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検索対象: 大虐殺 リディツェ村の惨劇
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1. 大虐殺 リディツェ村の惨劇

、ハイドリヒがとおった経路 パネンスケプジサ毒ーから ストジェル、 イ トロイスカ 、 . ・。チィークのいた地 ベビ " 市の中心部へ V ・ホレショビチェカーハ 停留所 ガプチィークとクビシュの 襲撃地点 ハイドリヒ襲撃現場 しながら追いかけていった。 この追跡は、かなりながい時間つづ いた。しかし、ぎやくにガプチイ 1 ク が自分の拳銃をひきぬき、クラインに 数発命中させ、彼を撃ちたおした。そ れからガプチィークは、プラハにむか う電車にとび乗って、現場から姿を消 した。 いつぼうクビシュは、あまりに近距 離から手榴弾をなげたので、自分もそ の爆発で負傷してしまった。彼の顔か らは、血がたらたらとながれだしてい こ 0 しかし彼は、道路を横ぎって、必死 で自分の自転車のところまで走ってい った。そのあとを負傷したハイドリヒ が追いかけてきたが、ハイドリヒはあ暗 の まりのショックで、彼を撃っことがで ヒ きなかった。 クビシュは、自転車にとび乗り、傷イ 口からあふれでる血で、ほとんど目が 見えなくなりながらも、いそいで町の

2. 大虐殺 リディツェ村の惨劇

四人の工作員も、最後の弾丸で自決に、ハイドリヒ暗殺の捜査が成功のう自分たちの行為によって生まれた人命 ぎせい したのであった。 ちにおわった、と放送した。 の犠牲に、ぞっとしていた。 またもやチュルダが、死者の身元を 別の村にも ガプチィークとクビシュは、チェコ 確認し、そのなかからガプチィークと 報復行為を政府の対独協力者の大臣モラベツツ ハルチィークを指摘した。 チュルダが同志を裏切った理由のひ〔ロンドンのチェコ諜報部長とは別人〕に面 フランクとゲシュタポは、ハイドリ とつは、ドイツ側の虐殺を中止させよ会して、自分たちが暗殺犯人であると うとかんがえたためであった。 ヒ暗殺にたいする復讐が完全にはたさ 言明し、そのあとで大臣を殺して自決 れたことを、はっきりと確認した。 じつは、ハイドリヒを暗殺した〃アする計画をかんがえた。 六月十八日夜、チェコ放送局は正式ンソロポイド″特殊工作班の連中も、 しかしオ。ハールカ少尉は、そんなこ 四発の銃声がなりひびいた。それが、ハイドリヒ暗殺事件のフィナーレだっ た【自決した四人の工作員の死体は、身元確認のため道路にならべられた 1 0

3. 大虐殺 リディツェ村の惨劇

プラ、 捜査をまかさた。 一九四二年五月一一十七日 ポヘミア・モラビア保護領総督代 れたフランク ただ彼は、自分のちょっとした要求 をつけくわえた。それは、フランクが チェコ地方のすべての治安組織は、 理・・フ一フンク こうりゅう 〔注 ( イドリヒにより、すでに戒厳警戒態勢にはいり、フランクは経過報拘留している一万人にのぼる人質のう 令は施行されているのだが、これはフラ告を長官ヒムラーに打電した。ヒち、一〇〇人をその日のうちに処刑す ンクが、自分の名前でもう一度いったもムラーは電報を確認し、フランクがこ べきだ、というものであった。 のであろう〕 フランクは、チェコ地方における事 れまでにとったすべての措置を承認し 態は、きわめて重大であるとかんが え、ヒトラー総統に直接報告するた め、翌日朝はやくハイドリヒのユンカ ースに乗って、ヒトラーのもと へ飛んだ。 フ一フンクは、この危機によって、自 ドた イれ分が昇進するチャンスがおとずれた、 さ ・命とかんがえていたが、失望をあじわわ 官任 長になければならなかった。 察督 警総彼はヒトラーにあい、事態をいかに ゲ副 とりあっかうかについて、いくつかの 、て勧告をおこなったが、必要な決定はす べて、すでにとられていることを知ら ト後されたのである。 ざんてい ルの またヒトラーは、ハイドリヒの暫定

