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検索対象: 日本大百科全書 2
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1. 日本大百科全書 2

いみん と、多少とも資本をもち、自ら企業家となる企お、移民に対する国家の政策も、移民に影響すまで ) ヨーロッパ諸国からの海外移住者が増年代に最高に達したが、その後は国内工業の発 大するのは、一九世紀なかばからで、その後第展による雇用増により海外移住は漸減した。ス 業移民、⑥移民期間の長短に基づく恒久移民とる大きな要因となる。 〔移民の歴史〕移民の歴史は人類の歴史ととも一次大戦まで、ヨーロッパ諸国の海外移住は全力ンジナビア諸国はドイツよりやや遅れ、ノル 一時移民、などに区分される。 スウェーデン、デンマークの順に移民 に古いともいえるが、ここでは新大陸発見以後盛期を画した。この原因は産業革命の結果各国ウェー 〔移民の条件〕移民は一般に、移民者のよりよ い生活への欲求を、直接の個人的動機として生の移民について、ヨーロッパ移民を中心に概観の産業が発展し、それとともに海外拓殖、海外が盛んとなった。数そのものは比較的少ない 貿易、海外投資も盛んとなったこと、自由主義が、国内人口に対する割合はかなり大きい ずるものであるが、さらに、さまざまの経済してみよう。 かし、母国の生活水準の向上と、移住先での南 ①植民時代 ( 一六世紀から一九世紀前半まの政策により海外移住に関する諸制限が撤廃さ 的、社会的、政治的、宗教的要因が移民を押し 出す力として作用する。たとえば、ある宗派にで ) 一五世紀末の地理上の発見を契機に、ヨれ、むしろ海外移住を奨励する政策がとられた欧・東欧移民との競争激化とにより、移住者は ことなどである。他方、漸次独立をかち取った減少した。以上の国々は早期に移住を開始した ーロツ。ハ諸国から新大陸 ( 南北アメリカ、オー 対する圧迫、少数民族の迫害、革命、戦争、凶 北アメリカ、南アメリカの旧植民地国家が、そので旧移住 old migration とよばれる。 作、経済構造の変化、景気変動による失業、人ストラリア ) および南アフリカへの植民が開始 旧移住は一八九〇年代から減少し、これにか される。最初の移住者はスペイン人で、一五〇の国力の増大、末開地の開拓のため移民を必要 ロ過剰などが移民の原因をなしてきたことは、 数々の歴史的事実によっても明らかである。し九年から一七四〇年までに、セビリア港から渡とし、来住者に補助やさまざまの便宜を与えたわって南欧・東欧の移住が盛んとなった。これ り、末開地の無償あるいは低価格での払下げがを新移住 new migration とよぶ。新移住のう 一七世紀 かしながら、移民が行われるためには、一面、航した移住者は約一五万人であった。 移民に好適な、あるいは移民を必要とする受入および一八世紀の移住はイギリス人が中心であ行われた。ここに、自発的意志をもって新開地ちもっとも数の多いのはイタリアである。イタ リア移民は一八五〇年代には一〇万人に満たな に移住し、新しい連命を開こうとする自由移民 った。一七世紀の中ごろ、ニュー・イングラン れ地域が必要であり、それゆえ、移民者にとっ かったが、一九世紀末ごろから急増し、九〇年 が大量に出現するに至り、汽船の発達がそれに て望ましい職業ないしは生活環境と、受入れ国ドおよびバージニアに各八万人、メリーランド に二万人が渡航したといわれる。一七世紀を通拍車をかけることになった。一九世紀における代にはイギリスにかわる第一の移民国となり、 における末開発地の存在や労働力への需要など じてのイギリスから新大陸への移住者は約二五ヨーロッパ人口の急増も大量移民の間接的条件一九〇六 ~ 一〇年には年々四〇万人を超える移 が、移民を引き寄せる条件として作用する。