もの 小型錨で敵のしがみつくと、自分のカで艇に這いあ した。輸送員たちはみな、歴戦の古強 ねずみ ケープル発見がり、水びたしの濡れ鼠のような姿 者ばかりだった。しかも、その仲間の 一人として、イギリス海軍義勇予備隊乗員たちの交替は、七月三十日ので、またもとの位置にもどって、指揮 員ジョン・プリトネル中尉が、かって夜、岸から約四〇キロ沖合いの地点でをとりはじめた。 のベルゲン攻撃の際と同じを引き受行なわれた。今度の任務は、高度の専このときの小さな幸運がなかった けていたことなどもあって、彼らにと 門的技術を要したので、作戦員の数もら、彼は、おそらく波にのまれて、そ のまま行方不明になっていたであろう っては、まことに楽しい再会のひとと五人に増えた。 シーンとヴァーノン・コ マキシー し、また艇内の乗員たちは、だれ一人 きであった。 ールズのほかに、イギリス海軍義勇予として、彼のいなくなったことには、 三日にわたる航海中、彼らの見かけ たのは、ただ一隻の舟、しかもそれ備隊員ケリー中尉と、二人の潜水員、気がっかなかったにちがいない。 ケープルの敷設してあるとおぼしき は、戦争とはおよそ縁のないジャンクすなわち海軍義勇予備隊員・・ ージアス中尉と、同・・プリッグ水域まで近づくと、 4 は潜水し、 だった。航海は快適そのものだったの アメリカ軍の敷設した機雷原のなか で、特殊潜航艇も、長時間にわたってス中尉が新しく加わった。 水上曳航され、輸送員までもが、とき 目標水域への突人は、シーンが艇のを、航行していった。 たま艇をはなれて、この心地よい南海外枠、つまりデッキの上に乗って、針そこで、五本爪の小型錨を、綱で曳 の海で泳ぐことを許された。 路を指揮しながら、好調なすべり出しいていくことになったが、その重みの孅 それは、人を容易に寄せつけぬ、冷だったが、途中で一天にわかにかき曇ために、こんどは艇の姿勢を一定に保扣 酷なあの大西洋のことを思うと、まるり、ものすごい疾風が吹きつのってきっことがたいへんむずかしくなってきで で天国と地獄ほどの差があった。大西たので、シーンの体は、文字通り艇外た。いや、それでなくてさえ、艇は平の 洋ではみんな、二四時間のうち二三時の波のなかに叩きつけられてしまっ衡を保っために、さきほどからすで極 に、たいへんな苦労を重ねていた。じ 間まで、水の中に潜ったままでいなく てはならなかったのだ。 彼はや「との思いで、艇の突出部につは、これから潜人を予定しているメ つわ
だけ攻撃に集中力を欠くと判断したか 人道的任務軍のもと〈無事に届けることに成功し題 らだ。この戦法はもののみごとに的中 果たした三隻の艇た。飢えに苦しんでいた兵士たちにと 戦争の終末段階における数週間 って、この補給物資は涙の出るほど有 帰投した乗員がいくら自分のロで戦「ゼーフント」の任務は非常に人道的難かった。が、おそらくそれよりもも 果を申告しても、情報機関の無線局なものに切り換えられた。左右両舷につと嬉しかったのは、この三隻が帰路 が、連合軍側の発表する損害報告を傍魚雷を積むかわりに、陸地に孤立してにつく際、孤独をかこっ兵士たちから 受して、攻撃の時刻と位置を確認しないるドイツ軍守備隊のもとへ補給物資そのいとしい家族へあてた手紙を持っ いかぎり公式に認めてもらえなかつを運んでいったのである。 ていってくれたことだった。 た。 この荷物のことを、ドイツ軍は " 「ゼーフント郵便ポスト」はその貴重 ドイツ軍当局の推計によれば、一九ター魚雷〃と呼んでいた。この任務のな荷物をいったんオランダのイムイデ 四五年の二月から四月へかけて、作戦第一回目は、クップラー中尉とシハ ンに持ち帰り、その地から各兵士の故 に参加した四〇隻の「ゼーフント」が ルプラット中尉、それに操舵長フロン郷あてに発送した。 