とをしても、ドイツが虐殺をやめるはであった。 った。この二人の暗殺犯とおなじ名前 ずはない これはチュルダの行動にすなわち、チェコ人を恐怖のどん底の者は、親戚であるなしにかかわりな こうち といって、 、全員拘置された。一九四一一年十月 にたたきおとし、屈服させるために、 よっても実証されたが この空想的な計画を中止させたのであ暗殺事件に直接関係していなかったに二十三日、同名の約二五〇人は、貨車 った。 もかかわらず、村全体が責任をとらさにつめこまれて、マウトハウゼン絶滅 収容所におくられ、ひとりのこらずガ そしてオ。ハ 1 ルカ少尉がいったとおれたのであった。 ス室で殺害された。 りに、また賠殺犯人がドイツ法廷のさ ドイツ側はまた、ポヘミア南部のべ ばきをうけることなく自決したことも ルナルティッ工村の破壊も、計画して ところが奇妙なことに、ガプチィー クという名前の人びとは、逮捕された あって、ドイツの報復行為は、いぜんいた。この村は、数人の工作員が〃か としてつづけられた。 くれ家〃にしていたが、そのうち二人り根絶されることはなかった。という 六月二十四日、ポヘミア東部のレジがっかまって処刑され、村民二人も処のは、ガプチィークはスロ・ハキア人 で、スロ・ハキアは、国内でゲシュタポ ヤキ 1 村が包囲され、破壊された。公刑された。 犯人と同名のが勝手な行動をとるのに反対したから 式発表は、つぎのとおりであった。 「すべての成年男子は射殺され、村は 者まで殺害である。 また、はっきりした理由はわからな 完全に破壊された。三四人の村民は、 暗殺事件の生んだ悲劇の終着駅は、 いが、ベルナルティッ工村の破壊計画 ハイドリヒ暗殺事件に関係した特殊工そのあとにやってきた。 後 最 ゲシュタポは、いまやすべての特殊も実行されなかった。 作員の手さきをかくまっていた : おそらくドイツ人は、このような報員 の村の責任者であったチェコ警官は、 工作員の家族を、根こそぎ逮捕しはじ 乍 たんなるアクセサリ 1 にすぎなかっためたのである。クビシュと・ハルチィー復のテロ行動は、あまり役にたたず、コ しんせき ことが判明し、自殺した」 クの親戚は、すべて逮捕され、テレジかえってチコ人に、死ぬまで抵抗す特 る決意をかためさせる結果をもたらす この事件は、リディッ工村事件よりンの強制収容所におくられた。 小規模であったが、その目的はおなじ ゲシュタポは、あくまで徹底的であことを、さとったためであろう。
ハイドリヒ暗殺犯人を執拗に追いつづ ける、ドイツ側の徹底的な捜査と、狂 気としか考えられないような大量報復 虐殺行為は、しだいにチェコに潜入し た特殊工作員をしめあげていった : 母 のもとに身をかくしていた、アウト・ ディスタンス洋の工作員 K ・チュルダ がまず、心理的負担に耐えきれす、同 志を裏切り、ゲシュタボに寝がえった のものに関係したすべてのドイツ人おもわれる。 は、「この村が、敵の破壊工作にたずあるいはチェコ人に、ユダヤ人と同 さわる特殊工作員や諜報員の巣になっ様な″最終的解決〃〔人種皆殺し政策〕を ており、したがってヒトラーがみせし適用しようとさえしていたのかもしれ ない。 めのためにこの決定をくだしたもの、 工作員のひ と信じていた」と、戦後になって主張 した。 とりが密告 しかし、その後おこなわれた追求に さて、リディッ工村の惨劇がおこな よって、暗殺犯人ははげしい銃撃戦でわれていたころ、皮肉にも暗殺事件の 死んだことがあきらかになっている。大づめがちかづいていた。 一九四一一年六月十四日、ベネショフ また特殊工作員が、リディッ工村の 住所をメモしていたことをべつにすれのチェコ警察署に、・チュルダとい う男から、一通の手紙がとどいた。チ ば、彼らはだれひとりとして、この村 を″かくれ家″として利用したことはユルダは、特殊工作班″アウト・ディ なかったのである。 スタンス〃の一員で、ポヘミア南部に かくれていた。 ところが、リディッ工村は破壊さ 後 ハイドリヒ暗殺犯人にたいするきび最 れ、村民はまったく無意味に虐殺され こ 0 しい追求をうけて、彼の士気はくじけ員 したがって、リディッ工村の虐殺はじめた。というのは、彼は自分の母工 は、チ = コ人を恐怖におののかせて屈親の家に身をかくしていたからであ特 服させるという、ドイツの念いりな計る。 おそるべき罰が、リディッ工村にく新 画の一部として、おこなわれたように
