲弾兵師団が ふくまれており、第五機甲軍の前進に ともない、その南翼にそって防衛線を かためることになっていた。 これよりさき、秋のあいだに、ドイ ツ軍はひそかに、機甲師団を戦線から ひきあげ、アイフェル〔ライン川とモ 1 ゼル川のあいだにあるルクセンプル ク北東の森林地帯〕一帯にかくして、 再装備と再訓練をほどこしていたので ある。
fi 十 第十五機甲軍団の第五、第七機甲師はやくもルーアン郊外にたっしてい当初、クライスト機甲集団とおなじ 団はアベビーユ付近に位置する。 た。その側面には、アミアン西方のフく、フランス軍の抵抗にぶつかった。 第十四機甲軍団の第九、第十機甲師 ランス軍陣地を突破しておどりでた歩エーヌ川では、橋頭堡を確保すること 団と第十六機甲軍団の第三、第四機甲兵師団が、急進する機甲師団を援護しがきわめて困難であった。フ一フンス軍 師団は、アミアン付近に位置し、このようと強行軍でつづいていた。 砲兵がドイツ軍工兵隊の渡河準備を妨 両軍団はクライスト機甲集団として作いっぽう、クライスト機甲集団の戦害し、くりかえし反撃をしたので、ド 戦する。 線ではつまずいていた。アミアンからイツ軍歩兵部隊は封じこめられて動き レーテル北方には、あたらしく編成ペロンヌの線のフランス軍陣地を突破がとれなかった。 されたグーデリアン将軍の機甲集団がしようとしたが、ここでフランス軍は しかし六月十日の朝までに、ドイツ 陣容をととのえていた。第三十九機甲はじめて伝統的な決意にめざめ、必死軍の戦車はエーヌ川の南岸にとりつく 軍団の第一、第二機甲師団、第四十一の勇敢さをもって反撃した。 ことができた。こうなれば、もう機甲 機甲軍団の第六、第八機甲師団とがグ この戦線のフランス軍縦深陣地はた師団もちまえの速度はしだいにまし席 ーデリアン機甲集団の中心であった。 くみに配置されていて、突破がむずかて、突撃は急テンボで進展した。 六月五 . 日、ホト将軍の第十五機甲軍しく、ドイツ軍戦車や砲兵がこれはワ 六月九日の夜、ロンメル将軍の第七フ 団が攻撃の火ぶたをきった。ソンム川 ナかなとおもうと、もうそのときは、機甲師団を先頭とするホト将軍の第十撃 攻 で防衛していたフランス軍の抵抗を制フランス軍砲兵による殺りくの場には五機甲軍団は、サン・ハレリ付近でイギ 中 圧し、ミ = 1 ズ川の戦いとおなじようまりこんでいたのである。 リス海峡にたっし、海岸地域をまもっ集 に、ドイツ機甲師団の大進撃がはじま パリにている全連合軍の後方を遮断してしま襲 ったのだ。 った。 近づく 六月八日には第五、第七師団とも、 グ 1 デリアン機甲集団の機甲師団も いつぼう、中央部の戦線ではアミア レ カ ロ 6 月 4 日 の戦線 0 キロ
アから南にむけワルシャワをめざしてア地方、スロ・ハキア地方からクラクー からといって、かならずしも、もっと いた。 フ北方をぬけてワルシャワにむかおうも抵抗のつよいところをねらうという わけではなかった。 いつぼう、南方軍集団は、北から第としていた。 八、第十、第十四軍とならび、シレジ このドイツ軍の壮大なポーランド侵しかしグーデリアン将軍の第十九機 攻計画は、まったく野心的なものであ甲軍団が、ダンチヒの南で、ポーラン 砲塔上の機関銃のねらいをつけるドイツ戦 ったが、・ トイツ軍統帥部がどの地区でド 軍の陣地帯にぶつかったときのよう 車兵】ドイツ機甲師団はプロの集団だった ″決定的勝利みをもとめていたかといに、どうしても避けてとおれぬときは、 うことは、ドイツ機甲師団の配置状況戦車の破壊力を中心に、この陣地帯を にハッキリとしめされていた。 