ドイツ軍 - みる会図書館


検索対象: ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉
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1. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

体をかくし、砲だけだしてまちかまえにかわるしかなかったからである。 にか太刀打ちできた。 そこで七月二十五日に、アメリカ軍 戦車対戦車の戦闘が、カーン南方のていた。イギリス機甲師団は、たちま ような、ひらけた地形でおこるのは、 ち遠距離からの射撃でたたきのめされが戦線突破に成功したときには、なか 戦術上、当然のことであり、ドイツ軍てしまった。イギリス戦車の損害は二ば撃破された若干の歩兵師団と、まっ もこれを予想し、ファレーズにたいす〇〇両をこえたが、。 トイツ軍の損害はたく不むきな地形で戦力が低下した数 個の機甲師団とで戦うことになった。 る連合軍の攻撃を想定して、反撃計画軽徴であった。 連合軍 ヒト一フー爆 を研究していた。 の戦略 殺未遂事件 はたして七月十八日、イギリス軍 さて、ドイツ全軍にとって不幸なこ は、おどろくほど大規模な爆撃につづ アイゼンハワー〔連合軍最高司令 いて、カーン方面から突進してきた。 〔イギリス軍総とに、高級指揮官たちが、たがいに信 官〕やモントゴメリー しかしドイツ軍をおどろかしたのは、 司令官〕の指揮している連合軍の戦略頼しあわなくなっていった七月二十 日、ヒトラー暗殺の陰謀、有名な爆殺 は、ドイツ機甲部隊をカーン付近にさ ただ攻撃規模の大きさだけであった。 ドイツ軍は、第一線にわずかの兵力そいこみ、ここにクギづけしておいて未遂事件が突発したのであった。 しか配置していなかったので、攻撃準その間に、海岸橋頭堡の西側から、ア ノルマンジーの戦いが最高潮にたっ陸 備砲爆撃の大部分は、カ一フッポの上地メリカ軍がサンロー方向に進出しようしたとき、ドイツ陸軍総司令部の内部一 にムダにたたきこまれたのであった。 というものであった。 では、全員について、この反逆に加担 ン マ その後、イギリス軍機甲一二個師団が しかし、ドイツ機甲師団は、カーン していたかどうかを、ひそかにしらべ ル この爆撃した地帯をファレーズにむか方面にさそいこまれたのではなく、こ る″魔女狩り〃のさいちゅうという情ノ って突進してきた。だが、 ドイツ機甲の方面にいなければならなかったので勢だった。 合 三個師団が「ティ ! ゲル」戦車と突撃あり、アメリカ軍正面の小森林地域に ロンメルはこれに関係していた。し連 かしかれは七月十七日に、英軍機の攻 砲部隊の援護をうけて、南方の高地にはいったのは、ドイツ軍歩兵部隊が消 あらかじめ準備した陣地について、車耗してしまったので、機甲師団がこれ撃で重傷をおい、まったく重大な時機

2. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

のが、きわめてむずかしくなってしま ドニエプル川の渡河がおわったすぐである。 った。前進してくるソ連軍先鋒部隊をあとに、キエフはソ連軍に奪還された 数の上でひじように劣勢なドイツ軍 襲撃して、遮断しても大きなエモノをが、西のジトミ ル付近ではドイツ機甲であったが、見とおしのわるい土地 つかまえることはできなかった。 師団がするどい攻撃をくわえて大きなで、戦車が対戦車砲には、いかにもろ ドイツ機甲師団の指揮官として有名損害をあたえ、しばらくはソ連軍の前いかということを、ソ連軍戦車に、い なマントイフェル将軍は、こうした襲進を停止させていた。 たるところでおもいしらせた。 レニングラー 撃をしばしば指揮したのであるが、ソ 突撃砲、駆逐戦車は歩兵部隊と協同 連軍の後方には通信所のほかには攻撃 ド戦おわるして、あらゆる障害物や地雷原などを すべきものがなにも見あたらなかっ ドイツ軍は、南部戦線に機甲軍の大フルに活用し、戦車がとおれないよう た、とのべている。ある意味で、戦い部分を集中せざるをえなかったので、 な小道まで利用してその実力をいかん は機械化による大規模なゲリ一フ戦の性中部戦線では装甲車両の数はわずか五なく発揮したのである。 格をおびはじめていた。 〇〇両 ( おおくは突撃砲 ) になってし スモレンスクの戦いはレニングラー ドイツ機甲師団は、戦線後方のかくまった。これにたいしてソ連軍は一四 トの攻防戦に終止符をうつことになっ し れ場所からソ連軍を襲撃したり、適当〇〇両の戦車をもってビャズマから西た。この戦線でもドイツ機甲師団は、 な な目標がみつかると後方からおそいか方、スモレンスクにむかって間断のな森林と湖沼のおおい地帯では、ほんのむ かった。戦車による待ちぶせは、この い八週間におよぶ攻撃を開始した。 すこし使用されただけで、突撃砲や駆車 ころ、ちょっとした流行であった。 スモレンスクへの接近路は森林のお逐戦車が中部戦線以上の活躍をしめし鋭 秋も末となって、またヌカルミの時おい地域であったが、・ トイツ軍はこれた。この方面の戦線では、ドイツ軍はに 期がはじまり、機甲部隊が自由に行動をたくみに利用して、攻撃してくるソソ連軍に大損害をあたえたのち西に後作 量 できなくなると、戦線は一時的に両軍連軍に大損害をあたえた。一九四一年退した。 物 ドイツ軍は、ソ連軍との戦いをつう のあいだに大きな間隔をのこしたままに、このおなじ地域を東進したときに おちついた。 は、ほとんど損害をうけなかった場所じて、機甲兵力の運命については、じ

3. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

は、いままで以上に、夜間にだけ行動西部戦線にくらべて、東部戦線のほる防壁ではなかった。ソ連軍は水面下 うが、空からの攻撃については、まだに橋をかけ、ドイツ軍に気づかれない すること、空からの攻撃にたいしても ラクであったが、。 っと身をかくすこと、さらに攻撃にも トイツ機甲師団は空うちに将兵を渡河させるという特殊な 防御にも砲兵をもっと活用すること、 からの脅威をたえず警戒しなければな方法をもちいたのである。 らなかった。しかしこのために停止さ こうしてドイツ軍の企図したドニエ に腐心しなければならなくなった。 連合軍のあらゆる種類の航空攻撃せられることはなかったものの、作戦プル川をはさんで戦うという戦法は失 、ドイツ軍の補給路と補給車両を破面では、ますます複雑な配慮が要求さ敗し、十月中旬さらにソ連軍が西岸に 壊し、戦車そのものにたいしても低空れるようになった。 上陸しようとしておこった機甲部隊の ドニエプル から機関砲、ロケット弾、爆弾などで 大激突でも、戦車攻撃を阻止できなか 川から撤退った。 直接攻撃をくりかえしたので、戦車の 東部戦線でソ連軍の前進の障害にな 乗員たちは休息するひまもなかった。 ドイツ機甲師団は、つぎつぎにつく る、とみられていたドニエプル川も、 られていく数十というソ連軍の橋頭堡 一九四三年、機甲軍に、はじめて対 九月二十七日、渡河されてしまった。 空用戦車が配備された。 を撃破するだけの力をもっていなかっ これは、機甲軍が大口径砲をもった ドイツ軍がこの川の西岸に退却したおた。橋頭堡はみるみるうちに拡大、連 結され、とうとうドニエプル川の全線 高射砲部隊や空軍の援護がないときなじ日のことであった。 ドイツ機甲師団と装甲擲弾兵師団がソ連車の手におちた。ドイツ機甲師 に、連合軍機による低空からの攻撃を うけたばあい、あるていどの反撃力が ( これはいままでの自動車化歩兵師団団の直面する戦局は、いままで以に 必要になってくるとかんがえられたかのあたらしい名称である ) 各一個師団困難なものになってきた。 らである。 が反撃をくわえたが、ソ連軍は橋頭堡 ソ連軍は大兵力をもって各方面で大 しかし、このような手段をとってみを死守していた。 攻勢をかけてきたので、この大軍全部 ても、連合軍機による空からの脅威は ドニエプル川は、幅四〇〇メートルを大規模に包囲しようとしても、どこ もあるのだが、ながくもちこたえられにソ連兵の主力があるのかを確認する 日一日とはげしさをましていった。 176

4. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

アから南にむけワルシャワをめざしてア地方、スロ・ハキア地方からクラクー からといって、かならずしも、もっと いた。 フ北方をぬけてワルシャワにむかおうも抵抗のつよいところをねらうという わけではなかった。 いつぼう、南方軍集団は、北から第としていた。 八、第十、第十四軍とならび、シレジ このドイツ軍の壮大なポーランド侵しかしグーデリアン将軍の第十九機 攻計画は、まったく野心的なものであ甲軍団が、ダンチヒの南で、ポーラン 砲塔上の機関銃のねらいをつけるドイツ戦 ったが、・ トイツ軍統帥部がどの地区でド 軍の陣地帯にぶつかったときのよう 車兵】ドイツ機甲師団はプロの集団だった ″決定的勝利みをもとめていたかといに、どうしても避けてとおれぬときは、 うことは、ドイツ機甲師団の配置状況戦車の破壊力を中心に、この陣地帯を にハッキリとしめされていた。 はげしく攻撃する戦法がとられた。 機甲六個グ 1 デリアンは幅四キロ半のせまい 師団進撃正面に、戦車を七波の梯団に配置し、 六個の機甲師団のうち、二個はグー このおおきな衝撃力でポーランド軍陣 デリアン将軍の第十九機甲軍団として地を突破しようとした。 北方軍集団の第四軍に、のこりの四個 この戦車群の前面と側面を支援する 師団は南方軍集団にぞくし、そのうちため、まず急降下爆撃機と砲兵の砲爆 二個はヘッブナー将軍の第十六機甲軍撃で、ポーランド軍の砲兵、対戦車砲 団として第十軍にいた。ドイツ機甲師陣地を沈黙させ、ついで戦車群の後方 団は、いずれも最短経路でワルシャワをトラック搭載歩兵部隊が、ポ 1 一フン をねらっていたのである。 ド軍の銃砲火にさらされぬよう、用心 ドイツ機甲師団の作戦は、ふつうはぶかく前進した。 攻撃を敢行するとなれば、きわめて単そして、この作戦では、万事が、戦 刀直入的な性質になるのであるカオ 、ど車の決定的破壊力を中心にしてうごく

5. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

なければならなかったのだが、・ トイツている〕のたくみな指揮とあいまって注 1 ー紀元前四八〇年、レオニダス将 0 は、イギリス、ソ連を敗北寸前にまで勝利をおさめたのであるが、それと同軍にひきいられた一〇〇〇人のス。ハ 追いこんでいた。この両国は、形勢を時に、かれらが絶望的な状況のなか ルタ軍がギリシャ中部の要衝テルモ 逆転させるための力を蓄積し、態勢をで、生きのこらんがために、一種の悲 ピレーでベルシアの大軍をむかえう たてなおすために二年以上の歳月をか愴な決意をひめて、戦ったということ ったが全滅させられた。 けなければならなかった。 も重要な勝因とかんがえられる。 注 2 ー紀元九年、ローマ帝国のアウグ また、ドイツ機甲師団は、最終的に このような絶望感からうまれた決意スッス帝が領土拡大をはかって、先 崩壊する数カ月前に、連合軍をグラつは、ドイツ軍のエリートである機甲師住民のゲルマン民族とたたかい大敗 した。 かせるだけの力を発揮できたという事団の将兵たちも心に秘めていたのであ 実も忘れてはなるまい。 るが、この要素は、かならずしも勝因注 3 ー一八一五年六月十八日、ベルギ ー中部プリュッセルのちかくで、ナ 歴史にみにむすびつかないということも、歴史 る先例の上であきらかにされている。 ポレオンがイギリス・プロシア連合 ドイツ機甲師団のたどった運命をふ たとえば、テルモ。ヒレーでス。ハルタ 軍のウエリントン将軍に大敗した。 りかえるとき、またしても、フスの戦軍が敗れたとき〔注 1 〕、ゲルマン民このような歴史の流れにてらしてか 闘車軍のことをおもいださずにはいら族が、トイトプルク〔ドイツ西部の森んがえれば、ドイツ機甲師団の勝利の れない。フスの軍隊の強さの秘密と、林地帯〕でローマ軍団二万人を絶滅し秘密をとくカギは、そのきびしい訓練 あざやかな勝利の秘訣が、どこにある たとき〔注 2 〕、また、不敗をほこる とか使命感にもとめるべきではなく のかをさぐることは、ひじように興味ナポレオンの親衛隊がワ 1 テルローで″戦車″という新兵器にあるのだと結 ぶかい問題のようにおもわれる。 惨敗をきっしたとき〔注 3 〕、いずれ論することができるであろう。 フスの戦闘車軍は、熱烈な信仰心をも、不屈の信念にもえるエリートたち 馬やマスケット銃〔十六世紀・ころか もった兵士と明敏な指導者シスカ〔フ が、その全盛期に、アッというまにやらっかわれた旧式の銃。ライフルの前 スの門弟で、ポヘミアの名将といわれぶれ、死滅したのである。 身〕で戦った時代には、敵の突進を撃

6. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

攻撃拠点をかくし、ドイツ軍の側面に 迂回してトドメをさそうとした。だが この煙幕は、ドイツ軍をもたすけるこ とになった。ドイツ軍はこの部落の外 にのがれて、部隊を再集結し、ソ連軍 が煙幕のなかからあらわれると、ただ ちに、はげしい射撃をあびせかけた。 両軍必死の攻防がつづけられたが、 けつきよくソ連軍は約六〇両の戦車を 破壊されて退却し、この小戦闘はまた してもドイツ軍の勝利におわった。 このキュストリンの戦いは、ドイツ 機甲師団の最後の戦いではなかったけ れども、戦車を中心としたドイツ軍が、 全盛期にまさるともおとらない活力を もって戦った最後の戦闘であったこと はまちがいない。 いま、ドイツ機甲師団の活躍をふり かえってみるとき、この戦闘は、戦車 とその乗員が、戦場で圧倒的威力をし めしたドイツ機甲師団の物語のラスト シーンをかざるにふさわしいものとい

7. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

この意味では、装甲車両というもの ドイツ機甲軍は、そのおどろくべき されたもので、戦車兵たちは、おたが は″勇者をとじこめた移動式獄舎″と力量をみずからの才覚で開発したのでいにユニークな符諜で話しあうことも いうこともできるかもしれない。 あるが、これは、ドイツ機甲軍を組織できた。 このような点で、ドイツ機甲師団の しかし、装甲車両、とくに戦車は強し、編成し、訓練したルツツ、ト 大な火力をもち、すぐれた攻撃力をそマ、グ 1 デリアン、ディートリヒなど将兵たちは、他のドイツ軍戦闘部隊の なえているばかりか、あつい装甲に防の名将にとって最大の誇りであろう。将兵たちとくらべて、きわだって異質 ドイツ機甲軍の戦いのあとをふりかな存在となっていたのである。 護されて乗員の安全度もかなりたか じっさい、ドイツ機甲師団の将兵た く、この特質をじゅうぶんに活用しえってみれば、精神力がささえになっ ちほど勝利に貢献したものは、いない て、戦場の勝利者となるチャンスを増ていたことがわかる。 大させていったのである。 この″ドイツ戦車兵魂〃ともいうべであろう。 ドイツ機甲師団は、独立した決戦兵 ドイツ軍き精神は、一両の戦車の乗員同士から のエリート 分隊、小隊、中隊、大隊、連隊、師種として、時代おくれの戦術や既存の さい・こに、ドイツ機甲師団の将兵、団、さらには軍のレベルにいたるま騎兵、歩兵、砲兵などの兵種に拘束さ れることなく、生まれ、育ち、戦い、 地上軍の機甲師団の将兵、すなわで、強烈な仲間意識にささえられて、 ちドイツ軍のエリ 1 トたちがもってい独特の規範をつくりだしていったのでそして減亡していった。 しかし、ドイツ機甲師団は、そのか た、おどろくべき士気についてかんがある。 がやかしい功績とともに、比類なき決 えてみよう。 ドイツ機甲師団の兵士たちは、以心 伝心、テキ。ハキと作戦任務を遂行して戦兵種として、今日なお、不減の栄光 ドイツ機甲軍の将兵たちは、エリー トであるがゆえに、すばらしい力量をいったのであるが、これは、たゆみなにつつまれているのである。 い猛訓練とゆたかな知性からかもしだ 発揮したのであった。

8. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

年 . 月 . 日 事項 日本の情勢 ドイツ軍ハリコフで反撃成功 ドイツ軍 , 夏季攻勢開始。ソ連軍敗走 ミッドウェー海戦 ロンメル , 工ルアラメインに到達 ドイツ軍 , スターリングラードにせま 米軍ガダルカナル島上 る。 11 月まで激烈な戦闘っづく 北アフリカ戦線でイギリス軍攻勢開 始。ドイツ軍退却 8 連合軍 , 北アフリカ西部に上陸 11. 19 ソ連軍 , スターリングラードで大反撃 大東亜省設置 11. 戦を開始。ドイツ第 6 軍を包囲 ドイツ軍のスターリングラード救援作 戦失敗。ドイツ第 6 軍の運命きわまる カサプランカで英米首脳会談。枢軸側 徴兵適齢 1 年繰下げ に無条件降伏を要求 スターリングラードでのドイツ軍の抵 1. 30 抗終了。東部戦線のドイツ軍主力敗走 ドイツ軍ハリコフで攻勢にでる 山本長官 , 戦死 チュニスの戦闘おわる。枢軸側アフリ ガダルカナル島敗退 力をまったく失う アツツ島守備隊玉砕 ドイツ軍クルスクに向い攻勢にでたが ソ連軍反撃。ドイツ軍総退却 9 連合軍 , シチリア島に上陸 タラワ , マキン玉砕 7. 3 連合軍 , イタリアに上陸。イタリア降伏 9. 連合軍 , ノルマンジーに上陸 6 インノく一ル作戦 1944. 6. ソ連軍 , 中部戦線で攻勢開始 B 29 北九州空襲 6.20 ソ連軍 , 南部戦線で攻勢開始 サイバン玉砕 7. 17 7. ヒトラー暗殺未遂事件 ドイツ軍 , 西方 , 東欧 , バルカンから B 29 東京初空襲 の退却っづく 神風特攻隊 , 初出撃 ドイツ軍アルデンヌで最後の攻勢 レイテ海戦 12. 16 ヤルタ会談 米軍 , 硫黄島上陸 1945. 1. 16 ソ連軍の東プロシア , 中欧への前進つ 硫黄島玉砕 3 づく。英米軍 , ライン川を渡る 沖縄決戦はじまる ソ連軍 , オーデル川に到達 英米 , ソ連軍 , ドイツ国内を席巻 ヒトラー自殺。ソ連軍ベルリンを占領 東京 , 夜半大空襲のた 4.30 5. 8 ョーロッパの戦争終結。 VE ディ め大半が焦土と化す ( 加登川幸太郎 ) -0 ~ ー 8 10 12 1943. 1 ( 19 歳になる ) 3 5 4

9. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

かっての栄光の しめした将兵 ドイツ軍の「。ハンテル」戦車と「テ ーゲル」戦車は、照準をさだめるや いなや砲門をひらき、うろたえるソ連 軍戦車五〇両をことごとく撃破した。 このため、ソ連軍は大混乱におちい り、ドイツ軍は、ただちにソ連軍の南 翼にむけて反撃にうつった。 ソ連軍は、ドイツ軍戦車の射界のな かにとびこんでくるので、ドイツ軍戦 車はネライ撃ちして、ソ連軍をおびや かし、戦闘はドイツ軍有利のうちに展 開されていった。 しかしソ連軍は、あらたに北にむか . ~ って攻撃をはじめ、ドイツ軍の指揮所 と予備中隊が配置されている部落に集、、 中砲火をあびせたので、ドイツ軍予備洋な 部隊は混乱におちいり指揮もみだれは じめた。 ソ連軍は煙幕をはり、部隊の集結と とになった。

10. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

ドイツ機甲師団は、 " 進歩の時代〃 の結品として生みだされたもので、あ たらしい兵器とあたらしい戦術の双方 をかねそなえ、しかも、ドイツ機甲師 団の将兵たちはドイツ軍将兵のなかで も、とびぬけて雄々しい〃救国の精神み を、はげしい訓練をつうじて、たたき こまれていたのであった。 しかし、このようなドイツ機甲師団 」〉第の " 完全無欠。の特質も、ドイツの軍 けて縮小し、慎重ではあるが、極端な までに緩慢な歩みをせざるをえなくな団 り、またいっぽうで、連合軍が強力な甲 反撃態勢にうつり、ドイツ軍の士気を そそうさせるような段階になると、そ の面目をすっかりうしなってしまったか のである。 いま技術的な要素をのぞいてかんがの えれば、比較的少数のドイツ軍が、な不 がいあいだ逆境にたえつつも、圧倒的 な力をもった敵を、みずからのカで打