れる現象であることが判明してきた。 と、一九七〇年に設立されたコモン・コーズ、 要求の実現が高まる。一方、突発的で分散的な 所 場 二〇世紀に入ってからさまざまな国で圧力団 政治的要求は圧力とはならず、政治的決定の場ネーダー諸組織、アメリカ消費者連盟、消費者 る において排除される結果となる。圧力が強いも同盟など、政治改革、環境保護、消費者の諸団体が台頭してきた条件ないし背景としては、相 す 定 のが政治を制する。圧力とは組織力であり、そ体があるし・ーーちなみにイギリスの核軍備撤廃互に関連する次の二つのことがあげられる。一 測る つは、資本主義の高度化に伴う階級の分極化、 をすれは数と財力によって維持・拡大される。議会運動 (OZQ) などの平和団体もこのカテゴリ 部定 日皿則 、後者に属するそれそれの階級内部での階層的分解と職能的分 デモクラシーが選挙を前提として、多数決をそ ーに入れることができよう 感で 端点の基本原理としている以上、「数の論理」に代ものとしては、高齢者団体、福祉年金受給者団化の進行である。これらの階級、階層、職能 先地 隔表される「カの支配」が成立する。つまり「政体、心身障害者団体などがあげられよう。要すは、それそれの利益を擁護、実現するためにし 計遠 治はカである」という命題が成立するのであるに、伝統的な圧力団体が特殊経済利益志向型ばしば連鎖反応的に組織化されていく ( 「集団 度 温みる。そして、政治における力が正義であるとい であるのに対し、後二者は、公衆全体の利益あの噴出」現象 ) 。その際、資本主義の高度化に 式込 力し るいは社会的弱者の利益を志向し、前者に対す伴う通信、交通などのテクノロジーの発展が、 う発想が、逆転して、正義がカとなることは、 圧差 る対抗力として登場してきたものである。な集団組織化を容易にし、かつ大規模で官僚制的 今日の圧力政治からは期待できないし、政治に られる。導管の長さは普通、数十メートレゝ 丿カおいて「合理的決定」が下されるという根拠はお、「公共利益団体」を「態度集団」「促進団構造をもっマンモス的圧力団体形成を容易にす る。二つは、資本主義の高度化が、国家機能の ら数十で、電気などのエネルギーを供給しな何もない。 しかしながら、カⅡ数の支配が政治体」 promotional group とよんでいる学者も 拡大と執行権の強化とよばれる現象を引き起こ くても遠隔測定を行えることが最大の特徴であの過程であっても、正義の理念が政治の目標とある。 日本の場合においても、伝統的圧力団体の力すことである。とくに第二次大戦後には国家は る。測定温度や状況に適した感温物質 ( 水銀、なっていなければ、政治の正しい連営は期待で ケロシン、ヘリウムガスなど ) を選び、数十度きないし、圧力政治もおのずから限界が生じよテゴリーに属するものとして、企業分野では日単なる恐慌対策とか戦時動員とかの域を超え て、資本主義の長期的安定と成長の計画化を目 の温度範囲を一 ~ 二度の精度で計る目的に用い 〈福岡政行〉本経営者団体連盟 ( 日経連。一九四八年創設 ) 、 ざすようになり、その経済的、社会的管理機能 ることが多い 経済団体連合会 ( 経団連。一九四六年創設 ) 、 〈三井清人〉圧力団体あつりよくだんたい pressure は、全面的、恒久的、構造的なものとなる ( 政 groups 自らの目的を実現するために、広義経済同友会 ( 一九四六年創設 ) 、戦前からの日 圧力政ムロあつりよくせいじ pressure poli- tics 圧力団体は今日の政治過程においてきわの政府 ( 各級の議会、行政部、政党など ) ない 本商工会議所 ( 日商。一九二一年創設 ) 、労働府活動の社会化 ) 。こうしていっさいの職能集 めて重要な役割を担っているが、このような政し政治過程 ( 政策形成過程、執行過程、世論な分野では日本労働組合総評議会 ( 総評。一九五団その他の利益集団は、自らの利益を擁護、実 冶状况を圧力政台と、 、それは国際状況におど ) に対して、多少とも組織的な仕方で影響力〇年創設 ) 、全日本労働総同盟 ( 同盟。一九六現するためには、不可避的に政治過程に関心を を行使しようとする集団をいう。それは政権の四年創設 ) など、農業分野では農業協同組合もち、それに恒常的に働きかけざるをえなくな いては権力政治 power を一三 c とよばれてい る ( 社会の政治化 ) 。また政府のこのような全 る。この圧力政治の背景にあるのは「カの論獲得と国の統治を直接には目ざさないという点 ( 農協。一九四七年創設 ) などがある。そのは か、日本医師会、日本歯科医師会、地方六団体面介入は、それまでは潜在的なものにとどまっ 理」である。つまり、今日のような議会政治ので、政党とは区別される。「圧力団体」という 下では、多数決原理がその決定原理となっておことばの語感が悪いため、最近は「政治的利益 ( 全国知事会・市長会・町村長会、全国都道府ていた諸利益を顕在化、組織化させ、圧力活動 に駆り立てる。なお圧力団体台頭の原因として り、それゆえ、カの論理は「数の論理」へと転集団」「ロビイ」 lobby などの中立的語感をも県議会議長会・市議会議長会・町村議会議長 会 ) 、各種業者団体などがあげられるし、促進しばしば説かれる地域的代表制の不備とか、政 化している。票の数や議員の数が今日の政治をつ用語が使用されることが多い 左右する要因となり、したがって、投票を媒介〔類型〕一九五〇年代ごろまでは、圧力団体は団体に属するものとしては、各種の平和運動団党の媒介機能の喪失とかの理由は、前述の理由 による台頭のむしろ結果であることが多い とする選挙過程に集中的に圧力がかけられるの「特殊利益」、とくに経済的、職能的な特殊利益体、環境保護団体、消費者団体などがある。 である。しかし、圧力政治は、日常的な政治過の実現を目ざす集団として理解されてきた。そ〔台頭の背景〕すでに触れたように、圧力団体〔現代政治と圧力団体〕各国の圧力団体の作動 現象はアメリカにおいて早くから、とりわけ顕の仕方は、それそれの国の政府の構造、政党の 程のなかで、一般にみられる現象であり、政治れが歴史的にもっとも早くから発達したアメリ 献金や票Ⅱ組織の圧力は典型的なものとなってカ合衆国の例をとれば、全国製造業者協会 (z 著に発展してきた現象であって、とくに一九世あり方、政治文化の特性などに応じて異なる。 たとえば、分権的統治構造と党規律のルーズな いる。今日の政治過程を概観すると、圧力政治などの経営者団体、アメリカ労働総同紀の中ごろ以降に全国的基盤にたっ圧力団体が の状況は明らかである。予算編成の過程や法案盟・産別会議・ 0—0) に代表される輩出した。その理由として、社会・経済的要因二大政党制をもつアメリカでは、圧力団体の 作成過程において、利益集団や地方団体が、政労働組合、全国農民同盟民主党系 ) としては、アメリカの地理的広大さに由来する「接近地点」が、両院とその諸委員会、大統領 党や有力議員を通して官僚に圧力をかけたり、やアメリカ農地局総同盟共和党地域的利益の対立、人種的・宗教的多様性に基と行政部、州以下の地方議会と執行部、世論な づく利益の対立、経済的利益の対立、政治的要どに広範に分散している。これに対し、議院内 政府に直接働きかけることがある。その際、カ系 ) などの農業団体、アメリカン・リージョン の弱い圧力団体や野党勢力の要求などが、予算 ( 在郷軍人会 ) 、アメリカ医師会などがそれにあ因としては、この国における世論尊重の政治の閣制と党規律の強固な二大政党制をもつイギリ や政策や法律案に反映しなくなり、行政への民たる。しかし一九六〇年代末以降になると、こあり方、連邦制および権力分立制などに基づくスでは、主要な「接近地点」は集権的な政党内 のような特殊利益団体とは異質の、あるいはこ政府構造の多元性・複雑性、アメリカの政党の閣ー官僚制に設定され、議会に対する接近は副 意の正しいフィードバックが逆機能をおこすの ぜいじゃく 次的意味しかもたない。しかし、そのアメリカ である。政治に過重に介入する人 ( 集団 ) と、 れらに対抗する「公共利益」や「対抗利益」の特質、とくに党規律の脆弱性、全国的政党リ ーダーシップの弱体性があげられる。しかし第においてすら、従来の立法部に対する圧力活動 よ政治に無関心でいる人 ( 集団 ) との間に政治的実現を目ざして政府と政治に働きかける「公共 に加えて、行政部に対する圧力活動 ( 行政ロビ り・要求の較差が広がってくる。政治過程の太い / 利益団体」 public interest groups や「対抗二次世界大戦後になると、この現象がアメリカ イプ ( 日常からの政治献金や、選挙のときの票利益団体」 countervailing interest groups がのみに特有な現象ではなくて、遅くとも二〇世イイング ) が重要性を増している。また圧力活 っ 紀に入ってから先進諸国において共通に認めら動のやり方としても、ロビイストが政府の役 あ集め ) が形成されている集団などでは、政治的台頭してきた。ふたたびアメリカを例にとる 40 395
