赤のビロード布の上に金糸 くネオ・クラシック〉肘掛け椅子 で N と刺しゅうされ , 脚部 サン・クル一宮殿のマリ・アントア にはヘラクレスとライオン ネットの居問に置かれたもので , 直 の足が刻まれている。バリ 線的な構成を示している。バリ ループル美術館 ープル美術館 0 、ウハウス ) エム・アール・チェア く口ココ〉肘掛け椅子 鋼管でつくられたカンティレバー ( 片持ち s 字 , 曲線 , 草花などを主題に設計されている。肘掛けが後 梁 ) 方式の椅子 ース・ファン・テつレ・ロー 工による設計で頭文字をとって名づけられた 方に移動し , 座面の扇型も特色の一つ。バリ装飾美術館 椅子 / 西洋の歴史 くビザンティン > マクシミリアンの玉 座部材のすべてに 象牙が使われ , 精巧 な彫刻が施されてい る。イタリアラベ ンナ大司教館付属博 物館 くギリシア〉クリスモス 古代ギリシアの家庭で , 婦人らによく用 いられた小椅子の 1 つ。皮紐で編まれた 座面の上にクッションが置かれていた アテネ国立考古学博物館 くコシック > チェス ト ( 櫃 ) を兼ねた椅子 背もたれは垂直で高く 精巧な彫刻で装飾され ている。バリ装飾美 術館 くエジフト〉ッタンカーメン王の椅子 祭儀に使用されたもので , 黒檀を主材料とし、 象牙 , 色ガラスなどが象眼されている。カイロ エジプト博物館 くルネサンス > 小椅子 座面と背もたれに伝 統的な彫刻のある 3 本脚の椅子ミラノ スフォルツア城博物館 く口一マ〉大理石の椅子 ディオニソス劇場の祭 司の席。絹製のクッシ ョンがこの上に敷かれた 工クトル・ギマールの椅子 ニューヨーククーバ ・ユニオン美術館 くバロック〉肘掛け椅子 ルイ 14 世時代のもので , 脚には彫刻の施された H の貫が採用されている。バリ装飾美術館 263
いすらむ ① ・なイノ続 ン物 / ・ = ン , ルい朝・↓ツ ③ ② : . の材ノ - . 、しノんンし : ; イスラム教 ① 17 世紀のオスマン・トル ニアチュー丿レ「ム / 、 ンマドの戦い』イスタンプ ールトルコ・イスラム美 ツ、術館 ②メ③ 16 世紀のベルシア・ミ ニアチュール『聖者に語る ムハンマドとアリー』およ び , 「ムハンマドによるメ ッカの偶像破壊』ダブリン チェスター・ヒューアイ 図書館 る。このような人を聖者 ( ワリー ) とよぶが、スーフィーた ちはその典型を預一一一一口者ムハンマドにみる。このような境地に 到達するには、神以外のいっさいのものへの執着を捨て、神 に思念を集中するという長い修行が要求される。イスラム法 の義務規定はこのような修行のなかに位置づけられる。こう して古典イスラムが、聖法の遵守を通して神と交わる共同体 的イスラムであるのに対して、スーフィズムは、各人が自己 の内面において直接神と交わる個人型のイスラムであるとい えよう。元来スーフィズムは少数のエリートの連動として出 発したが、やがて修行方法が整備され、新プラトン主義やイ ンド思想などの影響によって理論化される。一二、三世紀の 社会的混乱期には、ジクル ( 称名 ) による修行の簡易化と神 と人間の仲介者としての聖者への信仰によって大衆化し始 め、教団 ( タリーカ ) の形でイスラム世界の全域に広まって このような混乱のなかから一四世紀以降小アジアからバル カン半島へと勢力を拡大したオスマン朝トルコは、一六世紀 前半のスレイマン一世 ( 大帝 ) のころには、小アジアはもと より、遠くウィーンに迫るバルカン半島の奥深くまで、南は イエメンに至るまでの地中海周辺アラ・フ諸地域を征服して広 大な統一国家をつくり、スルタンはカリフを称してスンニー 派イスラム世界の守護者として登場した。一六世紀初め、オ スマン朝スルタン、セリム一世がシリアを征服した際、まず 有名な一三世紀初期のスーフィー思想家イプン・アラビーの びよう 廟を建立したことは、この王朝とスーフィズムの結び付き を象徴的に示している。同じころベルシアの地では、イル・ ハン国、ティームール朝を経てイラン民族を統一して十二イ マーム派 ( シーア派の一 ) のサフアビー朝が興り、スンニー 派のオスマン朝と対立しつつも、一六世紀から一七世紀にか けてのシャー・アッパ ース一世のころには、政治的にも文化 的にも隆盛の時期を迎える。スンニー派イスラム世界では、 ガザー ーの哲学批判などもあって、スペインのイプン・ル シュド ( アベロエス ) 以降消滅したとされるギリシア哲学の 伝統は、スーフィズムと融合したこの地のシーア思想のなか で生き続け、モッラー・サドラーを頂点とする一連の思想家 のなかで新たな展開をみた。 また、インド亜大陸のイスラム化が進むのも一三世紀以降 のことである。すなわち、インダス川上流の北西辺境地域を 支配していたガズナ朝を滅ばして登場したゴール朝以後、 ムスリムの本格的なインド侵入が開始される。一二〇六年に どれい はゴール朝のあとにデリー ・サルタナット朝 ( 奴隷王朝 ) が 八九二アノ ース朝の首都サーマッラーからふたたび 、グダードに移る シーアーカルマッ ト派の反乱 ( 、九 0 し ) 九〇九アグラブ朝滅び、北アフリカにシーア派のファー ティマ朝おこる ( 、二七一 ) 儿三二イランにシーア派のプワイフ朝おこる ( 、一 0 六 : ) ル三四フワイフ朝、バグダードに入城 儿三五神学者アシュアリー設 儿六九ファーティマ朝、エジフトを仕服 一〇三七哲学者・医学者イプン・シーナー設 一〇三八セルジューク朝おこる ( 、二九四 ) 一〇五五セルジューク朝、バグダ ードに入城し、プワイフ 朝を滅ほす 一〇五六モロッコにムラーピト朝おこる ( 、二四と 一〇九ル第一回十字軍、エルサレムを攻略 ー儿又 一神学者・神秘思想家ガサー 一一三〇北アフリカにムワッヒド朝おこる ( ー一一一六凸 一六九サラディンがファーティマ朝を倒し、アイユープ 朝をおこす ( ー一二当 ) 一一九八哲学者イプン・ル、ンユド設 一二四〇神秘思思家イプン・アラビー設 一二五〇アイユープ朝滅び、マムルーク朝おこる ( 、一五一と 一二五八モンゴル軍、バグダードを攻略。アソ・ び、イル ハン国おこる ( 、一三五「一 ) 一二九五イル・ハ ン国のイスラム国教化 一二九九オスマン朝おこる ( 、元三 ) し 0 ティームール朝の成立 ( 、一吾と 一四五三オスマン帝国、コンスタンティノーフルを攻略。 ビザ・ンティン帝国の滅亡 一五〇 イランにシーア派サフアピー朝おこり ( ・イマーム派を国教とする 一五一しオスマン帝国、エジプト、シリアを併合。マムル ーク朝の滅亡 一五二六インドにムガル朝おこる ( 、一八 ) このころ、東南アジアにイスラム教が広まる オスマン帝国のウィーン包囲戦失敗 一し三六イランにアフシャール朝おこる ( 、九六 ) 一七三九ムハンマド・イフン・アブドル・ワノ ラビアでワソ・ ープ派運動をおこす 一しし儿イランにカージャール朝おこる ( 、一九二五 ) 一八 0 五エジプトにムハンマド・アリー朝おこる ( ー一発・、 ) 一八四八イランでバープの反乱 ーイ教の成立 エジプトでのアラーピーの革命失敗。スーダンで マフディーの反乱 ( 、究 ) 一儿二三トルコ共和国の成立。習年カリフ制廃止 一九二五イランに。ハフラビー朝おこる ( 、 ) ープ派のサウジアラピア国成立 一儿四七インド、。ハキスタンの分離独立 儿五二 エジプトで自山将校団の革命起こリ、制終わる 儿し九イランでイスラム命起こる ース朝滅 、一七三六 ) 、 ープ、ア 299