撃沈した敵船舶は、九万三〇〇〇総ト トの操縦する三隻の「ゼーフン ドイツが降伏した当時、三隻の「ゼ ン前後であると見られていた。 ト」によって行なわれた。 ーフント」がダンケルクに到着してい ところが、終戦後イギリス側の計算これら三隻の艇は、途中の航海に苦たが、それから三隻はその場でみずか では、損失は実に一二万トンにのぼる労を重ねたあげく、五トンの食用油脂らの手で沈められるか、あるいは浜に ことが明らかにされた。 と他の生活必需品をダンケルクの駐屯 引き揚げられた。
ほどなくして彼は、サイゴンーシン深さでは、潜水員が酸素を使って潜っ コン・デルタから流れ出した水層の なかに、もろに突っこんでいたのであガポール間を結ぶケープルから切り取て行くことは、ひじように危険だっ る。 った、三〇センチほどの切れ端を手にた。今回は。ハージアス中尉が、この作 と、突然、小型錨がなにかをひっか して、艇内にもどってきた。その顔に業をやりとげるために、艇から出てい けた警報が鳴りひびいた。すでに、潜は、いかにもうれしそうな笑みがあふった。 しかし、彼はいったんケープルまで 水装具に身をかためて待機していたプれていた。 このケープルの切れ端には、さっそたどりついたものの、どうしたこと ノグス中尉は、すぐさま乾湿ドック のなかに飛びこみ、注水をはじめた。 く、明るい色のリポン ( 少々湿ってはか、切断機がはたらかなかったため、 新品と取り換えるために、もどってき しかし艇を飛び出していった彼は、警いたけれど ) が二つ結びつけられた。 報がなにかのまちがいであったことをそのリポンは、プリノグスがしるしをた。彼は艇内にしばらくとどまって、 発見した。そこで、プリソグスは艇につける用具として使っていた布きれを普通の空気をじゅうぶんに吸った。こ もどり、一同はふたたび掃海をつづけ利用して作ったものだった。リポンのれは、賢明なやり方だった。こうして ていった。 明るい色は、艇内の雰囲気を、いちだおけば、深海において、酸素を吸人し たときに起こる危険を防ぐことができ ところが、また、錨がなにかをひつんと花やいだものにした。 ケープルの探索たからである。 かけた合図があった。プリッグスは、 に艮りない労苦 少憩ののち、彼はふたたび、ケープ戦 再度にわたって出ていった。こんどは ルのある海底へとって返した。そし日 本物だった。水面からさしこんでく 次の作業は、サイゴンー香港間ケー る、ぼんやりした光線を通して、プリ プルの路線を、探し出すことだった。て、もののみごとに、また一つ、リボで ノグスは、海底に樹たわっているケー これもうまく成功した。 ンで飾られる″優勝杯″を、胸にしつ プルを見つけた。彼はさっそく、手に だが、こんどの場所は、深度計のさかりとだきしめて帰ってきたのであ極 あっさく した圧搾空気利用の切断機を使って、すところによれば、一五メートルからる。 一六・五メートルの海底だった。この この作戦の成功のあとを、くわしく 仕事にとりかかった
を成功に導いた際の、勇気、熟練およにわたって、しかも徹低的に行なわは、むしろ、いかにして防潜網を突破 び果断を賞して、海軍義勇予備隊員ロれ、艇も攻撃後は、自力で走って帰れするかということのほうだった。 ・エイトキン中尉および海軍義るように、設計されていたからだ。 ここの防潜網は、われわれがかって 勇予備隊員ハドン・ケンダル中尉にた しかし、今回のような、今まで例を予想していたよりは、はるかに複雑に いして殊勲章を、ならびに四級機関技みないまったく新しい型の戦闘では、できていた。