あらびあ ② 1 ③ アラビア半島 ①アラブ首長国連邦アプ・ ダビのプルワ油田 ②サウジアラビアのダハナ ー砂漠でタベの祈りを捧げ る人々 ③カタールでタカ狩りをす る男たち。タカ狩りは上流 階級のスポーツとされる ④サウジアラビアとカター ル国境付近をラクダととも に旅する遊牧民 ぶんすいれい 半島。南東はアラビア海、アデン湾に臨み、 もあって高度が高く、半島の分水嶺を形成し、 東はベルシア湾 ( アラビア湾 ) 、オマーン湾に 南部のアシール山地で標高二〇〇〇、南端の 7 よって、南西は紅海とその支湾アカバ湾によっ イエメン山地で標高三〇〇〇に達する。最高 て、それぞれ限られる。長さ約二三〇〇キ。、幅峰はイエメン山地のハドウール山 ( 三七六 0 ) 。 一二〇〇 ~ 一八〇〇キロ、面積約三〇〇万平方アデン湾、アラビア海に臨むハドラマウト山地 アラブ人によって、ジャジーラル・アラブも標高二〇〇〇を超える。他方、半島東部 Jazira al-'Arab ( アラブの島 ) とよばれること は、東へ向けて緩やかに傾斜する標高一五〇〇 もある。 ~ 二〇〇の高原を呈し、地層の変わり目には 大半の地域はサウジアラビアによって占めら鱶を伴ったケスタ山地が並走する。また、南東 れ、ベルシア湾岸から南東部にかけてはクウェ端のオマーン地方には、アルプス・ヒマラヤ造 ーレーン、カタール、アラブ首長国連山帯に属するアハダル山脈 ( 最高峰三〇一 邦、オマーンの国々が、また南部にはイエメ ) が横たわる。海岸部の平野はベルシア湾岸 ン・アラブ共和国 ( 北イエメン ) とイエメン民などの東部を除いては全般に狭小である。海岸 主人民共和国 ( 南イエメン ) が、それそれ存在線は出入りに乏しく、ベルシア湾岸にカタール する。 半島やバーレーン島が変化を与えているにすぎ 地質時代の古生代から中生代に、アフリカ大ない。 陸、オーストラリア大陸、インド半島ともつな 夏にインド洋の季節風の影響によって降水の がって存在していたゴンドワナ大陸の名残の陸あるイエメン山地地方や、冬に降水をみるアハ へんま 塊で、陸塊の基盤をなす始原代の花崗岩、片麻ダル山脈地方を除いては、年降水量は一〇〇い 岩が半島西部の地層を形成する。他方、半島東程度にすぎず、気候は乾燥している。そのため 部には、陸塊の沈降期に堆積した古生代以降の広く砂漠に覆われ、サハラ砂漠なみの超乾燥地 地層が水平に重なっている。東部、西部で地質域をなす南部のルプ・アル・ハ ーリー砂漠や、 が異なるのは、新生代第三紀に紅海の部分が陥 北部のナフード砂漠、中部のダハナー砂漠は著 没してアラビア半島がアフリカ大陸から分離し名である。乾燥気候下で降る一時的な豪雨によ た際、半島の地塊が東に緩やかに傾動したた って刻まれるワジ ( 水無川 ) の河谷は、地表の め、西部にもあった堆積層がその後の侵食作用地形に変化を与えている。 で削り取られた結果である。なお、地塊の傾動 人口は約一九〇〇万で、人口密度は一平方キ。 に加えて、半島の西縁は断層沿いに溶岩の噴出当り約六人と少ない ( 一 0 ) 。住民のほとんど はアラブ人であるが、ほかにインド人、パキス タン人、イラン人、東アフリカ系黒人などが若 干認められる。宗教はイスラム教が支配的であ り、ほとんどがスンニー派に属する。 乾燥気候によって制約されるため、農業が営 まれるのはイエメン山地地方や砂漠のオアシス など水の得られる所に限られる。ステップでは ラクダ、ヒッジなどを伴った遊牧生活が営まれ ている。都市ではスーク ( バザール ) を中心に 商活動が行われ、都市間には長距離交易に従事 する隊商の活動もみられる。海岸部の住民は漁 業や海運とのかかわりが大きい ヘルシア湾沿 岸地域は一九三〇年代の発見による石油資源の 宝庫であり、近年の新油田の相次ぐ発見と石油 価格の高騰は、この地域の産油国経済を大いに 潤し、工業化、都市の近代化も促進されてき 〈末尾至行〉 〔歴史〕アラビアでの考古学的調査は少ない が、旧石器時代からの人類の存在は確認されて 4 ④ - 。 たいせき 1 な ) 一り
る樹脂の一種で、灰褐色をした平滑な塊であ に、安全保障理事会は強制措置の決定を頂点 の集団的自衛権を根拠に車事同盟を設立するこ しいちおうは強力な権限を有するが、その実る。産地により成分や樹脂を分泌する植物の種 とにより、集団安全保障の基礎をさらに掘り崩 してきた。このような政策を正当化するため、効性は究極において大国の一致にかかるという類が異なっていて、シャム安息香、スマトラ安 息香などがよく知られている。シャム安息香の 軍事同盟間の核戦力の均衡によって平和が維持仕組みになっている。↓国際連合〈内田久司〉 されるという、いわゆる核抑止論が唱えられて安全率あんぜんりつ factor safety 材主成分は安息香酸と二種の樹脂アルコール ( ペ 料の基準強さと許容応力の比で求められる係数ンゾレジノールとシアレジノタンノール ) のエ きたが、それはかっての勢力均衡論とまったく 理 原 ステルであり、スマトラ安息香は前出の二種の 気同じ欠陥を含むものであり、現実に米ソを中心をいう。機械や構造物が実際に使用されるとき の 蒸 樹脂アルコールのケイ皮酸エステルが主成分 は、各種の荷重が加わり、それらを構成してい とする核軍拡競争をいっそう促進してきた。 弁 で、このほかに遊離安息香酸などを含んでい そこで、こうした状況への非同盟諸国や平和る各部分は変形し応力を生する。したがって、 全 る。シャム安息香はバニラに似た芳香、スマト 運動の強い批判を背景に、一九七八年の第一回機械や構造物がその機能を安全に果たすために ね 体座 ラ安息香はケイ皮に似た芳香をもつ。用途は、 国連軍縮特別総会の最終文書は、核抑止力と軍は、各部分がそこに生ずる応力に耐え、不都合 なんこう 弁弁弁 事同盟による平和という考え方を否定し、国連な変形もおこらないように設計されなくてはな安息香酸の原料、香料、チンキや軟膏などの医 〈廣田穣〉 らない。材料が各種の荷重に対してどの程度の薬品、防腐剤などである。 安全保障あんぜんほしよう security 伝統の集団安全保障の活性化と軍縮による平和とい う考え方をこれに対置した。また最近、平和運強さをもっかは材料試験より求めることができ安急香酸あんそくこうさん benzonic acid 的には、国の領土保全や政治的独立が外部から の武力攻撃や侵略によって脅かされるのを、軍動のレベルでは、抽象的な「国家の安全保障」るが、材料の強さにはばらっきがあり、加工や芳香族カルポン酸の一つ。昇華性のある無色の 結晶。天然には、安息香中に遊離およびエステ 熱処理の仕方、使用環境によっても変わる。ま にかえて、国民の平穏な生活や基本的人権を非 事的手段で守ることを意味した。最近では、国 た、使用時に加わる荷重も推定したものより大 際的な相互依存関係の強まりや経済的危機の深軍事的な手段で守るという「国民の安全保障」 〈松井芳郎〉 きくなる可能性がある。さらに、機械や構造物 まりを背景として、より広く政治的、経済的利の考え方も主張されている。 で & が複雑になると、荷重によって各部分に生ずる 益などを含めた国家的利益を、軍事的手段だけ 安全保障理事会あんぜんほしようりじかい 下 SecuritY Council 国際連合の主要機関の一応力や変形の計算の不正確さも考えられる。こ でなく外交、経済力などをも用いて守ろうとい ℃以 O ℃ 6 11 -0 】。 6 宀正 う、いわゆる総合的安全保障が主張されることつ。国際平和と安全の維持に関して主要な責任のように荷重、材料および設計製作上の不確実 -0 ・ 1 亠 ワワ 0 -0 -0- っ 0 、曲 もある。 を負わされている。ごのため、有事即応の態勢に備えるべき係数が安全率である。 第一次世界大戦までの国際社会では、国際紛に置かれる。おもな任務は、平和を破壊するに 加わる応力がこの値までなら破壊や大変形が香 子子点点重 争解決の手段としての武力行使を合法とする国至るおそれのある紛争または事態を平和的に処生ずることなく、機械などが安全に機能すると 分分融沸 、 > きロきロ 、殳 + 応力は いう限界の応力を許容応力と、 際法と、相対立する国家 ( 群 ) 間のカの均衡に理し、かっ平和への脅威、平和の破壊、または ルとして存在するほか、ベルーバルサム、トル よって国際平和と国の安全が保たれるという勢侵略行為などに対し勧告をし、または強制措置この許容応力に等しいか、それより小さければ バルサム中にも・ヘンジルエステルとして存在す カ均衡論のもとに、自国の軍備増強と軍事同盟を決定することである。これに関連して、軍備よい。許容応力は、使用する材料の基準になる の強化によって安全を守るという、個別的安全規制計画の作成、国際司法裁判所の判決の履強度を安全率で除して求められる。基準の強度る。実験室的にはトルエンを重クロム酸塩と硫 としては、材料の種類や荷重および予想される酸により酸化すると得られる。工業的には、以 行、地方的紛争の地域的処理の奨励、地域的強 保障の考え方が支配的であった。ところが、こ の考え方のもとでは、対立する国家 ( 群 ) 間の制行動の許可、戦略地区の監督などを行う。さ破壊の様式に応じて、降伏点、引張り強さ、疲前は無水フタル酸の脱炭酸反応により製造して したが、現在はトルエンの空気酸化により製造 軍拡競争が必然的となり、国際緊張が高まってらに、総会と共同して、加盟承認、除名、権利労強度、衝撃強さ、クリープ強さなどが用いら している。冷水には溶けにくいが熱水にはよく れる。安全率は一よりつねに大きく、安全率が 戦争の危機を強めるだけでなく、小規模な紛争停止、事務総長の任命などを管掌する。 