わたしは、村が燃え、家々がくずもうが、わたしは、ほかのおおくの れていたが、やはり村におそるべき動 人びとといっしょに、ふたたびリデ れるのを見たことだけを、おもいだ 揺をひきおこした。 ィッ工村を訪間した。現地でわれわ 隊員のひとりは、のちにつぎのようすことができる。わたしは、あえて れは、ドイツ労働奉仕隊が村の破壊 にのべている。 村にはいろうとはしなかった。 をおこない、地ならしをしているの べームが、ヒトラーの命令を実行 「わたしの神経は、ちぎれそうだっ を見た。 し、リディッ工村の男を射殺したこ 。女たちは気ちがいのように泣き、 ヒトラーの命令は、文字どおり、 とを報告したのは、村のはずれのと 子供たちも泣き叫んだ。イヌは吠え、 村を地面までたいらにしなければな 家畜はうなり、ニワトリはあたり一面ころであった。 らないといっていた : をとびまわった : : : 」 わたしはまた、一軒の家のうしろ それからかなりあとに、わたしは フランク資任で、多数の死体と、いくつかの土の のがれの証言 山を見たことをおぼえている。その労働奉仕隊の指揮官のまねきで、み たびリディッ工村をおとずれたが、 六月十日午前七時、フランク国務相とき数回の爆発がおこった。ある将 そのとき村は、ほとんどたいらにな が、数人の将校をしたがえて到着校が、おそらく弾薬か爆薬に火がっ っていた。 した。 いたのではないか、と説明した。こ この供述のなかで、フランクはあき のような爆発のため、わたしは燃え 戦後になって、フランクは訊問官の あがる村に、それ以上はいりこむのらかに、その数回の訪問を混同してい まえで、リディッ工村訪間を、つぎの をためらった。 る。じっさいには、彼が六月十日リデ ようにのべている。 これ以外に、わたしはなにもおも ィッ工村に到着したことは、悲劇の幕 九四一一年六月十日、ベルリンか をあける合図であった。彼は正式にヒ らのかえり道、わたしはヒトラー総いだすことができない。 トラーの命令をくりかえし、それでは わたしは、ほんの短時間リディッ 統の命令がどのように実行されたか じめて、処刑部隊が行動にうつったの 工村にいて、プラハにかえった。 を、現地で直接たしかめるために、 : たぶん六月十一日だったとおであった。 自動車でリディッ工村にいった。 112
になった。 ークという名は、どこにもなかった。 ホラークについては、だれもなにもき いたことがなく、またマルスチア 1 コ だが彼女は、暗殺計画に関係があっ その村をひきあげる途中、プシュテ たとおもわれる連中の写真を見せられフラド村にさしかかったとき、チェコ バのいう人相も、彼と一致しないから だった。 たが、そのなかに彼女の知っている青語のわかる通訳のフェクルは、あまり 年を指摘することはできなかった。 はなれていないところに、リディッ工 ところが、フェクルはトムセンに電 むじゅん こうした矛盾があったにもかかわら村があるのに気づいた。 話して、いままでにわかったことを報 ず、ゲシュタポは、問題の自転車の持プシュテフラドのチェコ警察は、フ告した。 ち主がだれなのかを確認するために、 ェクルに、リディッ工村にはホラーク そこでトムセンは、捜査の続行を決 むす プラハ鉄工所へ電話をかけた。 という姓の家族が数軒あるが、若い息定し、クラドノ、スラニーばかりでな リディッ工子がいるのは一家族で、その消息は不 く、プ一フハの保安警察にも連絡して、 村がクサイ明であると語った。この事実は、ゲシリディッ工村を夜間捜索する態勢をと とのえた。 ビーズマンはまた、リディッ工村をユタボにも知られていた。 たずねてみようとおもった。