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検索対象: 日本大百科全書 1
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1. 日本大百科全書 1

あいえる からサモスを経てアイオリス地方 ( ヘレスポン 6 、幅二 ~ 三、幹は長く伸びると三以上に トス海峡からへルモス河口に及ぶ地域 ) へ移住 達することがある。本州中部以南の外洋のほ した。キメーを中心とする一二のポリスをつく か、世界の温暖域に広く分布する。〈山田真弓〉 ったが、彼らは現地の異民族とかなりの融合を あいおいばし広島市の中心太田川 相生橋 さんさ はんかわ ( 本川 ) と元安川の分岐点に架かる三叉橋。か遂げたと思われる。フリギアと交易を行った が、主として農業を営んだ。一時期を除いてペ って二河川の分岐点に、木橋が架けられていた ため、この名称がつけられた。のち近代的な橋ルシアの勢力下にあり、ヘレニズム期はセレウ 況磨街 コス朝やベルガモンの支配を受けた。ローマ時 に付けかえられ市電が走った。一九四五年 ( 昭 不播市 代には内陸地方の発展でアイオリス諸市は重要 和二〇 ) 八月六日の原爆投下はこの橋を目標に の石達 〈古山正人〉 行われ、橋は破壊され、川面には多くの死者が生を失った。 界の発 船岸に 流れた。その後新橋に架けかえられ、平和公園アイオロス Ai010s ギリシア神話の風の 造西奥 は弯弯 〈北川建次〉神。ヒッポテスまたは海神ポセイドンの子。ア はこの南にある。 栄生 イオリア島に住み、風を洞穴または革袋の中に 囮五万分の一地形図「広島」 繁相と の。所 ) 洋画家。茨城閉じ込めている。オデュッセウスが帰国の途中 靉嘔あいおう ( 一九三一ー 市る船 なめがたたまっくり れ造 にこの島へ漂着したとき、風神は英雄を親切に 県行方郡玉造町に生まれる。本名飯島孝雄。 市さの 九五四年 ( 昭和二九 ) 東京教育大学芸術学科を迎え、出発の際には故郷のイタカ島への順風以 相左工 外のすべての風を閉じ込めた革袋を贈った。し 卒業。在学中からデモクラート美術家協会展に ますお 条約アイエルオーじようやく 0 国際式会社が創設されてから、造船の町として繁栄出品、のち池田満寿夫らとグループ「実在者」かし、オデュッセウスが寝ている間に仲間たち ろうどうじようやく が中身を酒と誤ってあけたため、あらゆる風が した。現在、石川島播磨重工業 ( 株 ) を中心を結成する。五八年からニューヨークに住み、 労働条約 あらし フルクサス・グループに参加、六六年ベネチ吹き出てすさまじい嵐がおこり、船はふたたび 、大小の造船関連工業が立地し、造船関連工 秋穂 ( 町 ) あいお ( ちょう ) 山口県中南部、吉 アイオリア島に打ち戻された。オデュッセウス 敷郡にある町。一九四〇年 ( 昭和一五 ) 町制施業の従業者数は、市の就業者人口の約七〇 % をア・ビエンナーレ展に出品する。七〇年の東京 わみよう すおうなだ 行。周防灘に面した小半島部を占める。『倭名占める。また周辺農村からも多くの労働力を得国際版画ビエンナーレ展で東京国立近代美術館はまたもや順風を求めてきたが、風神は神々の ちょうこうどう しよう やけひと 鈔』の益必郷の地、中世には京都長講堂領のている。海岸部は瀬戸内海国立公園に属し、五賞を受けたはか、海外での受賞も多い。虹の彩怒りを恐れて援助を断った。またアイオロス ・つりゆ、つ らかん しようえん 月のペーロン祭、瓜生の羅漢石仏は珍しい。人調の絵画と版画で知られ、日本と欧米で多数のは、ギリシア人の祖ヘレンとニンフのオルセイ 荘園で、古くからの農漁村。はげ山の多かっ さんろく 〈富岡儀八〉 個展を開く。七〇年以降は東京とニューヨークスの子、およびポセイドンとアルネ ( またはメ た花崗岩を陵の緑化も進み、山麓一帯にはミカロ四万一四九八。↓矢野荘 〈小倉忠夫〉 ラニッペ ) の子 ( ともにアイオリス人の祖先 ) に住む。 ・相生市 ) ン園が多い。町役場のある秋穂浦は刺網漁業や回『相生市史』 ( 一久四 ~ かみごおり ばんしゅう しようはちまんぐう 〈小川正広〉 —OO アイオーシー 0 国際オリンピック委と同一視されている。 クルマエビの養殖で知られる。秋穂正八幡宮五万分の一地形図「播州赤穂」「上郡」 い・れ ~ い アイオワ lowa アメリカ合衆国、中北部 は中世の古文書や能面を伝え、楼拝殿造の社殿相生 ( 町 ) あいおい ( ちょう ) 徳島県中部、那員会 の農業州。面積一四万五七九〇平方キ。、人口二 アイオージェー 0 国際ジャーナリス 賀郡にある町。一九五六年 ( 昭和三一 ) 相生、 は県指定文化財。人口六〇六〇。〈三浦肇〉 のぶの ひのだに おごおり 九一万三三八七 ( 一 0 ) 。州都はデ・モイン。 延野、日野谷の三村が合併して町制施行。那賀ト機構 囮五万分の一地形図「小郡」「宇部東部」 - 一く一いしようひしやき にくぎら O O アイオーシーユー 0 国際消費者機東をミシシッピ川、西をミズー 川中流域に位置し、町域の九〇 % は山林で、村 相生 ( 市 ) あいおい兵庫県南西部、磨灘 きと - っ ーリ州に接す れ、北はミネソタ州、南はミズ に臨む工業都市。一九四二年 ( 昭和一七 ) 市制外地主所有の多い木頭村と異なり町民の所有。構 さんぎようれんかんひょう わかさの る。中央低地の一部である大平原地帯に位置 —XO 表アイオーひょう 0 産業連関表 施行。五四年 ( 昭和二九 ) 若狭野、矢野の一一村一戸当り平均一一一。・を有する。東西に国道一 なばうらあざ を編入。相生の地名は、一説にもと那波浦字大九五号が走る。主産業は林業。特産は河岸段丘アイオリスと 0 デ古代にアイオリス方し、北西から南東方向に緩やかな傾斜をみせ る。中北部を中、いに、アメリカのコーン・ヘルト 、冫といったが、一二世紀末ごろ大島に城を構え上に栽培される相生茶。日野谷、川口の両発電言のギリシア人が移住した小アジア北西部の地 ひょく 、こがみ えびな 所が立地する。道徳教育の町として地域指定を域。現在はトルコ領。南はスミルナを含んだの心臓部を形成する肥沃な土地は、更新世 ( 洪 た海老名氏の生国相模にちなみ、相生と改め、 〈高木秀樹〉 が、スミルナがイオニア領となってからは、ヘ積世 ) の大陸氷河や氷床の産物である。気候も 受けている。人口三九五三。 大島の大の音をとって「おお」と読ませたとい ルモス川から北はケ。フレネーまでの地域を含ん農業に最適な湿潤大陸性気候である。 う。市域は、南北約一九キ。、東西約七キ。と細長囮五万分の一地形図「桜谷」 第二次世界大戦後は工業も発展し、州の経済 だ。紀元前七世紀ごろにはトロアス地方にまで く、山地や丘陵が多く、低地は河谷や海岸部に アイオイクラゲ〔相生水母」 p 、ミ 一ごっちょ、つ みられるのみである。相生湾は沈水海岸で、湾 2 さこ腔腸動物門ヒドロ虫綱管クラゲ広がった。狭義にはギリシアのサモス島の対岸は農業、工業の両方に依存しているが、農業収 入が約六キ。にも及び、水深六 ~ 七の天然の良目アイオイクラゲ科に属する海産動物。二個の地域、キメーなどの一二ポリス ( 都市国家 ) の入はなお高く、カリフォルニア州に次ぐ。中北 えいしよう 部を中心に生産されるトウモロコシの産高は全 港。東海道・山陽新幹線と山陽本線が通じ、国同形の泳鐘がその腹側で相対しており、その領域をさす。一二ポリスの祭祀の中心はグリネ あ・一う 鉄赤穂線を分岐する。また国道二号、二五〇号ため「相生」の名がある。二個の泳鐘は多少大イオンのアポロン神殿であった。ヘロドトス米第一位、干し草と大豆は第二位、オート麦は ひょく ひさとみほ はた が走る。一帯は、古くは秦氏の支配地で久富保きさに差があるが、その中間から多数の幹群をは、この地は肥沃だと伝えている。〈古山正人〉第三位である。ウシ、プタ、ヒッジは南西部を やののしよう ーーじん Aioleis 古代中心に飼育され、畜産収入は全米第一位であ もった幹が長く伸びている。各幹群は栄養体、アイオリス人 一二世紀以降矢野荘となる。近世に る。以上をみても、農業州として健在であるこ ギリシアのアイオリス方言を話す人々。紀元前 触手、数個の生殖体などからなり、それらは一 は赤穂藩に領知され、のちに一部は諸藩に分轄 せんきょ された。一九〇七年 ( 明治四〇 ) に播磨船渠株個の保護葉で覆われている。泳鐘は長さ三 ~ 四二〇〇〇年紀代に、テッサリアやポイオティアとがわかる。発展を続ける工業は、食品加工、 まりまなだ ・一くき一い キ」 - : っ