溶け、アセトン、エタノール ( エチルアルコー 二であるということは、設計応力を許容応力に 構成は、五常任理事国と一〇非常任理事国の が世界戦争へと拡大する可能性も大きい。そこ ル ) などの有機溶媒にもよく溶ける。食品衛生 計一五か国からなる。常任理事国は、中国、フ等しくとった場合、その二倍の応力が生じても で、第一次大戦後に設立された国際連盟では、 ランス、ソ連、イギリス、アメリカの五大国で基準とした強度を超えないということである。法により許可された防腐剤としてしようゆに用 これにかわるものとして新たに集団安全保障の 〈林邦夫〉 いられているほか、媒染剤などに用いられる。 ↓許容応力 制度が採用された。集団安全保障は、相対立すある。非常任理事国は、総会が毎年半数を選挙 きょたん そのほか、塩は去痰剤、解熱剤として医薬にも る国家も含めて全世界ないし一地域のすべてのし、任期は二年、再選は許されない。総会での安息あんそく 0 パルティア たいせき 〈廣田穣〉 未固結の堆積物が斜面用いられる。 国が条約を結び、相互不可侵を約束するととも選出基準は、第一に国連の目的に対する貢献安息角あんそくかく 、約束違反の抑止と制裁のために協力するこ度、第二に衡平な地理的配分であるが、実際に上に堆積するとき、滑りをおこさすに堆積できアンソクコウノキ〔安息香本〕 be 三 a ・ とを内容とする。この制度は国際関係におけるは第二の基準に比重がかけられてきた。表決る最大の傾斜角。安定角ともいう。一般にその min ( ree 、、、 S 骨、 b き Dryander 工 は、手続事項については単純に九理事国の、非物質の内部摩擦よりも五 ~ 一〇度小さく、構成ゴノキ科の高木で二〇 ~ 二五になる。インド 武力行使の制限、禁止を前提にしているし、侵 略抑止のための協力を通じて国際緊張が緩和さ手続事項については「常任理事国の同意投票を粒子の粒度が大きいほど、また、より角張ってネシアのスマトラ島、ジャワ島、マレーシアの いるほど安息角は大きくなる。地上の斜面ではマラッカに産する。樹皮は灰褐色で滑らか、若 れ、軍縮への道が開かれる可能性も内包されて含む」九理事国の賛成投票によって行われる。 セン、左月 い枝には褐色の毛がある。葉は長さ一一チ いる。第二次大戦後の国際連合では、集団安全後者の場合、常任理事国が反対投票すれば決議普通三五度前後であるが、水底でははるかに小 えん ~ 一一円形で先がとがり、柄があって互生する。表面 が成立しないことから拒否権というが、逆に有さく、泥層では地震などのショックで、一 」保障はいっそう整備され強化された。 ^ 岩松暉〉は淡緑色でつやがあり、裏面は白毛がある。花 効に「決定」 ( 強制措置を含む ) が行われれば、度でも滑り出すといわれる。 ところが、冷戦のもとでは国連の集団安全保 ん ようえき あ障は有効に機能せず、米ソは国連憲章第五一条すべての加盟国に対し拘束力をもつ。このよう安息香あんそくこう benzoin 天然に産すは葉腋に房状に集まって開き、鐘形で五深裂 8 調節ねじ 弁棒 弁ばね ーし 気出 蒸吹
くにのみやっこ 持するためのものであったが、冠位は官人としての個人に与 じる大和政権が全国各地の王たちを国造と名づけて統率し、 えられ、一代限りであり、しかも功績、才能によって昇進が 力あまり強固とはいえない連合体を形づくっていたのであり、 す・統一された中央集権国家からはほど遠い体制にあった。これ可能であった。すなわち、冠位は官人の秩序を整えるもの ほう・一うお・つ あ に対して新羅は、すでに六世紀初頭の法興王の時代に早くもで、官司制的な方向を推し進めてきた結果、広範に官人群が りつりよ、つ 中国の律令制を導入して中央集権的統一国家建設に力強く歩出現した状況に即応するくふう、施策にほかならなかった。 み出していた。 五 ~ 六世紀における国の内外の諸情勢からみ冠位の授受は君臣関係の確認、豪族の官僚化を意味するか れば、日本の朝鮮半島からの敗退は当然の帰結であった。こ ら、これに抵抗するものもあり ( たとえば蘇我氏 ) 、冠位制 の現実に直面した日本の支配層は、国制の転換を真剣に追求の施行は一挙に実現したのではない。その全国的施行は大化 するに至った。 以後であり、そこに推古朝政治の一つの限界があった。 つくしのくにのみやっこいわ 六世紀の大和政権は、筑紫国造磐井の乱鎮定を契機に、 第二は十七条憲法である。これについても問題は多い。た みやけ 以後、国造領を割くなどして直轄領としての屯倉を全国各地 とえば憲法の真偽について江戸時代以来議論があるが、ここ しんせん に設置することにより、軍事、経済、交通上の要衝を押さでは聖徳太子の真撰説に従いたい。憲法全体を通じて注意さ しくつかである。ま え、また国造の一族子弟を召して大王の親衛軍を編成し、とれるのは、そこに示された政治思想の、 きに中央から役人を派遣して税の徴収にあたらせるなど、在ず、国家の構成要素として君、臣、民の三つをあげ、とくに 地支配者たる国造の権威を削り、その被官化、官僚化を図っ このなかの臣すなわち官僚に対して守るべき規律、従うべき ている。また大和政権内部においては、職業分業組織として道徳を示しているのであるが、ここには太子の描いた国家像 とものみやっこしなべ の伴造・品部制が地域的に拡大されるとともに、」 匍度そのと、彼が求めた君臣関係の理想像が一小されている。そこに国 ものの拡充による官司制の発達が顕著な事象として認識され造を含めた豪族の臣僚化に対応する国家の理想像を認めるこ る。これらは、いずれも大和政権による中央集権化の動向をとができるであろう。憲法を構成する政治思想の第一は儒教 示すものであるが、このような国制転換の動機の一つが、先であるが、そこでは民は初めから支配される対象にすぎす、 したがって徳による人民支配は臣のよるべき道徳にはかなら に述べた国の内外諸清勢にあることはすでに明らかである。 なお、六世紀における群集墳の発達が在地における中層以上なかった。しかし、憲法にはまた法家の思想も顕著に認めら の農民の成長を反映するものとすれば、従来の族長層と農民れる。儒家が礼による調和を重んするのに対して、法家は君 との関係に変化がおこったと推測するほかはなく、その変化主権の絶対優先をたてまえとし、ときに儒教的秩序への干渉 は従来の支配体制の維持を困難とするわけで、大和政権でい をも辞さない。太子が法家思想を重視していることもその国 えば、国造層は大和政権への被官化を強め、その権力を背景家観を知る手掛りとなろう。 くにあがた に在地の情勢の変化に対応するという方策をとらなければな 第三に推古朝前後の国制としての国県制について触れて ずいしょ らなかった。 みオし こ、。『隋書』によると日本には軍尼が一二〇あり、一〇 あんかんせんか 六世紀ーーそれは天皇でいえば、継体、安閑、宣化、欽の伊尼翼 ( 冀の誤り ) が一の車尼に属するという。車尼は国 あがたのいなぎ すしゅん びだつようめい で、すなわち国造のこと、伊尼翼は稲置で県稲置のことと 明、敏達、用明、崇峻の七代と推古朝の初頭を含むー丨・とい う時代は、大和政権が国制を転換して政権を強化し、行政機考えられるから、当時の日本ではいわば国県制ともよぶべき 構を充実して中央集権的、官僚制的な方向に歩み始めた時代地方行政制度が行われていたと推測する説がある。一方、 とい , っことができる 『】隋書』の記事は史実とかけ離れたものと考える説もあるが、 少なくとも畿内周辺や東国の一部などにはこれが施行された 〔推古朝〕これを受けた推古朝の政治は、同一路線のうえを さらに前進する。ます内政面では、第一に冠位十二階の制定可能性はある。国県制が大和政権の直轄領的地域に行われた とすると、そこでは中央集権的な行政の貫徹が想像できる。 ( 六〇三年Ⅱ推古天皇一一 ) をあげることができる。これは これは、六世紀にすでにみられた方向をいっそう強力に推進 恵、仁、礼、信、義、智という儒教の徳目をおのおの大小に 分けて十二階とし、階ごとに冠の材料や色を別にし、冠によ した政策とみることができるが、このような制度の手本も、 ってその人の等級を明らかにしようとするもので、日本の位またすでに朝鮮三国にあったのである。このように推古朝 階制の起源としても画期的な意味をもつ。従来、朝廷が豪族 は、一君万民思想、王民思想が強調され、その具体化の方策 かばね に与えた姓は、氏々の間の序列を定め、氏姓社会の秩序を維 が示されたばかりでなく、限界はあるが、それが実施された きん きない 飛鳥時代略年表〔特記〕以外は『日本書紀』『続日本紀』による 西暦年次・年号事項 五 0 七継体一大伴金村、男大迹王を越前より迎立 ( 継体人皇 ) 六大伴金村、任那四県を百済に割譲 七百済、五経博十を貢上 司馬達等、仏教を伝来〔扶桑略記〕 二一筑紫国造磐井の乱 一一五継体天皇没す 欽明大皇即位〔元興寺縁起〕 五三四安閑一安閑天阜即位 宣化三百済聖明王、仏法を伝来 ( 仏教公伝 ) 〔法下 帝説、元興寺縁起〕 五四 0 欽明一大伴金村の失脚 一三一説にこの年仏教公伝という ( この時期、継体・欽明朝の内乱を想定する 見解有力 ) 一六臼猪屯倉を設置 一一三新羅、任那日本府を滅ほす 一敏達一敏達天皇即位 五全用明二蘇我馬子、物部守屋を滅ほす。このころ崇仏論争 五〈〈崇峻蘇我馬子、法興寺建立開始 一一隋、中国を統一 五空 五蘇我馬子、崇峻天皇を暗殺。イ 作古大皇即位 五九一一推古一聖徳太子、摂政となる。四天王寺を建立 五九四 一一仏法興隆の詔 六 00 八遣隋使〔隋書〕 一 0 百済僧観勒、暦・天文地理・遁甲方術の書を もたらす 冠位十一一階の制定 一一一聖徳太子、憲法十し条を制定 一五遣隋使 ( 小野妹子 ) 一六遣隋使小野妹子、答礼使裴世清を送り たび護海。僧旻、高向玄理ら同行 高句麗僧曇徴、絵の具、紙、墨をもたらす 一一一一遣隋使 ( 大上御Ⅲ鍬 ) 一一三聖徳太子、法華経義疏を著す ( 三経義疏完成 ) 一一六隋滅び唐興る 一一八聖徳太子、蘇我馬子、大皇記・国記などをつくる 三 0 聖徳太子没す 三一新羅出兵を企てる。法隆寺金堂、釈迦三尊像 をつくる 三一一蘇我馬子、葛城県を請う。大皇拒否 三四大臣蘇我馬子没す。蝦夷、大臣となる 三六推古大皇没す 六 = - 0 舒明二遣唐使 ( 大上御Ⅲ鍬 ) 「一百済、王子豊璋を人質として送る 一一一高向玄理、南淵請安、唐から帰る 一三舒明天皇没す。蘇我倉山Ⅲ石川麻呂、山川寺 造営開始 六 0 四 引 4
