フランスの東部国境そいの強固なマ ジノ要塞線をさけ、オランダ、ベルギ ーの中立諸国を突破して、フランス北 西部に侵人しようというのである。 いつぼう、フランス、イギリスを中 心とする連合軍は、ヒトラーがどのよ うな侵攻計画をとるにせよ、基本的に は " シリーフェン〃計画とおなじ構 想になるであろうと判断し、ベルギー にあるたくさんの河川、運河、要塞を師 防衛線として、ドイツ軍の攻勢を阻止機 しようという計画をたてていた。 〔連合軍は″ディール〃計画とよば進既第寶洋 れる作戦のもとに、ドイツ軍の侵略一 にそなえていた。この計画は、ドイ ツ軍の侵人地点が、オランダ、ベル ギーをへて、フランス北部をめざす であろうという推測から、連合軍の侵 主力を中部ベルギーにむけたため、 ドイツ軍の主攻撃目標となったミュ ーズ川戦線に劣勢な部隊を配備する という過ちをおかしてしまった〕
移動架橋資材も機甲師団の重要な兵器てあった 88 ミリ対空・対戦車砲 フランス軍戦車の装甲のあっさは四 一九四〇年の五月九日の夜から十日 〇 ~ 六〇ミリにおよび、これにくらべ の未明にかけてドイツ軍はオランダ、 て、ドイツ軍戦車の装甲は、あついもベルギ 1 、ルクセンプルク三国の国境 のでも三〇ミリであった。 をこえて侵略を開始した。 イギリス軍の軽戦車は、ドイツ軍の 四日間のうちに、地上部隊と。ハラシ ュ 1 ト部隊との協同攻撃で、オランダ 軽戦車とおなじように、装甲のうすい ものであったが、その一〇〇両の歩兵は制圧されてしまった。連合軍は″デ 用戦車 ( 最新式の「マチルダ」戦車二ィール〃計画にもとづいて北進し、べ 三両をふくめて ) は七〇ミリもの装甲ルギーにはいり、ドイツ軍とディール でおおわれており、ドイツ軍の対戦車川流域で戦闘が開始された。 この戦線にはドイツ軍の第三十九、 砲にたいし、まったく安全で、「マチ ルダ」の二ポンド砲〔口径四〇ミリ〕第十六両機甲軍団の機甲三個師団が投 は有効距離内でドイツ軍戦車なら、す入されており、一個師団はオランダ戦 線に、二個師団はジャンプル 1 とアヌ べて貫通できた。 ドイツ軍、にむかって進撃した。 この間、他の三個の機甲軍団はアル 西部に侵入 デンヌ森林地帯をおしわけて徴弱なフ 一九四〇年四月九日、ドイツ軍はデ ンマ 1 クとノルウェ 1 に侵人した。機ランス軍の防衛陣地にむかって、ひそ 甲師団は、またたくまにかたづいたこ かに前進をつづけていた。 の戦闘には参加しなかったが、戦車は 五月十三日朝、第十六機甲軍団がチ 小規模ではあるが、重要な役割りを演ールモンとユイのあいだでフランス軍 じていた。 騎兵軍団に遭遇したときに、フランス
団の威力に疑問をいだいていたのとお なじように、ドイツ軍も、西部戦線侵 攻計画を作成するにあたっては、フ一フ ンスの軍事力からみて、慎重な態度を とらざるをえないと判断していた。 ン〃計画を踏襲 ドイツ軍参謀本部は、西部戦線の作 戦をねるとき、第一次大戦のときの ″シュリーフェン〃計画とほとんどお なじ方法で侵攻を開始すべきであると かんがえていた。 〔〃シュリーフェ / 計画は第一次 大戦前の参謀総長シュリーフェン元 ( 一九一三年歿 ) がかんがえたも の。フランス侵人には、ベルギー オランダを突破して西海岸に進出、 ついで南下して。ハリの西をとおり、 フランス全軍を包囲して、これを東 部要塞、ライン日 、スイス国境に圧 迫して、一挙に勝敗を決しようとす る計画である〕