アメリカ哲学 / 略年表 一四 エドワーズ『自山意志論』 め ジェフアソン起草の「独立宣言」布告 あ一〈一〈フランクリン『自伝』 ( 完本は一八六八 年刊 ) エマソン「自然論』 『森の生活』 一〈六一南北戦争 ( ー六五 ) 一〈九 0 ジェームズ『心理学原理』 一〈九一一口イス」・現代哲の精神』 入九六サンタヤーナ『美の感覚』 一九 0 七 ジェームズ『フラグマティズム』 ジェームズ『哲学の諸間題』 ジェームズ『根本的経験論』 『新実在論』 一九一四第一次世界大戦 ( 、一八 ) 一九一〈スポールディング『新理性主義』 ルイス『記号論理学概観』 一空 = デューイ『人間性と行為』 一九デューイ『経験と自然』 「一ル乂′一曲い阯ム間 一九一宅サンタヤーナ『存在の領域』 ( 、四 0 ) ジマン『現代物理学の論理』 一九 = 九デューイ『確実性の探究』ルイス『精 神と世界の秩序』 ミード『現在の哲学』 ネ・「・社会』 リタニズムと民主主義』 ミード『三つの原始社会における羅と 『キリスト教倫理の 気質』ニー 解釈』 一九 = 一〈デューイ『論理学ー探究の理論』 ッジマン『知的個人と社会』 ミード『行為の哲学』 一九一 = 九第二次世界大戦 ( 、四五 ) 一九四 0 クワイン『数学的論理学』 『人間の本性と運命』 一九四四サンタヤーナ『人間と位置』ニー 『光の子と闇の子』 ヘンヘル『確証の論理の研究』ステ ィープンソン『ハⅧ理 ~ ) 十と一高師明』 一九四六ルイス『知識と評価の分析』モリス 『ョ心凵写・一高明 . 一丁・ - 月 信仰と歴史』 性と女性』 ヘン - ヘル『経験論者の意味基準におけ る問題と変遷』 ヘンベル『経験科学における概念形成 ー『アメリカ史の皮肉』 の基礎』ニー 一九一宝 一九璧 一九四九 一 0 アメリカセンノウ c ぎミ ce こ・者ペイン、当時の哲学的連動に活動の場を与えともいえる、デューイに顕著なこの態度は、観 6 た 22 ・フランクリンらは特筆される。 念論とも唯物弁証法とも違ったプラグマティズ 6 ミ L. ナデシコ科の多年草。ャグルマセンノ ムへと結実した。また、外的世界、肉体、内的 3 超越 ( 超絶 ) 主義 ( ~ 一九世紀後半中ごろ ) ウともいう。茎は直立し、約九〇弩になり、全 しかし、独立後、約半世紀を経て、ドイツ観念精神を対立的、異質的にとらえる内面的心理観 株は疎毛に覆われ、葉は対生する。茎頂に径 に対し、認識や実践を環境からの刺激とそれへ 論やロマン主義、それらのイギリスでの影響は 一一・五弩で先端が二つに裂けた五弁花を頭状に アメリカにも及び、アメリカの知的独立の主張の生物体の反応という外面的な相関的発展の過 密生する。花期は六 ~ 九月、花色は赤、白、 桃八重咲きもあり、観賞用に栽培される。本やユニテリアンの思想と結び付き、一方では反程としてみる行動主義が、プラグマティズムと 結合したことも自然で、ミードの社会心理学は 種は小アジア、シ・ヘリア原産であるが、この属俗主義、他方ではピューリタニズムによる人間 にはヨーロッパ原産のスイセンノウ、古く中国性の罪悪視に対して人間性の回復を唱える立場その一つの表現である。 右の諸点で、プラグマティズムは、西欧の伝 として、超越主義がコンコード・グループのエ から渡来したセンノウ、日本の自生種マッモト 統的思考法に対して独自の理論と有効な批判の センノウト . s bo ミ Van Houtte などがあマソン、ソローらによって主張された。 ひょく 視点をもつ。 る。栽培は肥沃な日当りのよい場所に適す。繁〔プラグマティズムの成立〕南北戦争後、ヨー みしょ・つ 〈神田敬二〉 ロッパで完成した産業革命とそれを支える産業〔プラグマティズムの発展〕プラグマティズム 殖は実生または挿し芽による。 は、アメリカ哲学の重要な自己主張となったば 資本は、アメリカという独自の風土で独特の極 アメリカダチョウ 0 レア ち - ゅ , つお、つド ) よ , っ 端な展開をみせ始め、「金めつきの時代」を迎かりか、ヨーロツ。ハ思想にも影響を与えた。だ アメリカ中央情報局 、ンーアイエ ほうきよく 0 0 *-« << えた。これらは、文学界での不安とペシミズムが、種々の批判や反対者をも生み、修正と再武 てつがく アメリカ哲学的反動とは対照的に、哲学ではそれを積極的に装を迫られることになる。たとえば、・ロイ アメリカ哲学 の性格は、一方で、諸外国とくにヨーロッパ堵受け止め、むしろ新たな指針と理想をみいだそスのように新ヘーゲル学派、新カント学派の影 国の諸思想に影響されて多様であり、他方、固うとするプラグマティズムを生み出した。元来響のもとにプラグマティズムに独自の解釈を与 オえた者もいるし、スペイン生まれのサンタヤー ースが科学的論理学の一方法として提唱しこ 有の思想としてプラグマティズム ( 実用主義 ) ナのように特異な批判者をも生み出した。だ をあげうることにある。そこで、プラグマテイプラグマティズムは、・ジェームズにより、 が、もっとも重要な関係は、①二〇世紀になっ ズムの成立を境に、その前史とそれ以降の展開哲学的方法、態度そのものへと拡張解釈される に至った。それは、一面で超越主義者の「アメて顕著な発展を示した記号論理学、②二〇世紀 とを区別できよう。 リカ独自の哲学」という主張と実践的精神を具初頭のイギリス・ケンプリッジ分析学派、③第 〔前史〕その歴史が植民に始まったため、政治 一一次世界大戦前ウィーンに生まれた論理実証主 ~ 六五 ) の時代ま現化し、他面でピューリタニズムの世俗化、宗 的独立後もほば南北戦争 ( 一会一 で、アメリカは知的にも西欧の植民地であっ教的寛容、科学的自然観、新たな教育の可能義などの影響と、これらとの交渉である。とく に、②の人々との交流、③の派の多くの学者 たたか、この時期にもさらに次の段階を区別 性、アメリカ民主主義、能率主義などを表現し たものといえる。しかし、哲学的理論としてが、ナチスの弾圧を逃れて、アメリカに移住し できる。 たことは無視できない。 ①ビューリタニズムの伝統とその革新運動 ( 一も、それは右に尽きない次の特色と意義をもっ プラグマティズムは、一方において、経験 七世紀初頭 ~ 一八世紀後半中ごろ ) 本国でのている。 ナいじじよう ①それは、概念をプラトン的な永遠不動の存在的、実証的傾向や形而上学への消極的態度など 宗教的圧迫を逃れ、宗教的理想の地を求めた最 初のイギリス移民のビューリタニズムは、本国でなく、現象解明の手段として仮定、操作されで②③と共通点を示し、両派から大きな影響を る道具とみるインストルメンタリズム ( 概念道受けて、 0 ・・モリスの記号論や・・ス での主義的傾向とプラトン主義を混有し、 また時代の思想としてイギリス経験論を伴って具主義 ) を唱え、先験主義に対し経験論の傾向ティープンソンの倫理的情緒説などを生み出し た。しかし他方では、②③両派が自覚の有無を いた。しかし、植民後やがて老朽化の兆しを一小を示す。↓インストルメンタリズム それゆえ、さらに、判断や理論の真理性を対超えて種々の点で西欧の伝統的思考法を受け継 したビューリタニズムに新たな生気を吹き込ん だいかくせし いでいたため、両派に対する独自の態度と有効 だのは、エドワーズによる大覚醒 Great A ・象との一致や理論の内面的整合性に求める西欧 な批判的立場として、逆に両派に影響を及ばし の伝統に対し、プラグマティズムは、それらが wakening の改革運動である。 ナいごっ たことも否定できない。とくに、分析的、総合 昏蒙の時代 ( ~ 一九世紀前半中ごろ ) イギ実験的仮説として現象の解明に活用されたとき しゅんべっ リス本国からの独立は当然、その思想的支えとの過程と成果にみられる「有用性」に真理性の的判断の域別や検証理論のような論理実証主 義の根本的主張に対する批判は、前述のプラグ して、ロックらの政治哲学、理神論とその影響基準を求める。 ③たとえば、主観と客観、事実と価値、知性とマティズムの伝統的立場と視点を継承して下さ で生まれたユニテリアニズム Unitarianism えんえき れたものとして、多くの適切な論点を含む。 ( 三位一体を否定し、神の単一性を主張する立情意、帰納と演繹のように、事象の理解に働く 右の①②③との対決を経て、厳密さと、一段 場 ) 、また右の動向がフランスで生み出した啓基本概念を対立的、静的に把握しがちな伝統的 思考法に対し、プラグマティズムは、それらをと豊富な素材によって補強されながらも、なお 蒙思想などを迎え入れ、哲学的関心も宗教から むしろ政治へと移行する。民主主義と宗教的寛密接な相関性とカ動的発展の過程においてとらプラグマティズムの伝統にたち、むしろそれを 容を説いたジェフアソン、イギリスの急進主義える「連続的思考法」をとる。ヘーゲル的影響積極的に再確認する立場をネオ・プラグマティ さんみ
あめりか また新移民のアメリカ社会への同化をいかに促進し、国民の アメリカ史 統合を図るかということが重大な課題となっている。さら 、こうした国民構成のあり方は、一面で「開かれた社会」 〔アメリカ史の特色と時代区分〕 〔植民地時代〕イギリス領植民地の建設 / 植民地の発ないし「機会の国」といったアメリカのイメージを強め、そ セ の文化の多様な発展の可能性を増すとともに、他方でアジア 展 / 独立革命への道 「大陸的膨張の時代〕アメリカ合衆国の発足 / 西漸運動系に対する移民制限や黒人に対する人種差別などの深刻な問 らチ の進展とジャクソニアン・デモクラシー / 領土の膨題を生み出してきたのである。 るマた 1 あのし 張と地域的対立の激化 このような植民、移民活動により人為的につくりだされた 彎で在設 こ三派現建 〔産業資本の発展と海外進出の時代〕北部産業資本の勝社会であるアメリカは、歴史的に中世の時期を経験しない、 ) 一のし地 徒航民 利 / アメリカ社会の変容 / 帝国主義と革新主義 あるいは封建制度の基盤をもたないという点でも注目されて を教渡植 青でス 〔。ハックス・アメリカーナ形成の時代〕第一次世界大戦よい。もとより「前近代的」ともみなしうる奴隷制導入の問 号マ と経済危機 / 第二次世界大戦と冷戦 / パックス・ア題はあるが、それを別にすれば、アメリカは、最初から解体 のラ すべき強固な「旧制度」 ( アンシャン・レジーム ) の存在し メリカーナの破綻 ズフ着 わま近代的市民社会として発足したのであり、自由 〔アメリカ史の研究史〕アメリカ / 日本 ザメに 主義的風潮が広く国民に行き渡るとともに、一般に過激な変 フ求ッ をコ 本項では、北アメリカにイギリス植民地が建設された一七革の理念には消極的な傾向がみられた。一八世紀後半の建国一一を なム由の 世紀初頭から現在までの、アメリカ合衆国の歴史を取り扱時に制定された憲法が修正を受けながらも、いまなお国家の リ ~ 日 1 グの東 う。それ以前の南北アメリカにおける原住民の歴史、および基本法として機能しているのは、世界で他に例をみない異色 コロン。