こアフカニスタン Afghänistän あ ンとよんでいる。同族は東に進んで、一五、一 月 六世紀にインドのデリーを中心としてロディー 怩℃ E u-J E つ」 E ヴ乙 ( 0 年年 ーっ」 朝とスール朝を建てた。ムガル朝のアウランゼ ー・フ皇帝の時代に、バシュトー語古典詩人ホシ 年 ュ 8 日皿 年 ーン・ハタク ( 一六一三ー八九 ) が出 象 7 気量 9 / 平 た。一七二二年ギルザイ系のアフガン族がエス 均水 年万万 5 平降 フアハ ーンを占領し、サフアビー朝を崩壊させの 年年 レ 1 人尸 0 ・乂 度 0 2 っハ】 た。同朝末期に登場したナーディル・シャー 2 亠思亠 主 っ 0 E ム 1 よ -0- ー / 0 (. 0 量 民 アフシャールはアフガン族を駆逐し、インドに 2 温水度高 -4 5 フュガ = 9 ド ン 7 0 人一シフ億 0 出入ス 気降緯標 遠征してデリーを一時的に占領し略奪した。帰カ 一。ハ -8 -0 なリ タ O L-n C) L.n O LO O (C) C) 一 11 つ」ワ」亠田し田ー 4 3 カノア s--) っ 0 つ」っ」 国したナーディルが一七四七年六月に暗殺され ス 率 産 ると、彼のもとでアフガン人部隊長であったド 五ロ 度加 公心、 カ 密増 ウッラーニー系のアフマド・シャーが故郷カン となった。国王は滞在地イタリアから退位の書 フ積ロロロ都要貨 内人易教 ダハールに戻り、七月に推されて部族連合の長簡をダーウドに送った。七八年、青年将校を中 国い貿宗 ア面人人人首主通 となった。これがアフガニスタン建国の始まり核とするクーデターが発生、ダーウド大統領を ハキスタン、イラン、ソ連、中国に囲まれた イランとの国境付近の湖に流れ込む。 である。彼は東へ西へと征服戦争を繰り返し、 殺害、ヌール・ムハンマド・タラキーを首班と ルーれがい 西南アジアの内陸国。アフガニスタンとは、「ア 領土を拡大した。その子ティームール・シャー ルード川はヘラート平野を灌漑し、その一部が して、より左翼的・親ソ的体制が出現した。七 は都をカンダハールからカープルに移した。 九年末、ソ連軍の進駐とともにバブラク・カー フガン族の地」という意味で、一八世紀中ごろイランとの国境をなす。 にアフガン族による国家形成が始まり、一九世 気候は地域、とくに標高によって差異がある 一九世紀に入ると、アフガニスタンの東方に ルマルが元首となり現在に至っている。 紀末に国家の体裁をほば整え、一九一九年に独 〔政治〕アフガニスタン最後の国王ザーヒル・ が、一般に乾燥気候で夏乾冬雨である。首都カは、ムガル朝にかわってイギリスが強敵として 立国として国際的に承認された。七三年、建国 ) 出現した。一方、北方ではロシアがトルキスタ シャーの長い治世 ( 一九三三 ~ 七三 ) の末期、一九七 ープル ( 北緯三四度一二三分、標高一七六六 〇年当時の政治体制は次のようであった。まず 以来続いていた王制が倒れ、アフガニスタン共 では、平均最高気温は七月で二五度 o 、最低は ンの諸ハン国を圧倒して勢力を拡大していた。 和国となり、七八年にアフガニスタン民主共和一月で零下二・八度 0 、平均湿度の最高は一月 イギリスとロシアはともにアフガニスタンに働行政府としては内閣があり、首相の下に外務、 国ができた。領域はヒンドウー・クシ山脈を中の七三 % 、最低は六、七月の三八 % である。年きかけた。両大国の間に揺れ動くアフガニスタ内務、国防、法務、計画、大蔵、商業、公共事 心とした内陸国で、多民族国家である。この地降水量は約三〇〇ミリで、その七割が一 ~ 四月に ン政府の態度にいらだったイギリスは、二度に業、文部、情報文化、郵政、厚生、鉱工業、農 域はかってはユーラシア大陸の東西交通路とイ降り、七 ~ 九月にはほとんど降雨がない。 このわたって軍隊をインドからアフガニスタンに入業・灌漑の一四省と、省に準ずるものとして部 ンドを結ぶいわゆる「文明の十字路」にあたる国でもっとも気温の高いのは南西部で、夏季のれた。これがアフガン戦争である。しかし二度族局が置かれた。各省大臣のほかに副首相が 要地であったが、科学、技術の進歩や産業革命 最高はつねに四〇度 0 を越え、乾燥した無人のともイギリスは損害を出しただけで、この国を一、二名いて、専任または省大臣兼任であり、 荒野となっている。ヘラート地方では「一二〇完全に征服するには至らなかった。↓アフガン などヨーロッパの発展の影響を受けることが少 一九六三年まで王族が首相であった。地方行政 日風」とよばれる北風が夏に吹く。南東部山地戦争 区分として、全国が以前は七大州、七小州に分 なく、近代化から取り残されて現在に至ってい ア。フドウル・ラフマーン ( 在位一公 0 ~ 一九 0 一 ) かれていたが、六四年に二九の州 ( ウイラーヤ る。面積六四万七四九七平方キ。、人口一三〇五 にはインド洋のモンスーンが及び、夏雨冬乾 ト ) に再編された。州の下に県 ( ウルスワーリ 万 ( 一九七九 ) 。首都カー・フル。 で、年降水量は五〇〇 = 、リを超え、森林を育てては、専制君主として国内統一を図るとともに、 きん いる。「カー。フルに金はなくても、雪がなくてイギリスと交渉してアフガニスタン国家の育成 ー ) または郡 ( アラーカダーリー ) があった。 〔自然〕面積は日本の一・七倍、北緯二九度か ことわざ はならぬ」という諺がある。カープルの住民 に協力させた。これはイギリスからみれば、こ村は自治体である。立法府として上下両院があ ら三八度までで、日本の本州より少し南にあた る。北東から南西にかけていくつもの山脈が走を養っているのは、その西方の山地に積もる雪 の国をロシアに対する緩衝国にする利益となっ り、上院は勅選議員二八、選挙による議員五 っており、ヒンドウー・クシ山脈と総称されであるという意味である。秋から冬にかけて山た。一九一九年イギリスから外交権を譲られて六、計八四、下院は選挙による議員二一五か 独立したアフガニスタンの進路は、西洋化と国ら、それそれなっていた。両院のほかに「ロー る。北東に高く、南西に向かって低くなる。最 に降った雪は、融けて表流水となるか、または 高峰はノシャーフ山 ( 七四七 0 ) である。この山しみ込んで地下水となる。これらの水を住民が粋主義の両極の間を揺れ動いた。内陸国とい , っヤ・ジルガ」 ( 大集会 ) という、国家の非常時 利用するのである。山地は気温が低いから雪は 地理的条件から、国粋主義に傾斜するのはやむに開かれる会議があった。これは「ジルガ」と 脈の北側はトルキスタンとよばれ、標高数百に いうアフガン族の部族集会の慣習に由来するも の平地をなし、気候温和で農業に適している。わずかすっ融ける。夏の末に積雪がほとんどなをえなかった。第二次世界大戦後も、東西の緊 くなったころに、また新雪が降るわけで、山地張の間で非同盟中立を堅持してきた。しかし東ので、構成員は両院議員と州議会議長であっ 主要河川はいずれもヒンドウー・クシ山脈に源 た。司法府として、首都に最高裁判所があり、 を発する。山脈以北では、オクサス川がバミー には一年を通じて雪が保たれ、これが人間と家と西の隣国で明らかに西側にあるパキスタンと イランに競争意識をもっていたため、必然的に長官以下九名の判事 ( 俗人と聖職者とからな ル高原に源を発し、上流部がソ連との国境をな畜の飲料水や農作物の灌漑用水となっている。 〔歴史〕「アフガン族」の名は、一〇世紀のペ 北隣の大国ソ連に依存するようになった。 る ) がいた。その下に控訴裁判所がカープル、 しアラル海に注ぐ。またムルガープ川が」、初し 一九七三年、王族で元首相のムハンマド・ダカンダハール、マザー リ・シャリーフの三大都 て、これもソ連領に入る。山脈の南側では、カルシア語の地理書に、現在のアフガニスタンと ープル川が東流してパキスタンに入ってインダ ハキスタンの国境付近の山地民としてみえる。 ーウドが、国王ザーヒル・シャーの外遊中にク市に、地方裁判所が州ごとに、初級裁判所が県 ス川に注ぐ。またヘルマンド川が南西に流れ、 一四世紀の史書では、同じ地域をアフガニスタ ーデターを起こし、共和制を宣言、自ら大統領 ごとに、それそれ置かれていた。六四年発布の 9 ' 五リ語 ( ヘルシア語 ) いロ、 300 250 200 150 100 50 0 450