、「すヾ」買 兵部隊は、戦車と砲兵のいない、ハダカ肥 の前進しかできなくなってしまった。 祖国ドイツへの、西からの接近路の 防衛を担当しているドイツ軍指揮官た ちは、連合軍が消耗している兆候を見 ゃぶっていた。それと同時に、連合軍の 主攻撃方向もはっきりつかんでいた。 、西方軍司令官、 1 デ ~ 元帥は、パリ から東にむかい、ベルフォールの峡谷 をとおってザ 1 ル盆地をねらう連合軍 の動きは、あるていど見のがすことは できたが、ア 1 ヘンをとおってケルン と中部ルール地方にむかってうごく連 合軍を、そのまま放置しておくわけに はいかなかった。モーデルは、これを 国境の堅固な防衛陣地でくいとめる決 意をかためた。 英の空挺 作戦失敗 九月十八日に、連合軍がオランダの アイントホーフェンからアルンヘルム に。ハラシュ 1 ト部隊の大軍を降下させ
ゅうぶんな知識をもっていたが、もう 一つ " 冬将軍との戦い〃という教訓 雪のうえでの車両の動かし方とか 厳寒のなかでの生き方と戦い方ーーを 学びとったのである。 微弱な西部戦 線の機甲兵力 さて、すべて人の目はフ一フンス、べ ルギー、オランダ方面にそそがれるこ とになった。連合軍の攻撃が、この地 点にむけられるものと予期されていた からである。 グーデリアン将軍は、西部戦線に 機甲戦力をつくりあげることに、いま まで以におおくの時間をかけている ようであった。 当然のことながら、グーデリアンは ヒトラ , ーの豪語する、いわゆる「大西 ・、叮殳を言じているわけ 要塞」のイ「手ャイ ではなかった。連合軍が陸すれば、 すぐ戦車戦がはじまる。最後の決着を つけるカギは機甲兵力にあると、グー 1 目標発見 : 突撃砲の指揮官 2 補給 : 「ティーゲル」戦車に 88 ミリ砲弾 をつみこむ 3 自走榴弾砲の前進 4 対戦車砲の活躍
陸 一九四四年の夏、ドイツ西方軍総司 ドイツはすでに敗れたとかんがえて衝突し、南方軍集団司令官を解任さ上 ジ 令官ルントシ = テット元帥は、二つの いるルントシュテットにとっては、こ れていた〕 難問をかかえこんでいた。 の任務自体がナンセンスであり、「大第二の問題は、連合軍の侵攻にたい「 まず西方軍総司令官の職責として、西洋要塞」などというのは、たんなるして、西方軍の基本戦略が不安定なこノ フランスからオランダにいたる海岸のことばのあそびにすぎないとおもわれとであ 0 た。ルントシ = テットの戦略軍 合 「大西洋要塞」を防衛し、予想されるた。 構想は、連合軍上陸兵力にたいして、連 連合軍のヨ 1 ロツ。ハ侵攻を阻止しなけ 〔ルントシテットは、前年ロシア機甲師団を集結した機甲軍集団によっ ればならない。 戦線で作戦指導についてヒトラ 1 とて強打をあたえることを基本としてい 連合軍、ノルマンジー上陸
遮蔽物のおおい地形のおかげで、イ ギリス軍はふつうなら、たちまちドイ ツ軍戦車部隊の手でやつつけられたで 、 . ( 1 外あろうが、どうにか、もちこたえるこ を とができた。 ともあれイギリス軍は、この降下部 隊を支援するのにまにあうように、機 甲部隊を前進できず、降下部隊は撃破 され、退却してしまった。 、ノ ドイツ機甲 師団が反撃 るまでは、モーデルは、ア 1 ヘンにむ イギリス軍の第一空挺師団は、前進連合軍は、ドイツの完全征服のため かうアメリカ軍の進撃が連合軍の主攻する英軍機甲部隊の前方約一〇〇キロに追撃戦にうつるまえに、補給組織を 勢であるとかんがえていた。そこで、 の、アルンヘルムに降下したのである たてなおす必要があった。そのために陸 上 が、これは第九、第十機甲師団の目は、なによりもまず、ベルギーのアン 連合軍の。ハラシュート部隊の降下地帯 トワープへの道をふさいでいるドイツ には、あらたにあつめた機甲部隊を配とハナのさきにおりたことになった。 ン 備していたのである。 ドイツ軍部隊はまだ戦力を回復して軍を排除しなければならない。