以 民を送り出していた。スペイン、ポルトガルの 上のような送出国および受入れ国における移民万人、一八世紀に約一五〇万人であった。このとして重要である。 一八四六年から五か年ごとの年平均移住者数移民も一九世紀末ごろから急増した。東欧から を規定するさまざまの条件の変化が、移民の規一五〇万人のうち、五〇万人は長老教会派のア イルランド人であり、五万人は犯罪者の強制移にみるように ( 表 1 ) 、政治的理由や、母国おの移民は南欧よりも遅れ、二〇世紀に入ってか 模や方向や形態を左右しているのである。な 住であった。一九世紀に近づくと、スペインおよび移民先の地域の経済変動により、年々の移らの移民が大部分をなしている。移民受入れ国 二 ~ 一九三二年の間 民数に大きな増減がみられるが、その増大傾向の第一はアメリカ ( 一 よびドイツからの移住もしだいに増加した。 に三四二四万人 ) 、ついでアルゼンチン ( 六四 は明白である。一八二〇年代および三〇年代に ヨーロッパ諸国は新大陸発見以来、広大な領 年 陸あ は年々三万人に満たなかった移住者は、五〇年一万人 ) 、カナダ ( 五二一万人 ) 、プラジル ( 四 土を所有していたにもかかわらず、一九世紀に 至るまで、それほど多くの移民を出していな代には一〇倍、二〇世紀に入ると四〇倍にも激四三万人 ) 、オーストラリア ( 二一一万人 ) 、西 ~ イ・満事タ インド諸島 ( 一五九万人 ) の順であった。 。それには多くの理由がある。第一に、重商増し、最高一四〇万人を超えるに至った。おも ク民ス なお、ヨーロッパ以外からの移民としては、 な送出国はイギリス ( 一八四六 ~ 一九一五年の 一移ポ主義時代には、本国の人口が多ければ多いほど ョ手た 間に一二四三万人 ) 、イタリア ( 八一七万人 ) 、中国 ( 一六世紀以降九五〇万人 ) 、インド ( 三 国家にとって有利であり、人口を海外に移住さ オーストリア、ハンガリー チェコスロパキア五〇万人 ) がとくに多かった。おもに隣接諸国 ニロびせることは不利と考えられていた。それゆえ、 島呼 への移民であったが、一九世紀以後はアメリカ ? 島同を植民地を確保して国外貿易の発展に必要な限度 ( 合計五一一万人 ) 、スペイン、ポルトガル ( 合 ス。民 計四七三万人 ) 、ドイツ ( 四二九万人 ) 、ロシや中央アメリカ、南アメリカ、アフリカへの移 においてのみ海外移住を認める政策をとってい 丿子移 工母カ ア、ポーランド、フィンランド ( 合計三八八万民もかなりみられた。 た。第二に、ヨーロッパ諸国間の政治情勢は、 スウェーデン、デンマーク 「、アメ ③移民制限期 ( 第一次大戦から第二次大戦ま 一九世紀に入るまできわめて不安定であり、植人 ) 、ノルウェー ( 合計二一三万人 ) である。このうちイギリスで ) 海外移住は一九一〇年前後に最高潮に達 民地開発に手を伸ばす余裕が少なかった。第三 民タ 右 がもっとも早くから移民を出していた。一九世したが、以後漸減し、第一次大戦とともにさら に、帆船による大洋横断は危険であり、また帆 に急減、戦後は一時増勢を示したが、大恐慌以 紀前半のみでその数はすでに二四〇万人に達し 船では大量の移民を輸送できなかった。最後 に、大量の移民を送出するには、ヨーロッパのた。一八八五年ころまで、イギリスに次いで多後ふたたび著しく減少し、第二次大戦期にさら に減り、年六万人を割るに至る。移民減少の原 くの移民を出していたのはドイツで、一八八〇 人口はなお十分多くはなかったのである。 