あいるら アイルランド共和国 / 相手国・品類別輸出入 ( % ) 〔図 A 〕相手国別 西ドイツ イギリス アメリカ 輸入 1970 年 1980 輸出 1970 1980 〔図 B 〕品類別 ープの演奏は に準じたものが多い。これは、近代国家として出演している。アイリッシュ・ っしょになって全島が独立したい、と願うのは では七万人近い人々が働いている。 日本でも盛んになり、しばしば日本の大合奏団 〔社会〕住民はケルト系であるが、長い間にさ 北アイルランドのカトリックに多く、逆にイギは当然の政策であり、また、北アイルランド問 題を抱える共和国としては不可欠の政策でもあがアイルランドを訪れて演奏するほどである。 まざまな影響を外部から受けた。そのつめあと リス領に留まりたいと願うのはプロテスタント また、明治から大正にかけて、日本の学者、官 のうちいまに残る一つが、キリスト教諸宗派へ主要三派のなかに多い。もう一つのつめあとはるが、同時に財政赤字の一因でもある。 の住民の分裂 ( とくに北アイルランドで著しアイルランド語 ( ゲール語 ) の衰微である。現〔文化〕一九八二年に、アイルランドはノクタ僚、一一一口論人たちがさまざまな角度から数多くア イルランドを論じていたことも、近年明らかに ーン ( 夜想曲 ) で有名な作曲家ジョン・フィー い ) である ( 図 0)0 共和国のカトリックとい 在、ゲール語で生活している人々は五万五〇〇 〈上野格〉 ー天三七 ) の生誕二〇〇なってきている。 〇人といわれる。幸い、学校でのゲール語教育ルド John Field ( 一天一一 が功を奏して、生活一一 = ロ語は英語でも、ゲール語年と、『ュリシーズ』の作者ジェームズ・ジョ回藤岡謙二郎・千田棯著『アイルランド』 ( 木 内信藏編『世界地理 7 ヨーロッパⅡ』一九 を理解し、利用できる人々がかなり増加してき イスの生誕一〇〇年を祝った。古くはジョナサ 七七・朝倉書店・所収 ) ▽ Department of ている。ゲール語の残っているのは土地のやせン・スウイフト、オスカー・ワイルド、ジョー Facts ーナード・ショウなどもダブリン生まれ Foreign Affairs (lreland) ed. た西部海岸地方であり、それはまた過疎地帯で ひょく 0 ミ守 e ミ d ( 1981 , Dublin, lreland) もある。人口密度でみると、東の肥沃なレンスであるが、アイルランド文芸復興から共和国に ごアイ かけての時期では、ウィリアム・バトラー・イアイルランド・ケール語 剽ター地方は一平方キ。当り八八人であるのに対し エーツ、サミュエル・べケットなどのノー。ヘル ルランド語はインド・ヨーロッパ語族に属する て、南のマンスター地方は四〇人、西のコノー ケ ト地方は二四人、アルスター地方のうち共和国賞受賞者、ジョン・ミリントン・シング、ショケルト語のゴイデリック Goidelic (Q Celtic) 西 に分類される言語である。ゲール語ではゲルガ ーン・オケーシーなどの劇作家たちが、日本で に残った三県は二八人にすぎない。政府はこう しん・一う 出 した状態を改善するため、地方産業の育成に力もとくに名を知られている。彼らの作品を上演 Gaeilge とよぶ。アイルランドはローマの侵寇 するア・ヘイ劇場の活動は有名である。伝統的なを免れたので、前五世紀ごろからの、現在のケ のを注いでいるがなかなか効果はあがらない ルト系の文化を構成したケルト系諸部族の渡来 スポーツには、ホッケーの元祖のようなハー 教育は、初等・中等教育は無料、六歳から一 ング、ゲーリック・フットボールなどがあり、 以来、彼らの言語を高度な音声言語にまで発達 五歳まで義務教育で、一九七八 ~ 七九年の小学 させる余裕がもてた。古代におけるロ承文学時 競馬、ドッグレースなども盛んである。↓アイ 掘生五六万四〇〇〇人、教員二万人である。中学 代に、詩人 ( フィラ ) や語部 ( シャナヒー ) は 用生は二八万五〇〇〇人、教員一万七〇〇〇人、ルランド文学 〔日本との関係〕日本との貿易はアイルランド 表現の芸術性を高め、五世紀のキリスト教の定 発職業教育は学生七〇〇〇人、教員一一〇〇人、高 等教育は学生三万七〇〇〇人、教員三五〇〇人のはなはだしい入超であって ( 図 ) 、あまり着とともに文字が導入されると、七 ~ 一一世紀 しかし近年、日本ごろには、古代ゲール語による文学はヨーロッ 好ましい交易関係にはな、 となっている。大学は一五九二年創立のダ。フリ おうか パ随一たるを謳歌した。一八四五 ~ 四六年の大 ン大学 ( トリニティ・カレッジのみ ) と、ダブからの投資が増加して着実に実績をあげており きキ一ん 飢饉で一時衰退したが、やがて再建運動が興 リン、コーク、ゴールウェーにカレッジをもっ ( 表 1 ) 、関係の改善が期待されている。小泉八 雲 ( ラフカディオ・ ーン ) はアイルランド人り、現在では、ゲール語はアイルランドの第一 アイルランド国立大学の二つで、約二万人の学 生が在籍している。義務教育の就学率は、かつを父とし、ダブリンで育てられた ( あまり幸福国語である。構文では、文頭に動詞を置き、 Yes, No にあたることばがなく、動詞の活用 てはあまり高くなかったが、現在は、中等教育ではなかったが ) 。また、日本とアメリカを結 ぶ海底電線の敷設など、日本の国際電信網の発で答える。気音 aspiration や無気音 eclipsis 男子の部で若干低いものの、他ははば一〇〇 % 〈三橋敦子〉 も頻繁におこる。 展に非常な貢献をしたウィリアム・ストーンも を達成している。 こくみんとうア 医療は一九七九年四月から、すべての人に対アイルランド人であった。イエーツは日本の能 アイルランド国民党 たか する無料入院加療が実施されている。そのほを研究し、その技法を取り入れた劇『鷹の井イルランド議会党 lrish Parliamentary Party みちお とも自治党 Home Rule Party ともよばれる。 戸』をつくっており、その初演には伊藤道郎が か、各種社会保障については、先輩国イギリス 一八七三年に設立されたホーム・ルール・リー 1 ーっ」 気ス グを継承する議員の集団で、イギリス議会のな ン ン 電ガ業業 る 業 道殳 かでアイルランドの自治を主張し続けた。翌七 ニ = ロ ト 6 レ 業 テ っ 四年の総選挙で五六議席を獲得してその基礎を ロ 猟産製 フ 年狩水圧 固め、 ーネルがリーダーになると激しい議事 年 構 人 業業 ( Ⅱ ) O ロ丸・ 妨害戦術で政府を苦しめた。グラッドストーン 農林数 ・① 00 と 人色 ロ 業コ 6 業 , 国 首相にアイルランドの自治を決意させたのは国 総 5 売 5 産げ ) 教人 男人 の 8 一合国 ーネルの死 ル民党の力によるところが大きい 卸ホ 不 トス 宗 類 社一業 ( 天九 I) 後、党は分裂したが、一九〇〇年にレ 業 ン 通 立ン スイ " ギ ス ム天ラ 就 大 レ派ジテ《員イ ドモンド John Edward Redmond ( 天五六ー 域人ビ 9 軒呆 ィー 地個 っ老ソフ他 イ 一 0 によって再統一され、一二年アスキス首相 業 「プロテスタント—J そ、を 産 に迫って第三次自治法案を提出させた。しかし 7 総額 フランス オランダ 日本その他米ドル 1 567.9 26 1 1 1 31 . 5 1 034.9 8 481 . 0 総額 機械機器その他米ドル 1 567.9 1 1 1 3 1 . 5 1 034.9 8 481 .0 っ・ー ) 《 0 Ln 一 -3 ( 0 ・ム・ 1 22 0.9 15.1 28.5 0 2 3 き 鉱物性燃料製造工業製品 化学製品 22 食料品等 輸入 1970 年 13 1980 輸出 1 970 1980 1 ー 8 ワ」 1 ー 8 25 19.4 かたりペ
and Social Commission for Asia and Pa- 偏見に多く根ざすものであることが明らかにな ー開発、一次産品などの諸問題をコンセンサス ド、ビルマ、インドネシアの社会党が提唱し エスカップ て、一九五三年結成されたアジア諸国の社会党 cific 略称国連経済社会理事会の方式によって着実に解決してきた実績は高く評った。アジア的共同体という概念そのものが成 〈横川新〉立しうるものなのかという問題を含めて、アジ 価することができょ , つ。 の協力機構。ビルマのラングーンで開かれた創下部機構である地域経済委員会の一つとして、 たいへいよ ア的共同体論は根本的な再検討を迫られてい 立大会には、インド、インドネシア、ビルマ、 一九四七年三月二八日、第四回国連経済社会理アジア・太平洋放送連合 うほうそうれんごう Asia-Pacific Broadcasting る。↓アジア的生産様式↓古典古代的共同体 マラヤ ( 現マレーシア ) 、レバノン、パキスタ事会決議三七により設立された。当初はアジア 〈小谷汪之〉 ↓ゲルマン的共同体 ン、イスラエル、日本の八か国の社会党が参加 極東経済委員会 Economic Commission for Union 略称 <22D0 アジア・太平洋地域の 工カフェ した。のちにセイロン新平等社会党、ネパール Asia and the Far East (QO<LæQ) とよば 独立国の全国的な性格の放送機関が加盟する組回小谷汪之著『マルクスとアジア』 ( 一九七九・青 木書店 ) ▽同著『共同体と近代』 ( 一九全・青 会議党、南ベトナム社会党の加入が承認されれていたが、最近に至りアジア以外の西サモ織。一九六四年に設立、八二年現在二八機関 ア、トンガ、ナウル、パプア・ニューギニア、 木書店 ) た。本部をラングーンに置き、議長にウ・ ( 二八か国 ) が正会員として、また準正会員と てきせい、んよ、つしき スエ ( ビルマ ) が就任。