というの ョセフ・ホラ 1 クは、一九三九年に 村全体を は、ゲシュタポはこれまでにも、そのゆくえ不明になり、チェコ空軍少尉の 徹底捜査 村の名前をきいたことがあったからで彼は、おなじリディッ工村出身のヨセ プラハのゲシュタポ地方本部は、ク 殺 ある。 フ・ステジイプルニーとともに、英空ラドノ支部を応援するため、四人のゲ虐 しかしその名前を、ドイツ風に発音軍に参加していた。 シ = タポ隊員と、保安警察の一一部隊を一 したため、彼はチェコ警官に、べつの しかしフェクルが、ホラークはハイ派遣した。リディッ工村と、そのすぐ復 ドリヒ暗殺の共犯だとうちあけると、 そばにある、数軒の家がならんだシャの 村ーーーリティッ工へつれてゆかれた。 チ ビーズマンは村長に、村にホラークプシュテフラドの警官たちは、それは ハルニー部落が包囲された。 ナ という家族が住んでいるかどうかたずまったくかんがえられないことだ、と ゲシュタポは、まずシャ・ハルニ 1 か ねた。村長は書類をさがしたが、ホラ いった。というのは、一九三九年以後ら手をつけた。すべての家が徹底的に皿
らつけた。 「一九四一一年六月十日、ナチ政府はリ 一九四二年十月に、リディッ工村の ディッ工の虐殺を発表した。破壊され ドイツ人がのぞんでいたように消え模型が、ニューヨ 1 ク市立博物館で公 たのは、小さな村だけではなく、殺害去るのではなく、リディッ工はふたた開され、コロンビア大学の建築家たち された男や、収容所に消えた婦人、子び生きかえったのだ。 は、戦後にあたらしいリディッ工村を 供たちもふくまれていた。リディッ工 五大湖ちかくの緑の谷や、ミシシッ再建する計画をねりはじめた。 まっさっ は、永久に抹殺されてはならない : ピ 1 河畔のリディッ工という名前の町命名運動は、中南米にもひろがって わが国の小さな自治体のすぐれた市民は、われわれに、忘れることのできないった。メキシコでは、サン・ヘェロ たちは、リディッ工の名前を、みずかい悲劇をおもいおこさせる : : : 」 ニモがリディッ工となった。ベネズエ 新リディッ工村の建設計画を検討する、コロンビア大学の建築家たち 32
らク リディッ工村に似た事件がおきていた っラ ので、他国の事件を気にかけなかった をク のは、たしかであった。 軍あ けつきよく、ソ連とソ連に亡命中の ッえ イ惓 チェコスロ・ハキア共産党は、リディッ ドて 工村事件は非共産党チェコスロ・ハキア 人〔ベネシ、一派〕によるおそるべき政 治的誤算の結果である、と確信した。 ソ連国内での、またソ連共産党によ るリディッ工村の追悼式は、戦後、そ れもチェコスロ・ハキアが共産党の支配 下にはいったあとになって、おこなわ れたのであった。 亡命政府、連 合国側を宣言 ハイドリヒ暗殺とリディッ工村破壊 の結果、チェコスロ・ハキア亡命政府の 立場は、国際的にきわめて有利になっ リディッ工村の破壊は、全世界の見 ているまえで、公然とおこなわれたナ 192
九八人の財産を、没収するよう命じ ドイツ側の迫害は、リディッ工村のだした。 破壊だけでは、まだおわったとはいえ彼は、リディッ工村の村有財産と住 た。そしてこれらの財産も、法律的に なかった。 民のすべての財産を、ドイツの所有には、ドイツの財産に移管された。 破壊後もする、という法令をだした。 こうして、村は事実上存在しなくな その後、プラハのゲシュタポ〔秘密国っていたにもかかわらず、法律上の処 迫害続く 一九四二年〔昭和十七年〕十一月十四家警察〕は行政命令をだし、ウンホシ踵は、一九四三年末までつづいたので 日、ハイドリヒの後任ダリュ 1 ゲ副総ュトの地方裁判所に、リディッ工村ある。 督は、さらにあらたな処罰をかんがえに、ほんのわずかだが関係のあった一 リディッ工村破壊の決定や、破壊そ 特殊工作員の最後
