の五〇ミリ砲が装備されることになに、かすかな不安をあたえた。そしても勢力をのばそうと、九月イタリアの り、それと同時に三号と四号の双方のドイツ空軍が・ハトル・オプ・プリテン 北アフリカ植民地からエジプトの西方 装甲をあっくすることになった。 〔英本土航空決戦〕とよばれた大空襲砂漠地区に侵入 ( これは国境をこえて あたらしい中型戦車と重戦車の研究戦で、ついに英空軍兵力を撃滅できなすぐ、英軍に阻止された ) 、十一月に は、それぞれ一九三七年と三九年に開かったことは、イギリス本土に侵攻すは、アル・ハニアからギリシャにむかっ て侵入したのである。 始されてはいたが、使用中の戦車にかる計画を放棄する結果となった。 わる、より強力な戦車を設計すること このころヒトラーは、すでにソ連へ イタリア軍 の攻撃失敗 は、あまり急ピッチではすすめられての攻撃をひそかに決意していた。ヒト いなかった。 ラーは、ドイツ軍が大機甲部隊を先鋒このイタリア軍のギリシャ侵入は、 しかし、この間に、装甲ハーフトラとして、ただ一回の電撃戦でソ連軍をたちまち大失敗におわった。ギリシャ ック式の歩兵搭載車が優先的に生産さ壊滅できると確信していたのである。軍の反撃でイタリア軍はアル・ハニアに れ、歩兵連隊は戦車とともに行動でき この目的のため、一九四〇年から四敗走し、追撃してきたギリシャ軍をく へ るようになった。また道路の外を自由一年にかけての冬に、ドイツ国防軍はいとめるのに精いつばいというありさン ル に走行できる能力をもつ自動車両の数再編成され、ドイツの政治的、軍事的まになってしまった。 は増加したが、補給部隊は無限軌道車触手は南部ョ 1 ロツ。ハと・ハルカンにむ エジプトでは十二月はじめ、弱体の カ ではなくて、ふつうのトラックを使用かってのびていった。・ハルカンこそは英軍が攻勢にでて、イタリアの大軍を していたので、道路がなければ行動で 「ドイツの対ソ作戦の第一歩」として完全に撃滅し、これに乗じて猛進撃をア し きないという難点はのこっていた。 ウクライナに侵入する南方からの攻勢つづけ、二月のはじめまでにはキレナ イギリス断念の重要な発起点なのである。 イカ〔イタリア植民地〕全域を占領分 しソ連侵攻へ ところが、このヒトラーの大計画にし、イタリア軍の主力を捕虜にしてし動 一九四〇年、イギリスが手をあげなとって、つごうのわるいことがおこつまった。 かったことは、勝ちほこったドイツた。イタリアのムソリ 1 ニがイタリア そして英軍機甲部隊は少数ではあっ
年表ーー第ニ次世界大戦の推移 1938. 1940. 1939. 11 12. 12. 4. 4. 6. 9 12. 1942. 1. 1941. 3. 31 237 年 . 月 . 12. 11 日 3. 13 9.29 23 3 17 9 6 ・ 10 6. 14 25 9 18 6 22 15 6. 22 6 21 3. 16 5. 10 9 8 6. 4. 9. 9. 8. 事項 ドイツ軍 , オーストリアに無血進駐 ミュンヘン会談。ドイツのズデーテン 地方併合を認める ドイツ軍 , チェコスロパキアに武力進 駐 , 全土を併合 独ソ不可侵条約成立 ドイツ軍 , ポーランドに侵入 英仏対独宣戦布告 ソ連軍 , ポーランドに侵人 ドイツ軍 , ノルウェー・デンマークに 侵入 ドイツ軍 , 西方作戦開始 ドイツ軍 , ソンム戦線からフランス中 心部にむかう攻勢を開始 イタリア , フランスに宣戦布告 ドイツ軍 , パリ入城 独仏休戦条約締結。