一九四二年六月、英海軍特別作戦本のうちに攻撃を加えたいから手を貸しさせ、攻撃を開始させる、という手は 部 ( かねてから、イギリス本国より指てくれ、というのであ「た。本部は、ずをととのえた。 令を発して、ヨーロツ。ハ ・レジスタンあらゆる援助を惜しまないことを約束ノルウ、ーの地下工作員たちとは、 ス運動を組織し、こっそりと秘密諜報した。 たえず秘密情報を交換し合っていた 員、武器、その他の資材を提供してい まず、二隻の「チャリオット」を漁が、計画の実行は、延期につぐ延期 えいこう た ) に、潜水艦隊司令長官から申し人船で曳航して、シ、トランド諸島のあで、ついに絶望にも近い気持ちにつつ れがあった。 る港から出発させる計画が立てられまれるようになった。ある報告による 廡船に曳かれてた。この漁船は「チャリオット」の乗と、「ティル。ヒッツ」はすでに出航し ノルウ - 工 ーへ組員や、その装備類を載せて、ノルウ たあとだ、ということだった。 それは、四万トンのドイツ戦艦「テ エー水域をドイツ軍管理の目をかすめ 天候は、悪化の一途をたどりつつあ イル。ヒ〉ツ」が、ノルウ、ーのトロンて通り抜け、前も「て示し合わせてお「た。しかも、海いちめんに氷のはり ヘムスフィヨルドに碇泊中なので、今 いたフィヨルドの地点で、彼らを下船つめる冬は、刻々近づいてきている。 独戦艦「ティルビ , ツを撃破
「オルテラ」の指揮官ヴィンシンティ ニも、そのとき戦死してしまった。 第二次攻撃をかけるべくイタリアか らじゅうぶんな資材と人員が到着した のは、一九四三年も五月に人ってから のことだった。第二次攻撃には、まず 三隻の人間魚雷が、「オルテラーの水 中ドアをくぐりぬけて発進していっ た。指揮をとったのは、ノタリ少佐で あった。今回は三隻の魚雷とも、二重 弾頭をつけていたため、攻撃は完全な 成功をおさめた。 七〇〇〇トンのリ・ハティー型輸送船 えしておいた。外務大臣は、自分の所薬や補助装具類の倉庫と化したばかり「。ハット・ ハリスン」と七五〇〇トン 管事務所が、海軍省の人間たちに強盗か、攻撃隊員たちの宿舎にも早変わりの「マシャッド」を大破し、四八七五 に人られたことなど、ついぞ知らずじした。 トンの「カメラータ」を撃沈した。す まいであった。 いつぼう、貨物船「オルテラ」も、べては、ジプラルタル湾内でのできご 新計画もいまや二人乗り魚雷にうってつけの、とであった。三組の人間魚雷乗組員た 好成績格好な発進基地となっていた。 ちは、無事に「オルテラしに帰投し この冒頭の一幕が終わってから、ふ十二月七日に開始された、前述の不 だんは眠っているようにみえていたス幸な攻撃作戦も、じつはこの「オルテ ひきつづき八月には、前と同じ顔ぶ ペインのカルメラ山荘は、にわかに爆ラ」を発進地としたものであったが、れの六人が、次の攻撃に待機してい ヴィンシンティニ大尉
イギリス海軍の特殊潜航艇が、ドイオ こ。ドイツ側は最初、これでもう、この勇敢な海の男たちが乗り組んだ特殊 ツ戦艦「ティルピ〉ツ」を攻撃したこの果敢な攻撃作戦も続行不可能にな「潜航艇によ「てあげられたものであ 0 とがきっかけとなって、ドイツ海軍たと思った。しかし、これはドイツ側 た。しかし、ドイツ海車も、これらの に、 " 部隊 ~ が誕生した。この部隊のとんでもない誤解だった。 果敢な攻撃情神の持ち主には事欠かな は、ドイツ海車の戦闘用小型兵器の製この事件は、ドイツ海軍の戦術家た かった。 作および操作にいっさいの責任をもっちの考え方に革命をもたらした。一九 デーニツツ提督は、敵が用いたのと 組織だった。 四一年、イタリア海軍が、アレキサン同じ戦法で敵に仕返しをすることをよ ドイツ海軍に ト丿ア港に碇泊中の二隻のイギリス戦くやった。とりわけ、ポート ( ドイ ″部隊〃誕生艦に致命的な打撃を与えたが、こんど ッ潜水艦 ) 作戦が直面している難局を 一九四三年九月二十二日朝、イギリ はドイツ戦艦「ティルピッツ」が同じ打開するためにも、この " 目には目、 スの特殊潜航艇の隊員たちは、攻撃を悲運に見舞われたのである。 歯には歯〃の戦法がいたくお気に人り 敢行したあと、ドイツ軍の捕になっ これらの戦果はいずれも、命知らずだった。 ネーゲル」に賭けるドイツ