らつけた。 「一九四一一年六月十日、ナチ政府はリ 一九四二年十月に、リディッ工村の ディッ工の虐殺を発表した。破壊され ドイツ人がのぞんでいたように消え模型が、ニューヨ 1 ク市立博物館で公 たのは、小さな村だけではなく、殺害去るのではなく、リディッ工はふたた開され、コロンビア大学の建築家たち された男や、収容所に消えた婦人、子び生きかえったのだ。 は、戦後にあたらしいリディッ工村を 供たちもふくまれていた。リディッ工 五大湖ちかくの緑の谷や、ミシシッ再建する計画をねりはじめた。 まっさっ は、永久に抹殺されてはならない : ピ 1 河畔のリディッ工という名前の町命名運動は、中南米にもひろがって わが国の小さな自治体のすぐれた市民は、われわれに、忘れることのできないった。メキシコでは、サン・ヘェロ たちは、リディッ工の名前を、みずかい悲劇をおもいおこさせる : : : 」 ニモがリディッ工となった。ベネズエ 新リディッ工村の建設計画を検討する、コロンビア大学の建築家たち 32
・物《第を、気ツい 抹殺された村 : リディッェ村のあらゆる 痕跡を消すため、あたらしい道路を建設 し、小川の流れをかえ、ヒッジの放牧場 をつくり、ほとんどが原野にされた 151
プラハのゲシュタポ地方本部長ホルスト・ ーム【フランク国務相は、リディッ工村破壊 命令をベームからうけとった、と主張した をわたすことを約束した。 あった。彼は、いつも自転車でやって 8 さっそく彼は、部下のシュマハをつきたが、それにはクラドノにあるプラ れて自動車でクラドノにゆき、ただちハ鉄工所の登録番号がついていた。 に捜査が開始された。 その青年は一度、彼女にリディッ工 しんせき 差出人が村に友達か親戚がいるか、とたずねた 犯人か ? ことがあった。彼女が友達がいるとこ クラドノのゲシュタポ副支部長 e ・ たえると、彼はその村に住んでいるホ ん トムセンは、その手紙をドイツ語に翻ラーク家の家族、とくに息子のヨセフ やく 訳させ、それから彼女の自宅を捜索しによろしくとったえてくれ、とたのん て逮捕するために、通訳と警官を、リ このことから、マルスチアーコ・ ディッ工村からあまりはなれていない ポロウス村に派遣した。 は、その青年がヨセフ・ホラーク自身 家宅捜査の結果、なにも発見できななのではないか、とかんがえをはたら かったが、マルスチアーコ・ハは逮捕さかせた。そして彼は、一九三九年にイ れ、クラドノにつれてこられた。 ギリスにのがれているので、彼は。ハラ ここで、ゲシ = タボの支部長ビーズシ = ートで降下した連中で、暗殺犯人 マン、副支部長トムセン、通訳フェクのひとりであるかもしれない、とのべ じんもん ルが、彼女を訊問した。だが、彼女のた。 話の内容ははっきりしていて、あやし この供述は、あまりにもすなおだっ いところはなかった。 たので、ふつうならどこかにおかしな あまり以前ではないが、彼女はひと点を発見したにちがいない、うたがい りの青年と知りあい、その後彼と数回ぶかいゲシュタポをも信じさせること 0 0
