イタリア - みる会図書館


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1. 日本大百科全書 1

あるふす 谷の東側でドロミーティ山地に連なる。ただ られる。山麓のシャモニー・モンプランはアルュングフラウ山 ( 四一夭 メ ) の肩 ( ョッホ ) まで ( レーティック・アルプス ) は、主峰ピッツ・ し、・ヘルガマスク・アルプスとアディジェ川の ベルニーナ山 ( 四 0 四九 ) を抱き、氷河も多い プス最大の観光地であり、イタリア側とはロー 登山電車が通じている。主峰はフィンスターア 間にあるアダメルロ山群 ( 主峰アダメルロ山、 北麓のサン・モリツツは有名なスキー場であ プウェーやモンプラン・トンネルで結ばれてい ールホルン山 ( 四一一七四 ) で、北壁で名高いアイ 三五五四 ) は新期の花崗岩類からなる山地で、南 ガー山 ( 三九七 0 ) 、シュレックホルン山 ( 四 0 大 り、また付近はアルプスを描いた画家セガンテ る。フランス石灰岩アルプスの北への延長は、 部石灰岩アルプスよりもやや高い。ドロミーテ ) 、ウェッターホルン山 ( 三七 0 一 ) など多く ィーニのいた所でもある。エンガディンの谷の シャンべリーとレマン湖の間でダン・デュ・ミ 北側では、レーティコン山群とシルプレッタ山イ山地は南部石灰岩アルプスの中心で、最高峰 ディ山 ( 三一一五七 ) を最高峰とする二〇〇〇級の名山があり、またアルプス最大のアレッチ氷 マルモラーダ山 ( 三三四一一 ) をはじめ、ドロマイ のサボア・アルプスをつくっている。 河もここにある。グラリス・アルプスはベルナ群がほば三〇〇〇内外の峰々を連ねてオース ト ( 白雲岩 ) の侵食による垂直な岩壁を巡らし ーラント山群の東の延長で、テディ トリアとの国境をなしている。山麓にあるダボ 〔中部アルプス〕中部アルプスに入ると、アル スはサナトリウムやスキー場で知られ、トーマた奇怪な岩峰が連なっている。その東方への延 プスはその向きを東西方向に変える。ほば北東山 ( 三六一四 ) を主峰とするはば二〇〇〇級の 長はカーニック・アルプスで、さらにユーゴス ス・マンの小説『魔の山』の舞台となった。 ー南西に延びるライン川とローヌ川の縦谷を挟山地である。ローヌ川の縦谷の南側に連なるワ リツン ラビア北西端のカラワンケン山脈とユー リス・アルプスには、西からグラン・コンバン 〔東部アルプス〕東部アルプスは、ほばオース んで、北側には外帯 ( ヘル。へチア帯 ) のベルナ エ・アルプスへと続いている。東部アルプスの ーラント山群 C ヘルナー・アルプ山 ( 四三一四 ) 、ダン・プランシュ山 ( 四三五七 ) 、 トリアーイタリアの国境に沿って東西に延びる 0 し、ワイスホルン山主として花崗岩類からなる主脈と、その南側と西半 ( 東・西チロール州 ) と、現在はイタリア ス ) とグラリス ( グラナー ) ・アルプス、南側マッターホルン山 ( 四四七、 には中央帯 ( ペニン帯 ) のワリス・アルプス ( 四五 0 五 ) 、最高峰のモンテ・ローザ ( 四六三四 ) 北側を並走する南北の石灰岩アルプスの三つの領になったドロミーティ山地周辺 ( かっての南 ( ペニン・アルプス ) とテッシン・アルプスなど四〇〇〇級の高峰がずらりと並び、西部山列からなる。主脈は西から、イタリア領内にチロール州 ) はチロール地方とよばれ、世界的 ( レポンティエンヌ・アルプス ) 、アドウラ・ア アルプスの中心をなしている。マッターホルンあるオルトレス・アルプス ( 主峰はオルトレスな観光地、スキー場となっている。 北麓のツェルマットは有名な観光地で、ゴルナ山、三兊九 ) 、エッツタール・アルプス ( 主峰 ルプスが連なる。 生活と産業 はウイルト・シュピッツェ山、三七七四 ) 、シュ ベルナー・オー ーラント山群はスイス平原 ー氷河への登山電車も通じている。モンテ・ロ 〔生活〕アルプスの住民はドイツ系、フランス ーザは中央帯の花崗岩類からなるが、マッター トウバイ・アルプス ( 主峰はツッカーヒュット にもっとも近く、いきなり四〇〇〇級の山々 ホルンやダン・プランシュ周辺は、内帯から北 ル山、三五二 ) と続き、プレンナー峠 ( 一三七 0 系、イタリア系に分かれ、それに伴ってスイス がそびえ立っているために古くから開けた。北 中部以東ではドイツ語、以西ではフランス語、 ) の東でホーエ・タウエルン山脈に連なる。 麓のグリンデルワルトは有数の観光地であり、 へ衝上してきた結晶片岩などの根無し山塊 ( ク スイス南部以南ではイタリア語が用いられる。 ホーエ・タウエルン山脈は、西からチラーター リッペ ) である。 ワリス・アルプスのル・アルプス、フェネディガー山群、グロック 以上三つの主要一一一一口語のほかに、スイスのグラウ ビュンデン州だけで用いられている、ラテン語 東の延長は三〇〇〇 ナー山群、ゾン・フリック山群など、三五〇〇 級の山々からなるテッ を超える山々が東西に連なり、東アルプスの最とイタリア語の混合したレト・ロマン語、ユー シン・アルプスで、フ高峰グロースグロックナー山 ( 三七九七 ) もここゴスラビア北西部のクロアチア語がある。宗教 にある。タウエルン峠の東では山地高度が二九はカトリックが多いが、スイスではプロテスタ オーダー・ライン川の 谷に沿うアドウラ山群〇〇以下となり、ミュール川の縦谷によってントがほば同じくらいの勢力をもっている。 アルプスの伝統的な生活様式は移牧を中心と に連なっている。アド山脈は北側のニーデレ・タウエルン山脈と、南 牧 放々 ウラ山群の主峰ライン 側のケルントナー・アルプス、シタイリッシする有畜農業であるが、その生活形態は交通機 の山 , ~ ッ顰一。、夏のワルトホルン山 ( = 岩 = エ・アルプスに分けられる。 関や観光の著しい発展によって崩されつつあ 北部石灰岩アルプスはオーストリア西部のアる。しかし観光と結び付いているとはいえ、そ ) はライン川の水源 プフ ルゴイ・アルプスとレヒタール・アルプスに始れそれの谷に固有な民族衣装やダンス、ヨーデ ルグの山である。シュプリ ューゲン峠 ( 一二三三 ) まり、イン川の北側に延びる北チロール石灰岩ル、伝統的な家屋などがよく残されていること アルプスと、ドイツ南部にまたがるバイエル は、アルプスの大きな特色である。本村 ( 冬 から東の中部アルプス 高ン ( グラウビュンデン・ ン・アルプスに連なる。バイエルン・アルプス村 ) は広い字谷底や平坦地のある字谷の肩 につくられ、夏の間家畜を放牧する夏村は、さ アルプス ) は、地質的のツークシュピッツェ山 ( 一一九六三 ) はドイツ領 らに高い高山草原につくられる。アルプへの家 にはすでに東部アルプ内の最高峰である。イン川の東ではホッホケー ガ 3 イ ノトル メー ) 、ダッハシュタイン山 ( 一一九畜の移動とそこでの管理は村や協同組合を単位 ニッヒ山 ( = 九三、 スの性格をもち、山容 とする共同作業で行われ、数人の男たちが夏村 もまた、豊かな氷河を九六 ) などをもっザルップルク・アルプスとな カ の小屋 ( シャレ ) に泊まり込んで、チーズや・ハ 高左もつ中部アルプスのり、さらに東側で高度を減じるとオーストリア 標は ( 方山々とはやや異なって石灰岩アルプスとよばれ、最後はウィーン西郊ターづくりを行う。スイスのエメンタールやフ ランスのグリュイエールなど、それぞれの地域 くる。しかしコモ湖かの丘陵 ( ウィーンの森 ) で終わっている。 の 線る に特産のチーズがある。スイス、オーストリア らイン川の上流、エン 南部石灰岩アルプスはイタリア側にある。そ 雪れ ガディンの谷へ連なるれはコモ湖の東、・ヘルニーナ・アルプスの南にではウシが多く、フランス、イタリアではヒッ 界用 ジが多いウシやヒッジの首につけられた鈴の 限利縦谷の南側に連なるべ広がる二〇〇〇級の・ヘルガマスク・アルプス ルニーナ・アルプス に始まり、プレンナー峠に続くアディジェ川の音色は、アルプスの音楽の重要な要素であり、 森地 さんろく 815