フランス降伏 英本上航空決戦はじまる イタリア軍 , 北アフリカで攻勢開始 イタリア軍 , ギリシャに侵入し失敗 北アフリカ戦線でイギリス軍攻勢 ヒトラー , 対ソ攻勢の準備を指令。ヾ ルノヾロッサ洋計画 北アフリカにロンメルのアフリカ軍団 登場 ドイツ軍 , バルカン作戦開始 ギリシャ軍降伏 イギリス軍 , 北アフリカで攻勢に失敗 ドイツ軍 , ソ連へ侵入開始 ドイツ軍 , キエフ付近でウクライナ大 包囲戦を開始。大勝利 ドイツ軍 , モスクワに進撃 モスクワの正面からソ連軍大反撃にで る。ヒトラー , 退却禁止命令をだす ドイツ・イタリア対米宣戦布告 ロンメル攻撃開始。イギリス軍壊走。 独伊軍トプルクを包囲 日本の情勢 国家総動員法成立 広東占領 アジア情勢悪化 , 日米 通商条約破棄。ノモン ノ、ン事件 「欧州の情勢は複雑怪 奇」 ( 平沼首相退陣の 弁 ) 欧州戦不介入声明 小麦粉・米穀・砂糖配 給統制規則公布 東京オリンピック中止 日独伊軍事同盟締結 大政翼賛会実践要綱発 表 日ソ中立条約締結 日本軍南部仏印進駐 東条内閣成立 日米交渉難航 太平洋戦争はじまる マニラ占領 シンガポール占領
リカ軍団の将兵をひきいて、エルア一フ この撤退戦闘はドイツ・イタリア軍 の残存部隊が 、トーマ将軍の戦車部隊メインから退却をつづけているとき、 の徴弱な後衛の援護のもとで、荒野のすでに、英米両軍の大船団が、あたら 退却にうつるとなると、まったく敗走しい部隊をモロッコとアルジェリアに 上陸させていたのである。 の状態になった。 この英米連合軍の新鋭部隊は、ただ トーマ将軍が捕われて以後、ロンメ ルは急追するイギリス軍のすぐ直前にちに東にむかい、チュニスとビゼルト あって指揮し、なんどもイギリス軍にめざして前進を開始していた。 このため、ロンメルのアフリカ軍団 追いこされるという危険ーーー燃料補給 がうまくいかないでーーーにさらされは、エジプトから前進してくるイギリ た。しかし、部隊の掌握を完全にうしス軍とアルジェから接近する英米両軍 なうことはなかった。 の先鋒部隊に、はさみうちされること 機甲師団が最終的にエジプトを去っになった。 枢軸軍〔ドイツ軍とイタリア軍〕統 たのは十一月中旬であった。これは、 これまでドイツ軍がやった撤退のなか 帥部は、イタリアから増援部隊をおく で、もっともみじめなものであった。 りこみ、チュニスとビゼルト付近に暫 これは、ドイツ軍敗北の前兆であっ定的に橋頭堡をつくり、ロンメルのア た。戦運は、とりかえしがっかないほフリカ軍団をぶじにヨーロツ。ハ大陸へ ど、かたむいてしまったのである。 撤退させようとしていた。 しかしヒトラーは、一度手中におさ 英米連合軍、北 アフリカに上陸めた土地は一平方メートルでも敵の手 ロンメル将軍が、つかれきったアフにわたしてはならない、という狂気じ アルジェから一。ピゼ 00 「 0 シチリア 3 月 7 チュニス円 / 、ポン皹 5 別 3 0 英米 連合軍 ト . 、カセリーヌ アカリット川 ・マルス 3 月 27 日第 ア ) レジェリア・ : ジア ? 0 マルタ島 アルニム軍 中 地 トリポリ円 43 年 23 日 トプルク キレナイカ べンガジ 日月円日 に月卩日 円 42 年Ⅱ月に シルテ トリポリタニア ビ 英第 8 軍 ア