執行局と反植民地主義フィジーなどの太平洋諸島の国および地域の加 して一〇機関、準会員として二九機関が加盟しアジア的生産様式 マルクス 局を設け、毎年一〇月に「従属国人民自由デ 盟が増加してきたこと、アジア太平洋地域におている。設立の目的は、会員の利益保護、放送 asiatische Produktionsweise ー」を行うこととした ( ただし、実際にはビル いて経済開発と並んで社会開発、社会福祉の重に関する問題の研究促進と調整、情報の交換、は『経済学批判』 ( 天五九 ) の序言で「大づかみ にいって、アジア的、古代的、封建的および近 マで行われたのみ ) 。五六年一一月インドのポ要性が増大し、委員会においてもこれらの事態国の開発と教育の分野における放送利用の促進 ンべイで第二回大会を開催。五七年七月、ウ・ を認識して機構名に反映させる必要性が生じてなどで、これに基づいて、番組、ニュース、著代。フルジョア的生産様式が経済的社会構成の相 ラ・アン事務局長が、ウィーンで開かれた社会 きたことなどの理由により、七四年九月一二日 作権、技術、研修などの面で会員相互の連絡や次ぐ諸時期として表示されうる」と述べたが、 調整を行うほか、他機関との交渉の窓口にもなアジア的生産様式については、他の三つの生産 主義インター第五回代表大会に出席して、同イ から現在の名称に改称された。は設 様式のようには明確な説明を残さなかった。一 ンターとの協力強化を要請した。五八年三月ネ立当時はアジアの戦後復興を図ることを目的と っている。また教育番組の共同制作も行い パールで開かれた執行局会議で組織綱領を採択していたが、現在ではアジア太平洋地域の経済「賞番組コンクール」も開催している。方、一九二五 ~ 二七年の中国革命に際して、中 したが、その後活動は行われず、大会も開かれ協力、社会開発のための協力機関として、種々 このほか ( 暫定衛星コーディネーティン国社会の性格を規定し、革命戦略を定めるにあ ていない 〈土生長穂〉の地域協力プロジェクトや開発スキームを立グ・センター ) と ( アジア・太平洋放たり、このアジア的生産様式の概念が用いられ た。すなわち、一九二七年一一月に中国共産党 送開発研修所 ) が設置されている。本部は東京 私立。一九四一案、実施している。 亜細亜大学あじあだいがく 〈田村穣生〉 が発表した土地問題党綱草案において、現在の 年 ( 昭和一六 ) 設立の興亜専門学校を前身とし 加盟国は一九八二年現在で域内国三九、域外 (Zäæ内 ) にある。 てききようどうたいョ中国はアジア的生産様式から資本主義に移行す て、五五年 ( 昭和三〇 ) 新制大学として設置さ国五 ( アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、アジア的共同体 れた。「とくに日本およびアジアの文化社会のオランダ ) の四四か国で、そのうち香港、。フル ーロッパ列強によって植民地あるいは半植民地る過渡期にあるとされたのである。この規定は 翌年八月の第六回党大会では否定されたが、草 とされる以前の旧アジア社会の基礎をなしてい 研究と建設的実践とアジア融合に新機軸を打ちネイなど八か国 ( 地域を含む ) が準加盟国とな - 条はマジャール JIK)ABHr HI ・ HaTbeBHq MaAb ・ 出す人材の育成」を目ざす。八四年現在、経っている。日本は一九五二年 ( 昭和二七 ) に準たとされる共同体。マルクスは「資本制生産に 先行する諸形態」 ( 草稿『経済学批判要綱』天 営、経済、法学の三学部とそれぞれの大学院研加盟し、五四年に正式加盟が認められた。 qpZLyudvig lgnat'evich Mad'yar ( 天九一 一九四 0 ) の見解に負うところが多く、マジャール 五七 ~ 五 0 で、古典古代的共同体、ゲルマン的共 究科 ( 修士、博士課程 ) をもつ。カリキュラム の機構は、総会、常設委員会、常 同体との対比においてアジア的共同体を特徴づは中国農村経済研究』初版 ( 一九一一 0 で、中国 にアジア研究やアジア系一一一一口語など一二か国語に駐代表諮問委員会、事務局より構成されてい ん・れがい の社会経済構成は、人工灌漑が農業の主要条件 及ぶ地域一言語プログラムを組み込み、国際経済る。総会は機構の最高意思決定機関で毎年一回けた。『資本論』 ( 第一部第一一一章 ) では、イン ドを直接の素材として、アジア的共同体が、①であり、土地所有が欠如し、国家が最高の土地 や発展途上国問題を扱う経済学科、国際関係学開催される。常設委員会は総会の下部機関で、 科など、アジアの教育研究や国際交流に力を入農業開発、開発計画、産業・技術・環境、天然土地の共有、②農業と手工業との家内的結合、所有者である東洋的専制主義の国家形態をとる むさしの れている。所在地は東京都武蔵野市境五ー二四資源、人口、社会開発、統計、貿易、海連・運③固定されたカースト的分業、の三つの要素かアジア的生産様式であるとしていた。マジャー ルのこの見解には、一九三〇年のコム・アカデ 〈喜多村和之〉輸・通信の九つが設置されている。事務局は国らなるとされている。そして、このアジア的共 たいへいよ、つきょ 連事務局の一部を構成し、国連事務局長によっ同体が相互に孤立したまま、無数の原子のよう ミー農業研究家全同盟会議で多くの批判が出さ アジア太平洋協議会 ア , っギ ) 刀し Asia and Pacific Council 略称 < て任命された、約六五〇名の職員を有してい に散在しているうえに、アジア的専制国家がれ、翌年二月レニングラードで開かれたマルク シャン、イ しよ、つりつ ス主義東洋学研究協会とレ一一ングラード東洋学 アジア太平洋地域の結束強化を目的る。本部は、設立当初は上渺に置かれていた聳立しているのがアジア社会の特徴とされた。 このような旧アジア社会のイメージは、マルク 研究所共同主催の大討論会でも激論が展開され とした協議機関。一九六四年アジア外相会議のが、一九四八年に移転して以来、タイのバンコ た。その模様が各国に伝えられると、これを機 クにある。は、これまで域内経済開スのみならず、一九世紀ヨーロッパ思想にほば 席上で韓国が提唱、六六年第一回会議をソウル に論争が開始された で開催した。加盟国は日本、韓国、台湾、タ発のための措置の発議・参加、調査研究の実共通するものであった。それは今日の日本にお 日本でも、すでに始まっていた資本主義論争 イ、フィリピン、南ベトナム、マレーシア、オ施、経済開発に関する情報の収集・整理・配 いても、大塚久雄の『共同体の基礎理論』 ( 一九 と相まって議論が行われたが、一九三五年 ( 昭 ーストラリア、ニュージーランドで、ラオスは布、計画立案のための助言・勧告などを通じ五五 ) などを通して一般に受け入れられている。 オブザー しかし、近年、アジアやアフリカの社会につい 和一〇 ) 以降は政治的弾圧のために中止され ー参加。日本、オーストラリア、ニて、アジア太平洋地域における開発センターと た。その後一九三九年にマルクスの草稿「資本 一にユージーランドの中国承認で参加国間の足並みしての役割を果たしてきた。東西対立、中ソ対ての歴史学的、人類学的研究の発展によって、 制生産に先行する諸形態」 ( 天五七 ~ 五 0 がソ連 あが乱れ、七三年に事実上自然消滅。〈池田文雄〉 立、ベトナム戦争などアジアを取り巻く厳しい このような旧アジア社会のイメージが、実体と 情勢のなかにあって、中立的立場を堅持しなが してのアジア社会のあり方からはほど遠いもので公表され、四七年に日本にも紹介されると、 じアジア太平洋経済社会委員会 ら、域内の経済開発、社会開発、資源エネルギであり、むしろヨーロツ。ハ人のアジアに対する論争が再開された。草稿中にみられる総体的奴 2 あ ( いようけいざいしやかいいいんかい Economic
あるばに れきせい 〔歴史〕アルバニア人は、古代ギリシア文明以 斜で高揮発分の瀝青炭または亜瀝青炭で、露天のち大首長となり、諸部族統一の事業を始め 月 前からバルカン西部に住んでいたイリリア人の 掘りで採掘されている。埋蔵炭量は、本炭田のた。この間、兵を率いてドイツ、イタリアに遠 っ乙 O E LLJ E (. 0 E 丁ー 0 ・ ) ー 0 ) 月阡 子孫であるとされ、「バルカン最古の民族」と 続きであるプリティッシュ・コロンビア州の炭征し、各地の王から貢ぎ物を受けた。死後その いわれるが、相次ぐ異民族の支配下にあって現 量も含めると、総計一〇〇〇億トン以上に達す遺体は、古。フダ ( プダベストの旧市街 ) に注ぐ ト 6 代に至るまで独立国家を形成することができな 〈家田修〉 8 日皿 る。年間生産量はアルバータ州約六九〇万ト 日の源に埋葬された。 7 気量つ」 こ Lake AIbert ア かった。ィリリア人については七世紀初頭以降 表 ( 一九七一 D 、・フリティッシュ・コロンビア州をあわアルバート湖 6 均水 象 年 記述がなく、一一世紀になってビザンティン帝 せると一一五〇万トンで、カナダの全生産量の約フリカ中央部、アフリカ大地溝帯の西リフト・ 5 平降 年年 度 国支配下の一部族としてのアルバニア人が史書 半分にあたる。アルバータ州の石炭は日本にお ハレー北端の湖。ザイールとウガンダとの国境の ナ 量 に登場する。一四世紀にオスマン・トルコのバ ける将来の一般炭および原料炭の供給源として に位置する。アルバート・ニャンザ Albert 一フ 2 温水度高 4 有望視されている。 ルカン侵入に伴ってその支配下に置かれ、以後 1 気降緯標 〈木下重教〉 Nyanza 湖ともいう。北東から南西方向に細長チ 五世紀間トルコ帝国の版図のなかにあった。