作家主体が受け止め、その体験が作品に昇華しスチナに踏みとどまって創作にあたった作家と鮖 あ た一連の小説がまず現れた。すなわち、ソヘイ しては、詩人のマフムード・ダルべーシュと左 7 ル・イドリース ( レバノン ) の『カルチェ・ラ翼作家のアミール・、、、 / ヒービーがいる。自作の ら タン』 ( 第五版・一九六五 ) 、タウフィークル・ハキ詩を大衆集会で朗詠するというアラブの伝統に あ 1 ーム ( エジプト ) の『東洋からの小鳥』 ( 一九よったダル・ヘーシュの詩作は、パレスチナ人自 三 0 、ヤヒャー ・ハッキー ( エジプト ) の『ウ身が生み出した抵抗の武器となった。アミー つどうろう ンム・ ーシムの吊り灯籠』 ( 一九四四 ) などであル・ハビービーはイスラエルの厳しい検閲下に るが、これと時を同じくして、外国の文学を摂あって、アラ。フ人だけに理解できる幾重にも屈 おうせい しんらっ 取すべく、旺盛な翻訳活動が遂行され、アラブ折した表現法と辛辣な風刺により、完成度の高 世界でも世界の文学を共有しうる地盤が用意さ 、作品を生み、その作品は、異郷にある同胞に れた。 対しての、占領下の祖国から発せられた勇気を その後に展開されたものは、世界文学から啓奮い起こさせるメッセージとなった。 はんちゅう 第三番目の範疇に入る、異郷にあって創作 発されたアラブ諸地域の作家主体による、自己 にあたっている作家としては、ハリー の資質と自分が帰属する固有の世界を創作の場 / : つも′、 としての瞠目に値する創作活動であった。作家カートやジョブラー・イ・フラヒーム・ジョブラ ーがあるが、いずれも作品のテーマは、、うま たちによる自己の帰属する世界への内化という 文学的営為は、アラビア語でインティマーウとでもなく「パレスチナ問題」に激しく収斂して わだち いうが、これは、自分が生まれ出てきた轍を逆 にたどり返し、自己の本来のありようを見届け〔エジプト〕アラ。フ文学のなかでもっとも強力 な磁場となっているのはエジプトだが、それら ようという原点復帰の行為であり、そうするこ とによってこそ世界文学の一端に連なることの の作品の主要な舞台は、大別すると、カイロや できる作品が生み出しうる契機がっかめ、そこ アレクサンドリアのような大都会と、カイロを かみしも にこそ創作の場があるという自負が若いアラブ基点とし上下エジプトに二分される農村地帯に の作家たちにはうかがえる。 分けられる。カイロの下町の庶民の生活を歴史 現代アラブ小説群は陸続と生み出され、すでの激動のなかに置いて見守ってきた作家には、 に多様な広がりをみせているが、ここではこのナジープ・マフフーズがいる。彼の「バイナ 原点復帰という文学的営為を視座にして、パレ ル・カスライン』 ( 一九五 0 を第一作とする三部 スチナ、エジプト、スーダンの各地の主要な作 作では、両世界大戦間において揺れ動くエジプ 家と作品について略述してみる。 ト社会を生き抜いていく一商人の家族の姿が、 〔パレスチナ〕。ハレスチナの文学は、一九四八 世代の交代とともにつづられており、歴史を庶 一をむ 12 三 年に祖国を奪取されるという不条理と、その後民の側からみるという興趣も加わって、すでに かれっしゅう の祖国なき民衆がたどった運命とに苛烈な収大河小説として不動の位置を占めるに至ってい 0 斂をみせている。パレスチナの作家としては、 る。最近注目され始めた作家にはスヌアッラ ・イプラヒームがいるが、彼の処女作は『あ アッパース朝の滅亡 ( 一一一五 0 ののち、アラビ 〔近代化の動き〕ナポレオンのエジプト侵入まずガッサーン・カナファーニーがあげられ ( 一七九 0 は、アラブ族にヨーロッパ近代文化へる。彼は *-2 ( パレスチナ解放人民戦線 ) の匂い』 ( 一九七 I) で、独自の生理でエジプト社 ア文学の中心はイラク地方を去って、マムルー 会と対峙し、カフカ的世界を織り成している。 ク朝治下のエジプトに移った。民間文学の傑作の目を開かせる機会を与えた。またレバノン地の公式スポークスマンとして活躍中、シオニス トの仕掛けたダイナマイトで愛車ごと吹き飛ばアスワン・ハイ・ダム建設にまつわる作品『八 方にも一九世紀中ごろからアラブの伝統文化へ の一つである『千夜一夜物語』 ( アラビアン・ され、壮絶な死を遂げたが ( 一九七一 l) 、四半世紀 月の星』 ( 一九七四 ) も注目を集め、最新作には ナイト ) は、アッパ ース朝の初期に早くもそのの目覚めが始まった。フランスをはじめヨーロ ッパ諸国の文学の取り入れにより、新しい文学 に及ぶ同胞の悲惨な運命を作家としてのある確『委員会』 ( 一九全 ) がある。新しい世代の大衆作 母体が現れ、バグダードで発達したのち、一五 世紀ごろのカイロで現存のものに整えられたの運動が興り、二〇世紀に入ると、よくこれをアかな予見をもって見守り続けた。パレスチナ人家としてもてはやされているのはイスマイー ル・ワリイ・ディンで、『銭湯マラティーリ』 は祖国喪失後、混迷を極め、多くの犠牲を払い であろうという説が有力である。一三世紀から ラブ社会に調和させた魅力に富む作品が増加し ( 一九七 0 ) という作品がある。 ながら試行錯誤の繰り返しののちに、世代の交 一九世紀ごろまでは、アラビア文学の衰微時代てきた。戯曲その他新しいジャンルも発達し、 近年もっとも注目されてよいのは、農村を舞 で、独創的な輝きをもっ傑作は少数しか現れて社会の種々の面と歩調をあわせ、文学にも近代代を契機にして、ついに不退転の抵抗者の集団 へんばう 〈前嶋信次〉へと変貌を遂げていったが、 その行程が彼の遺 台にし、農村に帰属する若い作家たちによる創 しなしが、そのなかにチュニスのイプン・ハル 化の動きが著しくなった。 りよう・しゅう 作の産物である。その領袖はユースフ・イド ドウーンの『世界史』 ( とくにその序説 ) 、モロ 〔現代の文学〕近代を迎えるやアラブの現代文作集にはつぶさに記録されている。 きんき カナファーニーが。ハレスチナ革命の渦中に身 ースだが、『禁忌』 ( 一九五九 ) という作品におい ッコのイプン ・バットウータの『旅行記』など学も、欧米およびロシアの文学の衝撃を受け、 貴重な文献も現れている。 大いに鼓舞されたが、西欧からのインパクトをを置いて創作に向かったのに対し、占領下。ハレて彼は季節労働者に焦点をあて、その生活の実 ② - / 、みツ / みら ~ ゑ第ッ : ツ : 第第よ / ら第のみル , つ第 / 1 1 アラビア文学 ①『コーラン』 1 3 世紀 ロンドン大英博物館 ②「カリーラとデイムナ イフヌル・ムカッファ 作 13 世紀の写本 ③『マカーマート』ハリ ーリー作 13 世紀の写本 ー④「千夜一夜物語』 ( アラ ビアン・ナイト ) 表紙 カイロアル・ヒラール版 ④ 〇膨 れん
あるはは 人当り産出量は世界一 ) 、ほかに原油、電力、識の形成とこれに基づく文化的発展が後れたこ のであろう。文献は一五世紀の聖書訳に始まり いたものが多く、また社会主義建設に題材をと 農産物、軽・手工業品を輸出する。輸入の主力とは否めない。アルバニア語で授業する学校それ以前の歴史は明らかでない。古代から近代ったものも多い。シュテリチの『解放者たち』 は近代化のための機械、設備である。イタリ は、一八八七年にようやく一校のみ設立が認めまで長く外国の支配下にあったため、強くその ( 一九五一一 ~ 五五 ) 、ムサライの『夜明け前』、マルコ ア、ユーゴスラビア、ギリシアをはじめ、近隣られるという状態であった。このような条件の影響を受けたが、とくにラテン系の語彙の借用の『最後の町』 ( 一九六 0 ) などはこの流れを代表 国との貿易が多い なかで、一九世紀に主として国外で「アルバニ 〈直野敦〉 言が非常に多い。シュキペリア Shqipéria ( トする小説である。 企業は小商店も含めてすべて国営である。農ア・ルネサンス」運動がおこったが、なかでもスク方言形 ) と自称するアルバニアには、トス回工藤幸雄他編『世界の文学史 7 北欧・東欧 業では国営農場と集団農場があるが、個人農は叙事詩「スカンデルペグ物語』の z ・フラーシク Tosk とゲグ Gheg とよばれる二大方言 の文学』 ( 一九六七・明治書院 ) ない。徹底した中央計画経済体制をとっておャリが光る。現政権は強烈な民族主義的立場か が、主都チラナ付近を境に南北で話され、文語ア こ Lago di Albano ルバーノ胡 り、国営、集団といっても、実際は「党営」と ら国民の啓蒙と文化水準の向上に意を用いてい も異にするが、最近では統一的傾向にあるとい イタリア中部、ラツイオ州のアルバーノ山地中 いえるほど党が経済運営上の実権を握ってい るが、これはイデオロギー教育としての色彩が う。文字はラテン・アルファベットを使用すにあるカルデラ湖。面積六平方キ。、最深部一七 る。