ドイツ軍は、戦場でえられるものはを開始し、三方面から機甲部隊をもっ戦車のすべてを破壊できた ) 部隊をも 自軍のものはもちろん、英軍のものでて、ひろく砂漠を迂回してトプルクにつているだけだったが、戦術配備はみ ごとであった。 あろうと、イタリア軍のものであろうむかって前進を開始した。 と、すべてひろいあつめて活用した。 この進撃はロンメル将軍にとっては 英戦車部隊 トプルク意外であった。ロンメルはこれよりさ を各個破 ここでおこった砂漠での装甲と火砲 の争奪戦き、九月に第一一十一機甲師団をひきい の戦いでは、ドイツ軍がリ 1 ドした。 さて、一九四一年から四二年にアフてエジプトの英軍陣地を襲撃したが、 イギリス軍が攻勢の準備をしている兆 もっとも戦車の数では、イギリス軍が リカで戦った将兵の最大の関心事は、 はるかにおおく、ドイツ・イタリア軍 孤立したトプルク要塞が健在かいなか候を発見できなかったからである。 であった。イギリス軍は、ここの守備イギリス軍が攻勢にでたとき、ロン戦車合計五六九両にたいして七五六両 隊を救いだして、同時にドイツ・イタ メルはトプルクへの攻撃を開始しよう ( 予備はさらにおおい ) をもっていた。 リア軍を撃破したいとかんがえていたとしているところだった。ロンメルの しかし、イギリス軍が、戦車を分散 し、ロンメル将軍は、エジプトでの英機甲二個師団はトプルク港の東方に集してつかったのにたいして、ドイツ・ 軍との戦いに決着をつける前提とし結されており、もしイギリス軍が、包イタリア軍は戦車を集結して戦い、大団 て、トプルクの奪取をねらっていた。囲されているトプルク救援のために工事なときに、一度ならず、全機甲師団ル メ ドイツ軍もイギリス軍も、それぞれジプトからとびだしてくれば、これにをあつめ、アフリカ軍団の全戦力を戦 ロ 闘に投入した。 の計画を実行にうっすために、なんと対抗できる熊勢にあった。 る トプルクの南方シジレゼグ付近で、け ドイツ軍の戦力で、六月の戦闘のと かして先手をとろうと争っていた。両 軍とも一九四一年十一月の後半には戦きにくらべてまさっているものといえ一週間にわたってはげしい撃ちあいとを 闘準備をおえていた。 ば、わずかに戦場で臨時につくりあげ極度に複雑な機動戦がつづいた。この砂 た長砲身の五〇ミリ対戦車砲 ( これは戦闘で、ロンメル将軍のアフリカ軍団 先手をとったのはイギリス軍で、 ″クルセ 1 ダー〃〔十字軍騎士〕作戦「マチルダ」戦車をふくむイギリス軍は、分進してきたイギリス軍戦車旅団
( 0 十月二十三日、イギリス軍が猛攻撃然ながら損害をだすだけであった。 のこされたアフリカ軍団の指揮官にを開始したとき、モントゴメリーがや ロンメルは、このきびしい試練のと は、唯一の合理的な戦法として、消耗 った歩兵主体の消耗戦法、機甲部隊がきに、ふたたび指揮をとるため、戦線 のもっともすくない防御策がしめさ砲撃と爆撃のかげにあって補助的な役にかえってきた。同時に、ドイツ戦車 れ、これがまもられた。 割りしか演じない戦法のために、ドイ界の先覚者の一人、 トーマ将軍もやっ ドイツ・イタリア軍の戦線は、ひろッ機甲師団は損害のわりには成果をあてきてアフリカ軍団の指揮をとった。 い地雷原地帯をつくり、その地雷原のげずに、壊滅してしまったのである。 だが、ついに、ロンメルでもイギリ あいだを歩兵がまもり、機甲師団は後そのうえあたらしく出現した米国製ス軍の圧力をくいとめられなかった。 方におかれ、たよりにならないイタリの「シャーマン」戦車の装備している戦線がくずれはじめると、ロンメルは ア軍戦車部隊と組みあわされていた。 