いがくし B c >00 医学の流れ 〈西洋〉 ろ 0 「エドウイン・スミス・バビルス」 ( エジプト ) ( し O 物 ロギリルア、植民地建設開始 ( 。・昿五 00 ころ ) ミレトス派 ( タレス、アナクシメネス ) ロミイ書《・中心ルシアに対抗・ー 失敗に終わる ロアテ。 ~ ルシア軍撃退 四イオ一デの植民地、政治的自由確立 アテネ、古代民主政の隆盛 国べロポソス戦争 国マケ篁一ア、ギリシア征服 ロインド医学伝わる ロアレクサン・ア帝国成立 ーー ^ 自然学の発生〉ーー 〈天文学〉 外科技術の発展 ヘロフイロス〈人体解剖〉 エラシストラトス ^ 解剖、脳神経〉 アスクレピアデス〈気管切開〉 ・この図の見方について この図は、西洋と日本の医学の流れを表したものて ある。医学を大きく外科的、内科的、社会的医学に 分け、医学にかかわる制度・政策、社会的な事件な い」ーコ載ー」 4 に。 この図ては、外科的、内科的医学とも全体と部分の 関係を示すことを試みた。たとえば外科的医学の場 要素 外科的 ・ビタゴラス ー・パルメ 4 まアネー アリスタルコス アルキメデス アポロニオス ヒッパルコス ーーナナ廿きラス 唯物論 デモクリトス ソクラテス フイト 7 イ アリストテレス 〈数学〉 エウクレイデス ュークりッド ) ー 全体 社会医療 合、人体の個々の部位の外科的解明や患部の治療法 などと、人体全体あるいは患者そのものの認識のさ れ方の関係がそれてあり、流れを示す矢印が外側 向いたときは部分に、内側に向いたときは全体に比 重がかかったことを示す。また医学が自然科学的認 識を強め、いわゆる進歩する契機となった発見や事 件の場合は相対的な段差をつけて示した。 ヒボクラテス学派 〈コス派、クニドス派〉 ヒボクラテス、プラクサゴラス 社会的 円ヒボクラテス全集」 空問的 時点的 要素 病者全体 全体 時点的 経時的 ろ ・最古の医療規定 .0 ハムラビ法典 0 0 ・ ( バビロニア ) 内科的 象第を書・第ド第を鋼い第餮第第第第 ー B. C. : 1700 ごろ : プス ス ーアルグマ不矛ンーー 〈最初のギリシア医書〉 ・ - ロ一ろススルタ ( インド ) B. C. 300 B. C. 400 中 国 B ℃ .200 合理的、経験的な治療法を多くもっていたこと 策 政 が知られる。エジプトでは、時代が新しくなる 度 ほど神秘的・呪術的要素が強くなる。これに関 度た しては、宗教との結び付きが強化されたのか、 し れれれ畤 あるいは偶然に残った資料がそのような傾向の / せ・こ ものに限られたのか、明らかではない。エジプ のののさをき なぞ 学学学歩歩で ト医学で謎とされているのは、過度ともいえる 医医医進進の 的的的をの野医師の専門化である。目の治療の専門家、頭痛 ・一うもん 科科会学学分 の専門家、肛門、さらには特定の内臓の専門家 外内社医医他 などである。こうした状況は、一般的なものか ら特殊専門が分化するという常識的な進歩観か 三三 らすれば驚異である。しかし、一般的になる前 段階として、個々の医師が発見・開発した技術 を国家がただ集めて存続させたために生じた状 況であろう。 中国では、医学は官僚の管理下に置かれた。 へんさん 多くの医学書は、宮廷で編纂・保管された。 こうていないきよう 『黄帝内経』は、伝説上の帝王である黄帝と家 臣との対話の形式で医学知識が述べられている が、これは、権力が従来の伝承を結集してつく ったものであろう。また『傷寒論 ( 傷寒雑病 ちょうさ 論 ) 』は、後漢 ( 一一五 ~ 一一一一 0 ) の時代、長沙の太守 ちょう↓っゅうけい の張仲景が著したとされるが、おそらく民間 に伝えられた経験を権力によって集約し、太守 の名で発表したものであろう。 〔古代ギリシアの医学〕古代社会でも、ギリシ アになると、近隣のメソボタミアやエジプトと 状況が異なってくる。古代ギリシア人は信仰深 くもあったが、それとは別の次元で合理的な自 然観を育てた。これは、ギリシアが多くの地域 で後背地が岩だらけの山地であり、強大な国家 を建設するためには主として交易によって生計 をたてざるをえず、それがより互換性のある合 理性や経験的知識を尊重することにつながった ためと考えられる。医療もギリシアでは多彩な 形態と学説をとることになった。 そうしたなかで、ギリシアの医学を代表する のはヒボクラテスである。彼は、ギリシア人に 広く信仰された医療神アスクレ。ヒオスに連なる ひょうばう ことを標榜して医療を行っていた職業者集団 アスクレピアダイの一門に生まれ、地中海や小 アジアなどを広く旅して技術の修得と観察経験 を重ね、存命中から名医としての評価を得てい た。そして死後、一段と名声が高まり、医学が 批判されるような事態が生じるたびに「ヒボク かえ ラテスに還れ」といわれるはどの存在になっ た。一般的にヒボクラテスの見解として伝えら 5
いすらむ 当 : : ゞ・、 1 三ネい第を ⑤モスクにおける集団礼拝。礼拝はイス ラム教徒の義務の一つで , 毎金曜日正午 にはイマーム ( 教主 ) の指導のもとに集団 で行われる ( ナイジェリア ) ⑥イスラム神秘家によるジクル ( 称名 ) 。 神の名を称えて神を回想し , 精神を集中 して神との合ーを目ざす修行法 ( エジプ ⑦断食明けの祭り。旗を立て , 牛を伴っ てモスクに向かう人々 ( モロッコ ) ⑧アズハル大学におけるコーランの講義 ( エジプト ) ⑨アッラーの名のもとに行われる山羊の 屠殺。コーランでは , アッラー以外の名 が称えられて屠殺された動物の肉は , 食 用を禁じられている ( トルコ ) 以上の五柱を「イバーダート」 - 一 b というが、これは 神への奉仕の意である。つまり、五柱とは神に対する人間の 奉仕義務のことである。これに対して、日常生活を行ううえ での人間相互の関係、たとえば、婚姻、相続、契約、売買、 裁判、刑罰、聖戦などを規制する人間の義務関係、つまり法 的規範を「ムアーマラート」 mu'ämalät という。このイヾ ーダートとムアーマラートをあわせたものがイスラム法 ( シ ャリーア ) の内容をなし、イスラム法学 ( フィクフ ) が明ら かにするものである。イスラムとは、このような生活規範の なかに示されている神の命令に従って日常の生活を営むこと である。この意味でイスラム教は、生活に密着した宗教であ るといえる。ムスリムになるということは、日常とは異なる 特別な生活をすることではない。日常生活を自覚的に正しく 生きようとすることにほかならない。イスラムはそれを抽象 的な道徳として説くだけではなく、そのための具体的な生活 規範をも明らかにしているのである。そのような生き方のな - ッかに、現世の福祉と来世における救いがある。なぜなら、イ 、スラムにおける正義とは、神がそのことばのなかに示した命 令のことであり、したがって、正しく生きるということは、 神に従順に生きることだからである。こうしてイスラムの信 仰は必然的に共同体的形態をとり、さらには国家的形態をと ろうとする。イスラムのこの実践的性格は、その最初の、そ してもっとも高度に発達した学問が、神学ではなく法学であ るということに現れている。それは、イスラムの教義が単純 平明であることにもよるが、なによりもまずムスリムが最初 に直面した問題が、何をなすべきか、つまり、どのように行 動すれば神の意にかなうのか、という具体的な行為規範であ ったことによる。そのための第一のよりどころとなるコーラ ンをいかに正しく解釈するかとい , っことから、コーラン学や 文法学が生まれ、さらに古詩学や伝承学、そしてイスラム法 解釈の方法論を明らかにする法理論が生まれ、さらに神学 ( カラーム ) が生まれたのである。 歴史 〔正統カリフ時代 ( 六三一一 ~ 六六一 ) 〕預言者ムハンマドは教友た ちに聖典コーランと共同体と、彼らの記憶のなかにムスリム としての生き方の模範を残して世を去った。しかし、彼の死 後、イスラム共同体はアラブ諸部族の離反 ( リッダⅱ背教 ) によって一時崩壊の危機に直面するが、やがて彼の「後継 者」 ( カリフ ) としてア・フー ・バクルが共同体の指導者 ( イ マーム ) に選ばれ、彼の努力によって再統一される。次のカ 2