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あるふす アルプス / 植生の垂直分布と景観 ( 模式図 ) ( 標高 雪氷帯 ① 尖峰 ラト、 , 。・第 ' 、 , 、乙戸 , 一牧草地 4000 3500 3000 樹林帯の中のアルプ夏村 U 字谷の 肩の集落 岩壁・ 岩屑斜面 氷河 高山草原 ( アルフ , ア丿レム ) を←森林限界 針葉樹林 広葉樹林 耕作地 山 2500 果樹園 ジャガイモ・ 野菜畑 小麦畑 帯 山 高 亜 2000 本木辷 - 1500 丘陵帯 U 字谷广奄村 ( 冬本 = - - 一ー、こ 1 000 ③ ② ア ) のように冷涼な北風もある。アルプスでは方にはイタリアのモンテ・ビーゾ ( 三会一 ) を 4 ほば三〇〇〇より高い所では気温が低いため主峰とするコチェンヌ・アルプスが続き、デュ ランス川の支流ュバイ川に沿って、エギュイー に夏でも雪が降り、氷河が形成される。現在の ュ・ド・シャンべロン ( 三四二 ) など三〇〇〇 アルプスの全氷河面積は約四〇〇〇平方キロで、 これはアルプスの全面積の二 % にすぎないが、 級の山々が連なっている。デュランス川の谷 大西洋からの湿った風を受ける西部アルプスやの南東に位置するこれらの山脈はフランス南部 アルプスともよばれ、地中海性気候の影響が強 中部アルプスでは氷河が広く分布している。 いために氷河は小さく、植生もまばらで荒涼と 地域区分と主峰 した山岳景観を呈する。アルジャンテラ山群だ めいりよう アルプスは長大な山脈であるが、明瞭な縦けは外帯の古い花崗岩類からなる。デュランス 川の西側ではこの花崗岩類が隆起によって広く 谷や横谷によっていくつもの山塊に分けられて 露出し、ベルプー ( ェクラン ) 山群をつくって いる。地質的には、ライン川の谷からシュプリ ューゲン峠を越えてコモ湖に至る谷を境として いる。主峰はバール・デゼクラン山 ( 四一 0 一一 ) で、ほかにもモン・ベルプー ( 三九四 ~ 0 西部アルプスと東部アルプスに区分されるが、 メージュ山 ( 三九〈三 ) などの高山がそびえ、氷 一般にはフランスーイタリア国境からフランス 領内に広がる部分を西部アルプス、スイス・ア河も多い。ベル。フー山群からコチェンヌ・アル ルプスを中部アルプス、オーストリア・アルププスにかけてはドフィーネ・アルプスともよば れ、発展が遅れていたが、近年は別荘地やスキ スを東部アルプスとする区分が用いられてい ー場の開発が盛んである。観光や産業の中心地 る。ただし、西部アルプスと中部アルプスの境 をシンプロン峠、中部アルプスと東部アルプスはグルノープルとデュランス川上流のプリアン ソンで、後者はイタリア国境に近いことから軍 の境をスイスーオース トリア国境に近いレジ都としての性格も備えている。デュランス川中 ア峠とすることもあ流には巨大なダムと人造湖 ( セル・ポンソン る。 湖 ) がある。 ベルプー山群の北端はグルノープルとプリア 〔西部アルプス〕地中 海岸から北へ、東に凸ンソンを結ぶロータレ峠 ( 一一 0 五 0 しで終わり、 にその北にはグランド・カッス山 ( 三会一一 ) を主 面を向けながら弧状 多珍ア 延び、フランス、スイ峰とするバノワーズ山群と、イタリア側のグラ カ のでス ハラディーゾ山 ( 四 0 六一岩 ) を主峰とするグ ス、イタリア国境で中ン・ も在カ る現ッ 部アルプスに連なるほ レ・アルプスが続く。バノワーズ山群、ベルプ あも口 ク ー山群はその西端をグルノープルのあるイゼー ば南北の山脈で、地形 下スる種 。《護イげ一の非対称性が顕著であル川の谷で限られ、イゼール川の西には外帯の 保ワ告の なルをゲる。西側 ( フランスもっとも外側 ( 西側 ) に位置するフランス石灰 重デれナ 岩アルプス ( ベルコール山地、グランド・シャ 側 ) か広い幅をもち、 厳一訪ク はエのヤ緩やかに低下するのに ルトルーズ山地 ) が二〇〇〇級の山々を南北 物 ( 春シ に連ねてアルプスの西を限っている。 植ウにる対して、東側 ( イタリ 山ソ , れ 西部アルプスの最北端にあるモン。フラン山群 高キプらア側 ) は幅が狭く、急 のユル知 ノノトル メー ) の北 は、プチ・サン・ベルナール峠 ( 二、 くスアで傾斜でポー川の平原に 多ウ ( 名 側に連なり、最高峰のモンプラン、急な北壁を 落ち込んでいる。 るく原の ー ) のはか、 彩咲草ゼ最南部の海岸アルプもっグランド・ジョラス山 ( 四 = 00 、 工ギュイーユ・デュ・ミディ山 ( 六四一一 ) 、エ 「第一々原高ロス ( マリティーム・ア 山草②ン たベルプス ) はアルジャンギュイーユ・ベルト山 ( 四一一一一一 ) などの花崗岩 物いるル テラ山群ともよばれ、類からなる針峰群がそびえている。高度が大き 植乾あア いために氷河も雄大で、メール・ド・グラース 山やっ③主峰のアルジャンテラ ・・々 ~ ~ ま・、の岩りス山 ( 一一三九しを除くと氷河は古くから観光地として名高い。モンプラ スのなラ ンのポソン氷河のように、急な山腹を一二〇〇 ル高物ロ 付近まで森林帯の中に流下している氷河もみ ア①植フ下にすぎない。その北

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あとん くもん ン アトロピン atropine ナス科の植物に含 〈工藤庸子〉 いわれる。 し二人の間にはいさかいが絶えず、女は苦悶の まれるアルカロイドの一種で、天然には / ーヒ 果てに死ぬ。悔恨に包まれ孤独に生きる青年の回滝田文彦訳『アドルフ』 ( 『世界の文学 3 』所ナ レ ョスチアミンとして存在し、抽出の過程で卍体 収・一九六九・中央公論社 ) 手記という形式のこの作品は、愛にまつわるさ しつよう となる。一 八三一年・ヘラドンナ根より分離され まざまの情念の交錯する場を執拗なまでに分析アトレウス Atreus ギリシア神話の英ア た。日本薬局方には硫酸アトロビンとして収載 し、ついに愛そのものの不可能性を示すに至雄。ペロプスとヒッポダメイアの子。兄弟ティ されている。硫酸アトロピンは無臭、無色の結 れる。 る。精巧かっ堅固な古典的文体を通して、主人工ステスとの醜い争いは、エテオクレスとポリ 晶または白色結晶性粉末で、水にきわめて溶け アドレナリンには神経に対する作用とホルモ 公の優柔不断な思考や言動の背後に、人間本来ネイケスの話などと同様、ギリシア神話におけ ン作用がある。強いストレスがあったり、闘争やすい。代表的な副交感神経遮断薬 ( 抗コリン の弱さを正視し、同時に断罪しようとする語りる兄弟争いの典型をなしている。 兄弟は、異母弟クリシポスを殺したのちミケや攻撃などに備えるときには交感神経が興奮し薬 ) で、副交感神経節後線維に働き、アセチル 手の厳しい倫理性を読み取ることができる。冷 どうき けんたい コリンと競合反応をおこして遮断する。また、 た状態になり、心臟の動悸が速まり、毛細血管 徹な自己分析の書として、また生の倦怠と愛のナイ ( ミケーネ ) のステネロスのもとに逃げ た。アンフィトリオンを追放していたステネロ は収縮するので血圧が上昇する。アドレナリン平滑筋および分泌腺の機能を抑制することか はかなさを説く初期ロマン派の代表作として、 ら、消化器や気管支など平滑筋臟器のけいれん スは、ミケナイを二人にゆだねたが、やがてそを投与すると類似の症状がみられ、アドレナリ 後世に与えた影響は大きい。女主人公エレノー ンは交感神経では刺激の伝達に関与していると緩和に鎮けい薬としてまた消化性潰瘍の治療お ルには、スタール夫人の影が濃くさしているとの子工ウリステウスも後継ぎを残さずに死んだ ため、王座をめぐる二人の卑劣な争いが始まっ考えられている。中枢神経からの電気的刺激よび止汗剤などにも応用される。実際にはアト ロピンをおもな有効成分とするロートエキスが た。ますティエステスは、アトレウスの妻アェで、交感神経の末端ではアドレナリンが分泌さ どうこう 鬲交よく用いられる。そのほか、瞳孔を広げる作用 ロべと情を通じて、兄弟の所有していた金毛のれ、筋肉に刺激が伝えられる。中枢神経、リ、 があるので、眼科では散瞳薬として点眼、注 仔羊を盗み出し、王権は金の羊毛をもつ者がと感神経、運動神経ではアセチルコリンが同様な 射、内服に用いられる。硫酸アトロビンは毒 役割を果たしている。一方、ホルモンとしては るべしと提案してアトレウスの合意を得た。し かし、ティエステスが王になると、ゼウスはア副腎髄質に多量に含まれ、血液中の糖の量を調薬、その製剤は劇薬であり、使用時には十分注 トレウスのもとにヘルメスを送り、太陽が逆か節している。グリコーゲンを分解する酵素フォ意する。副作用として口渇、顔面紅潮、瞳孔散 ら昇ればアトレウスが王になるとの約束を兄弟スフォリラーゼはアデニル酸で活性化される。大、乱視、尿閉などがみられる。常用量は一回 〇・五、リグラム、一日一・五いグラム、極量は に結ばせた。すると太陽は西から昇って東に沈アドレナリンとグルカゴン ( 膵臓のランゲルハ 一回一 : リグラム、一日三 = 、リグラム。〈幸保文治〉 ンス島の細胞が分泌する ) はこの作用を助け、 み、約束どおりアトレウスが王となった。おご ー・・・のたたかい 一八九六年、 り高ぶったアトレウスは、ティエステスの子供フォスフォリラーゼの活性化を促進する。そのアドワの戦し しよくぜん 結果、肝臓や骨格筋でグリコーゲンの分解が進侵入したイタリア軍をエチオピアが打ち破った たちを殺害してティエステスの食膳に供した のち、彼を追放した。父親を知らずにアトレウみ血液中の糖が増加する。同時に脳下垂体の糖戦い。アドワ Adowa はエチオピア北部の地 やかた 丿トリアを保隻領にし、エチ スの館で成人したティエステスの息子アイギス質代謝ホルモン、副腎皮質のグルココルチコイ名。一八八五年エー ドなども血液中の糖を増す働きをし、逆に、膵オピア進出をもくろんでいたイタリアは、八九 トスは、アトレウスからティエステスを殺すよ う命じられたとき、本当の父親がだれであるか臟のランゲルハンス島の日細胞から分泌される年エチオピアとウッチャリ条約を結んだ。この 友好条約はイタリア語とアムハラ語の両言語で インスリンは血液中の糖を減らす働きをする。 