れたのであった。 治家が名前をつらねた。 と言明した。 いつぼうイギリスの政府機関は、リ ドイツ空軍の爆撃で破壊されたロン 一九四二年七月十二日、ウエンデル ドンのバ ーモンゼイ区で、チェコ亡命・ウイルキー〔注〕は、イリノイ州の小 ディッ工村の悲劇の映画を製作するこ ・。ハ 1 ク・ガーデン とが、かならずしもわるくはない、と政府の外相ャン・マサリクは、この二さな町、スターン 判断した。 つの悲劇をくらべてみたのだった。 ズの抗議集会で演説したが、この町は 映画は、ウェ 1 ルズ地方のクームギ ・マルテイヌーは、記念日のためその名前をリディッ工とかえた最初の に『モヌーメント・リディッ工』を作自治体であった。 ードという炭鉱の村で撮影された。一 はくしんみ 段と迫真味をくわえるために、出演者曲し、交響楽団の演奏で放送さ 〔注 = ウイルキーは米共和党の有力政治 には、村に住んでいるじっさいの炭鉱れた。 家で、一九四〇年の大統領選挙でフラン クリン・ルーズベルトと争って敗れた。 夫とその家族がえらばれた。 この一周年記念日までに、イギリス その後国際協力に活躍した〕 イギリス炭鉱夫の指導者ウイル・ロの後援する「リディッ工村を生きかえ ウサーは、ロンドンでおとなわれた一らせよう」運動は、全世界にひろがっ ウイルキーは演説のなかで「チェコ ついとう 周年記念追悼式で、この映画『沈黙していた。 のリディッ工村は、野蛮人によって破 た村』を、亡命中のチェコ炭鉱夫の指 抗議運動、全壊されたが、それは自由を愛するすべ 導者・ペシコに贈呈した。 米にひろがるての人びとの心のなかに、生きつづけ ロウサーは、その演説のなかで、 チェコ人やスロパキア人がもっとも るであろう」と言明した。 ディッ工村でなにがおこったかを世界おおく住んでいるアメリカでは、ひじ その他おおくのアメリカの町や村 中におもいださせ、けっして忘れない ようにおおくの「リディッ工村を生きも、この例にならって、名前をかえ ように訴えたが、これは放送をかえらせよう」委員会がつくられた。 つうじて、チェコにも放送された。 その全米委員会の委員長には、ニュ ルーズベルト大統領も、この善意の リディッ工村の悲劇の記念日は、イ ーヨーク市長のフィオレロ・ラガ 1 デ運動を公然と認めて、国民へのメッセ ジのなかで、つぎのようにのべた。 ギリス各地でさまざまな行事で追悼さ ィアが就任し、委員会には、多数の政 182
を、一台もってきた。午後十時、ゲシ 工村にむかった。 スト・べーム co 大佐やプラハの保安 = タポ全員が構内に集合し、保安警察自動車とトラックの隊列が、プシュ警察隊長ゲシ = ケ博士、クラドノのゲ の二部隊が、これに参加した。 テフラドに着いたとき、約三〇人のゲシュタポや治安関係者、チェコ警察隊 このときまでビーズマンは、プラ、 シュタポ当局者が、現地のチェコ警察長ビット中佐らをまえにして、ビーズ からかけつけた大佐のゲシ = ケ博署を占領して、プラハへ電話をかけマンは、正式に命令を読みあげた。 士やトムセン、クラドノのチェコ警察た。 「総統命令リディッ工村を破壊し、 隊長ビットらと協議していたが、最後 そこの警察署長は、頭ごしにその会住民を射殺すべし」 真夜中の の命令をあたえるために構内に姿をあ話をきいていた。 らわした。 村民狩り 「総統の命令にもとづき、婦人と子供 作戦はスム 1 ズにすすんだ。万事、 隊員は、いくつかのグル 1 プにわけはリディッ工村から退去させる。一六 られ、それぞれのグループに、やるべ歳以上の男は現場で射殺し、そのあとよく計画し、きちんと準備してあった すいこう き仕事がわりあてられた。 ので、なんの混乱もなく遂行された。 村を焼きはらう」 全般的な命令は、リディッ工村のす大きな秘密がもれた。しかしチェコ まず、リディッ工村の村長が連行さ べての家を捜索することであったが、 の警察は無力だった。あわれなこの村れた。