フスの大陸「発見」 ( 一四九一 l) 以後一七世紀に至るまでのことであるが、それは、法治主義の伝統に基づく安定した の両大陸の歴史については、「アメリカ」「アメリカ・インデ社会発展に加え、自由主義的価値観に対する根強い信念によ経営自体を主眼とするより、中国や南米など本来の膨張対象 地域に進出するための拠点とか基地といった戦略的意義が強 ィアン」「ラテンアメリカ」「インディオ」などの各項目を参る面も大きいといえよう。 く認められた。そしてパックス・アメリカーナ ( アメリカの 照されたい。 また、アメリカが両大洋に挟まれた大陸国家であるという アメリカ合衆国は独立以来二〇〇年余りの歴史を有し、現地理的条件も、その歴史に重要な影響を及ばしている。すな力による国際秩序の形成・維持の意 ) 的状況の進展に伴い こうした「開かれた帝国」の世界的規模での拡大をみたので 在世界有数の大国として国際社会においても指導的役割を演わち、これら大洋は自然の防壁としてアメリカの安全保障に じているが、その目覚ましい発展の過程にはいくつかの重要大きく寄与しており、長い間アメリカ国民が外敵の脅威をあある。 まり懸念することなく、大陸的規模での膨張と発展に専心す 以上のような特色を有するアメリカの発展の歴史は、大別 な特色がみられる。 るのを容易にするとともに、国家統制の希薄な個人主義的な して次の四つの時期に分けることができる。 アメリカ史の特色と時代区分 いし自由主義的な雰囲気を享受することを可能にし、さらに ①植民地時代 ( 一七世紀初頭 ~ 一七七六年 ) 一六〇七年に まず、アメリカは一七世紀初頭よりおよそ一七〇年間イギは、海外の紛争に対しては介入しない、あるいは巻き込まれイギリス人による最初の永続的植民地の建設以後着実な発展 まいとする孤立主義ないし中立主義の風潮を培ってきた。もを示し、一七六三年フレンチ・アンド・インディアン戦争の リスの植民地であり、独立後もおもにヨーロッパから移民が とよりこうしたことは、科学技術の進歩とか国際社会におけ勝利で帝国の領域も著しく拡大したが、同時に本国と植民地 行われたことにうかがえるように、基本的にはヨーロッパ土 会ないし文化を移植、拡大した地域という性格を有する。だるアメリカの力や役割の増大に伴い変わってきているが、なの利害の対立も激化し、一七七五年、独立戦争の勃発をみる が同時に注目すべきことは、広大なフロンティアの存在であおかつアメリカの国民性、とくに対外意識の伝統を理解するに至った。 うえで無視できない要素となっているのである。 大陸的膨張の時代 ( 一七七六年 ~ 南北戦争 ) 一七七六年 り、アメリカはその自然条件を背景に「フロンティア・スピ 最後に、アメリカは大陸的規模で広大なフロンティアを有の独立宣言に次いで八九年に現在のアメリカ合衆国を建国、 リット」とよばれるような独自の精神的、文化的風土をはぐ くみ、かつ大陸部の領土膨張と「西漸運動」を基盤として急していたため、一九世紀末に至るまでおもに内陸開発がその以後西部への膨張を軸に目覚ましい発展を遂げ、一八四〇年 速な経済発展の道をたどることになった。また、原住民イン発展の軸となり、本格的に海外膨張に乗り出したのは、他の代末には太平洋岸まで領有するに至ったが、同時に奴隷制を ディアンが居住するにせよ、全体として移民、強制的に連れ列強よりむしろ遅かった。そこで対外進出にあたり、一般にめぐる対立も深まり、南北両地域間で内戦 ( 南北戦争 ) が勃 発した。 てこられた奴隷、およびこれら外来者の子孫によって建設、諸列強の植民地主義とは異なって、自由主義的理念のもとに 開放された市場や資源への割り込みを図るといった方策が採 ③産業資本の発展と海外進出の時代 ( 南北戦争 ~ 第一次世界 構成された社会であるため、民族的基盤を欠いている。その 結果、国家に対する国民の帰属意識をいかに強め、あるいは用され、海外に獲得した領土についても、その地域の植民地大戦 ) 南北戦争で勝利を収めた産業資本は、そのヘゲモ一一 ーし ばつばっ 646
す . ど量が増加し、一九六〇 ~ 七〇年代には民間住ものにも名称だけはマンシンとつけられたもて、ワースは大規模人口、高い人口密度、住民都市のワース的一般通念にも偏りがあ 0 たと考 〈中村八朗〉 4 〈野口美智子〉 の異質性という三要因をあげ、諸特質のそれそえられる。↓都市化 のが多くなってきている。 こ宅供給の主流をなしていた。 第二次世界大戦直後、日本における本格的なアーバニズム urbanism 一般に農村とれはこの三要因のいすれかに起因すると説いて・ワース著、高橋勇悦訳「生活様式として のアーバニズム」 ( 鈴木広訳編『都市化の社 いる。たとえば非人間的、表面的、一時的社会 は対照的と思われている都市の生活様式を構成 住宅政策が推し進められることになったとき、 あ 会学増補』一九大・誠信書房・所収 ) ▽中 関係は、大規模人口という要因から生じてお 耐火構造が将来都市住宅の主軸となるべきものする諸特質の総体をいう。 たか 村八朗著『都市コミュニティの社会学』 ( 一九 り、それは人口増とともに一個人の接触する相 と考えられ、一九四八年 ( 昭和二三 ) 東京・高〔ワースの古典的理論〕すでに古典視されてい 七三・有斐閣 ) 輪に四階建て二棟四八戸の鉄筋コンクリートアるアメリカの社会学者ワースの論文「生活様式手も多数となる関係上、その一人一人と深い人 としてのアーバニズム」によれば、①地域形態格的接触を持続させる余裕がまったく消滅するアハハーズ 0 アフワーズ バートが実験的に建設され、以後、公営住宅と ほ〔にゆ・つ に至ることによるというのである。 アバヒ ava 三 \ 4 き三、哺乳綱 と人口 ( 学問的に人間生態学といわれる面 ) 、 してしだいに全国各地に建設されるようになっ ところで、この三要因は歴史的、地域的相違霊長目インドリ科の動物。一属一種の原猿で、 ②社会組織、③パーソナリティという三側面に た。とくに五五年日本住宅公団 ( 現在の住宅・ 都市整備公団 ) が設立されてからは、二、わたる数多くの特質を取り上げているが、おものいかんにかかわらず、すべての都市に共通すマダガスカル島の固有種。体毛は灰褐色で、ふ な特質は次のとおりである。①については、職る。とすれば、アーバニズムもすべての都市にわふわと密に生え、頭胴長は約三〇、尾長は 三の間取りを基本とする大規模団地建設に よるアバート群が形成され、その量は急激に増場と住居の分離や異質な住民別の居住地域形成出現するという結論になるが、一般通念として四〇前後である。インドリ科ではもっとも小 とうた 大した。これらは、屋根、壁、廊下、バイプ類といった地域分化。人口の自然淘汰。出産率のもそれに疑問は生じないと思われる。しかしワ形で、唯一の夜行性。顔は丸く、鼻ロ部は短 。目は大きく、周囲に淡色の部分がある。お ース以降の実証的研究からは、彼の説くアー などの建築部分が共同であることと、庭や集会低下。②については、近隣などの一次的関係の もに葉を食べ、二 ~ 六頭の家族的な群れをつく 消滅とそれにかわる二次的関係の優越。物理的ニズムに対する反証が次々に提示され、都市に 所などの共用空間がしつらえられていることか ら、住宅形式の分類上からは「共同住宅」と称近接性の反面での社会的隔たり。非人間的、表おいても親密な社会関係が維持されており、加る。昼間は樹上の葉の間で体を丸め、二、三頭 〈上原重男〉 されていた。しかし文化アパートメントにみら面的、一時的社会関係。分業の進行。住民欲求えて歴史的、地域的相違が伴うことも十分認識が固まって眠っている。 しよとう Ah ・ れるような高水準の生活共同化の可能な住宅形充足様式の制度化。法人組織の発達。大量生産されるに至っている。三要因に起因するというアハべナンマー諸島 式であるとはいえなかった。一方、建築物が共とマス・メディアの出現に伴う平準化と没個性説明についても、たとえば都市の人間は他のす venanmaa スウェーデンのストックホルムと フィンランドのトウルクとのはば中間に、ボス べての人間と均等に接するのでなく、ある人間 同的で、共用空間をもっていても、各戸が独立化。複数集団への分属と個々の集団での不断の と、つしょ 一一ア湾の入口を押さえて位置する島嶼群。スウ した生活を営みうる戸建住宅の機能をもっ住一尸成員交替。時計や交通信号に象徴される機械的とは親密に、他とは疎遠というように選択的に エーデン語名のオーランド諸島ÅIand の名で を数戸から数百戸、ただ単に集合化させたにす形式的規則による社会秩序の維持。③について接触する点が見過ごされている。したがって、 へいたん も知られる。平坦な岩盤からなる。一部で農業 ぎないという点と、低層でも数戸から数十戸をは、能率、効用、経済性の重視。 もあるが、スウェーデン語を話す住民は多くが 集合させ一体的に計画したタウンハウスなどの内面的人間性よりは外見的手がか 漁業に従事する。アハべナンマー島が中心で、 新しい住戸形式の出現により、のちに住宅形式りによる他者の認知。相対的もの 人口二万二五九六 ( 一九ハ 0) 。中心都市のマー の見方と寛容性。冷たい理性。焦 の分類上からは「集合住宅」という用語が多く アンハミナ ( 人口九五八一 ) は古くから海運の 使われるようになってきた。しかし、共同住宅燥感。欲求不満。不安感。孤独 中心として知られ、現在も海連が盛んである。 も集合住宅も、どちらかといえば調査や文献上感。精神分裂的性格。 一九一七年のフィンランド独立に際し、スウェ 以上を通じて浮かび上がってく の住宅形式の分類用語であって、一般には、こ ーデン帰属論が強かったが、国際連盟の決定に るのは、相互の感情的つながりと のような住宅形式をアパートと呼称することが よりフィンランド領となった。軍事および外交 潤いに欠けた砂の集まりのような 多いといえよ , つ。↓タウンハウス↓集合住宅 を除く広範な自治権が与えられているが、スウ 住宅公団設立のころから大資本によるエレベ大衆が、機械的規則の下に不安定 で 〈塚田秀雄〉 エーデンへ移民する者が多い にうごめいている姿である。しか ーター、駐車場、管理人付きの高層高級集合住 の アハマディ Ahmadi アラビア湾 ( ベル しこのように認識するとすれば、 宅が建設され始めた。