なお、ヨーロッパからの移民以外に、本期に おいてとくに注目すべき移住に、アフリカ黒人か数人主 6 2 7 9 5 0 8 1 7 4 3 8 6 5 5 9 5 0 7 7 ~ 1 ー ワ」っ 0 、 1 ワ】っ 0 ワ】 (. 0 ( / (. 0 -0- イ 1 ・イ 1 ・《 0 -. 0 11 1 よ の奴隷売買がある。一六世紀に始まり、一九世 11 、ー人 11 ッ主 紀までに非合法に行われたものを含む総計は二 〇〇〇万人に達したといわれている。うち一五 ョ平 11 、ー人 1 ・よ 11 1 ・人 1 ・よ 1 ー・、ー・ 1 ー亠 11 1 ー人 11 1 ー人 11 1 ー人 11 、ー 1 1 ー・ 1 ー - 、ーよ 〇〇万人がアメリカ合衆国に運ばれた。↓黒人 奴隷制度 のわ人 , 1 1 、 0 - ー・ , 1 1 、 0 1 、 11 「 1 、 .0 「 1 1 、 表 ら年 盟移民発展期 ( 一九世紀中ごろから第一次大戦 605

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いすらえ イスラエル 東ヨーロッパ諸国へ再輸出していた。また第三 一一ズム」としし ) 、その推進者たちは「シオニスまたヨーロッパや北アメリカではユダヤ人に対 次中東戦争の直接の原因の一つは、エジプトが ト」とよばれた。ヨーロッパでユダヤ人迫害のする同情が高まった。戦争が終結するとパレス うしお アカバ湾の封鎖を発表したことであった。 潮の高まるごとに、シオニズムは支持層を拡チナで武力衝突が激化、イギリス当局へのテロ 〔歴史〕ユダヤ人の祖先イスラエル人 ( へ・フラ大し、おもに東ヨーロッパからユダヤ人をバレ も頻発した。 イ人 ) が、カナーンの地と称されていたパレス スチナに移住させた。しかしそこは無人の地で この混乱のなかで、イギリスはバレスチナの チナに定住したのは紀元前二〇世紀ごろとみな はなかった。バレスチナ人 ( 主としてイスラム将来を国連にゆだねると発表、体よくお荷物を されており、前一一世紀にはイスラエル王国を教徒、キリスト教徒などのアラブ人 ) の居住地国際社会に投げ出してしまった。国連総会は小 建設している。前一〇世紀前半にはこれが分かであり、彼らの反発は必至であった。 差でパレスチナをアラプ地区とユダヤ地区に分 れてイスラエル王国とユダ王国とになり、この 第一次世界大戦が始まると、イギリスは、ド割する決議案を可決した。シオニスト側はこれ 二国がアッシリア、新バビロニアによってそれィッの同盟国オスマン帝国内のアラブ人の反乱を受け入れて、念願のユダヤ人国家イスラエル ロ男女 人それ滅ばされてのち、前一世紀にはローマ帝国を支援し、戦後のアラブ人国家の独立を約束しの成立を宣言した ( 一九四 0 。アラブ側は分割案 の保護下にユダヤ王国が樹立された。しかしロ た。アラブ側は、この国家のなかにパレスチナを拒否、周辺のアラブ諸国軍がパレスチナに進 男年 幻年 ーマの帝権に抵抗したため紀元後七〇年にロー も含まれると受け取っていた。一方イギリスは入し、第一次中東戦争 ( 一九哭 ~ 四九 ) が始まっ マの弾圧にあい、ユダヤ人の世界流浪の歴史が シオニストたちの戦争協力をも求め、見返りと た。イスラエル車はアラブ各国軍を撃破、分割 「 / 「 / ( 0 (. 0 (C) 一 .0 内′ 4- 「 0 つにつ」 始まった。とくにヨーロッパのユダヤ人は、繰して一九一七年にバルフォア宣一言を発して、 案で与えられた以上の地域を確保した。その過 CO 「 / 「 / ( 0 ( 0 Ln L-n ・ 4 っ 0 っ 0 つ」っこ 1 ー 4 ー り返しおこる迫害に耐えなければならなかっ レスチナにおけるユダヤ人の「民族的郷土」程で多数のパレスチナ人がイスラエルの支配地 南部には国土の半分以上を占めるネゲプ砂漠た。