しかし、私はこの防潜網 士エドムンド・ゴダードにたいして顕あらゆる事態に対処できる計画を、初の下をかいくぐって、攻撃に移ること 功章を、それぞれ授与するものであめから立てることはむずかしかった。に決めた。ところが、この網の下をく る - われわれが直面した難問の一つに、ちぐりぬけるのに、予想以上の時間がか 殊勲の海軍 よっとした機械の故障があった。このかった。じつのところ、この隙間もな 士官ニ人故障の原因の一部は、作戦現場に着く く張りめぐらされた防潜網に邪魔をさ ドナルド・キャメロンとコドフレ までぶつ通し一〇日間も航海をつづれて、私は、攻撃後ついに脱出できな ・プレースは、ともに正規の海軍士官け、その間、毎日一一三時間も、水の中くなってしまったのである [ で、終戦当時までイギリス海軍に籍をに潜っていたということにもある。 同じくこの攻撃に参加したドナルド おいていた。不幸にも、キャメロンは 実際の攻撃は、白昼、ドイツ北方・キャメロンも、彼の立場から、謙虚 その後、病気のために死んだが、プレの、もっとも厳重に防御された、ノノ レにもこう述べている。 ースは、本書執筆中の現時点で海軍少ウェーフィヨルド内の碇泊地で行なわ「なんとも、ちぐはぐな気持ちだなあ 将である。当時の攻撃の模様をきかれれた。攻撃は、本質的にはいたって簡 これが攻撃前夜、われわれのうけ たとき、プレースはもっと個人的な話単なものだった。問題はただ、「ティ た実感だった。いま、われわれは敵の をしてくれた。 ル。ヒッツ』の艦底にもぐりこんで、時水域のど真ん中にいて、明日は″でか じよろう 「こうした特殊作戦の場合、無事に帰限信管つきの、強力な機雷を仕掛けて野郎 ( あるいは女郎 ) 〃をやつつけよ 還できる確率は、他の作戦とくらべてくることだけだ。 うというのに、耳につけたイヤホンの 大きかった。というのは、訓練は長期 私自身にとって苦労の種だったの片方では、放送の番組を聴き、
しかし彼自身、かねてから船酔いの くせがあり、いまだかって、一隻の小 舟さえ設計したこともなく、ましてや 水の底に潜ったことなどは、ただの一 度もない、潜水についてはずぶのしろ うとであった。 その上、彼の肩書は陸軍大佐だっ た。だから、しばらくは彼の上申書 が、 ( とりわけ海軍当局によって ) 無 視同様の扱いをうけたのも、無理はな かった。この将校こそ、クエンティン ・リープスだったのである。 やがて海軍当局も、彼のねばりに根 負けして、その " 大の遠吠え。にも似了 た提案を、実行に移す許可を与えた。完 この許可がおりてから八カ月たって、準 彼が日夜夢にまで見た、一隻の小型潜戦 美航艇が、大きな貯水槽のそばの台車の判 れ上に、その完成した姿を現したのであ軍 丿ープスは、すでに この時すでに、 、潜潜水にともなう危険をも熟知し、それ
この時の空襲で、ハンノ・ク一フィグしてやさしい工事ではなかった。なぜ 一九四四年初夏、イタリア作戦から 帰還したドイツ軍の実戦経験者たちは重傷を負った。一行の直接の目的地なら、この付近一帯の水域にはぎっし は、連日長時間にわたって多くの新人は、セーヌ湾岸のトルイヴィルからおりと機雷が敷設してあり、有刺鉄線の よそ一〇キロ離れたヴィレール・シ防御網が厚く張りめぐらしてあったか 生たちの猛訓練にいそしんでいた。 ル・メールだった。そこに、かって駆らだ。それでも工事は着実に進展して 連合軍がノルマンディーに上陸した え 日から一週間後、およそ四〇隻の「ネ逐艦隊の司令官だったべーメ大佐が仮いった。 を ーゲル [ が、その操縦士と付き添いのの発進基地を作って待ってくれていた 七月の初旬ごろ、第一次攻撃隊発進 のための条件はすべて揃った。悪天候送 助手とともに、汽車で。ハリへ向けて出のである。 「ネーゲル」基のためにそれ以前の出撃は阻まれてい軍 発した。。、 ノリから先はトラックやトレ 地、準備完了たが、いよいよ七月五日夜に第一次攻連 ー一フーで陸輸されていった。連合軍の 絶えまない空襲のために昼間の輸送は本格的な発進地の設営のために、エ撃は開始された。 この作戦には、三〇隻の「ネーゲ 兵何個中隊かが投人された。これは決 不可能だった。 連合軍護送船団を狙え /