を知って逆にアトレウスを討ち、父にミケナイ これらのホルモンの相互作用で血液中の糖の濃書かれていたが、双方の表現に違いがあり、イ の王位を与えた。なおアトレウスとアェロべの タリア語の内容は、イタリアのエチオビアにお 間には、トロヤ戦争で有名なアガメムノンとメ度はつねに一定に保たれるようになっている。 ける主権を認めていた。イタリアはこれを盾に 〈小川正広〉 アドレナリンは生体内でチロシンから、ドー ネラオスが生まれている。 ふくじん エチオ。ヒア北部に侵入、一八九〇年保護領化を (2 0 ジオキシフェニルアラニン ) 、 アドレナリン adrenaline 副腎髄質ホル ハミン、ノルアドレナリンを経て合成され宣一言した。エチオピア皇帝メネリク二世 ( 天四四 モンとしての作用をもっカテコールアミンの一 ー一九一三 ) はこれを認めす、一八九三年条約を破 種。一九〇一年 ( 明治三四 ) に高峰譲吉が副腎る。分解は、水酸基がメチル化され、生理活性 髄質 adrenal medulla から分離した塩基性物を失ってからアミン酸化酵素により行われる。棄、各地の豪族を結集してイタリア軍とアドワ 質。分子式は C9H1303N で、ホルモンとして白色枌末で、酸化されると褐色になる。塩化第で衝突した。戦いはイタリア側が一万二〇〇〇 二鉄の水溶液で、酸性では緑色、アルカリ性で人の死者を出すという惨敗に終わり、世界に独 は最初に分離精製、結晶化された。ェビネフリ は紅色の呈色反応を示す。医薬品では通例、塩立国エチオビアを認めさせる結果となった。こ ン epinephrine ともよばれ、医薬品ではエ。ヒ の戦いはアフリカ史上、アフリカ人が侵略者に レナミンという。天然に存在するのは左旋性の酸エピレナミンとし安定剤、保存剤を加えて一 型で、有機合成された右旋性型のものより〇〇〇倍溶液として用いる。胃の酸で分解され勝利した数少ない例の一つである。↓エチオ。ヒ 〈青本澄夫〉 ア戦争 一五倍も生理活性が強い。メチル基のないノルるから内服はできない。交感神経興奮剤、血管 ぜん アドレナリン ( ノルエピネフリン ) は副腎髄質収縮剤、血圧上昇剤で、出血を止め、気管支喘アトン Aton 古代エジプトの神。「太陽円 盤」を意味し、同時に太陽神として、ラー神と 以外の組織からも分泌されるが、その活性はア息の発作を抑える。注射剤、塗布剤、スプレー しんき コいつ、 0 、 どちらもカテコールの剤などがある。繁用すると、不安、頭痛、心悸同一視された。アトン崇拝の起源はかなり古い ドレナリンよりも号し こ・つしん と思われるが、新王国時代前期にはアモン崇拝 亢進、不眠などの副作用が現れる。〈菊池韶彦〉 誘導体であるので、カテコールアミンと総称さ アトレウス家 / 略系図 ゼウス タンタロスオイノマオス ノ、シファ工 ヒッポタ、、メイア カトレウス / 、ロフス ヒッテウスアルカトオスティエステスアトレウスー - ーア工ロー、 アイキ、ストス ティンダレオス クリタイムネストラーーーアガメムノン メネラオスーーーヘレネアナクシヒ、エーーー -- ストロフィオス クリソテミスエレクトライフィゲネイアオレステスーーーヘルミオネ ピラテ。ス ティサメノス = = 夫婦 , ノ HC—OH CH2 HN—CH3 すいぞう 413

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めに、終始、内政よりも対外政策に専念した。 要、また廃水が少なくなる ) で注目されてい 色の花をつける。コガネウマゴヤシミ . ・ あ る。 〈不破英次〉 まずシチリアとサルデーニヤ両島の支配を固 8 L. は黄色の花をつけ、黄花種アルファルフ 0 ファルガーニー アともよばれ、寒さに強く北海道に適してい め、ついでジェノバやフランスのアンジュー公 るアル・ファルガーニー る。雑色アルファルファ M. ミ & Pers. は 家などとの戦いに幾度か敗れたが、優れた外交 あアルプ・アルスラーンと「 A 0 = ー一 0 七一 l) セルジューク朝第二代のスルタン 工手腕で苦境を切り抜けた。その後一四四二年六 前二種の雑種で、東北地方に多い。いずれも根 月にはついにナポリ王国を征服してその王位に ( 在位一 0 六三 ~ 七一 I) 。セルジューク朝の創始者トウ は数の深さにまで伸び、乾燥に強く、日当り フ ついた。この後さらにおりから興隆期のオスマ と水はけのよい土地を好む。 グリル・ペグの甥にあたる。奴隷兵を中心とし ア ン・トルコの前にバルカン半島への進出を試み た強力な軍隊を擁し、トルコマン部族兵を西方 おもに乾草として、また放牧草、サイレージ たが、成功しなかった。武人アルフォンソは、 へ進出させることによって版図を拡大した。と として利用されるが、タンバク質やミネラル、 一方では文人でもあった。ナポリの宮廷にイタ に一〇七一年マラーズギルドの合戦でビザン ビタミン類が豊富で飼料価値が高い。芽生えた リア・ルネサンスを体現する多くの学者を迎 ティン軍を破り、アナトリアのトルコ化へ道をばかりのものをアルファルフアもやしとよび、 彼の作品はイタリアのロマン え、「寛大王」とよばれた。自らも神学や文献 〈星川清親〉会に理葬された。 , 開いた。スンニー派イスラム、アッパース朝カ生鮮野菜として食用にされる。 学に精通するなどルネサンス期支配者の典型例 リフの擁護者をもって任じ、ベルシア人宰相一一アルフィエーリ Vittorio Alfieri ( 一七四九主義文学やイタリア民族独立運動に霊感を与え 〈小林一宏〉 〈佐藤三夫〉であった。 ー天 0 三 ) イタリアの劇作家、詩人。イタリアた。↓サウル ザームル・ムルクの助けによって行政機構を整 備し、東方イスラム世界の支配者となった。七の先駆的なロマン主義者といわれている。一月 @Bruno Maier 】ゝ e ュ ( 一 973 , palumbo アルフォンソ ( 六世 ) と fonso VI ( 一 0 四 0 ー二 0 九 ) レオン・カスティーリヤ王 ( 在位 二年ホラズム遠征の際、捕虜を処刑しようとし一六日アスティに生まれる。父はビエモンテの 一 0 六五 ~ 二 0 九 ) 。父フェルナンド一世からレオン ~ 0 S 、 ~ 、、ミミミ 0 き、 ~ g e ミ、ユきを て、逆に殺害された。 〈清水宏祐〉富裕な貴族 ( 伯爵 ) 。誕生後まもなく父を亡く ミ、 e きミき守き e 、 e s ミ (1966,Olschki 王国を継承 ( 一 0 六五 ) したが、兄サンチョ一一世の アルファルファ alfalfa マメ科の多年し、九歳のとにトリノの士官学校に送られる Firenze) 死後はカスティーリヤ王も兼ねた ( 一 0 七一 l) 。十 草で、栽培された最古の飼料作物といわれる。 が、学校の古ぐさい教育に嫌気がさし、文学書 アルファルフアの名はベルシア語の「最良のを読み、詩を愛した。一七六六年に学校を出るアールフォルス Lars Valerian Ahlfors 字軍運動に象徴される興隆期の西ヨーロッパと ( 一九 0 七ー の交流を重視、このためにクリュニーの修道士 ) 数学者。フィンランドのヘルシン 草」を意味することばからきており、アメリカと、イタリア、フランス、イギリス、ドイツ、 たちを歓迎し、また道路や宿泊所を整備してョ や日本ではこの名を使うが、ヨーロッパではル ロシア、スペイン、ポルトガルと、旅をしてまわキに生まれる。ヘルシンキ大学で学び、関数論 の巨匠リンデレフ Ernst L. Lindelöf ( 一〈七 0 ー ーロッパ各地から訪れるサンチアゴ・デ・コン った。七二年にトリノに帰り、読く三年間は恋 サーン (lucerne) とよぶ。原産地は中央アジ 一九四六 ) およびネパンリンナ Rolf Nevanlinna ポステラへの巡礼の便宜を図った。他方、レコ アで、古くから栽培されていたベルシアから紀愛と著作のために過ごした。七五年その最初の ンキスタ ( 国土回復戦争 ) では武力よりも錯乱 悲劇『クレオパトラ』を上演し、成功を収め ( 天九五ー一九含 ) の影響を受けた。有理型関数の 元前五世紀にギリシアに伝わり、地中海沿岸に た。イタリアの古典作家たちが用いたトスカナ特性関数の幾何学的解釈や整関数に関するダン外交と経済的締め付けによってアル・アンダル 広まった。日本には江戸時代末期に渡来したが ジョア予想の解決などの仕事で、若いときからス諸国の疲弊を策し、一〇八五年にはついにか ほとんど広まらず、明治時代初期に牧草としのことばを学ぶためにフィレンツェへ行き、ダ ンテ、。へトラルカ、アリオスト、タッソなどを世界的に注目を浴びた。一九三五年、『被覆面っての西ゴート王国の首都トレドをイスラムか て、アメリカから導入した品種が北海道を中心 Uberlagerungsfläche の理論』という論文でら奪回した。だが、この事態に驚いたイスラム に定着した。茎は直立し、高さ〇・五 ~ 一にし 読み、数々の作品をイタリア語で書いた。その 達し、多くの分枝がある。葉は三枚の小葉から 地でマキャベツリを読み、パッツイの陰謀の主ネパンリンナの有理型関数の値分布理論を一般仰が北アフリカからの来援を頼んで大反攻に転 たくよう ひしん なる複葉で、葉柄の基部に細い披針形の托葉が題で悲劇を書くように勧められたが、『専制政化した深遠な理論を展開、これによって翌年第じたために、南北両スペインの武力衝突は以後 ようえき 一回のフィールズ賞を受賞した。