だけだったのかも知れない。そして、メラニーが生まれたのだった。 しかし子どもの母親は、心身ともに疲れきってしまっていた。長い闘病と苦痛の歳月は、 彼女の心の成長を阻んだばかりでなく、彼女を何の役に立たない過去に生きる人間にして しまった。彼女は娘を胸に、二度と故郷を離れまいと決心してウイニペグに帰っていった。 彼は毎月、充分以上の金を送っていたし、時間が許すかぎり、いつも訪ねていった。娘 は明るく、幸せなようだった。しかし彼は、娘が自分には頼れる父親がいないことを感じ とっていることに気づいていたし、娘のからだにしみこむ冷気が心配だった。彼はウイニ ペグの冬の痛みを、自分のからだに感ずることができた。 。坐り心地 マッケンジーはソファーに腰を降ろした。それは大きく、ゆったりしていたる 明 夜 も満点といえた。最高責任者にのみ与えられる特権だ。このときドアに、やわらかなノッ 夜クの音がした。ドアが開き、エレナが顔をのぞかせた。 深 「どうぞ」彼は言った。「気がはりつめているせいか、とても眠れない」 日 曜「なにか差しあげましようか ? 」エレナは自分の考えをぜひ伝えたいと勢いこんでやって刃 きたのだが、任務の重さに憔悴しきった様子のマッケンジ 1 を見ると、その意気ごみもど
しながら、おなじことをしていった。二人は狙いを特定の一つの顔にしばっていたが、た とえジェニファーと車掌の助けがあるにせよ、乗客でたて込んでいる列車のなかで、じか に接触することなどほとんど不可能だった。通路の幅は九〇センチしかなく、どの通路も 程度の差はあれ、込み合っていたので、二人の″捜索〃は遅々として進まず、いらいらす るばかり - だった。 チェンバレンは推理してみた。自分は間題の男が調理室から出てくるのを見たーーとす れば、彼は多分、食事をする金を一銭も持っていないのだろう。彼が二等車にいる可能性 がもっとも高い。一つおきにコンパートメントに首を突っ込んで捜しながら、ベスト患者 は切符を買うことすらできずに、からだを隠す場所を探し求めてうろついているのではな いたろうか、とチェンバレンは思いついた 深 だが、可能だろうか ? トイレ ? トイレは自分たちが念入りに調べつくした。食堂 車 ? 自分がくまなく調べた。通信室 ? ありえない。荷物車 ? 間違いなく鍵がかかっ ーオオカ : : : 彼は通路のずっと先にいるジェニファーを見やった。二人は、互 一ているよずご。ごゞ 曜いに首を振った。いままでのところ、手掛りなし。 ジェニファ 1 はニコルのコンバ 1 トメントのドアを開けた。ニコルは、べッドに腰を降 8
ンの胸中も知らず、トムはごくりと唾を呑み込んだ。 通路の先のほうでは、母親のルーカス夫人と一緒にパリへ行くカテリーナという少女が、 窓から外を見ようと首を伸ばしていた。ちょうどその時、スウェーデン人が通りがかった 彼の顔は汗びっしよりになっており、首の腺は大きなコプができたように、はりだしてい た。カテリーナは、その男の上着をひつばった。 「外が見たいの、私を持ち上げて頂戴 ? 」カテリーナは声を精一杯張り上げて言った。 スウェーデン人は、からだのバランスを崩して、窓に手をついていなかったら、多分、 カテリーナのわきをすんなり通りすぎていたことであろう。やむなく彼は小さな女の子を 持ち上げた。彼女は自分の頬を、彼の類に押しつけた。 午「カテリーナ、この方をおひきとめしてはいけませんよ、 しい子だから」とルーカス夫人 は、スウェーデン人の両腕から少女を抱きかかえながら言った。夫人は彼に微笑みかけ、 堋親切な男の首筋を見て、ぎよっとし、思わす目をそらせた。スウェーデン人は、ロも開か 一ずによろめきながら歩いていった。 日 曜 ーカス夫人は、カテリーナを自分たちのコンパ ーメントへ抱いていった。ここには詰 金 襟姿から察するとローマン・カトリックの神父と思われる相客がいた。先に彼は、ハーレ