アントマ なぜなら、この降下地域は、ルールはいなかったが、しかし気力をうしなワープが、北部ドイツ平野をめざすノ にむかって突進しようとするアメリカ ってはいなかった。英軍降下部隊をむ連合軍の戦力集結の中心をなすからで軍 合 かえうつ戦闘は、このオランダの町とある。 軍にたいして、反撃部隊の集合地点と して、もっとも適当な場所であったか散在する森林のなかでおこり、降下部 この連合軍の作戦にたいして、ドイ らである。 隊を激戦にまきこんでしまった。 ツ軍としては、大きな反撃をする余地 気
めぐり、。ホ 1 ランド、オランダ、ベル していたが、かれの理論も、フランスはるかに強力なものであった。 しかも「ドイツ機甲師団」は、体力ギー、フ一フンスをひきさき、雪のロシ 軍首脳にはまったくうけいれられず、 気力ともにすぐれた、えりぬきの将兵ア戦線、灼熱のアフリカ戦線にも、キ 先駆者の悲哀をかみしめていた。 しかるに、ドイツでは、第一次世界からなっていた。かれらは、猛訓練にヤタピラーをきしませて、縦横無尽に 大戦末期のにがい経験から " 戦車〃にたえつつ、ベルサイユの恥辱をはらあばれまわった。 そのスピードと破壊力は、軍事技術 ついては、まったくちがった評価をしし、祖国の誇りをとりもどそうという 熱意にもえていた。 上の″革命〃とさえおもわれた。 ていた。 一九一八年〔大正七年〕、第一次大戦かれらは、戦士中の戦士であり、そ本書の著者ケネス・マクセイは「ド ィッ機甲師団」をひきいたルントシュ の素質は、ドイツ空軍将兵にまさると でドイツが降伏においこまれたとき、 テット、マンシュタイン、グーデリア 連合軍戦車にじゅうりんされた記憶がもおとらぬ優秀なものであった。 ン、ロンメルなどの名将の活躍をいき このドイツ陸軍の″サラブレッド / なまなましく、戦車が破壊的威力をも った驚異的兵器であることを、体験的ともいうべき「ドイツ機甲師団」がどいきとよみがえらせるとともに、「ド のようにして誕生し、育てられ、戦場ィッ機甲師団」が、その能力と理論を に知っていたのである。 二〇年後、ドイツは、この経験をいのスターの座についたか、ということあまりにも過信したために、やがて ″栄光の座″をすべりおちて″悲惨な かして、どの国にもおとらぬ戦車部隊は、第二次世界大戦の物語のなかでも 末路〃をたどっていく姿を、あますと 機甲兵力ーーを創設した。数量のとりわけ興味ぶかいものがある。 「ドイツ機甲師団」は、まさに電撃戦ころなく描きだしていくのである。 点では、連合軍におよばなかったもの の、すぐれた技術、独特の戦術理論をの立役者であった。かれらは、ドイツ もち、この点では、連合軍にくらべて軍の先鋒として、北ヨーロツ。ハを駆け
イギリス . オランダ ・プリュッセル・・ . べノレギー - ・ 0 :. ノレクセン ・プノレク セダン . “・ . アルデンヌ モ 軍団は機甲三個師団よりなっていた。 さて作戦のはじまるまえに、ドイツ いであろうか、またこの大部隊が、そ 自動車化一個師団が、それぞれの機甲軍内部で、心配のタネとなっているこの進撃の速度をおとすことなしに、ま 軍団にふくまれており、このほか各軍とが二つあった。たとえ連合軍の抵抗た、大きな損害をうけることなしに、 団の戦線で予期される特殊の状況とにが弱いとしても、アルデンヌ森林地帯 ミューズ川をわたることができるであ らみあわせて、渡河資材なども配備さを前進するドイツの大機甲部隊が、ころうか、という問題である。 れていた。 