なお、アルバニア当局は統計をなんら公表強、。 る。名詞は男女性 ( 中性はほとんど消滅 ) 格は〇。ローマ南東約二〇キ。のアッピア街道沿い せず、実態の把握は困難である。 他の地中海諸民族に比べて物静かで忍耐強い 五、動詞も現在、未完了、アオリスト aorist に位置する。付近は風光明媚で、古くから避暑 〔社会〕人口の九五 % 以上がアルバニア人であが、家父長制的メンタリテイも残り、女性の地 ( 不定過去 ) 、完了 ( 合成表現 ) の時制のほか、 地、保養地として知られる。湖岸にはカステ るが、北部のゲグ族と南部のトスク族との間に位向上運動が続けられている。市民の楽しみは法の区別もあり、インド・ヨーロツ。ハ語の屈折ル・ガンドルフォやアルバーノ・ラツィアーレ は、一一一口語、風習に地方差がある。ただし標準語映画、一九七一年に放送を開始したテレビ、そ的特徴を保っているが、定冠詞の後置、格の融などの町がある。紀元前四世紀につくられた長 にはトスク方一一 = 口が採用されている。少数民族とれにタ方の散歩である。スポーツはサッカーの 合などに他のバルカン諸語と共通の傾向を示し さ二・五キ。の排水口で放水される。〈堺憲一〉 さんち Monti Alba- してはギリシア人 ( 二・四 % ) 、マケドニア人、人気が圧倒的である。 ている。 〈風間喜代三〉アルヾ ーノ山地 モンテネグロ人 ( あわせて〇・九 % ) などがい ぶんがく現存するア ni イタリア、ローマ市の南東約二〇キ。にある 〔日本との関係〕わが国とは一九一三年外交関アルバニア文学 る。またユーゴスラビア領内に約一五〇万のア係が結ばれたが、三九年イタリア併合により断ルバニア語文献では、一五世紀なかばの宗教文新生代第三紀 ~ 第四紀の火山地域。最高峰はカ ルバニア人が住んでいる。 絶、第二次世界大戦後、八一年に再開された。献が最古のものとされており、一六 ~ 一七世紀 ーポ山 ( 九四一ⅱ ) 。その西方のアルバーノ湖、南 人口増加率は二・四 % ( 一九七五 ~ 〈 0 ) で、ヨー 貿易額もごくわずかであり、八三年現在までの には、聖書のアルバニア語訳その他を中心とす西方のネミ湖は火口湖で、付近には古代ローマ ロッパ最高である。一人当り国民所得はヨーロ ところ総じて関係は希薄である。〈大羽奎介〉る宗教文学が存在していた。しかし、一五世紀時代から富裕階級の別荘が多く、紀元前四世紀 以降のオスマン・トルコ帝国による過酷な政治 ッパでもっとも低いが、最低・最高賃金比は一回木内信藏著『アルバニア』 ( 『世界地理 8 ョ にローマ人によって建設された排水溝がある。 対二に抑えられ、高度の平等社会である。国民 ーロッパⅢ』所収・一九七五・朝倉書店 ) ▽木的支配のため、民族文化全体、そして文学の発現在も旧跡に富む景勝地で行楽客が多い。また は課税されない。第二次世界大戦前は国民の八 戸蓊著『世界現代史 2 4 バルカン現代史』展も著しく阻害されていた。むしろ、トルコの火山岩質の土壌がブドウ栽培に利用され、フラ 割が文盲であったが、戦後八年制の義務教育を ( 一九七七・山川出版社 ) ▽矢田俊隆編『世界各圧迫を逃れてイタリア南部に集団的に移住したスカーティ、カステリ・ロマーニなどの銘柄の 励行、老人を除き文盲は一掃された。約七割が 国史東欧史』 ( 一九七七・山川出版社 ) ▽ アルバニア人 ( アルバレシュ人とよばれる ) のぶどう酒を産する。↓アルバーノ湖〈諏訪彰〉 イスラム教徒であり、残りをギリシア正教とカ 間で一六世紀末から世俗的な文学が発展してい Nicholas C. Pano 】 The P き、ミ s R ーノ・ラツィアーレと bano トリックで分け合っていたが、一九六七年に党 た。一八世紀には、ベルシア、トルコなどの東 LaziaIe イタリア中部、ラツイオ州ローマ県 、 ( 1968 , The Johns Hopkins は宗教撲滅運動を開始し、寺院は博物館などに Press) ▽ Stefanaq Po ま and Arben to 方諸国文学の影響を受けた叙情詩が文学の主流の都市。人口一一万七六一一三 ( 一九七 0 。ローマか 転用された。七六年公布の新憲法で宗教は事実 The 、 0 こ 0 トゝ ( 1981. Rout- 、バルカン全らアッピア街道を二五キ。南東に下ったアルバー となっていたが、一九世紀に入り 上禁止され、アルバニアは「世界唯一の無神論 ledge 年 Kegan Paul) ▽ Peter R. Prifti: 体の民族的再生の運動が発展するにつれて、国ノ湖岸の丘陵地に位置し、ぶどう酒の生産地、 ローマ皇帝セプテイミウ 国家」となった。 S 。、ゝ since 7944 ( 1978. The 民文学創造の運動も勢いを得、そのなかから、保養地として名高い MIT Press) 〔文化〕長くトルコの支配下にあって、民族意 アルバニア文章語の確立者であり、民族抵抗の ス・セウエルス Septimius Severus ( 在位一九三 レ・、 ~ 一二 D が設けた軍隊の野営地として発足。五 ーーごイン歴史に題材をとった叙事詩『スカンデルべグ物 ド・ヨーロッパ語族の一語派。約語』 ( 天九 0 によって近代文学の礎石を置いた世紀以来、司教座が置かれている。ロトンダ教 二五〇万人が公用語とするアルバ ナイム・フラーシャリその他の詩人、作家が輩会、大聖堂、ポンペイウスの別荘跡などがあ 若 の 〈堺憲一〉 ニア人民社会主義共和国のはか、 出した。アルバレシュ文学のなかではロマン派る。 の そ ス あるははおやのはなし Histori- ューゴスラビアや、マケドニア、 の詩人ラダが傑出している。 レ ある母親の話 ドる ギリシア、南イタリアなどでも話 二〇世紀に入ると、文学のジャンルも多様化 en on en M0der アンデルセンの童話。「新 るれる されている。古代史家のいうアル し、第一次世界大戦後には、アルバニア語で書童話集』第二巻 ( 天四 0 に収録。わが子を死神 踊わ、 ていてヾ ノニアは、コーカサス地方のカスかれた最初の近代小説が現れ、ポストリの小説に連れ去られた母親が、身を傷つけながらその 装とけ ようせつ 衣族受ビ海西岸の地域で、現在のアルバ 『忘れな草』その他が発表された。夭折した作 後を追い、ついに、 死神が神に委託されてすべ 族民を 民の響ニアは主としてラテン語の勢力範家ミギエーニは、庶民の悲惨な生活を写実的にての人間の生命の象徴である草や木を管理して の古影 いる大温室にたどりつく。そこで死神から、人 ア最の囲であった。おそらく周辺の山岳描いた短編小説により、リアリズム文学の発展 の生と死はいっさいが神の御心のままであるこ 部に住んでいたアルバニア語族に寄与した。第二次大戦後は、戦前から戦後に カル が、徐々にラテン語を同化したも かけての対イタリア、対ドイツの抵抗運動を描とをさとされ、一人の子の母という立場から、 805
いる。紀元前五千年期の土器も出土し、前三千ア語を各地に広め、またイスラム教を広めた。達していたのであるから、その起源はおそらスラとクーフアの二都市だったが、七六二年以 く、もっとはるか古代にあったのであろう。多来バグダードに新都が営まれるとそこが一大中 年期の神殿、都市、墳墓がバーレーン島で発掘しかし、六六一年のウマイヤ朝の成立ととも 心となり、さらに東は中央アジアのサマルカン くの詩形のうち流行の主流となったのは「カシ に、イスラム世界の政治的中心はアラビアを離 調査されており、この時代からメソボタミア文 ドやブハラ、イランの諸都市、シリアやエジプ ーダ」で、七人の大詩人の代表的カシーダを集 明とアラビアの東部とは密接な関係があったこれた。 ト、北アフリカの諸都市、さらにスペインのコ ウマイヤ朝からアッパース朝にかけて、アラめた『ムアッラカート』という名詩選をはじ とが判明した。南アラビアでは前一千年期から いくつかの国家が興亡した。サバ王国が最大のビアは広大なイスラム帝国の一部であった。一め、アラビア古代詩人の作品を集めた書が多数ルドバその他もアラビア語による文学活動の重 国家であったが、紀元前後のころからヒムャル〇世紀ごろからイスラム世界が政治的に分裂す残っているが、このようにイスラム以前の詩を要な拠点となり、無数の散文作品や詩が生み出 王国が強勢となり、四世紀には南アラビアを統ると、アラビアの東部はイラクを支配する王朝文字に写してまとめたのは八世紀以後のことでされ、ことばどおり百花乱れ咲く観があった。 しゅゅう 一した。これらの王国の民は、サバ王国の首邑の統治下に、西部はエジプトを支配する王朝のある。アラビア文字で記されたアラビア語の最広大なイスラム世界もアッパース朝の初期から マーリプにある巨大なダムの遺跡に象徴される統治下に入ることが多かった。