ンでのイギリスの権益は留保され、軍隊駐屯も ものの、作品の質の面ではほとんどみるべきも にも共通する動向だったが、映画界においても タリー映画の伝統は、大戦中から戦後にかけて イギリスのヌー・ヘル・バ ーグともいうべき「フ継続し、治外法権も残されたため、その後も反 のはなかった。この時期の代表作には、アルフ劇映画と結び付き、実写的な真実感をもった劇 リー・シネマ」の波が押し寄せたのである。そ英運動が続いた。二九年、イギリスは初めてス レッド・ヒッチコック監督の『下宿人』 ( 一九映画というイギリス映画独自の特色を生み出し ーバート・ウイルコックス監督のていく。実景を舞台背景に、生活感をもったじのなかから、カレル・ライス監督の『土曜の夜工ズ連河地帯以外の軍事占領を終結する条約案 あかっき 『暁』 ( 一九一一 0 などがある。 みな人間たちが主役を演ずるという特色は、デと日曜の朝』 ( 一九六 0 ) 、リチャードソンの『蜜のを示したが、交渉は難航し、三五年秋イタリア のエチオピア侵略による危機感を背景にしてよ 〔コルダとロンドン・フィルム〕サイレント映イビッド・リーン監督の『逢びき』 ( 一九四五 ) や味』 ( 一九六 l) 、『長距離ランナーの孤独』 ( 一九六一 (l) 、 画の字幕のイラストレーターから監督になった リンゼイ・アンダーソン監督の『孤独の報酬』うやく条約成立となった。内容は、①イギリス リードの『邪魔者は殺せ』 ( 一九四七 ) などの秀作 ヒッチコックは、一九二九年にイギリス最初の にもみられるが、とくにマイケル・バルコンの ( 一九六三 ) などが生まれた。『或る種の愛情』 ( 一九はエジプトの国際連盟加盟を支持する、盟二〇 トーキー映画『脅迫』を発表したが、イギリス主宰するイーリング・スタジオの作品に劇と記六 (l) をつくったのち、アメリカで『真夜中のカ年の期限付きでイギリス軍のスエズ連河地帯駐 映画に良質な作品が生まれるのはトーキーにな録のイギリス的融合が顕著であった。 ーポーイ』 ( 一九六九 ) を発表したジョン・シュレ留と、戦時における同国領内での自由な作戦行 動を認める、③スーダンの地位は従来どおりと ってからであった。サイレント時代は、英語字 一九三四年ごろから映画製作に進出していた シンジャー監督も注目された。 また、ジョゼフ・ロージーやスタンリー ・キするが、同地へのエジプト人の移住の自由など 幕をもったアメリカ映画の隆盛がイギリス映画イギリスの製粉王アーサー・ランクは、戦後急 ュープリックのように、アメリカからイギリスを認める、④治外法権は将来廃止する ( 翌年の を圧倒していたが、トーキーになると両国の言激に映画の製作と興行活動を拡大し、前記のイ 語の差が意識され、それが映画製作の活発化へ ーリングを含む傘下の各プロダクションは、競 に居を移して活躍している監督もおり、同じ英取り決めで一二年後とされる ) 、などであった。 とつながっていった。 って特色ある作品群を生み出した。ローレン 語圏である関係上両国の映画人は互いに交流し同条約によりエジプトの「独立」はより実質的 〈石井摩耶子〉 一九三二年にハンガリー生まれのアレグザン なものに近づいた。 ス・オリビエ監督・主演の『ヘンリイ五世』あって、それがイギリス映画の独自性を希薄に えんげきイギリス演劇 ダー・コルダがロンドン・フィルムを設立し、 ( 一九四五 ) 、『ハムレット』 ( 一九四 0 は、シェークスする結果も生んでいる。たとえば、オリビエやイギリス演劇 は二人のエリザベス女王の時代に、世界演劇史 ジョン・ギールグッドらの名優はしばしばアメ 自ら『ヘンリー八世の私生活』 ( 一九三三 ) を監督、ピア劇の映画化に大きな成功を収め、またマイ またフランスから招いたルネ・クレール監督にケル・バウエルとエメリック・プレスパーガー リカ映画に主演するし、『わが命尽きるとも』の動向を左右するような高揚を示した。その一 ( 一九六六 ) のフレッド・ジンネマン、ビートルズ つは、一六世紀末から一七世紀初頭にかけての 『幽霊西へ行く』 ( 一九三五 ) 、ジャック・フェデー の製作監督チームによる『天国への階段』 ( 一九 よろい もので名をあげたリチャード・レスターなどの シェークスピアを頂点とするルネサンス ( エリ 監督に『鎧なき騎士』 ( 一九三七 ) をつくらせた。 四六 ) 、『黒水仙』 ( 一九四七 ) 、『赤い靴』 ( 一九四 0 など ように、イギリス、アメリカを問わずに活動しザ・ヘス朝 ) 演劇の開花で、後年その影響は欧米 同じくハンガリー生まれの映画製作者ガ。フリエは映画の色彩表現に多大の成果をあげた。 から世界各地に及んだ。もう一つの高揚は、一 ル・バスカルは、・ a2 ・ショーの戯曲の映画 戦時中閉鎖されていたコルダのロンドン・フている監督も多い。テレビ出身のケン・ ラッセル、「 007 」シリーズのテレンス・ヤ九五〇年代後半に始まった現代演劇革新の動き 化『ピグマリオン』 ( 一九三 0 を発表した。欧米イルムも活動を再開し、リードの『第三の男』 けんらん で映画製作を経験していたコルダは、娯楽性の ( 一九四九 ) などを送り出した。また、イギリス映ングやガイ・ハミルトン、チャールズ・プロンで、質的に前記の絢爛たる達成には及ばなかっ たとしても、ここで生じた新しい演劇の波動は 強い大作を次々に発表し、イギリス映画の大き画の最大の特色ともいうべき劇と記録の融合 ソン主演ものを多く手がけているマイケル・ウ イナーなどは、イギリス映画の監督というより たちまち全世界に伝わって、自己表現の方法を な力となったが、スタッフやキャストの顔ぶれは、それにユーモアを加えたイギリス調の喜劇 求めていた若者たちに熱狂的に迎え入れられ が国際的で、その作品傾向も純粋にイギリス的へと発展し、チャールズ・クライトン監督のは英語圏で活躍する作家というべきだろう。 A_J ・は、し。し・刀子 ( し 『ラ・ヘンダー・ヒル・モプ』 ( 一九五 l) 、アレグザ 『小さな恋のメロデイ』 ( 一九七 0 ) のワリス・フた。この二度の演劇興隆の時期は、固定したイ 〔ドキュメンタリー映画運動とその展開〕一九ンダー・マッケンドリック監督の『マダムと泥セインはテレビ出身であり、『炎のランナー』ギリスの社会が流動化してきた時期であり、ヨ ー・ハドスンは O フィルム出 ( 一九〈 l) のヒュ ーロッパの文明が変動期に差しかかった時代で 二九年には、ジョン・グリアソンがドキュメン棒』 ( 一九五五 ) などを生んだ。 もある。 しかし、コルダの死 ( 一九五六 ) ごろからイギリ 身、『素晴らしき戦争』 ( 一九六五 ) や『ガンジー』 タリー映画『流網船』をつくった。彼が中心と ( 一九全 ) のリチャード・アテンポロは俳優出身〔中世演劇〕エリザ・ヘス朝演劇の開花に至るに なって提唱されたドキュメンタリー映画運動スで製作されるアメリカ映画が多くなってき は、徐々にその芽が育てられていった長い中世 た。これにはさまざまな理由があるが、要約すと、最近のイギリス映画の監督地図は多様だ は、当時二十代になったばかりのベジル・ライ トやポール・ローザらが製作と理論の両面で活ればイギリス映画界がアメリカ映画の巨大な力が、全体的にみる限り、アメリカ資本のなかでの演劇の歴史があった。ヨーロッパ諸国と同様 にイギリスの中世演劇も、カトリック教会が民 にのみ込まれた結果といえるだろう。リーンがのイギリス映画といった色合いが濃く、イギリ 躍し、現実の記録に映画的な詩情を織り込んだ きとう ス独自の特色は出しにくくなっているのが現状衆教化を目的として祈疇のなかに軽い演劇的要 監督した『戦場にかける橋』 ( 一九五七 ) や『アラ 独自の流派を形成した。アメリカ出身のロバ ト・フラハ 〈品田雄吉〉素を取り入れたのが始まりである。やがてその ーティが、アイルランドの孤島で名ビアのロレンス』 ( 一九六一 D は、アメリカ資本のといえる。 回筈見有弘著『イギリス映画史』 ( 『世界の映画規模が大きくなり、場所も教会堂の中から外の 作『アラン』 ( 一九三四 ) をつくったのもこの運動支配下でつくられたイギリス映画である。 〔フリー・シネマ以降〕一九五九年にジャッ 境内へ、さらに町村の広場へと出ていくにつ イ家』所収・一九七六・キネマ旬報社 ) の大きな成果である。第二次世界大戦が始まる そうりよ ド ) よ , つや / 、 ク・クレイトン監督の『年上の女』とトニー れ、担い手も僧侶から民衆に交代し、職業組合 と、報道や戦意高揚の手段としてドキュメンタ イギリス・エジプト条約 サイクル リー映画の製作がさらに活発になり、ロイ・ポリチャードソン監督の『怒りをこめてふり返一九三六年八月二六日、ロンドンで調印されたを制作陣の基盤とする長大な「聖史劇」が誕生 ールティング監督の『砂漠の勝利』 ( 一九四三 ) 、キれ』が発表され、イギリス映画は新しい展開をイギリス・エジプト両国間の友好条約。エジプするころには、民衆の娯楽や祭典と一体化した ものとして演劇は完全にイギリス人の生活に根 す・ヤロル・リード監督の『真の栄光 ( アメリカ迎えた。イギリスの古い階級社会がもたらす閉トは一九世紀末以来イギリスの実質的支配下に のガースン・ケニンと合作。一九四五 ) は、とくに塞状況に対して、庶民の若者たちの怒りといらあり、第一次世界大戦に際して正式に保護国とを下ろした。ヨークその他に現存する一四、五 キ、優れた戦争記録映画であった。 だちが表現されるようになった。このいわゆるされたが、戦後激しい独立運動により一九二一一世紀の台本を用いて、今日でもしばしば聖史劇 7 「怒れる若者たち」の出現は、文学や演劇など年「独立」した。しかし、スエズ運河、スーダの上演が行われている。 こうして形づくられたイギリス・ドキュメン みつ
