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検索対象: 大虐殺 リディツェ村の惨劇
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1. 大虐殺 リディツェ村の惨劇

らク リディッ工村に似た事件がおきていた っラ ので、他国の事件を気にかけなかった をク のは、たしかであった。 軍あ けつきよく、ソ連とソ連に亡命中の ッえ イ惓 チェコスロ・ハキア共産党は、リディッ ドて 工村事件は非共産党チェコスロ・ハキア 人〔ベネシ、一派〕によるおそるべき政 治的誤算の結果である、と確信した。 ソ連国内での、またソ連共産党によ るリディッ工村の追悼式は、戦後、そ れもチェコスロ・ハキアが共産党の支配 下にはいったあとになって、おこなわ れたのであった。 亡命政府、連 合国側を宣言 ハイドリヒ暗殺とリディッ工村破壊 の結果、チェコスロ・ハキア亡命政府の 立場は、国際的にきわめて有利になっ リディッ工村の破壊は、全世界の見 ているまえで、公然とおこなわれたナ 192

2. 大虐殺 リディツェ村の惨劇

じひ チェコ人に、なんの慈悲もしめさず、 これら二つの抵抗運動の組織の指導 一九四二年までは、ドイツにたいす 彼らは全員殺害された。 者は、大量処刑され、下部の連中は強る抵抗運動から生じたチェコの損失 共産党中央委員会が再建されたの制収容所におくられた。 は、比較的すくなかった。しかし戦争 は、一九四四年も後半になってからで 非共産党員の抵抗運動は、一九四三終了までに、チェコは二五万人にのぼ あった。しかし共産党も、他の非共産年末から四四年にかけて、おそるおそる損害をうけたのである。 党員と同様の不運にあわなければならる組織をたてなおしはじめたが、その 七万五〇〇〇人のチェコ人が、ドイ なかった。一九四五年三月に、ドイツ活動は、とうてい一九四二年以前のよ ッ側に処刑され ( このうち共産党員は三 ちょうえき 側の手によって、おおくの共産党員が うな規模にはたっしなかった。 六四九人 ) 、一一一万七八一六人が懲役や きんこ 逮捕され、殺害された。 じじつ、抵抗運動はその損失から回禁錮の結果、不具者となった。 生きのこった少数の共産党員のなか復せず、ドイツにたいする国民の抵抗 チェコ人にたいするドイツ人のテロ に、一九四五年五月のプラハの武装蜂活動における全般的な指導力をうしな、は、ギリギリの最後の日まで、やむこ った。 起で、積極的に活躍した・スムルコ とはなかった。退却するドイツ軍と TJ フスキーがいたが、彼は、一九六八年戦争末期の数カ月間、抵抗運動は、 部隊は、おおくの残虐行為をおかし のチェコ自由化の運動で、先頭にたっ左翼の指導する。ハルチザン・グル 1 プていったのだった。 た英雄である。 によって活発化したが、その政治的、 最後に、つれさられたリディッ工村 残虐行為、終軍事的重要性は、かぎられたものでしの二〇三人の婦人のうち、戦後″故 かなかった。 戦までつづく 郷〃にかえることができたのは、わず オプラーナ・ナローグ チェコの国民防衛組織と「ベルニ・ ドイツとチェコは、はじめ約三年間か一四三人にすぎなかった。またつれ ズスタネメ」は、ハイドリヒ暗殺事件は平和共存的関係をつづけていたが、 さられた一〇四人の子供のうち、チェ がおこるまえに発見されたが、容赦な ハイドリヒ暗殺は、チェコを大きくひコスロ・ハキアに帰還できたのは、わず きさいた。 く根絶された。 か一六人にすぎなかった :