こうした苦難を底流として一九世紀後半に ( ナショナル・ホーム ) の樹立を支持した。だ域から追われた。逆にアラブ諸国では反ユダヤ が広がる。年降水量は北端で二〇〇ミリ、南端の入ると、キリスト教社会に同化できなかった、 が戦争が終結すると委任統治領という形でパレ感情が激化し、多くのユダヤ人が移住を迫られ ェイラトではわすか二五 = 、リにすぎない。イスラまた同化を許されなかったユダヤ人の間に自らスチナを直接イギリスの支配下に置いた た。イスラエル政府は、すべてのユダヤ人にイ エル政府は北部から水を引き、ネゲプ砂漠の開の国を建設しようとする運動が沸き上がってき 一九三〇年代に入りナチスがヨーロッパで勢スラエルへの移民とその市民権獲得の権利を付 発を活発に進めてきた。中心都市はべールシェ た。これは、一九世紀のヨーロッパにおける、力を伸ばすと、パレスチナへのユダヤ人移民は与する「帰還法」を制定し、アラブ諸国をはじ 、ディモナなどである。ディモナの郊外には各民族が固有の国家を希求する民族主義の高揚増加した。とくにドイツ系ユダヤ人は資本と技め世界各地からのユダヤ人を受け入れた。これ 原子炉を含む核関連施設がある。港湾都市ェイを背景としていた。 術をバレスチナにもたらし、この地でのユダヤ によりイスラエルのユダヤ人口は急増した。こ はくだっ ラトは、イスラエルにとってはアカバ湾への唯 ユダヤ人が終局的に建国のために求めた土地人社会は大きく成長した。これと波長をあわせうしてパレスチナ人の権利の剥奪のうえにシオ 一の出口であり、軍事的、経済的また心理的に は、当時オスマン帝国であったバレスチナであるようにパレスチナ人の反発も高まり、双方の ニスト国家は成立し発展した。 も重要な地点である。イラン革命以前は、イラ った。そしてその地のシオンの山は、彼らの国軋轢は武力衝突にまで発展した。第二次大戦中 一方アラ・フ世界はバレスチナ人の権利の回復 ン原油をェイラト港から輸入しバイプラインで家建設のあこがれの象徴であった。それゆえに のナチスによるユダヤ人大虐殺 ( ホロ・コースを要求、以後第二次中東戦争 ( 一九五六 ) 、第三次 地中海のハイファ港に送り、ルーマニアなどの この運動は、シオンの山の地に戻る運動「シオト ) がシオニストたちの活動に拍車をかけた。 中東戦争 ( 一九六七 ) 、第四次中東戦争 ( 一九七三 ) と べイルート へ丿 / 亠 / ヤルムーク亠 ガリラヤ 丁ノベリ - フ ハイファ カルメル 地中海 21 万人 ラマット・ガ、 テル・アビ ンマン ルレ ベスレム へプロン当 / 海 アスカロ、 サ地区 ペ - ー ) レシェノヾ ソドム ーアウェイラ 。、ネゲプ砂澳 司アルクサイマー あつれき / アレタマ - ド ーアルイー三陵 シイ半島 1 : 3 , 7 〇〇 , 〇〇 0 100k 「 イスラエルグッド・フライデーの行進。復活祭の前の金 曜日、十字架を掲げて街を練り歩く ( 工ルサレム ) 287

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かんしょ 流れは、ヨーロッパから北アメ は六〇 ~ 七五年で三〇万ないし四〇万人といわ五六人が甘蔗園労働者として渡航したのを最初鮖 ん リカ、南アメリカ、オセアニアれる。この流れは、出身国によって負担される に、以後九四年までの一〇年間に移住者は三万 6 という形で、大戦前の型と類似高額の教育費および必要な専門技術者の喪失の人に達した。政府間の条約に基づく移民という かんやく 問題として重大である。 ことで、これを官約移民という。その後、九四 していた。五〇年代終わりか 一九七〇年代後半以後の第四段階の出発点は年に移民保護規則が公布され、さらに九六年に 大ら、第三段階に支配的となる発 これが移民保護法となる。