完了した。だがパレスチナ人の自治に関する交なお中東においては、前述のようにエジプトと 水業 1 , ん大きなものだけでも三回の武力衝突が双方の間 狩業 ↓シオニズム↓中の外交関係を樹立した。 、らで起こった。とくに一九六七年の戦争ではイス渉は進展をみせていない 業 % 林・業業 ラエルが圧勝し、シリアからゴラン高原を、ヨ東戦争↓パレスチナ問題↓ユダヤ人問題 〔軍事〕人口においても経済力においても、圧 業石造円設 す , 農 鉱採製 ルダンからエルサレムを含むヨルダン川西岸地〔政治〕政体は民主共和制で成文憲法はない。 倒的優位にたつアラブ諸国に対抗するため、軍年 区を、そしてエジプトからガザ地区とシナイ半クネセトとよばれる定数一二〇の議会が国の最備増強に最大限の努力を傾けている。イスラエ 数 島をそれそれ奪った。しかし七三年の戦争で、高機関であり、議員は一八歳以上の国民の投票 ル軍は、約二万人の職業軍人、兵役期間中の兵ロ イスラエルはシリア、エジプト両軍の奇襲を受 によって選出される。投票は個人にではなく、 士、そして予備役の三つから編成されている。人 け大きな損害を被った。しかもアラブ産油諸国政党に対してなされ、得票率に比例して議席を国民皆兵制を敷いており、一八歳になると男子 業 は、アメリカの対イスラエル緊急軍事援助に反分配する完全比例代表制である。この制度下で には三年、女子には二年の徴兵義務が課されて就 3 発して、アメリカとオランダに対する石油輸出は、死票がはとんど存在しないことも理由とな いる。しかしアラブ系市民は、ドルーズ教徒だ 男他 の の禁止、非友好国に対する輸出量の削減などの って政党が群立し、「ユダヤ人が二人いれば、 けが招集を受ける。兵役期間終了後は予備役に 一連の措置を発表した。これは「アラブ石油禁政党が三つできる」といわれる。かって単独で編入され、男子は五四歳まで、女子は三四歳ま 輸」として世に知られ、それまでにアラ・フ原油クネセトの過半数を制した政党はなく、連立内で毎年一か月の訓練を受ける。正規軍は一九八 しんかん への依存度を高めていた西側工業諸国を震撼さ閣が政権を担当するのが常である。一九四九年二年現在一七万四〇〇〇人である。しかし予備 せた。だが結局イスラエルの反撃が功を奏し、 の第一回クネセトから七七年まではマパイ ( イ役を招集すれば、短期間のうちに五〇万人の動 この戦争も戦術的にはイスラエルの勝利に帰しスラエル労働党 ) を中心とする政府が、それ以員が可能である。人口の少なさからして大兵力 た。しかしながらアラブ側は、緒戦における成降はべギン前首相の率いるリクード ( 右翼連合 ) の長期間にわたる動員は、あまりにも負担が重 功によってイスラエル軍不敗の神話を崩し、さを中心とする内閣が組織されてきた。 いため、イスラエルの戦略は短期決戦である。 らに石油禁輸によって国際的影響力を高めた。 〔外交〕シオニスト国家の生存権を否定するアまたアラ。フ側との兵力の差を、組織力と兵士の 戦闘が収まると、アメリカのニクソン政権の ラブ諸国との対立を背景とし、イスラエルはそ資質、そして兵器で補っている。兵器は主とし キッシンジャー国務長官によって「ステップ・ の国際的承認の獲得を外交目標の最大課題としてアメリカ製であり、戦車三六〇〇両、装甲戦 ハイ・ステップ」方式による和平への努力が試てきた。建国直後に北アメリカ・ヨーロッパ諸 闘車四〇〇〇両、戦闘機・爆撃機五三二機、そ みられた。これは小さな妥協点を積み重ねて、 国と外交関係を樹立し、一九六〇年代には新しれに国産のガプリエル・ミサイル装備の艦船二 終局的解決に至ろうとするものであった。そし く独立したアジア・アフリカ諸国の多くと外交七隻などを保有している。イスラエル軍は装 てシナイ半島とゴラン高原でのアラブ、イスラ関係の設立に成功した。これにはイスラエルの備、訓練、士気、実戦経験のいずれをとってみ入 エル双方の兵力の引き離しが、キッシンジャー 与えた経済・技術援助が大きな役割を果たしても中東随一である。またモサドとよばれる情出 イ ちょ・つ の「往復外交」とよばれる精力的な努力によっ た。また五〇年代末に西ドイツからの援助を受報機関が、アラブ諸国をはじめ世界各地で諜 別西 て達成された。キッシンジャー外交の後を継い け入れ、六〇年代に入って正式に外交関係を結報活動にあたっている。さらに専門家の間では だのは、一九七七年に登場したカーター政権のんだのも注目される。しかし六七年の戦争のあイスラエルが核兵器を保有していると信じられ品 カ 包括的和平案であった。これは、関係諸国およ と、ルーマニアを除く東ヨーロッパ諸国がイスている。 メ 0 一 手 び団体をジュネープに招集、一挙に平和への道 ラエルとの外交を断絶した。また七〇年代に入〔産業・経済〕バレスチナは古代より豊かな土 相 を開こうとするものであった。しかし、イスラるとリビアなどのアラブ産油国の。フラック・ア地として知られていた。シオニストたちは高度 レ エルで強硬派のペギン内閣が誕生したこともあフリカ諸国への経済援助が急増し、イスラエル な技術を活用して、この地の農業をいっそう発 別年 LC¯) 0 ) 〔 0 0 ) 類 L-n 0 ・ ) って交渉は難航した。この和平外交の停滞のなのそれをはるかに上回るようになった。それが展させた。柑橘類などの輸出が年間三億←、を超工手 ラ相鱆鱆 かで、七八年エジプトのサダト大統領がエルサ主たる原因となって、それらの国々は次々と対えるまでに成長している。その七五 % がヨーロ 出 ス < 入 輸輸 ツバ向けであり、なかでもイギリスは最大の市イ〔輸 レムを訪問して新しい局面を開き、翌七八年に イスラエル断交に踏み切った。アラブ諸国は、 はイスラエル、エジプト、アメリカの三国首脳 こうしたプラック・アフリカ、社会主義諸国と場となっている。 工業もまた目覚ましい発展をみせている。一戦車、ガプリエル・ミサイルなどは有名であ が会談、合意に達した。これはキャンプデービ共同歩調をとり、国連において続々と反イスラ ット合意とよばれ、二つの部分からなってい エル決議案を成立させてきた。しかも、イス一フ九五〇年の外資導入促進法の制定後、アメリカる。三〇万人の労働者を抱え、年間一二億トルを る。一つはイスラエル・エジプト間の平和条エルと密接な軍事・経済関係にあり、最大の石系企業を中心に多くの外国企業が進出した。セ超える輸出がある。農業、工業以外の財源とし 約、大使の交換、シナイ半島のエジプトへの返油供給国であったイランで七九年に王制が崩メント、光学ガラスなどの産業がある。またダては、観光収入、海外のユダヤ人からの送金、 還など、そしてもう一つは、。ハレスチナの自治壊、新政権はイスラエルとの断交を決定した。 イヤモンド研摩産業は有名で、同産業の伝統的アメリカの援助がある。アメリカは過去五年間 こうした厳しい国際環境下のイスラエルにとつ中心地オランダ、ベルギーを上回る規模を誇っ ( 一九七五 ~ 〈 0 ) に一三〇億トルの援助を与えた。一 確立のための交渉を規定している。この合意に よりイスラエルは初めてアラ。フ国家との関係正て最大の友好国はアメリカであり、近年アメリ ている。