3. 大虐殺 リディツェ村の惨劇

主権はナチ第三帝国の手にあった : フ ランク国務相に閣議の報告をおこなう 現地チェコ政府閣僚 部門をつくった。またベネシュ亡命政 ドイツ占領がはじまってから二カ月 府と、やがては政治同盟をむすぶこと 間に、ゲシュタポ〔秘密国家警察〕の手 になるとかんがえても、まちがいではで逮捕された四六三九人のチェコ人の なかったであろう。 大部分は、共産党員であった。 運動に油をそそ世界大戦がはじまり、ゲシュタポが いだ大戦の勃発チェコの諜報連絡をかぎつけて、約九 ドイツの迫害のほこさきは、まず、三〇〇人のチェコ人が逮捕されたが、 非合法化されたチェコ共産党にたいし彼らは主として、西ヨーロツ。ハ側と連 てむけられた。 絡をとっていたといううたがいをもた れた陸軍将校、知識人、学生などであ しかし、血なまぐさい迫害の第一波 は、ある意味では、ドイツ側にやむを えずとらせた処置であった。 チェコの政治的地下運動は、大戦の つばっ まひ 勃発によって、麻痺状態からぬけだ 、し、生気をとりもどしはじめていたの である。 奇妙なことだが、チェコ人は武装を ととのえていたものの、ドイツにたい して孤立していたときは、なにもしな かった。しかし武装を解除され、無防

4. 大虐殺 リディツェ村の惨劇

プラハ市内てゲシュタボに摘発された、非合法な 共産党印刷所を視察するフランク国務相 ( 中央 )

5. 大虐殺 リディツェ村の惨劇

にのべたように、もはや " 存在しなく なった〃のである。 そして、戦後再興したチェコスロバ キアは、またもや、外部勢力の影響下 にひきいれられた。こんどは一九四八 年、ソ連が威力をふるったのである。 〔一九四八年二月、チェコスロ・ハキア共 産党の政権奪取により、ソ連の衛星国に なった〕 しかも一九六八年には、当時チェコ スロ・ハキア共産党第一書記だったドプ チェクのとなえる " 自由な社会主義〃 路線をおそれたソ連が、戦車を進駐さ せてチェコスロ・ハキア全土を占領し、 「冷たい戦争」の再来をおもわせた。 一九三八年〔ドイツとの抗争〕と一九 四八年〔ソ連との抗争〕の両方の危機の悲 さいに、大統領だったエドアルト・べ村 ネシュ博士は、死の直前に、「すくなツ くともポヘミアとモラビアは、戦争のデ おおくの苦しみをまぬかれたし、また ベルリンやプダ。へストなどが、第二次

6. 大虐殺 リディツェ村の惨劇

犯人の捜査を援助するために、ドイツナーもあらわれた。 が、二四〇〇人のドイツ軍とともに、 からプラハにあつまってきた。 二日後に、長官ヒムラーも到着。フラハ市内を、くまなくしらみつぶし みぞう まず、ゲシュタポ〔秘密国家警察〕長したが、すでにこのときには、未曽有に捜索した。 官のミュラーがきた。ついで刑事警察の、大がかりな捜査が完了したあとだ彼らは五四一人を逮捕し、その後四 っこ。 長官のネーべが、手だすけのためオ一フ 三〇人が釈放されたが、のこりの一一 五月二十八日に、プラハでは午後九一人はさらに訊問をうけ、一一三人の容 ンダから休暇をとってかけつけた。ま ハイドリヒのもっとも密接な協力 時から翌朝午前六時までの、外出禁止疑者が拘留された。このなかには、チ 者、シェレンベルクとカルテンプルン 令がだされ、四五〇〇人の治安当局者エコ共産党中央委員のひとりで、負傷 殺た物 人た 殺カ ュ的 べけ ルら タ査 ツダ アラ 官オ 察め 警た 事の 刑査