これらはアメリカでいう グ 一る シア湾 ) 岸にあるクウェートの都市。クウェー ア。ハートに相当するものであるが、日本におけ大枠では一般通念で考えられてい ス断ト市の南東約三五キ。に位置する。人口二万一二 るアパートという呼称は賃貸の低質な立体長屋ることと変わらないようであり、 ハを四四 ( 一九七 0 ) 。一九三八年大規模なプルガン油 したがってワースは一般通念を学 を連想させるようにすっかりイメージダウンし 州脈 田が発見され、その石油積出し港として、四六 問的に裏づけたとも考えられる。 ア山 ていたために、民間住宅業者は入居者募集や販 年クウェート石油会社によって建設 売に際して「アパートよりグレードアップされワースと並ぶ都市生活の研究者で された。同国最大の精製能力 ( 日産三〇万バレ た集合住宅」ということで、販売上の戦略としあったアメリカの人類学者レッド ル ) を誇る精油所があり、や、その関連 フィールドの場合も、都市生活の一 て「マンション」 ( 大邸宅。英語 ) 、「シャトー 〈原隆一〉 会社従業員が多く住む。 ( 城。フランス語 ) などという高級化を連想さ基本特質を個人化、世俗化、文化解 アバラチア山脈丨・きんみやく Appala- 体としてとらえ、ワースとほば共 山 せる名称を冠したが、しだいにマンションとい アナ chian Mountains 北アメリカ東部の山脈。 う呼称が市民権を得て一般化してきた。しかし通した理解のうえにたっていた。 チ ラケカナダのニュー・プランズウィック州およびケ 〔理論の根拠とその修正〕都市に この名称はイメージ先行で住宅水準から定義さ アサ べック州から南西方向に、アメリカ合衆国のジ アーバニズムの現れる理由につい 。したがって近年では低質の れた用語ではない なわ
あふりか 八四年八月プルキナ・フアソに国名を変更 ) 、 であり、しかも植民地主義がつくりあげた不自 リアと同様に国家元首はイギリス女王であり、 これらの一党制国家のなかには、たとえばア コンゴ、ザイール、スーダン、ソマリア、トー ルジェリア ( 民族解放戦線 ) 、アンゴラ ( アン 然な行政区画をはばそのまま引き継いで独立せ実質的な行政上の権限は首相が保持している。 ざるをえなかったからである。 しいかえれば、 またスワジランドは、一九六八年九月に立憲君ゴラ人民解放運動労働党 ) 、ギニア ( ギニア民ゴ、べナン、プルンジ、マダガスカル、マリ リビア、ルワンダ、ナイジェリアの一五か国が アフリカの場合、独立したのは「人工的につく 主国として独立したが、七三年四月に至って、主党 ) 、タンザニア ( 革命党 ) 、モザンビーク られた植民地」であって、既成の近代的民族で国王ソブザ二世は憲法を廃止し、立法、司法、 ( モザンビーク解放戦線 ) などのように、一党ある。軍部主導型政権とは、かってクーデター によって成立した車事政権が、その後文民の協 制を法的に規定している国 ( 法制上の一党制国 はなかった。現代アフリカの新興諸国は文字ど行政の三権を国王自身の手に集中した。 おり多部族国家そのものであって、そのために アフリカ諸国のうち君主制四か国を除いた残家 ) もあれば、セイシェル ( 人民進歩戦線 ) 、力を求める方向へ変化しながら政治的主導権を 統一性を欠き、部族対立に苦しみ、政治的不安りの四八か国はいすれも共和制の国である。もガポン ( ガポン民主党 ) 、コートジボアール確保し続けている政権をいう。 現代のアフリカにこうした軍事政権や軍部主 定に悩まされているのである。一九六〇 ~ 六三 っとも、厳密にいえば、一九七四年の革命で帝 ( コートジボアール民主党 ) などのように、事 導型政権が多いのは、一つには、アフリカに一 年のコンゴ動乱も、また一九六七 ~ 七〇年のナ制を廃止したエチオビアはまだ政体を正式に確実上の一党制国家もある。 このように一党制国家がアフリカに多いの党制国家に代表されるような権力集中型の政治 イジェリア内戦 ( ビアフラ戦争 ) も、ともにそ定していないが、エチオピア勤労人民党の一党 は、前述のように近代的民族国家の建設が共通体制をもつ国が多く存在し、そこでの政権交代 の原因の大部分は部族対立にある。近代的民族制に基礎を置く共和制を近い将来採用すること がクーデターといった非合法的手段に依存せざ は確定している。共和制をとっているアフリカの課題となっていることと密接な関係がある。 国家の建設は、こうして独立期以後のアフリ つまり、はとんど例外なくきわめて複雑な部族るをえないために、軍部の政治介入が常態化し カ・ナショナリズムの最大の課題となった。 諸国の場合、そのほとんどは大統領制である。 「われわれの目的は植民地主義者がこの大陸を例外はリビアであって、同国には大統領や首相構成をもち、それが強い分裂要因として作用してしまったところにその原因がある。またアフ リカでは、車部が近代化の速度のもっとも速い 分割してつくったぶざまな加工品から、真の近のような行政上のポストはなく、国家元首としている新興アフリカ諸国の場合、一党制を軸と りつん 代的民族 ( ネーション ) をつくりだすことであて「革命指導者」という独特のポストが置かれした強力な集権的政治体制は、国民的統合を推人間集団として、他の社会集団を凌駕する傾向 があり、その結果として、独自の政治的ビジョ る」というザンビアの大統領カウンダのことばている。現在の革命指導者はカダフィ大佐であ進するうえでのもっとも有効な政治的手段とな ンをもって政治の領域に進出する条件を整えや は、こうしたアフリカ指導者たちの共通の認識る。さらに、同じ大統領制でも、南アフリカ共りうるのである。それに加えて、急速な経済開 をよく表現している。 和国やジンバブエのように、行政上の最高の責発を推進するためにも、一党制による動員体制すいことも、軍事政権や軍部主導型政権を輩出 〔政体〕現在 ( 一九八三年三月 ) アフリカ五一一任、権限は大統領にではなく首相に賦与されてが有効であると考えられている。しかしその反させる原因の一つと考えられる。 軍事政権や軍部主導型政権は、暫定型政権と いる国もある。 面、一党制のもとでは唯一党をチェックするカ か国のうちで、君主制を採用しているのはスワ が制度的に保障されていないため、潜在的な政改革型政権の二つに分かれる。暫定型政権と ジランド、モロッコ、モーリシャス、レソトの 〔一党制と複数政党制〕現代アフリカ諸国に共 は、文民政治の腐敗是正、政治的混乱状態の救 四か国だけであって、他の諸国は共和制を採用通する政治的特徴の一つは、権力集中型の政治治的不満を蓄積し、政治的不安定性を助長する している。君主制四か国のうち、モロッコ、モ体制が圧倒的に多いことであるが、それの一つ傾向がある。現代アフリカ諸国にクーデターが済、武力による一党支配の打倒、部族主義的分 離主義の克服といったたぐいの限定的な目的の ーリシャス、レソトの三国は立憲君主制であるの現れが一党制である。現在 ( 一九八三年一一一多発する原因の一つはここにある。 ために、暫定的に政権を担当するものをさす。 他方、複数政党制を採用しているアフリカ諸 月 ) アフリカ五二か国のうちで一党制を採用し が、モーリシャスの場合はカナダ、オーストラ また改革型政権とは、長期的ビジョンにたっ ているのは、アルジェリア、アン国は、ウガンダ、エジプト、ガンビア、シェラ カボン、カレオネ、ジプチ、ジンバブエ、セネガル、ナイて、政治的、経済的、社会的改革を積極的に推 ゴラ、カーポベルデ、 メルーン、ギニア、ギニア・ビサジェリア、ポッワナ、マダガスカル、南アフリ し進めるものをさす。アフリカの場合、一般的 オ、ケニア、コートジボアール、 カ共和国、モーリシャス、モロッコの一三か国傾向としては、一九六〇年代には暫定型の軍事 にすぎない。しかもそのうちエジプト、ガンビ政権や軍部主導型政権が多く、七〇年代以降は コモロ、コンゴ、ザイール、西サ ジ ハラ ( サハラ・アラブ民主共和ア、シェラレオネ、セネガル、ポッワナ、マダ改革型の政権が多い。一九七四年に成立したエ ュ国 ) 、サントメ・プリンシベ、ザガスカルの六か国では与党が圧倒的に強く、実チオピアの軍事政権は、反封建革命を推進して チ きた点で改革型の典型であり、コンゴ、ザイー ンビア、スーダン、セイシェル、質的には一党制に近いといえるほどである。 る ル、マダガスカルなどの軍部主導型政権は、当 ソマリア、タンザニア、チュニ 〔軍事政権と軍部主導型政権〕他の発展途上地 面 ジア、トーゴ、プルンジ、べナ域と同様に、現代のアフリカにおいても軍部の初暫定型であったものが改革型へ転化した典型 ン、マラウイ、マリ、モザンビー 政治的台頭が顕著にみられる。こうした傾向は的な事例である。しかしなかには、一九六六 要 ク、ルワンダの二七か国と、過半アフリカの場合、一九六〇年代なかばから目だ年、七一年、八一年と暫定型軍事政権が繰り返 の し登場したガーナのようなケースもある。 数を占める。残り二五か国のうちち始め、今日でも変わることなく続いている。 代 〔社会主義〕他の発展途上諸地域の場合と同 には、後述するように現在軍事政現在 ( 一九八四年三月 ) のアフリカで、純然た 近 カ権のもとにあって政党が禁止される車事政権の支配下に置かれている国は、エチ様、現代のアフリカでも広く社会主義が唱えら ている国や、スワジランド、リビオピア、ギニア・ビサオ、赤道ギニア、ニジェれている。それは、「社会的公正さを伴う急速 よ発展」のためには社会主義が最良のイデオロ ール、モーリタニア、リ。ヘリア、中央アフリカオ わアのように政党をもたない国も含 及 まれているから、実際にはアフリ 共和国、ガーナの八か国である。またこれ以外ギーであるという認識が支配的だからである。 に車部が政治的主導権を握っている国としてこれらの社会主義は、マルクス主義的なものを の力における一党制国家の比率はさ 教らに高いといえる。 はアルジェリア、エジプト、オートボルタ ( 一九含めて多種多様であるが、その大部分は、アフ 4 0