最近とくに注目されているものに兵器九八一年現在でも年間二〇億トルを超え、イスラ 常化に成功した。そしてサダト大統領の暗殺力への経済的、軍事的依存度をますます高めて産業がある。軍事上の理由から武器の国産化がエルのユダヤ人一人当り七〇〇ドルに上る。 いる。また南アフリカ共和国との関係が七〇年推進され、兵器開発費用の調達のためその輸出 ( 一九ハ l) にもかかわらず、八二年四月には合意 こうした産業の発展と、海外からの援助を反 どおりにシナイ半島のエジプトへの全面返還を代に大使級に格上げされたのも目だっている。 が奨励されている。クフィル戦闘機、メルカバ 映し、イスラエルの一人当りの国民所得は年間 イギリス ( 0 (. 0 額万ル乙入 百米 14 イタリア オランダその他 42.3 41.2 フフンス 43.1 44.1 13.4 9.4 9. スイス 地域・社会・ 個人サ ビス業 34 . 4 香港。旧本 ペ丿レギー 自動車 金属製品その他 有機薬品 1 941 . 1 4 552.8 8.3 6.7 5. 8.7 5. 五 4. 原油鉄鋼 機械類ダイヤモンド 15.0 13.6 1 317 700 人 電気・ 4 172.6 ガス・ 7 447.6 金融・ 水道業 1 . 0 保険・ 不動産業運輸・ 卸・小売・ 通信業 6.7 ホテル業 1 1 . 4 注 : ISICk 分類, 「 ILO 労働統計年鑑」による 42.9 39.1 化学肥料 航空機衣類 実 1 941 . 1 4 552.8 32.3 35.3 33.0 31.2 13.7 288
きと、つ け入れ、総合的なイスラム文化がまず発達し始 ヨーロツ。ハよりもはるかに大きい。そのなかで獣文、聖樹文、アーチ ( 祈疇用 ) などのタイプが主となり、装飾技法もすこぶる複雑である。 ース朝時代 ( 七五 0 ~ 一一一五 0 となっ も金属工芸は、陶芸、染織とともにもっとも重に分類することができる。 トルコ・。フルーの青釉はその典型で、呈色剤にめた。アッパ 要な位置を占める。工芸諸分野における共通し 〔ガラス〕古代ローマとササン朝ベルシアのガは炭酸銅が用いられた。前代からの染付やラスて、政治の中心がイラクに移ると、長年その地 た特質の一つは、建築装飾と同様、過剰な装飾ラスの伝統を継承している。 一一世紀に ター彩、掻き落し文様のガ、、フリ手、色彩で文様方を支配してきたベルシア系の制度、文化が盛 を施すことにより、器物本来の機能性や質感な は、おもにベルシアやメソボタミアで、浮彫を現したラカビ手、白釉面に絵付したミナイんに取り入れられた。またアラビア語を学んで せいらん どが著しく損なわれていることである。 り、線彫りやカット技法が盛行し、一方、一二手、青藍釉地に上絵付したラジュ・ヘルディナ多分にアラブ化した。ヘルシア人のなかから各方 しんちゅう 〔金属工芸〕青銅、真鍮のほか、金、銀、銅、 一四世紀には、地中海沿岸地方、とくにシリ 手、白釉面に上絵付して再度透明釉をかけた白面で頭角を現す者が輩出し、イスラム文化の発 鉄を素材とし、鋳造、打ち出し、彫金、象眼、 ア、エジプトで多彩なエナメル彩画の技法が新釉藍黒彩陶など加飾法はきわめて多彩で、百花展に寄与するところが大きかった。 きんばくすかし りようらん めつき、金箔、透彫りなどの技法によって、 一方、ギリシアの古典類の研究や、その翻訳 たに流行した。イスラム・ガラス独特の形式と繚乱の感がある。一四世紀の終わりにイル・ しよくだい 燭台、香炉、水差し、。ヘンケースなど多様な しては、モスク・ランプ、各種のバラ水瓶、扁 ハン国が倒れたのち、一時期、作陶は総体に低事業もますます盛んとなり、九世紀はその最高 イ品がつくられた。象眼には、金、銀、銅が使壺形巡礼瓶などがある。 調であったが、一六世紀のイランにサフアビー 潮の時代であった。とくに第七代カリフのマー ぞうげ われ、とくに鉄、鋼鉄製の武器・武具に金線や 〔象牙細工〕古代から長い伝統が踏襲されてき朝が興り、ベルシア人による帝国が興ると、製ムーン ( 在位ハ一三 ~ ハ三三 ) の時代は、都バグダー ドに建てられた「知恵の家」 ( バイト・アル・ 銀線で象眼を施したタイプは、ダマスコ細工たが、イスラム時代には地中海沿岸のシリア、 陶も復活して旧来の伝統がよみがえった。しか みん ( ダマスキーン ) として知られている。イスラ ヒクマ ) を中心にギリシア語古典の翻訳が盛ん エジプト、スペイン、南イタリアがおもな製作 し新味はやはり明代中国製の染付磁器の模倣に えんげん ム金工の淵源はササン朝ベルシアとビザンティ 地となった。小箱、角笛、チェスなどのゲームあった。イランのメシッドやトルコのイズニー であったが、それらは、哲学、天文学、数学、 ンにある。東方イスラム世界 ( イランのタバリ ク窯が名高いが、いずれも磁器ではなく、陶胎医学、地理学などをおもな分野とし、文学作品 の駒、櫛のほか装身具類がつくられ、これに浮 , 4 ・つい・れ スターン、ホラサーン ) には、いわゆる「ポス彫りでアラベスク、鳥獣図、狩猟図などが表現か半磁胎で柔らかく、独特の風韻がある。なかの翻訳はほとんど行われなかった。この事業に はシリア人、ことにネストリウス派のキリスト ト・ササン」の作品が数多く残存しているのに された。現存する遺品は、大半が一一世紀からでも各種の色絵の具を使って文様を透明釉下に 対し、西方イスラム世界の初期の作品は少な 一三世紀の間にもつばら西方イスラム世界で製描いた明るく温雅な色絵陶器は、俗にクバチと教徒の貢献が著しく、一度シリア語に訳された 、。最盛期のセルジューク朝からモンゴル時代作されたものである。 〈杉村棟〉よばれて珍重されている。これはイラン西部のものから、アラビア語に訳されることが多かっ た。文学関係では、ササン朝時代の中世ベルシ にかけて銀象眼の技法が流行し、一六、一七世〔陶器〕西アジアは中国と並ぶ二大製陶地であアゼルバイジャン方面で焼造されたものと推測 せゅうとう 〈矢部良明〉 ア語からの翻訳にもっともみるべきものが多 紀まで続いた。その中心はしだいに西漸し、イ り、施釉陶の技術を世界に先駆けて開発くふう されている。第丁 アラビア語散文の発展に功績の著しかった ラクのモスル、続い てダマスカスとカイロが有した実績がある。古代文明の発祥の地であるこ回岩村忍編『グランド世界美術 8 イスラムの ( 七五六没 ) の『カリー 美術』 ( 一九七六・講談社 ) ▽深井晋司編『大系イ・フヌル・ムカッファー 力な製作地となった。ベルシアでは具象的な狩の地方は施釉陶器の面でも画期的な発明を行っ ラとデイムナ』 ( 寓話集 ) その他が代表的なも 世界の美術 8 イスラーム美術』 ( 一九七六・学 猟図、鳥獣図などが、またシリア、エジプトでており、アケメネス朝。ヘルシアの多彩釉陶はこ はアラベスク、銘文など抽象的なデザインが盛とに名高い。その後も施釉陶の伝統は続いた 習研究社 ) ▽・・グルー・ヘ解説、杉村のであり、『アラビアン・ナイト』の母体であ まっこう 棟訳『イスラムの絵画ーー・・トプカプ・サラる『千物語』 ( ハザール・アフサーナ ) なども 行した。 が、イスラム教が勃興して清新な文化が生み出 中世ベルシア語から、九世紀中にアラビア語に イ・コレクション』 ( 一九大・平凡社 ) ▽・ 〔染織〕技法、デザインともにササン朝ベルシ されたのち、九世紀ごろから西アジア ~ エジプ ト各地に新窯の胎動が始まった。この時期がイ ・チャールストン著、杉村棟訳『西洋陶磁訳されていた。また、サンスクリット語による アとビザンティンの伝統を引き継いだ。紋織、 れいめい つづれ インドの天文学、医学その他の文献も早く八世 大観 4 イスラム陶器』 ( 一九七九・講談社 ) 綴織、錦、ビロードなどのほか、刺しゅうもスラム陶器の黎明期である。この新しい焼物作 ぶんかイスラム文化は 紀後半からアラビア語に訳され始めた。アッ 盛んに行われた。装飾としては、アラベスク、 りにはササン朝。ヘルシアやビザンティンの製陶イスラム文化 ース朝の初めから第五代のハールーン・アッラ 幾何文、鳥獣文が好まれ、アラビア語の銘文も活動を基礎にして、多量に輸入され始めた中国七世紀にアラビアで発展の緒につき、アラブの シードの時代にかけて、歴代のワジール ( 宰 欠かせない装飾要素であった。