1 発進準備にとりかかっている最中に、 ごく近距離に、一隻のドイツポート 組の攻撃作戦 ( 快速魚雷艇 ) の姿を発見した。「サン 「サンダーポルト」から発進したあ ダーポルト」はそのまま走りつづけ、と、ラーキンは、艇を一部潜水させ ポートをいつも横目に見やりなが 。全部沈めなかったのは、ポート ら、用意万端をととのえた。 からできるだけ遠くへ離れたかったか すべての作業を完了し終えてから、 らである。それに、港の上空に投下さ 「サンダーポルト」は、やっと潜水し、れる照明弾の光をできるだけ長く、視 引き揚げていった。 界に人れておきたいと思っていた。 この作戦に参加した乗員は、・ 照明弾の投下は、午後十一時三十分 ・・スティープンスと、その副手とをもって、打ち切られることになって してバクストン機関技士長、他の一隻いたからである。照明弾の光は、時間 には、・・・ラーキン中尉と、 どおりに消えた。しかし、その光が消 その副手として o ・・べリー炊事当えるまでの間に、ラーキンは、余裕を をイ番兵曹だった。だが発進後、この二隻もって羅針儀を調べ、針路の正しいこ の「チャリオット」は、おたがいに別 とを確認できた。 二時間ほど浮上航行したとき、あの ~ れ別れとな「てしま「た。 スティープンスとバクストン組は、ポート ( ひょっとすると別のポート 攻撃で大きな戦果をあげたが、結局はだったかもしれない ) を発見した。 二人とも捕虜になってしまった。ラー ポートは、大型の艦載艇を曳航したト キンとべリー組については、もっと詳ロール船を護衛しながら、トリポリの しくわかっている。 西方へ向かって進んでいた。
十月二十六日朝、ついに意を決した兵、もう一隻は、クレイグ機関兵曹と 彼らは、シェト一フンドをあとに出航し工。ハンス一等水兵の予定だった。テプ ていった。二隻の「チャリオット」をとコーザー両一等水兵は、他の四人の 曳きながら、船が港をでていくとき、助手をつとめ、いざというときの交替 さんばし 桟橋の端に立って、強風にあおられな要員でもあった。 漁船の貨物室には、泥炭塊を山のよ がら、船に向かってさかんに手を振っ ている、″ちび公〃フェル中佐のほっ うに積み込んであった。そして、万が 一、ドイツの巡視艇に見つかって停船 そりした姿も眺められた。 この漁船「アーサー」は、ノルウ工を命じられた場合、イギリスの隊員た ー海軍のレイフ・ラーセンが指揮をとちが、身を隠すことができるように、 っていた。彼にとっては、これが占領その泥炭の山の中心部は、くりぬいて 下の、母国ノルウ、ーへの初航海ではあった。 4 は、かっ、た。 ノルウ、ー海域では、こうした検問破 彼は、有名な″シェト一フンド乗合は、まず間違いなく覚悟しておかなく を 目 船の船長をしていたこともある。こてはならなかった。そのため、乗組員 ッ 攻 のは、あちらこちらに秘密工作員をたちは全員、たくみに偽造した身分証 の 最送りとどけたり、いろいろな予備偵察明書を持っていた。 の 「チャリオット」の乗組員たちは、テ をしたりして、かなりの旅をつづけた ものだった。「アーサー」の乗組員た「ティルピッツ」攻撃にそなえて、徹艦 オ 底的な予備演習をくりかえしていた。 ちも、全員ノルウェー人だった。 独 ャ 「チャリオット」の乗組員は、一隻がそして最後には、イギリス戦艦「ロド チ プルースター中尉とプラウン一等水ニーーを仮想敵艦に見立てて攻撃を加簡 ー港内のドイツ戦艦「ティルビッツ」 工