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あいがも ④響 川流域の相模平野から、また中世には、鎌倉、 8 九五八七。 - : っーしゅ - っ 小田原から甲州 ( 山梨県 ) 東部へ通じる交通 回『合川町誌』 ( 一九六五・合川町 ) よないぎわ みませ の要地で、北東の三増は中世からの宿場として 囮五万分の一地形図「米内沢」 さど 相川 ( 町 ) あいかわ ( まち ) 新潟県佐渡郡にあ知られ、諏訪神社の獅子舞は、日本における一 る町。佐渡島の大佐渡山地西半を占め、細長い 人立ち三頭獅子舞の南限を示すもので、県指定 町域をもつ。一八八九年 ( 明治二 (l) 町制施無形民俗文化財。また南の中津川の西にある八 すげ せはらおおやませきそんごん かないずみ 行。一九五四年 ( 昭和二九 ) 金泉村、二見村、菅山は、中・近世には伊勢原の大山 ( 石尊権 ひなた しゅげんしよう たかち そとかいふ や 五六年高千村、外海府村と合併。全域が佐渡弥現 ) 、日向山 ( 日向薬師 ) と並ぶ山岳修験 ( 聖 とうしょ 」いん ひこよわやま 彦米山国定公園に含まれ、島嶼や海岸段丘によ護院流 ) の道場 ( 別当光勝寺 ) のあった所で、 ちょういし る自然美に恵まれ、佐渡金山史跡とともに、佐参道には「丁石」が残される。江戸時代後期 ねんし りようつ はんばら 渡観光の中心をなす。両津港からバスで約一時からは、北西の半原を中心として絹撚糸業が盛 ⑤ 日 んとなり、いまも撚糸、縫い糸の特産で知ら ができないので解釈がむずかしく、また広告の 相川はもと日本海に面するわびしい小漁村でれ、全国で使われるミシン糸の九〇 % をここで くだまき プとし 印象が好ましかったかどうかを判別できない点あったが、一六〇一年 ( 慶長六 ) 佐渡金山が開占める。糸とり唄の「管巻唄」がよく歌われ ぶぎよう ながやす があるので、この結果だけから広告の全体的効かれ、〇三年大久保長安を佐渡奉行に任じ、諸る。南東の厚木市にまたがる中津工業団地は、 オマ置 国の鉱山技術者を集め、鉱坑の開発を進めてか第二次世界大戦中につくられた軍用飛行場跡を 果を推論することは危険である。 デト位 かなぐら ビ ツの なお、実験心理学分野ではオフサルモグラフら急激に発展し、以来、江戸幕府の金蔵として利用したもので、金属製品、機械などの近代工 やボク けいちょうげんな かんえい 業が集まり、付近は住宅地化が目だっ。八菅 ophthalmograph とよばれ、医学分野では電重きをなし、慶長・元和・寛永年間 ( 一五九六 ~ レ きよう ぶつか がん マ イ白は 気眼球図記録 electrooculography とよばれ一六四四 ) には「昼千貫、夜千貫」と称せられる全山、三増峠のほか、西部の仏果山、経ケ缶など 寺、んりよう フに丸 盛を極め、町の人口も一〇万余を数えたといわ町を巡る山稜はナラ、クヌギ、アカマツなどの て、それそれ微細な眼球の動きをとらえるのに 画中赤 映のの 自然林に覆われ、稜線は展望が開け、よいハイ 〈島守光雄〉れる。幕末ごろから産額もしだいに減り、町も 利用されている。 を面真 点る画写 さびれた。現在は、金山よりむしろ佐渡の行キングコースである。また、中津川上流の中津 アイガモ「合鴨・間鴨〕 call duck/8A- 視すは ラ 、圧析点る 渓谷は峡谷美で知られ、釣りやキャンプの好適 nas ミ、をミ var. do 、ミ s 鳥綱カモ政・観光の中、い地として知られる。 どう メ分分視れ 〈浅香幸雄〉 観光地としては、佐渡金山遺跡にまつわる道地でもある。人口二万九八七一。 目カモ科の鳥。アヒルの一品種で、よく鳴くた 力者し注表 ゅうわれとみなみぎわそすい 云録 5 ての イ 4 囮五万分の一地形図「八王子」 避記 ~ つもめナキアヒルともいわれ、カモ猟のおとりとし遊の割戸、南沢疏水坑、佐渡奉行所跡、国指 そうだゅう 「」①に②オ て使われることもある。地方名をつけて紀州ナ定史跡の宗太夫坑を公開する「ゴールデン佐相川立日頭あいかわおんど新潟県佐渡郡相川 かんぶん ① キ、仙台ナキあるいは北九州の四李アヒルなど渡」などがある。海岸景勝地には、中心をなす町を中心に歌われてきた民謡。江戸時代の寛文 せんかく とよばれる。体形はマガモとはば同じである尖閣湾、相川海中公園、七浦海岸、平根崎波食末期 ( 一六七 0 こしにおこった盆踊り唄で、初めは 心理学の分野で考案され、一九五〇 ~ 六〇年ご おうけっ かすが うたい かけことば 『謡曲百番くすし』といい、謡曲の曲名を懸詞 が、アオクビ種と交雑されたこともあるので、甌穴群、春日岬、大佐渡スカイラインなどがあ ろにはかなり具体化して、今日のアイ・カメラ こいちゃぞめ の原型とみられるものが登場した。アメリカで大形化し羽色の純度が失われているものもあり、佐渡観光客のはとんどはこの町に宿泊すにしたり、「おさん仙次郎心中濃茶染』のよう むみよ・つい に、心中物や恋物語をテーマにして歌い込んだ る。肉質もマガモに近く、鴨料理に用いられる。名産品には無名異焼、海産物 ( スルメイカ 初めて印刷広告のコ。ヒーテスト用として使用さ ぶんせい てんほう 亠めいが、当 れたのは一九三八年八月の『ルック』誌掲載のる。相鵯という名称は、肉用アヒルを示す業者など ) 、鉱山銘石がある。年中行事は、七月下りしていた。約一四〇年のちの文政・天保年間 ~ 四四 ) になると、尚武の世相の影響で勇 の用語である。また、地方によってマガモの長旬の鉱山祭がとくに有名で、全国おけさ流しコ 広告に対してであったが、広告作品上の注視点 ンクールも行われる。また、一〇月中旬の相川 ましい歌詞か喜ばれるようになり、現在歌われ の動きや注視時間を記録して、広告の構成要素期飼育したものをアイガモということがある。 くどき ↓アヒル 〈西田隆雄〉祭も相川の秋祭りとして広く知られる。このほている源平合戦を描写した五段の口説調となっ の注目度を測定する実験的手法として注目され ともえ こ。刀殳「宇治川先陣」、二段「巴の勇戦」、三 か、鉱山資料を豊富にそろえた相川郷土博物館オネ るようになったのは六二年ごろといわれる。ア△ロ川 ( 町 ) あいかわ ( まち ) 秋田県北部、北秋 おんどはるこま なすのよいちおうぎまと つぐのぶ 田郡にある町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 上大や、佐渡おけさ、相川音頭、春駒を公開する佐段「那須与市扇の的」、四段「継信の死」、そ メリカのアイ・カメラの利用は、広告、ディス しも、一あこ 、パッケージ・デザイ野、下大野、落合、下小阿仁の四村が合併して渡会館もある。人口一万二七二一。〈山崎久雄〉して五段の途中からがよく歌われている「どっ プレー、店舗レイアウト なみかぜ おりふしよしつわ と笑うて立っ浪風の荒き折節義経公は : ンなどの調査研究だけでなく、オートメーショ成立。阿仁川と小阿仁川の清流が町の中央部で回「佐渡相川の歴史資料集 1 』 ( 一九七一・相川 町 ) ▽麓三郎著『佐渡金銀山史話』 ( 一九七三・ のくだりの「義経弓流し」である。相川金山に 合流し、町名もそれにちなむ。国鉄阿仁合線が ン・コントロール用の計器バネルの設計といっ 三菱金属鉱業 ) 江戸幕府の奉行所が置かれたころ、毎年七月一 た点にまで広く利用された。人間工学的な応用通じる。中世は安東氏領、近世は佐竹氏の支配 わしざき 五日の盆に、その奉行所の前でこの『相川音 を主とするアメリカに対し、日本では広告媒体下にあった。気候は夏は凉しいが、冬は寒さが囮五万分の一地形図「相川」「鷲崎」「河原田」 の調査、分析や運転者と歩行者の交差点におけ厳しく積雪も多い。米作農業を主とし、最近大愛川 ( 町 ) あいかわ ( まち ) 神奈川県中北部、頭』が踊られたことから「御前踊り」とよばれ ・めい、」、つ る注視点の研究、分析などに重要なデータを提野台の開発のために大型機械の導入を図り、酪愛甲郡にある町。一九四〇年 ( 昭和一五 ) 町制るようになった。『佐渡おけさ』とともに佐渡 たかみね 〈斎藤明〉 の代表的な唄である。 供できるとの理由から、一九六六年 ( 昭和四農の振興にも力を入れている。また造林一〇〇施行。五五年 ( 昭和三〇 ) 高峰村と合併、五六 年中津村を編入。小田急電鉄騁駅、国鉄榧 一 ) ごろから実用化されるようになった。ア〇ヘクタール運動や、カントリーエレベーター 相月鉱山あいかわこうざん新潟県佐渡郡の みかみみぞ イ・カメラで得られたデータは量的に表すこと導入による稲作の協業化も図られている。人口模線上溝駅などからバスが通じる。古来、相模相川町にある鉱山。現在は佐渡鉱山とよばれ ② 3 、 1 7 ③ 0 4 み ~ も 〈宮崎禮次郎〉 ふたみ

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あれくさ ー 4 をを示 ランスが占領した。一九世紀初頭のアレクサン とみなされた。 〈佐藤三夫〉 FII) などの喜劇によってルーマニア民族演劇を〔歴史〕アレクサンドロス大王がエジプト征服 後の紀元前三三一年、ナイル川デルタ西端のフドリアは人口わずか四〇〇〇の小さな町に転落 回マキアヴェッリ著、黒田正利訳『君主論』確立し、また民謡の集大成を西ヨーロッパに紹 ェニキア人の港のあったラコティスの漁村に接したが、エジプトの太守ムハンマド・アリーが ( 岩波文庫 ) 介した。『ドイナ』 ( 一会三 ) 、『伝説』 ( 天七七 ) な 〈直野敦〉近し、北にファロス島を控え、南にマレオティ海軍根拠地として復興を図り、イスマーイー ど詩集も多い アレクサンデル・ハレンシス Alexan- der Halensis ( 二七 0 / 会ー一一一四五 ) ヨーロッ アレクサンドリアと exandria エジプス湖をたたえた地を選び、彼の名にちなんだ都ル・バシャは港湾施設の拡張に努めた。一 ・。ハシャを首領とする暴動が起こ 」部ナイル川デルタの西端にある港湾都市を建設したのがアレクサンドリアの始まりで二年アラビー ハ中世の神学者、哲学者。イギリスのヘイルズトヒ、 り、多くの在留ヨーロッパ人が殺されると、イ 生まれ。。ハリ大学で神学を講じる。博識のため市。首都カイロの北西約一八〇キ。に位置し、同ある。大王の死後、エジプトに創建されたプト 「不可抗博士」「神学者の王者」といわれ、スコ市に次ぐ大都市である。人口二三一万七七〇五レマイオス朝の首都となり、プトレマイオス一一ギリスはアレクサンドリアを占領、破壊し、新 しく町を建設した。現在のアレクサンドリアは ラ学、フランシスコ会学派の創始者となる。主 ( 一九七六 ) 。市街地は地中海とマレオティス湖に挟世フィラデルフォスの治世に都市はほば完成し ばつばっ た。当時は地中海世界とアラビア、インドとのそのときのものである。第一次世界大戦勃発に 著の『神学大全』は、アリストテレスの自然まれた細長い砂州上にあり、地中海風の白いビ けいじじよう 学、形而上学、およびアラビアとくにアビケン ルが一一一キ。