必殺 / 人間魚雷 きヨー必殺 / 人間魚雷 人間魚雷ーーそれは死を賭けた海の特攻兵器である。一撃必 殺の非情の使命をおびた乗員は、危険に満ちた海中を、ある ときは棺桶のような狭い艇内に閉じこもり、またあるときは 薄いゴム服をまとって魚雷の背にまたがり、敵艦めがけて突 き進んでいった。本書は、日本海軍の「回天」「蛟竜」をはじ 異め、ドイツ、イギリス、イタリアの特殊潜航艇の構造と活躍 のすべてを、豊富な写真とイラストを駆使して詳説した待望 の書である。 殊英 著者 J ・グリーソン / T ・ウォルドロン 二人とも第二次大戦中は陸軍に在籍し、戦後 ウォルドロンはプロデューサーとして英国 B B c 放送に入社、グリーソンの作品を多数放 送した。本書の取材のため、二人は英海軍潜 水部隊に体験入隊している。 訳者永来重明 ( えいらい・じゅうめい ) 1937 年、東京大学文学部卒業後東宝に入社、 その後 N H K に勤務して放送台本を執筆。 N HK を退社後放送作家、翻訳家として活躍。 主な著書、訳書に「残照の青春」「ニューヨー カー短篇集」「ライフル・拳銃・手幅弾」など。 監修者出光照生 ( いでみつ・てるお ) 1930 年生まれ。 1953 年横浜国立大学工学部造 船工学科卒業後、防衛庁技術研究本部に勤務、 各種護衛艦の設計を担当して現在に至る。 必殺 / 人間魚雷 く日英独伊・恐怖の特殊潜航艇 > J ・グリーソン & T ・ウォルドロン 永来重明訳 / 出光照生監修 昭和 52 年 7 月 5 日 1 刷 発行者 / 小野田政 編集者 / 白井勝己 発行所 / 株式会社サンケイ出版 東京・千代田区神田錦町 3 の 15 ( 〒 101 ) 大阪・北区梅田町 27 ( 〒 530 ) 印刷・製本 / 大日本印刷株式会社 ◎ 1977 SANKEI Printed in Japan 検印省略 0020-077540 ー 2756 ン訳 0 来 - 取新刊ダグラス・オージル / 菊地晟訳 怖におとしいれたナチ・ドイツの″電撃戦″ 第ニ次大戦初期、ドイツ軍戦車の大集団は、 ドイツ ポーランド、オランダ、ベルギー、フランスである。 をふみにじり、雪のロシア戦線、灼熱のアフ本書は、ドイツ戦車隊の誕生から減亡まてを、 戦車隊 リカ戦線を、キャタピラーをきしませて縦横戦車の開発と戦術に焦点をあてて解明した、 ・キャタピラー軍団 ヨーロッパ大陸を恐戦車ファン必読の書である。 無尽に暴れまわった 欧州を制圧 取新刊ウィリアム・〈ス / 寺井義守訳 ーロッパでは、イギリスを基地とする大編隊 「空の要塞」丨・・・ーそれは、米陸軍の重爆撃機ポ ーイングにつけられた名である。第ニ次が渡洋爆撃を実施、ドイツ各地に爆弾の雨を 大戦中、太平洋、ヨーロッパ、北アフリカの降らせ、連合軍の勝利を決定づけた。本書は、 重爆撃機 この重爆撃機の、開発から性能、戦歴に 全戦線に投入されたⅣは、日独両軍と渡り ・日独を粉砕した 合い、その名に恥じない活躍をした。特にヨ至るまでを徹底解明した、待望の書である。 「空の要塞」 世出 第 第ニ次世界大戦プ多ス 0 次 0020 ー 077540 ー 2756
操縦桿を″徴速前進〃に、水平舵をに乗りこんで待機しているのを思い出ど叩きつけられた。これはちょっと意 " 最上昇〃に切り換えると、艇は前進したので、私は彼らの方に向かって、外なできごとだったが、われながら、 しながら、急角度で浮上していった。安心するように手を振ってみせた。そいささかおかしかった。 私は、その角度を持続しつづけ、ついれから、再び潜水に移り、艇を水平に緑の細かい藻が、私の水中眼鏡の前 に、太陽の光のさんさんと降りそそ保ちながら、″全速〃にスイッチを人をものすごい勢いで、走り抜けていっ ぐ、水面へでた : : : 」 れた。 た。