しかし、アラビ古の書物は聖典コーラン ( アル・クルアーン、早くも政治上の分裂が始まったが、アラビア語 ように、高度な農業社会を維持し、独特な文字アの各地の土着の勢力も強く、しばしば自立読誦するものという意 ) だが、ムハンマド ( マとイスラム教とは諸民族の間に浸透し続けた。 へんさん し、イバード派やザイド派などのイスラム教のホメット ) の没後、久しからずして編纂された宗教上では他宗教を捨てなかった人々も、アラ による碑文を今日に残している。半島の北部と ビア語のほうは受け入れ、アラブ化するものが もので、アラビア語、アラビア文学の基準とな シリア砂漠は、ラクダを飼育する遊牧民と、ラ少数派の政権もときには誕生した。一八世紀に 多かった。アラビア語の文法研究、豊富な語彙 って今日に至っている。 クダで荷を運ぶ商人の世界であった。彼らは荒アラビアにイスラム改革運動の一つであるワッ ープ派の運動がおこり、政治的運動と結び付〔黄金時代ーーウマイヤ朝からアッパース朝の収集、ギリシア、中世ベルシア、インドなど 野の民の意味でアラブとよばれていた。古くは の古典類のアラビア語への翻訳などが盛んに行 へ〕遊牧諸部族の詩人たちの生き方や思想に 前八世紀のアッシリア王の碑文がアラブに一一一口及き今日のサウジアラビア王国の基をつくった。 は、イスラム教の精神にそぐわぬところがかなわれ、アラビア語は世界第一級の文明語となっ また一九世紀にイバード派とザイド派の政権が し、『旧約聖書』やヘロドトスの『歴史』にも りあったので、イスラム時代に入ると、従来のた。この時代の無数の詩人を代表するものとし アラブに関する記述がある。彼ら北アラビアの復興して、今日のオマーンとイエメンの基とな った。二〇世紀に入ると半島の東部の油田が開奔放な情熱を歌い込めた詩は一時衰えを示してはアプー・ヌワース、アプー・タンマーム、 アラブは二世紀ごろから南アラビアに進出し、 た。しかし、ウマイヤ朝時代 ( 六六一 ~ 七五 0 ) になアプル・アターヒヤ、ムタナッビーらはぜひあ しだいにこの地を北アラブ化していった。一発され、第二次世界大戦後、東部の土着勢力は 方、南アラビアの民も遊牧民化して北アラブの次々と独立国家となった。一九七三年一〇月のると、中央アジアからイ・ヘリア半島にかけて広げるべきであろう。散文ではジャーヒズとイプ 文化を受け入れ、北アラビアに進出した。五、第四次中東戦争を契機に、アラビアの諸国は石がったイスラム世界から卓越した詩人たちが輩ン・クタイバらがもっとも偉大で、彼らの多く の著書はアラビア文学の価値を高からしめてい 六世紀には北アラブも南アラブも半島全域で混油資源を自らコントロールし始め、その力を背出するようになり、アラビア半島だけに局限さ 景にして世界を動かす力を保持するようになつれない新時代の清新な作品が続々と現れ始める。二人はまたアラブ族の文化遺産や、ギリシ 住したが、それぞれの出自意識をもっていた。 〈後藤晃〉た。ことにアフタル、ジャリール、ファラズダア人やベルシア人の英知の所産などについての アラブの宗教は南北ともに偶像を祠る多神教た。 ぶんがくアラビア語でクの三人が傑出していたが、三人ともイラクの深い教養のうえにたって、民衆によくわかり、 であったが、三世紀ごろからユダヤ教やキリスアラビア文学 ト教もアラブの間に浸透していった。南アラビ表現された文学。古典文学と近代文学とに二大出身であった。アラビアからもメッカの人ウマかっ楽しんで読まれるアダブの大成者でもあっ た。アダブは元来は官庁や貴族の秘書たちの心 ル・ビン・アビー・ラビーアのよ , つに新ジャン アのヒムャル王国の最後の王はユダヤ教徒であ別できる。前者はひとりアラブ族だけでなく、 ルとしての恋愛叙情詩の開拓者が現れている得るべき作法とか教養を意味したが、やがて文 ったが、キリスト教徒であるエチオピア王の軍中世のイスラム世界の多くの民族が参加したも が、これにはベルシアやギリシアの歌謡の影響学のジャンルの名となり、さらに後世には純文 ので、とくにイランの民や、アラブ化したエジ に敗れ、五二五年王国は滅んだ。半島の西部に ある町メッカは多神教徒の聖地であった。六世プトやイベリア半島の民なども多数の作品を残もあったものとみられている。彼はまた、荒野学そのものを意味することばとなっている。こ の民が独占していた観のあったアラビア詩界の時代には歴史、地理、哲学、医学その他各分 している。後者はおもにアラ・フ民族によるもの 紀後半から七世紀初頭にかけて、南アラビアは エチオピアの勢力を追ったササン朝ベルシアので、イラン民族などは近代ベルシア語をもってで、珍しくも都市出身の優れた詩人としての栄野に大物が現れ、それそれの名作を残した。 〔白銀時代ーー文学の衰退期〕アッパース朝の 誉を担っている。 領土となり、半島の東部一帯もササン朝ベルシ文学活動を行うようになった。しかし聖典コー どく 後期 ( 一 0 五五ころ ~ 一一一五 0 を白銀時代とよぶ者もあ 散文もこの時代に発達し始めたが、次のアッ ランをはじめ、現在でも広くイスラム世界で読 アの政治的影響下に置かれていた。しかし、メ ース朝時代の前期 ( 七五 0 ~ 一 0 五五ころ ) に黄金時るが、イラン族の間に近代ベルシア語によって ッカがある西部はどこにも支配されない地域誦されているアラビア語の古典が数多く存在 ばっ , う で、そこにイスラムの勢力が勃興した。六一〇する。アラビア語はセム語の一つで、もとはア代の繁栄を一小すこととなった。ラサーイル ( 書文学活動をする気運が盛んとなり、アラビア語 の勢力は漸次縮小する傾向となった。また政治 ラビア半島の中部以北で使われていたが、七世簡体 ) という散文文学の一形式もウマイヤ朝の 年ごろからイスラムを説いた預一一 = ロ者ムハンマド 紀にイスラム教がおこると、唯一神アッラーの末期に始まって、アッパース朝時代に盛んにな上ではトルコ族が西アジア一帯の支配権を握 ( マホメット ) は、六二二年に生まれ故郷メッ 力を捨て、メディナに移った。メディナに拠っ啓示のことばとして、いたく尊重され、この教ったし、散文による最初の偉大な作家と評されり、アラブ族はその下に抑圧され、自由な文学 ているイプヌル・ムカッファーの活動もウマイ活動は阻害された。しかしイランの人ハマザー たムハンマドは、六三〇年メッカを征服し、以えとともに広大な地域に普及するに至った。 ニー ( 通称バディー・ウッ・ザマーン ) の『マ 後メッカ、メディナの二都市はイスラムの二聖〔草創期・ーーコーランとムアッラカート〕アラヤ朝の末であった。彼はイラン系の人で『カリ カマト』 ( 集会 ) は世に流行し、アラビア ーラとデイムナ』など不朽の名作を残したが、 ビア語による最古の文学作品として保存されて 都となり今日に至っている。ムハンマド没後、 このころすでにイラン人のアラビア文学への寄文学の一ジャンルとなり、バスラのハリーリー いるのは、六世紀初めころまでさかのばること あ正統カリフは、メディナを本拠地にして半島の ひアラブを集め、広大な地域を征服した。征服者ができる遊牧諸部族の詩人たちの作で、それよ与が、このような域にまで達していたことをもの同名の作はこの系統の最高峰とされ、文章の 洗練や技巧を極点にまで推し進めたものとされ りも古いものは残っていない。六世紀初めころ示している。 、らとなった半島の住民は征服地の各地に定着し ている。 アッパース朝の文学活動の中心は初期にはバ には、すでに洗練された詩のことばや韻律が発 あた。彼らが半島の住民の言語、すなわちアラビ まっ 705
あむすて な環 } こ : 0 、 > エタム 理←イル アムステルダム ①空から見た運河の町。ムント塔上空よ りアムステルダム港 ( アイ湾 ) を望む ②大小の / 魚船 , 輸送船でにぎわう 16 世紀 の市街 ( 当時の木版画 ) 。河口に築堤して 扇形に建設された市街のようすがよくわ かる。「世界の都市』 16 世紀の写本より ③ワーテルロー広場の露天市では日曜と 雨天を除く毎日 , さまざまな品物が商わ れる ④運河観光の遊覧船とはね橋。運河は市 域の拡大に伴って環状 , 放射状に発達し , 交通路の役目を果たしてきた ⑤ダム広場と王宮。王宮は 17 世紀にバラ ディオ様式の市庁舎として建てられた アムステルタム ュ訃レヒト・アーベルド 旧教会 ン、・フフンクの家試 ・運動容園フ タムム場 大学 - ' レンフラントけ参、、、 ライラ三な場 マヘレ橋 、 0 QO ′ 国立術館 市立傘官衄」 D ロ匚っ , 0 つム ルフデティ公 : こ 2 ( つ 1 : 5 〇 , 、い れ、一七世紀中葉に繁栄は絶頂に達し、豪壮な 市庁舎 ( 現王宮 ) が建てられた。一八一五年、 ネーデルラント王国成立とともにその首都とな ったが、長い衰退ののち、一八世紀の後半以 降、北海連河 ( 天七六 ) 、メルウェーデ連河 ( 天 九 (l) の建設、産業革命の進行によって、市の貿 易、工業の発展が再開され、一八四〇年以後、 市域の拡大も始まり、一一〇世紀初頭には都市計 画が実施された。第二次世界大戦後アムステ ル・ライン運河が開通し、クーン、アイ両トン ネルにより、港を挟む南北両市域が接続され、 〈栗原福也〉 新市街が建設された。 アムステルダム・インターナショナ ル Amsterdam lnternational 正式名は国 際労働組合連盟 lnternational Federation of Trade Unions ( 略称一九〇三年創 立の各国労働組合センター国際書記局が、一三 579