七五ミリ砲は榴弾 ( 対戦車用徹甲弾と最後の手段として、両機甲師団 ( 戦車 燃料節約の同様に ) を発射できたので、イギリス全部で五〇両 ) を砂漠地帯に機動反撃 消極戦法軍の戦車乗員は地上に露出している八させた。油の最後の一滴まで攻撃する しかしドイツ・イタリア軍の戦車部八ミリ砲にたいして、はじめて、だい のである。この間、ヒトラーの「退却 隊は、ふつうのばあいよりも前線にちたい同等の立場で戦うことができるこするな」の命令も両機甲師団を救うこ かく配置され、当面の戦闘地域内だけとになった。 とにはならなかった。 ( じっさいには、 で戦うことを命じられていた。戦闘を ドイツ・イタリア軍の歩兵陣地は情 この命令はアフリカ軍団を大きな危険 制約した理由はきわめてかんたんで、 けようしやもなくズタズタにされた。 におとしいれた ) 燃料を節約するためであった。機動はこの陣地のさけ目は機甲師団が埋めね 緊急のばあいのほかは、禁止しなければならない。 0 ばならなかったのである。 8 しかし機甲師団は大きくうごく必要 このような戦法は、機甲師団の最上はなかったが、自由に機動できず、か の使用法ではない。 ぎられた地域内だけでの戦闘では、当 c:::> ドイツ軍の反撃 Q943 手を所 4 第 6 日魲 ー。連合軍の反撃 英第 8 軍攻撃開始 1 942 年 1 0 月 1 3 ~ 1 4 日 マルサ アレキン ドリア■。 工ルアラメインカイロ
くぼ地か、地図にもない廃虚ぐらいし かない。したがって砂漠の戦術は、独 特のものでなくてはならない。 砂漠の戦闘は遠距離の砲戦ではじま るが、かげろうのために距離の測定、 砲の照準はくるいがちになる。戦車の 射撃精度が重要な戦術要素となるわけ である。 そして、勝利へのもっとも大きな要 素は、戦闘資材すべてにいえるが、と くに燃料と弾薬の補給である。 ロンメル、 英軍を破 さて、このような荒涼たる戦場で英 独の機甲兵力の戦闘がはじまったのは 二月二十四日、トリポリタニアのノフ ィリアである。 イギリス軍は、はるか東のエジプト 国境から敗走するイタリア軍を追撃 し、キレナイカの砂漠を横断してトリ ポリタニアまで破竹の進撃をつづけた が、ここでロンメ儿のアフリカ軍団に 、 , イ麪可レ を、宀
ドイツ軍の 戦運傾く それはイギリス軍の新司令官モント ゴメリー将軍が、攻撃されると判断し た重要な陣地を堅固にかためていたか らだけでなく、ドイツ・イタリア軍に は、長期の作戦にたえる燃料貯蔵がな かったからであった。 かくれていた英軍の戦車と対戦車砲 が、事前に配備した方向に前進してく るドイツ軍の攻撃をことごとく撃退し た。上空からは英空軍が、ドイツ軍の 補給線に爆弾の雨をあびせかける。一 週間もたたないうちにドイツ軍はもと の陣地におしもどされてしまった。 北アフリカでドイツ軍の戦運がかた むきはじめた影響は、ロシア戦線でお こっていること ( それはもっとあとだ が ) との関連で考えるばあい、はかり しれないほど大きい。ロンメルは、は じめて、そしてたちまちのうちに敗北 した。過度にのびきった補給線の先端を