二人が基地に帰投した翌朝、その艇つけてあった。 これは連合軍側がわざわざ「ゼーフ は海中から引き揚げられ、待機してい た修理班が両中尉の立ち会いのもとにント」の攻撃進路に街燈をつけて案内 検分にあたったが、その惨状を見て、してやっていたも同然で、うかっとい えばまことにうかつな話だった。 みんな自分たちの目を疑った。 「ゼーフント」はただその " 街路燈〃 艇の外枠は一部吹っ飛んでなくなっ ており、小型の艦橋は五センチほど艇の柱の陰にかくれてじっと待っていさ ) 、の胴体の中 ~ めり込んでいた。しかもえすればよか「た。待ち伏せするたび その胴体たるや、まるでいたずらっ子に獲物はしこたま手に人ったのであ がフットボール遊びによく使う古いある。 二月に人ってから、「ゼーフント」 き缶のような形になっていた。 成功した単独・戦隊の先任指揮官ラッシ、少佐に代わ 特定目標攻撃って、もとのポート指揮官、プラン 攻撃目標を選ぶにあたって、無線情ディ中佐がその職につくことになっ 報が部隊員にはたいへん役に立った。 え 無線局からは敵の護送船団の現在位置彼はドイツ軍の最高勲章であるダイ狙 の時間、航路、目的地などについて詳ヤモンド騎士十字章の受賞者であっ た。プ一フンディは、今後「ゼーフン送 細な情報が送られてきた。 これに加えて、イギリスのマーゲー ト」は単独出撃し、特定の目標を攻撃軍 トとベルギーのアントワープ間を結ぶすべきだと断を下した。 というのは、隊を組んで行くと、ど プ ~ 護送船団航路には標識のプイが点《と ポートに繋留される浮上した潜航艇設置され、各プイには点燈装置が取りうしても仲間を頼りがちになり、それ
さん 無に戦艇たトっ 残決彼基と たしくトた な行ら地とそにとかさ 結さのへものすきしそをだ 果れ初移に年つに、う見か にためつ、のかは一だるら 終がててオ暮り、定っ彼こ ドイツ「ゼーフント」幻 B 型特殊潜航艇わ、のいラれ惚彼期たらん し攻っンまれら間。のど 排水量 : 15 トン武装 : .3 センチ魚雷 てか撃たダでこはの目の 2 本速度 : 60 / 馬力で 7.5 / 6 / ットししは。のにんこ集っ新 イ、での中きし 航統距離 : 7 / 3 ノットで 480 / 100 キロまそ れ大ム彼し ( 浮上航統距離は外部燃料タンク使用に たは晦なイらまゼ練 より 7 ノットで 1130 キロ ) 全長 : 12 メ。 見日かデはっーが何ゼ ンこてフ終かー ートル全幅 : 1.7 メートル吃水 : 1.5 出るの 撃も夜作のいンわ胡うフ メートル乗員 : 2 ÄIO Ⅱ加 していった一八隻の「ゼーフント ! の うち、無事帰投したのはわずかに二隻 のみであった。 生存者の報告によると途中で大波に のまれ、それが命取りの原因になった ということであった。そこで、これか らは天気予報にはもっと細心の注意を 払わなくてはならぬことがわかった。 それから二週間あまり後の一月十七 日、さらに一〇隻の「ゼーフント 出撃していった。今回は天候も前の時 よりはずっとよかったが、この攻撃は 「ゼーフント」の死命を制する大事な 試練だった。 万が一、前回と同様、艇の損失が大 え きければ、この小型艇はいったん作戦狙 現場から引き揚げられ、改めて数次の 性能試験を受けねばならないからだ。送 結果としてこのたびの攻撃作戦は、一軍 応成功だった。 相手の船こそ一隻も撃沈できなかっ たが、「ゼーフントはそろって無事