ンの冒険』に由来するといったが、現代アメリ は、一面では、産業の発達、西部の開拓の進展・ハウエルズであった。マーク・トウェーン り込むかのように、『天使よ、故郷を見よ』 ( 一九 6 ひご カ文学は直接トウェ ] ンにつながっているわけ一一九 ) 以下の大長編を発表、アメリカでなければ り・などによってアメリカがこれまでになく楽観主もジェームズも彼の庇護の下で文壇にデビュー おうか したのであり、彼がいなければアメリカ文学はではなく、その間にシャーウッド・アンダーソ現れない雄大なスケールをもっ巨人作家として め義を謳歌した時代であ 0 たが、その影の部分に ンとシンクレア・ルイスという二人の中西部出知られる。 は、人間について不気味なほどの懐疑がわだか また違ったものになっていたであろう。またこ あ 彼らの多くは大戦後、ヨーロッパ各地を放浪 の時代は、資本主義が急激に発達して、そのひ身の作家を入れる必要があるだろう。二〇世紀 まっており、社会的な慣習や妥協がクッション リに定住したり、あるいはアメリカ 初め、アメリカはかっての農業中心の牧歌的世したり、バ の役割を果たさないアメリカだけに、幻滅と絶ずみが目だってきた時代であり、トウェーンも 望と自己否定に通じる激しさを伴っていた。し晩年はアメリカ社会に懐疑的になり、歴史家界から急速に工業、商業中心の機械化された世にとどまって、一九二〇年代の表現主義、未来 しわゆるモダニズムの 界に変わっていったが、その影響は農村にまで主義、ダダイズムなど、、 かし、この時代の激しいロマン主義文学は、一 ・アダムズは時代に対する絶望を表明した。 九世紀の中葉には早くも自らの生命を燃焼し尽 一九世紀後半、アメリカ文学はまた地方的な及び、人々は疎外に苦しみ、性的に抑圧されて影響の下で、また旧来の伝統にとらわれないア へきち くし、そのあとには、・・ロングフェロ広がりをみせ、ニュー ・イングランドの僻地 いた。あるいは、画一主義、体制順応主義がアメリカ文学の伝統に従って、数々の大胆な文学 ローカル・カラー メリカを支配していた。そうした環境でゆがめ上の実験を行い、サルトルなどの注目をひい 、 O ・・ホームズ、・・ローウエルなや、南部、西部など各地にいわゆる地方色の た。そうした動きは詩においても顕著にみられ ど、西欧の伝統的な教養を身につけた「お上品文学が現れ、アメリカの地域的な多様性を改められた人生を送る「グロテスク」な人々をアン な伝統」に属する保守的な文学者がアメリカをて示すことになった。一方、一八九〇年代にかダーソンは『ワインズバーグ・オハイオ』 ( 一九た。詩人といえば、一九世紀後半に生きながら しんらっ 支配することになる。 けては、アメリカでも、自然主義文学への傾斜一九 ) で共感と同情をこめて描き、ルイスは辛辣大半の詩が二〇世紀に入ってから出版され、時 〔リアリズムから自然主義へ〕南北戦争 ( 天六一がはっきりと強まった。『赤色武勲章』 ( 天九五 ) かっ鋭い風刺の筆でアメリカ人の自己満足を暴代の制約を越えた特異な詩風で高い評価を得て ~ 六五 ) は、文学においても、大きな変化を示すで南北戦争を舞台に、軍隊と戦闘のなかでただ露した。このルイスは一九三〇年、アメリカの いる女流詩人・ディキンソン、ニューヨーク 境界線であった。この時代のアメリカ文学を新翻弄されるだけの若い無名の兵士の行動と心理文学者として最初にノーベル文学賞を受賞したのプルックリン橋を象徴的に歌い、ホイットマ が、それによってアメリカ文学は世界文学の一 ンの伝統につながる・クレーンなどがいる しく担う文学者たちは、エマソンの「知的独立を描いた co ・クレーン、『章魚』 ( 一九 (1) でカリ せいさん フォルニアにおける農民と鉄道会社の凄惨な闘環として認知されたといってよい。第一次世界が、その一方では、ヨーロッパの文化伝統にひ 宣言」とほとんど時を同じくして生まれ、南北 かれ、最後はイギリスに帰化した・ TJ ・エリ 戦争後、急激に変化するアメリカの現実にリア争を描いた・ノリス、『荒野の呼び声』 ( 一九大戦を挟むこの時期に活躍したほかの文学者と リスティックな目を向けた。彼らの多くはニュ 0 三 ) などで日本に早くから紹介された・ロンしては、ニューヨーク市の名門に生まれ、そこオット、それに・。ハウンドの存在も重要であ ・イングランド以外の出身で、その意味で、 ドンなどがその代表的な存在である。彼らはゾの上流社会を舞台に、洗練された風俗小説を発る。彼らは、アメリカという国籍などはるかに 超える視野をもったモダニスト詩人として活躍 ラなどの理論に影響されているが、いずれも若表して、・ジェームズの伝統を継承する・ アメリカ文学はようやく全国的なものになっ あかゲット し、二〇世紀の西欧文学に大きな足跡を残し くして世を去った自然主義作家で、その若さゆウォートン、ネプラスカの開拓民のたくましい た。その代表が、一八六九年に『赤毛布外遊 生活を描いた・キャザー、南部バージニアのた。そのはか、ニュー・イングランドを代表す 記』で一躍有名になった西部出身のマーク・トえに、人間を支配する自然主義の冷徹な法則に ウェーンであり、それまでひたすら崇拝されて抵抗し、自らの運命を自ら選ぶ人間の自由な選・グラスゴーの三人の女流作家の名をあげてる国民詩人・フロスト、難解な詩で知られる ・スティー。フンズなども忘れられない。 きたヨーロッパ文化を風刺したこの空前のベス択、決断と成長を重視しており、それが若者的おく。 第一次世界大戦 ( 一九一四 ~ 一 0 は、南北戦争と 演劇では、ユージン・オニールが次々と世界 トセラーの旅行記によって、彼はアメリカの知性格をもったアメリカの根強い楽観主義を示す はまた違った意味でアメリカ文学に新しい時代的に注目を集める問題作を発表し、批評関係で 的独立宣言を大衆のレベルで達成したといって . と同時に、アメリカ自然主義の独自の魅力とな っている。 をもたらした。戦争の大義名分を信じて進んでは、南部を中心に、南部の文化伝統を擁護しつ よい。そして、南西部の自然に生きる少年の冒 〔ニ〇世紀ーーモダニズムと抗議の文学〕自然大戦に参加した若い世代の文学者たちは、あまっ現代文明の危機に文学を通して対決する・ 険と成長を新弉な口語体で描いた代表作「ハッ 0 ・ランサム、・テートなどの詩人、批評家 クルべリ・ フィンの冒険』 ( 一公五 ) によって、主義文学といえば、アメリカ特有の「成功のりにも非人間的な戦争の現実に衝撃を受け、幻 真にアメリカ的と称するにふさわしい文学伝統夢」に取りつかれ、冷酷非情な大都市で自己の滅し、既成のあらゆる価値を疑う「失われた世が現れ、「新批評」と称する、文学の自律性を を確立した。彼があくまでもアメリカ的な価値欲望の犠牲となる若者の悲劇を、詳細な事実の代」として、一九二〇年代、「アメリカン・ル重視した分析批評がアメリカに定着した。なお ネサンス」と並ぶ一時期を実現したからであこの南部には、このあと第二次世界大戦中から や生き方を肯定した文学者であったのに対し積み重ねによって克明に描いた・ドライサー る。大戦後の経済的な繁栄と精神的な荒廃のさ戦後にかけて・・ウォーレン、・カボー て、ニューヨークに生まれ、幼時から旧大陸でがいるが、彼の処女長編『シスター・キャリ ー』はちょうど世紀の変わり目一九〇〇年に出なかから、フィッツジェラルドは『楽園のこちティなどの男性作家と並んで、・ < ・ポータ の体験の豊富な・ジェームズは、アメリカ文 O ・マッカラーズ、・ウエルティ、・ 化とヨーロッパ文化を対比的に描く『ある婦人版され、アメリカ文学もいよいよ二〇世紀に入ら側』 (一九 110) によってこの時代の旗手的存在 となり、ヘミングウェイは『日はまた昇る』オコンナーなど優れた女流作家が輩出し、「南 る。そして、彼の代表作『アメリカの悲劇』が の肖像』 (I<<I) や『使者たち』 ( 一九 0 一 (l) など、 ト説を多く発表し、ま出版されるのは一九二五年であるが、このころ ( 一九一一六 ) 、『武器よさらば』 ( 一九 = 九 ) で虚無に耐え部のルネサンス」と称されるまでになった。 いわゆる「国際状況」 : = 一九二九年一〇月の大恐慌をきっかけにし になると、彼より二回りも若い「失われた世て生きる若者の姿を彼一流の乾いた文体で描い た、技法的にも登場人物の微妙な心理を探り、 統一された視点から人間の複雑な意識を克明に代」の文学者たちが、次々と話題作、問題作をた。南部では、・フォークナーが、南部の伝て、三〇年代のアメリカは急速に左傾化し、社 記す心理主義リアリズムの道を切り開き、これ発表している。・ ()n ・フィッツジェラルドの統文化の衰退と現代文明の荒廃を二重写しにし会の矛盾に目を向けて抗議する社会意識の強い 『偉大なギャッビー』が出版されたのは、そのた『響きと怒り』 ( 一九一一九 ) などの傑作によって、文学が目だつようになった。第一次大戦批判か また現代文学につながるアメリカ文学のもう一 一一〇世紀最大の作家という地位を得た。さらに ら出発した「失われた世代」のドス・パソス つの伝統を確立した。現在では、この二人ほど年のことであった。 かってヘミングウェイは、すべての現代文学南部といえば、やや遅れて、トーマス・ウルフは、アメリカそのものを批判的かっ総体的にと 高い評価は受けていないが、当時、アメリカ・ はマーク・トウェーンの『ハックルべリ・フィ も広大なアメリカの空間をすべて文学作品に取らえた三部作『・ (J) ・ <t 』 ( 一九三 0 をまとめ、 リアリズム運動の推進役を果たしたのは・ はんろう