あじあ アジア / 植民地時代のアジア ( 1900 年 ) シを強制栽培させたりした。その結果、東イン本の本源的蓄積の源泉となり、西欧諸国におけ〔帝国主義の時代〕一八七〇年代以降の帝国主 スの地歩はいっそう強化された。 一七世紀初頭、イギリス、オランダ、フランド会社の年間配当率は一〇〇 ~ 二〇〇 % にも上る資本主義の発展を促進した。これに対して、義、独占資本主義の時代に入ると、アメリカ、 ドイツ、ロシア、日本など後発の帝国主義列強 アジアの民衆は大小さまざまの墅起で抵抗し ったといわれる。こうして、大航海時代から一 スはいずれも東インド会社という組織を設け ごうりやく 八世紀後半に至る数世紀間に、アジアの多くのた。たとえばインドネシアではジャワ島 ( 一五も含めた、帝国主義列強間の植民地略取競争は て、直接的な暴力、抑圧、劫掠と収奪を行っ しれつ lll) 、アンポン島 ( 一六三五 ) 、マドウラ島 ( 一六七四 ) 熾烈化し、二〇世紀初頭までには帝国主義列強 た。たとえば、イギリスはインドで、暴力と欺地域が西欧列強によって植民地化された。その まん による地球の最終的分割が完了した。この帝国 結果、アジア社会はいやおうなしに急速な変における反乱が、またインドでは数次にわたる 瞞により現地生産物を四分の一の価格で購入、 化、崩壊の過程に引き込まれ、植民地的、封建有名なマラータ戦争 ( 一八世紀末 ) などが起こ主義の植民地体制下でアジア、アフリカ、ラテ 逆にイギリス商品を五倍の価格で売りつけ、こ ンアメリカは原料、食料、低廉な労働力の供給 っている。これらの抵抗戦争は民族解放戦争の れに反抗するインド人を投獄した。また、イン的社会に転落させられていった。他方、こうし ド農民に対して中国へのアヘンの輸出のためケてあげられた膨大な利益は、西欧に還流して資端緒的形態ではあるが、主として封建的支配者源として、商品と資本の輸出市場として完全に の指導によるもので、多くの場合、内部対立な世界資本主義経済の枠組みのなかに組み込まれ てしまった。しかし、植民地主義の支配の拡 どの原因によって敗北した。 〔産業資本主義の時代〕一八世紀後半から一九大、強化は帝国主義と被抑圧諸民族との間の矛 世紀末にかけて、西欧列強のアジア侵略は従来盾を必然的に先鋭化することになり、ここに近 よりも範囲がいっそう広くなり、また、その社代的民族解放連動、すなわち民族自決権の実現 会的、経済的影響がずっと深刻になった。これを目ざす連動が本格的に開始されることにな は産業革命の結果、大規模な工業生産が行われる。たとえば、イランの立憲革命 ( 一九 0 五 ) 、ト ルコの青年トルコ党の革命と専制政治の打倒 るようになり、大量かっ安価な原料、食料品の ( 一九 00 、インドの国民会議派によるスワラージ 獲得と工業製品の販売市場の確保が必要になっ たためである。こうして、インドは一八五六年 ( 独立 ) 、スワデーシー ( 国産品愛用 ) の目標確 までに完全にイギリスの植民地支配下に置か立 ( 一九 0 六 ) 、インドネシアにおける民族主義組 れ、ビルマ、セイロン ( 現スリランカ ) 、マレ織プディ・ウトモ ( 一九 00 、サレカット・イス ラム ( 一九一 l) の結成、フィリピンにおける国民 ( 現マレーシア ) 、シンガポール、コーチシ ナ ( ベトナム南部 ) 、アフガニスタン、イラン、党の結成 ( 一九 0 七 ) などである。中国では孫文の トルコなども、相次いで西欧列強の植民地、従三民主義 ( 民族、民生、民権 ) を綱領として辛 属国となった。中国もアヘン戦争 ( 天四 0 ~ 四 = ) 亥革命が起こり ( 一九二 ) 、清朝の専制支配を倒 での敗北を契機に半植民地化の道をたどり始して中華民国を樹立した。これらの連動はいわ め、日本も列強から不平等条約を押し付けられゆるプルジョア民族主義者の指導によるものが た。この結果、アジアの大部分が植民地主義の多かった。 このようなアジアの民族独立運動に決定的な もとに置かれ、列強の原料、食料品供給の源泉 影響を及ばしたのは、第一次世界大戦とロシア および商品販売市場として、西欧資本主義の補 完物となるに至った。伝統的な自給自足経済は革命であった。すなわち、朝鮮の三・一独立連 解体され、植民地的モノカルチュア ( 農作物の動、中国の五・四運動、五・三〇運動 ( 一九一一五 ) 、 単一栽培 ) 経済の鋳型に押し込まれ、農民、手インドネシアの反オランダ全国蛔起 ( 一九一一六 ) 、 ガンジー指導下のインド国民会議派の第一次非 工業者や封建的支配者までも深刻な影響を被っ 暴力・不服従運動の開始 ( 一九一九 ) 、アフガニス これに対して多くの民族的反乱が起こったのタンの第三次反英戦争と独立の獲得、エジプト の反英独立闘争といちおうの独立の実現 ( 一九 は必然的であった。バー。フ教徒の反乱 ( 天哭 ~ 五 = 、ベルシア ) 、インドの大反乱 ( セポイの反 llll) などである。これらの運動の連鎖反応的爆 乱、天五七 ~ 五九 ) 、太平天国の乱 ( 一会 0 ~ 六四、中発は、第一次大戦のパリ講和会議などでアメリ カ大統領ウイルソンの唱えた民族自決の原則 国 ) などはその代表的なものである。歴史的に みれば、これらの民族的反乱はアジアの民族解が、アジア諸国の。フルジョア民族主義者たちに 放運動の初発的段階のものであり、封建支配層幻想を与えたことを反映している。その反面、 ロシア革命で樹立されたソ連が、内外の諸民族 指導下の反植民地主義運動の最後のものであっ た。また、これらの運動はその指導力の限界性の完全な自決を促す政策を実行したこと、一九 のゆえに敗北するが、同時に間接的ながら相互二〇年代に入るとアジア諸国に相次いでコミン に影響しあっていたことは、後の時代のアジアテルンの支部が結成され、労働者、農民の利益 を代表する共産党が徹底的な反帝国主義、反封 2 諸民族の連帯の芽でもあった。 0 ウルムチ ふ、第 ラサ 0 にてギ、リス領 べン万ル湾 コア アンダマン諸ー ニ : バル諸島 マドラス プル ロン島 モコロンポ ンガポール = 日本領匚こコフランス領 匚ここコアメリカ領当ドイツ領 ーイギリス領ー = ポルトカル領 〔こコオランダ領匚二」ロシア領 1 ( ) げ パタヒアマいラ島 1000km ジ人 , ワ島
and Social Commission for Asia and Pa- 偏見に多く根ざすものであることが明らかにな ー開発、一次産品などの諸問題をコンセンサス ド、ビルマ、インドネシアの社会党が提唱し エスカップ て、一九五三年結成されたアジア諸国の社会党 cific 略称国連経済社会理事会の方式によって着実に解決してきた実績は高く評った。アジア的共同体という概念そのものが成 〈横川新〉立しうるものなのかという問題を含めて、アジ 価することができょ , つ。 の協力機構。ビルマのラングーンで開かれた創下部機構である地域経済委員会の一つとして、 たいへいよ ア的共同体論は根本的な再検討を迫られてい 立大会には、インド、インドネシア、ビルマ、 一九四七年三月二八日、第四回国連経済社会理アジア・太平洋放送連合 うほうそうれんごう Asia-Pacific Broadcasting る。↓アジア的生産様式↓古典古代的共同体 マラヤ ( 現マレーシア ) 、レバノン、パキスタ事会決議三七により設立された。当初はアジア 〈小谷汪之〉 ↓ゲルマン的共同体 ン、イスラエル、日本の八か国の社会党が参加 極東経済委員会 Economic Commission for Union 略称 <22D0 アジア・太平洋地域の 工カフェ した。のちにセイロン新平等社会党、ネパール Asia and the Far East (QO<LæQ) とよば 独立国の全国的な性格の放送機関が加盟する組回小谷汪之著『マルクスとアジア』 ( 一九七九・青 木書店 ) ▽同著『共同体と近代』 ( 一九全・青 会議党、南ベトナム社会党の加入が承認されれていたが、最近に至りアジア以外の西サモ織。一九六四年に設立、八二年現在二八機関 ア、トンガ、ナウル、パプア・ニューギニア、 木書店 ) た。本部をラングーンに置き、議長にウ・ ( 二八か国 ) が正会員として、また準正会員と てきせい、んよ、つしき スエ ( ビルマ ) が就任。執行局と反植民地主義フィジーなどの太平洋諸島の国および地域の加 して一〇機関、準会員として二九機関が加盟しアジア的生産様式 マルクス 局を設け、毎年一〇月に「従属国人民自由デ 盟が増加してきたこと、アジア太平洋地域におている。設立の目的は、会員の利益保護、放送 asiatische Produktionsweise ー」を行うこととした ( ただし、実際にはビル いて経済開発と並んで社会開発、社会福祉の重に関する問題の研究促進と調整、情報の交換、は『経済学批判』 ( 天五九 ) の序言で「大づかみ にいって、アジア的、古代的、封建的および近 マで行われたのみ ) 。五六年一一月インドのポ要性が増大し、委員会においてもこれらの事態国の開発と教育の分野における放送利用の促進 ンべイで第二回大会を開催。五七年七月、ウ・ を認識して機構名に反映させる必要性が生じてなどで、これに基づいて、番組、ニュース、著代。フルジョア的生産様式が経済的社会構成の相 ラ・アン事務局長が、ウィーンで開かれた社会 きたことなどの理由により、七四年九月一二日 作権、技術、研修などの面で会員相互の連絡や次ぐ諸時期として表示されうる」と述べたが、 調整を行うほか、他機関との交渉の窓口にもなアジア的生産様式については、他の三つの生産 主義インター第五回代表大会に出席して、同イ から現在の名称に改称された。は設 様式のようには明確な説明を残さなかった。一 ンターとの協力強化を要請した。五八年三月ネ立当時はアジアの戦後復興を図ることを目的と っている。また教育番組の共同制作も行い パールで開かれた執行局会議で組織綱領を採択していたが、現在ではアジア太平洋地域の経済「賞番組コンクール」も開催している。