私は、頭をぐっと下へ向けたま 「万事うまく 艇はちょっと揺れて、前方へつんのま、計器盤から目を離さないように、 めった。そのため、前からおし寄せて背を丸めた。この時すでに、艇は予定 「 : : : この艇の建造にあたった人たちきた波を、もろにかぶって、私の体の針路からはずれていた。 が、試航の成果を案じながら、快速艇は、操縦席の背もたれにいやというほ そこで私は、上方を見あげて、太陽 の位置を探し求めた。それが大失敗と なった ! 水中で、急に体を動かした ため、波が水中眼鏡をさらっていって しまった。 瞬間、水が人るのを防ぐために、両 眼を閉じたが、しばらくは盲目も同然 だった。私は手さぐりで艇を操作し、 やっとの思いで浮上した。 快速艇が駆けつけてきた。私は彼ら と二、三言葉をかわしたあと、別の水 中眼鏡を借りた。そして、近くで艇の 操作をしているあいだは、快速艇のエ
イギリスの「チャリオット」ニ人乗り人間魚雷 排水量 : 詳細不明武装 : 幻 2 キロ分離可能弾 頭速度 : 2.9 ノット航続距離 : 約 30 キロ 全長 : 詳細不明全幅 : 詳細不明吃水 : 詳細 不明 0 ルを操作して、舵を動かすこと重焦点式になっていたから、たとえ はもちろん、その他いっさいのば、敵艦の下にもぐりこんだときな 運転作業をしなくてはならど、すぐ上の艦底を、近くで仰ぎ見る のに役立ったし、水面に浮上したとき なかった。 この区画につづいには、遠くの空を飛んでいる敵機を、 て、やや盛りあがったいち早くとらえることもできた。 ドームがあって、そ もう一本の潜望鏡は攻撃用のもの の天井を突き抜けるで、三メートルまで上げ下ろし自在だ った。この潜望鏡は、ラジオのアンテ ようにして、二 本の潜望鏡が外ナくらいの細さであるが、解像力は抜 群で、水面上にわずか五センチ頭をだ へでていた。 一本は広角視しただけで、艇上周辺の水域の敵状 野のものが、手にとるように映しだされた。そ で、遠近一一れでいて、こちらの姿が発見されるこ 了 とは、ほとんどなかったのである。 備 艇が戦闘中、あるいは水中で何らか準 の作戦行動をとっている際には、この戦 潜望鏡ドームの後方、つまり艇尾に近 い位置には、先任将校が一人っきっき軍 りで坐っていて、先述の操舵手同様、 いろいろなスイッチやレ・ハーやハンド ルのついた水平舵や電力装置の操作に
イタリアの二人乗り人間魚雷が、アむき出しにして、「イタリア海軍が行イタリア海軍の用いた新機軸の水中戦 レキサンドリアに碇泊中の戦艦「ク なった程度の攻撃をイギリス海軍がで法について、十分な情報を手に人れて ィーン・エリザベス」と「ヴァリアンきないはずはない。いや、なぜイギリ いた。 ト」の攻撃に成功したという知らせをス海軍も人間魚雷を使ってイタリア海たとえば、イタリア海軍が第一次大 耳にしたウインストン・チャーチル軍以上の戦果をあげようとしないの戦終了時から、早くも人間魚雷の研究完 は、一九四二年一月、参謀本部にたいか」とはつばをかけた。 に着手していたことなども知ってい準 して指令を発し、地中海のイタリア海 これにまっ先に応えたのが、当時潜た。また、イタリアがこの作戦計画を戦 軍部隊をしのぐ戦果をあげられるよう水艦隊司令長官としては世界でも第一初めて本格的に実行に移したのが、一判 な、作戦計画を要求した。 級といわれていた、海軍大将マックス九三五年であったことも、イタリアで軍 筒ぬけだったイ ・ホートン卿だ「た。海軍省とても、活躍していたイギリス情報機関を通じ芙 タリア海軍情報現状にたいしてただ漫然と手をこまねて、わかっていた。さらにイタリア軍 チャーチルは、例の鼻っ柱の強さをていたわけではない。彼らはすでに、は、二〇〇〇人の潜水隊員を使って、恥 英海軍水中作戦、準備完了