はじめたのは、かなりあとになってか ラの首都カラカスの郊外にも、リディ界にしめしたものだからである。 ツェの名があらわれた。 七月六日に、チェコスロ・ハキアに放らであった。 ・ハのハ・ハナでは、広場のひと送されたソ連側の説明は、歴史的な想 ( ソ連はまた、村の名前を最初、あやま ってリビッ工とつづっていたのを訂正し つを、リディッ工広場と名前をかえ像力でつくられたもので、その英雄的 た ) た。。ヘルしのカヤオ、エクアドルのキな犠牲を、イギリスにいるチェコ亡命 ト、チリのビノ・デ・マール、ウルグ者のドイツにたいする闘争と、むすび 一九四四年、ソ連の作家ィリヤ・エ アイのモンテビデオでも、そうであっ つけようとはしなかった。 ーレンベルグは、ソ連の反応がなぜそ しかしながら、ソ連軍に参加していんなにおくれたかを、つぎのように説 たチェコ人も、スロ・ハキア人も、すぐ明した。 一九四五年五月、米国議会は、トル 「われわれの国では、リディッ工村の ーマン大統領に、六月十日を「リディにこの悲劇に心をうごかされた。「ス ツェの日」とする権限をあたえる決議ポポダ」部隊をひきいて戦っていたスような事件は、何千となくあった : ポポダ将軍は、この野蛮な行為にたいといって、リディッ工村の名前が全世 案を可決した。 界に知られるようになったのは、けっ おそからたソする抗議とよびかけを開始した。 連の抗議運動チェコスロ・ハキア人は、募金をはじして偶然ではない・ いつぼうソ連では、リディッ工の悲めたが、それは戦後にリディッ工村を平和的な国民チェコ人は、いまやド 劇的なニュ 1 スが報道されたのはおそ再建するためではなかった。その募金ィッ人に包囲されており、敵をよわめ かった。 で、二台の戦車が購人され、一台にはる戦いで、毎日死に直面している : 政治的には、このニュースは歓迎さ「リディッェ」、もう一台にはリデイしかし、こんにちチェコスロ・ハキア れなかった。なぜなら、それはチェコ ツ工とおなじ運命をたどった村「レジは、そうとおい場所でなくなった : 自由はちかづいてきている : : : それと ヤキー」の名がつけられた。 人が、イギリスにある″プルジョア〃 ソ連が、この名前のもっ象徴的な価ともに、リディッ工村の復讐のとき 民族運動とその指導のもとに、どんな 犠牲でもはらう用意があることを、世値に気づき、それをもりあげようとしも、ちかづきつつある」
けい ナイフで頸動脈を切ったが死にきれ工村をはなれて、クラドノとプラハに また森にかくれた二人の男は、二日 ず、ドイツ兵にひきたてられて、地下かえった。 後、飢えのため、チェコ人の森林監視 室か、果樹園で射殺された。 こうして最初の仕事は実行され、男人に、食物をもってきてくれるように シュテムペルク神父が、いっ処刑さ たちは殺され、家は焼かれたのだっ たのんだ。彼らは森林監視人を信用し れたかはあきらかではないが、おそらた。 て、自分の食糧配給切符をわたした。 く最後の組で死んだものとおもわれ ただ、この破壊された村にはいって だが彼らが、おたずね者のリディッ くる者を阻止するため、虐殺と破壊のエ村の住民である、とさっした森林監 一九四二年六月十日の午前中に、一現場の周辺に、警備兵がのこされた。視人は、なんでももってきてやると約 七三人の男が、ホラーク家の農園の果 行方不明者も束して家にかえるやいなや、ゲシュタ 樹園で銃殺された。正午には、衣服は 密告され処刑ボに通報したのである。 血にまみれ、頭を撃ちぬかれ、内臓の しかしリディッ工村の外側で、ドイ さっそくチェコ警察隊が森狩りを命 はみだした死体が、一〇人一組で一七ッ部隊は、ゆくえ不明になっている男じられ、逃げていた二人の男を逮捕し 列にもなって、地上に横たわっていたちの捜索をつづけ、また婦人や子供た。この二人の男も、プラハに連行さ ( 0 にたいして、非情なとりあっかいをおれて処刑されてしまった。 銃殺がおわると、死体から金の指輸こなっていた。 皮肉にも、ホラ 1 クとステジイプル 殺 と金歯がぬきとられた。 クラドノの鉄工所にもどっていった ニ 1 の家族は、その故郷のリディッ工虐 この仕事がおわると、銃殺隊員は、九人の男は、すぐゆくえをつきとめら村で死んだのではなかった。 シュナップスをあびるように飲み、 れた。工場で待っていたドイツ兵が、 彼らはプラハで、しかも正当な形式復 でんぐでんに酔っぱらった。彼らの神彼らを逮捕して、クラドノのゲシ = タをふんで処刑された。すなわち、彼らの 経は消耗しきっており、おおくの者ポ支部に連行してきた。彼らは、プラは軍事法廷で死刑の宣告をうけ、そしナ は、村の外につれてゆかれた。ゲシュ ハで、ホラ 1 クやステジイプルニ 1 のてその刑が、ただちに執行されたので あった。 タポや保安警察の大多数も、リディッ家族たちといっしょに処刑された。