の障害地帯にはまりこむことにならな グーデリアン将軍は、アルデンヌを ティナン ン ア ア ・ / くリ マジノ線 フ ン . ス 2 シ、リーフ = ン計画 0 仏・ディール計画 0 シ、タイン計画 第 3 9 機甲車団 ヘルギー車 ( レオホルト三世ー プリュッセル 英海外派遣車 ーコート車 1 ノし フランス第一車 | フランシャール簽車 シャルノレロア ・・ . マーストリヒト 第機甲車団 ーエマール要寒 リエーシュ ワープル ナミュール 第 1 甲師団 ティナン 、シャンフル - モンス・ 第乃機甲車団 ーホト革 第 2 車団 第 5 師団 ・第圏師団 第 22 師団 . ・・リペ ヒル -- ・・ 第引師団 . : : を 第Ⅱ車団 フィリップビーユ フランス第 9 車 ( コラーフ市ー 第引機甲車団 ーラインハルト簽車 機中集団 ークライスト物車 イルソン・・・ サンミッシェルロクロア 第引車団 第四機甲車団 ークーテリアン物 セタ・ン・ 第 55 、 -s- アぎーレンヒーユーー 第師団フランス第 2 車 スメーク . ノレクセン プルク 7 モンテルメ フィョン メンエール 第 102 要寒師団 レーテル和 0 車団 ・モンコルネ ルクセンプルク ・スール・エイヌプ - シェ 第 18 車団 マン / 100 ス ヘルダン 50
はないようにおもわれた。オランダのつうずる道をまもっている連合軍は、 なにかがおこるかもしれないという空 g 軟弱な水のおおい地帯は、機甲師団の九月中に補給部隊がドイツ軍機甲部隊想的な楽天主義から戦いつづけた。 活動できる場所ではなく、また、つねの襲撃をうけてなやまされ、十月二十 だが、シュペーア軍需相は、統計数 に目をひからしている連合軍空軍のま九日には米軍第七機甲師団は、ドイツ 字を無視することはできなかった。 えでは、昼間、大ぎな作戦ができるよ軍の第九機甲師団の攻撃をうけて、ヘ 九、十、十一月で一七六四両の戦車 うな状態ではない。 ルモント付近までおしかえされた。 を生産できた。しかし一三七一両しか 冬が近づいてきた。夜はながくな このヘルモントの勝利を、西方軍司軍隊にわたっていない。交通が破壊さ 、航空攻撃に適しない天気がつづい令官のモーデルは、いつものやり方でれたからである。さらに生産数字その た。大規模な地上作戦をやるチャンス自分の名声をたかめるのに利用しよう ものも、約二〇。ハーセントの低下をし がましてきた。いつぼう、ドイツ機甲とした。しかし、これらの戦闘は西部めしていた。 軍の戦力も、質的にはともあれ、量的防衛線の劣弱さ、ドイツの絶望的な状しかし生産数字を心配する時機は、 にはましてきた。 況をかくそうとする、ドイツの昔流のとうの昔にすぎてしまっていた。人間 連合軍情報部の目からみれば、どん小戦闘にすぎなかったのである。 さえ、たいして重要とはみられなくな な軍でも、この一九四四年に、あらゆ くらいドイっていた。子供たちも、どんな人間も、 る戦線でドイツ機甲師団がうけたよう ツの前途そしておおくの熟練した工場労働者た な連続的打撃から立ちなおり、そのう いまや連合国空軍は、ドイツ国境ちちも、おおくの外国人とともに、第一 え攻勢作戦をやるなどとは、おもいもかくの飛行場から離陸して、ドイツの線部隊にひつばられていった。 よらぬことであった。とにかく、う・こ工業地帯や交通網を攻撃し、ドイツ国 はるかに大きな災厄が、ドイツ陸軍 いていることだけでも奇跡とおもわれ民の士気は、たえざる試練にさらされとドイツ空軍の上におおいかぶさろう こ 0 るようになった。それでもドイツ国民としていた。かれらの血液ともいうべ しかもなお、ドイツ機甲師団は攻撃は、ヒトラ 1 のカラ約束や、ロシア人とき燃料が、やがて底をつこうとしてい をかけていた。アイントホーフンにゲシ = タポ〔国家秘密警察〕の恐怖や、たのである。