7. 大虐殺 リディツェ村の惨劇

ビリー将軍】ドイツの治安組織を悩ませた、チェコ国民防衛組織の軍事諜報部門を担当する指揮官のひとリてある 報部長モラベツツ大佐〔中佐から昇進しうな大打撃にもかかわらず、あたらし作員たちは、占領下のチェコへ、。ハラ い熱心な連中が抵抗運動に参加し、任シュート降下を開始した。 た〕との連絡を維持していた。 すいこう これらの諜報専門家たちは、抵抗運 しかし一九四〇年になると、抵抗運務の遂行に命をかけたのであった。 ロンドンのチェコ亡命政府が、特別動を再組織して、団結させ、ドイツに 動は大量逮捕と処刑によって、組織を ズタズタにされてしまった。 に訓練されたプロの工作員をイギリスたいする重要な作戦を準備させること しろうと から派遣して、現地の素人じみた抵抗を目ざしていた。 ″プロみを投入、 一九四一年、チェコ共産党はつい 運動にテコ入れ運動を強化しようと決定したのは、ま に、全国中央革命委員会への参加に同 だが、チェコ国民の反ドイツ感情のさにこのような段階であった。 そして天候が好転するやいなや、エ意した。ようやく抵抗運動は、ひとっ 炎を消しとめることはできず、このよ

8. 大虐殺 リディツェ村の惨劇

はなかった。しかも、ちかい将来、 もっとも彼は、つねに自分の身の保爵を任命した。 ィッにたいする抵抗運動の指導権をに この任命は、和解的な措置にみえた 全に注意しており、彼のかんがえる こ 5 じっ 〃最終的解決〃のための適当な口実をが、まもなくフランクの国務相任命にぎる可能性を秘めていた。というのは みつけていたが、ともかくチェコ内のよって、そんなムードも消しとんでしチェコ人が、ちかいうちに抵抗運動を まきおこすチャンスがやってくると信 反対者をつぎつぎに処刑して、急速にまった。 ノイラ 1 ト総督がプラハに着任してじて、この″レジスタンスの政府〃が いわばチェコの″首席死刑執行官〃に ハーカ・チェコ大統領任命されるすこしまえ、チェコ国民自 なったのである。 から二週間後、 たいぎめいぶん チェコ現地政府が、抵抗の大義名分は、エリアシ、将軍を首相とする新内身も、反ドイツ運動を組織しはじめて いたからである。 にかかげたのは、彼や彼のような極端閣を任命した。 この内閣の過半数は、エリアシュ首占領のその日から、チェコ共産党は な連中に抵抗するのだ、ということで あった。 相をふくめて、フリ 1 メーソン〔注〕の地下の中央委員会をつくりあげたし、 チェコ国内の会員ーーーこれはヒトラーをはじめとしまた親ベネシ = 派は、政治センタ 1 を 対独抵抗運動てナチの幹部の目には、ゆるされない組織した。もっともこの政治センター さて一九三九年三月、ドイツ軍のチ犯罪とうつったーーで、しかも全員がは、じつは政治運動よりも、諜報活動 エコ占領後しばらくのあいだは、軍司ベネシ = 前大統領の友人で、ロンドンに重点をおいていたものであったのだ 員 令官プラスコビッツ将軍の勢威が、ハの亡命政府と連絡をとりあっていたのが : 1 カ・チェコ大統領やその政府を圧倒であった。 またその後まもなく、おおくの知識工 し、約一カ月のあいだ、ドイツ国防軍 〔注。中世の石工組合を母体にして結成人や軍人があつま 0 て、国民防衛組 をつくったが、これも諜報部門をもつる が直接チェコの支配をうけもった。 された秘密結社で、国際友愛を説くが、 ユダヤ人による世界支配の外郭団体であた政治運動組織であった。この組織入 しかし四月七日、ヒトラーはポヘミ るとみる者もいる〕 は、ロンドンのベネシュ亡命政府と連 ア・モラビア保護領の総督兼総統の首 席代理として、外交官のノイラ 1 ト男これはたしかに親ドイツ的な内閣で絡をとるばかりでなく、国内の抵抗運