母校およびチ二世紀半にわたってもっとも激烈な様相を呈す 治について』という政治論を書いた ある。夏に、上部の葉腋から花柄が伸び、数個 ちょうけい ューリヒ大学教授を経て、四六年からアメリる結果となった。アルフォンソ六世の名を有名 から二〇個ほどの蝶形花をつける。 一七七七年にオルバニーの伯爵夫人ルイザ・ にしたもう一つの要素に、兄サンチョの筆頭家 ード大学教授となり、リーマン面論 アルファルフアは大きく三種に大別されるストルバーグと知り合う。それ以後のもっとも力、 会 ) とフランを中心に擬等角写像やタイヒミュラー空間論の臣エル・シッドとの不和がある。従来、後者の 多産な時期に、イギリス ( 一大三 ~ が、種により花色も異なる。暖かい地方に多い ハリで『自伝』を書き 組織的研究によって、この関数論、位相幾何、徳を賞賛するあまり、アルフォンソは狭量な主 ムラサキウマゴヤシ & ~ き go き L. は紫ス ( 一七 0 ~ 九一 l) を旅行。 始め、自分の悲劇集 ( 一九編 ) の新版を編ん代数幾何にまたがる分野に貢献した。クライン君とみられがちであったが、王としての力量は 〈小林一宏〉 だ。そのうち『サウル』と『ミッラ』は、彼の群の近代的研究にも先駆的かっ基本的な業績が十分に備えていた。 ぼつばっ 最高傑作である。その地でフランス革命の勃発ある。アメリカ、スウェーデンおよび母国の学アルフォンソ ( 一〇世 ) と fonso X 花 会 ) レオン・カスティーリヤ王 ( 在位 、、『バスティーユなきパリ』という士院会員、 ーバード大学名誉教授。著書は専 ( 一一一一二ー に立ち会し 会 ) 。文化面で後世に残る仕事をしたこ 門書のほかに、関数論の有名な入門書『複素解一一一五一一 ~ 蝶ャ詩を書いた ( 一大九 ) 。だが革命が暴力と流血の 色マ 惨事に埋没するのに失望し、批判的になる。九析』 Complex ミミみ ( 笠原乾吉訳・一九全・現とから「賢王」の異名をもつ。レコンキスタ 紫ウ キ 〈楠幸男〉 ( 国土回復戦争 ) を大きく飛躍させたフェルナ 二年ストルバーグ夫人とともにフィレンツェへ代数学社 ) がある。 アサ ンド三世を継いだアルフォンソは、外に向けて 戻る。晩年はギリシア語を独習し、ギリシア悲アルフォンソ ( 五世 ) Alfonso V ( 一三 ー一四五 0 アラゴン連合王国の王 ( 在位一四一六は内外の反対を押し切って神聖ローマ帝国の帝 劇やホメロスやアリストフアネスなどを読み、 ~ 五 0 。地中海における一三世紀以来の政治的位をねらい、内政面ではローマ法の復活に鼓舞 風刺詩や喜劇作品を書いた。一八〇三年一〇月 アを されて王権の強化と行政の中央集権化を政策目 八日没。フィレンツェのサンタ・クローチェ教威信とカタルーニヤ人による交易活動を守るた

5. 日本大百科全書 1

あるはは 人当り産出量は世界一 ) 、ほかに原油、電力、識の形成とこれに基づく文化的発展が後れたこ のであろう。文献は一五世紀の聖書訳に始まり いたものが多く、また社会主義建設に題材をと 農産物、軽・手工業品を輸出する。輸入の主力とは否めない。アルバニア語で授業する学校それ以前の歴史は明らかでない。古代から近代ったものも多い。シュテリチの『解放者たち』 は近代化のための機械、設備である。イタリ は、一八八七年にようやく一校のみ設立が認めまで長く外国の支配下にあったため、強くその ( 一九五一一 ~ 五五 ) 、ムサライの『夜明け前』、マルコ ア、ユーゴスラビア、ギリシアをはじめ、近隣られるという状態であった。このような条件の影響を受けたが、とくにラテン系の語彙の借用の『最後の町』 ( 一九六 0 ) などはこの流れを代表 国との貿易が多い なかで、一九世紀に主として国外で「アルバニ 〈直野敦〉 言が非常に多い。シュキペリア Shqipéria ( トする小説である。 企業は小商店も含めてすべて国営である。農ア・ルネサンス」運動がおこったが、なかでもスク方言形 ) と自称するアルバニアには、トス回工藤幸雄他編『世界の文学史 7 北欧・東欧 業では国営農場と集団農場があるが、個人農は叙事詩「スカンデルペグ物語』の z ・フラーシク Tosk とゲグ Gheg とよばれる二大方言 の文学』 ( 一九六七・明治書院 ) ない。徹底した中央計画経済体制をとっておャリが光る。現政権は強烈な民族主義的立場か が、主都チラナ付近を境に南北で話され、文語ア こ Lago di Albano ルバーノ胡 り、国営、集団といっても、実際は「党営」と ら国民の啓蒙と文化水準の向上に意を用いてい も異にするが、最近では統一的傾向にあるとい イタリア中部、ラツイオ州のアルバーノ山地中 いえるほど党が経済運営上の実権を握ってい るが、これはイデオロギー教育としての色彩が う。文字はラテン・アルファベットを使用すにあるカルデラ湖。面積六平方キ。、最深部一七 る。なお、アルバニア当局は統計をなんら公表強、。 る。名詞は男女性 ( 中性はほとんど消滅 ) 格は〇。ローマ南東約二〇キ。のアッピア街道沿い せず、実態の把握は困難である。 他の地中海諸民族に比べて物静かで忍耐強い 五、動詞も現在、未完了、アオリスト aorist に位置する。付近は風光明媚で、古くから避暑 〔社会〕人口の九五 % 以上がアルバニア人であが、家父長制的メンタリテイも残り、女性の地 ( 不定過去 ) 、完了 ( 合成表現 ) の時制のほか、 地、保養地として知られる。湖岸にはカステ るが、北部のゲグ族と南部のトスク族との間に位向上運動が続けられている。市民の楽しみは法の区別もあり、インド・ヨーロツ。ハ語の屈折ル・ガンドルフォやアルバーノ・ラツィアーレ は、一一一口語、風習に地方差がある。ただし標準語映画、一九七一年に放送を開始したテレビ、そ的特徴を保っているが、定冠詞の後置、格の融などの町がある。紀元前四世紀につくられた長 にはトスク方一一 = 口が採用されている。少数民族とれにタ方の散歩である。スポーツはサッカーの 合などに他のバルカン諸語と共通の傾向を示し さ二・五キ。の排水口で放水される。〈堺憲一〉 さんち Monti Alba- してはギリシア人 ( 二・四 % ) 、マケドニア人、人気が圧倒的である。 ている。 〈風間喜代三〉アルヾ ーノ山地 モンテネグロ人 ( あわせて〇・九 % ) などがい ぶんがく現存するア ni イタリア、ローマ市の南東約二〇キ。にある 〔日本との関係〕わが国とは一九一三年外交関アルバニア文学 る。またユーゴスラビア領内に約一五〇万のア係が結ばれたが、三九年イタリア併合により断ルバニア語文献では、一五世紀なかばの宗教文新生代第三紀 ~ 第四紀の火山地域。最高峰はカ ルバニア人が住んでいる。 絶、第二次世界大戦後、八一年に再開された。献が最古のものとされており、一六 ~ 一七世紀 ーポ山 ( 九四一ⅱ ) 。その西方のアルバーノ湖、南 人口増加率は二・四 % ( 一九七五 ~ 〈 0 ) で、ヨー 貿易額もごくわずかであり、八三年現在までの には、聖書のアルバニア語訳その他を中心とす西方のネミ湖は火口湖で、付近には古代ローマ ロッパ最高である。一人当り国民所得はヨーロ ところ総じて関係は希薄である。〈大羽奎介〉る宗教文学が存在していた。しかし、一五世紀時代から富裕階級の別荘が多く、紀元前四世紀 以降のオスマン・トルコ帝国による過酷な政治 ッパでもっとも低いが、最低・最高賃金比は一回木内信藏著『アルバニア』 ( 『世界地理 8 ョ にローマ人によって建設された排水溝がある。 対二に抑えられ、高度の平等社会である。国民 ーロッパⅢ』所収・一九七五・朝倉書店 ) ▽木的支配のため、民族文化全体、そして文学の発現在も旧跡に富む景勝地で行楽客が多い。また は課税されない。第二次世界大戦前は国民の八 戸蓊著『世界現代史 2 4 バルカン現代史』展も著しく阻害されていた。むしろ、トルコの火山岩質の土壌がブドウ栽培に利用され、フラ 割が文盲であったが、戦後八年制の義務教育を ( 一九七七・山川出版社 ) ▽矢田俊隆編『世界各圧迫を逃れてイタリア南部に集団的に移住したスカーティ、カステリ・ロマーニなどの銘柄の 励行、老人を除き文盲は一掃された。約七割が 国史東欧史』 ( 一九七七・山川出版社 ) ▽ アルバニア人 ( アルバレシュ人とよばれる ) のぶどう酒を産する。↓アルバーノ湖〈諏訪彰〉 イスラム教徒であり、残りをギリシア正教とカ 間で一六世紀末から世俗的な文学が発展してい Nicholas C. Pano 】 The P き、ミ s R ーノ・ラツィアーレと bano トリックで分け合っていたが、一九六七年に党 た。一八世紀には、ベルシア、トルコなどの東 LaziaIe イタリア中部、ラツイオ州ローマ県 、 ( 1968 , The Johns Hopkins は宗教撲滅運動を開始し、寺院は博物館などに Press) ▽ Stefanaq Po ま and Arben to 方諸国文学の影響を受けた叙情詩が文学の主流の都市。人口一一万七六一一三 ( 一九七 0 。ローマか 転用された。