ント Occident の語源となるラテン語にもみわち、アジアで現在確認されている最初の人類〔中世世界の成立〕七世紀なかばごろ、イスラ 4 あ〔総説〕アジアという名称の起源は、古代 ( 前 ム教の教義のもとでアジア、ヨーロッパ、アフ 2 られ、やはり日の出と日没がそれそれの語意ではジャワの直立猿人 ( ピテカントロプス・エレ 一 ~ 前七世紀ごろ ) 地中海東部に栄えたフェ じ リカにまたがる広大なサラセン帝国が形成さ クトウスⅡジャワ原人 ) および中国の北京原人 あニキア人が、その地より東方の地域をアスある。邦訳すれば東洋と西洋ということにな Acu ( 日の出る地方 ) 、西方をエレ。フ Ereb る。ただしこの場合のオリエントは一般的には ( シナントロプス・ベキネンシス ) であるとされ、サラセン文化が興隆した。サラセン帝国に よるイスラム圏の拡大の影響はインドにも及 ( 日の沈む地方 ) とよんだのが、アジアおよび西欧からみてのいわゆる近東諸国をさし、またれ、石器を使用し、北京原人は火を知っていた び、やがてインド統一王朝のイスラム化が実 西洋史学ではとくに古代のエジプト、メソボタという。やがてホモ・エレクトウスはより進化 ヨーロッパの名称の始まりであるという。 したホモ・サピエンスによってとってかわられ現、ムガル帝国が建立された。ムガル帝国は一 ミア ( 古代オリエント ) をさすから、前述のよ アジアは東半球の北部を占め、世界最大の大 陸であるユーラシア大陸の大部分 ( 東部およびうな意味におけるアジア、東方、東洋よりは狭た。約一万年前、新石器時代が到来し、人類は六世紀初頭から一九世紀なかばまで続くが、そ ー一六 0 五 ) 、アウランゼ 中部 ) にあたる大陸部と周辺の島々とからなっ義になる。この狭義のオリエントはむしろ「中狩猟・採集生活から農耕・牧畜生活に移行、定の間アクバル大帝 ( 一五四一一 ー一七 0 七 ) などの治下で文化が目覚 ープ帝 ( 一六天 ている。北は北極海、東は太平洋、南はインド洋」ともいうべきであって、それは前述の西ア着して生活を営むようになるが、このような過 ジア・オアシス文化圏に対応する。それゆえ、程のなかで血縁的結合である氏族が発達し、部ましく栄えた。一方中国では、唐のあとに宋朝 洋に囲まれ、西はウラル山脈、カスピ海、カフ カス山脈、黒海、地中海によりヨーロッパと、本来のアジアは、広義の東洋、東方から「中族社会が形成された。生産力の発達に伴い分業が興り、中央集権的官僚国家体制が確立する が、一三世紀後半にはモンゴル族によって滅ば が進み、貴族ー奴隷という階級が発生し、政治 洋」を除去した狭義の東洋と「中洋」とを包含 また地中海、スエズ運河、紅海、インド洋によ したものになるわけである。つまり、大きく分的、宗教的な階級制度や宗教的権威に基づいてされた。モンゴル族はその後アジアからヨーロ りアフリカとそれぞれ接している。この広大な 地域の面積は約五〇〇〇万平方キ。 ( ソ連領を除ければ、アジアは東アジア文化圏 ( 中国および政治権力をもっ支配者 ( 神の子孫たる王 ) が出ツバにまたがる大帝国を建設し、東西間の交 くと約二八〇〇万平方キ。 ) で世界の陸地面積のインド ) と西アジア文化圏 ( メソボタミア ) の現した。そして、農村から分離した壮大な公共通、文化の交流は著しく促進された。その後中 みんしん げん ちゅうみつ 二つの部分からなり、宗教的にはこれらは仏教建築物と稠密な人口をもっ都市が出現し、人国ではモンゴル族の元にかわって明、清が、西 約三分の一を占め、また人口は約二四億人 ( ソ アジアではオスマン・トルコ帝国が興った。し 類最初の文明が登場した。 連領を除く ) で世界人口の約二分の一に上る世界およびイスラム世界ということになる。 古代文明は紀元前四〇世紀なかばごろ、いずかし、一五 ~ 一六世紀のいわゆる大航海時代を しかし、古代、中世にかけては別として、大 ( 一九含国連推計 ) 。 転換期として、ヨーロッパの列強はアジアへの 航海時代 ( 一五 ~ 一六世紀 ) 以降、西欧諸国のれも農業が集約的に行われ、前述のような社会 アジアは北アジア、中央アジア、東アジア、 侵略を開始し、アジア的封建専制国家は相次い 東南アジア、南アジア、西アジアの六地域に分アジアへの侵入が始まり、一八世紀後半までに的発展が進んでいる大河の流域に開花した。こ はアジアの多くの国々が植民地化され、さられらは周知のように①ティグリス・ユーフラテで崩壊し、植民地支配下の社会へと転落し始め 類されるのが普通であるが、これらの地域は地 ることになる。 ス川下流域、②ナイル川流域、③インダス川流 、産業資本主義の時代から帝国主義の時代に 形、気候など風土的条件が非常に異なり、多種 ひさお 〔植民地支配下のアジア〕〔重商主義の時代〕 多様である。松田壽男によれば、アジアは①亜なるとアジアの植民地化は完了する。これによ域、④黄河流域の四つの地域で、②のナイル川 一五 ~ 一六世紀にかけて西欧列 前述のように、 流域を除きすべてアジアに属する。ティグリ ってアジアの社会的、経済的発展は停滞させら 湿潤アジア ( または寒冷アジア。森林地帯Ⅱ北 強はアジアばかりでなくラテンアメリカ、アフ れ、アジアには偉大な古代文明はあったが、発ス・ユーフラテス川流域に開花した文明は、メ アジア ) 、②乾燥アジア ( または砂漠アジア。 リカの各地域に侵入し始めた。一六世紀前半、 ソボタミア ( ついでエラム ) 地域、とくにバビ 砂漠地帯Ⅱ中央アジアおよび西アジア ) 、③湿展の後れた「後進地域」としての概念でとらえ ポルトガルは紅海からベルシア湾、ついでイン ロニアとアッシリアの両大王国で栄えた。イン 潤アジア ( またはモンスーン・アジア。モンスられるに至った。このようなアジア像の一つの ドから東南アジアにまで東進してマラッカを占 ド最古の文明は、インダス川流域のハラッパ ーン地帯Ⅱ東アジア、東南アジア、南アジア ) 反映は、たとえば極東、中東、近東という呼称 カン、ーン 領し、さらに広東、マカオ、日本にまで進出し モヘンジョ・ダーロなどをはじめ広大な地 の三つの風土帯に分けられる。そして、これらである。極東ははば東北アジアを、中東はほば の風土的条件に規制されて、亜湿潤アジアには西アジアを、近東はバルカン半島諸国とトルコ域にわたって、前二五世紀なかばから前一五世た。一方、スペインは西回りで進み、アメリカ 紀なかばにかけて開花したが、やがて中央アジ大陸、ラテンアメリカ諸国を経て、フィリピン 狩猟生活型が、乾燥アジアには遊牧生活型とオをそれそれさすが、これらはイギリスを起点に に進出した。ポルトガルやスペインは海賊、奴 アシス生活型が、また湿潤アジアには農耕生活した呼称であって、イギリスの植民地主義的、ア、南部ロシアから南下してきたアーリア人に ばくだい とうしょ 型および海洋生活型 ( 沿海部と島嶼部 ) が、そ帝国主義的な立場を反映するものである。しか滅ばされた。アーリア人は農耕化して定住し、隷貿易、香料の独占などにより莫大な利益を手 ハラモン教を基礎とする専制的古代統一国家をに入れた。しかし、スペインによるポルトガル し、第二次世界大戦後の植民地の独立、民族解 れそれ歴史の基盤となったとされている。こう の併合 ( 一夭 0 ) 、ついでスペインの無敵艦隊の して、松田は人文、地文の両条件を踏まえて、放運動の前進に伴い、植民地アジアのイメージ形成、『リグ・べーダ』、『ラーマーヤナ』、『マ へんばう イギリス海軍による壊滅を契機にして、ポルト ーラタ』などの優れた文学をも生み出し アジアを次の四大文化圏に分けて考察する。