0 人は、ヨーロツ。ハの戦雲が潜水部隊の隊長だったユー ジェニオ・ おさまるまで、ずっとクラ フォルク、それに、ス。ヘインのアルへ プの秘書として働きつづけシラス港で最初に「オルテラ」の管理 にあたっていた、ムスカテリ博士など クラブは、かっての敵隊も含まれていた。 員を集めて、人間魚雷処理クラブはべローニと協力して、一四 班を組織した。この班は、 カ月間にわたり、新型の呼吸装置をは 港湾のヘ ドロの底に潜っじめ、その他の水中装置の研究開発に て、不発のまま放置されてあたった。そして、その期間中に、深 いる機雷を探し出し、回収海の隠し場所から、最新式の人間魚雷 処理することが任務だっ七隻を発見回収し、それらを最上の作 た。だれでもあまりやりた動状態に修復した。 がらない仕事だ。 スパイ行為で べニスで、クラブは二人 致命的失敗 乗り人間魚雷課本部を接収 しかし、中佐にまで進級したクラブ したが、主要な人材は、そだったが、その最後には、一九五六年 のまま現職にとどめ、彼の四月におきた、世にも不思議なス。ハイ 一権限下におくことにした。 事件の立役者を演じる破目になったの ・そのなかには、イタリア軍である。 ″ガンマ〃グループが使っ 一九五六年四月、ソ連のプルガーニ ) た技術の考案者である、初ン首相と共産党第一書記 = キタ・フル ・・、当の紳士べローニ少佐や、シチ「フがつれだって、イギリス首相
キ戦後再会を作戦部隊 = 左から右、 クラブ、 k. 、マシェス、ウォルドロ ン、フレ - サ、物名リー スキャメロン アンソニー・イーデンや英いイギリス海軍情報部員、 ・スミスをともなって、。ホーツマスへ 国政府関係者と、両国間の 交易について話しあうためやってきた。 というのは、その当時、ノ連の軍艦 に、イギリスを訪問した。 この二人の賓客は、「ソには、その底部に原子機雷を投下でき エルシニイ」と「スモトる開閉式ドアを取りつけてあるとか、 ルャスキ」の二隻の駆逐艦秘密の僣水艦探知機を備えていると に護衛された、一万五四五か、その他さまざまな秘密兵器を搭載 しているといったような噂が、しきり 一〇トンの「スウ、ルドロ フ」級巡洋艦、「オルゾニに流れていたからである。機会さえあ キゼ」に乗ってやってきればいつでも、他国の主力艦の艦底を 調べるのが、各国潜水隊員の日常茶飯 三隻の艦は、イギリス南事のようになっていた。 部のポーツマス軍港内に碇かって、ソ連の港において、そこを 泊した。会談や公式レセプ訪れていたイギリスの水兵たちが、自誕 ションに出席するために、分たちの艦の底を調べまわっていた、ア ソ連の潜水隊員たちと、楽しそうに冗タ ソ連の政治家一行がロンド イ ンへ向かったあと、クラブ談をかわしていたことがあった。しか ( 当時すでに軍籍を離れてし、このポーツマスの場合は、なにも魚 いたが ) は、碇泊中の巡洋かもが、裏目にでてしまったのであ邸 艦の艦底を、こっそり調べる。 てみようと思い、一人の若ソ連からの交易使節団は、たいへん
爆薬筒を抱いて敵の鉄条網に突人、自 ロンドンにあるローマ・カトリックをここに紹介しよう。 教のイギリス総本山、ウエストミンス 「日本車はとうとう一人乗りの人間魚爆した。″爆弾三勇士〃で有名 ) ター寺院の大司教、ジョン・・ヒー 雷というものを作り出した。もちろ毎朝、生徒たちは天皇皇后の御真影 すうきけい ナン枢機卿は、一九三六年にはまだ普ん、操縦者はその魚雷が目標に命中しに向かっておじぎすると同時に、この ″爆弾一二勇士〃の像に向かっても深々 たとたんに自爆して果てるわけだ。 通の司祭であった。 当時、彼は日本を訪問し、湍在中に : 日本中どこへ行っても、学校にと頭を下げるのである」 資料が少ない天 見聞した日本人のさまざまな生活様式は、満州事変で最初にみずから人間魚 日本の碆航艇 についてたくさんのメモをとっておい 雷となった有名な一二人の若い兵士たち の肖像画や彫像が飾ってある。 日本の特殊潜航艇のことについて述魚 それから何十年かたって、枢機卿の ( 注Ⅱ上海事変。昭和七年二月二十二 べるのに先立って、第二次大戦開戦前邸 うそ の日本に滞在していた、一外人の目を 地位まであがってから、彼は『嘘半日、廟行鎮攻防戦で、江下武夫、 分』という自叙伝を著した。その一部丞、作江衛之助の三人のエ兵一等兵が通して書かれた報告書の一部をいきな 人間魚雷「回天」