彼は村の財産であるわずかの現 かんじようがき 特別な命令は、一六歳以上のすべてのに警告をあたえることさえできなかっ金、勘定書、貯金、その他の書類をひ 殺 男をホラークの農園にあつめること たのである。リディッ工村は、すでにきわたした。 大 と、すべての婦人、子供を小学校にあ保安警察によって包囲されていた。 そのつぎに、家畜や農業機械、貯蔵一 つめることであった。またすべての住ゲシュタボと治安関係の高官を乗せ食糧などを押収するために、ドイツの復 報 農業専門家がよばれた。 民は、貴重品や貯金通帳を持参するよた自動車は、リディッ工村にはいり、 の う命じられることになっていた。 最初の家のところで駐車した。彼らは こうした予備行動ののち、ゲシ = タナ ボと保安警察部隊は、あたえられたっ 六月九日午後十時すぎ、この作戦にそこから歩いて広場にむかった。 ぎの行動にうつり、住民たちをかりた 関係するドイツ部隊は、車でリディッ プラハのゲシュタポ地方本部長ホル
ハイドリヒ暗殺犯人を執拗に追いつづ ける、ドイツ側の徹底的な捜査と、狂 気としか考えられないような大量報復 虐殺行為は、しだいにチェコに潜入し た特殊工作員をしめあげていった : 母 のもとに身をかくしていた、アウト・ ディスタンス洋の工作員 K ・チュルダ がまず、心理的負担に耐えきれす、同 志を裏切り、ゲシュタボに寝がえった のものに関係したすべてのドイツ人おもわれる。 は、「この村が、敵の破壊工作にたずあるいはチェコ人に、ユダヤ人と同 さわる特殊工作員や諜報員の巣になっ様な″最終的解決〃〔人種皆殺し政策〕を ており、したがってヒトラーがみせし適用しようとさえしていたのかもしれ ない。 めのためにこの決定をくだしたもの、 工作員のひ と信じていた」と、戦後になって主張 した。 とりが密告 しかし、その後おこなわれた追求に さて、リディッ工村の惨劇がおこな よって、暗殺犯人ははげしい銃撃戦でわれていたころ、皮肉にも暗殺事件の 死んだことがあきらかになっている。大づめがちかづいていた。 一九四一一年六月十四日、ベネショフ また特殊工作員が、リディッ工村の 住所をメモしていたことをべつにすれのチェコ警察署に、・チュルダとい う男から、一通の手紙がとどいた。チ ば、彼らはだれひとりとして、この村 を″かくれ家″として利用したことはユルダは、特殊工作班″アウト・ディ なかったのである。 スタンス〃の一員で、ポヘミア南部に かくれていた。 ところが、リディッ工村は破壊さ 後 ハイドリヒ暗殺犯人にたいするきび最 れ、村民はまったく無意味に虐殺され こ 0 しい追求をうけて、彼の士気はくじけ員 したがって、リディッ工村の虐殺はじめた。というのは、彼は自分の母工 は、チ = コ人を恐怖におののかせて屈親の家に身をかくしていたからであ特 服させるという、ドイツの念いりな計る。 おそるべき罰が、リディッ工村にく新 画の一部として、おこなわれたように
また彼らは、文化研究旅行のためプ また、村につうじていた道路や小道 永久抹殺 ラハにゆく許可を求めていたが、しかは、もとの場所をはっきりさせること ならず しもう全員が、そうしたいという意欲ができないように、方向をかえたり、 一九四三年一二月、仕事のスピ 1 ドを をうしなってしまった。したがって、 あたらしくつくりなおされることになあげるために、さらに二つのドイツ人 っこ。 皮肉なことだが、彼らはかえってぎり 部隊が、リディッ工村に派遣された。 ぎりの最後まで、このいやな仕事をつ ところでプラハ当局が、この仕事の彼らはあきらかに、リディッ工村を づけなければならなかった。 ための技術的設備や、改造計画のため訓練場とみなして、墓地からもってき 労働奉仕隊が、破壊されたリディッ の資金は、チェコ人自身が提供すべきた石と大理石で、べレスラビインに自 工村の家を片づける仕事をはじめるまである、と決定したのである。