4. 大虐殺 リディツェ村の惨劇

前には、とてもできない相談であっ ソ連の北方極地に移住させようというびポルマン官房長に手紙をおくり、 うしゅう た。またタ・ハコも特別な生産報酬とし 自分のかんがえに、ハイドリヒが共感「この改革によって、チェコ政府はも はや、ドイツにたいする不平をあつめて分配された。 をしめしていることを知った。 る中心にはならないであろう」と書い ハイドリヒは、この「アメとムチ」 だが、ハイドリヒの当面の計画は、 こ 0 政策こそ、チェコ人にうまく作用する チェコの各地方を、 " 第一二帝国 こうしてチェコ政府は、チェコ国民であろう、と確信していた。 ィッーーの保護領みという現在のかた ちから、サクソニー廾や・ハハ ・リア州のに背をむけて、ドイツ統治の積極的な暗殺されるわずか一〇日前、ハイド リヒはポルマン官房長に、彼がプラハ ような、完全なドイツの州のひとつに道具になりさがってしまった。 してしまうことであった。 〃予防的み処刑がに到着したときにおこなった恐怖の弾 自分の死刑宣告圧の記憶はうすれはじめており、チェ 一九四一年十一月六日、ハイドリヒ は、ヒトラーの官房長ポル・マンに手紙またチェコ人は、経済的には最大限コ地方をうまく統治してゆくために をおくり、「わたしは、個人的な指令までしぼりとられていたが、恐怖政策は、あたらしい弾圧措置を準備しなけ おんけい でチェコの自治を破壊するつもりであは、いつぼうでは恩恵をあたえるといればならない、と提案している。 しかしハイドリヒは、プラハ到旧に う行動によって、たくみに不平をそら る」とのべた。 この点についてのハイドリヒの最初そうという手段がとられていた。 ( ハあたり、ビリー、ポイタ両将軍の″予 防的〃処刑を命じたことが、自分の死 の措置は、一九四二年一月に、すでにイドリヒの「アメとムチ」政策 ) たとえば、とくに軍需工業で生産性刑執行書に署名したことになるとは、 相を逮捕されてしまったチェコ内閣 をたかめた労働者には、食糧の追加配夢にもおもわなかった。 を解体し、ただ各担当の大臣を・ハラ・ハ というのは、この二人の将軍は、抵 ラに任命し、その下にドイツ人官吏を給があたえられたし、またドイツ国内 いっしようけんめい 次官としておき、大臣の行動を監視さで、おとなしく一生懸命にはたらいて抗運動に参加したことをべつにして いるチェコ人の労働者は、休日に鉱泉も、ロンドンのチェコ亡命政府の諜報 せることにしたのであった。 一月二十三日、ハイドリヒはふたたにゆくことができた。こんなことは戦部長モラベツツ大佐の友人だったから

5. 大虐殺 リディツェ村の惨劇

暗殺要員チ エコに降下 一九四一年十二月一一十八日の午後十 時、 " アンソロポイド〃のふたりは、 " ンル・ハー〃および〃ンルヾ 両特殊工作班とともに、イギリスのハ ンドレ 1 ペ 1 ジ「ハリファックス」爆 撃機に搭乗して、イギリス南部のサウ サンプトンにちかい、タングメア飛行 場を飛びたった。 カナダ人の搭乗員が、あらかじめき めておいたチェコ内部の三つの地点 に、彼らを降下させることになってい こ 0 しかしどのグループも、予定してい た地点に着地できなかった。 " アンソ人口密集地域であった。さらにわるいに、ピルゼンにむかって歩きはじめた ロポイド〃は、予定されたポヘミア西ことに、ガプチィークは、着地のさいが、まもなく、自分たちがまちがった 足首を負傷し、はげしいいたみをかん場所に着地したことに気づいた。 部のピルゼンちかくでなく、プラハ」 じていた。 そこで彼らは、地下運動の連中と連 方一六キロの地点に降下した。 彼らは、爆薬と火器の箱を携行して彼らはパラシュートをかくし、飛行絡をとることよりも、まず自分の身を いたので、。ハラシュート降下はきわめ服やヘルメットを、ちかくの野原にあまもらなければならなかった。彼らは った小屋にしまい、夜が明けないうち安全に身をかくす、適当な森をみつけ て危険であった。しかも降下地点は、 3 一イ 、アンソロポイド特殊工作班に、そ の任務を説明するバルティーク中佐