八世紀にさかの陶磁の影響が色濃く反映しており、大きな刺激大征服によって他地域の文化に接触すると、そ 相 ) を出していた中央アジア出身のバルマク家 ばる王室直属の織物工房テイラーズは、エジプとなったことは疑いない。鉛釉を使った各種のれらを取り入れてしだいに変化し、発展してき た。しかし、どこまでも、イスラム教の精神は、インド医学やイラン文化を取り入れること トのみならず、のちに各地に設置された。ここ色釉をかけあわせた三彩、錫を溶媒剤に使った に中、いとなって活動した。また、アッパース朝 ではリンネル類がつくられたが、とくに論功行失透性の白釉では、その形や文様は明らかに九と、聖典コーランの用語であるアラビア語とが の初期から、中国の製紙の技術が中央アジアを 賞としてカリフから臣下に下賜された上衣 ( ヒ ~ 一〇世紀の中国陶磁を手本としたものが圧倒二つの根本的要素であることは変わらなかっ た。発展を遂げたイスラム文化には統一性と多経てイスラム世界に広まったが、絵画や織物な ラート ) が織られている。イスラムの染織のな的に多い。ただ、黄褐色の素地に白化粧して自 かったっ どの面でも、中国から若干の影響があった形跡 かでもっとも重要な位置を占めるのは、じゅう由闊達な線描の文様を加えたり、銅によるラス様性との二性格が目につくというのも、このよ がある。中央アジアを経て仏教思想もイスラム うな発展過程をたどってきたためであろう。 たんである。各種の。ハイル織じゅうたんのなか ター彩、コバルト顔料で下絵付して後の染付の で、ベルシアじゅうたんが質量ともに群を抜始原をなすなど、すでにこの段階でイスラム陶〔諸文化の摂取時代〕古いアラビアの伝統文化世界にある程度まで伝わったことが認められて ぎんしん をもって半島から進出し、シリアやエジプトを き、トルコと中央アジア諸地域のものがこれに らしい斬新な創意が示されている。 このように外来文化の摂取が流行した時代 一一世紀から一五世紀にかけてイスラム陶器征服したムスリム・アラ・フの人々は、古くから 続く。バイル織じゅうたんには、竪機か水平機 はもっとも発達し、豊富な実りがもたらされそれらの地域を支配していたビザンティン帝国は、ムウタジラ派という合理主義を重んするイ むが使われ、経糸に文様となる色糸を結ぶのを特 スラム神学の一派が勢力を張った時代とほば一 、ら色とする。結び方にはベルシア結びとトルコ結 た。やはり中国陶磁が重要な祖型となっているの文化と接触した。ウマイヤ朝時代 ( 六六一 ~ す・びがある。装飾によって、メダイオン、幾何が、作風は多様な展開を示している。色彩豊か 0 ) はシリアが政治の中心とな 0 たから、こ致し、カリフのマームーンはその学派の保護者 めいせき 文、アラベスク、花瓶文、庭園文、狩猟文、鳥 な三彩が消え、青、藍、白などの明晰な単色釉の時代に早くもギリシア系統の学問や工芸を受として有名であった。 ぞうがん 3 ( ) 7
いらく 当第ド第朝、 0 てユーフラテス川流域にバビロニア王国、新バ をの ビロニア王国が、ティグリス上流にアッシリア 家めゲ 王国が興って栄えた。しかし、前五三九年イラ 居れる族 えド 住ら ンのアケメネス朝。ヘルシアが征服して以後、イ 形く ラクはアレクサンドロス大王、パルティア、サ 円つをク ので水る サン朝ベルシアなど外部勢力の侵入、支配を受 フサは ラグで続 けた。七世紀なかばイスラム教がアラビア半島 アイ帯を が地抗 におこり、イスラム教徒団はイラクを支配して ュ体燥反 シ全る乾て いたササン朝軍を破り新時代を開いた。ウマイ ャ朝時代にはイスラム帝国の中心はシリアに置 マめわ壺対 むた使の かれたが、七四九年からアッパース朝時代が始 ぐが焼府 に防幹素政 まると、首都はイラクのクーフア、そしてバグ 地をのるで 沼さシれン ダードに置かれ、唐の長安、ビザンティン帝国 の暑ャらる一 部。メくあタ のコンスタンティノープルと並ぶ繁栄を享受し 南部ッつでス た。その後この王朝はしだいに勢力を失い、イ ア内ナで品イ ミのは近需デ ラン、中央アジア、エジプト、北アフリカに タ居に付必 ポ住柱ル活ク 続々と独立政権ができ、経済上の中心もエジプ ソ形るス生部士 メ円えモは北兵 トに奪われることになった。一二五八年アツ・ハ ④⑤支⑥壺⑦ラ ース朝はモンゴル軍に滅ばされ、バグダードは ィ一つりく 殺戮と破壊によって荒廃した。さらに一四世紀 末にティームールの率いるモンゴル軍が攻め寄 せ、生命線ともいえる灌馥施設を破壊した。一 五三四年から第一次世界大戦に至るまで約四〇 〇年の間、イラクはオスマン・トルコの属州と してその支配下に置かれた。その間トルコ軍と サフアビー朝のイラン軍との戦いの戦場となる ことも多かった。 第一次大戦の際にはトルコがドイツ、オース トリア側について参戦し、イギリス・インド軍 が、バスラ付近に上陸、一九一八年トルコを制 圧しイラクの大部分を占領した。このころ国内 では民族運動が高まり、多くの地域で反乱が生 じた。二〇年サン・レモ会議でイラクの委任統 治権を認められたイギリスは、メッカのハーシ ム家のファイサルを国王として迎え委任統治を 実施した。ファイサル国王はその後たびたびイ ギリスとの条約を改定し、独立への歩を進め、 三二年国際連盟に加入して念願の独立を果たし た。第二次大戦そして戦後の混乱ののち、石油 収入で国民経済も潤い始めた五三年、若いファ イサル二世が即位した。国王の完全な支持のも とでヌーリー ・アッサイードが首相として独裁 的な敏腕を振るい、政局も安定するかに思われ た。しかし五八年七月、アブドウル・カーリ ム・カセム准将の率いる車事クーデターが成功 し、国王、皇太子、多くの皇族と首相らが殺害 され共和国政権が樹立された。↓イラク革命 623
おなはま どの工場がある。市の創立は不詳だが、一二世方面への対外拡張政策と相まって、外債の累積廃藩置県まで続いた。小名浜への分岐点として盆状のくばんだ底から湧出し池のようになって % ちじよう おしのはつかい ようさい いる泉を池状泉という。山中湖北西の忍野八海 2 紀にはジェノバの勢力下にあり、その要塞が築をもたらし、エジプトの財政は一八七六年に破市街地を形成。駅北西部は住宅地化が進んでい ま 〈原田榮〉は深さ二に達する有名な池状泉である。ま す . かれた。のちモルダビア公国領、一六世紀にト産、以後英仏の国際管理体制下に置かれることる。↓いわき ( 市 ) た、どことなく水が湧出して沼沢状をなすもの ルコ領となり、ロシア・トルコ戦争以降はロシとなった。こうした政治、経済事情を背景に民囮二万五千分の一地形図「磐城泉」 アの要塞ならびにドナウ艦隊の根拠地となっ族主義運動が高まるなか、七九年英仏の圧力に泉いずみ地下水が自然に地表へ湧き出してを湿池泉というが、これは河岸の葦原のよう ゅうせん に、相対的に低地帯である所でよくみられる。 しるところ。湧泉ともいう。ヨーロッパでは一 〈加藤博〉 た。オデッサ工業大学分校、商船学校などが置よって退位させられた。 湧出量が周期的に変化する間欠泉はカルスト 六、七世紀まで、泉や地下水の起源は、地下の かれている。 〈渡辺一夫〉回石田進著「帝国主義下のエジプト経済ーー一 九世紀エジプトの植民地化過程の分析』 ( 一九岩石に隠れている巨大な貯水池か、海から地下地域に多く、岩石中の空洞のサイフォン作用に は lsmä'iliya イスマーイール派 いつばい しち を通ってきて塩分の抜けた水、のいすれかであよるものと思われる。広島県帝釈峡の「一杯 七四・御茶の水書房 ) イスラム教シーア派の一分派。七イマーム派と みず もよばれる。シーア派の第六代 ( イスマーイー イズマイロフ AJ1eKCaHAP E(>HMOBHH ると信じられていた。現在では泉の降水起源説水」はこの種の泉として有名である。熱水と水 蒸気の混合物を周期的に噴出する間欠沸騰泉は が定説となっている。 ル派では第五代 ) イマーム ( 指導者 ) 、ジャア H3MaäJ10B/Aleksandr Efimovich lzmay ・ ぐうわ 八三 D ロシアの寓話詩人。