チェコ分たちの本部と宿舎をたてた。 えにも、ながい時間をかけた交渉がおの建設業者は、設備をつくらなければ しかし、その能率のよさと徹底さと こなわれた。 ならなかったし、チェコ農業局〔ドイツにもかかわらず、ドイツ人はリディッ 労働奉仕隊は、あたらしい住居をもの管理下にある〕が資金をうけもった。 工村を永久に抹殺することに失敗した とめて、プシュテフラドの農園の屋敷六月から十月にかけて、このきわめのである。 をあたえられた。それからのちに、ヒて技術的な仕事が実施され、チェコ人彼らは、チェコの農夫たちが彼らの ジェべッとクラドノの校舎をあたえらがその資金を供出した。それは、約一一仕事を見ていたことを、忘れていたの さこ 0 れた。 〇万ドイツ・マルク ( 三〇〇万ク一フウン ) 技師たちは、改造計画を作成した。 にのぼる金額だった。 戦後、これらの農夫たちの案内で、 うむ それによると、リディッ工村の南の部けつきよく、ドイツ労働奉仕隊は、大量虐殺者が葬られた墓場や、村の墓 分は、ヒッジの放牧場に、のこりの部しぶしぶながらも、要求されたすべて地のあった場所ばかりでなく、村全体 分は原野にかわる予定であった。 の仕事をやりとげた。 が簡単に発見されたのであった。 148
はじめたのは、かなりあとになってか ラの首都カラカスの郊外にも、リディ界にしめしたものだからである。 ツェの名があらわれた。 七月六日に、チェコスロ・ハキアに放らであった。 ・ハのハ・ハナでは、広場のひと送されたソ連側の説明は、歴史的な想 ( ソ連はまた、村の名前を最初、あやま ってリビッ工とつづっていたのを訂正し つを、リディッ工広場と名前をかえ像力でつくられたもので、その英雄的 た ) た。。ヘルしのカヤオ、エクアドルのキな犠牲を、イギリスにいるチェコ亡命 ト、チリのビノ・デ・マール、ウルグ者のドイツにたいする闘争と、むすび 一九四四年、ソ連の作家ィリヤ・エ アイのモンテビデオでも、そうであっ つけようとはしなかった。 ーレンベルグは、ソ連の反応がなぜそ しかしながら、ソ連軍に参加していんなにおくれたかを、つぎのように説 たチェコ人も、スロ・ハキア人も、すぐ明した。 一九四五年五月、米国議会は、トル 「われわれの国では、リディッ工村の ーマン大統領に、六月十日を「リディにこの悲劇に心をうごかされた。「ス ツェの日」とする権限をあたえる決議ポポダ」部隊をひきいて戦っていたスような事件は、何千となくあった : ポポダ将軍は、この野蛮な行為にたいといって、リディッ工村の名前が全世 案を可決した。 界に知られるようになったのは、けっ おそからたソする抗議とよびかけを開始した。 連の抗議運動チェコスロ・ハキア人は、募金をはじして偶然ではない・ いつぼうソ連では、リディッ工の悲めたが、それは戦後にリディッ工村を平和的な国民チェコ人は、いまやド 劇的なニュ 1 スが報道されたのはおそ再建するためではなかった。その募金ィッ人に包囲されており、敵をよわめ かった。 で、二台の戦車が購人され、一台にはる戦いで、毎日死に直面している : 政治的には、このニュースは歓迎さ「リディッェ」、もう一台にはリデイしかし、こんにちチェコスロ・ハキア れなかった。なぜなら、それはチェコ ツ工とおなじ運命をたどった村「レジは、そうとおい場所でなくなった : 自由はちかづいてきている : : : それと ヤキー」の名がつけられた。 人が、イギリスにある″プルジョア〃 ソ連が、この名前のもっ象徴的な価ともに、リディッ工村の復讐のとき 民族運動とその指導のもとに、どんな 犠牲でもはらう用意があることを、世値に気づき、それをもりあげようとしも、ちかづきつつある」