方、一九二五 ~ 二七年の中国革命に際して、中 したが、その後活動は行われず、大会も開かれ協力、社会開発のための協力機関として、種々 このほか ( 暫定衛星コーディネーティン国社会の性格を規定し、革命戦略を定めるにあ ていない 〈土生長穂〉の地域協力プロジェクトや開発スキームを立グ・センター ) と ( アジア・太平洋放たり、このアジア的生産様式の概念が用いられ た。すなわち、一九二七年一一月に中国共産党 送開発研修所 ) が設置されている。本部は東京 私立。一九四一案、実施している。 亜細亜大学あじあだいがく 〈田村穣生〉 が発表した土地問題党綱草案において、現在の 年 ( 昭和一六 ) 設立の興亜専門学校を前身とし 加盟国は一九八二年現在で域内国三九、域外 (Zäæ内 ) にある。 てききようどうたいョ中国はアジア的生産様式から資本主義に移行す て、五五年 ( 昭和三〇 ) 新制大学として設置さ国五 ( アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、アジア的共同体 れた。「とくに日本およびアジアの文化社会のオランダ ) の四四か国で、そのうち香港、。フル ーロッパ列強によって植民地あるいは半植民地る過渡期にあるとされたのである。この規定は 翌年八月の第六回党大会では否定されたが、草 とされる以前の旧アジア社会の基礎をなしてい 研究と建設的実践とアジア融合に新機軸を打ちネイなど八か国 ( 地域を含む ) が準加盟国とな - 条はマジャール JIK)ABHr HI ・ HaTbeBHq MaAb ・ 出す人材の育成」を目ざす。八四年現在、経っている。日本は一九五二年 ( 昭和二七 ) に準たとされる共同体。マルクスは「資本制生産に 先行する諸形態」 ( 草稿『経済学批判要綱』天 営、経済、法学の三学部とそれぞれの大学院研加盟し、五四年に正式加盟が認められた。 qpZLyudvig lgnat'evich Mad'yar ( 天九一 一九四 0 ) の見解に負うところが多く、マジャール 五七 ~ 五 0 で、古典古代的共同体、ゲルマン的共 究科 ( 修士、博士課程 ) をもつ。カリキュラム の機構は、総会、常設委員会、常 同体との対比においてアジア的共同体を特徴づは中国農村経済研究』初版 ( 一九一一 0 で、中国 にアジア研究やアジア系一一一一口語など一二か国語に駐代表諮問委員会、事務局より構成されてい ん・れがい の社会経済構成は、人工灌漑が農業の主要条件 及ぶ地域一言語プログラムを組み込み、国際経済る。総会は機構の最高意思決定機関で毎年一回けた。『資本論』 ( 第一部第一一一章 ) では、イン ドを直接の素材として、アジア的共同体が、①であり、土地所有が欠如し、国家が最高の土地 や発展途上国問題を扱う経済学科、国際関係学開催される。常設委員会は総会の下部機関で、 科など、アジアの教育研究や国際交流に力を入農業開発、開発計画、産業・技術・環境、天然土地の共有、②農業と手工業との家内的結合、所有者である東洋的専制主義の国家形態をとる むさしの れている。所在地は東京都武蔵野市境五ー二四資源、人口、社会開発、統計、貿易、海連・運③固定されたカースト的分業、の三つの要素かアジア的生産様式であるとしていた。マジャー ルのこの見解には、一九三〇年のコム・アカデ 〈喜多村和之〉輸・通信の九つが設置されている。事務局は国らなるとされている。そして、このアジア的共 たいへいよ、つきょ 連事務局の一部を構成し、国連事務局長によっ同体が相互に孤立したまま、無数の原子のよう ミー農業研究家全同盟会議で多くの批判が出さ アジア太平洋協議会 ア , っギ ) 刀し Asia and Pacific Council 略称 < て任命された、約六五〇名の職員を有してい に散在しているうえに、アジア的専制国家がれ、翌年二月レニングラードで開かれたマルク シャン、イ しよ、つりつ ス主義東洋学研究協会とレ一一ングラード東洋学 アジア太平洋地域の結束強化を目的る。本部は、設立当初は上渺に置かれていた聳立しているのがアジア社会の特徴とされた。 このような旧アジア社会のイメージは、マルク 研究所共同主催の大討論会でも激論が展開され とした協議機関。一九六四年アジア外相会議のが、一九四八年に移転して以来、タイのバンコ た。その模様が各国に伝えられると、これを機 クにある。は、これまで域内経済開スのみならず、一九世紀ヨーロッパ思想にほば 席上で韓国が提唱、六六年第一回会議をソウル に論争が開始された で開催した。加盟国は日本、韓国、台湾、タ発のための措置の発議・参加、調査研究の実共通するものであった。それは今日の日本にお 日本でも、すでに始まっていた資本主義論争 イ、フィリピン、南ベトナム、マレーシア、オ施、経済開発に関する情報の収集・整理・配 いても、大塚久雄の『共同体の基礎理論』 ( 一九 と相まって議論が行われたが、一九三五年 ( 昭 ーストラリア、ニュージーランドで、ラオスは布、計画立案のための助言・勧告などを通じ五五 ) などを通して一般に受け入れられている。 オブザー しかし、近年、アジアやアフリカの社会につい 和一〇 ) 以降は政治的弾圧のために中止され ー参加。日本、オーストラリア、ニて、アジア太平洋地域における開発センターと た。その後一九三九年にマルクスの草稿「資本 一にユージーランドの中国承認で参加国間の足並みしての役割を果たしてきた。東西対立、中ソ対ての歴史学的、人類学的研究の発展によって、 制生産に先行する諸形態」 ( 天五七 ~ 五 0 がソ連 あが乱れ、七三年に事実上自然消滅。〈池田文雄〉 立、ベトナム戦争などアジアを取り巻く厳しい このような旧アジア社会のイメージが、実体と 情勢のなかにあって、中立的立場を堅持しなが してのアジア社会のあり方からはほど遠いもので公表され、四七年に日本にも紹介されると、 じアジア太平洋経済社会委員会 ら、域内の経済開発、社会開発、資源エネルギであり、むしろヨーロツ。ハ人のアジアに対する論争が再開された。草稿中にみられる総体的奴 2 あ ( いようけいざいしやかいいいんかい Economic
ティコン ) である。公分の本性に従って、もともとそこにあるのが当をきわめて重くみたということである。心臓 4 は、血液の源泉であり、有血動物が生存するの 7 共の生活のうちに人間 然とされる場所を目ざして ( 宇宙の中心である す に欠かせない体熱の起源であり、また、連動と の善は実現される。そ静止した地球へ向けて ) 運動する、ということ にほかならない ( もっと重い物体たとえば鉄片感覚のはじめ、感情・思考の場、つまり心の座 れゆえ、倫理学は政治 弓し力であるという。こうした認識に見合って、肺臓 学の一部をなすと考えは、宇宙の中心へ向かう傾向がもっと、 られている。中産階級ら、木片よりも速く落下するに違いない ) 。逆および脳の役目も規定されることになる。すな を館 にこの木片は、水の中では、同じくその本性にわち、彼は、肺臟を呼吸によって生体の過熱を 術を中心にして、治めら スンれるものが交代して治従って、もともとそこにあるのが当然である場防ぐ空冷装置と解したし、脳には心臓の熱を調 レカ テチめるものとなるところ所を目ざし ( 月へ向けて ) 上昇運動を行う。そ節するという副次的役割をふりあてて、脳と感 に実現されうる最善のしてどの場合にも運動は、遅かれ早かれ終わり覚その他の精神現象とのかかわりは否定ないし ス 〈秋間 無視したのである。 国制があるとした政体に達する。 アロ すッ 論は、穏健な民主主義 地上の物体の自然的運動がこのように落下ま回『アリストテレス全集』全一七巻 ( 一九穴 さ工 七三・岩波書店 ) ▽出隆著『アリストテレス をアの優れた理論づけを与たは上昇という一時的な直線運動でしかありえ 哲学入門』 ( 一九七一一・岩波書店 ) ▽・・ア 地ラえたものといえる。 ないのに対して、天体は永遠に一様な円運動を ラン著、山本光雄訳『アリストテレスの哲 」る〔詩学〕創作の本質行っており、これがその本性にかなった自然的 左 学』 ( 一九七九・以文社 ) ▽井上忠著『哲学の現 は、模倣 ( ミーメーシ運動であると彼は考えた。さらに天体は、地球 場ーーアリストテレスよ語れ』 ( 一九〈 0 ・勁草 一ス ) にある。悲劇は崇が土、水、気、火という四つの元素でできてい トを るのとは異なって、第五の元素でできているに 書房 ) ▽ W. D. Ross 】ゝ、み、 0 ミ (lst ed. ラ向高な行為の模倣であっ プ傾 1923 , 3rd ed. Revised 1937 , Methuen, す的て、崇高な人物が不幸違いない、とも考えた。こうして彼は、自然的 さ学 London) ▽ J. Barnes, M. Schofield, R. 指科に陥っていく過程を模世界を、互いに質を異にする二つの部分に、す なわち「月上界」と「月下界」とに分けたこと 倣し、観客のうちに引 Sorabji ed. 】ゝミ、 ) をム s 、 0 ド 4 vols 、鸞、 ! 上経 ・天と になる ( 1975 ~ 7 ド Duckworth, London) ▽ A. 0. き起こされる哀れみと で向 彼が運動をこのように①自然的なものと強制 ROVty ed. 【 Essays を 4 、、 0 ミ ) s E 、 hics 央傾恐れの情緒を用いて、 中的 ( 198P University of California Press, 面論 こういう情緒を浄化す的なもの、地上のものと天上のものに区分し 画念 たことは、彼以降の物質の運動についての考え Berkeley) 観ることを本質とする。 堂の がくはアリス ↓ォルガノン↓形而方を大きく規定し、力学の発展という点では大アリストテレス学派 学学 カリレイ、ニュートンらに きな障害となった。・ トテレスがアテネ郊外に開いた学園は、近くの の哲上学↓自然学↓ニ テきコマコス倫理学↓詩 よって新たな知見が加えられ、この区分が除去アポロン・リケイオスの神殿によって、リケイ 学 〈加藤信朗〉されたとき、初めて近世力学の樹立が可能になオン Lykeion とよばれた ( この名は今日のフ ランスの高等中学をよぶリセ lycée という名 〔科学者アリストテレス〕アリストテレスの著ったのである。 