は一変していた。 させた。地形上、歩兵と機甲部隊の協した。 ドイツは、ルーマニア、ハンガ丿 しかし前進をつづけてきたロンメル 同作戦ができるので、各個撃破をうけ 、それにプルガリアを、血を流すこ のアフリカ軍団は、トプルクの防御陣 る心配なしとみたのであった。 となしに占領してしまった。このとき ロンメルのこの大胆な分進合撃の作地を根拠として、攻勢をかけてきたイ ギリス軍とオ 1 ストラリア軍のがんきには、これとおなじような平和的なや 戦は、みごとに成功した。 ような機動性のある防御にぶつかつり方が、ユーゴスラビアでも成功する メルサプレガ周辺の英軍は、機甲兵 力も貧弱で、それまでのイタリア軍とて、突然、前進をくいとめられてしまかにおもわれた。 そうなれば、ギリシャを制圧するこ った。ロンメルの第五軽機甲師団は、 の戦闘で、戦車も車両もくたびれきっ この二週間に奇跡をなしとげたが、開とは時間の問題にすぎない。なぜなら ていた。そして指揮官も新任であり、 とうていロンメルの戦機を見る才能に戦いらい、むかうところ敵なしの戦闘ギリシャ軍はアル・ハニアのイタリア軍 をつづけてきたドイツ機甲師団としてにたいし全力を傾注しており、ドイツ 対抗できるものではなかった。 は、敵の反攻に阻止された最初の師団の報復をおそれて、イギリスにたいし 数日のうちに、英軍部隊の主力は、 て、軍をおくってこないよう要請して となったのである。 指揮官の大部分とともに、べンガジと メキリのあいだで捕捉され捕虜になっ ロンメルは四月十一日、トプルク占いたからである。 しかし、一九四一年二月のおわりに 領をめざす最初の攻撃に失敗した。そ てしまった。のこりの部隊は、トプル なって、ギリシャは、ドイツ軍がイタ ク周辺の地雷原や陣地の後方に逃げこしてその後、攻撃をくりかえしたが、 リア援助のため介人するのは必至であ み、あるいはエジプト国境のハルファ第十五機甲師団の先頭部隊が五月二日 ャ峠まで退却した。 に到着したあとでも、トプルクを陥落ると結論した。そこでいそいで、イギ リス軍に援助をもとめ、イギリス軍も ロンメルはこの戦闘で、機動戦におさせることはできなかった。 、、ハルカンこれを了承した。エジプトに用意して いては、たえず機動をつづけることが の風雲急いた英軍四個師団のうち三個師団にち 勝利の秘訣であり、戦闘のいきづまり を防止する最上の策であることを実証さてこの間、地中海のかなたの情勢かい兵力が、三月末までにギリシャに
キ カ軍団は、み・ことに戦車を即座に修理乗員もっかれきっていた。 戦場全域にわたって混乱をまねく結果 したり、模様がえをしたりしたが、か 一九四二年七月から十一月まで、工となって、ちょうどヌカルミのロシア れらは、不運なことに、このあとすぐルアラメイン陣地をめぐってつづいた平原とおなじように、まったく機動が に、自分たちといっしょになって退却消耗戦は技術者にとっても、戦術家にできない状態になってしまった。 してきたイギリス軍にくわえて、新鋭とっても、悪夢の連続であった。 はじめは砂漠の地雷原は局部的なも の、よく装備されたイギリス軍部隊と 七月になってからの戦闘は、イギリののようにみられていたが、ドイツ軍 戦わざるをえなくなった。 ス軍が、のびきった補給線になやむアがますます守勢にたたねばならぬころ こうして戦闘は、地中海とカッター フリカ軍団を、その力が回復しないうには、根本的な戦術的方策となって、 ラ凹地間によこたわる六五キロの陣地ちに撃破しようというねらいだった。機甲部隊の戦闘はあたらしい局面をむ 帯で、膠着〔こうちゃく〕状態にはい このため、いままでイギリス軍は、 かえることになった。 ったのであった。 ドイツ機甲師団に直接打撃をくわえる戦闘は八月の末までは小ぜりあいの 戦車消耗ことを主眼としていたのだが、こんどていどで、両軍とも戦力をたくわえよ 戦っづくは方針をかえて、つよいドイツ機甲師うとしていた。