貧し〔地形や地質による分類〕泉は水文地質状態に温泉の一種で、アイスランドのガイサー、アメ lov ( 一七七九ー一 ファル・サーディク ( 六九九 / 七 0 一一ー七六五 ) の没後、 いなか リカのイエローストーン国立公園のものが有名 よって次のように分類できる。 い田舎地主の家に生まれ、鉱山学校卒業後、官 十二イマーム派が次子ムーサー・カージムを第 おにこうべ ①不圧帯水層の露頭から出る泉地下水面と地である。日本にも熱海大湯や宮城県鬼首に間 七代としたのに対し、この派は、イマーム位は吏として勤務を始め、のちには地方の県の副知 欠泉があったが、いまは噴出していない。一九 事を務めた。「エウゲーニー、別名、悪い教育表面との切り合いに生じる泉で、地下水面下に 先に没した長子イスマーイールに伝わってい 八三年 ( 昭和五八 ) 六月に長野県の諏訪湖東岸 と仲間の破滅的な結果』など教訓的内容をもっ切り込んでいる河川の河畔にできる沿河泉、谷 て、その息子ムハンマドが第七代目で最後のイ こくへき 長編小説も書いたが、その本領とするところはの側壁に発達する谷壁泉、鱶の下に発達する崖で大規模な間欠泉が掘り当てられた。 マームであると主張した。そして、ムハンマド くまち おう 〔水温〕浅層地下水の湧出している泉の水温は は死んだのではなく将来、救世主 ( マフディ寓話詩のジャンルで、彼の作品はクルイロフのを泉、地下水面まで達している小地にある凹 作品と並んで人気を博した。生涯に書いた一一一地泉、扇状地の傾斜が緩くなる部分にみられる年変化するが、恒温層以下の地下水では年変化 ー ) としてこの世に再臨すると信じる。彼らは せんたん しない。徳島県吉野川右岸の湧泉の水温は 九世紀後半以降、秘密結社的な革命的宣教活動六編の寓話詩のうち三九編は翻訳ないし翻案で扇端泉などがある。一般にこの型の泉の規模は 七 ~ 八月に九度 0 、一二 ~ 一月に二二度 0 にな を活発に展開した。この運動の指導者、ウバイあるが、創作物では酔っぱらいの元警察署長ピ り、その原因は、河川水が地下に伏流し湧出す 透水層と不透水層が互層をなしている所から ド・アッラー 'Ubayd Alläh は自分こそがそュニュシキン、コックのヤーシカなどを登場さ せ、道徳的見地から庶民の生活を描いたものが出る泉不透水層が侵食されて被圧帯水層が地るまでに遅れが出るためといわれている。日本 のイマームであると宣言し、一〇世紀初めに北 〈中村喜和〉表に露出し、被圧地下水が湧出する泉で、地質の温泉法では二五度 0 以上は温泉になる。 有名である。 アフリカにファーティマ朝を創設し、スンニー 派イスラムに教義的、政治的に挑戦した。教義夷隅 ( 町 ) いすみ ( まち ) 千葉県南東部、夷隅構造によって単斜泉、向斜泉、背斜泉および不〔水利用〕カルスト地方には河川がなく泉が唯 ばうそう 一の水源である。乾燥地域では集落はオアシス は時代とともに改変されたが、聖典解釈におけ郡にある町。房総丘陵北東に位置する。一九五整合泉に分類できる。 ちまち くこよし に立地する。また崖錐や扇状地に横井戸を掘っ ③溶食洞から出る泉カルスト地域に多くみら る秘教的比喩的解釈の重視、神と人との仲保者四年 ( 昭和二九 ) 風吉町、中川村、千町村が合 ーれ〃い であるイマームへの絶対的服従を特徴とする。併して夷隅町と改称。夷隅は『古事記』の伊自れる泉で、地下水は岩石の節理系統や割れ目にて人工的な泉をつくり灌漑などに利用してい どうくっ いじむ こくぞうほんぎ 一支派のニザール派は十字軍に暗殺者教団 ( ア牟国、『日本書紀』『国造本紀』の伊甚国からの沿ってできた管や洞窟の中を流れる。この種のる。これらの横井戸には地方によって異なった てんか サシン派 ) として恐れられた。現在、信者は少数転訛といわれる。町域を東西に国鉄木原線が通泉には巨大なものがあり、南フランスの石灰洞呼称があり、イランではカナート qanat 、ア まんぎ から出るポークルーズ泉は豪雨後には湧出量をフガニスタンではカレーズ kariz 、北アフリ ながらシリア、インドなどにいる。↓シーア派じる。中世の守護土岐氏の築城になる万喜城は 〈鎌田繁〉徳川の家臣本多氏に攻められて落城した。一六増し毎杪一二〇立方に達するが、乾期には毎力ではフォガラ foggara などとよばれてお ↓十二イマーム派 すずか あきよし しゅうほう 秒六立方に減じる。秋吉台の秋芳洞の湧水り、日本の鈴鹿山麓にも「マンボ」とよばれる イスマーイー ル . バシャ lsmäfil pah ・〇九年 ( 慶長一四 ) 国吉原の新田開発が進めら かんがい 同種のものがある。日本の火山山麓や扇状地末 は二〇〇診タの水田を灌漑していた。 sa ( 天三 0 ー九五 ) 近代エジプト、ムハンマれたが、その後本多氏の移封によってこの地は ちぎようち ④溶岩中から出る泉溶岩の割れ目や透水性の端の泉は、水量が豊富で、水温の年変化が少な 一旗本知行地となった。中心集落の国吉は、近世 ド・アリー朝第五代総督 ( 在位天六三 ~ 七九 ) 。 さんろく ろくさいいち いため、マス類やアユ類の養殖に適しており、 に六斎市の市場町として栄え、現在もその機能火山砂礫岩などから出る泉で、火山山麓や溶岩 八六三年、叔父サイードの後を継いでエジプト なす 台地の末端部にみられ、大湧泉が多い。富士山岩手山麓、那須山系、日本アルプス山系、富士 ー ) に就任。六七年宗主国オスマを保持している。夷隅川中流の平地では米作に 総督 ( ワーリ の三島溶岩から湧き出す静岡県三島市付近の泉山麓、伊吹山麓、阿蘇山麓、霧島山系などで大 ン帝国からへディープ ( 副王 ) の名誉称号を受加えて酪農も盛んになってきた。人口八三六 〈山村順次〉の湧出量は、合計して毎秒一五立方で日本一規模な養殖が行われている。山間部には湧水を け、エジプトの事実上の独立的立場をいっそう〇。 〈榧根勇〉 利用したワサビ田も多い 強化した。国内的には六九年のスエズ運河完工回森輝著『夷隅風土記』 ( 一九耄・千葉県文化財と称せられた。 ⑤岩石の割れ目から出る泉岩石の割れ目系統〔日本の民俗〕大都市や離れ島を別にすると、 保護協会 ) に象徴される政治、経済、文化各方面にわたる を雨水が満たし、水が低い地点まで流下して湧日本は水の豊かな国である。人口が少なくて、 近代化政策を精力的に推進した。とくに近代工囮二万五千分の一地形図「国吉」 自由に住居を選ぶことのできた時代には、ます 出するものと、断層などで地下に不連続が生じ ジプト最初の国民議会 ( マジュリス・シューラいずみ 0 えじこ きれいな水が手近にある所に家を建てて住み着 ・アル・ヌッワープ ) の設立、綿花栽培の奨泉いすみ福島県南東部、いわき市の一地割れ目から地下水が自噴するものとがある。 いずみ じようばん いたであろう。泉は出水の意である。各地の方 励と広範な普及は、その後のエジプトの政治、区。旧泉町。国鉄常磐線泉駅を中心とした地〔湧出状態による分類〕富士山の白糸の滝のよ 経済構造に決定的な影響を与えた。しかし、彼区である。一六三四年 ( 寛永一一 ) から平藩内うに、岩の割れ目からほとばしり出る泉を迸言にも同類のことばが多く、「でみず」「です しゆっ い」を基本形として、「でみ」「です」「ねみす」 の性急な近代化政策は、スーダン、エチオピア藤氏の支藩泉藩が置かれ、のち本多氏が入封し出泉という。昔の人はこれを走井とよんだ。 とき たいら されき がいすい たいしやく