七六年公布の新憲法で宗教は事実 The 、 0 こ 0 トゝ ( 1981. Rout- 、バルカン全らアッピア街道を二五キ。南東に下ったアルバー となっていたが、一九世紀に入り 上禁止され、アルバニアは「世界唯一の無神論 ledge 年 Kegan Paul) ▽ Peter R. Prifti: 体の民族的再生の運動が発展するにつれて、国ノ湖岸の丘陵地に位置し、ぶどう酒の生産地、 ローマ皇帝セプテイミウ 国家」となった。 S 。、ゝ since 7944 ( 1978. The 民文学創造の運動も勢いを得、そのなかから、保養地として名高い MIT Press) 〔文化〕長くトルコの支配下にあって、民族意 アルバニア文章語の確立者であり、民族抵抗の ス・セウエルス Septimius Severus ( 在位一九三 レ・、 ~ 一二 D が設けた軍隊の野営地として発足。五 ーーごイン歴史に題材をとった叙事詩『スカンデルべグ物 ド・ヨーロッパ語族の一語派。約語』 ( 天九 0 によって近代文学の礎石を置いた世紀以来、司教座が置かれている。ロトンダ教 二五〇万人が公用語とするアルバ ナイム・フラーシャリその他の詩人、作家が輩会、大聖堂、ポンペイウスの別荘跡などがあ 若 の 〈堺憲一〉 ニア人民社会主義共和国のはか、 出した。アルバレシュ文学のなかではロマン派る。 の そ ス あるははおやのはなし Histori- ューゴスラビアや、マケドニア、 の詩人ラダが傑出している。 レ ある母親の話 ドる ギリシア、南イタリアなどでも話 二〇世紀に入ると、文学のジャンルも多様化 en on en M0der アンデルセンの童話。「新 るれる されている。古代史家のいうアル し、第一次世界大戦後には、アルバニア語で書童話集』第二巻 ( 天四 0 に収録。わが子を死神 踊わ、 ていてヾ ノニアは、コーカサス地方のカスかれた最初の近代小説が現れ、ポストリの小説に連れ去られた母親が、身を傷つけながらその 装とけ ようせつ 衣族受ビ海西岸の地域で、現在のアルバ 『忘れな草』その他が発表された。夭折した作 後を追い、ついに、 死神が神に委託されてすべ 族民を 民の響ニアは主としてラテン語の勢力範家ミギエーニは、庶民の悲惨な生活を写実的にての人間の生命の象徴である草や木を管理して の古影 いる大温室にたどりつく。そこで死神から、人 ア最の囲であった。おそらく周辺の山岳描いた短編小説により、リアリズム文学の発展 の生と死はいっさいが神の御心のままであるこ 部に住んでいたアルバニア語族に寄与した。第二次大戦後は、戦前から戦後に カル が、徐々にラテン語を同化したも かけての対イタリア、対ドイツの抵抗運動を描とをさとされ、一人の子の母という立場から、 805

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あるばに 地〔林 耕森 労上古 る崖の す急代 時る布 出しアあ分業地 食シが 農草 朝侵 式牧 のがよギ遺 エ一毋 ( はの鉱用中場 広ム リ地牧 グス リ用地 ト劇 デプ形 カト 近の土 ラ の・ヘ , 境ム ナるし国ズ くチ に密シレ 都ち部がリへ シ 第丿首た南物ギ ドウレス ,. ア①者②建③で 自力による経済開発に努めている。なお七六 は、厳しく制限されている。 年、国名を冒頭の正称のとおりに改めた。↓東 国防は「全人民防衛」体制を基本に、侵略軍 欧史 には人民軍 ( 正規軍 ) のほかゲリラで対抗する 〔政治〕唯一の政党であるアルバニア労働党ものとし、このため全土にトーチカ群を構築す ( 共産党 ) が、あらゆる面にわたって指導するるなどの努力が行われている。人民軍は陸軍三 「プロレタリアート独裁」体制である。立法機万、海軍三〇〇〇 ( ウイスキー級潜水艦三隻な 関は人民議会で、議員は二五〇名、任期は四年ど ) 、空軍八〇〇〇 ( ミグ新 ~ 幻計一〇〇機 ) 。 である。議員のなかから人民議会幹部会 ( 一五 〔経済・産業〕第二次世界大戦前は農村人口が 名 ) を選出、幹部会議長が国家元首である。行九割近くを占めながら食糧自給すら満足にでき 政の最高機関は閣僚評議会で、その長 ( 首相 ) ないという状態にあり、エ鉱業は末開発で鉄道 および閣僚は原則として人民議会議員のなかか もなく、わずかにその石油資源が外国から注目 ら任命される。なお、エンベル・ホッジャ党第されているにすぎなかった。戦後、社会主義政 一書記 ( 軍最高司令官を兼任 ) が、絶大な権威権は数次の五か年計画を通じて工業化を目ざし をもっ指導者としての地位を保持している。 た結果、一九六〇年にはエ鉱業生産が農業生産 対外政策では「アメリカ帝国主義」と「ソ連を上回り、八一年にはエ農生産比はほば七対三 社会帝国主義」を世界人民最大の敵であると となった。初めは繊維、パルプ、木工、食品な し、この二国とよ しいかなる関係ももたないと宣ど軽工業を育成し、ついで五〇年代後半より重 言している。他の諸国とはアルバニアを敵視し工業の建設に着手、鉱山、油田の開発、非鉄冶 きん ない限り通常の外交・通商関係を維持するが、金および石油精製施設の建設、電力増産、鉄道 イデオロギー上の妥協はせず、援助も受けない 延長に努め、七六年には最初の製鉄コンビナー との立場から、一九八二年現在日本を含む一〇 トが稼動を開始した。これらの多くは、初めソ ア、ついでイタリアに占領された。二〇年イタ 一九四一年にはアルバニア共産党が結成され〇か国近い国と国交がある。ただし、イギリス連、ついで中国の援助によるところが大きかっ リア軍を追い出して独立を回復、国際連盟に加て。ハルチザン闘争を開始し、四四年一〇月エンとはゾーグが国外へ持ち出した金塊を返還しな たが、七八年以降は外国からの援助を受け入れ 入した。その後、地主出身のアフメット・ゾー ベル・ホッジャを首班として臨時政権を樹立、 い限り、また西ドイツとは戦時賠償に応じない す、その旨を憲法に明記、完全自力による開発 グが台頭し、一時は進歩的なファン・ノーリ政同年一一月末までに自力で全土を解放し、四六限り、国交をもたないとしている。南アフリ に努め、このため輸出振興を優先している。 権にとってかわられた ( 一九一一四 ) ものの、返り咲年一月人民共和国を宣一言して社会主義国となっ力、イスラエル、韓国とも国交はない。一九五 農業においては、工業化優先や人口増のゆえ いて大統領となり、二八年には王制を宣言してた。六一年、中ソ論争に際してソ連圏から離脱五年以来、国連加盟国であるが、ワルシャワ条に、戦後も穀物輸入国を脱することができなか 自ら国王 ( ゾーグ一世 ) となった。経済的には し、中国の盟友となってその援助を受けた。七約機構からは六八年正式に脱退、コメコン ( 経ったが、一九七〇年代に人海戦術による開墾運 イタリアへの依存を強め、三九年イタリアに武 八年、イデオロギー論争を契機として中国は援済相互援助会議 ) は六一年事実上脱退、その他動を展開するなどして増産に努め、七六年以降 カ併合されてゾーグは亡命し、第二次世界大戦助を打ち切ったが、国交は継続する。以後、ア「バルカン諸国協力会議」などにも参加してい は穀物自給を達成している。 中、イタリアの降伏後はドイツに占領された。 ルバニアは外国からの援助をいっさい拒否してない。アルバニア国民の出国と外国人の入国 輸出はクロム鉱がずばぬけて大きく ( 人口一 第 d 3 製造業 鉄冶金 非鉄冶金 を〕金属加工 、化学 精油 建築資材 チラナ いもを、冨セメント 、 / ダをガラス 、繊維 / 製靴 工ルバサン圖木材カロエ 、ッダ食品 たはこ Fe Ni コルチェ を口 ケム 炭 物青炭油ッロ塩 産瀝褐石鉄ニク銅食 鉱ロ〔 3 ◎ レ〔を 60km 804

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。フザベ ] ション』 ( 一九五九 ) や、ポ た。数十人の捨子を育てたことなどは、その人 ールドウインとの共作『ナッシン 〈林亮勝〉 っ柄を示している。 グ・ ーソナル』 ( 一九六四 ) などは , ' へ回林亮勝著「松平信綱と阿部忠秋」 ( 「大名列 〈平木収〉 その好例である。 伝』所収・一九六七・人物往来社 ) あ アベナリウス Richard Ave ・ アベックの規則 Ⅶ 0 一十 narius ( 天四三ー九六 ) ドイツの のきそく Abegg's 哲学者。一八七七年より没年まで rule 周期表でみられ チューリヒ大学教授。徹底した実 る原子価の規則で、一 証主義の立場にたち、オーストリ 九〇四年ドイツのアベ CO LO 阿 アの物理学者・哲学者のマッハと ック Richard Abegg ( 一会九ー一九一 0 ) によっ 評論家。明治三六年六月二六日岡山県に生まれともに経験批判論の創始者として ・ 4 ・ 4 Ⅳ十一一十 る。東京帝国大学英文科卒業。在学中に同人誌知られ、後の論理実証主義の展開 て指摘された。すなわ に大きな影響を及ばした。主著に 『朱門』に参加、卒業後は『文芸都市』同人と ち陽性元素が正電荷、 00 ~ 九 0 ) なる。一九三〇年 ( 昭和五 ) 『日独対抗競技』『純粋経験批判』二巻 ( 天、 陰性元素が負電荷で結 < 十一 がある。