にわたって続き、保養、観光地とし貿易の商港、商工業の中心地としてヘレニズムよりエジプトの宗主国トルコがドイツ側に参戦 ナの思想を取り入れた最初の大全であるが、そても知られる。エジプトの商業、金融の中心地最大の都市として繁栄、人口約八〇万を数えすると、イギリスはエジプトを保護国とし、ア レクサンドリアは連合国の海軍根拠地となっ れらの教説が、新プラトン主義の影響を受けたで証券取引所がある。工業は石油精製、繊維、た。また、プトレマイオス一世ソーテルによっ アウグステイヌスやビクトル学派の説と対立すプラスチック、セメント、たばこなどの工場がてムセイオン ( 学問研究所 ) とその付属の大図た。その状況は一九二二年のエジプト王国とし ての独立後も続き、第二次世界大戦でも海車基 書館が設立され、文献学と自然科学が興隆し、 るときは、アウグステイヌス・ビクトル学派のある。港はエジプト第一の貿易港で、綿花、 意見を優先するという仕方で、一三世紀フラン麦、砂糖、野菜を輸出し、工業製品、食料品なギリシア語訳『旧約聖書』もここでつくられ、地として使用された。イギリスは四六年にアレ 〈坂口ふみ〉 ヘレニズム文化の中心都市でもあった。ローマクサンドリアから撤退、五二年エジプト共和国 シスコ会神学の基礎を置いた。 どを輸入する。 古代の建築物はアラブ人支配以後ほとんど破帝政期には新プラトン哲学とユダヤ・キリストの成立後、エジプトの軍港、商港、観光地とし アレクサンドリ Vasile Alecsandri ( 天一二ー九 0 ) ルーマニアの詩人、劇作家。青年壊されたが、カタコンべ ( 地下式墳墓 ) 、ポン教神学、グノーシス思想が形成された。しかして発展した。 がいせんもん なお、アレクサンドリアとはアレクサンドロ 時代バリに留学し、蒙主義思想の影響を受けペイウスの凱旋門、ローマ劇場などが残存す六四六年アラブ人に攻略され、エジプトにおけ ス大王が創建した都市の意で、最初に建設し、 て帰国、一八四八年の革命に参加したが、そのる。アレクサンドリア大学、グレコ・ローマンる政治、文化の中心はカイロに移った。一五一 失敗後一時亡命、五九年の国家統一の際には外博物館などの学術・文化施設もある。カイロと七年トルコの支配下に入り、一七九八年ナポレ現在も繁栄しているエジプトのアレクサンドリ アのほかに、イッソス付近のアレクサンドリア 〈藤井宏志〉オンのエジプト遠征により、一八〇三年までフ 同様に近年流入人口が多い 交官として活躍した。『田舎のキリツア』 ( 天 ( 現在のトルコのイスケンデルン付近 ) 、アラコ 時繁アト シア人のアレクサンドリア ( アフガニスタンの 当一代に 時紀ンえ港 カンダハールまたはその付近 ) 、アリイ人のア 図ム世マ衰東 街ズ 7 ス レクサンドリア ( コーラサーンのヘラート ) 、 ド市ニ , オ入いな のレが 最果て ( エスカテ ) のアレクサンドリア ( ヤク 〈秀村欣一一〉 サルテス川岸 ) などがあった。 サト = め世配築 クフ紀画わ支の建 アレクサンドリアと exandria アメリ レジ世版き , の界代 ージニア州北部の住宅都市。人口 カ合衆国、 、、ア工銅をプコ ~ 、、一 1 朝 . にヾへ 、 D R 岸通り ③市の南西部にあるポンペイの柱と新王国時代の スフィンクス 841

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ふ 1 ミを あるはま 八 0 ) 。鉱山機械、陶磁器、食品工業がある。古『明るい朝』 ( 一九 0 五 ) 、『ドーニヤ・クラリーネ 6 ス』 ( 一九 0 九 ) 、『マルバローカ』 (一九 lll) などがあ 8 い町で、ダキア時代の政治の中心地。一六 〈菅愛子〉 七世紀には文化や宗教の中心地でもあった。一る。 と 回マリアノ・カルアーナ編『ドーニヤ・クラリ 九一八年、国民会議が開催され、トランシルバ なる クあ ニア全域とルーマニアとの統一宣一言が発せられ ーネス』 ( 一九夭・大学書林 ) よう一い スか ロ Corrado Alvaro ( 天九五ー一九 モる水た地である。ダキア時代の要塞「アボウロン」アルバー , す噴 や、一三世紀のロマネスク様式のカトリック寺五六 ) イタリアの小説家。第一次世界大戦に参 宮置 〈佐々田誠之助〉戦した体験をもとに詩集『灰緑色の詩集』 ( 一九 王位れ院が残る。 元上え 一七 ) を発表。短編集『アスプロモンテの人々』 アルバレズ Luis walter Alvarez ( 一九 。の支 構丘に ) アメリカの物理学者。シカゴ大学で ( 一九三 0 ) は、古代の影が濃く残る故郷アスプロ 遺る子 モンテ地方を舞台に、貧しい羊飼いの一家がし のす獅学位を取得し、カリフォルニア大学へ移り、一 築望の 九四五年同大学教授となる。第二次世界大戦中だいに資産家に追い詰められ、ついには山賊に ムを石はマサチューセッツ工科大学、ロス・アラモスなるという、重い社会性をはらんだ同名の一編 ラタの スナ頭で、レーダーと原子爆弾の開発に従事した。戦を含む。ほかに長編『二〇年』 ( 一九三 0 ) などが 世タに 〈川名公平〉 ークリーで陽子線形加速器を建設、そのある。 〕塞中後ペバトロンを使った高エネルギー物理学の研ア ルバ・ロンカ Alba Longa 古代イタ 右 リアの都市遺跡。現在のカステル・ガンドルフ た庭究を行った。このとき、検出器の不備を感じ、 あわばこ オの地にあった。↓カステル・ガンドルフォ ラん中グレーザーが発明した泡箱を実用化し、さらに プ囲の ンで子電子計算機による処理法を確立した。これによアルハンケリスク ApxaHreJlbCK/Ar ・ ハ壁獅 り、戦後発見された素粒子に特徴的な量子数で hangel'sk ソ連、ロシア共和国北西部、アル 左 ハンゲリスク州の州都。人口三九万一〇〇〇 あるストレンジネスをもった寿命の短い素粒子 にある山。ワンカルアス峰 ( 六一一五 0 しをはじめなどを多数発見し、六八年ノー・ヘル物理学賞を ( 一一 ) 。港湾都市で、白海のドビナ湾奥、北ド 〈山崎正勝〉 ビナ川岸と河口デルタの諸島に市街地が形成さ とする数座の六〇〇〇級の峰々よりなり、山受けた。 ) れている。ソ連の製材業と木材輸出の大中心地 頂部は広く氷河に覆われる。西麓にはサンタ川 アルバレズ Alfred Alva 「 ez ( 一九 = 九ー イギリスの批評家、詩人、小説家。オックスフで、木材加工業に労働者の約半分が従事してい が深く切り込んだパト峡谷、南麓にはサンタ・ オード大学卒業後文筆生活に入り、現代英米詩る。そのほか、造船 ( 貨物船、漁船 ) 、船舶修 クルス川の大規模な字谷がある。〈松本栄次〉 アルバム album 写真、書画、郵便切手、人論『形成する精神』 ( 一九五 0 や『ダンの流派』理、木材加工業に関連する機械製作、食品 ( 水 カード類などの破損や紛失を防ぎ、長く保存で ( 一九六一 l) で一躍知られた。美的関心と倫理的関産加工、食肉 ) 工業が発展している。市は一五 八四年、西方進出の拠点として開かれたロシア 心の調和を目ざすところに特色があり、世評の きるようにした帳面。大きさは不統一である 高い自殺研究『野蛮な神』 ( 一九七一 l) や『サミュ最初の海港で、イギリスその他の西欧諸国と交 が、東京アルバムエ業組合では、四つ切り、六 っ切り、八つ切り、キャビネの四種に規定してエル・べケット』 ( 一九七一 (l) 、詩集や、小説『彼女易が行われた。一七〇三年にペテルプルグ ( 現 やまとと 〈富士川義之〉在のレニングラード ) が建設されて主導的役割 いる。形態は、横型 ( 大和綴じ ) 、縦型 ( 洋本のもの』 ( 一九七五 ) などもある。 綴じ ) 、角型のほか、任意の厚さに調節できるアルバレス・キンテーロ ( 兄弟 ) 兄セはなくなったが、鉄道開通後ふたたび発展し、 一九世紀末から二〇世紀の初めにはロシアの木 フリースタイルのものがある。表紙などの外装ラフィン Serafin AIvarez Quintero ( 天七一ー まきえ 材工業、木材輸出の大中心地となった。北洋航 一九三 0 、弟ホアキン joaquin AIvarez Quinte- は、蒔絵を施した高級品から紙レザーの格安品 ro ( 天七三 ー一九四四 ) ともにスペインの劇作家。路 ( 一九三二年開発 ) 、漁業の中心でもある。 まであるが、おもな材質は革、布、布クロス、 布レザー、ビニルなどである。以前は厚い台紙セビーリヤ県出身。数多い作品はみな共著とな木工、医科、教育の各大学、航海専門学校、民 のものが多かったが、近年は薄いものが増えてっている。若いころから喜劇的な小品を書き、家博物館、造形美術館などの教育・文化施設が のり 〈中村泰三〉 きている。一般の台紙は、写真などを糊またはおもに故郷アンダルシアを主題にして、方言をある。 コーナーを用いて貼るが、現在では台紙に特殊ふんだんに用い、品のよい冗談を交えた陽気でアルハンフラと hambra スペインのグ 軽やかで生き生きした対話のなかに、光にあふラナダにある中世イスラム建築の遺構。洗練さ すべての人の子の母親という自覚にまで高めら接着剤を塗布し、それを覆う塩化ビニルとの間 に写真を挟むだけで確実に押さえ込めるようにれた色彩豊かな郷土をみごとに描き出しておれた華麗な美しさで世界的に有名。小高い船形 れて、子の生命を神の御手にゆだねる。無垢の とりで ようせい まま夭逝する子供を、むしろ幸福とする考え方なったフリーアルバムの方式がほとんどであり、この地方の風俗描写ではもっとも優れた作の丘サビーカの上にあり、元来は砦、王宮、浴 じよう一い 〈野沢松男〉家である。人生に対する素朴な喜びと楽天的な場、モスクなどを城壁で囲んだ城塞都市であ がうかがわれ、子供を失った親たちを大いに慰る。 思想が作品の底流になっているが、その半面でった。アルハンプラの語源は、赤を意味するア 〈山室静〉ア めた作で、非常に好評だった。 ルバ・ユーリア Alba lulia ルーマ しつくい ル・ハムラであり、城壁に塗られた赤い漆食の 深みの欠如が指摘されている。両者ともマドリ ニア中部、アルバ県の県庁所在地。トランシル アル。ハマヨ山ーーさん Nevado AIpama- ードで死去。主要作品として『中庭』 ( 一九 (1) 、色に由来している。イスラム最後の王朝ナスル ハニア台地西部にあり、人口五万〇九〇〇 ( 一九 yo 南アメリカ、ベルーのプランカ山脈北部 せいろく