いがくか - 一うてい される。中国最古の医学書と伝えられる『黄帝れる。 解剖学 / 新しい病気 のになるかは、日本にとっては大きな問題とな ないきよう 未開社会で、末開であるということと結び付 〈中川米造〉 ろう。↓医学史 〔病院の医学〕病人と病気 / 外科技術の発内経』の冒頭には、「昔は人々が数百年も生き じゅじゅっ 長らえられたが、 その間活動し続け、老衰するけて説明されるのが呪術である。予期しない 達 / 内科の混迷と社会医学の芽生え 回吉利和・中川米造著『新医学序説』 ( 一九七七・ そうし ことがなかった」とある。『荘子』には「人類危機や不安に際して、経験では対応しきれない 〔実験室の医学〕医学の中心、ドイツ / 企 篠原出版 ) ▽中川米造著『医療的認識の探 場合、かならずといってよいほど呪術が登場す がまだ素朴純真な心を文明に汚染される以前、 業・国家の援助と医学研究 究』 ( 一九七五・医療図書出版 ) ▽同著『医療行 〔社会の医学〕権利としての健康 / 医療需社会が文化の中毒症状を呈する以前には、すべる。こうしたことは末開社会に限らず、現代社 為の論理』 ( 一九八 0 ・医療図書出版 ) いがくかん江戸時代の漢方医学校。 要の増大と医療の産業化 / アルマ・アての人々は自己の生を全うする安らかな生き方会においても、やはり経験を超えるような事態 医学館 たきもとたか を身につけていた」とある。太古、人間は無病に遭遇したとき現れてくる。しかもこれは動物 タ宣一 = ロ 一七六五年 ( 明和一 l) 多紀元孝が、私財を投じ せいじゅかん 社会の行動にはみられす、人類特有の行動様式 で長寿を保ったという話は多くの民族の伝承に 〔日本の医学の流れ〕 て私学躋寿館と称して発足、元孝は教育課程を みられる。『旧約聖書』に出てくる人間の祖先と考えられる。つまり呪術は感情の世界の論理 創案して『医学館経営記』『百日教育記』にま 医学とは、狭義には病気の認識を目的とするたちはすべて何百年も生きたとされている。ギであり、合理的、経験的に問題状況から脱出で とめ、子弟の育成にあたった。躋寿館は七二年 もとのり 丿シアにもそうした神話が多い。牧神パンが生きないときにとる思考様式であり、その点では ( 安永一 ) 江戸の大火で類焼し、元孝の子元悳科学と考えられている。より広義には医療の専 まれ、素朴な生活を楽しんだというアルカディ発明・発見の過程の前提をもなす部分と共通し 門職による診療活動を意味し、もっとも広義に は九一年 ( 寛政三 ) 第一一代将軍徳川家斉の援 助を得て官立とし、名を医学館と改めた。以来は人間が健康を維持し、不健康になった場合にアは、ヨーロッパ文明では自然な生活と健康なている。ただ発明・発見のように、それが新た とうえんめい もとやすもとたわもとかたもとあき な合理的解決に至ることがないまま、感情的論 その子元簡、元胤、元堅、元昕ら累代医学館督は回復を目的とした活動をすることを意味す土地の代名詞になった。中国でも陶淵明が書い 事として運営にあたり、考証学派としての医育る。医学史にも、もっとも広義の医学史、ややた桃源郷が同じ意味で用いられる。しかしその理を満足させるために様式化が進んだと考えら せいざいそうろく せんきんぼう しんほう 事業と、「聖済総録』『千金方』『医心方』など広義の医学史、そしてもっとも狭義の医学史の実際はどうであっただろうか。今日、いわゆるれる。 健康を維持するうえで、あるいは病気を治療 未開社会に生活する人々を観察することができ の復刻事業、また代々多くの著述を刊行し、日三種類がある。 るが、その人々と生活が健康か不健康かは、判するうえで、感情や精神の働きを無視すること 本漢方医学の学術書の集大成を行った。その成 広義の医学史へ はできない。その点で呪術や宗教は、それなり 断する人の価値基準によって左右される。また 果は今日、中国においても高く評価されてい る。 〈矢数道明〉 医学史が実際に編まれる背景を考えると、ま末開であるからといって、現在のそれを歴史的の効用をもっており、まったく無意義なもので いがくきしようがく生体に及ばず医療専門職が自立し、相当の社会的地位を獲な過去の状況と同一視することは問題がある。 医学気象学 す天気、天候、気候などの大気条件を研究する得した段階で、その地位を再確認するために先つまり、理想的なモデルを具体的に示す証拠は 古代文明と医学 学問。生体としては広く人間、動物、植物が考人の列伝としてなされるのが普通である。そのあまり残されてはいない 時期は、ヨーロッパではルネサンス以降、日本〔生活上の知識・経験と健康〕有史以前の人類〔メソボタミア・エジプト・中国の医学〕文明 えられる。生気象学ともいう。一九五六年にノ が、必要に迫られて生活上の知識や経験を積んの発祥地とされるメソボタミア、エジプト、中 では江戸時代末期である。その後、科学の役割 リで開かれた医学気象学のシンポジウムでは、 に社会が注目するようになり医療も科学を正面できたことは推測にかたくない。またそうした国の古代国家では、医療は重要な政治の道具と 次の五つの分野が考えられた。①生理生気象学 に掲げて行うようになると、科学つまり最狭義知識や経験が健康な生活の維持のために不可欠して国家の制度に組み込まれた。人々の身体的 ( 人間の健康に及ばす天気および気候の影響 ) 、 ②社会生気象学 ( 人間の社会行動に及ばす天気の医学史が中心になり、医療における科学的方の要因であった。食物採集生活を営んでいた時な苦痛を軽減する技術である医療を権力に引き 代、食物を得るために、それが動物であれば、寄せておくことは、支配力の強化に有効であっ および気候の影響 ) 、③病理生気象学 ( 病気と法の価値を再確認させることに貢献した。 第二次世界大戦以後には、社会的背景の変化その生態や習性を熟知しなければならない。植 治療に対しての天気および気候の影響 ) 、④都 メソボタミアの場合、医師は司祭を兼ねた。 に対応して、病人の処遇をめぐる問題としての物についても、食用になるものか、毒性のある 市生気象学 ( 建築および都市計画などに対して の天気および気候の影響 ) 、⑤航海生気象学医療史、あるいは精神病やハンセン病などの病ものかを鑑別できなければならない。栽培する病気はすべてそれそれの症状を引き起こす悪神 となれば、より高度の知識・技術が必要になのためとされ、治療神と最高神がたたえられる ( 海上の船の中における人間と動物に対する天気の社会史、さらに医療の起源や意味を問うた とともに、症状に対する医学的な診断と処置が 気および気候の影響 ) などである。〈根本順吉〉めの医療人類学的な研究も盛んに行われるよ , つる。粒状の穀物を粉砕し消化しやすくすること になった。こうした動向は、一六世紀 ( 本格的をどのようにして知ったか不明であるが、これ講じられた。現存する最古の法典とされる『ハ し、刀ノ、ーし 医学史 には一九世紀 ) から医療の前面に出てきた自然も有史以前に始まっている。古代ギリシアの医ムラビ法典』には、医療報酬や医療過誤に対す 科学的な方法が、第二次大戦後の、健康権を基師ヒボクラテスは『古い医術について』で、医る罰則の規定がある。また、発掘された粘土板 〔広義の医学史へ〕 に刻まれた楔形文字の解読が進むなかで、か 〔医学前史〕原始的生活と健康 / 生活上の礎とした要求に正しくこたえられなくなってき術の始まりは調理術であると主張しているが、 なり多くの医学、薬学に関する記述のあるもの たことを意識しつつ、新しい医療・保健システ食物の調理も健康な生活には不可欠である。 知識・経験と健康 / 医神・呪術 が判明しており、メソボタミア医学の再現も進 〔医神・呪術〕多くの民族の神話には医療神が 「古代文明と医学〕メソボタミア・エジプムを模索するなかから生じてきたといえる。っ みつつある。 登場する。そしてその多くが農耕神を兼ねてい ト・中国の医学 / 古代ギリシアの医まり、保健活動まで含めた最広義の医学史が、 エジプトでも医師は司祭を兼ねた。紀元前一一 る。中国の神農は、人間に農業、占いとともに いま求められつつある。 学 / 古代ローマの医学 医薬を教えたとされる。この神農は頭に角をも〇〇〇年代の初期王朝時代から残されているバ 〔中世の医学〕キリスト教と医学 / 病院の レつば、つ 医学前史 ピルス文書には医学に関するものも少なくな っ容貌につくられているが、これは農耕にウシ 始まり / ベストの流行 / 医学の中心 すくなひこなのみこと 。それによれば、医師たちは複雑な症状群を を使った象徴である。日本では、少彦名命と 〔原始的生活と健康〕健康に関する論議では、 地 / 医学教育と大学 いう小さな神が農業と医薬を人間に教えたとさ正確に記載する能力があり、また単純であるが 〔市民社会の成立と医学〕近代医学の出発自然な生活、原始的な生活が理想的なモデルに いえなり つの くさびがた