彼によれば、哲学の任務 で文壇に登場、同年短編集『恋とアフリカ』 合する場合を正常原子 けいじじよう 評論集『主知的文学論』を刊行して、新興芸術はいっさいの形而上学的概念を除 価としそれらの逆の場 派の有力な一員として注目された。三六年『文去して純粋経験に立ち戻り、それ 合を逆原子価としたと 学界』に連載した『冬の宿』は、左翼運動退潮を最小力量の原理に従って記述す き、それらの正常原子 1 よ 後の知識人の混迷を浮き彫りにしたものであっ 価および逆原子価の最 z 十一 ~ 三九 ) は、フを回復することにあるとされる。 た。戦争下の長編『風雪』 ( 一九三八 高値の絶対値の和はっ 規 アシズムに対する自由主義の立場からの抵抗をそして、人間経験の全領域を数学 ねに八になる。第三周の ク 子価の 示した作品である。戦後は『黒い影』『おばろ的操作で記号化しようとしたが、 期から 0 までについ ッ 原子値 夜の話』 ( 以上一九四九 ) などで敗戦後の知的青年その思想は唯物論の陣営からの激しい批判を招としてチモーネ山 ( = 一六三 ) をもつが、概して てみると表のようになべ素常原対 ア族元正逆絶 〈野家啓一〉 一一〇〇〇を超えることはまれである。 る。 の苦悶を描く一方、五三年 ( 昭和二八 ) 、メー 〈中原勝儼〉 しよとう 0 ア 中央アベニン山脈は、ポッカ・トラバリア峠 アベナンマー諸島 アベツリーノ AveIlino イタリア南部、デー事件特別弁護人を務めるころからしだいに からアドリア海と平行して走り、ポッカ・デ カンバニア州アベツリーノ県の県都。人口五万社会的関心を強め、反動的潮流に対して進歩革べナンマー諸島 イ・フォルリ峠に至る。山脈はさらに、ウンプ さんみやく Appenn1no, 九三二四 ( 一九 ) 。サバト川の渓谷に位置する。新の側から抗しようとする態度を貫いた。そのアベニン山脈 リアーマルケ・アベニン山脈とアプルツツオ・ 間の著作として評論集『ヨーロッパ紀行』 ( 一九 Appennini イタリア半島の背骨をなし、 古代イタリア人の一部族であるヒル。ヒニの町と 北はリグリアから南はカラブリアに至り、ほばアベニン山脈の二つに分かれる。比較的なだら 五 l) 、長編小説『日月の窓』 ( 一九五七 ~ 夭 ) などが して発足、ラテン名アベリヌム Abellinum 北西から南東の方向に連なる山脈。尾根沿いのかであった北部アベニン山脈と比べて、ここで 現在の町の輪郭が形成されたのは一九世紀以降ある。ほかに英文学の翻訳も多い。昭和四八年 〈東郷克美〉長さ約一三五〇キ。。リグリアでは幅三〇 ~ 五〇は山脈中もっとも起伏に富んだ険しい地形がみ で、この地方の行政と農産物流通の中心地とし四月二三日没。 られ、グラン・サッソ・デイタリア山塊中に キロであるが、中央部では約一四〇キロにまで広が ての機能を果たし続けている。一二世紀に建て回『阿部知二全集』全一三巻 ( 一九七四 ~ 七五・河出 は、アベニン山脈最高峰のモンテ・コルノ山 り、カラブリアではふたたび狭くなって二〇 ~ 書房新社 ) られた大聖堂をはじめ、ドガーナ宮殿、カラッ 三〇キ。以下となる。一般に北部アベニン山脈、 ( 一一九一四 ) がある。 〈堺憲一〉 チョロ宮殿などがある。 アベドン Richard Avedon ( 一九一一三ー 南部アベニン山脈は、ポッカ・ディ・フォル 中央アベニン山脈、南部アベニン山脈に区分さ アメリカの写真家。おもにファッションやポー 安倍峠あべとうげ静岡市梅ヶ島温泉の北 リ峠からメッシーナ海峡までをさし、さらにカ トレートを手がけ、商業写真の分野で国際的にれる。 方、安倍川源流部にある峠。山梨県との県境に ンパニア・アベニン山脈、ルカニア・アベニン 北部アベニン山脈は、アルプス山脈との接点 あたり、富士川水系との分水界をなす。標高一活躍。ニューヨークに生まれる。少年期より詩 一んけい みのぶくおん と写真に非凡な才能を示したという。第二次世をなす力ディポーナ峠から、メタウロ川上流の山脈、カラブリア・アベニン山脈の三つに分け 四一六。古くは身延山久遠寺への参詣道とし するが ポッカ・トラバリア峠までをいう。軟らかくてられる。険しい石灰岩の山塊、砂と粘土質の多 て、甲州 ( 山梨県 ) と駿河 ( 静岡県 ) とを結ん界大戦後、ニューヨーク社会調査学校に学び、 へいたん い岩石でできた平坦地、深い河谷などによっ だ。峠の東側を地質上重要な糸魚川・静岡構造そこで著名なアート・ディレクター、アレクセもろい岩石からなっているため、侵食による そうばう 線が南北に通っている。ブナ、カエデ、ヤシオイ・プロードウィッチに師事し、彼の推挙で地が多く、斜面は地すべりしやすくなっていて、きわめて多様な相貌をみせている。 アベニン山脈は、全体として鉱物資源に乏し ース・バザー』誌に写真を発表するよる。チーザ峠で、さらに、リグリア・アベニン ツッジなどの群生する植相に特色ある景観をも しちめん はっこうれい りようせん く、伝統的な牧畜も衰退し、多くの地域で過疎 てライフ』や『ポーグ』でも山脈とトスカナーエミリア・アベニン山脈の二 うになる。続い『 、八紘嶺、七面山、 つ。稜線を西にたどると 〈堺憲一〉 化が著しく進んでいる。 大谷嶺などに続く。梅ヶ島温泉から徒歩二時活躍、一九五〇年代にはいち早く写真家としてつに分けられる。前者は、サポーナとラ・スペ ツィアの間をリグリア海に迫って東西に走る。アベニン・トンネル Grande Galleria 〈北川光雄〉不動の地位を確立していた。彼の写真表現は形 後者は北西から南東に延び、テべレ川やアルノ dell'Appennino イタリア国有鉄道のポロー 式的なまとまりのなかにも、人間性に根ざした 囮五万分の一地形図「南部」 川の水源を有する。北部アベニン山脈は、主峰ニャーフィレンツェ間にある鉄道トンネル ( 複 阿部知ニあべともじ ( 一九 0 三ー七三 ) 小説家、鋭いリアリティーがうかがわれる。作品集『オ 十一 8 しよとう 4 アベドン「愛国婦人会 : アメリカ独立戦争の娘たち』 1963 年 5 14

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まで推し進めた近代的照明法の開発とともに、 おりの社会秩序に返るという物語で、当時のイ ス・スワロフスキーに正式に指揮法を学んだ。 どイスラムの聖職者層が支配階級の座につい 六三年ミトロプーロス国際コンクールに優勝しギリスの階級社会と民主主義思想を軽く風刺し現代演劇の展開に計り知れぬ影響を与えてい た。こうしてアッパース朝は、その国家と社会 〈大島勉〉 〈冨原芳彰〉る。 にイスラム法の理念が実現されたため、厳密なて名をあげ、六八年ミラノ・スカラ座音楽監督ている。 ー一九一一 0 回遠山静雄著『アドルフ・アピア』 ( 一九七七・ 意味での「イスラム帝国」だとされる。 に就任。七一年からはウィーン・フィルハーモアッピア Ad01phe Appia ( 天六一一 模書房 ) スイスの舞台美術家、演出家。・クレイグと ニーの指揮者を兼任。七三年 ( 昭和四八 ) ウィ このアッパース朝体制を事実上樹立したのは かいどう Via Appia 第二代カリフ、マンスールで、彼は新都バグダ ーン・フィルと、八一年スカラ座とともに来並んで現代舞台芸術の父といわれる。九月一日アッピア街道 ジュネープに生まれる。アツ。ヒア家はイタリア古代ローマの国道。紀元前三一二年ケンソル ードを建設し、官僚機構、常備軍、駅逓網を手日。オペラとコンサートの両分野に成果をあげ ているため、イタリアではトスカニーニ以来の系の名門で、父ルイは赤十字創設者の一人。初 ( 監察官 ) のアッビウス・クラウデイウス・カ 段に、イスラムのもっ統一性の原理に従って、 ェクスが着工させたところからこの名がある。 〈岩井宏之〉め音楽家を志してパリに遊学、ついでライブッ 中央集権的統一体制の確立に努めた。第五代カ大型指揮者と期待されている。 前四世紀のうちにローマからカプアまで完成、 フ、ハールーン・アッラシードの治世はこの厚歯ニ枚貝あつばにまいがいおもに中生代イヒ、ドレスデンに滞在したが、ワーグナーに 前三世紀中ごろまでに南イタリアのプルンディ に栄えたサンゴに似た特異な形態の海生二枚貝傾倒し、一転して舞台芸術の革新に向かった。 王朝の全盛期であった。しかし、その子アミー シウム ( 現プリンディジ ) まで延長された。全 以後コボーやダルクローズらの支援を得て、ワ ンとマームーンによる内乱に加え、やはり子の の通称。分類上、異歯亜綱ヒプリテス目 Hip- ーグナーの理念に基づく独自の反写実演劇活動長五四〇キ。。「道路中の女王」と称され、アド ムータシムが王朝の軍団にトルコ人奴隷兵を採 puritoida に属し、左殻に肥厚した歯をもっこ リア海を隔ててエグナティア街道 Via Egna ・ とからこの名がつけられた。著しく不等殻で、 を展開したが、保守陣営から激しい攻撃を浴び 用し、やがて軍閥化したトルコ人奴隷兵によっ ~ いド ) し・つ 力いらい えんすい てカリフの傀儡化がおこると、辺境諸州の半独管状、円錐形の右殻と、これを蓋状に覆う扁た。一九二三年にはミラノ・スカラ座に招かれ tia ( 前一三〇年ごろ建設。バルカン半島を横 立化、イラクにおける黒人農業奴隷ザンジュの平、小形の左殻からなる。