動をいつも理性的秩序にかなった「よい」もの のおこりである ) 。この学園はまたペリバトス 〔動物学の樹立〕数学、天文学、力学などにつ として発現させるための力として、魂の内に獲述のうちでもっとも量が多いのは、自然科学に いてはアリストテレス以前に一定の発展があっ Peripatos ともよばれる。それは、本来回廊の 得される持続的状態が器量 ( アレテー・徳 ) でかかわる諸書である。すなわち、『自然学』『天 意味で、学校の建物と学園全体を一般に意味す ある。器量は魂の情動的な部分においては極端体論』『生成消滅論』『気象論』『宇宙論』『動物たから、こうした科学を彼が創始したというこ とはできない。ところが動物学については事情る語であり、それがアリストテレスの学校の固 誌』『動物部分論』『動物運動論』『動物発生論』 に走らず中間を保つ性向であり、それは他人に 対する関係においていつも理性的秩序を実現すなどがある。その範囲は、物質界の普遍的諸条が異なっている。自然発生説その他、今日から有名となったものである。しかしこの語は、す る正義の性向のうちに終極する。だが、この正件や宇宙の構造などから、地球上の個々の動植みれば奇妙な誤った意見や観察をいくつも含んでに古代から、講義が園内を散策 peripatein しながら行われる習慣によるという解釈が広く 物、その諸器官の記述などに至るまで、およそでいるとはいえ、それまでまだほとんどっなが しさが個々の行為において実現されるために しょ・つト ` う 流布し、逍遙学派の名前もそこに由来する。 は、個別の状況における理性的秩序の判定を要存在するものの全体に及んでいる。彼は自ら飽りのなかった博物学上の膨大な個別の知見を初 し、それには魂の理性的部分の器量である「賢きることのない自然観察家であったばかりでなめて論理的に整え、体系的にまとめあげて「動「この学園に学んだもの」が狭義のアリストテ レス学派である。 く、その時代の自然知識を余すところなく収集物学」の名に値する学問を樹立したという点 慮」 ( プロネーシス ) の働きをまたねばならな けいじじよう アリストテレスの死後、形而上学的な関心は これら、性向におけると、理性におけるし、詳しく検討して、自分の哲学的見地とりわで、アリストテレスの功績は不朽である。とり わけその動物の自然分類法は優れており、重要薄れ、個別科学の研究が盛んになる。植物学の と、二つの器量が備わるとき、人間の器量は完け目的論に基づいて体系化しようとした。 なものである。 テオフラストス、地理学のディカイアルコス、 〔運動をめぐって〕生物の成長はむろんのこ 成され、人間の共同体のうちには愛が実現され さらには、とりわけ『動物誌』や『動物部分音楽論のアリストクセノス、自然学のストラト と、位置の変化、場所の移動としての力学的運 る。ここに実質上構想されているものは、人間 ンはその代表者である。しかし紀元前一世紀に に許される限りで理性的な観照を楽しむ哲学者動をも、彼はやはり目的論的に考察する。たと論』などに人体の生理に関する記述がはなはだ えば、手を離れた木片が地上へ落ちるのは、彼多く含まれていることも、注目に値しよう。そロドスのアンドロニコスが『アリストテレス全 の共同体であろう。 の考えでは、空気の中では、重いこの物体が自のなかでとくに興味深いのは、彼が心臟の役割集』を編集刊行してからは、その注釈がこの学 〔政治学〕人間は国家的動物 ( ゾーオン・ポリ 材
ーアシということばで表され、それらの間にと 0 ( 腓腹筋とヒラメ筋で構成 ) と踵骨とを結ぶ腱急進党の指導者であり、一九三八年、急進党、 引き換えに遺体を返した。 くに差異が考えられなかった。マガということ 〕。オデュッセイア』において、オデュッセウスで、体のなかではもっとも強大な腱である。下社会党、共産党、民主党、チリ労働者連合 (0 れ ばで表現される悪は、世界の秩序を混乱させる は冥界で死後のアキレウスに出会う。しかしア腿三頭筋の急激な取縮によってアキレス腱に不で構成される人民戦線から大統領選に まがつひのかみ キレウスの葬儀や武具の分配をめぐる争いにつ自然な方向の伸張力がかかると、裂傷を生じる出馬して当選、ラテンアメリカ唯一の反ファシ作用を意味し、死の穢から生まれた禍津日神に あ ズム人民戦線政府を成立させた。四一年一一月由来するとされた。一般に悪を超人間的な原理 いては語られても、その死の真相には触れられことがあり ( アキレス腱断裂 ) 、外科的に縫合 に帰する考え方は、後の時代までも根強く残 に病気のため辞任するまで工業振興公団 (00 ていない。一説では、トロヤ方を助けたアマゾ手術で治療する。なお、アキレス腱の名は、ホ あけばの ンの女王ペンテシレイアと曙の女神工オスのメロスの叙事詩『イリアス』に出てくる不死身 Y-LO) や農業機械サービス事業団り、世界宗教のなかにも認められる。キリスト 子メムノンを殺したのち、アキレウスはアポロ の英雄アキレウスが、唯一の弱点であるこの腱ä) を設立するなど、工業の発展と農業の近代教のサタン、イスラム教のシャイターン、仏教 化、輸出農作物栽培促進に努めた。労働立法の経典にみえるマーラなどがそれにあたる。 に傷を受けて倒れたとの伝説からつけられたと ン ( またはパリス ) にかかとを射られて死んだ 完全実施による労働組合の育成や労働条件の改〔道徳的意識の覚醒と善悪〕このような状態 〈小川正広〉 とされている。 かくせし は、ある段階から顕著になる道徳的意識の覚醒 〔アキレス腱反射〕下腿軸と足とを直角の位置善、教育の普及、福祉向上に力を注ぎ、チリ社 アキレウス・タティオス Achilleus 〈後藤政子〉 に伴って変わってくる。すなわち、悪はもつば にしてアキレス腱をたたくと、足は足底 ( 足の会の近代化と民主化に貢献した。 Tatios 生没年不詳。紀元後二世紀ごろのギ ら人間の意志の様態と考えられるようになり、 リシアの作家。アレクサンドリアの出身で、多裏 ) 側に反射的に伸展する。この現象をアキレアキンスキー・フリャート ArHHCKHÜ1 ス腱反射といい神経障害の検査に用いられる。 方面にわたる著述をしたというが、その生涯に bypflT/Aginskiy Buryat ソ連、ロシア共外的な要因から区別される。この変化がいつお せきずい くつかの社会で ついては正確な資料は何も残っていない。現存この反射が正常でないと脊髄の仙髄部分やこの和国中部、チタ州に属する自治区 ( 一九七七年こったかは確定しがたいが、い 〈嶋井和世〉 まで民族管区といった ) 。オノン川の支流アガ紀元前数世紀ごろからその兆候が現れてくるこ 高さの脊髄神経の故障を疑う。 する唯一の作品『レウキッペーとクレイトフォ とは事実である。古代中国における性善説と性 川の流域を占め、アガ・プリャートともいう。 〔アキレス腱断裂〕アキレス腱の皮下断裂はス ン』だけで知られている。これは、恋する若い 一九三七年九月二六日に成立した。面積約一万悪説との対立はその一例であるが、古代ストア 男女が運命のいたすらで離れ離れとなり、異国ポーツ外傷として跳躍、疾走などの際におこ ひふく 学派の思想はもう一つの例証といってよい。ス の地に放浪を重ねたのち最後に結ばれるまでのる。腓腹筋が緊張状態にあるときに、足関節が九〇〇〇平方キ。、人口約七万 ( 一九全 ) 。数条の 冒険を描いた小説で、死んだはずの主人公が生急に強く背屈を強いられると断裂する。その瞬山脈が併走し、アガ川とオノン川との流域にストア学派では、有徳であること、自然 ( 本性 ) すじだ に従って生きることが善であり、自然に反する きていたりするスリルに満ちた筋立てや、古代 間に激痛を感じ、音を発することもある。つまテップの平地がある。平均気温は一月零下二四 ことが悪であって、それ以外の生命、健康、快 さき立ちができなくなる。不完全断裂と完全断度 0 、七月一八度 0 。年降水量は三〇〇 ~ 五〇 世界の風物の記述が注目に値する。〈引地正俊〉 裂があり、ギブス固定あるいは手術が必要であ〇 = 、リ。原住民はプリャート人で、そのほかにロ楽、病苦、そして死さえもが、どちらでもよい アキレス 0 アキレウス かたい シア人、ウクライナ人、タタール人がいる。主アディアボラ ( 無記 ) とされた。ここには、善 る。完治すればスポーツがふたたびできるよう けん下腿後面のふくらは アキレス腱 しよう - 一つ 悪を厳しく人間の意志作用に限定する考え方が になる 〈永井隆〉要な産業は牧畜 ( ヒッジ、ウシ、ウマ、プタ、 ぎの下方からかかとの骨 ( 踵骨 ) に向かって 示されている。 ラクダ ) と穀作 ( 春小麦、エンバク、大麦 ) 、 走る、皮下に触れる索状の腱。解剖学名を踵骨アキレ・セルダ pedro Aguirre Cerda このストアの思想は、のちに成立する善悪、 ~ 四 I)O 農産物加工業と林業である。行政中心地はアギ 腱という。ふくらはぎの筋である下腿三頭筋 ( 天七九ー一九四 D チリの大統領 ( 在任一九三〈 〈三上正利〉あるいは価値の理論への一つの準備形態とみる ンスコ工 ArHHcKoeZAginskoe こともできる。いま悪に限っていえば、それは 悪あく人間にとって否定的と評価される対 はんちゅう 象、行為、事態をさし、肯定的な価値としての概して三ないし四の範疇に分けられてきた。 善の対をなすもの。このように形式的に定義すすなわち、自然的悪 ( 天災、病など ) 、感覚的 けいド ) ドレレっ るならば、善と悪との区別はすべての人間社会 悪 ( 苦痛 ) 、道徳的悪 ( 罪責 ) 、形而上学的悪 にみられるものであるが、ただ実際に何が善と ( 有限性 ) であり、このなかで最初の二つは、 され、また悪とされるかの内容は、人間の環外的な原因によるものとして一括してみてもよ ライプニツツは、すでにアウグステイヌス 境、社会構造、精神的能力などによって変化 し、一様ではない。それは人類の諸宗教ならびなどにも断片的にみられる悪の起源の問題を体 に道徳と深くかかわり、また哲学的反省の重要系的に取り上げ、いわゆる「弁神論」を展開し た。彼はこれらの諸悪を最終的には有限性によ な課題をなしている。 〔未開社会の悪〕ごく概括的にいえば、末開社るものとし、しかもそれを善の欠如態として説 会にあっては道徳的意識が未分化であるため、明している。 自然的な悪 ( 害悪 ) と人間の意志に基づく勝義〔悪の起源とその克服〕悪の起源と本質という での悪とが明らかに区別されない傾向が強い。 この問題は、その様態や基準とともに、哲学的 悪は、しばしば超人間的な力や神霊に由来する反省の重要な主題をなす。またそれは事物の最 ものとして対象化される一方、悪しき行為の規終的秩序の問題でもあるから、宗教の次元とも きんき 制はさまざまのタブー ( 禁忌 ) の形をとって行深くかかわってくる。それについては従来ほば われた。たとえば、わが国の固有信仰である神三つのおもな立場があった。一つは、前述のよ うに悪をいわば実体化してみるものであり、善 道では、道徳的な善悪も吉凶禍福もともにヨシ アキレス腱 ①アキレス腱 ②腓腹筋 ③ヒラメ筋 ④踵骨 ② ③ ② / 起始部 ③ ③ ひふく ① 停止部卩 〔左〕下腿三頭筋 ( ニ頭の腓腹筋とヒラメ筋 ) とアキレス腱 〔中〕起始部と停止部の模式図 〔右〕体表面から見た下腿三頭筋とアキレス腱 けがれ