そ バッターニー い形で、長さ一六〇キロ、幅三五キ、面積五三四 アレ・バッターニー きゅう ー九 0 七 ) の間の一五世紀中葉、一豪族のスカンデルペグ ハン五平方、。。湖水面高度は六二〇。西側は急 レヾード Arpåd ( ? が反旗を翻し、西欧キリスト教世界の期待を担 ガリー最初の王朝アールバード朝 ( ~ 一三 (1) の崖で、東側よりビクトリア・ナイル川が比高一国境地帯にはコラブ山 ( 一一七五一 ) をはじめディ って一四四三 ~ 六八年の二五年間にわたり、ト ナル・アルプス系の二〇〇〇級の山々が連な 始祖。マジャール部族連合首長およびその一部二二のマチソン滝から流入、ほかにカフ川 族で、のちにマジャールの名を残すメジェル部南のエドワード湖よりセムリキ川が流入し、アる。ューゴスラビアから流入するドリン川が国ルコの大車を撃退し続けたことがアルバニア人 の誇りとなっている。スカンデルペグ以後、ア 族の長として、大首長クルサーンのもとで諸部ルバート・ナイル川が流出する。湖とアルバー 内二八〇キ。を流れ、河口付近は分流して、プー ルバニアはふたたびトルコ勢力の波にのまれ、 族を指揮し、八九五年にカル。ハティア盆地に侵 ト・ナイル川は航行可能で、湖岸、河岸沿いに ネ川など他の数条の河川とともにアドリア海に 入、その地を征服した。このとき、「ドナウと集落があり、漁業が営まれている。一八六四年注ぐ。湖では北部のシュコーデル湖 ( 約三六 0 平住民のイスラム教化が進んだ。 一八七八年、民族意識の高まりのなかにプリ ティサに囲まれし大地は余が祖先たる、かのア にイギリスの探検家べーカー SamueI Baker 方キ。 ) 、南東部のオフリド湖、プレスパ湖がい ッテイラ大王のものなり」と宣したという伝説がヨーロッパ人として初めて発見し、ビクトリ ずれも国境上にある。海岸地帯は温暖な地中海ズレン ( 現ューゴ領 ) でアルバニア国民連盟 が残っている。クルサーンが九〇四年に没したア女王の王子名から命名した。 〈堀信行〉性気候で、降雪はまれである。内陸部は大陸性 ( プリズレン連盟 ) が結成され、トルコ軍と衝 気候で、冬季に積雪がある。年降水量は全国平突した。一九一二年、第一次バルカン戦争にお 均で一〇〇〇 = 、リを超す。夏の最高気温は三〇度けるトルコの敗退に際し、イスマイル・チエマ ルの率いる一団がプローレにて独立を宣一一一一口、臨 0 を超え、冬の最低気温は海岸で〇度 0 前後、 英 内陸部の諸都市で零下一〇度 O 以下となる。国時政府を組織した。一三年、列強はロンドンの マ 推 土の四割余りが耕地や牧草地、同じく四割余り大使会議においてアル・ハニアを列強の後見のも ムロ 年 国新推 とに独立させることを決め、国境を画定し、一 が森林で、カシワ、ブナ、マツが多い 年 ス 〔地誌〕工業のほとんどは第二次世界大戦後に四年ドイツ貴族ウイルヘルム・ウィートがアル 共 0 年年 0 .1 ーノ 11 -0 0 / \ 8 8 ハニア王として送り込まれた。しかし彼は国内 発達したものである。主要なものとしては首都 五ロ ぼつばっ 二 = ロ 1 戸 0 止教 チラナの繊維、建築資材、化学、食品 ( 全工業に根を下ろしえず、第一次世界大戦勃発後まも ( 7 ア 万 禁正 0 =. 2 02 会 E 0 1 よ 0 土 0 -* ( - はアク生産の五分の一 ) 、港湾都市ドウレスの化学、なく国外に去り、戦火のなかで、オーストリ 上シッ ーっ 0 人ラルク = 立思 軽工業、北部の古都シュコーデル 、 1 1 ・チアレレ 憲ギト 0 ・ 1 の電線、発電、たばこなどがあ ア 8 率 る。また中南部に油田地帯があ 0 、・ 1 語 度加 当 り、石油の精製と輸出も行われて 密増 レ 内易教 ノ積ロロロ都要貨 いる。一九七〇年代に入ってから 国い貿宗 ア面人人人首主通 東部のピスカシュ、ポグラデッ ル ( 一九七九推計 ) 。首都チラナ市ほか二六の行政に、鉄やニッケルの鉱山が開発さ 東ヨーロッパのバルカン半島南西部にある社 会主義共和国。正称は、シュキペリア人民社会区域に分かれている。国際的軍事・経済プロッれ、中部のエルバサンに製鉄コン クにはいっさい参加せす、独立独歩の社会主義ビナートが建設された。農業は海 主義共和国 RepubIika PopIIore SociaIiste e わし Shqipériséシュキペリアは「鷲の国」の意路線をとっており、公開情報や外国との人的交岸平野部を中心に行われ、小麦、 味で、国章と国旗に双頭の鷲の図柄が使用され流がきわめて少ないため内情はあまり知られてトウモロコシ、米、綿花、タバ コ、ヒマワリ、ビート ( テンサ > 子 / . し ている。北と東はユーゴスラビア、南はギリシ イ ) などが主作物であるが、果菜 アに隣接し、西はアドリア海に面し、その対岸〔自然〕南北三四〇キロ、東西の最大幅一五〇キ。 の細長い国で、海岸沿いの平野のほかは起伏に類にも力が入れられ、また全土で にイタリアがある。面積は二万八七四八平方キロ で、九州の約八割にあたる。人口二七三万四〇富む山地であり、国土の七割が標高三〇〇以丘陵の斜面を果樹園にする作業も めいび 〇〇 ( 一 0 推計 ) 。一人当り国民所得は八四〇上の風光明媚な国である。ューゴスラビアとの続いている。 アルバニアと bania 一三い 300 250 200 150 100 50 0 アルバニア 工ルノン リリト セマン川 コルチェ レ キ ケルキ - ぃ - アトリント シ 1 : 0 , 0 803
とくにもっとも悲惨であったのは、アフリカ人の近代政治料の導入など、制度的、技術的面での改革がなされ、それを 第二は、さらに約一〇年後に独立したポルトガル領モザン ビークとアンゴラ ( 一九七五 ) で、いずれも長期にわたる激しい り・ヘの参加を許さず、アフリカ人の独立要求に対し、いわば責金融面で援助するための土地銀行や公社などが創立されてい る。第二に、植民地期に白人、インド人が占めていた部門へ武力闘争を経過した。モザンビークでは、六四年から全民族 、か任を放棄する形で事態を投げ出したベルギー領コンゴであっ あた。すなわち、世界有数の銅、コバルトなどの鉱産資源を有のアフリカ人化政策が実施された。しかし、熟練者、技術者的なモザンビーク解放戦線によるゲリラ 闘争が行われた。また六一年から始まったアンゴラでの武力 するコンゴに外国企業があくまでも利権を保持しようと画策の少ないことから運営面でさまざまな問題が起こっている。 以上を含め、経済全体を多角化し、バランスのとれた経済闘争では、民族主義的なアンゴラ解放人民運動、 したことが、独立直後の同国を政治的混乱に陥れた。一九六 〇年六月の独立五日後、ベルギー司令官に対する軍隊の反乱構造を創出していくために、ほとんどの国は経済開発計画を部族を基盤とするアンゴラ解放人民戦線、アン 作成し、その目標に沿って経済開発を進めている。それに共ゴラ全面独立国民連合の各解放勢力が分裂、 が起こり、さらに七月には産銅地帯カタンガ州 ( 現シャパ 通していえることは計画実現のための資金不足で、その資金対立した。分裂は東西勢力の介入を招き、ソ連、キューバが 州 ) のチョンべが同州の「分離独立」を宣言した。ルムンバ 首相は国連軍の出動を要請し、コンゴ問題は国際化した。九を外国からの援助 ( 借款、供与 ) に依存している。さらに農、アメリカ、中国が、南アフリカ共和国が 月にはルムンバ首相とカサ。フ。フ大統領の意見が衝突し、相互産物など圧倒的に一次産品輸出に依存しているアフリカ諸国をおのおの支援し、結果的には七四年にポルトガ ルで軍事クーデターが起こり、植民地解放は早められた。 は、国際経済の変動の影響を受けやすく、一九七三年の石油 に解任しあう事態となり、その間に陸軍参謀長モブツ大佐が 第三は、さらに五年後のジンバ。フェ ( 旧南ローデシア ) の クーデターを起こし、ルムンバ首相を逮捕して、のちに殺害危機以降、経済開発計画が大幅に修正されなければならなく 独立 ( 一九〈 0 ) と、現在解放闘争の過程にあるナミビア ( 旧南 なってきている。 した。↓コンゴ動乱 このように交易条件の悪化と債務の累積による経済的危機西アフリカ ) である。第一と第二段階が宗主国対アフリカ人 〔独立後の諸問題〕独立後のアフリカ諸国が直面した問題 は、政治面では国家建設の方向を決めること、経済面ではモは、国民の不満を増大させ、その不満を先取りした軍部によ解放勢力という二極構造であったのに対し、ジンバ。フェでは ふっしよく くる政権転覆を企てるクーデターが、独立後のアフリカ諸国で宗主国イギリス対白人入植者対アフリカ人解放勢力、ナミビ ノカルチュア経済構造を払拭することであった。まず多 アでは国連対南アフリカ共和国対アフリカ人解放勢力と、そ は頻発している。一九六五年のアルジェリア、六六年のガー の国々が採用した方向として、社会主義路線がある。第一 は、アフリカ社会主義とよばれるもので、一九六七年のアルナ ( エンクルマの失脚 ) 、ナイジェリア、プルンジ、オートれぞれ三極構造になっている。さらに武力闘争の過程で、東 ーシャ宣言に基づくタンザニアのウジャマー社会主義がそのポルタ、中央アフリカ、六七年のダォメー ( 現べナン ) 、ト西勢力および周辺アフリカ諸国が介入し、いっそう複雑化し ている。ジンバブエでは、一九六五年に白人入植者が宗主国 リ、コンゴ ( 。フラザビル ) 、 ーゴ、シェラレオネ、六八年のマ 代表例である。