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ス・ドルスス兄弟などがゲルマニア遠征中、ロ には南ドイツ随一の商工業都市として繁栄し都市アウグスタ・ウインデリコルム Augusta 年商業会議所が設立された。国民経済学者で鉄 ーマ市およびイタリアの行政整備に努め、ロー た。町の基礎は、古代ローマ人によってベルタ Vindelicorum が建設されたのが市の起源であ道建設の先駆者リストは『アルゲマイネ・ツア マ市長官の任命、消防隊の設置、ローマ市の行 イトウンク』紙の協力者として来住し、主著 ノ川左岸につくられ、現在の中心街であるマクる。中世初め司教座が置かれ、司教ウルリヒは 政区画の再編などを行った。前一二年には、レ ー一世と協力してマジャール人の侵攻を『経済学の国民的体系』を完成した。一、 シミリアン通りはかって商人町が成立した地でオット じんぎ ピドウスの死後、大神祇官長となり、ローマのある。その後、レッヒ川沿いの低地にも市街地防ぎ ( 九璧 ) 、司教都市の基礎を築いた。古くか年最後のドイツ連邦議会がホテル「ドライ・モ らドイツとイタリアを結ぶ交通の要地で、一一 ーレン」で開かれ、解散を決議した。一八四〇 宗教上の最高の地位を得た。以後、大神祇官長が拡大し、運河がつくられ、そこでの水車を利 の職は皇帝たちの専有物となった。前二年には用して、製粉、鍛鉄などの工業が発達した。一世紀には商人の町並みが発展し ( 一一五六年最年設立の機械工場 ( 現在のアウクスプルク・ニ 国父の栄誉称号を与えられた。アウグストウス時衰退したが、一九世紀になって、水力タービ 初の都市法 ) 、一三世紀後半に司教の権限が大ュルンベルク機械工場日 ) で九七年ディ の政権が安定すると、彼の後継者が問題となっ ーゼル機関が完成した。一九一〇年には人口が ンを利用した紡績、織物や機械工業を興し復活幅に市民に委譲されて自治が前進し、一三一五 た。まず、ひとり娘ュリアの夫たち、甥のマル した。今日ではほかに自動車、電子工業なども年帝国都市になった。一三六八年から一八〇年一〇万を超えた。第二次世界大戦中、一九四四 ケルス、有能な部下のアグリッパが後継者に擬発達している。 、都市貴族に対してツンフト ( 同職ギルド ) 年の空襲と四五年の戦闘によって大きな被害を 〈諸田實〉 された。ついでアグリッパとユリアとの息子、 文化の中心地でもあり、画家・ホルバイン の市政参加が実現した。一五、一六世紀には地受けた。 どうめいせ ガイウスとルキウスの兄弟が養子とされたが若 父子、この地の都市計画に従事し市役所をつく中海貿易の中心地・ヘネチアとの商業、バルヘンアウクスプルク同盟戦争 せんそう んそう 0 プファルツ戦争 死にした。最後に、やはりュリアの夫であった った建築家・ホルなど多くの文化人を輩出し ト織と金属工芸、チロル地方の銀と銅の採掘・ テイベリウスを養子とし、後継者とした。 た。市内には、ルネサンス様式の市役所、青銅精錬・販売、金融業などの経済活動が大いに栄アウクスプルクの和議ーーのわぎドイ アウグストウスは紀元後一四年八月一九日、 の戸で有名なドーム、フッガー家の住居、フッ え、「黄金のアウクスプルク」とよばれた。人ツの宗教改革問題をめぐって起こったカトリッ イタリアのノラの町で病没した。彼は死後に神ガライ住区 ( フッガー家による世界最初の貧民ロは一五五〇年三万二〇〇〇、一六一二年四万クとプロテスタントとの対立を収拾するための とされた。遺書とともに、自らの治績を記録し救済住宅地区 ) など、長い伝統を示す歴史的建六〇〇〇。フッガー家やウエルザー家をはじめ法令。一五五五年のアウクスプルク Augs ・ burg 帝国議会で決定され、同年九月二五日に た『業績録』を作成して残しており、碑文とし造物が多い。市の南西部の公園には、かってこ多数の巨商が輩出し、その活動は全ヨーロッ 公布された。これによってルター派はカトリッ て現存している。 こに住んだディーゼル機関の発明者・ディー 、新大陸にも及んだ。宗教改革期には帝国議 クと並んで公認されることになったが、「支配 〔アウグストウスの時代〕アウグストウスの時ゼルの記念碑が、日本人によって建てられてい 会が何度も開かれ、ルター派を公認したアウク 〈石井英也〉 スプルクの宗教和議 ( 一五五五 ) もここで締結され者の宗教がその領内で行われる」との原則に示 代は、文化面ではローマ文学史上の最盛期でもる。 商業革命の影響を受けて世界商業の分野か されるように、宗派の選択権をもつのは諸侯だ あった。散文では、ローマの建国以来の歴史を〔歴史〕紀元前一五年に設けられたローマの軍た。 著したリウイウスが知られる。ラテン詩は、ア団の屯営跡に、紀元後一〇 ~ 三〇年ごろローマら後退したが、一八世紀には新興のキャリコ捺けであり、それとは異なる宗派の信仰を守ろう せん 染業の中心地となっ とする住民には、その領内から立ち去る自由が ウグストウスの側近マエケナスなどの有力者の た。「ドイツのキャリ 認められただけであった。また大司教や司教ら 保護下に黄金時代を迎え、大詩人が輩出した。 コ王」シューレはそのの宗教諸侯がルター派に改宗する場合には、そ ローマ建国神話を題材とした『アエネイス』を 著したウエルギリウスや、ホラテイウス、プロ 代表である。ロココ建の地位を失い、その所領はカトリック側に留保 こよってド 築の傑作シェッラー邸されることになっていた。この和議。 ベルテイウス、テイプルス、オウイデイウスな 前 の新築祝いはフランスイツの宗教的対立からくる紛争はいちおう解決 〈島田誠〉 どが代表である。 並る 手 されたが、カルバン派などルター派以外のプロ 王室へ嫁ぐマリ・アン 右 回スウェートーニウス著、角南一郎訳『ローマ 所がし トアネットの歓迎舞踏テスタントを認めず、カトリック側にやや有利 皇帝伝上』 ( 一九七四・社会思想社 ) ▽・マ . 亠役物残 な内容をもっ妥協的な解決策は、やがて三十年 イヤー著、鈴木一州訳『ローマ人の国家と国 咢市造を会であった。一八〇六 〈中村賢一一郎〉 年、神聖ローマ帝国の戦争の勃発を招く因となった。 は的か 家思想』 ( 一九天・岩波書店 ) ▽弓削達著『ロ に史も さん Nevado Au ・ ーマ帝国の国家と社会』 ( 一九六四・岩波書店 ) 解体によりバイエルンアウサンカテ山 歴お 通のた ▽弓削達著『ローマ帝国論』 ( 一九六六・吉川弘 王国に編入され、産業 sangate 南アメリカ、ベルー南東部、アンデ ンどし アな展革命期には綿工業が発ス山系コルディエラ・オリエンタル山脈中の高 文館 ) ▽弓削達著『地中海世界とローマ帝 ミ方て展した。一八三七年機峰。標高六三九四。アルテイプラノ高原の北 国』 ( 一九七七・岩波書店 ) ▽国原吉之助著『皇 シ上し 械綿紡織株式会社 ( 三縁をなす力ラバヤ山脈の北方延長に位置する。 帝アウグストウスと詩人たち』 ( 『ギリシア・ ク左と マ , 市 ローマの神と人間』一九七九・東海大学出版会・ 街塔都万紡錘、織機八〇〇先カンプリア時代の変成岩類よりなる。ウルバ 心聖業台、資本金一二〇万グンバ川の上流、ビルカノタ川の深い谷を隔てた 所収 ) 中大商 の ( のルデン、年産一〇万西北西八五キロには、ベルー・アンデスの中心都 アウクスプルク Augsburg 西ドイツ南 市ム一 一随反。現在のアウクスプ市クスコがある。付近の雪線高度はベルー北部 部、バイエルン州にある都市。アルプスから北 クドッ ルク機械綿紡織株式会より高く、五八〇〇程度である。〈松本栄次〉 ルっイ ゅ・流するレッヒ川とベルタハ川の合流点に位置す プもド 土 =co><) が設立さアウシュウィッン Auschwitz ポーラ しる。人口二四万六六〇〇 ( 一九〈 0 ) 。鉄道が敷か ゞスを南ネ ク塔てれ、四〇年ミュンヘン ンド南部、クラクフ県の都市。第二次世界大戦 、フれてから以後は、ミュンヘンの発達で相対的な ウ尖っ アやか との鉄道が開通、四一一中、ユダヤ人強制収容所があったことで知られ 8 あ地位の低下は否めないが、かって、とくに中世 女 なっ ばつばっ

