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検索対象: ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉
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1. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

線のアラスの戦闘でまなんだ戦訓を、 ここで機甲師団の防御のため、さらに 有利に活用しようというのである。 防御がわにたっという姿勢をとらね つばならなかったのは、第五軽機甲師団 に増援する第十五機甲師団の到着が補 線給資材が不足したためにおくれ、ここ 鏘当分は攻勢に出るみこみがたたなくな ったからである。 帯車 ~. 地戦ともあれ、六月になると、イギリス ~ 岳号 を常、一山三軍が攻撃をしかけようとしていること シすが、あきらかになってきた。 進戦車は、敵軍の姿勢がくずれたときン もどすことにしよう。 トプルク攻撃に失敗したロンメルに使用して、最大の威力を発揮できるル ドイツ機甲部隊の将軍たちのなかは、トプルク攻撃再開のまえに、五攻撃用の武器である。ロンメル将軍は で、ロンメル将軍は英軍戦車と戦った月、まずエジプト国境のハルファャ峠英軍の攻勢に対処するため、エジプト 経験をいちばん豊富にもっている。かの陣地をうばうことにした。何回かの国境のけわしい地形を利用して歩兵部ア れは一九四〇年に、フランスのアラス 小戦闘のすえに、ドイツ軍はハルファ隊を配置し、これを対戦車砲の保護下散 においた。 ャ峠の強力な英軍陣地を奪取した。 の戦場で英軍戦車にひどくやられた。 ロンメル将軍は、ここを確保するた戦車部隊は、はるか後方に配置し、動 そして一九四一年の四月、北アフリカ のリビアのべンガジ付近で英軍に報復めに八八ミリ高射砲を対戦車防御の主ここから国境にむかって攻撃をくわえ したのである。 力として配置した。かれがフランス戦るか、あるいはもしトプルクの守備部 8

2. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

レ の月 国軍 9 ッ ′諸ッ年 ・・′イ 4 キ フ 0 ヤのドイツ軍は、まったく自由にうごに、できるかぎりの損害をあたえて時 慣れるという利点はあったが、反面、 ソ連との戦いで最大限の努力をしなけきまわれることになり、アルバニアで 間をかせ・こうと、死にものぐるいの退 ればならない将兵にとって、このまし戦っているギリシャ軍の背後に殺到し却戦をつづけることしかできなかった こ 0 のである。 くない疲労と兵器の損耗をあたえ、将 いつぼう、ドイツ軍は、一刻も急追 来の不運をまねくことになったのであ 四月十六日までに、ギリシャ軍はぜ んぶ降伏して北部戦線は崩壊してしまの手をゆるめまいと、機甲師団の変幻 ギリシャでい、アリアクモン川の戦線を保持して自在の威力をフルに活用した。 へ ン 防御するには絶好とおもわれる地域 も電撃戦いた英軍部隊は孤立して、南へむかっ カ ドイツ軍にたいするギリシャの抵抗て退却する以外にみちはなくなった。 を駆けぬけて、英軍は敗走した。強力 3 な部隊さえあれば、いつまでももちこ は、ユ 1 ゴのばあいよりは、よく組織オリン。ハス山の斜面やテルモピレー カ されていたが、これとても、さして有で戦ったドイツ軍や英軍の将兵の心にたえられそうな陣地でもどんどんすて 効というほどではなかった。 は、ここが紀元前五世紀、アテネ、スて退却した。しかし、昔、ス。ハルタ王ア し サロニカを防衛しているギリシャ軍 。ハルタがベルシャと戦った古戦場であレオニダスがクセルクセスの。ヘルシャ 散 ることが思いだされたことであろう。 の大軍に抵抗したテルモピレーでは、分 陣地は、東方から攻撃するドイツ軍と、 スコピエにむかってユ 1 ゴ領内を急進そしてベルシャの大軍に打ちゃぶら英軍もふみとどまった。英軍は砲兵と動 してきた機甲部隊との攻撃をうけて、 れた古代ギリシャ軍のように、いまや対戦車砲で、ドイツ軍に大打撃をあた たちまち突破された。また北部ギリシ英軍は、はげしく追撃するドイツ軍えた。ここを強行突破しようとしたド ー / ゞノ〃 サグレプ 4 引 0 日 ュ アンコナ スプリー イタリア

3. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

ドイツ軍指揮官たちは、部隊の先頭にた。短期間で完全な勝利をうるのでな ここでもまた、ロシア戦線における と同様に、ドイツ軍の将兵は、逆境にたって戦場をかけめぐり、勇敢に戦っければ、アフリカ軍団はついに圧倒さ た。戦闘中に第一線でたおれた指揮官れてしまうであろう、ということを、 あっても、勇敢かっ巧妙に戦った。こ かれは知っていたのである。 の敗北にもかかわらず、アフリカ軍団もすくなくなかった。 英軍資材奪取 ロンメル将軍の新攻勢は成功をおさ 将兵の自信や、その指揮官にたいする 作戦ならず めた。一月のおわりまでには、イギリ 信頼はゆるがなかった。 ここでロンメルは、ガザラのイギリ 退却のとちゅう、かれらは追撃するス軍はべンガジを追われ、その前線地 イギリス軍に敢然と反撃をくわえ、そ帯にあったほとんどの部隊は、イタリス軍を撃破し、トプルクを占領し、そ のつど、自軍の何倍もの打撃をあたえア軍の助力をうけないドイツ軍独力のれから長駆、東にむかってエジプトに 突進し、スエズ運河の基地を占領し、 た。そして撤退線までさがると、すぐ攻撃で撃破されてしまった。 北アフリカからイギリスの勢力を永久 攻勢を準備しはじめたのである。 イギリス軍主力は壊走し、トプルク ロンメルの再にある前線基地を援護する、ガザラのに駆逐しようという計画をたてた。 一九四二年五月二十六日、ロンメル 攻撃は大成功陣地にむかって退却したのである。 明けて一九四二年の一月下旬には、 ロンメル将軍の考えは、砂漠の戦闘将軍は攻勢を開始した。イギリス軍機団 アフリカ軍団は、ふたたび東に進撃をは、これまでのように、ながくつづけ甲部隊はまえにくらべて強力でもないル 開始したが、このとき戦車と対戦車砲ていくことはできない、アフリカ軍団し、指揮もすぐれていないと判断したメ ロンメルは、機甲師団の先制攻撃をも口 との協同作戦は、かってみられなかっ があげていた局部的な成功は、ただイ け たほど、みごとなものであった。 ギリス軍の回復をおくらせているだけって大・ハクチにでたのである。 ロンメルは、英軍が海岸からビルハを このドイツ軍の攻勢が大成功をおさである、というものだった。 めたのは、あらたな局面にたいし、機ロンメルは、アメリカやイギリス本ケイムまで、歩兵の陣地帯と地雷原と砂 甲部隊がその能力をぞんぶんに発揮し土からアフリカにおくりこまれていをまぜあわせた陣地をつくっているの たからである。ロンメル将軍をはじめる、大量の軍需資材のことを知っていを知って、機甲師団を英軍陣地帯の南

4. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

ドイツ軍の 戦運傾く それはイギリス軍の新司令官モント ゴメリー将軍が、攻撃されると判断し た重要な陣地を堅固にかためていたか らだけでなく、ドイツ・イタリア軍に は、長期の作戦にたえる燃料貯蔵がな かったからであった。 かくれていた英軍の戦車と対戦車砲 が、事前に配備した方向に前進してく るドイツ軍の攻撃をことごとく撃退し た。上空からは英空軍が、ドイツ軍の 補給線に爆弾の雨をあびせかける。一 週間もたたないうちにドイツ軍はもと の陣地におしもどされてしまった。 北アフリカでドイツ軍の戦運がかた むきはじめた影響は、ロシア戦線でお こっていること ( それはもっとあとだ が ) との関連で考えるばあい、はかり しれないほど大きい。ロンメルは、は じめて、そしてたちまちのうちに敗北 した。過度にのびきった補給線の先端を

5. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

の五〇ミリ砲が装備されることになに、かすかな不安をあたえた。そしても勢力をのばそうと、九月イタリアの り、それと同時に三号と四号の双方のドイツ空軍が・ハトル・オプ・プリテン 北アフリカ植民地からエジプトの西方 装甲をあっくすることになった。 〔英本土航空決戦〕とよばれた大空襲砂漠地区に侵入 ( これは国境をこえて あたらしい中型戦車と重戦車の研究戦で、ついに英空軍兵力を撃滅できなすぐ、英軍に阻止された ) 、十一月に は、それぞれ一九三七年と三九年に開かったことは、イギリス本土に侵攻すは、アル・ハニアからギリシャにむかっ て侵入したのである。 始されてはいたが、使用中の戦車にかる計画を放棄する結果となった。 わる、より強力な戦車を設計すること このころヒトラーは、すでにソ連へ イタリア軍 の攻撃失敗 は、あまり急ピッチではすすめられての攻撃をひそかに決意していた。ヒト いなかった。 ラーは、ドイツ軍が大機甲部隊を先鋒このイタリア軍のギリシャ侵入は、 しかし、この間に、装甲ハーフトラとして、ただ一回の電撃戦でソ連軍をたちまち大失敗におわった。ギリシャ ック式の歩兵搭載車が優先的に生産さ壊滅できると確信していたのである。軍の反撃でイタリア軍はアル・ハニアに れ、歩兵連隊は戦車とともに行動でき この目的のため、一九四〇年から四敗走し、追撃してきたギリシャ軍をく へ るようになった。また道路の外を自由一年にかけての冬に、ドイツ国防軍はいとめるのに精いつばいというありさン ル に走行できる能力をもつ自動車両の数再編成され、ドイツの政治的、軍事的まになってしまった。 は増加したが、補給部隊は無限軌道車触手は南部ョ 1 ロツ。ハと・ハルカンにむ エジプトでは十二月はじめ、弱体の カ ではなくて、ふつうのトラックを使用かってのびていった。・ハルカンこそは英軍が攻勢にでて、イタリアの大軍を していたので、道路がなければ行動で 「ドイツの対ソ作戦の第一歩」として完全に撃滅し、これに乗じて猛進撃をア し きないという難点はのこっていた。 ウクライナに侵入する南方からの攻勢つづけ、二月のはじめまでにはキレナ イギリス断念の重要な発起点なのである。 イカ〔イタリア植民地〕全域を占領分 しソ連侵攻へ ところが、このヒトラーの大計画にし、イタリア軍の主力を捕虜にしてし動 一九四〇年、イギリスが手をあげなとって、つごうのわるいことがおこつまった。 かったことは、勝ちほこったドイツた。イタリアのムソリ 1 ニがイタリア そして英軍機甲部隊は少数ではあっ

6. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

方のドイツ砲兵陣地の線までおしかえとよんで、ルーデンドルフ将軍は、ウをそそ・こうとするドイツ人の動きに拍 してしまったのである。 イルヘルム皇帝に戦争終結を訴えたの車をかけ、軍事的には、ドイツ国軍の 第一次大戦でドイツである。そして三カ月後にはドイツは名誉を回復しようとする軍人の願望に を降伏させた英戦車やぶれたのであった。 拍車をかける結果となった。 しかし八月八日朝の英軍戦車の集団 こうして、欧州きっての軍国主義国敗戦後ドイツ国内では、政治的には 攻撃をうけるまでは、ルーデンドルフ家ドイツは、ベルサイユ平和条約によ急進的な指導者を、軍事的には強力な 将軍は戦車の威力を重視せず、みずか って、一〇万人以上の軍隊、軍用機や兵器をもとめる動きが大きくあらわれ らの戦法としては、砲兵の集中射撃に戦車のような攻撃的兵器をもっことをるようになった。 より敵陣に突破口をつくり、そこから禁止されてしまった。 恨みの戦車に 研究うちこむ 歩兵が敵陣内部に浸透するという戦術これら二つの兵器は、五年ほどまえ をとっていたのである。 に、はじめて戦場に姿をあらわした新 ドイツの軍事専門家たちは、ドイツ この戦法が、それまでおおくのばあ兵器であったが、このときの平和条約軍が第一次大戦の戦闘でやぶれた主な い成功してきたという実績が、ルーデでは重要な眼目になっていた。 原因は戦車であるとかんがえていたか ンドルフ将軍の判断の正しさを立証す これは飛行機と戦車が第二次大戦でら、時きたらば、一挙に敵を撃滅する るかのようにおもわれた。 はたした大きな役割りをかんがえる兵器として、戦車に着目したのは当然 ところが、八月八日の英軍戦車の攻と、先見の明があったというべきであといえるだろう。 撃は、この自信を根底からひっくりか り、またこれらの兵器にたいする厳重この思想は、まもなくドイツ軍部の えしたのである。このショックは、ドな制限が、ドイツ国民の心のなかに、 一隅で現実のものとなっていったが、 ィッ軍兵士の戦意をくじき、ひいてはつよい怒りをまきおこしたともいえる かれらには戦車がなかったし、また、 戦闘を継続することが困難になるほどであろう。 もっことも禁じられていた。じっさい の影響をおよぼした。 ベルサイユ条約は、政治的には、領のところ、ドイツ陸軍は本質的に足と 八月八日を″ドイツ陸軍暗黒の日〃 土と民族の誇りをふみにじられ、恥辱馬の軍隊で、自動車さえ満足にそなえ

7. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

ドイツ軍は、戦場でえられるものはを開始し、三方面から機甲部隊をもっ戦車のすべてを破壊できた ) 部隊をも 自軍のものはもちろん、英軍のものでて、ひろく砂漠を迂回してトプルクにつているだけだったが、戦術配備はみ ごとであった。 あろうと、イタリア軍のものであろうむかって前進を開始した。 と、すべてひろいあつめて活用した。 この進撃はロンメル将軍にとっては 英戦車部隊 トプルク意外であった。ロンメルはこれよりさ を各個破 ここでおこった砂漠での装甲と火砲 の争奪戦き、九月に第一一十一機甲師団をひきい の戦いでは、ドイツ軍がリ 1 ドした。 さて、一九四一年から四二年にアフてエジプトの英軍陣地を襲撃したが、 イギリス軍が攻勢の準備をしている兆 もっとも戦車の数では、イギリス軍が リカで戦った将兵の最大の関心事は、 はるかにおおく、ドイツ・イタリア軍 孤立したトプルク要塞が健在かいなか候を発見できなかったからである。 であった。イギリス軍は、ここの守備イギリス軍が攻勢にでたとき、ロン戦車合計五六九両にたいして七五六両 隊を救いだして、同時にドイツ・イタ メルはトプルクへの攻撃を開始しよう ( 予備はさらにおおい ) をもっていた。 リア軍を撃破したいとかんがえていたとしているところだった。ロンメルの しかし、イギリス軍が、戦車を分散 し、ロンメル将軍は、エジプトでの英機甲二個師団はトプルク港の東方に集してつかったのにたいして、ドイツ・ 軍との戦いに決着をつける前提とし結されており、もしイギリス軍が、包イタリア軍は戦車を集結して戦い、大団 て、トプルクの奪取をねらっていた。囲されているトプルク救援のために工事なときに、一度ならず、全機甲師団ル メ ドイツ軍もイギリス軍も、それぞれジプトからとびだしてくれば、これにをあつめ、アフリカ軍団の全戦力を戦 ロ 闘に投入した。 の計画を実行にうっすために、なんと対抗できる熊勢にあった。 る トプルクの南方シジレゼグ付近で、け ドイツ軍の戦力で、六月の戦闘のと かして先手をとろうと争っていた。両 軍とも一九四一年十一月の後半には戦きにくらべてまさっているものといえ一週間にわたってはげしい撃ちあいとを 闘準備をおえていた。 ば、わずかに戦場で臨時につくりあげ極度に複雑な機動戦がつづいた。この砂 た長砲身の五〇ミリ対戦車砲 ( これは戦闘で、ロンメル将軍のアフリカ軍団 先手をとったのはイギリス軍で、 ″クルセ 1 ダー〃〔十字軍騎士〕作戦「マチルダ」戦車をふくむイギリス軍は、分進してきたイギリス軍戦車旅団

8. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

隊が攻撃する英軍にくわわろうと出撃 するならば、トプルクにむかって攻撃 もくわえうるという態勢をとった。こ れは防御における機甲部隊の正統的な 使用法である。 六月十五日、イギリス軍はハルファ ャ峠に正面から攻撃を開始した。英軍 高速中戦車部隊は、この砂漠の陣地の 側面を迂回して攻撃をかけてきた。 ドイツ軍の八八ミリ砲は、ハルファ ャ峠への攻撃を完全に粉砕し、内陸を 迂回攻撃する戦車をくいとめた。機を いっせず、ロンメル将軍は戦車部隊を 投入した。英軍戦車が、ドイツ軍の対 戦車砲の射撃で混乱しているちょうど 獲車 そのとき、これを撃破しようとしたの捕戦 である。 ドイツ軍の軍チ ミリ砲活躍 ア軍 ところがイギリス軍は動揺していな かった。ドイツ軍のほうが苦しい立場ッた イれ にたたされることになった。イギリスドさ

9. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

く、たんなる戦車のよせあつめにすぎには、ものの数ではなかったであろう。 なかった。 モントゴメリー将軍指揮の英米連合 東西から たとえば、。ハットン将軍の米第三軍軍は、三月二十四日、ライン川をわた ベルリンへ が、オッペンハイムでライン川を渡河り北ドイツ平原にむかった。 東部戦線では、ソ連軍の大機甲部隊 したという知らせをうけたとき、ヒト この圧倒的な兵力の連合軍を阻止すがベルリンにむけて最後の突撃をはじ ラ 1 は、そこに派遣できる戦車連隊はるための機甲師団はすでになく、・ハ ラめ、四月十六日、オ 1 デル川を突破し ないかとたずねたが、ヒトラ 1 への答 ・ハラになったドイツ軍のよせあつめ部た。四月二十一日、ソ連軍はベルリン えは「戦車は、みな他の戦線につぎこ隊しかなかった。かれらの一部は最後郊外にたっした。 まれており、一両日中に、五両の駆逐まで戦ったが、大部分は降伏の道をえ 北上する米英軍はエルべ川にたっし 『ティ 1 ゲル』戦車が工場からとどくらんだ。 て、そこでソ連軍と手をにぎり、ドイ かもしれない」というものだった。 工業の中心地であり、ドイツ機甲師ツ軍を分断しようとしていた。 このなけなしの五両の戦車は、レマ団のためにおおくの装備を生んだル 1 連合軍にのこされているのは、掃寸 1 ゲンにおくられる予定になっていたル地方は、連合軍によってアッという戦だけであった。 のであるが、たとえ戦線に投人されたまに包囲されたが、ドイツ軍はなんら ドイツ機甲師団の戦いはおわったの としても、巨大な連合軍の兵力のまえなすところなく、ルールを見すてざるである。 をえなかった。 1 三ロ

10. ドイツ機甲師団 〈電撃戦の立役者〉

生 一九一八年八月八日、アミアン〔第半永久的な陣地が、かんたんに突破さでのイギリス軍の攻勢のときにも戦車恥 が活躍したし、一九一八年三月から七甲 一次大戦の戦場、。ハリの北一〇〇キれたというだけのものではなかった。 ロ〕付近で、朝もやをついてあらわれこの戦車攻撃は、ドイツ軍統帥部にあ月まで、ル 1 デンドルフ将軍〔ドイツで 陸軍参謀総長〕が指揮したドイツ軍最一 とあとまで深刻な影響をおよぼした。 た英軍戦車四二〇両は、たちまちドイ イギリス軍の戦車が、ドイツ軍の歩後の大攻勢のときにも、英軍戦車がし一 ツ軍陣地をふみにじり、アッというま 兵戦力を撃破したのは、これがはじめばしばドイツ軍に有効な反撃をくわえ に戦線を突破してしまった。 ヒ この戦闘の、ドイツ軍にあたえたシてではなかった。この前年、一九一七ている。このとき英軍戦車は、ドイツ ョックは大きく、たんに要塞化された年十一月、カンプレ〔アミアン東方〕歩兵の攻撃を撃破し、これをはるか後 ヒトラーの一声で機甲軍誕生