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検索対象: ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉
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1. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

ドイツ機甲師団・軍団・集団・軍の編制 ドイツ機甲師団は , 1935 年 10 月にはじめてつくられ第 1 , 第 2 , 第 3 の 3 個の機甲師団が編成された。この師団の編制は大きなもので , 主力となる戦車 の定数は 1 両であった。しかし , 生産がまにあわず , この編制が完全に充足 されるにはいたらなかった。いつぼう , ドイツ軍は機甲師団の数をふやす必要 にせまられ , 戦車数のすくない機甲師団がつくられていったのである。 初期の機甲師団の編制 〇司令部 ( オートバイ小隊 1 , 軽戦車小隊 1 ) 〇戦車旅団 1 司令部 ( 戦闘司令部 , 通信小隊 , 軽戦車小隊など ) ・戦車連隊 2 本部 ( 戦闘本部 , 通信小隊 , 軽戦車小隊 , 補給班 ) 〇戦車大隊 2 戦闘本部 , 本部中隊 ( 指揮班 , 小隊 4 ) , 通信 小隊 , 戦車中隊 4 ( 軽戦車中隊 3 , 中戦車中隊 1 ) , 軽戦車小隊 1 。 戦車大隊内の中隊の戦車は混合編成である。 軽戦車中隊は , 第 1 ~ 第 3 小隊は一号 , 二号戦車で 1 小隊 5 両。 第 4 小隊は三号戦車 5 両。中隊長車などをくわえ 計 24 両。 中戦車中隊は , 中隊長車と軽戦車 ( 一号 , 二号 ) 1 小隊。第 1 ~ 第 4 小隊は四号戦車各 3 両。計 18 両。 〇自動車搭載歩兵旅団 1 司令部 ( オートバイ小隊 , 自動車搭載機関銃小 ・自動車搭載歩兵連隊 1 本部 ( 通信小隊 ) 〇自動車搭載歩兵大隊 2 本部 ( 通信小隊 ) , サイドカー中隊 1 , 自動車搭載歩兵中隊 2 , 機関銃中隊 2 , 重火器中隊 ( 対戦車砲 , 歩兵砲 , 工兵 ) 1 〇オートバイ歩兵大隊 1 本部 ( 通信小隊 ) , オートノヾイ歩兵 中隊 3 , オートバイ機関銃中隊 1 , オートバイ重火器中隊 1 〇偵察装甲大隊 1 本部 ( 通信小隊 ) , 偵察装甲中隊 2 , オートノヾイ歩兵中 隊 1 , 重火器中隊 1 〇対戦車砲大隊 1 本部 , 対戦車砲中隊 3 ( 1 中隊は 4 小隊 , 砲 12 門 ) 〇砲兵連隊 1 ( 自動車牽引 ) , 本部 ( 通信小隊 ) , 砲兵大隊 3 ( 本部 , 軽榴 弾砲中隊 3 , 通信 , 気象小隊 ) 〇通信隊 1 ( 有線中 1 , 無線中隊 1 ) 〇工兵大隊 1 ( 自動車搭載工兵中隊 2 , 自動車搭載架橋中隊 1 など ) 235

2. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

1940 年の夏 , フランスで活躍した第 7 機甲師団 ( ロンメル少将指揮 ) は , ポ ーランド戦で不評だった“軽機械化師団 ' を再編成してつくった 4 個師団の一 つであるが , 初期のものにくらべ , ずっと軽装備になっている。 ロンメル少将の第 7 機甲師団の編制 〇戦車部隊・第 25 戦車連隊 ( 大隊 3 , 各大隊は軽・中戦車中隊 4 ) ・第 37 偵察装甲大隊 師団の戦車の定数は 218 両。半分以上はチェコ製戦車 〇自動車搭載歩兵・第 6 歩兵連隊 ( 歩兵大隊 2 ) ・第 7 歩兵連隊 ( 歩兵大隊 2 ) ・第 7 オートバイ歩兵大隊 〇牽引砲兵・第 78 砲兵連隊 ( 大隊 3 , 各大隊は中隊 3 ) ・第 42 対戦車砲大隊 〇自動車搭載工兵・第 58 工兵大隊 このあと , 第 7 機甲師団よりも小さい機甲師団が生まれる。アフリカ戦線で ロンメルがひきいて登場する第 5 軽機甲師団 ( のちに第 21 機甲師団となる ) が それで , 戦車 2 個大隊からなる。 1 個大隊の戦車の定数は 90 両であった。 機甲軍団・機甲集団・機甲軍の編制 機甲師団 (Panzerdivision) は , 自動車化歩兵師団と組み合わされて機甲軍団 (Panzerkorps) に編成された。〔例〕フランスとの戦いでは , グーデリアン将軍 の第 19 機甲軍団は , 第 1 , 第 2 , 第 10 の 3 個の機甲師団と自動車搭載の " 大 ドイツ ' 歩兵連隊からなっていた。またソ連との戦いでは , マンシ、タイン将 軍の第機甲軍団は , 第 8 機甲師団 , 第 3 自動車化歩兵師団 , 第 290 歩兵師団 からなっていた。機甲軍団における機甲師団の数は任務によってことなる。軍 団長はふつう機甲兵中将。 機甲軍団は作戦上の必要から , 機甲集団 (Panzergruppe) に編成される。軍 団数は作戦任務によってかわる。〔例〕フランスの戦いの後半 , グーデリアン 将軍は機甲集団司令官に昇格したが , このときは , 第 39 機甲軍団 ( 第 1 , 第 2 機甲師団。第 29 自動車化歩兵師団 ) , 第 41 機甲軍団 ( 第 6 , 第 8 機甲師団。第 20 自動車化歩兵師団 ) からなり , この機甲集団はリスト将軍の第 12 軍にぞく していた。機甲集団司令官はふつう機甲兵大将。 機甲軍 (Panzerarmee) は , 1942 年ソ連戦線ではじめて登場したが , これは みずから補給の組織をもち , 一般の軍 (Armee) と同格であった。これは機甲兵 が功績をみとめられて昇格したことを意味していた。機甲軍の編制は機甲集団 とほぼ同じであるが , 軍集団 (Armeegruppe) に直属している。機甲軍司令官 はふつう上級大将。 ( 加登川幸太郎 ) 234

3. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

ドイツ・アフリカ軍団は、一九四一給の不備のため補充がおくれて、くる アフリカ軍団は、作戦開始のときか 年春からロンメル将軍の指揮のもとしんでいた。 ら自給自足で戦わねばならない運命の に、イギリス・オ 1 ストラリア連△ロ軍 ロンメル将軍の二つの機甲師団 ( 第もとにおかれていたが、これは同時に をエジプトまで押しもどした。はなば五軽機甲師団は、それほど戦力を増強アフリカ軍団の誇りでもあった。 なしい勝利であった。 せぬまま第二十一機甲師団と改称され アフリカの戦域に補給するためには しかし反面、アフリカ軍団は、きわていた ) の、三個中隊編成の戦車大隊地中海を横ぎる海上輸送にたよらなけ めて手うすな補給線の最先端にたってが、各四個中隊に増強されたのは一九ればならず、海上で相当の損害をうけ 戦わなければならず、機甲部隊は、補四二年五月になってからであった。 ることは避けられなかった。 砂漠を駆けるロンメル軍団

4. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

戦車の分 めて ) 装甲されてはおらず、のちに、第五、第十師団 ) には、四個大隊から 散を怒る 一部で無限軌道車あるいは半無限軌道なる歩兵一個連隊が増強されることに なり、最初に編成された機甲三個師団機甲部隊を拡充整備するという問題 車〔前輪タイヤ、後車部キャタピラ 1 のハ 1 フトラック〕がっかわれたことの歩兵も、当初の二個大隊から三個大は、いうまでもなく、その装備にかか っている。とくに戦車その他の自動車 隊に増強された。 があったくらいである。 一九三七年になると、ドイツ陸軍内両の数量が問題である。なかでも戦車 根づよい歩兵 重視の思想の各兵種が、機械化部隊にお株をうばの質と量が決定的な要素である。 これに金のかかることはさておくと われそうだと騒ぎだした。騎兵は、こ 時がたち経験がつまれるにつれて、 ドイツ参謀本部の目に、機甲師団の歩のままでは廃止されてしまうかもしれしても、製作のむずかしいことから、 兵部隊の数が機甲部隊の数にくらべないと心配して、この動きに便乗し、生産が阻害され、将来も慢性的に戦車 て、あまりにもすくないとうつるよういわゆる″軽機械化師団み四個を創設が不足するだろうと予測していたグー デリアンは、戦車の集中使用を望んで になった。やはり歩兵が主力で、戦車する許可をえてしまった。 この軽機械化師団は、自動車化歩兵いた。 は護衛としてつかったほうがよいとい グーデリアンにいわせれば、戦車や うフランス軍の戦車用法と、だいたい四個大隊と軽戦車一個大隊からなるも おなじ考えをもつものがドイツ軍にものであった。これと同時に、徒歩の歩自動車両を歩兵や騎兵に分散すること おおかったのである。 兵と協同するように歩兵連隊に配属さは、そうでなくてもたりない機甲兵力 このため、一九三六年、グーデリアれた対戦車砲中隊は、対戦車砲をひつを、さらに稀薄なものとし、機甲師団 ンを憤慨させたのだが、戦車連隊は歩ばる自動車両を手にいれることに成功固有の威力を減殺することになるので 兵に直接協力する訓練をするよう命じした。グーデリアンは、これは馬でひあった。 げんに、機甲師団の装備表が完全に られた。 くのが、もっとも適当であると訴えた それと同時に、一九三八年と三九年のだが。〔これらの軽機械化騎兵師団充足されたことは、いちどもなかっ た。そして実戦に使用してみると、機 は、後に改編され機甲師団となった〕 に編成される三個の機甲師団 ( 第四、

5. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

この意味では、装甲車両というもの ドイツ機甲軍は、そのおどろくべき されたもので、戦車兵たちは、おたが は″勇者をとじこめた移動式獄舎″と力量をみずからの才覚で開発したのでいにユニークな符諜で話しあうことも いうこともできるかもしれない。 あるが、これは、ドイツ機甲軍を組織できた。 このような点で、ドイツ機甲師団の しかし、装甲車両、とくに戦車は強し、編成し、訓練したルツツ、ト 大な火力をもち、すぐれた攻撃力をそマ、グ 1 デリアン、ディートリヒなど将兵たちは、他のドイツ軍戦闘部隊の なえているばかりか、あつい装甲に防の名将にとって最大の誇りであろう。将兵たちとくらべて、きわだって異質 ドイツ機甲軍の戦いのあとをふりかな存在となっていたのである。 護されて乗員の安全度もかなりたか じっさい、ドイツ機甲師団の将兵た く、この特質をじゅうぶんに活用しえってみれば、精神力がささえになっ ちほど勝利に貢献したものは、いない て、戦場の勝利者となるチャンスを増ていたことがわかる。 大させていったのである。 この″ドイツ戦車兵魂〃ともいうべであろう。 ドイツ機甲師団は、独立した決戦兵 ドイツ軍き精神は、一両の戦車の乗員同士から のエリート 分隊、小隊、中隊、大隊、連隊、師種として、時代おくれの戦術や既存の さい・こに、ドイツ機甲師団の将兵、団、さらには軍のレベルにいたるま騎兵、歩兵、砲兵などの兵種に拘束さ れることなく、生まれ、育ち、戦い、 地上軍の機甲師団の将兵、すなわで、強烈な仲間意識にささえられて、 ちドイツ軍のエリ 1 トたちがもってい独特の規範をつくりだしていったのでそして減亡していった。 しかし、ドイツ機甲師団は、そのか た、おどろくべき士気についてかんがある。 がやかしい功績とともに、比類なき決 えてみよう。 ドイツ機甲師団の兵士たちは、以心 伝心、テキ。ハキと作戦任務を遂行して戦兵種として、今日なお、不減の栄光 ドイツ機甲軍の将兵たちは、エリー トであるがゆえに、すばらしい力量をいったのであるが、これは、たゆみなにつつまれているのである。 い猛訓練とゆたかな知性からかもしだ 発揮したのであった。

6. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

デリアンはかんがえていた。しかし、 の各部隊 ( 戦車連隊をのぞいて ) に増の機甲師団では、このうえに突撃砲一 このために必要な兵員と資材をどこか強された装甲車両が路外走行性のよい個中隊をもっていた。 らひねりだそうというのであろう ? ものだったので、部隊としての機動力 しかしグーデリアン機甲軍総監は、 ソ連軍は攻撃をつづけ、さらに東方が増加したことである。 戦車連隊を戦車だけで充足させる状態 を攻撃してクリミア半島からドイツ軍偵察大隊は大部分のオートバイをすにもどそうとけんめいに努力していた を駆逐し、さらにポーランドにふかく て、そのかわりに強力な装甲突撃砲をのであった。 突人して、プレストにまでたっしていもっており、攻撃をしながら、敵の状 〃大ドイツ〃 たのである。 態を偵察するのに役だった。実戦では 機甲師団 ドイツ機甲師団はいよいよ、もっと他の部隊にかわって、この偵察大隊が国防軍には、ケタはずれの機甲師団 もきびしい試練に直面しようとしてい戦線を保持しているという状態もしばがあった。マントイフェル将軍の " 大 たのだが、機甲師団自体、その状態をしばあった。 ドイツ″機甲師団である。これは約三 ただしく認識すべき時がきたともいえ 二個の擲弾兵連隊は、兵力の半分が六〇両の戦車 ( 「。ハンテル」戦車二〇 よう。 装甲ハーフト一フック〔前輪はふつう〇両と若干の「ティーゲル」戦車をふ ドイツ機甲師団は発足いらい、戦車のタイヤだが、後部はキャタピラー〕 くむ ) と突撃砲三〇両をもっていた。 、戦力はしだいに減退し、現在ではふつで、のこりはふつうのトラックではこ いうまでもないが、機甲師団は うの陸軍機甲師団ではわずか一〇三両ばれており ( 必要とあれば、戦闘の渦陸軍の機甲師団にくらべると、はるか の戦車を保有するにすぎず、最低の状中に装甲車でとびこむことが可能になによい状態であった。機甲師団の 態になってしまっていた。しかし、こ る ) 、若干の自走榴弾砲ももってい戦力はただでさえおおい編制定数をほ れを補うために増強された面もないわた。 ぼ完全に充足しており、「ティーゲル」 けではなかった。 砲兵も半分は自走化され、半分が自戦車中隊のような支援部隊も、必要に それはよりあたらしい型の戦車によ動車牽引で口径一五〇ミリの中型砲をおうじて配属されるのではなく、正規 って戦闘力が向上したことと、師団内およそ一八門もっていた。そして若干の編制にくみこまれていた。 182

7. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

たが、いっきにトリポリタニアまで侵という最初のカの分散が、ヒトラ 1 にて派遣することにした。その軍団長に 入しそうな情勢になった。こうなってとって避けられぬことになった。 えらばれたのが、フランス戦線で第七 は、イタリアが、独力ではぬけだせな ロンメル、ア機甲師団を指揮して勇名をはせたエル い政治的危機におちいることは、ヒト フリカに登場ウイン・ロンメルであった。 ラ 1 にはよくわかっていた。 ヒトラーは、北アフリカでのイタリ アフリカ軍団は二個師団で編成され ソ連をたたきつぶそうとする大作戦ア軍を支援することに同意して、 " アた。一九四一年二月十四日、まず第五 から、やむなく兵力を割かねばならぬフリカ軍団″とよばれる部隊を編成し軽機甲師団がトリポリに上陸した。 のる この第五軽機甲師団は、初期の機甲 中あ 日て師団にくらべて、軽装備の、いわば一 い暑まわり小型の〃ジュニア機甲師団みで しな あったが、これ以後つくられるドイツ きょ 機甲師団のヒナ形となったのである。 然っ初期の機甲師団は、各三個大隊から の焼なる戦車一一個連隊で、戦車を五〇〇両 リ内以上もっていたが、この軽機甲師団は フ車 ア戦二個大隊からなる戦車一個連隊をもっ だけで、戦車の数も一八〇両にすぎな かった。 第五軽機甲師団につづいて北アフリ 力に上陸した第十五機甲師団も、不完 全な編成のまま戦闘することになっ た。三個大隊編成の戦車一個連隊だけ

8. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

おなじように、砲兵のもっ砲はが精鋭をひっこぬき、ついで機甲師団に競争させたことは、ドイツ陸軍の他 がえらぶ。そのあとは、。ハ一フシ、ートの部門から幹部クラスや兵隊をうばい 数もおおく口径が大きいものであり、 とる結果となり、軍全体からみて、 その一七〇ミリ砲六門は、はげしく動部隊で、最後が歩兵部隊であった。 ランスをうしない、はげしい反動にみ もともと兵員の質が低下しているう きまわる部隊には不適当とさえおもわ え、いちばん後まわしになった歩兵部まわれることはあきらかであった。 れるほどであった。 じっさい、兵員の欠乏になやむよう ドイツの人的隊の補充兵には、精鋭度など無にひと 丿ート部隊の誇りたかい 資源つきるしく、指揮の不手ぎわと戦闘技術未熟になると、エ 1 ドイツ機甲師団に外国人がはいりこん ドイツ陸軍が、あらたに兵員を徴集のため、死傷者は激増していった。 たとえば、ロシア戦線で、最後にスだりしたし、おどろくべきことに、 して配属するばあい、いままでは、機 地上軍でも、このような外国人を受 甲師団が最優先であったが、この序列モレンスクをとおって退却するとき、 ドイツ軍歩兵部隊は、一日に一個大隊けいれざるをえなくなったのである。 がくつがえされた。まず、地上軍 一九四四年をつうじて、戦車の生産 の兵力をうしなったが、これはドイツ は、量と質の両面にわたって向上をつ のきびしい人的資源の状況からみて、 し な づけていた。 回復しえない損失であった。 ッ イ 各種の装甲戦闘車両一万九〇六七両も このため歩兵部隊は、外国人やレベ 将 ルのひくい兵員を補充しなければなら ( 「パンテル」戦車一二九五五両をふく戦 者フなくなり、ますます信頼性をうしな「む ) が生産され、大部分が大な欠陥鋭 に ていった。そして、歩兵部隊の穴うめを改されていた。 は、ドイツ機甲師団が引きうけなけれ「ティーゲル」 2 型戦車に搭載された作 。軍マ 新式の八八ミリ砲と、ぶかっこうな駆物 甲長ばならなくなっていくのである。 機団 ドイツ軍が、いつぼうで、いくつも逐戦車の「ヤークトティーゲル [ に搭 、・ド機のエリート部隊を創設して、おたがい載された一二八ミリ砲は、いずれも当

9. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

して " 機甲〃とよぶのにもふさわしく 戦車の乗員には三つの主な任務ーーー・操るかが証明されるであろう。 三つの機甲ないシロモノであった。かんじんの戦 縦手、砲手、無線手ーー。があり、ドイ 師団を創設車の配備がまだ不完全だったからであ ツ軍の中戦車では、無線手はふつう操 だが一九三五年十月、はじめて機甲る。一九三五年には、新二号戦車がす 縦手あるいは前部射手の仕事もした。 この上に戦車長があり、これはどの三個師団〔第一、第二、第三〕が生まこしずつ配備されはじめたばかりで、 仕事にも熟練し、同時に戦術家であれたときには、戦争はまだとおく、世三号、四号戦車はまだ生産中で、機甲 、指導者でなくてはならない。戦車界中どこの軍隊にも、これほどの機甲師団は、いわば紙上の兵力にひとしか ったのである。 の乗員を理想的な水準にまで仕あげる部隊はなかった。 には、おおくの時間と経費がかかる。 機甲師団の編制は戦車二個連隊、各この紙上の組織はグ 1 デリアン ( 第 そこで一人で三つの任務のうち二つを連隊は戦車一一個大隊よりなり、戦車五二機甲師団を指揮した ) の構想にもと づいたものであった。かれはこの構想 得することもしばしばある。ただ時六一両である。このほか自動車搭載の 間がゆるされないときは、一つだけと歩兵一個旅団、それに強力な自動車牽のなかで、全装甲、全無限軌道〔キャ いうこともあった。 引の野戦砲兵隊と高射砲隊、エ兵をくタピラー〕の機甲師団をかんがえてい 生 一九三九年、第二次世界大戦が勃発わえた完全な諸兵種統合の部隊であったのである。 こ 0 したときのドイツ戦車部隊の将兵の訓 もっともこの構想は大部分が実現し鵈 練度は、多数のものが二つ以上の任務この部隊には重砲兵がふくまれていなかった。というのは、ついに機甲師機 を習得していたが、これは演習や、 ドないが、この役割りはドイツ空軍、と団はぜんぶが無限軌道化されなかった声 ィッ近隣諸国の無血占領をつうじて習くにこの機械化部隊への抵抗を撃破すし、ぜんぶ装甲化されなかったからで の 得したものであって、実戦できたえらるのを主任務として編成された急降下ある。〃装甲。という名にあたいした一 れたものでない。 爆撃隊にまかされたからであった。 のは、戦車と装甲車だけで、その他の ヒ 戦争によってはじめて理論的に訓練ところで、この新機甲師団は、じっ牽引された砲兵も、自動車搭載歩兵も された成果が、どのていどのものであさいのところ″師団〃というのも、ま ( 偵察のためのオート・ハイ部隊をふく幻

10. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

最高司令官〕も、これをマネて、空軍甲師団よりもおおくの戦車をもち ()o 術者のなかには、あまりにもとっぴな のなかに陸上戦闘部隊を編成するまで機甲師団の戦車大隊は戦車五九両を計画をもっているため、じっさいに設 になっていた。 もっていたが、陸軍の機甲師団の戦車計を担当している技術者たちのまとも 機甲師団は、このようなドイツ軍内大隊は四八両しかなかった ) 、しかもなやり方と意見を異にする連中がいた 部の変動の波を、まともにうけてしま最新型の戦車をほぼ完全定数だけ保有が、このなかにはポルシェ博士〔スポ ーッカーのポルシェ、フォルクスワー った。 していたのである。 そのうえ地上軍の指揮官たちゲン、ルノー < などの設計者〕のよ 地上軍も 機甲師団編成は、ヒトラーのムチャな命令にさからうなものもいた。 当初、 (-•ot-o 地上軍は、数個の自動車って行動するときでも、陸軍の指揮官 ポルシェ博士の案は採用されなかっ 化歩兵師団と戦車一個連隊をもっていにくらべて、敢然として任務を遂行でたが、かれは「ティーゲル」重戦車か ら巨大な一八〇トン重戦車までかんが るにすぎなかったが、一九四三年のはきる立場をとることもできた。 じめには、地上軍自体で数個の機このような傾向は、ドイツ軍部の組えていたのである。 またグローテとハッカーの二人は、 甲師団 ( 最初の機甲三個師団は、織を政治的忠誠をもった " 工セ軍部〃 リートでかためようとするヒトラ重量が一〇〇〇トン以上の戦車をつく 地上軍の自動車化歩兵師団と装甲擲弾のエ ーの悲願を具体化したものにほかならるように提案したりした。 兵〔てきだんへい〕師団からっくっ なかった。 ポルシェ博士のような連中は、ヒト た ) を編成するまでにいたった。 ヒトラーのこの意図を拡大していく これらの機甲師団は、機甲 ラー ( かれは技術にたいする関心がっ 軍団として、前章にのべたように、ロ のに、もっともふさわしい試験場は、 よかった ) の歓心をかおうとして、風 がわりな設計をかんがえ、もっと緊急 シア戦線で、マンシュタイン将軍がハ 野戦軍の中核である機甲軍であった。 リコフで反撃に成功したとき、先頭を ヒトラーの歓かつ重要な諸計画に必要な、ドイツの きって戦っていた部隊なのである。 心かう設計家かぎられた資源、開発、生産施設を横 機甲師団は、ふつうの陸軍の機ヒトラ 1 のお気にいりの設計者や技どりしてしまったのである。