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どんしよく を主とし、とくに「予科練」 ( 海軍飛行予科練類、エビ・カニ類、貝類などを貪食する。冬 網あみ鳥獣や水産動植物などを捕獲、採集 習生 ) の養成で有名。軍事施設は、戦後茨城大には水底の泥の中に体を入れて仮死状態で過ご する目的で糸などの繊維を編んだもの。粗い茎 しよう あま 学農学部、陸上自衛隊武器学校、同補給廠のほす。繁殖期は春で、雄は水草が茂った岸辺近く 皮繊維でつくった目の粗い網地は海女のスカリ だえん に、長径六〇弩、短径四〇弩ぐらいの楕円形の ( 獲物入れ ) や弁当入れ、砥石入れなどの袋状 存か、病院、工場、住宅地となった。農業が盛ん 穴を掘って巣をつくる。巣に近づいた雌の体を 遺でラッカセイは県内第二位、サツマイモ、レン の容器類に用いられてきた。しかし網は魚や鳥 ふん れ コンも多い。食品、機械工業も発達した。国鉄吻でつつき、巣の中に二万 ~ 七万個の卵を産ま をとる道具としてもっとも発達した。捕鳥法に ・十 6 じようばん 幻常磐線荒川沖駅に近く、東京通勤者も増加しす。七 ~ 一〇日ぐらいで卵から孵化した仔魚 用いられる網には、渡りの途中の小鳥や、とき は、ロの前にある吸盤で巣の壁に吸着する。雄 〈櫻井明俊〉 石ている。人口三万三七二一。 にキジ、カモなどをとるため、鳥の通過する尾 たまっくり 囮五万分の一地形図「土浦」「玉造」「竜ヶ崎」は、産卵後から幼魚が一〇弩ぐらいに成長する 根などに渡すかすみ網、鳥がかかるとたるんで 〈落合明〉 まで、卵や幼魚を保護する。 ア = 、ア bowfin, mudfish 、、、 c ミき 包んでしまう張切網、鳥が寄ってくると、速や 生 むそう 硬骨魚綱アミア目アミア科に属する淡水魚。体アミアン Amiens フランス北東部、ソン かに引き起こしてかぶせとる無双網、飛び立っ ・一うりん ア さで は硬鱗で覆われ、頭の下面に一枚の板状の骨ム県の県都。人口一三万五九九二、大都市域人 鳥をねらう叉手網、潜んでいる鳥にかぶせる投 ・一うばん ア 口一五万二九九七 ( 一九七五 ) 。 ( 喉板 ) がある。うきぶくろは不完全に左右二 げ網、突き網などがある。現在、野鳥保護のた ハリとフランス北部地方の中間にあり、古くか 室に分かれ、肺の構造をなしている。体色は緑 めかすみ網などは法で禁じられているが、その地方の行成網など地方名が多い。↓網漁具↓ 〈野口武徳〉褐色で、暗色の流れ紋がある。全長は九〇余らピカルディー地方の中心で、ソンム川に沿 珍しい仕掛けと野鳥の味が人気をよんで、使用漁網 いなしき う。県庁、控訴院が存在することから行政都市 り。この類は下等な硬骨魚類であり、古生代か する業者が跡を絶たない。↓網猟↓編む 阿見 ( 町 ) あみ ( まち ) 茨城県南部、稲敷郡に としての性格が強く、司教区があることから宗 ある町。一九四五年 ( 昭和二〇 ) 町制施行。五ら中生代にかけて多くの種類が生存していた 網漁は、釣漁とともに漁法の中心をなしてい ふなしま きみはら る。中世ことに室町末期ごろから、各種の網を五年朝日、君原の二村と合併、同年舟島村を編が、本種を除くすべての種類が絶滅してしまっ教関係の諸施設も多い。大学が創設されて第三 た。ガーパイク類と近縁であり、ともに「生き次産業機能も充実している。織物・衣料工業 使用した漁業が出現した。江戸期に入ると、都入。町名は、古くからの中心集落の阿見によ かすみ 綿、絹、羊毛、麻、既製服、靴下 た化石」とよばれている。現在では北アメリカ ( ビロード、 市の発達や農業技術の進展による肥料用の魚類る。霞ヶ浦に臨む低地と、広大な台地をもち、 夏は県内でも暑い所である。国道一二五号が走の五大湖、ミシシッピ水系に分布し、止水状態など ) は中世からの特産品であり、機械、電気 の需要が高まり、漁業は急速に発達し、ことに 網漁の発達は著しく、漁法のなかでも中心的なる。土浦市に接し、一九一三年 ( 大正一一 ) 霞で酸素が少なく、濁った所でも生息する。これ器具、タイヤ、食料品、印刷、染物の各工業も は肺で空中の酸素を取り込むことができるため加わって工業業種が多様化し、工業化が人口増 ヶ浦海軍航空隊が置かれて以来、航空基地とし 位置を占め、今日の基本的な網漁の祖型はほば 出そろったと考えられる。また網漁は明治以後て発展、第二次世界大戦まではバイロット養成である。夏は夜間に盛んに活動し、魚類、両生加を引き起こした。農産物の集産地であり、旧 の綿糸紡績工業の発達によって著しく進歩し、 あぐり きようじん 代の後層ら採 をつ紀中かを さらに軽くて強靱な化学繊維の出現は揚繰網 ク三世にこ式 などの規模をいっそう大きいものにした。 かこ方 ほ , 新 シ面は 漁網の種類は豊富であるが、使用形態から次 ゴ正群のてる すくいあみ 期西刻層けれ のように分類できる。①抄網類枠で網の周 堂盛の彫窓あ入 聖ス堂る流高をー 囲を支え、魚類をすくい上げるもの。掩網類 大ン聖飾源は窓取る ンラ大をの部にをい 水上から魚類にかぶせるもの。投網はこの代 アフるロ式内面線て 表である。③巻 ( 旋 ) 網類おもに海の表層の ミ〕す関様〕壁光し 、一。ア阯表玄期ぼのも用 魚群を囲み、船側に繰り寄せて捕獲するもの。 巾着網や揚繰網はこの形の進歩したもの。 引網類魚群を包囲し、岸あるいは船に引き寄 せて捕獲するもの。地引網と船引網とに分か うき れ、船引網には浮引網と底引網の別がある。愛 媛県宇和地方で行われるイワシ船引網は浮引網 の一種であり、トロール漁は底引網の進歩した もの。⑤敷網類水中に網を敷き、その上に集 まる魚群をすくい上げるもの。⑥刺網類魚そ の他の海棲動物を網目にかけて捕獲するもの。 浮刺網、底刺網の別がある。海の表層に張り、 ん潮流に漂わせる流し網もこの類である。⑦建網 あ類魚群の来遊する場所に網を定設して捕獲す み・るもの。一般に定置網とよばれる。長崎地方の だい要う あ大敷網、東北地方の太平洋岸の大課網、北海道 きんちゃく ひき おおしき しき はりキ一り まき かぶせ ンー ゆきなり ー物当 ・ : すまま " す 41 ト材 しぎよ 559

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などのような著しいものが認められなくなる。 と西部止陵地の酪農、畜産、畑作 ( 小麦、イン の権力が確立するに伴って、フランスでは一五り置換するアセチル化と、べンゾイル基 C6H5 へんべいれき しかし扁平礫に赤色の縞模様をめぐらせた彩礫 ゲンマメ、アズキ、テンサイ ) と山地の林業が三九年、イギリスでは一六二四年、ドイツでは CO- により置換するべンゾイル化である。 め は有名である。氷河時代の終わる一万年前ごろ アシル化に用いる試薬をアシル化剤といい 基幹産業。東部の阿寒国立公園区域には、雌阿一八世紀末に消滅した。未開民族の間では今日 さんろく に年代づけられ、狩猟した動物がトナカイから 〈佐藤篤士〉酸塩化物、酸無水物、ケテンが用いられる。比 寒缶山麓にオンネトー湖の景勝地と雌阿寒温泉でもこの制度がみられる。 っしま 〈山中一郎〉 シカに変わっている。 〈古川史郎〉 日本では、古く対馬に原始的アジールの存在較的反応が容易に進む Z ーアシル化などにはカ がある。人口一万二六六七。 みさき Ras Asir アフリ したことが知られるほかは、アジールの制は鎌ルポン酸を用いることもある。 〈廣田穣〉アシール岬 回『足寄町史』 ( 一九七三・足寄町 ) おびひろ ーーき acyl group カルポン酸カ大陸最北東端のインド洋に突出する岬。ソマ 二〇万分の一地勢図「北見」「帯広」 倉時代以後、仏教寺院において発達した。ことアシル基 リア北東端の北緯一一度四八分、東経五一度一 に室町末期ごろから戦国時代にかけて、寺院ア RCOOH ( は炭化水素基 ) のカルポキシル アシール Asir サウジアラビア南西部の ジールの制は発達したようである。もっとも、基 -COOH から OH を除いた残りの原子団一分に位置する。ガルダフィ Guardafui 岬と 紅海に面する地方。北はヒジャーズ地方、南は イエメン・アラブ共和国 ( 北イエメン ) に接すべての寺院がその特権を有していたわけでは RCO- の総称。が芳香族残基の場合は、一もよばれ、古代にはアロマタ Aromata 岬と き一つま ばだいじ いわれた。アデン湾の南の入口にあたり、灯台 し、南北約三二〇キ。、東西約二八〇キ。で、中心 なく、分国の国主の菩提寺 ( たとえば薩摩の島般にアロイル基ということもある。代表的なア ふくしようじ がある。 〈堀信行〉 地はアブハ。紅海沿岸の乾燥した不毛な海岸平津家の菩提寺福昌寺 ) など、とくに国主と関シル基の例を表に示す。アセチル基、べンゾイ 野と、紅海側に急傾斜する標高二〇〇〇 ~ 三〇係の深いものにこの特権が認められることが多ル基は略号で記されることもある。分子内に力安代 ( 町 ) あしろ ( ちょう ) 岩手県北西部、一一 〇〇の山地からなる。山地では雨量も多く農かった。対象は主として、犯罪人と逃亡した下ルポキシル基を二個もっジカルポン酸から誘導戸郡にある町。青森、秋田両県に隣接。一九五 たやま 六年 ( 昭和三一 ) 荒沢、田山の二村が合併して される二価のアシル基にも重要なものが多い 耕に適し、ナツメヤシ、キビ、小麦などを産すである。しかし、分国内の政治的統一が強化 町制施行。中央部を走る奥羽山脈を分水嶺とし されるにしたがって、アジールの特権も国主な る。政府はこの地方の農業を重視し、ワーディ 酸酸 よねしろ あっぴ とよとみ て、西方に米代川、東方に安比川が流れ、町名 ジザンとアブハを中心に灌漑計画に着手してい どによって否定された。織田信長や豊臣秀吉も ン オリ酸酸酸 ーレ ピアウク香 も両河川に由来する。国鉄花輪線が通じる。東 この政策を踏襲した。江戸幕府も同じ方針をと る。海岸平野と内陸山地との生活様式は異な はちのヘ タ ル酸酸ロテュ 北自動車道青森・八戸線の分岐点安代インター ったので、江戸時代には前記の意味のアジール り、山岳部の孤立した地域では部族制度が残っ フ カギ酢プスシコ安 えんきりでら チェンジの設置と結び付いて、安比高原スキー ている。 〈片倉もとこ〉 は一般的になくなったが、縁切寺 ( 東慶寺、満 なごり レ 場がオープンし、ホテル、観光農園などを中心 ニ′ 4 ルル アジール AsyI 犯罪人や奴隷などが過徳寺など ) の制はその名残と考えられる。↓縁 ルルオロ とした企業が発足。農林業が主体で肉牛、高冷 〈石井良助〉 酷な侵害や報復から免れるために逃げ込んで保切寺 ロ ミチピアサシゾ タ 地野菜の生産、山菜加工などが盛ん。