6. 大虐殺 リディツェ村の惨劇

しかし、当時これらの亡命者は、まが、それもありきたりのかたちで、返ドイツと戦うようもとめるとともに、幻 だ団結していなかった。 事を電報でよせたにすぎなかった。 自分がその指導者になる用意があると 祖国再興チェコのことなど、すっかり忘れら言明した。 の指導者れてしまったようにみえたし、ベネシ彼のよびかけにたいする反応は、ま ちまちであった。 亡命チェコ人のなかで、もっともすュ自身もそうかんがえていた。 らくたん ぐれた人物といえば、チェコスロ・ハキ しかし、彼は落胆はしなかった。彼フランスでは、チェコ人たちはフラ ア前大統領のエドアルト・ベネシュ博は第一次大戦のさい、連合国がながい ンス政府と協定をむすび、ベネシュを あいだチェコを無視してきたことを経指導者と認めることを拒否した。しか 士であった。 彼は、自国をはなれてロンドンにゆ験しており、またその連合国の無視こしイギリスでは、チェコ人、スロ・ハキ き、そこに住んで回想録を書くつもりそ、最後の勝利を生みだす原動力になア人たちは、ほとんど全会一致でベネ であった。またドイツ軍がチェコを占ったことを、自分の目で見てきたから シュを指導者として認めた。 領する直前には、ベネシュはシカゴ大である。 一九三九年、ベネシュは、チェコス 学で連続講義をするため、イギリスか いまや、ふたたび大戦勃発という事ロ・ハキア国民委員会の設立を発表した らアメリカにわた - っていた。 態がおこったことを知って、彼は海外が、この組織こそ、ドイツにたいする だが、ドイツ軍が祖国チェコを占領におけるチェコスロ・ハキア人の反ドイチェコの抵抗運動のもっとも重要な政 したという連絡がとどくや、彼は講義ッ運動を指揮するために、シカゴから ロンドンにかえってきていた。 のなかで、公然とドイツ軍の進駐を非 大国間の取り引きの犠牲となり、祖国を 踏みにじられたチェコ国民は、いつの日 チェコ抵抗運動 難し、また個人的にルーズベルト米大 かふたたび自分たちの手に祖国がもどる の組織をつくる 統領、英・仏両国首相、ソ連外相に電 ことを信じて、亡命の地て活動を開始し た【左よりモラベツツ中佐、ベネシュ前 報をおくった。 宣戦布告のさいベネシュは、連合国 大統領、ヤロ、、、ール・スムトニー、ヤン しかし彼の抗議は、連合国の注意をにいるチェコ人およびスロ・ハキア人の ・マサリクのチェコスロパキア国民委員 ひかず、ただルーズベルト大統領だけ団体すべてにむけて、連合国とともに 会首脳。亡命先のイギリスにて

7. 大虐殺 リディツェ村の惨劇

うけているかも知らなかった。いろいにやってきました。彼らのひとりは、 隊員が、ゆっくりと子供の名前 ろなヒントから、推測したにちがいなわたしたちみんな、強制収容所おくりをよぶと、子供たちは自分でヤッらの になるだろう、といいました。 まえにすすみでるか、カずくで母親か いが、情報はこんがらがっているので、 わたしたちが、男たちはどうなったらひきはなされたのでした。 だれもはっきりしたことを知らなかっ のかとたずねますと、その男は、彼ら 子供たちの、心をつきさすような叫 母と子供をも強制収容所にゆくことになるだろびは、おそろしいものでした。 う、とこたえました。 『つれてゆかせないで ! マ 別れ別れに 『泣かないで ! きっとかえってく そして、小学校にあつめられて二日子供たちも、べつべつにだが、やは りそのあとに強制収容所におくられる るよ : : : 』 目に、数人の〔親衛隊〕将校がクラ ことになるだろうときいて、ほっとし わたしたちはみな、とりみだし、な ドノに到着し、小学校をおとずれて、 にがなんだかわからなくなってしまい ドイツ人の家庭で " ドイツ化〃の実験をました。 そん・なわけで、わたしたちが、まずました。 おこなう″モルモット〃として、二人 最初に出発することになるでしよう。 の少女と一人の少年をえらびだした。 わたしたちの大部分は、絶望のあま のちになって生存者たちが語った話しかしわたしたちは、なにも信じるこ り、泣き叫びながら、ワラの上にたお とができませんでした。 れふしました」 は、身の毛もよだつ物語であった。 「わたしたちはみんな、自動車でクラ母親たちは子供を腕のなかにだき、 この、子供たちにまつわる悲惨な話 ドノ小学校の体育館につれてこられま自分の身体でまもろうとするかのようは、感情的だが、全体としてはまった く事実である。子供たちは、恐怖で無 した。そして、いたくないように床にに、しつかりだきしめました。 しかれたワラの上で寝ました。 けれども、ヤッらは完全武装した五感覚になってしまい、こわさを忘れて 子供たちの泣き声や、母親たちの救〇人の隊員。わたしたちのほうはしまった。 いのない絶望でみちあふれた一二日間のなにひとっ武器らしいものもない、お「彼らはボクたちを、クラドノの小学 校につれてゆきました。ボクは一度も のち、約五〇人のの連中が体育館それおののくかよわい婦人です。 126