はほとんど死語になりかけている。しかし第一一導する暴力革命ではなく、平和革命の道を選択アナキズム』 ( 一九 0 一 ) によってアナキズム理論 は、人間の間に経済的、社会的不平等をもたら 系化した。彼は古代から二〇世紀初頭まで することを勧める。なぜなら、彼によれば、し し、この格差を維持するために自由の拡大もま次世界大戦後、各国において大衆デモクラシー かなる政治権力 ( 革命政府ですら ) も、民衆的のアナキズムの思想を概観し、理想社会として た抑圧された。このため一九世紀に入ると、国の政治が定着し、個人自由の尊重という考えが 民の大半を占める労働者や農民の地位を改善すますます高まり、それに対応して各国の共産党なものから金権階級へくみするようになり、そは、権力機構や法律によらない自由な人々の結 ることを目ざしたさまざまな社会主義思想が登も「プロレタリアートの独裁」という概念を放の結果、自由と平等を破壊するようになるから合に基礎を置く相互扶助の組織を構想した。そ ひしつばう 場した。アナキズムはこうした思想状況のなか棄した現状、および人民国家を標榜した社会である。この点で、彼の主張は、革命後のプロれは、コミューンや労働組合や個々人の結合し ひっす セスにおいてプロレタリアートの独裁を必須のた集団に基礎を置く連合組織で、そこには中央 で登場した思想であるから、それは、空想的社主義国家においてさえも、スターリン主義とい 集権的な国家の入る余地のないものであった。 会主義やマルクス主義 ( 科学的社会主義 ) と同われる官僚的支配が現出してきたような状況のものとするマルクス主義と対立するのである。 6 アナルコ・サンジカリズム労働運動の主流 プルードンによれば、アナキズムとは各人に なかでは、かってアナキストたちが唱えた徹底 じく社会主義思想の一種とみることができょ した自由の主張を再検討してみる必要があろよる各人の統治、つまり自治制を意味する。そはドイツ社会民主党の隆盛によっていまやマル う。ただこのアナキズムは、当時革命思想とし て労働者階級の間で指導的地位を確立しつつあう。そこで次にアナキズムの代表的思想家の思れは、政治的機能をもたない経済的機能のみをクス主義に傾斜していった。こうしたなかでア もっ社会の実現を目ざすものであり、ここかナキズムは、フランス労働運動の思想的支柱で ったマルクス主義と、その理想社会のイメージ想内容について概観する。 ら、彼の分権的連邦主義の考え方や、生産物をあったアナルコ・サンジカリズムのなかにその 〔アナキズムの内容〕①ゴドウインとシュティ およびそれを実現する方法をめぐって対立関係 にたっことになる。したがって、マルクス主義ルナー近代アナキズムの理論家としては、プ引き換える流通券を発行するための「交換銀後継者をみいだした。アナルコ・サンジカリズ ルードン ( フランス ) 、バクーニン ( ロシア ) 、 行」の設立の主張が出てくる。したがって、彼ムは、ドイツ社会民主党の議会主義的方式に反 者とアナキストは、歴史上、激しく対立はした クロポトキン ( ロシア ) の名前をあげるのが普は、たとえ過渡的ではあれ、強力な国家権力を対し、生産点におけるポイコット、サポタージ が、ときには、両派は専制支配の打倒や反ファ ュ、ストライキ ( とくにゼネ・スト ) などの手 シズムのために共同して闘うこともあった。た通である。しかし、この思想の先駆者として用いて生産手段の共有化、国有化を図るマルク とえば、マルクスはアナキズムの代表的思想家は、『政治的正義に関する研究』 ( 一七九三 ) の著者ス主義の理論を批判するが、このため逆に彼段による直接行動を通じて、労働者の自主管理 を確立しようとするものであった。今日、この ゴドウイン ( イギリス ) と『唯一者とその所は、資本主義的生産様式をそのままにしておい プルードンの革命理論を厳しく批判し、第一イ ンターナショナルのなかではマルクス派とバク有』 ( 天四五 ) の著者シュティルナー ( ドイツ ) て平等化と正義の実現を図ることの非現実性をアナルコ・サンジカリズムは、レーニン以後の がいる。彼らはともに、国家権力やその基礎をマルクスによって反批判されることになる。結ポリシェビズムの勝利のなかでほとんどそのカ ーニン派が路線問題をめぐって激しく対立した なす私有財産制を否定し、徹底した個人の自由局、プルードンの思想は、大工場制が末成熟でを失ってしまったが、第二次世界大戦後の東欧 ( 一会九 ~ 七三 ) 。また大正期の日本でも、いわゆる き宿い 手工業者や農民、小商人たちが数多く残存して社会主義国家のうち、とくにユーゴスラビアや アナ ( 大杉栄 ) ・ポル ( 堺利彦、山川均 ) 論争を主張している。 いた一九世紀後半のフランスにおいて受け入れ最近のポーランドにおける自主管理制の実施や プルードンしかし、近代アナキズムの父は ( 大正九 ~ 一一年 ) がおこった。他方、マルク 主張のなかにその影響をみることができよう。 られるものであったといえよう。 プルードンである。彼は『財産とは何か』 ( 天 スが『フランスの内乱』のなかで絶賛した「バ ⑥日本のアナキズム近代日本のアナキズムは ③バクーニン封建色の濃いツアーの圧制下に リ・コミューン」の労働者たちのなかには多数四 0) 、『人類社会における秩序の創造』 ( 天四一 (l) 、 たるい のプルードン主義者がいたし、ロシア革命初期『経済的諸矛盾の体系ーーー貧困の哲学』 ( 天四育ったバクーニンの思想には、「神と国家』 ( 天樽井藤吉らが設立したヒューマニズムの色彩の 強い東洋社会党 ( 一公一創立 ) にその源流をもっ 七一 ) にみられるように激烈な宗教批判を特色と 六 ) 、二九世紀における革命の一考察』 (I<FI) あるいは一九三六年に始まったスペイン内戦の 初期にはポリシェビキとアナキストとの共同行などを書き、大きな影響を与えた。「財産は盗し、そこから、地上における神Ⅱ国家の徹底批といわれる。しかし、日本においてアナキズム が注目されるようになったのは明治末年から大 みである」という有名なことばによって、不労判がなされる。彼によれば、国家の本質は命令 動がみられるのである。 と支配と暴力そのものである。彼の国家批判は正期にかけてのことである。このころ日本でも 結局、両派の対抗は、ロシアにおける社会主所得が社会にあらゆる悲惨をもたらしているこ ようやく労働運動や社会主義運動が高まり、社 義国家の誕生をもって、マルクス主義とくにボとを指摘し、正義の行われる社会の確立を唱え強烈であり、「自由のための強制」というルソ ーの思想は全体主義的独裁以外の何ものでもな会民主党 ( 一九 0 一、即日禁止 ) や日本社会党 ( 一九 た。そのため、革命が必要であるとしつつも、 リシェビズムのアナキズムに対する勝利という 0 六 ) などの社会主義政党も結成されている。こ く、もっとも民主的な共和国ですら自由を否定 将来の政治権力を担う前衛党や労働者階級の主 形で終わり、今日ではアナキズムということば うしたなかでアメリカにおいてアナキズムの影 するものなのである。彼がインターナショナル 響を受けて帰国 ( 在米期間、一九 0 五・一一 ~ 0 六・六 ) においてマルクス主義者と争ったことは、プロ のル祖し , し リョ教こはと した幸徳秋水と片山潜、田添鉄二、西川光二 レタリアートの独裁の理論と普通選挙を獲得し シの起一人 ノトきタ亜 て労働者代表を議会に送り込むことを認めるマ郎、堺利彦らとの間でマルクス主義とアナキズ ~ ル物ラス引ス極 ョ 書。キをポる ムをめぐる論争がおこった。幸徳は、合法主義 ルクス主義の立場についてであった。アナキズ シの一ナ件版す 末タア事語壊 ムの潮流の一つに、議会主義を排しテロリズム的議会主義を通じて労働者階級や国民大衆に社 ラ紀ス派弾ア破 世ポ激爆リを による直接行動主義を重視する傾向がその後も会主義の影響力を及ばしていこうとするマルク 四伝過ばタ家 根強く残存したのは、バクーニンの影響によるス主義的立場に反対し、ゼネラル・ストライキ ソた宣のしイ国 ンいのスはの による直接行動主義を主張した。この論争はい ものと思われるが、このような思想は、ツアー フをトラ の圧政下にあったロシアのアナキストの置かれわゆる「アナ・ポル論争」として大逆事件で幸 涯スフりた ム生リのあれ庭て 行が刑死 ( 一九一一 ) したのちにも大杉栄に引き継 た状況と無縁ではない。 、陸 - ズのロ時でさ家し キ , テ当在刑 , 難 ④クロポトキン『。ハンの略取 ( 征服 ) 』 ( 天九一 l) がれたが、関東大震災の真っただ中で大杉が虐 ナ年弾 , 存処を非 殺 ( 一九 = = ) されて以後、アナキズムは実際政治引 を書いて有名なクロポトキンは、『近代科学と ア爆は的て彼て あ 第 ` イ -1