リンドウ 称ルセロテキクン 護を受ける場所のこと。ギリシア語の asylos 回平泉澄著『中世に於ける社寺と社会との関 フ 名ホアプスオスペ の栽培は県内一を誇っている。近くに田山スキ 係』 ( 一九一一六・至文堂 ) ( 害されない、神聖不可侵の意 ) に由来する。 ー場がある。また、民俗学的にも貴重な資料で か acylation 有機化合物中基 国家刑罰権がまだ組織的、体系的に確立していアシル化 めくらごよみ レ ある「田山盲暦」があり、木版が残っている。 なかった前近代では、ほとんどの社会でみられの水素原子をアシル基 RCO- で置換する反応 〈川本忠平〉 3 人口八七一四。 た制度である。本来この制度は、聖域に入ったをいう。置換を受ける水素原子がついている原ア ーうとく ふくしゅう 田五万分の一地形図「花屋」 者に害を加える ( 復讐する ) ことは神を「目漬子の種類により、 z ーアシル化、 O ーアシル化、 式新 35 網代あじろ鳥取県東部、 ~ 石美郡岩美町の するものという原始宗教観念に基づいていた。 いわみ ぎやくたい 一地区。旧網代村。近世初期石見 ( 島根県 ) の 古代ギリシアでは、神殿は虐待を受けた奴隷 命名法は、もとになるカルポン酸の名称の語漁民が開村し、現在は機船底引網漁業の中心地 や犯罪人、債務者を保護する場所とされ、神殿 うらどめ 尾 -oic acid を -oyl に変える。カルポン酸のである。山陰海岸国立公園に属す浦富海岸の遊 に逃れて神の保護に入った者を取り戻したり、 O 工 名称は慣用名が多いので、以前は慣用名の語尾覧船の発着地。↓岩美 ( 町 ) これに制裁を加えることは宗教的罪と考えられ のがれのまち をに変えたこともあったが、これは相当網代あじろ網漁具の一種で、網の代わり た。ユダヤ民族でも、モーゼが六つの逃遁邑を するアルキル基 CnH + 】ーと混同されるので、 の意。日本古来の漁具で、江戸時代ごろまでは 設けて、過って人を殺害した者を一定期間保護 かすみ ^ 佐藤武雄〉各地で使用されていたが、現在ではおもに霞ヶ 現在では改められている。 したことが伝えられている。アジールはゲルマ例 0 のヒ訳酸 ぶんか Azilien フラ イ酸 浦や北浦方面で、コイ、フナ、セイゴ ( スズキ アジール文化 しレ亠・・レ レ ン民族にもみられるが、古代ローマでは、専制応 / 十 の幼魚 ) 、ボラなどの漁獲に使用されている。 ンス南西部、ピレネー地方のマス・ダジル Le 君主政時代になった四世紀に、キリスト教会が 反シンシル、、ル 族化 ア 化ア Z ミアコノ 香炭 Mas d'Azil 遺跡を標準遺跡とする晩期旧石器魚の通路を遮るように、浅瀬から深みに向かっ 皇帝の勅令によりアジールとして認められ、こ Z に O カまフ O 芳 時代文化。フランスからスペインにかけて分布て木や竹などの杭を立て、それに沿って魚を誘 れがローマ帝国滅亡後のゲルマン人諸国家に継シ するが、石器組成の違いに地域差が大きく認め導する垣網を張り、その先端に魚が逃げにくい 承された。中世の封建社会になると、教権と世 だえん ように楕円形の囲い網を取り付ける。垣網や囲 (J) ーアシル化などとよばれることがある。芳香られる。石器製作の伝統は後期旧石器時代から 俗的権力の対抗のなかでアジールの数は増加 ばしそうき い網には数個の袋網をつけて、この中に魚を誘 し、教会や修道院ばかりでなく、渡船場、水車族炭化水素の炭素原子に結合している水素を、継続する。特徴的な石器は拇指状掻器とアジー ゅう・」うもり やかた い入れ、朝夕、小舟でこの袋網を引き上げて漁 ル型小型ナイフ形石器である。特色ある有孔銛 小屋、領主の館などに逃げ込んだときは私的なアシル基で置換するアシル化反応はフリーデ がつくられているが、骨角器は一般的に乏し獲する。また、網代には別の意味があり、東 ろ復讐が禁じられ、裁判で和解する手段がとられルークラフッ反応とよばれ、有機合成によく利 北、北海道方面では、定置網漁場の意味に用い つくりも粗くなっている。また美術作品で じるようになった。教会はこの特権を利用して権用される重要な反応である。アシル化のうちでく、 どうくっ も、後期旧石器時代を中心にみられた洞絵画られ、またいつも魚群が集まっているような場 3 あ力の拡大を図ったが、一六世紀以降、絶対君主とくに重要なのは、アセチル基 CH3CO- によ ・・んがい 塩化アルミニウム AlC13 芳香族ケント

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だえん み・は互生し、楕円形または倒卵形、長さ五 ~ 一〇究にあ 0 たが、総じてギリシアの古典や教父た学者が召し抱えられており、技術的問題には関た。一九世紀後半には鉄鋼や化学工業の独占が 」 ~ ' で全縁。厚い革質で裏面に茶褐色の毛が多ちの著作を詳細に検討する文献学が主流であ心が薄か 0 たが、パリの科学アカデミーは王か形成され、一八八七年にはジーメンス we 「 ne 「 ら依頼された技術的問題を研究し、諮問する義 von Siemens の寄付を基金に国立物理化学研 、。六月に小さい白色花が開き、果実は楕円形り、これが近代の科学者によって批判されるこ おがさわら 究所が設立され、一九一一年にはカイザー・ウ 務を負っていた。 で九月に黒紫色に熟し、光沢がある。小笠原諸とになった。 とから あ 島、沖縄、吐鳴喇列島、中国南部からインド、 〔近代〕市民社会の形成される一六 ~ 一七世〔産業革命期〕一八世紀後半から一九世紀前半イルヘルム協会がつくられ、その下に多くの研 究所が設立された。ドイツは高等教育機関や研 マレーシア、ミクロネシア、ポリネシアにかけ 紀、職人や商人たちは実証的で数学的な科学をにかけて、イギリスは産業革命を迎えて、フラ ンスは市民革命を経過し、プロイセンはナポレ究所を国家管理し、それが化学戦といわれる第 ての海岸の林内に分布し、防風、防潮用に植え必要とし、知識人たちによって興されつつあっ る。 〈小林義雄〉た近代科学を支持した。ヨーロッパの主要都市オン軍に敗北したことをきっかけに改革が進め一次世界大戦における高水準の軍事技術の源と られ、ドイツ国内二百数十もの領邦を超えた国なった。ちなみに毒ガスはカイザー・ウイルへ academy 広くは、高等教育には自然科学の研究組織が数多く生まれた。も アカデミー ルム協会物理化学研究所が開発した。 民意識が芽生えるなど、各国とも大きな変化が っとも早かったのはイタリアで、アカデミア・ 機関や、科学・芸術などの専門教育機関、ある ~ 六五 ) に多くの アメリカでは南北戦争 ( 一会一 セクレトルム・ナチュラエ Academia Secret0- あり、社会における科学のあり方、「アカデミ いは科学・芸術の専門家の団体としての学会、 ー」のあり方も変化してきた。 新技術が大規模に導入されたことが契機とな rum Naturae ( 一契 0 年代、ナポリ ) や、ガリ 協会、研究所などをさして使われる。狭くは、 イギリスでは産業資本家の台頭とともに、技り、一八六三年、「科学技術に関するすべての 科学・芸術などの諸分野の振興のために政府に レイが活躍したアカデミア・ディ・リンチェイ 問題について政府の要求にこたえて、研究、調 よって設立、庇護され、運営されている国家的 Academia dei Lincei ( 一六 0 三、ローマ ) 、実験術的課題を追究する研究組織がつくられた。有 機関をさすことがある。ここでは広い意味での研究を重視したアカデミア・デル・チメント名なものに、ワットが活躍したルナ・ソサイア査、実験、報告を行う」ことを任務とする国立 ティ ( 一七六 0 ころ ーミンガム ) 、ドルトンが活科学アカデミーが設立された。しかしアメリカ アカデミーの歴史的発展を、自然科学と技術を Academia del Ciment0 ( 一六五七、フィレンツ では、企業による研究所やロックフェラー財団 工 ) などがそれである。 躍したマンチェスター文学哲学協会 ( 一天 D 、 中心に概観する。 ランフォード、デービー、ファラデーらが所属の大学への投資にみられるように、独占資本に 一七世紀、近代科学の中心はしだいにイギリ 〔古代〕「アカデミー」の語源は、ギリシアの よる研究管理が中心で、国家の役割はドイツに プラトンが紀元前三八五年ごろ設立した学園アスとフランスに移った。イギリスで先駆的な役した王立研究所 ( 一七究 ) などがある。 フランスでは一七世紀以降、政府が科学や技比べて小さかった。 カデメイア Akademeia に由来する。この学割を果たしたのは、・グレシャムの遺言でつ 明治維新を経た日本は、先進列強に追い付く くられたグレシャム・カレッジ ( 一夭 0 年代 ) で術を援助してきたが、一七九二年九月、共和国 園は、アテネの城壁外、アカデモスという半神 まっ を祀る地につくられたためその名がついた。こあった。この学校は商人が管理し、市民は無料成立が宣言され、旧体制の諸制度が廃止されために富国強兵、殖産興業の政策をとり、その ためにも学問、教育での大改革を必要とした。 こでは実用的な知識ではなく、哲学者や政治家で英語での講義を受け、また自然科学が実際のた。科学アカデミーも廃止され、ラボアジェも になるための原理的な知識を教えた。これと並仕事と結合されて教えられた。そしてこの公開元徴税官であったという理由で処刑された。し高等教育機関としては一八七七年 ( 明治一〇 ) 官立の東京大学が誕生、ここでは実用主義を中 一六六二年、かし革命を推進したプルジョアジーの多数は共 んでアリストテレスが創設したリケイオンが有講義に集まった人たちを中心に、 和国建設のためには科学と技術が必要であるこ 心理念に、日本の近代化に役だつ人材の育成に 名である。