はげしく攻撃する戦法がとられた。 機甲六個グ 1 デリアンは幅四キロ半のせまい 師団進撃正面に、戦車を七波の梯団に配置し、 六個の機甲師団のうち、二個はグー このおおきな衝撃力でポーランド軍陣 デリアン将軍の第十九機甲軍団として地を突破しようとした。 北方軍集団の第四軍に、のこりの四個 この戦車群の前面と側面を支援する 師団は南方軍集団にぞくし、そのうちため、まず急降下爆撃機と砲兵の砲爆 二個はヘッブナー将軍の第十六機甲軍撃で、ポーランド軍の砲兵、対戦車砲 団として第十軍にいた。ドイツ機甲師陣地を沈黙させ、ついで戦車群の後方 団は、いずれも最短経路でワルシャワをトラック搭載歩兵部隊が、ポ 1 一フン をねらっていたのである。 ド軍の銃砲火にさらされぬよう、用心 ドイツ機甲師団の作戦は、ふつうはぶかく前進した。 攻撃を敢行するとなれば、きわめて単そして、この作戦では、万事が、戦 刀直入的な性質になるのであるカオ 、ど車の決定的破壊力を中心にしてうごく
リカ軍団の将兵をひきいて、エルア一フ この撤退戦闘はドイツ・イタリア軍 の残存部隊が 、トーマ将軍の戦車部隊メインから退却をつづけているとき、 の徴弱な後衛の援護のもとで、荒野のすでに、英米両軍の大船団が、あたら 退却にうつるとなると、まったく敗走しい部隊をモロッコとアルジェリアに 上陸させていたのである。 の状態になった。 この英米連合軍の新鋭部隊は、ただ トーマ将軍が捕われて以後、ロンメ ルは急追するイギリス軍のすぐ直前にちに東にむかい、チュニスとビゼルト あって指揮し、なんどもイギリス軍にめざして前進を開始していた。 このため、ロンメルのアフリカ軍団 追いこされるという危険ーーー燃料補給 がうまくいかないでーーーにさらされは、エジプトから前進してくるイギリ た。しかし、部隊の掌握を完全にうしス軍とアルジェから接近する英米両軍 なうことはなかった。 の先鋒部隊に、はさみうちされること 機甲師団が最終的にエジプトを去っになった。 枢軸軍〔ドイツ軍とイタリア軍〕統 たのは十一月中旬であった。これは、 これまでドイツ軍がやった撤退のなか 帥部は、イタリアから増援部隊をおく で、もっともみじめなものであった。 りこみ、チュニスとビゼルト付近に暫 これは、ドイツ軍敗北の前兆であっ定的に橋頭堡をつくり、ロンメルのア た。戦運は、とりかえしがっかないほフリカ軍団をぶじにヨーロツ。ハ大陸へ ど、かたむいてしまったのである。 撤退させようとしていた。 しかしヒトラーは、一度手中におさ 英米連合軍、北 アフリカに上陸めた土地は一平方メートルでも敵の手 ロンメル将軍が、つかれきったアフにわたしてはならない、という狂気じ アルジェから一。ピゼ 00 「 0 シチリア 3 月 7 チュニス円 / 、ポン皹 5 別 3 0 英米 連合軍 ト . 、カセリーヌ アカリット川 ・マルス 3 月 27 日第 ア ) レジェリア・ : ジア ? 0 マルタ島 アルニム軍 中 地 トリポリ円 43 年 23 日 トプルク キレナイカ べンガジ 日月円日 に月卩日 円 42 年Ⅱ月に シルテ トリポリタニア ビ 英第 8 軍 ア