バレンとジェニファーは、ニコル・ドレスラーとナバロが尼僧のコンパートメントをのぞ いているのを目にとめた。 「彼女はひどく悪いのよ、博士」ニコルはチェンバレンが自分のほうに近づいてくると、 救いを求めた。 チ , ンバレンはなかに入って尼僧を診た。もっとも彼は、一目、彼女を見ただけで、ほ かの患者とおなじようにまったく手のほどこしようがないことを見抜いていオ 「どういうことなのです、博士 ? 」とニコルは、珍しく深刻な口調で訊ねた。 チェンバレンは答に窮し、ジ = ニファーが目くばせでもしまいかと彼女の目を見つめた。 「食中毒の一種です : : : だろうと私は思います」 ニコルは、ロを歪めた。「先生、あなたはをつくのがとても下手ね、さもなければた いへんな藪医者よ」 チェンバレンは、顔をそらした。目は、ナバロに注がれた。彼は悪寒にふるえている。 それに激しい発汗だ。ナバロはチェンバレンの視線に気づくと、さっと背中を向けて歩み 去った。多分チェンバレンに診断されるのを恐れたのだろう。チェンバレンは、彼のあと を追わなかった。結局、彼にできることは、なにもなかったのだ。 128
めていた。 「博士ーとマッケンジーは言った。「私たちは、失礼させていただいてよろしいですか ? 」 「いいですとも、後はおまかせ下さい。これまでにも死に立ち会ったことがありますから」 エレナの言葉はマッケンジ 1 が言わんとしたことを取り違えていたが、マッケンジーは 若者が直面している皮肉で風刺的な死について、彼女が喋るのにまかせた。 「死因は内部的な窒息ですーと彼女は説明した。「彼の頭は、一瞬ないしは二瞬、ふらふ らします。そのとき彼の母国語はなんであれ、彼は目まいがする、と感じます。血液中の 酸素が奪われることによって、目まいが生じ、無意識のとばりがゆっくりとおります : まったく不快感をともなわずに死を迎えます。マッケンジーさん、将軍とお呼びすべきで 午しようか ? 」 マッケンジ 1 は彼女の気性の強さに惹かれる一方で、ひそかに恐れをおばえた。しかし 堋彼女の助けを必要とすることは分かっていたし、彼は自分自身に十分の自信があったので、 一あらゆる気取りは放棄した。 日 : さてと、私がこれから言う 曜「大佐です」と彼は言った。「私を大佐と呼んでください : ことを注意して聞いてください」
「これは私の全財産だぞ ! 」 彼は傷ついた両手で、自分の商品を取り戻そうとした。しかし保守要員は、蠅でも追い はらうように彼を突きはなした。キャプランは床に倒れた。 通りがかったチェンバレンが、彼を起こした。傷ついた両手。目に映しだされている絶 望。チェンバレンにしても同じことだった。いまは、あらゆる自由を奪われた籠の鳥だ。 「ほくに、ついてきてください」彼は、キャプランの腕をとって言った。「傷なら、手当 してあげられます」 「第四に、病状のいっさいは、ただちにあなたたち乗客仲間の一人であるジョナサン・チ エンバレン博士に報告することー キャプランをつれて、自分のコン。ハ 1 トメントへ向かっていたチェンバレンは、眉毛を つりあげた。この無責任な発表に、彼はいささか度胆を抜かれた。 「第五に、できるかぎり、自分のコンパートメントにとどまること。それに、いかなる状 況下においても、列車から出ることは許されない : チェンバレンとキャプランがコンパートメントに入ったところへ、ジェニファーが戻っ てきた。キャプランはべッドの上にむつつりと坐りこむと、血まみれの両手を開いた。彼 140
ついに吐き出した。「カサンドラ・クロス、あれは安全ではない : マッケンジーは、ぎくっとした。チェンバレンは、自分の言葉につづいて生じた長い沈 黙を、自分が急所をついた証拠だと解釈した。彼はジェニファーを見つめ、つぎに突然、 彼女に向かって指をならし、床のうえに投げだされたくしやくしやに丸められたメモを指 さした。ジェニファーは紙片を拾いあげ、大事なもののように彼に渡した。 「それはどういう意味ですか、チェンバレン博士 ? 」マッケンジーがやっと答えた。 「カサンドラ・クロスが安全じゃないと言っているんです」紙片をひろげると、彼の確信 は強まった。「あの橋は、一九四八年に閉鎖された路線上にある : : : 」 「博士、鉄道当局は安全を確信している け「あのあたりの人間は、橋の下で暮らすことすら避けている」と彼はつい、 言わでもがな 夜のことを口にした。 「いったいどうしてあなたが知っているんです ? あなたは、あそこへ行ったことがある 夜 一ようですね」彼の声からはひどいあざけりの調子が伝わってくる。それにしても落ち着き 曜というものがなかった。彼はチェンバレンに自分のあわて加減を悟られたと判断した。 「この列車の一人の車掌が、行ったことがあるのさ。それに乗客の一人もー彼はジェニフ 163