最初の国立の研究所は、前三世紀初王室の特許状を得て、王立協会 Royal SocietY 努めた。八六年には、法・エ・文・理・医の各 とに気づき、高等教育機関としてのエコール・ めにアレクサンドリアに設立されたムセイオン が創設され、機関誌 P 、 OS c ミ T ミミ s ミ、ミ s ポリテクニクをつくり ( 一七九四 ) 、科学アカデミ分科大学と大学院をもっ帝国大学に改組された で、約一〇〇人の教授が国家に雇われ、ヘレ一一も刊行された。会員にはポイル、フック、ニュ すよう ーも復活させた ( 一七九五 ) 。エコール・ポリテク が、その目的は「国家ノ須要ニ応スル」学術研 ートン、ハリーらの科学者がおり、ニュートン ズム時代の学問研究の中心となった。 ニクは技術学校でありながら多くの優秀な科学 究と人材の養成にあった。民間では福沢諭吉の 〔中世〕ヨーロッパ中世を特徴づける「アカデ の『プリンキピア』 P 一 os ミ ~ ミミミ新 s にいじまじよう ミー」は学院と大学である。学院 ( スコラ p 、 ~ ミきミミ ~ き、 ( 一天七 ) で最盛期に達者を輩出し、第一級の物理学者や数学者がこれ慶応義塾 ( 天五 0 、新島襄の同志社 ( 天七五 ) 、 おおくましげのぶ わせだ にかかわった。しかしこの勢いも一八三〇年代大隈重信の東京専門学校 ( 一会三。早稲田大学の schola) は八世紀にフランク王国のカール大帝した。フランスでは、ロベルバル Gilles には衰退した。 前身 ) などが創立され、官立大学に対抗して、 ( 在位七六八 ~ 八一三 ) がつくり、以降ヨーロッパ全 Personne de R0berval ( 一六 0 = ー七五 ) やガッサ 〔一九世紀〕一九世紀に科学・技術の急速な発創立者の思想を強く反映させながら特色ある教 体に広がった。ここでは文法、修辞学、弁証ンディらが活躍したコレージュ・ド・フランス ( 一五一 0 を経て、一六六六年バリに科学アカデ展をみせたのはドイツであった。一八〇九年べ育を行った。七九年には文部省によって東京学 法、音楽、算術、幾何、天文の七科 ( これをリ ルリン大学が創立され、純粋な学問が強調され士会院が設立されたが、単なる政府の諮問機関 べラル・アーツ liberal arts とよぶ ) が必修ミー Académie des Sciences が創設された。 る一方、一一一年にはベルリン実業学校がつくらで、範とした先進国のアカデミーとは大きく隔 とされ、官吏や司祭になるための職業教育が行会員は二〇名で国王から俸給を支給された。イ われた。学院の教育に満足せず、より高度な学ギリス、フランスのアカデミーの会員であったれ、その後もドイツ各地に工科大学が設立されたっていた。一九〇六年 ( 明治三九 ) 学士会院 ドイツ人ライプニツツは、両国のアカデミー同て、ドイツの工学の水準を引き上げた。伝統的は帝国学士院 ( 一九四七年日本学士院に改組 ) とな 問をしようとする人々によって、一二 ~ り、独自活動として、一〇年に皇室の下賜金に 紀を頂点として、たとえばイタリアのポロー一一様の組織をヨーロッパ各地に普及しようと努な大学に正規に科学の課程を採用したのもドイ みつびし ツで、二四年にはギーセン大学がリービヒの化 よる恩賜賞を、翌年には三井、三菱の寄付金に バリ、モンめ、その結果、プロイセンのベルリン ( 一七 00 ) 、 ヤ、サレルノ、ナポリ、フランスの ペリエ、イギリスのオックスフォードなどに大口シアのペテルプルグ ( 一七一一五 ) にアカデミーが学実験室を設けた。一三年には全国的な科学のよる学士院賞を制定したほか、財閥の寄付によ つくられ、一八世紀終わりにはヨーロツ。ハの大振興と科学者の交流を目的としたドイツ自然科る研究費補助も開始した。一八七〇年代から医 学が創設された。大学を意味するラテン語ゥニ 学研究者会議が組織された。これはその後のイ学会、東京数学会社、化学会、工学会など個別 ウエルシタス universitas は、もともと「組半の国が科学アカデミーをもつようになった。 合」「協会」を表すことばで、ポローニヤ大学この時代、イギリスの王立協会の場合は、科学ギリス科学振興協会 ( 一会 l) 、全イタリア科学の専門学会が相次いで誕生した。 〔ニ〇世紀〕第一次世界大戦でのドイツの軍事 などでは学生が組合を形成して教師を雇う方式者のほか医者や商人、貴族の科学愛好者たちの協会 ( 天三九 ) 、アメリカ科学振興協会 ( 一会 0 、 をとった。大学の目標は、より高度な真理の探組織であった。他の国の場合、王室によって科フランス科学者協会 ( 天七 = ) などの先駆となっ力の背景にあった科学・技術の水準の高さは対 140

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トアーヌ劇場を主宰し、一九〇六年に国立オデアントウエルペン Antwerpen ベルギる。州都以外の小都市では、肥料、染料、爆い ÅJ 斑線維束の疾患によっておこる。そのほか、注 視点の付近にある暗点を副中心暗点、中心部とオン座の座長として活動するが成功に至らず、 ー北部、アントウエルペン州の州都、港湾都薬、電気機械、自動車組立て、じゅうたん、洋 9 ん 〈川上多美子〉 品雑貨製造業がある。 あ周辺部の視野が残 0 ていて、その中間に輪状のしだいに実際活動から離れ、晩年は劇評家とし市。アントウエルペンはオランダ語名で、フラ 〔歴史〕七世紀以来、メロビング朝フランク王 視野欠損がみられるものを輪状暗点という。まて名を残した。↓自由劇場運動〈加藤新吉〉 ンス語名はアンベルス Anvers 、英語名はア た、視野検査で検査視標のまったく見えない暗回斎藤一寛著『舞台の鬼アントワーヌーーフラ ントワープ Antwerp である。人口一九万四国の四分邦国の一つであるアウストラシアに属 点を絶対暗点、視標が不鮮明にばけて見え、あ ンス自由劇場の歩み』 ( 一九六一一・早稲田大学出〇七三 ( 一突 0 ) 。人口集中地区よりやや広いアしていたが、以後フランク王国、ロタリンギア 王国に編入され、 八二 ~ 八九一年のノルマン ントウエルペン郡で九二万五〇六六 ( 一突 0 ) 。 るいは色視標では異なった色に見える暗点を比 版部 ) 較暗点という。↓盲点 征服後、一〇世紀に神聖ローマ帝国の支配下に ベルギー第二の都市である。北海より約九〇キ。 〈太田安雄〉安東あんとう / アンドン大韓民国、慶尚北 道にある都市。一九六三年、市に昇格。面積四上流のスケルデ川両岸に市街が発達し、旧市街入った。一〇〇八年に独立して侯領となる。一 安堵あんど安住できる場所、状態の意。 の東岸と新市街の西岸とは河底トンネルで結合 二世紀よりヨーロッパの重要な商業市場とな 八世紀から用例がある。中世武家社会では主人六・一平方キ。、人口一〇万二〇二四 ( 一九〈 0) 。 らくとうこう り、一三一五年ハンザ同盟に加盟、各国商人に が従者の土地領有を承認し保証すること。鎌倉太白山脈と小白山脈に囲まれた洛東江上流の嶺している。 ロッテルダムに次ぐヨーロッパ第二、ベルギ特権や無税品目を認め、世界各地の産物が取引 幕府が御家人の先祖代々の私領を安堵すること南盆地に位置する。寒暑の差が大きく、少雨地 ー最大の貿易港で、二三七の定期航路がある。 された。一四一五年以降、年二回の定期市が開 を本領安堵といい、新恩地給与と並ぶ御恩であ域の一つ。古来、この地方の教育、文化、行政 つぎめ かれ、一四六〇年には史上初の国際株式取引市 る。また相続承認を譲与 ( 継目 ) 安堵、売買承の中心地で、教育機関が多い。古くから「儒林相手地域は四二 % が他のヨーロッパ地域、つい こきやく 認を沽却 ( 買得、買地 ) 安堵という。安堵はの郷」として伝統文化を温存し、近郊には李朝で南北アメリカ、アフリカの順となる。積み出場を開設、名実ともに国際商業都市として繁栄 くだしぶみげちじようみぎようしょはんもっ 下文、下知状、御教書、判物などでなされる時代の代表的朱子学者李退渓ゆかりの陶山書し貨物の四〇 % は鉄鋼であり、積み卸し貨物のした。しかし一六世紀のネーデルラント争乱で ゆずり げだい が、譲状に承認の旨を記す外題安堵もある。室院、仮面劇で有名な河回村がある。小規模な繊五〇 % は原油、ついでその他の鉱物、穀物であは一五七六年のスペイン軍による略奪などで打 〈朴聖雨〉る。鉄道、運河、高速道路によって、国内のみ撃を受け、独立したオランダのアムステルダム 町時代以降、安堵の主体は幕府から守護大名、維工場、機械工場がある。 りようねい あんとう / アントン中国、遼寧省南東ならす西ドイツのルール地方、アムステルダ にその地位を奪われるに至った。ウエストファ 戦国大名に移り、継目安堵、買地安堵は大名権安東 リア条約 ( 一六四 0 によってスケルデ川の航行が ム、パリなどと連絡し、緊密な関係にある。伝 力の確立に役だった。 〈羽下徳彦〉部、朝民主主義人民共和国との国境の市。一 たんとう 統的工業として造船、植物油の加工、ダイヤモ断たれ、さらに昔日のおもかげを失った。以後 安堵 ( 村 ) あんど ( むら ) 奈良県北西部、生駒九六五年丹東と改名。↓丹東 一七九四 一七九一一 ~ 九三、 フランス軍による占領 ( 一七四六、 郡にある村。県下最小の村で、村名は中世の安安藤一郎あんどういちろう ( 一九 0 七ー七 = ) 詩ンド研摩工業がある。ダイヤモンド研摩工業は しよう 一五世紀以来ユダヤ人を中心に発達してきたも ~ 天一四 ) を経験したのち、ベルギーの独立にあ 堵荘に由来する。奈良盆地のほば中央を占め、人。英文学者。東京・芝佐久間町に生まれる。 やまと ので、世界的なダイヤモンド取引 南端は大和川が富雄川、岡崎川、寺川などの諸東京外国語学校英語科卒業。