形態や産状から、暖て『トリスタンとイゾルデ』の美術を担当し、断する ) に接続し、南イタリアやバルカン半島 のギリシア人世界とローマとの交流のうえで、 かい浅海 ( 大陸棚内側のラグーン ) の地物に固総監督トスカニーニの称賛を受けたが、大方に 乱やカルマト派の反乱が相次いだ。 〔衰亡〕第一五代カリフ、ムータミドの弟ムワ着して生活していたと考えられ、しばしば礁をは不評であった。翌年スイスのバーゼルの市立大きな役割を果たした。現在でも、舗装の一部 劇場に所属。二八年二月二九日フランスのリョや沿道の史跡がみられ、ローマ市近辺ではアッ ッファクが精力的に治安回復に努めた結果、帝形成した。おそらく現世のサンゴ類の生態的地 ン郊外の療養所で没した。その舞台活動の業績ビア旧街道 Via APPia Antica として重要史 国は経済的、文化的発展の時代を迎えたが、宮位を占有していたと思われる。白亜紀前期のテ たいせき しやし 〈吉村忠典〉 廷の奢侈や官僚機構の膨張、軍事費の増大かチス海域の礁性堆積物 ( ウルゴン相とよばれは数少なく、三冊の著述『ワーグナー劇の演跡の一つとなっている。 ら、国家財政は慢性的赤字となり、一〇世紀なる ) に多産し、日本でも岩手県の下部白亜系か出』 ( 天九じ、『音楽と演出』 ( 天究 ) 、『生きた芸アッピアノス Appianos 生没年不詳。 はたん ら産する。進化速度は速く、示準化石、示相化術』 (一九 lll) のほか、数十枚の舞台デザインが古代ローマ、二世紀のギリシア人歴史家。エジ かば近くなるとまったく破綻してしまった。こ 〈棚部一成〉残されているにすぎない。しかし、時間 ( 詩とプトのアレクサンドリア出身。出身市の都市官 れに不満をもっ軍人階級が九三六年に政権を掌石として有効である。 握し、カリフは政治の実権をほとんど失い、九熱原法難あっはらほうなん一二七九年 ( 弘音楽 ) と空間 ( 絵画と建築 ) の融合調和を、俳職を務めたのち、ローマ市民権と騎士身分を与 するが 四六年初めにはイラン系の軍事政権プワイフ朝安一 l) 九月、駿河国富士郡熱原 ( 静岡県富士市優の彫刻的律動性を通して実現しようとするそえられ、ローマ市に移住した。法廷で弁護人と こちれん して活動し、皇帝マルクス・アウレリウスの師 の統合的な演劇理念は、光と影の効果を極限に がバグダードを占領し、アッパース朝国家は崩厚原 ) の印蓮の門弟や信者に加えられた弾圧。 につ - 一う フロントーの推薦で皇帝領属州の管理官の地位 日蓮の弟子日興は富士郡一帯に伝道活動を展開 壊した。プワイフ朝はシーア派に属していた そうりよ を得た。晩年に、戦争中心の二四巻の『ローマ し、天台宗の僧侶や農民から多くの弟子や信者 が、アッパース家のカリフ位を廃絶しなかった 史』を著した。そのうち、一二巻余りが残って ので、ここに、行政と軍事を担当する軍事政権を獲得したので、各地で他宗の僧との深刻な抗 おり、共和政末期の内乱の史料として重要であ 争が引き起こされた。とくに熱原の真一一 = ロ宗瀧泉 と、宗教や法の施行、教育などを担当するカリ ぎようち る。 〈島田誠〉 フ当局との並存が始まり、社会的には軍事イク寺では院主代の行智と日弁、日秀らが対立し、 郊 アップリケ appliqué手芸用語。ア ター制の時代に入った。プワイフ朝のあと政治農民をも巻き込んだ争いとなった。行智は、院 近 かりたろうぜき 市 ップリケとは、はる、とじつける、布置きする 権力を掌握したセルジューク朝が一三世紀の初主代の田地を刈田狼藉したとの理由で百姓の熱 マ などの意味で、古くは衣服の傷みかけた部分や めに分裂して、イラクに権力の空白状態が生じ原神四郎ら二〇名を鎌倉に送り、さらに日蓮の ロ 破れたところに別布を置き補修することから始 ると、第三四代カリフ、ナーシルは政教両権を信者であることを訴えた。このため侍所所司平 路 よりつな まった。やがてそれが、実用性と装飾を兼ねた 兼備したカリフ体制を復活させようと努めた頼綱の処断によって、神四郎ら三名は題目を唱 ざんしゅ ものになったといわれる。 の えながら斬首され、ほかの者は禁獄されるな が、それも一二五八年にバグダードが異教徒の じゅうりん 石 〔由来〕ヨーロッパでは中世に大いに発達し、 〈中尾堯〉 モンゴル軍に蹂躙されるに及んで、カリフ制ど、過酷な刑が執行された。 す 残 祭壇の掛け布、僧服、服飾や室内装飾に用いら は完全に消滅した。 〈森本公誠〉あつばれクライトン The Admirable を 影れた。日本で一般に使われたのは、明治末期ご 回森本公誠著『イスラム国家の展開』 ( 『岩波講 Crichton イギリスの劇作家・・ のろであり、布置き刺しゅうといわれて伝えられ 作の四幕喜劇。一九〇二年初演。ローム伯爵と 座世界歴史 8 中世 2 』一九六九・岩波書店・ その家族や友人たちが難破して無人島に漂着す 、仕た。また、北海道のアイヌ模様にも、アップリ 所収 ) ると、日ごろは伯爵家の執事にすぎないクライ り・アッパード C1audio Abbado ( 一九 = 三ー 道ケの技法がある。 街 〔技法〕土台布の上に、色、柄の異なった布を 、ふ ) イタリアの指揮者。初め独学で指揮法をトンが、一行のうちでも 0 とも頼りがいのある ア ビ図案どおりに切って置き、かがりつけてつく っ身につけ、一九五八年クーセビッキー国際コン人物となり、そこでの生活の主導権は彼の手に ア る。布地によっては、裏側に和紙などで裏ばり あクールに優勝。その後ウィーンに留学、ハン移る。しかし、救助船が到来するとともに元ど 当を田新 389

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あるふす アルプス / 登山史略年表 ンニバル ( カ ~ ) 、アルフス山脈を越え てローマ帝国に攻め入る 後一 = 一 = ( ベトラルカ ( 〕 t) 、モン・べントウ ( 一九 一一 0 ) に登る 一四九 = ド・ウイル ( フラ、 しモンテギュイーユ ( 一一 0 九七 1 しに初登項 至一ダ・ピンチ ( ) 、モンテ・ポー ( 一一五五六 1 しに登る 一吉一ボコックとウインダム ( 〕 し、シャモニ ー周辺の水河を探査 / カールとパルマーっし、モンプラ ン ( 四八 0 をし初登項 ド・ソシュール ( スイ ) 、モンフランの山 項で科学観察をする 天 00 ホラッシュ 0 ース , ア ) ら、グロースグロノ クナー ( 三虎しに初登項 天 0 九マリ ハラディス 0 イ ) 、女性として モンプラン初登頂 ( 通算第七登 ) 天 = マイヤー親子 0 イ ) 、ユングフラウ ( 四一 五 0 し初登項 一〈三〈「モンプランの許嫁」と呼はれたアンリ ェット・ダンジュピル ( フラ ) 、モンプラ ン登項 0 ) 、ローゼンホルン ( 三六九一 ) 初登頂 一会四ウイルス ( 〕ス ) 、ウェッターホルン ( 一毛 0 一 ) 初登項 ハドソン、スチープン 一会五スマイス兄弟、 ソン ( 〕ス ) 、モンテ・ローサ ( 四六三四 ) 初登頂 一会七世界最初の登山家のクラブ、アルバイ ン・クラブがロンドンに創立 バリントン ( 〕 ) ) 、アイガー ( 三九と】し 巨大なアルペンホルンやヨーデルも、夏の放牧やポルツアーノ周辺などがその中心である。ア下の猛将ガルバは、グラン・サン・ベルナール 初登項 ルプスの水力発電は、起伏が大きくまた河川が峠を越え、ワリス地方を征服したが、征服後に 生活のなかから生まれたものといわれている。 かんよう イ \) 、リスカム ( 四五一石】し 冬村の周囲は牧草地となって、冬季の飼料とし氷河によって涵養されるために流量の変化が少峠には神殿が建てられ、守備隊が配置された。 登頂。チンダル ( ) 、ワイスホルン ( 四五 ないなどの利点をもっており、各地に巨大なダアルプス以北にローマ植民市が次々と建設され ての干し草がつくられるほか、麦類、ジャガイ 0 吾し初登項 なんろく モ、野菜などがつくられ、リンゴなどの果樹園ムがつくられている。繊維業はアルプス南麓のると、ローマ軍道の西アルプスの主ルートはグ 一〈六一一オーストリア山岳会創立 も多い。ローヌ、アオスタなどの谷では夏の気トリノとミラノ、および西麓のリョンが中心でラン・サン・ベルナール峠を、東アルプスの主一〈一 = トリノ山岳会創立 ( のちにイタリア山 ルートはサン・ベルナルディーノ峠を含んだビ 〈小野有五〉 ある。 岳会 ) 。スイス山岳会創立 温が上がるのでブドウの栽培も行われている。 イギ、ヾールデセクラン ュンドナー峠を通った。これ以後、アルプス地 天六四ウインハ 〔産業〕アルプスでは古くからある製紙業や繊 アルプスの歴史 ) に初登項 ( 四一 0 一 域はヨーロッパの十字路となった。 維業、小規模ながら産出する石炭、無煙炭、鉄 マッターホルン ( 四四大 ) 一〈六五ウインパ ゲルマン諸部族の進出、フランク王国成立後 アルプスの歴史は、ヨーロッパ南北を結ぶ峠 を利用した製鉄業、製錬業などが行われてきた 初登項。ムーア ( 〕ス ) 、モンプランのプ も、アルプスの峠は重要な地点であった。峠の が、近年では水力発電と交通機関の発展によの歴史でもある。