すは変貌し、アジアは発展途上の「第三世界」の た。中国では黄河流域 ( 安陽 ) に興隆した殷王ガルとスペインの植民地独占の時代は終わりを なわち、①中国を中心とした東アジア農耕文化有力な構成部分として世界政治、経済の舞台に 化登場するに至った。もちろん、アジア諸国は政朝 ( 前一六世紀 ~ 前一一世紀 ) 、ついで周王朝告げ、かわって、まずオランダ、ついでイギリ 圏、②インドを中心とする南アジア農耕文 治的、国家的独立を成し遂げたとはいえ、日本 ( 前一一世紀 ~ 前八世紀ごろ ) に古代文明が開スが登場するに至った。オランダはジャワ島、 園、③北アジア遊牧文化圏、④イラン ( ベルシ しん ア ) やイスラムの文化が支配的だった西アジを別とすれば経済的発展の立ち後れや、国によ花したが、その後、春秋戦国時代を経て、秦王マラッカ、セイロン島などを手に入れ、ついで 中国や日本とも交易した。イギリスはインドの っては欧米など先進資本主義諸国に対する経済朝、前漢、後漢と続く専制統一国家が現れた。 ア・オアシス文化圏である。 ぎしん マドラス、ポンべイ、カルカッタを手中に収め しかし北方民族の侵入などを契機に、魏、晋、 〔アジアの概念の変遷〕前述したように、アジ的従属を脱しきれぬ国々も多い。しかし、戦前 までのアジア像が一変したことだけは確かであ南北朝へと分裂時代が続き、ようやく、唐にてここを軍事、貿易の拠点とした。遅れてフラ アとヨーロッパとは、地中海東部を座標軸にし ンスもインド、インドシナに進出した。イギリ より統一が実現した。とくに唐は七世紀ごろに て、それぞれ日の出る地方 ( 東方 ) および日のる。 〔古代文明とアジア〕アジアは五〇万 ~ 六〇万は世界的な大帝国となり、農工業の発達と文化スとオランダ、フランスとの間には数次の軍事 没する地方 ( 西方 ) を意味した。これとまった 衝突も生じたが、これらの戦争を通じてイギリ く同じ発想は、オリエント Orient とオクシデ年以前に早くも人類が出現した地である。すなの興隆をもたらした。
あいすら 額。病気による収入減は一一日目から補償され勉、単一民族であるなど、共通点もある。しかの流行をみるようになる。宗教改革の時代を経四 て、アイスランドに文芸復興ともいうべき時期 し日本からの漁具、漁網、カメラ、電気器具、 る。老齢年金、傷害年金は六七歳から支給。 が訪れるのは一六世紀で、デンマークのオー 〔文化〕アイスランドの中世文学は、世界の文自動車などの輸入額は全輸入額の三・二三 % 、 せんべん レ・ポルムがルーン文字研究の先鞭をつけ、ア 日本への魚や畜産品などの輸出額は一・〇九 % 学に対して基本的な影響を与えている。それは イスランド人アルングリーム・ヨウンソンとと ( 一九七七 ~ 七九平均 ) と、いずれもわずかである。 民族叙事詩「古ェッダ」、スカルド詩、散文の スツルソンが書い もに、一三世紀にスノッリ・ 物語「サガ」で、それそれの例をあげれば『巫このように貿易関係は少ないが、日本人の著し 家 さんか の 女の予言』 ( 古ェッダ ) 、『エイリーク王讃歌』たアイスランド関係の書籍は、北欧関係のものた『エッダ』のポルム本をつくる。この影響の 代 もとに一八世紀初頭、歴史家ソルモウズル・ト ( スカルド詩 ) 、『植民の書』『アイスランド人のを省いても結構多く、わが国に対する文化的な 時 黒 〈浅井辰郎〉 ルフアソンと、写本の一大コレクションで名高 影響は少なくない。 サガ』 ( サガ ) などである。「暗黒時代」に創作 暗 いアウルニ・マグヌスソンが出る。一七世紀に 歴史と文学』 ト物活動はやや衰えたが、人々は「黄金時代」の回山室静著『アイスランド ( 一九六三・紀伊國屋書店 ) ▽藤岡謙一一郎編『世はアイスランドが生んだ偉大な宗教詩人ハトル 「サガ」を朗読してその再建を夢み、勇気を奮 ラ立 ス国 ノ』 ( 一九七一一一・大グリームル・。ヒエトルソンの名を逸することは 界地誌ゼミナール 4 ヨーロッヾ い立たせたと、シオット G. Schiøtt ( 一全三ー イド 明堂 ) ▽木内信藏編『世界地理 6 ヨーロツできない。 九五 ) の絵画で語られている。一九世紀に文学は るラ 一八世紀中ごろから一九世紀初頭にかけての 。ハ—』 ( 一九七九・朝倉書店 ) ▽谷口幸男訳『ア 入スふたたび花開き、一九五五年にハトルドウル・ きイ イスランドサガ』 ( 一九七九・新潮社 ) ▽浅井辰蒙主義時代には、ミルトン、ポープをはじめ ラクスネスは、ト説『独立の民』で同国初のノ 聞ア 郎・森田貞雄著『アイスランド地名小辞典付とするイギリス、ドイツ、デンマークの作家の ーベル文学賞を受けた。↓アイス一フンド文学 読画 どんよく 朗 翻訳が盛んになる一方、ユートビア小説やモリ カナ表記大判地図』 ( 一久 0 ・帝国書院 ) アイスランド人は貪欲な読書人で、農家でも ごアイスランド共 エール、ホルべア流の喜劇も登場する。ロマン ガオ多くの書棚をもち、一〇〇〇人当りの書籍の発アイスランド語 イギリ 和国の国衄。フェロー語、ノルウェー語、スウチック運動はビャルニ・トーラレンセンとヨウ 行点数は二・八点で、ドイツの〇・ エーデン語、デンマーク語とともに北ゲルマンナス・ハトグリームスソンをもって始まるが、 台はトラックで、日本車も多い。一九六八年スの〇・六、アメリカの〇・四、日本の〇・三 語派を形成している。アイスランドは古くは無この運動を広げて半世紀の間名声をほしいまま に、それまでの車の左側通行を右側通行に改め ( 一九七五 ) に比べて格段に多い。図書館は首都に にしたのはマティアス・ヨックムソンである。 国立と大学図書館と市立のものがあり、各地方人島であったので、アイスランド語の成立は、 〔社会〕人口は一九八〇年一二月一日現在、二都市でも普及している。「暗黒時代」にデンマ九世紀に始まったノルウェーのバイキングの移この時期には、エッダの詩形で『オデュッセイ ークに持ち出されていた世界的に貴重な古文書住に始まる。したがって最古層のアイスランドア』を翻訳し北欧古詩辞典を残したスペインビ 二万九一八七人で、うち二〇〇人以下の小村住 民や独特の散村農民は二万六九九四人に達すは、一九七一年に一部が返還された。日刊新聞語の写本と、ほば同時代のノルウェー語の写本ヨルン・エイイルスソン、民話の収集家ョウ ン・アウルトナソン、スコットばりの小説を書 との間には、とりたてていうはどの方一一 = ロ差がな は六種で合計約一一一万九〇〇〇部を発行する。 る。人口一万人以上の都市は、レイキャビー いたヨウン・トーロッドセンは、忘れられぬ存 事実上同一の言語である。 首都には国立の博物館と美術館があり、シオく、 ク、コウバポーグル、アクレイリ、ハブナルフ その後ノルウェー語は一一 = ロ語が大きく変わった在である。 ットの絵はここに所蔵されている。一九五〇年 イヨルズルである。全人口の一・四一 % がノル デンマークの文芸批評家プランデスの影響の 日 ~ 一〇の作品が上が、アイスランド語はたいへん保守的で、名 に国立劇場が完成し、年門ノ マン系外国人で、はかはアイスランド人であ る。平均寿命は男七三・四年、女七九・三年で演されている。五〇年には国立交響楽団も編成詞、形容詞、動詞などの屈折も、古語のそれをもとにおこったリアリズムの旗手は、ギエスト 実にほとんど変えるところなく今日に伝えてウル・パウルソン、エイナル・クバラウン、ス されてラジオや国立劇場で演奏し、六六年から あり、世界有数の長寿国である。 いるうえ、語彙面でも古語のほとんどが今日でテファン・ステファンソンである。一九世紀末 はテレビでも放映されている。 教育は盛んで、首都に一九一一年開設された 人々の姓と名はイギリスやドイツなどには類もなお生きているともいえるので、アイスランから二〇世紀初頭にかけて、ナショナリズムが 総合大学があり、一一八〇〇人が在籍する。全国 の七高等学校に三五〇〇人が在籍し、七 ~ 一五をみないもので、男児の姓は父親の名にソンド人は特別の勉強なしに一三世紀ごろの古アイエイナル・ベネディクトソンを指導者としてお スランド語や古ノルウェー語をそのまま読んでこる。児童文学のヨウン・スウエンソンもこの 歳が義務教育で、一二四の中学には一万六八〇 son ( 息子 ) を、女児の姓は父親の名にドホテ 〈森田貞雄〉ころ世界的に知られる。一九一〇年代に外国へ 〇人がいる。ほかに工科大学一、看護婦・助産イル d6ttir ( 娘 ) をつけたものである。例え理解できる。 出て名声を博した作家に、カンバン、グンナル 婦学校七、音楽大学一、美術大学一、演劇学校ばオウラブル・ヨウンソン Olafur J6nsson の回森田貞雄著『アイスランド語文法』 ( 一九全・ ソンがいる。第一次世界大戦後シュルレアリス 大学書林 ) 一、女子家政学校六、師範学校四、農牧業学校息子シーグルズル Siguröur の名と姓はシー ムの傾向を代表したのはトーロッドセンであ 三、航海学校四などがある。