9. 大虐殺 リディツェ村の惨劇

同時に、非公式のレベルでは、現在 動を調整したり、共産党員とも協力し経験など、ほんのわずかしかもたず、 彼らのかんがえは、むしろ非現実的とある抵抗組織が最善をつくし、またド ィッに反対する盟友をもとめた。 エリアシュ首相は、この二つの組織いうべきものであった。 あきらかにこれらの盟友は、ドイツ しかしまもなく、ドイツ側の迫害に にふかく関係していたのである。 独の弾圧で抵抗よって、人びとは抵抗運動を組織しなの敵対者のなかからみつけなければな員 運動がめばえるければならないことを、いたいほど身らなかったが、まもなく英・仏と諜報コ 連絡を確立することになった。 ドイツ軍の占領当時、チェコ人は抵にしみてかんじとったのだった。 特 公式のレベルでは、ハーカ大統領と 一九三九年には、これは最上の攻守る 抗運動のために、とくに準備していた というわけではなかった。 エリアシュ内閣が、チェコ人民をまも両様のかまえとなった。 るために、できるかぎりの努力をつく 国民防衛組織は、西ヨーロツ。ハの連 人びとは、第一次大戦にさかのぼっ 合国を満足させるために、巨大な軍事 てみても、このようなタイプの戦いのした。 4

10. 大虐殺 リディツェ村の惨劇

れたのであった。 治家が名前をつらねた。 と言明した。 いつぼうイギリスの政府機関は、リ ドイツ空軍の爆撃で破壊されたロン 一九四二年七月十二日、ウエンデル ドンのバ ーモンゼイ区で、チェコ亡命・ウイルキー〔注〕は、イリノイ州の小 ディッ工村の悲劇の映画を製作するこ ・。ハ 1 ク・ガーデン とが、かならずしもわるくはない、と政府の外相ャン・マサリクは、この二さな町、スターン 判断した。 つの悲劇をくらべてみたのだった。 ズの抗議集会で演説したが、この町は 映画は、ウェ 1 ルズ地方のクームギ ・マルテイヌーは、記念日のためその名前をリディッ工とかえた最初の に『モヌーメント・リディッ工』を作自治体であった。 ードという炭鉱の村で撮影された。一 はくしんみ 段と迫真味をくわえるために、出演者曲し、交響楽団の演奏で放送さ 〔注 = ウイルキーは米共和党の有力政治 には、村に住んでいるじっさいの炭鉱れた。 家で、一九四〇年の大統領選挙でフラン クリン・ルーズベルトと争って敗れた。 夫とその家族がえらばれた。 この一周年記念日までに、イギリス その後国際協力に活躍した〕 イギリス炭鉱夫の指導者ウイル・ロの後援する「リディッ工村を生きかえ ウサーは、ロンドンでおとなわれた一らせよう」運動は、全世界にひろがっ ウイルキーは演説のなかで「チェコ ついとう 周年記念追悼式で、この映画『沈黙していた。 のリディッ工村は、野蛮人によって破 た村』を、亡命中のチェコ炭鉱夫の指 抗議運動、全壊されたが、それは自由を愛するすべ 導者・ペシコに贈呈した。 米にひろがるての人びとの心のなかに、生きつづけ ロウサーは、その演説のなかで、 チェコ人やスロパキア人がもっとも るであろう」と言明した。 ディッ工村でなにがおこったかを世界おおく住んでいるアメリカでは、ひじ その他おおくのアメリカの町や村 中におもいださせ、けっして忘れない ようにおおくの「リディッ工村を生きも、この例にならって、名前をかえ ように訴えたが、これは放送をかえらせよう」委員会がつくられた。 つうじて、チェコにも放送された。 その全米委員会の委員長には、ニュ ルーズベルト大統領も、この善意の リディッ工村の悲劇の記念日は、イ ーヨーク市長のフィオレロ・ラガ 1 デ運動を公然と認めて、国民へのメッセ ジのなかで、つぎのようにのべた。 ギリス各地でさまざまな行事で追悼さ ィアが就任し、委員会には、多数の政 182