ドイツ軍への増援はす アフリカ戦線のドイツ軍戦車は、ほ団でなくて″やさがた″のイタリア軍くなかったが、それでも、火砲をよく とんどが戦場で大修理をうけている。 歩兵部隊にホコさきをむけることにしし装甲をあっくした四号戦車 ( がんら おおくの戦車は、なんども修理廠にはた。イタリア軍を救おうとして、ドイいソ連の e に対抗するために設計さ いったというキズものであり、戦車のツ軍戦車が反撃にでて、戦力をムダづれたもの ) が相当数ふくまれていた。 かいするのをねらったのである。 八月三十日、ロンメル元帥はふたた こうした戦闘は、たびたびおこったびエルア一フメインから英軍を駆逐しょ カ が、だんだんテンポがおちていった。 うとして、英軍が占領している、戦線 両軍ともっかれきってしまったばか後方のアラムハルファ山をめざして進 りでなく、両軍の敷設する地雷原が、撃した。しかしこの作戦は失敗した。 ナイルデルタ アレキサンドリア 工ルアラメイン アラム / 、ルファ山
おもうようにはいかなかった。 した型戦車を戦場でつかいはじときりはなしてかんがえるわけにはい肥 かなくなった。 ドイツ軍は北アフリカ戦線が崩壊しめていたのである。 シチリア島は、八月はじめ連合軍に ドイツ軍の「ティーゲル」戦車や「。ハ たため、ヨーロツ。ハの南岸で連合軍上 ンテル」戦車は、強力なソ連軍戦車を占領され、九月になると、連合軍はイ 陸の危険にさらされ、地中海方面にい そいで増援軍をおくらねばならなかっ阻止するために、いままで以上に遠距タリア本土に上陸、イタリアは枢軸側 たし、またイタリアやギリシャの山岳離から射撃を開始しなければならず、から脱落し、連合軍はローマにせまり 地帯は、機甲師団を投人するには不む同時に、側面からの攻撃を避けねばなつつあった。 連合軍の らなかった。ソ連軍の型戦車は きであったがやむをえなかった。 爆撃激化 さらにヒトラーは情勢が悪化するに遠距離からでもドイツ軍戦車の側面の いっぽう、連合軍は一九四二年中期 つれて「退却をゆるさず」との命令を装甲を貫通できたからである。 こうしてドイツ軍戦車は、かくされ以降、ドイツ本土にたいする航空攻撃 乱発したのである。″機甲師団が、う ごかないでいることは愚だという金た陣地から他の地点へ迅速に移動しを強化し、いまやドイツの各都市は破 言をたたきこまれている機甲部隊の指て、ソ連軍戦車の攻撃をかわすことが壊の危機に直面していた。 一九四二年十月には、重要な生産工 揮官たちにむかって「うごくな」と命必要になってきた。しかもソ連軍が、 空からの攻撃を強化してドイツ軍戦車場、とくに「。ハンテル」戦車の工場が、 令したのである。 いつぼうソ連軍は、このドイツ機甲の撃滅にのりだしてきたので、すばや連合軍の爆撃によって甚大な被害をこ うむった。 く退避しなければならなかった。 師団の大原則を、たくみにぬすみとっ ドイツの兵器生産の中心人物である 一九四三年九月末までに、ソ連軍の て、この金言を下級の中隊レベルにま で徹底させていた。しかもソ連軍は、全戦線は、北はレニングラ 1 ドからキシ : ヘーア軍需相は、戦車と航空機の いままでよりもっと強力な / 型エフをへて、南はドニエプル川ぞいに生産を増大しようと努力していたが、 戦車 ( すぐれた高初速の八五ミリ砲を黒海までつながっていた。いまやドイ正規の製造方法をとり、しかも、質を 搭載していた ) や、おなじ火砲を装備ツ軍にとって、ロシア戦線は他の戦域おとさないものを生産するということ