一九七一年の国民グルズル・オウラフソン Siguröu 「 Ola on アイスランド文学ーーぶんがく九世紀の 植民という特殊事情から、北ゲルマン人の神話る。カトリシズムから社会主義に至る広い思想 総生産に対する教育費の支出割合はで、同じ娘ステッラ Stella の名と姓はステッ 一フ・オウラフスドホティル stella Olafsdöttir や英雄伝説をどこよりも豊かに残し、中世初期遍歴を続け現在もっとも創造的な活動を続けて 四 ・八 % である ( 日本は四・三 % ) 。国教は福 いるラクスネスは、一九五五年アイスランドの 音ルーテル派であるが、信教の自由は保障されである。したがって家系固有の姓はなく、またのバイキングの活躍を鮮やかに描いたサガやス 作家として初めてノーベル文学賞を受賞した。 女子の姓名は結婚しても変わらない。しかし血カルド詩により、世界文学史の宝庫といえる。 ている。 ↓ラクスネス 〈谷口幸男〉 社会福祉をみると、健康保険は全人口を包括統尊重は、「サガ」に示されるようにきわめてしかし、一三世紀後半、ノルウェーに国の独立 歴史と文学』 を奪われてからは、しだいに創造的精神に沈滞回山室静著『アイスランド し、国、地方とも入院は大部分無料、院外治療強い ( 一九六三・紀伊國屋書店 ) ▽山室静著『北欧文 や薬品代も一部を支払い、生涯必要な薬は全額〔日本との関係〕日本もアイスランドもともにをきたし、中世末期には、ヨーロッパ大陸の騎 学の世界』 ( 一九六九・東海大学出版会 ) 小さな火山国であり、資源は少なく、国民は勤士小説の翻訳や、たあいもないメルヘン的サガ 支払われる。歯科は六 ~ 一五歳は無料、他は半
あふりか 一九八〇年の国連推計によれば、アフリカの アフリカ Africa 人口は約四億七〇〇〇万人であるが、北部はア ラブ系、ベルベル系 ( およびそれらの混血 ) の 〔総論」 住民が大部分を占め、サハラ以南のプラック・ 「自然〕地質 / 地形 / 気候 / 植物 / 動物 〔政治〕国家建設の課題 / 政体 / 一党制とアフリカにはネグロイド型の黒人やビグミー 複数政党制 / 軍事政権と軍部主導型政型、コイサン型 ( 。フッシュマン、ホッテントッ 権 / 社会主義 / パン・アフリカニズムトなど ) の諸種族が分布している。これらのア フリカ諸種族はおよそ九〇〇の部族に分かれ、 ラ また彼らの使用する言語は約八〇〇種類もあ 「経済・産業〕概観・特徴 / 農業 / 鉱業 / 工業 / 投資・援助 / 貿易 / 交通 / 地域る。しかし植民地時代以降は、独立期を経た今 日でも、北のアラビア語圏を除けば、英語、フ 経済統合 「社会〕近代化の諸側面 / 宗教 / 人口問題ランス語、ポルトガル語など旧宗主国のことば が公用語となっていることが多い。プラック・ と飢餓・難民問題 〔アフリカ諸族の生活形態〕採集狩猟 / 農アフリカは一五世紀末からヨーロッパ列強の進 出にさらされ、一六世紀から四世紀間にわたっ 耕 / 牧畜 / 交易 / 工芸 〔日本との関係〕第二次世界大戦前 / 戦後て奴隷貿易の犠牲にされたのち、一九世紀末期 から二〇世紀初期にかけて分割、植民地化さ れ、第二次世界大戦後の植民地体制の崩壊によ アフリカ大陸は面積約三〇三一万三〇〇〇平って北アフリカとともに独立の時代を迎えた。 ↓アフリカ史 〈小田英郎〉 超方キ。 ( 地球の陸地の約二二・三 % ) 、ユーラシ ア大陸および ( 南北 ) アメリカ大陸に次ぐ広大 自然 てな大陸で、北緯三七度付近から南緯三五度付近 〔地質〕アフリカ大陸はゴンドワナ大陸塊の中 に至る南北の長さはおよそ八〇〇〇キロ、東経五 国一度付近から西経一七度付近に至る東西の幅は核をなす古い大陸で、おもに各種片岩、片麻 王およそ七四〇〇キ。に及んでいる。アフリカ大陸岩、ミグマタイトなど先カン・フリア紀の変成岩 , 宀裏物の地理的な特徴としては、全体的に海岸近くま類および花崗岩類が基盤岩類を構成する。これ ら基盤岩類からなる大陸周辺や凹地部に、古生 洋生で台地状をなしていること、東へ行くにしたが たいせき って平均高度が高くなるという東高西低の地形界や中生界さらに新生界の堆積岩、火山岩が分 をなしていること、などがあげられる。そのほ布する。とくにアフリカ大陸北西部のアトラス か、自然環境として、赤道付近の熱帯気候を中山脈や南西端の高度の低い山地列は、古生代以 - 三ロ しゅうきよく 心に、中緯度の乾燥気候、高緯度の地中海性気降の褶曲作用を受けた地域である。 護候と、南北対称の気候区をもっていること、西〔地形〕起伏の高低からみて、大陸は大まかに 物部のギニア湾沿岸地方や中部のコンゴ川 ( ザイ高いアフリカと低いアフリカの二つに分けられ ール川 ) 流域は高温多湿な熱帯雨林に覆われてる。高いアフリカは紅海の西岸からエチオピア いること、東部にはサバンナが、北部にはリビ高原、東アフリカの大地溝帯、南部アフリカと 立ア砂漠、サハラ砂漠が、南部にはナミプ砂漠、続く地域である。一方、低いアフリカは、サハ ラ砂漠、西アフリカ、中央アフリカ一帯の地域 のカラハリ砂漠が、それそれ広がっていることが である。大陸全体としては平均高度七〇〇ほ 多特徴である。 どの高原大陸である。高原面はおもに第三紀以 アフリカはまた、金、ダイヤモンド、クロ りん へいたん 地ム、マンガン、ウラン、燐鉱石、ポーキサイ降の侵食平坦面からなり、大陸特有の緩い波状 ント、銅などの地下資源を豊富にもっているが、 の地形となっている。高原・台地状の地形が海 サこれらはいずれも偏在している。石油の生産も岸近くまで迫り、海岸平野の発達は悪く、海岸 リビア、アルジェリア、ナイジェリア、ガポン線も著しく単調である。また高原性の地形とは いえ、長軸が数百キ。から一〇〇〇キ。を超える盆 ニなど少数の国に限られている。この点は農産物 についても同様であり、ココア、コーヒー 、ラ状地形が認められる。アフリカ大陸の大河であ ニジェール川、コンゴ川、ザン・ヘ ッカセイ、パ ーム油、原木などの主要産品はい るナイル川、 、らにビクト リンポポ川、オレンジ日 アずれも偏在している。 473
あめりか 地下資源分布 、を 気 0 ( 当っ メサビ / Fe Fe zn Fe ミネアポリス。 や」シ 0 パ、うアロー スーフ第一ルス - 0 たこ CCj を 0 0 0 Cu マグネサイト ウラン 区カリ岩塩 0 プイデ石 シカゴ 。インラアナポり 0 シンン インディベンデンス 0 ホーキサイト 0 プエフ - ロ レ 0 クロム のコバルト ⑩チタン 可ポーキサイト 可鉛 zn 亜 . 金合 水銀 石炭 アチ 0 / ←ミング、、ム ダラス 0 0 ーをリンス - バス・クリスティ 500km 天然ガス 外交交渉と車事力行使とを代替的に併用するこ とは、アメリカの伝統にはなかった。しかし今 6 日では、国際環境の変化によって、軍事力を政 治的手段として日常的に使用する方向に変わり 〈阿部斉〉 つつある。 経済・産業 〔アメリカ経済発展の基礎〕独立当時のアメリ 力は、大陸の東の端に散在する小さな農村の連 合体で、ヨーロッパ経済の辺境であった。商業 は内陸との取引よりもヨーロッパとの取引のほ うが大きく、輸出品は農産物であり、工業品は ほとんど輸入に頼っていた。しかしその後のア メリカ経済の発展は目覚ましかった。一九世紀 なかばにはアメリカは世界最大の農業国にな り、一九世紀末には世界最大の工業国となっ た。そして二〇世紀なかばには、第二次世界大 ラ戦後の特殊事情もあったが、世界の総生産の半 分以上をアメリカが生産したのである。その後 アメリカ経済の比重は低下して一九八〇年には スス世界の総生産の二一・五 % となったが、それで ガガ も今日アメリカが世界最大の経済国であること に変わりはない。 このようなアメリカ経済の発 展は、なににもまして経済の拡大が長期にわた って着実に続いたことによって達成された。 一八〇〇年ごろのアメリカの国民総生産がど れほどであったかは、推定値に差があって確定 していない。しかしおおむね、一九五二年価格 で計って、一人当り二五〇 ~ 三〇〇ドルの範囲で あったと考えられる。この数値はその時代のヨ そんしよく ーロッパ先進国に比べて遜色がない。それは ひょく 主としてアメリカが広大で肥沃な土地に恵まれ ていたためであったと思われる。一八〇〇年か ら一八三〇年代の終わりごろまで、アメリカの 一人当り国民総生産の伸びは低く、一 % を下回 る水準であった。しかし、一八四〇年代からア メリカ経済の成長率は高まり、平均すると一人 当り国民総生産は年率一・六四 % 、つまり四三 年ごとに二倍になる速度で増加した。そして一 九六〇年の一人当り実質国民総生産は一八三〇 ン年代の約七倍となった。このような経済の発展 は、経済に対する投入資源の増加と技術の進歩 ラ によって達成された。アメリカに豊かに存在し た土地と天然資源、急速な人口の伸びは投入資 田油 油廓源の増加をもたらしたが、経済成長に対する貢 献度からいえば、科学知識の進歩、経営方法の 改善、労働者の教育水準向上などを含めた技術 500km
