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検索対象: ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉
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1. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

トプルク ′ 0 トプルク外郭線 00 シジレゼグ キ 0 ニュージーランド師団 / ヾルジア ◆ / - レファヤ峠 英機甲軍 リビア : 、エジプト 1941 年、クルセーダー作戦 ←英第 8 軍の攻撃 ードイツ第、第幻両機甲師団の陣地 - ■・イタリア車陣地 → , Ⅱ月 24 ~ 28 日のロンメル軍団の奇襲 円年Ⅱ月絽日の戦線 ところがロンメルは、イギリス軍の 後方の補給線をめざして、エジプト国 境にむかい大突撃戦を敢行するみちを えらんだ。このために、イギリス軍 に、戦場のあちこちにのこる、破壊さ れた大量の戦車をかきあつめる余裕を あたえてしまったのである。 相手の過失で、イギリス軍にツキが まわってきた。それは、ロンメルの国 境への進撃で、イギリス軍は戦力を回 復する余裕をえたばかりでなく、ロン メルが部隊を掌握できず、この進撃が 混乱におちいるという事態になり、ド ィッ機甲師団が耐えきれないほどの損 害をうけてしまったからである。 戦闘はこのあと二週間つづいたが、 最終的な結果としては、ドイツ・イタ リア軍の敗北となった。ロンメルの戦 車部隊はやせほそり、補給品をつかい はたした。枢軸軍は、エルアゲー一フに むかって戦いつつ退却することで、全 面的崩壊をまぬがれたのである。 118

2. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

線のアラスの戦闘でまなんだ戦訓を、 ここで機甲師団の防御のため、さらに 有利に活用しようというのである。 防御がわにたっという姿勢をとらね つばならなかったのは、第五軽機甲師団 に増援する第十五機甲師団の到着が補 線給資材が不足したためにおくれ、ここ 鏘当分は攻勢に出るみこみがたたなくな ったからである。 帯車 ~. 地戦ともあれ、六月になると、イギリス ~ 岳号 を常、一山三軍が攻撃をしかけようとしていること シすが、あきらかになってきた。 進戦車は、敵軍の姿勢がくずれたときン もどすことにしよう。 トプルク攻撃に失敗したロンメルに使用して、最大の威力を発揮できるル ドイツ機甲部隊の将軍たちのなかは、トプルク攻撃再開のまえに、五攻撃用の武器である。ロンメル将軍は で、ロンメル将軍は英軍戦車と戦った月、まずエジプト国境のハルファャ峠英軍の攻勢に対処するため、エジプト 経験をいちばん豊富にもっている。かの陣地をうばうことにした。何回かの国境のけわしい地形を利用して歩兵部ア れは一九四〇年に、フランスのアラス 小戦闘のすえに、ドイツ軍はハルファ隊を配置し、これを対戦車砲の保護下散 においた。 ャ峠の強力な英軍陣地を奪取した。 の戦場で英軍戦車にひどくやられた。 ロンメル将軍は、ここを確保するた戦車部隊は、はるか後方に配置し、動 そして一九四一年の四月、北アフリカ のリビアのべンガジ付近で英軍に報復めに八八ミリ高射砲を対戦車防御の主ここから国境にむかって攻撃をくわえ したのである。 力として配置した。かれがフランス戦るか、あるいはもしトプルクの守備部 8

3. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

くぼ地か、地図にもない廃虚ぐらいし かない。したがって砂漠の戦術は、独 特のものでなくてはならない。 砂漠の戦闘は遠距離の砲戦ではじま るが、かげろうのために距離の測定、 砲の照準はくるいがちになる。戦車の 射撃精度が重要な戦術要素となるわけ である。 そして、勝利へのもっとも大きな要 素は、戦闘資材すべてにいえるが、と くに燃料と弾薬の補給である。 ロンメル、 英軍を破 さて、このような荒涼たる戦場で英 独の機甲兵力の戦闘がはじまったのは 二月二十四日、トリポリタニアのノフ ィリアである。 イギリス軍は、はるか東のエジプト 国境から敗走するイタリア軍を追撃 し、キレナイカの砂漠を横断してトリ ポリタニアまで破竹の進撃をつづけた が、ここでロンメ儿のアフリカ軍団に 、 , イ麪可レ を、宀

4. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

リカ軍団の将兵をひきいて、エルア一フ この撤退戦闘はドイツ・イタリア軍 の残存部隊が 、トーマ将軍の戦車部隊メインから退却をつづけているとき、 の徴弱な後衛の援護のもとで、荒野のすでに、英米両軍の大船団が、あたら 退却にうつるとなると、まったく敗走しい部隊をモロッコとアルジェリアに 上陸させていたのである。 の状態になった。 この英米連合軍の新鋭部隊は、ただ トーマ将軍が捕われて以後、ロンメ ルは急追するイギリス軍のすぐ直前にちに東にむかい、チュニスとビゼルト あって指揮し、なんどもイギリス軍にめざして前進を開始していた。 このため、ロンメルのアフリカ軍団 追いこされるという危険ーーー燃料補給 がうまくいかないでーーーにさらされは、エジプトから前進してくるイギリ た。しかし、部隊の掌握を完全にうしス軍とアルジェから接近する英米両軍 なうことはなかった。 の先鋒部隊に、はさみうちされること 機甲師団が最終的にエジプトを去っになった。 枢軸軍〔ドイツ軍とイタリア軍〕統 たのは十一月中旬であった。これは、 これまでドイツ軍がやった撤退のなか 帥部は、イタリアから増援部隊をおく で、もっともみじめなものであった。 りこみ、チュニスとビゼルト付近に暫 これは、ドイツ軍敗北の前兆であっ定的に橋頭堡をつくり、ロンメルのア た。戦運は、とりかえしがっかないほフリカ軍団をぶじにヨーロツ。ハ大陸へ ど、かたむいてしまったのである。 撤退させようとしていた。 しかしヒトラーは、一度手中におさ 英米連合軍、北 アフリカに上陸めた土地は一平方メートルでも敵の手 ロンメル将軍が、つかれきったアフにわたしてはならない、という狂気じ アルジェから一。ピゼ 00 「 0 シチリア 3 月 7 チュニス円 / 、ポン皹 5 別 3 0 英米 連合軍 ト . 、カセリーヌ アカリット川 ・マルス 3 月 27 日第 ア ) レジェリア・ : ジア ? 0 マルタ島 アルニム軍 中 地 トリポリ円 43 年 23 日 トプルク キレナイカ べンガジ 日月円日 に月卩日 円 42 年Ⅱ月に シルテ トリポリタニア ビ 英第 8 軍 ア

5. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

は一変していた。 させた。地形上、歩兵と機甲部隊の協した。 ドイツは、ルーマニア、ハンガ丿 しかし前進をつづけてきたロンメル 同作戦ができるので、各個撃破をうけ 、それにプルガリアを、血を流すこ のアフリカ軍団は、トプルクの防御陣 る心配なしとみたのであった。 となしに占領してしまった。このとき ロンメルのこの大胆な分進合撃の作地を根拠として、攻勢をかけてきたイ ギリス軍とオ 1 ストラリア軍のがんきには、これとおなじような平和的なや 戦は、みごとに成功した。 ような機動性のある防御にぶつかつり方が、ユーゴスラビアでも成功する メルサプレガ周辺の英軍は、機甲兵 力も貧弱で、それまでのイタリア軍とて、突然、前進をくいとめられてしまかにおもわれた。 そうなれば、ギリシャを制圧するこ った。ロンメルの第五軽機甲師団は、 の戦闘で、戦車も車両もくたびれきっ この二週間に奇跡をなしとげたが、開とは時間の問題にすぎない。なぜなら ていた。そして指揮官も新任であり、 とうていロンメルの戦機を見る才能に戦いらい、むかうところ敵なしの戦闘ギリシャ軍はアル・ハニアのイタリア軍 をつづけてきたドイツ機甲師団としてにたいし全力を傾注しており、ドイツ 対抗できるものではなかった。 は、敵の反攻に阻止された最初の師団の報復をおそれて、イギリスにたいし 数日のうちに、英軍部隊の主力は、 て、軍をおくってこないよう要請して となったのである。 指揮官の大部分とともに、べンガジと メキリのあいだで捕捉され捕虜になっ ロンメルは四月十一日、トプルク占いたからである。 しかし、一九四一年二月のおわりに 領をめざす最初の攻撃に失敗した。そ てしまった。のこりの部隊は、トプル なって、ギリシャは、ドイツ軍がイタ ク周辺の地雷原や陣地の後方に逃げこしてその後、攻撃をくりかえしたが、 リア援助のため介人するのは必至であ み、あるいはエジプト国境のハルファ第十五機甲師団の先頭部隊が五月二日 ャ峠まで退却した。 に到着したあとでも、トプルクを陥落ると結論した。そこでいそいで、イギ リス軍に援助をもとめ、イギリス軍も ロンメルはこの戦闘で、機動戦におさせることはできなかった。 、、ハルカンこれを了承した。エジプトに用意して いては、たえず機動をつづけることが の風雲急いた英軍四個師団のうち三個師団にち 勝利の秘訣であり、戦闘のいきづまり を防止する最上の策であることを実証さてこの間、地中海のかなたの情勢かい兵力が、三月末までにギリシャに

6. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

ドイツ軍は、戦場でえられるものはを開始し、三方面から機甲部隊をもっ戦車のすべてを破壊できた ) 部隊をも 自軍のものはもちろん、英軍のものでて、ひろく砂漠を迂回してトプルクにつているだけだったが、戦術配備はみ ごとであった。 あろうと、イタリア軍のものであろうむかって前進を開始した。 と、すべてひろいあつめて活用した。 この進撃はロンメル将軍にとっては 英戦車部隊 トプルク意外であった。ロンメルはこれよりさ を各個破 ここでおこった砂漠での装甲と火砲 の争奪戦き、九月に第一一十一機甲師団をひきい の戦いでは、ドイツ軍がリ 1 ドした。 さて、一九四一年から四二年にアフてエジプトの英軍陣地を襲撃したが、 イギリス軍が攻勢の準備をしている兆 もっとも戦車の数では、イギリス軍が リカで戦った将兵の最大の関心事は、 はるかにおおく、ドイツ・イタリア軍 孤立したトプルク要塞が健在かいなか候を発見できなかったからである。 であった。イギリス軍は、ここの守備イギリス軍が攻勢にでたとき、ロン戦車合計五六九両にたいして七五六両 隊を救いだして、同時にドイツ・イタ メルはトプルクへの攻撃を開始しよう ( 予備はさらにおおい ) をもっていた。 リア軍を撃破したいとかんがえていたとしているところだった。ロンメルの しかし、イギリス軍が、戦車を分散 し、ロンメル将軍は、エジプトでの英機甲二個師団はトプルク港の東方に集してつかったのにたいして、ドイツ・ 軍との戦いに決着をつける前提とし結されており、もしイギリス軍が、包イタリア軍は戦車を集結して戦い、大団 て、トプルクの奪取をねらっていた。囲されているトプルク救援のために工事なときに、一度ならず、全機甲師団ル メ ドイツ軍もイギリス軍も、それぞれジプトからとびだしてくれば、これにをあつめ、アフリカ軍団の全戦力を戦 ロ 闘に投入した。 の計画を実行にうっすために、なんと対抗できる熊勢にあった。 る トプルクの南方シジレゼグ付近で、け ドイツ軍の戦力で、六月の戦闘のと かして先手をとろうと争っていた。両 軍とも一九四一年十一月の後半には戦きにくらべてまさっているものといえ一週間にわたってはげしい撃ちあいとを 闘準備をおえていた。 ば、わずかに戦場で臨時につくりあげ極度に複雑な機動戦がつづいた。この砂 た長砲身の五〇ミリ対戦車砲 ( これは戦闘で、ロンメル将軍のアフリカ軍団 先手をとったのはイギリス軍で、 ″クルセ 1 ダー〃〔十字軍騎士〕作戦「マチルダ」戦車をふくむイギリス軍は、分進してきたイギリス軍戦車旅団

7. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

攻勢開始後五日の五月三十日には、 ドイツ軍は補給が不足がちとなり、イ ギリス軍機甲部隊の撃破に失敗したこ とは明白となった。アフリカ軍団は地 雷原のなかで、ぬきさしならぬ危険な 状態においこまれていった。 〃大釜み 作戦 しかし、このあとのロンメルの作戦 は、機甲部隊戦術の発展に、一つのエ ポックを画することになった。 このときロンメルのアフリカ軍団 は、英軍の地雷原と英軍陣地の中間 〔トプルクとビルハケイムをむすぶ線爆 の北西〕に、海岸とエジプト国境、砂 漠との三方に面する″大釜〃とよばれ た陣地を構築していた。 ロンメルは、英軍がただちにこの陣 地に総攻撃をかけてくると判断した。 かれとしては、他に方法がなかったの で ( 安全をもとめ、東方を迂回してビ ルハケイムへむかうのにたる燃料がな

8. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

の五〇ミリ砲が装備されることになに、かすかな不安をあたえた。そしても勢力をのばそうと、九月イタリアの り、それと同時に三号と四号の双方のドイツ空軍が・ハトル・オプ・プリテン 北アフリカ植民地からエジプトの西方 装甲をあっくすることになった。 〔英本土航空決戦〕とよばれた大空襲砂漠地区に侵入 ( これは国境をこえて あたらしい中型戦車と重戦車の研究戦で、ついに英空軍兵力を撃滅できなすぐ、英軍に阻止された ) 、十一月に は、それぞれ一九三七年と三九年に開かったことは、イギリス本土に侵攻すは、アル・ハニアからギリシャにむかっ て侵入したのである。 始されてはいたが、使用中の戦車にかる計画を放棄する結果となった。 わる、より強力な戦車を設計すること このころヒトラーは、すでにソ連へ イタリア軍 の攻撃失敗 は、あまり急ピッチではすすめられての攻撃をひそかに決意していた。ヒト いなかった。 ラーは、ドイツ軍が大機甲部隊を先鋒このイタリア軍のギリシャ侵入は、 しかし、この間に、装甲ハーフトラとして、ただ一回の電撃戦でソ連軍をたちまち大失敗におわった。ギリシャ ック式の歩兵搭載車が優先的に生産さ壊滅できると確信していたのである。軍の反撃でイタリア軍はアル・ハニアに れ、歩兵連隊は戦車とともに行動でき この目的のため、一九四〇年から四敗走し、追撃してきたギリシャ軍をく へ るようになった。また道路の外を自由一年にかけての冬に、ドイツ国防軍はいとめるのに精いつばいというありさン ル に走行できる能力をもつ自動車両の数再編成され、ドイツの政治的、軍事的まになってしまった。 は増加したが、補給部隊は無限軌道車触手は南部ョ 1 ロツ。ハと・ハルカンにむ エジプトでは十二月はじめ、弱体の カ ではなくて、ふつうのトラックを使用かってのびていった。・ハルカンこそは英軍が攻勢にでて、イタリアの大軍を していたので、道路がなければ行動で 「ドイツの対ソ作戦の第一歩」として完全に撃滅し、これに乗じて猛進撃をア し きないという難点はのこっていた。 ウクライナに侵入する南方からの攻勢つづけ、二月のはじめまでにはキレナ イギリス断念の重要な発起点なのである。 イカ〔イタリア植民地〕全域を占領分 しソ連侵攻へ ところが、このヒトラーの大計画にし、イタリア軍の主力を捕虜にしてし動 一九四〇年、イギリスが手をあげなとって、つごうのわるいことがおこつまった。 かったことは、勝ちほこったドイツた。イタリアのムソリ 1 ニがイタリア そして英軍機甲部隊は少数ではあっ

9. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

ドイツ・アフリカ軍団は、一九四一給の不備のため補充がおくれて、くる アフリカ軍団は、作戦開始のときか 年春からロンメル将軍の指揮のもとしんでいた。 ら自給自足で戦わねばならない運命の に、イギリス・オ 1 ストラリア連△ロ軍 ロンメル将軍の二つの機甲師団 ( 第もとにおかれていたが、これは同時に をエジプトまで押しもどした。はなば五軽機甲師団は、それほど戦力を増強アフリカ軍団の誇りでもあった。 なしい勝利であった。 せぬまま第二十一機甲師団と改称され アフリカの戦域に補給するためには しかし反面、アフリカ軍団は、きわていた ) の、三個中隊編成の戦車大隊地中海を横ぎる海上輸送にたよらなけ めて手うすな補給線の最先端にたってが、各四個中隊に増強されたのは一九ればならず、海上で相当の損害をうけ 戦わなければならず、機甲部隊は、補四二年五月になってからであった。 ることは避けられなかった。 砂漠を駆けるロンメル軍団

10. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

軍は、はげしく反撃して、けつきよくは、めだった優秀性をしめすにはいた抗するすべがなかった。英軍の「マチ はドイツ軍が撃退されてしまった。 らなかったのである。 ルダ」重戦車さえそのエジキになっ こ 0 この直接的な攻撃が失敗したと判断たとえば、イギリス軍は新型の「ク するやロンメル将軍は、ただちに戦車ルセーダ 1 」戦車を投入していたが、 しかし、戦車同士の戦闘では、ドイ 部隊を転用して、これを内陸ふかく迂あまりめざましい活躍はみられなかっ ツ戦車の砲は「マチルダ」のあつい装 回機動を開始させた。エジプト国境をた。両軍とも中戦車の砲は、うまく命甲に歯がたたなかった。この事実は、 こえて、イギリス軍を後方根拠地から中したばあいには、相手の装甲をぶちとくにのちに戦車対戦車の戦闘があた 遮断しようとしたのである。 ぬくこともできたが、ともに命中率はりまえのことになってくると、ドイツ 全戦場は攻撃と反撃のウズになつわるかった。 軍戦車部隊のなやみのたねとなるので た。そして、最後には、イギリス軍を だが、ドイツ軍の対戦車砲、とくにある。 攻撃発進地点まで追いかえしてしまっ八八ミリ砲は、めざましいはたらきを あきらかに、ドイツ機甲師団にとっ たのである。 した。イギリス軍の戦車は、対戦車用ては、敵戦車の砲に撃破されない遠距 この戦闘では、ロンメルの包囲戦術の徹甲弾しかもっていなかったし、砲離から、相手の重装甲をぶちぬける強 カ ル が、みごとに功を奏したというべきで兵は戦車とともに行動できなかったの力な砲が必要になったのである。 ある。そして両軍とも機械力の面でで、八八ミリ砲の圧倒的な威力には対 カ ア し 分 カ 動 機 8