8. 大虐殺 リディツェ村の惨劇

テン・ドイツ人と平和的に肩をならべ奮闘は、ついに成功の冠でかざられる ことになった。 て生活することは、ひじようにむずか しいであろうと、はっきり気づいたか これは、彼の偉大な個人的勝利であ らであった。 ったばかりでなく、その亡命政府に、 連合国、亡命はかりしれない大きな政治的利益をも 政府を承認たらした。 いつも口論しているあやしげな政治 リディッ工村の悲劇が、まだ人びと の心にあざやかに焼きついている一九家の集団〔亡命政府〕が、再生チェコス 四二年八月五日、ついにイギリス政府ロパキアの真の代表政府であり、戦争 は、ミュンヘン協定と、それにもとづの同盟国として認められ、その戦争目 いて生じたあらゆる政治的な事態を、的や要求も、他の同盟国から承認され 否定したのだった。 たのである。さらに、条約や同盟を交 ソ連外相モロトフは、、、、ユンヘン協定の すなわち、国境の変更や住民の移動渉する権限さえあたえられたのだ。 否認を声明して、ベネシュをカづけた は無効と宣言され、チェコスロパキア海外にいるチェコ軍隊や、本国の将 般にたいする弾圧の衝撃が、決定的なは、ミ = ン ( ン協定以前のかたちで承来のとりきめ計画にかんする決定は、す 連合国によって尊重され、支持されお 認されたのである。 作用をおよぼしたのであった。 七月七日、イ 1 デン外相はベネシュ 九月一一十九日、ドゴール将軍のひきた。 を チェコスロ・ハキアの将来の国内情勢響 に、自分と同僚たちは、ズデーテン・ いる自由フランス政府も、イギリスに ドイツ人を、チェコ国外に移住させるならってミュンヘン協定を否認した。 に、もっとも根本的な影響をあたえる的 原則に同意した、と通告した。 こうして、祖国チェコスロ・ハキアと決定。ーーすなわちズデーテン・ドイツ世 イギリスは、リディッ工事件がおき大統領としての自分を、国際的に復帰人のドイツへの移住は、リディッ工村 たいまとなっては、チェコ人がズデー させようとするベネシュ博士のながいの悲劇のあとになって、はじめて認め かんむり