ケルト人が全スイスに居住し レンバ稜初登攀 り、電気化学工業やポーキサイトの製錬業などていたローマ時代以前に、すでにアルプス各地維持は、神聖ローマ皇帝のイタリア政策の基本 天六九ドイツ山岳会創立 に一〇以上の峠道が存在していた。しかし、峠柱であり、また、キリスト教の進展に伴い、峠 が盛んになった。フランスではグルノープル周 一全一ルシー・ウォーカー ( 〕 ) ) 、女性のマノ は巡礼の道にもなった。一〇世紀には、イスラ が歴史的に脚光を浴びるようになるのは、ロー 辺やイゼール川の谷、スイスではワリス、アー ターホルン初登項 マ人によるガリア征服からである。カエサル麾ムの勢力がアルプスにまで及び、峠越えは危険 ル、テッシンの谷、イタリアではアオスタの谷 至シュトツットカ 1 ルト ウ アルプス / 交通網 ドイノ屮和国 イ オーストリア インスル " ンジア峠′、 - ノ′ プレンナー / ュプリゲン峠 ) こヤ峠 ュコヒ ア勺つク・ グ タ工ルン・ ン スイス ン サン・ゴタルト - シ、プロン・ 、ンネル ポルツアーノ ・ジープ、 ン フンンネル 4 グラン・サン・ / 1 ベルナール峠 アオスタ チ・サン・べ ウ ャ 1 可ステ コ . ーゴスラ ペロナ バ一フンス リアンソン アルプスの範囲 高速道路 主要自動車道 主要鉄道 峠 高速道路 ←主要自動車道トンネル *--- ←主要鉄道 ネ ア ジェノ / 、 テンダ峠′ ース 工 100km セイユ 至口一マ アルプス / 水力発電所 ドッ連邦和国 リアシ、タイ、 ン フ オーストリア ス イ チーラーも ) ホコタウレ、 、′′工ツッター丿 :. ルプス . 、 「、オルトみ・ アルプス ノ ラ亠 ンケン亠脈 ベルフ山 人プス・ルラス \ ! 。 ユーゴスービア ( こ ) アルプスの範囲 水力発電所 : 海岸アルプス イターア 100km 822

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ありつさ アリタソウ アリヅカコオロギ「蟻塚蟋蟀〕 M. ・ 田市では鵜飼が行われる。 〈小池洋一〉有田ノ郎ありたはちろう ( 一会四ー一九六五 ) 外 ! ちよくし わせだ と 'Ali Dashfi き e き sap を、 s 昆虫綱直翅目アリヅ 務官僚、政治家。新潟県佐渡生まれ。早稲田中 アリー・ダシュティー カコオロギ科に属する昆虫。アリの巣の中でア ( 一〈〈 ~ ( ー一〈〈 = ) イランの作家、評論家。イラク学、旧制第一高等学校を経て、一九〇九年 ( 明、 右 マ リと共生する小形のコオロギ。体長二・五 ~ 三 のカルバラーに生まれる。一九一八年祖国に移治四一 l) 東京帝国大学法科を卒業、外務省に入 ャ しんよう ほうてん 直塚カ リはどで、日本産コオロギ類中の最小種。成虫 って政府批判の筆を振るい、三か月投獄される。中国の奉天 ( 現瀋陽 ) 、ハワイのホノルル てんしん ゾ は濃褐色で、体表に金色微毛を密生し、無翅で た。一一一年に獄中回想録『獄中の日々』を発表など在勤後、天津総領事。二七年 ( 昭和一 I) 田 しで マと ある。日本全国に分布する。↓コオロギ図。ト して文壇に現れた。その後、短編集『ヘンドウ中義一兼任外相のもとでアジア局長となり、幣 ` はら 〈山崎柄根〉 ー』『魔法』、文学・社会評論集『蔭』を出版し原喜重郎派にかわる省内アジア派の中核とみな カた ばつばっ アれアリヅカムシ〔蟻塚虫〕 ant-loving bee ・ たが、五〇年以降ベルシア古典詩人についてされる。三一年満州事変勃発に際しては、オー ーエ作 tles 昆虫綱甲虫目アリヅカムシ科 Pselaphi ・ 『ハーフィズの肖像』『サアディーの領域』「ハ ストリア公使として国際調停に尽力。広田弘 で きいちろう よないみつまさ このえふみまろ 左 ど dae の昆虫の総称。世界各地に産するが熱帯 イヤームとの一瞬』などを執筆し一流文学者、毅、第一次近衛文麿、平沼騏一郎、米内光政各 ←塚葉域に多く、およそ五〇〇〇種が知られる。日本 評論家としての地位を確立した。〈黒柳恒男〉内閣の外相を務め、日独防共協定 ( 一九三六 ) に賛 ) リち には約一五〇種記録されているが、実際には数 アリタソウ〔有田草〕ムき b 、 ~ きき・成しつつも米英対象の軍事同盟化に反対するな ア落 百種以上産するものと推定されている。微小な 3 斗 s (). ) Spach アカザ科の一年草。薬ど、米英との協調による大陸進出を図った。敗 甲虫で一・五 = 、リ前後の種が多く、体色は黄褐色 用植物のケイガイをアリタソウともよぶが、こ戦後、公職追放。解除後五三年 ( 昭和二八 ) 衆 れは本種とは別でシソ科の一年草である。南ア議院議員に当選し、社会党に入党。五五年、五 、 ' ( トや暗褐色などで、多くは赤褐色。普通、外皮が メリカ原産の帰化種で強いにおいがある。茎は九年の東京都知事選に革新統一候補として出 高さ六〇 ~ 八〇、よく分枝して斜め上に伸び馬、落選。昭和四〇年三月四日死去。一九六一 を 3- 、〕物鼕冪、で腹部大半が露出し、その節は互いに接着して うたげ だえんひしん 無毛。葉は互生し長楕円状披針形で先端はとが年三島由紀夫の小説『宴のあと』をプライバシ 気 : ト動かせない。触角や小あご肢はとくに雄だけ変 わった形になることがある。拊節は普通三節。 〈小田部雄次〉 ー侵害と訴えた事件は有名。 り、基部はくさび形で短柄があり、縁に不そろ まりやき 朽ち木の皮下、石や倒本の下、落ち葉や腐植土 いの歯牙がある。茎の上部の葉は線形で小形。有田焼ありたやき 0 伊万里焼 ようえき えんすい こうくう ALITALI ・ の中、洞穴の中などにすむ。またアリの巣内に 七 ~ 一〇月、葉腋に緑色で小形の円錐花序をつアリタリア航空 かひ いる種もあり、腹背部に毛束があってアリの好 け、花穂にも葉状の包葉が混じる。花被片は一一一 A Air Lines イタリアの航空会社。一九四 えさ む蜜を出し、アリから餌をもらうヒゲプトアリ ~ 五個。胞果に光沢のある凸レンズ状の種子を六年、イタリア政府四七・五 % 、 ( 英国 ヅカムシ類 0 ミ e 、などもある。〈中根猛彦〉 欧州航空会社 ) 三〇 % 、民間一三・五 % の出資 一個含む。和名は、佐賀県有田で栽培されてい アリッサムトミミミミ、 ~ ・ごミ たことによるといわれる。 比率の合併会社として出発。第二次世界大戦 全草に毛の多いものはケアリタソウとして区後、イタリア国内には三四の航空会社が乱立しれた単純なものから、落ち葉や落ち枝などを集 Desv. アプラナ科の多年草であるが、強い暑 さと寒さに弱いので、普通は一年草として扱わ めてつくられた複雑なものまでさまざまなタイ ていたが、整理統合が進み、五五年には 別することがあり、普通に都市に雑草化してい ( イタリア航空会社 ) とアリタリアの二社だけプがある。前者の典型的なものは、乾燥地帯のれる。和名をニワナズナ、ニオイナズナという。 る。北アメリカ原産のアメリカアリタソウ 地中海から西アジアにかけての海岸地帯原産。 アリ類、たとえばボゴノミルメックス属ト 9 ミ ~ 、ぎぎ、 (L し Spach は、葉は欠刻状のが定期便会社として存続し、五七年に両社の合 しがえん やや深い歯牙縁を有し、花穂は細長くて葉状の併により、資本金一〇〇億リラの新生アリタリアきミこミの収穫アリの巣にみられ、その小さ草丈は一〇 ~ 一五の極矮性で、分枝性に富み なものはクレーターとよばれている。複雑なア 包葉を交えず、集まって大きな円錐状をなす。航空会社が誕生した。六一一年東京乗り入れ、六 リ塚では、一般に温帯から亜寒帯に生息するエ 全草にヘノボジ油という精油を含んでおり、駆九年には保有機をすべてジェット機化した。一 虫剤として栽培され、野生化もしている。↓ケ九八三年の旅客数約七〇〇万、輸送貨物約一二ゾアカヤマアリの仲間のものがよく知られてい 〈湯沢威〉 る。これらのアリ塚は、地中から運び出された イガイ 〈小林純子〉万七〇〇〇トン づか「蟻塚〕 ant heap, ant 土と付近の地表から集められた針葉樹の落ち葉 アリ塚 hill, ant mound 昆虫類のアリまたはシロや落ち枝などでつくられ、その大きさは直径一 えんすい アリの巣で、地上に円錐状、塔状、あるいはキ〇、高さ二に達するものもある。塚の内部 には多数の巣室と通路があり、地下の巣と連絡 ノコ状に盛り上げられた部分をいう。シロアリ は分類学上等翅目に属し、膜翅目のアリとは遠している。塚の機能は、太陽からの熱を集め、 縁であるが、ヨーロッパ人によって「白いア巣内を高温に保つことであり、温度の高い表層 リ」 white ant とよばれ、熱帯サバンナなど部には老齢幼虫や蛹がみられる。日本のアリ塚 にみられる土でつくられた巨大なシロアリの塚では、中部山岳地帯から北海道にかけて分布す もアリ塚またはアリの塔 ant hill とよばれてるエゾアカヤマアリのものが有名で、高さ六〇 ほどの塚である。ッノアカヤマアリの塚は小 形のものが多いが、かなり整った円錐型をして アリ塚には、地中営巣性のアリが巣を掘ると 〈山内克典〉 きに運び出した土や砂が巣口付近に盛り上げら ケアリタソウ 1 さなぎ みつ 4 4 1 くわい 0 0 アリッサム 737