その骨子は、植民地化以前のアフリカ社会が もっていた共同体の原理を生かして、農民と労働者だけから六九年のリビア、ニジェール、ソマリア、スーダン、七一年の命令を無視して一方的独立宣一言をしたのが問題の発端であ なる搾取のない平等な社会を建設していこうとするものであのウガンダ、七二年のダォメー、ガーナ、マダガスカル、七る。このためイギリスは入植者政府とたび重なる交渉をし、 る。この原理に基づいて、従来白人が握っていた銀行、保険三年のルワンダ、七四年のニジェール、エチオピア、七五年アフリカ人の意見を聴取したうえで独立を与えると主張した 力いらい のナイジェリア、チャドと、クーデターの例は枚挙にいとまのに対し、入植者政府は傀儡的アフリカ人首長層の同意がア 会社、外国貿易企業などの基幹産業の国有化、ないし政府の 過半数株式取得による経営参加が行われた。一方、国民の九がない。軍事政権のなかには、「過渡的」使命を果たして文フリカ人全体の意志であるとして譲らず、交渉はつねに決裂 した。初めその交渉を見守っていたエンデベレ族のジンバブ 〇 % 以上が従事する農業に関しては、従来の小農形態から共民政権へ移行しているものもあるが、逆に軍事政権が長期化 エ・アフリカ人民同盟と、ショーナ族のジンバ しているケースもある。 同農場、共同作業、労働に応じた生産物の配分という集団化 が行われた。第二は、マルクス・レーニン主義に基づく科学〔南部アフリカの解放闘争〕一九六〇年のアフリカ独立の波プエ・アフリカ民族同盟のアフリカ人解放勢力 的社会主義の採用である。モザンビークやアンゴラでは、すは南部アフリカには波及せず、この地域に独立の夜明けが訪は、七五年のビクトリア・フォールズ会談を契機に団結し、 べての基幹産業は国有化され、人民の所有となった。さらにれたのは約五年後の六〇年代なかばであった。その最大の理統一アフリカ人民族評議会を結成した。しかし この会談は決裂し、 D<<ZO はふたたび分裂して、以後交渉 前衛党として革命委員会を組織し、経済の計画化、労働組合由は、同地域は金、バナジウム、ダイヤモンド、白金、クロ による解決を断念し、はザンビアに基地を置き、ソ を通しての人民の経営参加を推し進めており、対外的にはソム、マンガン、ウラン、銅など鉱産資源が豊富で、それを目 的に多くの白人が入植し、また欧米の投資の対象となり、白連が武器援助した。 N<ZD はモザンビークを拠点にして中 連、東欧、中国などとの関係を深めている。 国の支援を受け、激しい武力闘争を繰り返した。この事態を 経済面での問題は、植民地的経済構造の破壊による経済自人の権益が深く根を下ろしているためであった。 この地域では独立の過程は以下の三段階に分けることがで打開するため、アメリカのキッシンジャー国務長官は、南部 立化である。その手段として第一にとられたのが、白人入植 きる。第一は、一九六〇年代なかばに独立した国々、つまりアフリカ往復外交によって妥協案を提示し、それに基づいて 地域では入植地のアフリカ人への返還であり、一九六二年の ケニアの「一〇〇万エーカー入植計画」はその例である。入マラウイ、ザンビア ( 一九六四 ) 、レソト、ポッワナ ( 一九六六 ) 、ス七六年ジュネープ会談が開かれたが失敗した。その後、イギ リスがアメリカと協力して新提案を準備している間に、入植 植地を細分化してアフリカ人に再入植させ、アフリカ人の中ワジランド ( 一九六 0 で、いずれも宗主国イギリスとの平和的 農を育成するとともに、都市に滞留している失業者への土地交渉によって独立した点で、六〇年に独立した他のイギリス者政府は国内穏健派アフリカ人と「国内解決」を図り、七九 かんかい 鬼晶政権が成立した。そ 年六月「ジンバブエ・ローデシア」イイ 再配分を行った。また入植地以外では、灌漑施設の建設や肥領アフリカと共通点をもっている。
あかでみ リュッセル 〔ニュージーランド〕 日本芸術院①一九一九②東京 世界のアカデミー 〔チェコスロパキア〕 ニュージーランド王立アカデミー 日本学術会議①一九四九②東京 RoyaI &)Ciety of New Zealand チェコスロパキア科学アカデミー Cesko- 世界各国は、政府による設立、あるい 〔朝鮮民主主義人民共和国〕 slovenskå Akademie Véd ①一九五一一②プ ②ウエリントン Academy of は庇護のもとに、科学・文学・芸術など科学アカデミー ラハ 〔アフリカ〕 のアカデミーをもっている。 ①一九五二②。ヒョンヤン Academy of Social 〔デンマーク〕 〔エジプト〕 歴史的にみるとヨーロッパを中心とし 社会科学アカデミー 云 + 元 &•iences 1 Kongelige Da- Academy ofthe 王立科学・文学アカデミー 〇一九五二②ピョンヤン アラビア言語アカデミー て一七 ~ 一八世紀に設立された長いイ糸 0 一九三二②ギゼー nske Videnskabernes Selskab ①一七四二 Arabic Language 1 Academy of Medical 一・ をもつアカデミーから、二〇世紀に入っ 医学アカデミー ①一七②コ。ヘンハーゲン ences ) ピョンヤン エジプト研究所 lnstitut d'Egypte て、新興国家が近代化のために設立した Akademiet for de skØnne Academy of Agricultural 九八②カイロ 美術アカデミー アカデミーなどさまざまである。組織的農学アカデミー Kunster ①一七五四②コペンハーゲン 〔ガーナ〕 にみたときも国によって違いがある。全①一九五五②ピョンヤン Akademiet Ghana Acad ・ デンマーク技術アカデミー Academy of Forestry 一・ ガーナ工芸・科学アカデミー 国的に統合されたアカデミーもあれば、 林学アカデミー for de tekniske Videnskaber 1 (D 一九三七 emy of Arts and Sciences ①一九五九 ①一九四八②。ヒョンヤン 科学、文学、芸術など、それそれの分野 ence 〔フィンランド〕 Academy of Railway ②アクラ ごとのアカデミー、あるいは一国の中の鉄道科学アカデミー Suomen Aka 窄・ フィンランドアカデミー 〔ナイジェリア〕 各地域ごとに組織、設立されたアカデミ Sciences ②ピョンヤン mia ①一九四七②ヘルシンキ Nigerian Academy FlShe 「ー窃ナイジェリア科学アカデミ ーもある ( ①は設立年、②は所在地 ) 。 水産学アカデミー ①一九七七②ラゴス Academy of 〔フランス〕 ①一九六九②ピョンヤン 〔アジア〕 Academy 0 「 Light フランス学士院 L'Institut de F 「 ance 〔南アフリカ共和国〕 軽工業科学アカデミー 〔中国〕 ①一七九五②パ 南アフリカ王立協会 Royal society 中国科学院 Chinese Academy Sciences lndustry Science ①一九五四②ピョンヤン South Africa 1 フランスアカデミー Académie franqaise 〇一八七七②ケープタウン ①一九四九②北京 〔大韓民国〕 ①一六三五 National Academy アフリカ研究所 The Africa lnstitute 中国社会科学院 Chinese Academy 。 ( social 国立工芸アカデミー Académie des lnscriptions ①一九六〇②プレトリア 文学アカデミー Arts ①一九五四②ソウル 〇一九七七②北京 Suid ・ Belles-Letters ①一六六三 NationalAcademy 。一南アフリカ科学・エ K アカデミー 国立科学アカデミー 〔インド〕 Académie des Sciences Afrikaanse Akademie vir Wetenskap en Kuns 科学アカデミー lndian Academy ①一九五四②ソウル インド科学アカデミー ①一六六六 0 「 ①一九〇九 ( 幻 ) プレトリア ①一九三四②・ハンガロール 〔パキスタン〕 Académie des Beaux ・ Arts Pakistan Acad ・ lndian Nation ・ 美術アカデミー 〔ヨーロッパ〕 パキスタン文学アカデミー インド自然科学アカデミー ①一九七九②イスラマパ 〔オーストリア〕 emy 0 「 Letters al Science Academy ①一九三五②ニューデ Académie des オーストリア科学アカデミーÖs 窄「「 e 一 c 引・道徳・政治学アカデミー Pakistan Acad ・ che Akademie der Wissenschaften ①一八四七 Sciences Morales et P01itiques ①一七九五 National Academy 0 「 パキスタン科学アカデミー 国立技芸アカデミー ②ウィーン Art 〔ドイツ民主共和国〕 ①一九五三②イスラマ・ハ emy 0f nc 窃 ①一九三四②ニューデリ ドイツ民主共和国科学アカデミー Akade ・ 〔・ヘルギー〕 Na tional Academy 0 「 国立文学アカデミー mie der Wisenschaften der DDR ①一七〇〇 ベルギー王立科学・文学・美術アカデミ 〔フィリピン〕 Letters ①一九五四②ニューデリ Académie Royal des Sciences. des Lettres ②ベルリン フィリピンアカデミー NationaI Academy of 国立科学アカデミー ①一七七二 des Beaux ・ Arts de Belgique 〔ドイツ連邦共和国〕 ②マニラ ①一九三〇②アラハ Bayerische Aka ・ ②プリュッセル バリア科学アカデミー Academy of Zoology 〔シンガポール〕 動物学アカデミー demie der Wissenschaften ①一七五九②ミ 王立オランダ語・文学アカデミー シンガポール国立科学アカデミー ( ①一九五四②アゴラ ュンヘン nklijke Academe V00 「 Nederlandse Ta al en Lett- ジャム・カシミールエ廿・文化・ = = ロ語ア po 「 e National Academy 0 ( Science Akade ・ 1 〇一八八六②プリュッセル ポール ゲッティンゲン科学アカデミー カデミー Jammu and Kashmir Academy 0 一 Aca. ①一七五 mie der Wissenschaften in Göttingen 王立フランス語・文学アカデミー 〇一九五八 〔オセアニア〕 A ュ . Culture and Language 1 démie Royale de Langue et de Littérature Franq ・ 一②ゲッティンゲン 〔オーストラリア〕 ②スリナガル Austral ・ alSe 1 〇一九二〇②プリュッセル ハイデルベルク科学アカデミー Heidelbe 「・ san ・オーストラリア科学アカデミー 国立音楽・舞踊・演劇アカデミー Académie ger Akademie der Wissenschaften ①一九〇九 ①一九五四②キャ ベルギー王立医学アカデミー ian Academy Of Science geet Natak Akademi ①一九五三②ニュ ①一八四一②ハイデルベルク ン・ヘラ RoyaIe de Médecine de Belgique Akademie der Wis ・ Aus- ②プリュッセル 科学・文学アカデミー オーストラリア人間学アカデミー 〔イスラエル〕 Acadé- senschaften und der Literatur ①一九四九② ①一九六 tralian Academy 0 「 the Hu manities ベルギー王立考古学アカデミー イスラエル科学・人間学アカデミー マインツ mie RoyaIe d ・ Archéologie de Belgique ①一 九②キャンペラ rael Academy 0 「 Sciences and Human1ties 四二②プリュッセル ラインラント・ウエストファーレン科学 エルサレム オーストラリア社会科学アカデミー Rheinisch- Westfä lische Akademie Académie Royale アカデミー cademy 0 「 the Social 第 nc in Aust 「 alia ( ① 王立海外科学アカデミー 〔日本〕 des Sciences d 'Outre ・ Mer 八 ( グプ der Wissenschaften ①一九五〇②デュッセ 九五二②キャンペラ 山一八七九②東京 日本学士院 ls ・ Academia Filipina Singa ・ ②シンガ A ・ The ①一八六七 Koni ・ 142
あふりか アフリカ諸国の独立 独立を達成した。 〔第一一次世界大戦以降〕前の「萌芽期」に対し、この時期の に基づいて、アフリカ人に大幅な自治を与えることを約束し ベルギー領コンゴでは民族連動は抑えられてきたが、イギ 運動は「開花期」といえよう。二〇世紀初めに西インド諸島たたが、これに協力的なゴールド・コースト会議党 ( 党首 リス、フランス植民地の独立への動きに刺激され、急速に動 でおこったパン・アフリカニズム運動は第五回マンチェスタダンカー ) を批判したエンクルマは、同党を離脱して会議人 きだした。すなわち、一九五九年、バコンゴ族のアバコ党 ー会議 ( 一九四五 ) で、アフリカ大陸の民族運動が合体したが、民党を結成、即時独立を要求して国民にゼネストを呼びかけ これが植民地からの解放・独立を希求する一大潮流となっ たため、逮捕、投獄された。その間、五一年の新憲法に基づ ( 党首カサプ・フ ) に対する集会禁止に端を発した首都レオポ た。この会議には、のちにアフリカ人民族運動を指導してい いて立法審議会選挙を実施した結果、会議人民党が多数議席ルドビルの暴動、虐殺が起こり、これが契機となって独立へ くゴールド・コーストのエンクルマ、ナイジェリアのアウオを占めたため、エンクルマは釈放された。そして五六年選挙の要求が高まった。六〇年初め。フリュッセル円卓会議が開か ロウオ、ケニアのケニャッタらが出席した。また、第二次世でふたたび多数派を占めた会議人民党が組閣を行い、五七年れ、独立の期日に関して協議がなされたが、即時独立を主張 界大戦後のアジア諸国の独立と、その結果開かれたバンドン 三月、・フラック・アフリカ最初の独立国としてガーナが誕生するアフリカ人代表の声に、・ヘルギー政府は事態を投げ出す 会議 ( 一九五五 ) の影響を強く受けたことや、第二次大戦に連合した。 形で独立を認め、同年六月、カサププ大統領、ルムンバ首相 軍側として参戦し、アフリカ以外の世界を経験した多くのア フランス植民地では別の道をたどった。第二次大戦後に開のもとに独立が達成された。 フリカ人が帰国したことによって、運動は加速された。 かれたフランス国民議会で、すべてのアフリカ人に完全な市〔アフリカ諸国の独立〕以上みてきたように、植民地統治の すなわち、イギリス植民地ゴールド・コーストでは、一九民権を与える新憲法提案がなされたが、当時フランス政府は方式の相違によって独立の過程もかなり異なったが、いずれ へいたん 四八年ココアの独占的買い上げに対してアフリカ人の暴動が 祖国復興とインドシナ問題に目を奪われ、アフリカには関心の場合も独立運動はけっして平坦なものでなく、要求、暴 起こり、イギリス政府はその原因調査のための委員会の勧告 が払われなかった。一九四六年アフリカ人はバマコ会議を開動、弾圧、投獄、対立、抗争の過程を経過している。ます一 き、セネガルを除く七つの植九五六年にはスーダン、チュニジア、モロッコが独立、つい レ ス ャ 工 民地が参加し、ウへ・ボワニで翌五七年にはプラック・アフリカで初めてゴールド・コー シク イ を中心にアフリカ民主連合ストが独立してガーナとなった。さらに、翌五八年のギニア ダダジ モ ( < ) を結成し、フランの独立に続いて、六〇年には、一月にカメルーン、四月にト ンンン ガワルイ レ ウルプウ、ロ ーゴ、六月にコンゴ ( レオポルドビル。現ザイール ) 、セネ ス共産党と連合した。フラン カ マ ガル、マ リ、マダガスカル、七月にソマリア、八月にコート ス政府はを危険視し、 ガ ダ 五〇年にの集会を禁止ジボアール、ダォメー ( 現・ヘナン ) 、オートボルタ ( 現プル マ モビ した。五六年「基本法」が制キナ・フアソ ) 、ニジェール、中央アフリカ、コンゴ ( プラ カボン、チャド、 一〇月にナイジェリア、一一月 定され、アフリカ人に大幅なザビル ) 、・ タ にモーリタニアと、合計一七か国が次々と独立し、いわゆる 自治が与えられたが、独立に 「アフリカの年」となった。ついで翌六一年にはシェラレオ 関しては独立後のフランスと カ カ ネ、タンガニーカ ( 現タンザニア ) 、六二年にはルワンダ、 の関係が重要議題となった。 イ フ ア ラ 五八年ドゴールの第五共和制プルンジ、アルジェリア、ウガンダ、六三年にはケニア、六 ャ ー南 チ ン 中 、ヒローデシア ( 現ザ 発足とともに、本国との関係四年にはニアサランド ( 現マラウィ ) 」 レ ( レ を維持するフランス共同体構ンビア ) が続々と独立を達成し、南部アフリカと若干の国を ア / 丿 ガ 工 想が出され、ギニアを除くす残して、アフリカ大陸のほとんどの国は独立国となった。 ジ 以上を概括していうと、次の諸点が指摘できる。イギリス べてのフランス領西アフリカ キニア植民地の場合、比較的初期からアフリカ人を政治へ参画させ は共同体に加入した。。 のセク・トウーレは、「隷属たことにより、独立後の政治運営がベルギー領と比べてスム 国 国国 立 ーズにいっている。フランス植民地の場合は、「同化政策」 のなかの富裕よりも自由のな 独国立立 によってフランスとの一体化が進み、独立後もイギリス植民 かの貧困を選ぶ」として加入 の立国独独 前独立のの レ 戦の独年降域を拒否したため、フランスの地に比べて本国とのきずながより強い ( ただしギニアは、は オ 大代の以地 ネアタ サ 次年年 ~ 年立援助はただちに打ち切られつきりとそれを拒絶している ) 。一般的に鉱物資源の豊富な オポル 0 0 0 土亠 2 LO ( 0 00 フ / 4 ・ ジボ た。かくしてギニアを除くフ国 ( ザイール ) や、ヨーロッパ人の入植地 ( ケニア ) のよう ガビアアラリトトナゴン第 ランス領西アフリカは、六〇な所では、ヨーロッパ人の権益保持のため、ほかに比べて独 セガギギシ コオガトペ ①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑩ 年にフランス共同体の枠内で立が難航した。 ラ - ユーンノ ロッコ r ′ノ 西サラ モーリタニアーマリ ①ソ ⑤ 「一一」アルジェリア ーエジプト カーポ ペ丿レデ ジフチ サントメ・プリンシベ 赤道ギニア スーダンノ 2 工チオピア、ン 3 5 スワジランド レソト 1000 501