9. 大虐殺 リディツェ村の惨劇

はなかった。しかも、ちかい将来、 もっとも彼は、つねに自分の身の保爵を任命した。 ィッにたいする抵抗運動の指導権をに この任命は、和解的な措置にみえた 全に注意しており、彼のかんがえる こ 5 じっ 〃最終的解決〃のための適当な口実をが、まもなくフランクの国務相任命にぎる可能性を秘めていた。というのは みつけていたが、ともかくチェコ内のよって、そんなムードも消しとんでしチェコ人が、ちかいうちに抵抗運動を まきおこすチャンスがやってくると信 反対者をつぎつぎに処刑して、急速にまった。 ノイラ 1 ト総督がプラハに着任してじて、この″レジスタンスの政府〃が いわばチェコの″首席死刑執行官〃に ハーカ・チェコ大統領任命されるすこしまえ、チェコ国民自 なったのである。 から二週間後、 たいぎめいぶん チェコ現地政府が、抵抗の大義名分は、エリアシ、将軍を首相とする新内身も、反ドイツ運動を組織しはじめて いたからである。 にかかげたのは、彼や彼のような極端閣を任命した。 この内閣の過半数は、エリアシュ首占領のその日から、チェコ共産党は な連中に抵抗するのだ、ということで あった。 相をふくめて、フリ 1 メーソン〔注〕の地下の中央委員会をつくりあげたし、 チェコ国内の会員ーーーこれはヒトラーをはじめとしまた親ベネシ = 派は、政治センタ 1 を 対独抵抗運動てナチの幹部の目には、ゆるされない組織した。もっともこの政治センター さて一九三九年三月、ドイツ軍のチ犯罪とうつったーーで、しかも全員がは、じつは政治運動よりも、諜報活動 エコ占領後しばらくのあいだは、軍司ベネシ = 前大統領の友人で、ロンドンに重点をおいていたものであったのだ 員 令官プラスコビッツ将軍の勢威が、ハの亡命政府と連絡をとりあっていたのが : 1 カ・チェコ大統領やその政府を圧倒であった。 またその後まもなく、おおくの知識工 し、約一カ月のあいだ、ドイツ国防軍 〔注。中世の石工組合を母体にして結成人や軍人があつま 0 て、国民防衛組 をつくったが、これも諜報部門をもつる が直接チェコの支配をうけもった。 された秘密結社で、国際友愛を説くが、 ユダヤ人による世界支配の外郭団体であた政治運動組織であった。この組織入 しかし四月七日、ヒトラーはポヘミ るとみる者もいる〕 は、ロンドンのベネシュ亡命政府と連 ア・モラビア保護領の総督兼総統の首 席代理として、外交官のノイラ 1 ト男これはたしかに親ドイツ的な内閣で絡をとるばかりでなく、国内の抵抗運

10. 大虐殺 リディツェ村の惨劇

クラインは、このまちぶせからのが肥 くるぞ、という合図をおくった。 部長官を兼務していたか ところで暗殺者たちは、メルセデスれるために、自動車のスピ 1 ドをあげ らである。 その日メルセデスを運転していたのがくるまえに、もうひとつの連絡をうて走りぬけようとはせず、自分の拳銃 は、彼の専用運転手ではなく、護衛のけとっていた。それは「ハイドリヒはをひきぬいて暗殺者に発砲した。 このため、メルセデスのスピードが ひとりでくる。武装した護衛隊はつい 〔親衛隊〕曹長クラインであった。 家族の見おくりで、ハイドリヒの出ていない」という最新の情報で、べつおちて、クビシュの目の前にきた。ク ビシュは、ガプチィークの銃が発砲し 発がおくれたが、彼は護衛隊の同行をの車でとおりすぎた抵抗運動の連中が ないのにびつくりしたが、まったく冷 ことわった。というのは、護衛隊が同ったえてくれたのである。 ガプチィークとクビシュは用意をと静で、手榴弾の。ヒンをぬいて、メルセ 行すると、なおさら時間がおくれてし デス目がけてなげつけた。 まうからである。クラインは、プラハ とのえた。彼らは、ハイドリヒのメル 手榴弾で、ハ にむけて、できるだけいそいで車を走セデスがちかづいてくるのを見た。そ イドリヒ負傷 して車が数メ 1 トルのところまでちか らせた。 自動車は、大破してその場にストッ いつぼう暗殺者たちは、副総督の到づいたとき、ガプチィークは道路から プした。そして負傷しなかったクライ 着を、じりじりしながら待っていた。電車の線路に飛びうつり、レインコー ンは、拳銃をもって車からとびおり、 トの下からステン短機関銃をひつばり ・ハルチィークは、イライラしながら、 ″不運な〃ガプチィークを撃とうと、 つぎからつぎにタ・ハコをすっては地面だして、メルセデス目がけて引き金を 追いかけた。 にすてていたが、突然、スピードをあひこうとした。 ガプチィークは爆発を見て、自分の いっぽう同時に、自動車を運転して げて走ってくるメルセデスが視界には いたクラインも、ガプチィークが銃で銃が役にたたなかったことを、やっと いってきた。 さとった。彼は銃をなげすて、道路を とっさに彼は、ポケットからくしとねらっているのに気がついた。しか 小さな鏡をとりだした。そして丘の下し、銃からは弾丸が飛びださなかっ町のほうにむかって走りだし、そのあ とをクラインが、ムチャクチャに発砲 こ。銃が故障していたのだ。 のほうにいる同志に、車がちかづいてオ