戦車増強い。すくなくとも戦車にかわって にあまって大火になりそうなところ の応急策登場するとおもわれるソ連軍戦車とお を、消防隊のように消してまわったの である。 ソ連軍の e 戦車と型戦車になじていどに、よいものでなくてはな さて一九四二年の三月までに戦線は遭遇していらい、この優秀な戦車を撃らない。そこで、あたらしい中戦車お よび重戦車の再設計は、恐慌にも似た おちついていた。ソ連軍の攻勢がおと破できる戦車が、ドイツ軍にとって、 ふんいきのもとで推進されていった。 ろえ、ドイツ軍がもりかえしていたのなによりも緊急に必要になった。 だが、とりあえず、穴うめが必要で である。 当初、ドイツ軍の戦車関係者は e 上級指揮官戦車をマネできないかとかんがえたあった。さいわいなことに、現在使用 更迭されるが 、ドイツ工業界には e の戦車の強している三号戦車と四号戦車に、より この冬の間、ドイツ軍部隊の行動やさの根本になっている装甲板や軽合金強力な火砲を搭載するという実験が、 兵器、資材それに指揮官の考え方などのディーゼルエンジンをつくる施設がすでにかなりすすんでいた。 かなりまえから、ヒトラ 1 も、グー なかったので、不可能であった。 について、きびしい査定がなされた。 すでに一九三七年と三九年に、根本デリアン将軍も、三号戦車に砲身のな このため何人かのすぐれた指揮官が 去っていった。そのなかにはグーデリ的に強力な中戦車と重戦車の研究が開がい五〇ミリ砲を搭載することをのぞ アン将軍やルントシ = テット将軍もふ始されてはいたものの、進捗のあゆみんでいたからである。 いまやこの希望は実現され、四号戦 くまれていた。 は遅々としており、四一年のなかばに ドイツ機甲師団についていえば、戦なっても、まだ試作の段階であった。車にはもっと砲身のながい七五ミリ砲 術的教義は、いかなる状況にたいしてしかもこのころになると、試作戦車さが装備され、三、四号両方の戦車とも も適切であることがわかり、また戦果えも時代おくれであり、 e 戦車に対正面の装甲を強化することになった。 こうした方法で、戦車のカの・ハラン は期待以上のものであったのだが、技抗できるシロモノではなかった。 つぎのドイツ軍戦車は、当面の敵をスは、ドイツ軍に有利になった。 術的な面では、一考を要することがお はるかにしのぐものでなければならな そのうえ旧式戦車の車体上に、より おかった。 112
0 キロ 100 50 ダンケルク ル 第機甲軍団 ( ヘッブナー将車 ) モンス フィリップビ 第乃機甲第団 ( ホト将車 ) ディナン ミューズ川 第れ機甲軍団 ( ラインハルト将軍 ) ツールネー イギリス軍考 英仏連合軍 アラス 反撃計画 ゞテ セダン町新ま 第四機甲軍団 ( グーデリアン将軍 ) イギリス海峡へ進撃するドイツ軍 4 、機甲軍団」 " ノレクセン , 製年気第・ ' ペ n. イみ第 39 、引機甲車団彎、プノレクい テ丿レ \ メッツ・ ランス ルメ川 イダリ・ア イルソン をギーズ ペロンヌ アベビ ーユ クライスト 機甲集団 レーテル ラフェル フランス第 7 軍 第機甲車団 : 。ソンム川 アベビーユ ルーアン リス グーデリアン 甲集団 シェルプール 6 / 1 9 : ・ナンシー フランス軍 降伏 6 / 14 ンソン ランヌ ショーーモン ・ラングル プ丿 オルレアン アンシェー ヌべール 休、時のドイツ軍 占ァ区 ( 6 月 22 日 ) ビシー ス イ ス ドイツ機甲 軍団の攻撃 アングレー : ( 注 ) 6 ヨ 8 は 6 月日をしめす リョンローメみ 6 / 20 ・ サンエ ンヌ リモー ン・ユ クレルモン ーフェラン