は、一八世紀後半にアイルランド議会の改革運 上げた。しかしアングロ・アイリッシュ文学のあった。彼らはこの地の民俗音楽文化を支配 ( アングロ・アイリッシュ文学 ) である。 し、一八世紀末までその伝統を残していた。こ動が進み、まず一連のカトリック救済法が実現 〔ロ承文学の隆盛〕アイルランドに文字が導入独自性が明確に打ち出されるためには、ハイド し、それは一八二九年のカトリック教徒解放法 うしたなかで、詩人トマス・ムーア ( 一七七九ー天 されたのは四 ~ 五世紀のキリスト教伝来と同時の国語復活運動と呼応して展開されたアイルラ によって完成をみた。しかし、民族主義運動家 であったが、それ以前は紀元前の昔からロ承文ンド文芸復興運動をまたねばならない。一九世五 (l) がアイルランド民謡を素材とした歌曲を多 くつくり、アイルランドの伝統的な詩や音楽のオコンネルが解放法成立後まもなく、アイルラ 紀末に始まった文芸復興は、独自の文化遺産に 学が栄えてした。。 、 ' ケール語文学の源流をなすロ 承文学を収めた古写本のうち、現存する最古の目を向け伝統的な民族精神を覚醒させることに復活に努めた。これによってアイルランド民謡ンド議会を廃止した併合法の撤廃運動を始めた ことでもわかるように、より重要なのはアイル がヨーロッパの一部で愛唱されるようになり、 ものは一二世紀にまでさかのばる。豊かさにおよってアイルランドの文化的復権を目ざす文化 ランド自治問題であった。一七八二 ~ いてギリシアのそれに匹敵するとされるこれら運動であり、指導的役割を果たしたのは詩人イ有名となった。わが国で知られているものには エーツであった。イエーツの初期の詩および詩『わが思い』『吟遊詩人』などがある。民謡の伴年の自治議会が、アイルランド人に自治に対す 神話、英雄伝説の数々は、通例次の三つの説話 群に分けられる。①神話族説話群ーアイルラン劇はアイルランド神話に霊感を求め、彼の助言奏には、アイルランド独自の楽器であるアイリる強い執念を与えていたのである。一方、土地 ッシュ・ハープとバグ・。ハイプが多く用いられ問題はアイルランドの貧困の源泉であって、同 に従ったシングはアイルランド本来の姿がもっ ド先住種族にまつわる神話集成。②アルスター 〈ト田隆嗣〉 じように切実に解決が求められた。一九世紀の 説話群 ( クーフリン説話群ともいう ) ーアルスともよく継承されている西部地方の習俗、方言る。 もんだい lrish アイルランドの民族連動は、この二つの問題の ターの伝説的英雄クーフリンの事績などを述べを劇作の素材とした。イエーツ、グレゴリ夫人アイルランド問題 る説話群。③フィニア説話群 ( オシアン説話群を中心に一九〇四年に設立されたア・ヘイ劇場を Question イギリスが抱えたアイルランド関解決を求めて、あるときは立憲的に、あるとき ともいう ) ー二、三世紀ごろ活躍したフィニア拠点とする演劇活動は、この運動全体の中核を係のさまざまな問題を総合的にこうよぶ。一二は急進的に、さらには両者結合して進められ、 イギリスを苦しめた。そして、ます土地問題が 武士団とその指導者フィン・マクールおよびそなし、シングの作品はそのみごとな成果であっ世紀以来イギリスの支配を受けてきたアイルラ 一九世紀末から二〇世紀初めの一連のアイルラ ンドが、一八世紀に入ってアイルランド議会の た。その後、一九二〇年代のオケーシーに至っ の息子オシアンなどについて語る説話群。 キリスト教と文字が伝来した四 ~ 五世紀かてアイルランド演劇の地位は確固たるものにな権限強化、経済的自由、宗派の平等などを要求ンド土地法によって解決された。 自治問題の解決は容易ではなかった。イギリ するようになると、おりからの市民革命の時期 ら、イギリス植民地政策が始まる一一一世紀初頭った。文芸復興運動を精力的に推進したイエー ツの詩人としての偉大さは改めていうまでもなでもあり、イギリス政府はその処理に苦しんス保守党の反対が内部にあり、アイルランドに にかけて ( 九世紀からおよそ一世紀に及ぶデー だ。以後、今日までアイルランド問題は、歴代はイギリスとの連合の継続を望むアルスター 最後のロマン主義者といわれる彼は同時に ン人侵略の時期を除けば ) 、アイルランドは ュニオニストの強力な反対があった。一九一四 のイギリス政府を苦しめており、それはイギリ 「聖人と賢者の島」とよばれ、ヨーロッパの重現代詩の先駆者でもあったのである。 年には第三次自治法が成立したが、第一次世界 スにとっての業であるということができる。 一方、国外に去って文筆活動を行った作家の 要な文化的拠点として黄金時代を享受してい 大戦を理由に棚上げとなり、結局、二〇年のア ジョイスなど ~ 一九世紀のアイルランド問 〔一九世紀〕一、 た。その後もドウルイドの流れをくむ吟唱詩人系譜として、ワイルド、ショー たちが豪族の庇護のもとに伝統的詩文を伝えてがいる。これら国外離脱者たちの存在はアイル題は、カトリック問題、土地問題、自治問題をイルランド統治法で北アイルランドを、一一二年 いたが、一七世紀以降ゲール的氏族制度の崩壊ランド文学の複雑なありようを示す注目すべきおもな内容とした。カトリック問題に関してのイギリス・アイルランド条約で翌年アイルラ ンド自由国を発足させて、いちおうの解決を得 特徴となっている。アイルランドは現代でもっ によりこれら職業的吟唱詩人の流派は衰微し、 交 たのである。 とも偉大な小説家を生んだ。ジョイスである。 より平易で自由な詩形が行われるようになり、 をモ 〔現代〕現代のアイルランド問題は、北アイル 軍デ やがてオーリアリやメリマンなどによる一八世彼の作品を抜きにして現代文学を語ることは不 スの ランド問題である。アイルランドは古来四つの 紀の優れたゲール語詩が生まれた。一九世紀に可能であり、その影響力は詩におけるイエーツ ギ市 地方に分かれ、北東部の一つがアルスター UI ・ なるとこの国の一一 = ロ語的主導権ははば完全に英語のそれに匹敵し、・ヘケットやオプライエンなど ster とよばれてきた。アルスターは中世には の異才を触発した。以上、二重の文化伝統につ へ移ったが、民族主義運動の高揚とともにゲー 派ア 激フ九つの州で構成されるようになった。一九二〇 いて述べたが、この「分断された文化遺産」に ル語復活運動がおこり、とくに一八九三年ダグ 過ル 可ペ年の統治法は、この九州のうちの六州で北アイ いかに対処すべきかという問題は、現代のアイ ラス・ハイドの「ゲール語同盟」創立以来、執 の ルランドを形成し、他の二六州と分離した。六 ルランド作家にとって回避しえぬ基本的課題な 拗にゲール語文学の復権が試みられている。 州にはイギリスとの連合を望むュニオニストの 〈大澤正佳〉 〔アイルランド文芸復興運動〕アングロ・アイのである。 タ一フ スル プロテスタントが多いというのがその理由であ リッシュ文学の最初の偉大な作家は一八世紀の回尾島庄太郎著『現代アイアランド文学研究』 ティ ロア ったが、実際にはそれは四州だけで、その四州 ( 一九五六・北星堂 ) スウイフトで、その作品にはゲール的伝統につ も南の地方は独立を望むカトリックが多かっ ぶんげいふつこ とる ながる奔放な風刺精神の裏打ちが認められる。アイルランド文芸復興 ふんがく クす た。その不安定な地位をカバーするため、ユニ う 0 アイルランド文学 一八世紀アイルランドはコングリープ、ファー ッ糾 オニストは、プロテスタントの資産家には一人 みんようケール五ロ カー、シェリダンなどの喜劇作家を世に送り出アイルランド民謡 トて カっ 六票まで認める不平等な選挙権やゲリマンダー したが、イギリスで作家生活を送る彼らのアイを第一国語とするアイルランドは、ロ承文芸時 かたりべ によって一党独裁の支配体制を築いた。北アイ ルランドへの関心は強いとはいえなかった。一代にはフィラ ( 詩人 ) やシャナヒー ( 語部 ) に 階え ルランドの人口の三分の一はカトリックであっ よる優れた文芸作品を生み出したが、イギリス 、ら九世紀前半には詩人トマス・ムーアがアイルラ ンど たか、北アイルランド議会の議席の九割はプロ の支配下に置かれてからはゲール語の文芸は抑 っンド的叙情の美しさによって広く愛唱され、一 ラっ テスタントが握り、公的機関にカトリックはほ > 九世紀の中葉にはマンガンやファーガソンなど圧されざるをえなかった。一方この地は、職業 イ とんど入れなかった。その結果、行政の不公平 7 音楽家である吟遊詩人 minstrel の本拠地でも あ優れた詩人たちが自国文化の過去の栄光を歌い かくせし