どうしてヘリコプターは引き返したのか、チェンバレンは解せなかった。理由を確かめ るように、もう一度空を見上げた。だが、その疑惑はたちまち消えた。ヘリコプターは、 そそり立っ岩壁ぎりぎりまで " 作戦行動〃をつづけたのだ。岩壁が迫ったために急上昇し たのだ。 列車は黒い口を開けたトンネルに入った。荷物車は闇に包まれた。 「気をつけろ ! ーチェンバレンは叫んだ。同時にジェニファーの腕を掴んで、自分のほう へ激しく引き寄せた。 二人は、後ろに倒れた。そのまま、しつかり抱き合った。室内用の灯りがついたとき、 スウェーデン人は昏睡状態に陥っていた。 ルーカス夫人の向かい側に坐り、漫画を読んでいたカテリ 1 ナは、突然、激しいくしゃ 夜 深 ィッシュ パ 1 が見つ みをした。ルーカス夫人は自分のバッグをかきまわしたが、テ 、こ、ーレー神父は、 午からなかった。胸のポケットからきれいな白いハンカチをのぞかせてしオノ 一自分の出番だとさとり、気のすすまぬことをかくそうと努めながら、ハンカチを少女に差 日 曜し出した。 金 カテリーナはそれを開いて、鼻をかみかけたが、隅のほうにの字の縫いとりを見つけ
耳に、大陸縦断列車のレールを打っ音が響いた。しかし、聞こえてくるのはそれだけだっ た。ややあって、声が流れてきた。 「チェンバレン博士が : : : おいでになりましたー声の主は列車所属の無線技士だった。彼 に代わってチェンバレンが出た。 マッケンジーは、顎をひいて身がまえた。 「こちらはスチープン・マッケンジー大佐です。博士、国際保健機構所属のアメリカ陸軍 情報部の者です」彼はチ = ンバレンが電話の向こうで自分の言葉に聞き入っていることを 確かめると、ちらっとエレナを見た。「さて、注意してお聞きください、チ = ンバレン博 士。あなたの乗っている列車には、。 へストにかかっている人間が乗りこんでいます。繰り 返します。肺ベストに感染している人間が乗りこんでいます」 列車の通信室にいた全員の顔から、さっと血の気が失せた 「問題の男は、二五、六歳です」マッケンジーの声は語りつづけた。「背の高さは、中程 度。スウェーデン人。彼はいまでは、顔が腫れ、変色し、汗まみれになっているはずです、 まだ死んでいなければ」 車掌は自分の記憶にあたってみた、そんな男はいるはずがない。彼は自分を安心させる
いた。二、三の乗客は、常時、 列車全体が完全に神の御心に身をゆだねた心境に包まれて 姿を見せている保安要員の姿をまねて、鼻と口をハンカチで覆い、多少は役に立つかも知 1 こ。ごゞ、ほとんどの人は緊急状態に対処しうる強力な機関が、や れない望みを託してしオナカ っと自分たちの不幸に手をさし伸べてくれたので、ほっとして力が抜け、素直に従う気持 になっているよ一つだった。 一瞬も無駄にせず、あらたな儀式もいっさいおこなわ ついに最後の発表分が終わった。 れずに、大陸縦断列車はふたたび動きはじめた。ニュールンベルグを後にすると、たちま ちのうちに速度を上げた。 保安要員は、煙草の火が全部消されたかどうかを確認するために車内をまわっていた。 換気装置から高圧酸素をふくんだ空気が列車内に送り込まれる音がする。作業が本格化す 明 夜 るにつれ、シュ 1 シューという音が大きくなっていった。 夜 深 ナバロがバスルームから出て、コンパートメントに入ってきた。ニコルの姿は見えない。 日 曜彼は大きな化粧箱を手にさげていた。箱は彼の震える手から落ちて、床にころがった。全 身を緊張させている。なんとかして彼は自分のカで自分を律しようとしているようだった。 14 フ