シェリー 支流と合流する盆地の最低地である。純農村でツ、。フレークをはじめ英米詩人に通する。詩は所がある。今日では、アメリカ系 あったが、近年住宅団地や工業団地が造成さ『太平洋詩人』『日本詩人』などへの寄稿に始ま資本による自動車組立て工業、石 れ、都市化が進んでいる。陶芸家富本憲吉記念 る。第二次世界大戦後は『現代詩』 rGALA 』油化学工業のほか、電気機械、ゴ ム、プラスチック、写真フィルム 館、室町時代の建築で国指定重要文化財の中家などによった。『思想以前』 ( 一九三 D 、『ポジショ 住宅、大道教本部などがある。皮革製品を特産ン』 ( 一九五 l) 、『経験』 ( 一九五 0 などの詩集があ工業、合成繊維、既製服工業など 〈菊地一郎〉 する。人口六四五九。 る。知性と感性の調和した穏健な人生詩を展開が重要となった。重なる戦禍にも 〈安藤靖彦〉かかわらず、ルネサンス様式の市 回『安堵村史』 ( 一九六一・安堵村 ) 役所、王立美術館、プランタン・ 回『現代詩鑑賞講座 9 』 ( 一九六九・角川書店 ) 地一五万分の一地形図「桜井」 つがる アントアーヌ André Antoine ( 天夭 安東氏あんどううじ中世の陸奥国津軽地方モレッス印刷博物館、ルーベンス一を 一九四三 ) フランスの俳優、演出家、演劇改新者。の豪族。安藤氏とも書く。前九年の役で討たれの名作を蔵するノートル・ダム大 たかあき あべのさだとう リモージュに生まれ、小官吏の平凡な家で育た安倍貞任の子高星の子孫と伝える。鎌倉時代聖堂など、歴史的記念物が豊かな 業図 商街 には幕府の執権北条氏の代官として津軽の北条都市である。画家ファン・ダイ つ。軍隊生活を送り、のちにパリのガス会社に ッる市 勤めたが、早くから抱いていた演劇への情熱は氏所領を支配し、また北海道から来航し、津軽ク、・ヨルダンス、・プリュ 1 お紀よ ーゲルの生地。 にも住んでいた蝦夷 ( 後のアイヌ人か ) の統轄 絶ちがたく、一八八七年にアマチュアの同好の 。「一方市 者であった。鎌倉末期にはその蝦夷の反乱に始 仲間とともに「自由劇場」を開き、ヨーロッパ アントウ = ルペン州は、オラン」 1 z 廴 ルえの ダに接するべルギー最北の州。面 まる安東氏の乱 ( 一三一七 ? ~ 一一 0 を起こしてい の近代劇連動の先駆的な役割を果たした。エミ ト栄界 とさみなと さんしんしちそう ール・ゾラの演劇観に触発され、自国の自然主る。日本三津七湊の一つである十三湊 ( 青森県積約二八五九平方キ。、人口一五七三 し、つら フった 北津軽郡市浦村 ) を押さえていて、日本海海運万三六四七 ( 一九ハ 0 ) 。スケルデ川 義的戯曲のみならす、イプセン、トルストイな もれ に関係が深く、室町時代には「奥州十三湊日之流域のポルダーでは園芸、南部で どの戯曲を演出し、従来の演劇の約束事を排し て、装置と演技にきわめて正確な日常性を要求本将軍」と称していた。一四三二年 ( 永享四 ) は混合農業が行われる。北部から なんぶ ニ ~ = エ市で ごろ南部氏との戦いに敗れて、北海道に渡り、東部の砂地帯は森林や荒れ地と し、演劇における真実性を追求した。舞台に俳 ー三 ~ ウ都市 のしろ ひやま トむ同 のち檜山 ( 秋田県能代市 ) に移って、戦国大名なっていて、ガラス工業、亜鉛、 優が生活する環境をつくる演出観は後のリアリ アの紀 〈大石直正〉 コバルト、銅などの精錬所があ ズム演劇に大きな影響を与えた。九七年にアン秋田氏の祖になったという。 なん しつけん 3

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あわしじ 至ひめ・ 淡路島 たガさこ をつ △ 403 明石川 ー 35 ・ 瀬戸内海国立公園 北淡 育波・丘浦 陵。・み常降仮屋 摩耶亠第。亠 △ 360 伊弉諾神・ . ・塩尾 播磨兵庫県多 心、川 五色浜 こ光寺冫 慶野松原 ! ・ノ・ ・蒻倭文 . ) 平 南淡 田倉崎 : 町諭餌羽 押崎 和歌山 : 港 . ・ 瀬戸内海国立公園 大島 大磯 和歌盡湾・ 海南発電所 ・旧占野川瀬戸内海国立公園 青石鼻 ・調空港 沖ノ島の G 有川 宮崎ノ鼻 紀粐水道 湯浅湾 和歌山県。 多奈川第一一発電 新公圜 鮎屋滝 丸山崎龕しい 瀬肩鼻 央にある諭鶴羽山 ( 六 00 しは淡路島の最高地 ビ、タコが多い。水産養殖ではハマチが中心で 8 点であり、東は紀淡海峡から和泉山脈、西は鳴あったが、赤潮の発生によって一九七八年から 8 さめき 門海峡から四国の讃岐山脈へ連なったものであ激減し、かわってノリの養殖が増大している。 どうたく やよい るが、両海峡の陥没によって孤立化した山地と 〔文化〕淡路島には弥生文化を代表する銅鐸、 なった。これら山地、山脈の南側には、西南日銅剣の出土が多く、国の重要文化財に指定され 本を外帯と内帯とに分ける中央構造線 ( メディているものもある。また、四〇〇年以上の伝統 じようるり を有する淡路の人形浄瑠璃芝居は、重要無形民 アンライン ) とよばれる大断層線が走ってい る。津名丘陵と諭鶴羽山地の間には淡路平野が俗文化財に指定されているが、今日では南淡町 開け、島内の農牧業の中心地となっている。気福良で保存されているにすぎない。三原町の三 はちまん 候は瀬戸内式気候が卓越し、南岸を除くと年降条八幡宮には「淡路人形発祥地」の石碑があ 水量は一三〇〇い内外で、最寒月も五度 0 前後る。さらに慶野松原 ( 国の名勝 ) など白砂青松 と、一般に温暖少雨である。 の海岸景勝地が多く、『万葉集』などに多く詠ま かきのもとひとまろ 〔歴史〕『古事記』や『日本書紀』は、いずれれ柿本人麿の歌碑など、島内各地に文学碑が も淡路島をわが国で最初に生まれた島として記みられるのも淡路島の特色である。〈吉田茂樹〉 あま 述するが、このことは淡路の海人族が早くから回和歌森太郎編「淡路島の民俗』 ( 一九六四・吉川 弘文館 ) 畿内の朝廷に属していたことを物語っている。 あはぢ 淡路とは阿波国に渡る道筋の島であり、阿波道二〇万分の一地勢図「徳島」 わみようしよう の意からきている。『倭名鈔』では南海道淡路阿波しじらあわしじら阿波 ( 徳島県 ) で ちぢみ じあ 国として、津名郡一〇郷、三原郡七郷が記さ織り出される縮のような地合いを出した綿織 れ、古代の国府はいまの三原郡三原町市付近に物。「しじら」とは、糸の張力の不均衡を利用 しようえん しわ 比定されている。中世に入ると二三の荘園が し、皺状 ( しば ) の織面にしたもの。創始者は かんせい 設立され、全島の開発が早くから進行してい 海部ハナ ( 天三一 ー一九一 l) で、寛政年間 ( 一大九 ~ しま た。南北朝の動乱後は、阿波の細川一族が淡路天 (I) ごろから織られていた、縞木綿の賃織り たて を支配したが、戦国時代には三好氏、のち織をしていたが、筬一羽に経二筋のものを、部分 とよとみ 田、豊臣氏の支配下に入り、一六一五年 ( 元和的に三筋にして織り、熱湯をかけたのち天日に はちすか 一 ) に阿波の蜂須賀氏の所領となった。一八七干すと、生地に自然なしばが出ることを考案、 一年 ( 明治四 ) の廃藩置県によって、淡路と阿太物問屋安部重兵衛が商品化し一手販売した。 みようどう 波が名東県 ( 後の徳島県 ) となったが、七六 初め「たたえ織」 ( 阿波の方言で経糸を引っ張 年に淡路島全島が兵庫県に編入された。 ること ) とよばれ、一八七〇年 ( 明治三 ) 「阿 〔産業〕淡路島は京阪神地方を大市場としての波しじら」と命名された。最盛期は大正期であ 園芸農業、酪農業および牧畜業が盛んである。 るが、現在でも土地の阿波藍をおもに使い、安 〈角山幸洋〉 特産のタマネギは北海道に次ぐ全国第二の大産価な綿織物として需要も多い 地で、県下の九〇 % 以上を占め、レタス、ハク淡路人形あわじにんぎよう兵庫県淡路島の サイ、ジャガイモも県下最大の生産地となり、 三人遣いの人形芝居。かってはデコ芝居とよば ピーマン、イチゴ、ネギ、キャベツの生産も増れていた。人形、舞台、演技、演出、組織、興 大している。これは昭和五〇年代から始まった行形態などに農村的な特色がみられ、都市的な ぶんらく 三毛作 ( 水稲↓ハクサイ・レタス↓タマネギ ) 大阪の文楽と対比して語られることが多い。そ の急増によるところが多い。島内北部の東浦海の初発については諸説あるが、中世末ごろに摂 にしのみや かいらいし あわ 岸では温室、フレームによる花卉栽培が盛ん津西宮 ( 兵庫県 ) の傀儡師の伝承を継ぎ、阿波 南渡とし伊ら咲 はちすか るの港と紀かが で、酪農は南部の三原町を中心に発達し、乳牛 ( 徳島県 ) 藩主蜂須賀家の庇護のもとに発展し , 月ン あへ漁地 に国は基部セ 頭数で県下の四〇 % を超えている。肉牛の飼育たものである。 たじま 部四在の東はイ 西ら現船南にス も、かっての県北の但馬牛をしのいで、淡路牛 淡路人形は年に一、二度しか演じないような しろうと 南か。潮の帯の としてプタとともに県下第一の飼育地に発達し素人の民俗芸能ではなく、旅興行をもつばらと のくた観る島一生 くろうと うんしゅう 島古え 。岸野 た。また、温州ミカン、夏ミカンの生産も県する職業的な玄人の郷土芸能集団だった。しか は栄鳴て郷海て 港港てたっ仙むけ 下最大である。水産業も淡路を代表するものし第二次世界大戦後テレビの普及など国民の娯 良良しまわ水臨かう 島福福と , ぎ灘ににおで、漁獲高は県下の三〇 % を占め、その大半は楽感覚が変化するに伴い興行が不可能になり、 路〕町場てに〕道月に 炎「、淡船して「、水 2 き イカナゴの水揚げであり、ついでイワシ、エ職能集団であったためにかえって壊滅に追い込 湯冫・ ・な 10km 1 : 80 〇 , きない おさ