ときざみこめ ! ン・トレント〔イングランド中西部の炭鉱に、一般の人びとの反応もよかった。 おまえたちがどこにいようとも、最と陶器で有名な都市〕で抗議集会をひら基金のための募金をあつめる委員会 後の審判の日は、一日ずっちかづきっき、その地方出身の下院議員・ハ 1 ネッ が、世界中に設置された。同時に、戦 ふくしゅう つある。毎晩ひびく偉大な復讐者の足 ト・ストロス博士が司会をつとめた。後リディッ工村を再建する計画を準備 音は、ますますはっきりと、おまえた ベネシュ大統領はじめ、ベルギ 1 するために、建築家と顧間からなる委 ちの耳にきこえるようになる。おまえオランダ、フランス、ユーゴスラビ員会もっくられた。 たちは、逃げかくれすることはできなア、ノルウェー、ポーランド、ギリシ このキャンペーンは、一九四二年十 い : : : イギリスのこの声に注意せよ ! ヤなどの各国首相が、この集会に出席月に開始され、あらゆる階層から支持 をうけた。 われわれは、婦人や子供たちが、リした。 ディッ工村の犠牲者とおなじ運命にお また英連邦諸国の高等弁務官や、アすべての寄付金は、よろこんでうけ とられたが、 ちいるのをふせぐための戦いで、手をメリカおよびソ連大使も出席したが、 炭鉱夫たちが先頭にたっ やばん こまねいているつもりはない : : : われそれはこれらの政府が、ドイツの野蛮てはたらきかけることが、いつも強調 けいべっ われは軽蔑すべき保護領の道具ではなな行為を非難していることをしめした された。そして世界中の炭鉱夫組合か い・ : いずれにせよ、おまえたちを打ものであった。 らの募金が、もっともおおかった。 ちのめしてやる ! 」 そのあと組合は、ひじように具体的ある意味で、「リディッ工村を生き 英炭鉱夫労組なことばで、同情をあらわした決議案かえらせよう」運動は、炭鉱夫同士の 抗議運動開始を採択するとともに、「リディッ工村国際的連帯をしめすものともなった。 リディッ工村は、多数の炭鉱夫が住を生きかえらせよう」という運動のた ロンドンでおこなわれた式典で、全 んでいた小さな村だったので、イギリめに、一〇〇万ポンドの基金を設置す英炭鉱夫労組書記長・・ジョ 1 ン おんど ることを提案した。 スの炭鉱夫労働組合が抗議の音頭をと ズは「この運動の目的は、ドイツの野 ったのは、当然であった。 この提案は、大きな成果をあげた・。蛮な行動が、けっして勝利をおさめな この組合は、ただちにストーク・オ悲劇の衝撃がなまなましかったためいことを、世界にしめすことである」 180
はじめに つ 3 4 5 6 7 大虐殺 / 目次 リディッェ村の悲劇 S ・ L ・メイヤー チェコスロノヾキアの崩壊 潜入する特殊工作員 ハイドリヒの暗殺 ナチの報復ーー大虐殺 リディッェ村孑殳計画 特殊工イ乍員の最後 世界的反響をまきおこす 6 3 イ 62 96 ー 24 1 52 168
この日〔一九四二年六月十日〕の午後、ユックの強制収容所におくられた。一につれてゆかれ、出産後ただちに赤ん クラドノでは、ゲシュタポ〔秘密国家警歳にならない赤ん坊をだいていた七人坊からひきはなされて、ラーヘンスプ 察〕の隊員たちが、リディッ工村の婦の婦人は、まずテレジンの収容所におリュック収容所へおくられた。 婦人の登録とよりわけには、丸二日 人と子供を小学校にあつめて、登録をくられ、そのあとラーヘンスプリュッ 日かかった。 していた。 クの強制収容所にうっされた。 にんしん このあいだ中、婦人も子供も、村で また妊娠していた四人の婦人ーーーそ 報復行為は婦人 や子供にも及ぶ のなかのひとりは、赤ラ 1 ク空軍少尉なにがおこったのかを知らず、またこ 一八五人の婦人が、ラ 1 ヘンスプリの妹であったがーーは、プラハの病院れから自分たちに、どんな運命がまち リディッ工村抹殺計画