ハワイとの官約移民 展途上国から西欧先進国への移オイル・ショックによる経済条件の変化で、こ れが国際移動の流れを変える契機となった。西から政府が手を引いてから、移民はもつばら移 動が増え始める。とくにイギリ 民 移 ス、フランスは旧植民地である欧工業化諸国への移民労働者の流入は抑制され民会社 ( 一八九六年には二〇社を超える ) を通 の 本インド、パキスタン、ジャマイ た反面、石油輸出国への流入が増大し始める。 じての契約移民の形で行われており、弊害も続 っカ ( 以上はイギリス ) 、アルジ中東および北アフリカの石油輸出国の移民労働出し、移民者の保護が叫ばれていた。移民保護 立 エリア ( フランス ) からの移民者は五年間に倍増し、七五年には二〇〇万人に法の制定以後、移民は大幅に増加し、大正末期 旅 達した。増加はその後も顕著に続いている。おまで、ハワイ、アメリカ、カナダなどを中心に を多数受け入れるようになる。 一九六〇年代および七〇年代もな受入れ国は、サウジアラビア、アラ。フ首長年平均一万六〇〇〇人の移住が行われた。しか ラ し、ハワイ、アメリカへの移民は、一九〇八年 プ前半が第三段階をなす。この時国連邦、クウェート、イラン、オマーン、カタ ール、アルジェリア、イラクであり、送出国 ( 明治四一 ) 日米紳士協約により制限され、さ 期に、前述の新しい移民の流れ 乗 は、エジプト、ヨルダン、パキスタン、イエメ らに二四年の移民法 ( いわゆる排日移民法 ) に が支配的となり、ヨーロッパに 丸 より激減する。↓移民法 おける移民は、域内の貧しい ン・アラブ共和国 ( 北イエメン ) 、インドなど この時期に北アメリカにかわる移住先として ・若国々 ( 南欧、東欧 ) および北アで、東南アジア諸国からの流出も増加してい フリカ、中近東からの西欧先進る。元来、人口の少ない石油輸出国では、移民比重を高めるのがラテンアメリカ、とくに。フラ ジルである。プラジルへの最初の移民は、一九 を諸国への移動という形が明確と労働者の労働力人口に占める比重は大きく、ア かさどまる メやー 志 なる。伝統的な受入れ国であるラブ首長国連邦やカタールでは八割以上にも達〇八年笠戸丸によるコーヒー園への契約移民七 民ヒ 九九人の移住に始まり、三三 ~ 三四年 ( 昭和八 」アメリカやオセアニアは、前 し、深刻な社会的摩擦の可能性を秘めている。 〔日本の移民〕①明治以降第二次大戦まで徳 ~ 九 ) の最盛期には年間移住者は一一万人を超え の段階より多くの移民を受け入 川幕府が家光以来の海外渡航の禁制を解いたのるに至った。だが。フラジル移民も、三四年制定 因として、二度にわたる大戦および大恐慌の影れるようになったが、ヨーロッパ移民の比重は は一八六六年 ( 慶応一 l) である。一 八六八年の新憲法により制限を受け、以後漸減する。 響もさることながら、最大の直接的原因は移民低下し、ラテンアメリカ、アジア、アフリカか アジア地域への移民は、フィリピンを除き、 ( 明治一 ) 以後一九四一年 ( 昭和一六 ) までの 制限政策である。アメリカは一九二一年移民法らの移民が増えた。一九六〇年ころからラテン これまで少数にとどまっていたが、一九三五年 により年間移民総数を三五万人とし、一九二四アメリカは受入れ地域から送出地域に転換し移民数は七七万六〇〇〇人に達している。おも 年移民法では一六万人に縮小した。他の受入れた。国際移動の流れを変化させた要因は、北西な移民先は、ハワイ二三万人、プラジル一八万以後、中国、満州への移民が急増する。とく 三六年から満州移民二〇か年五百万人計画 国も制限措置をとるに至り、とくにアジア人の ヨーロッパにおける経済成長とそれに伴う労働九〇〇〇人、アメリカ一〇万七〇〇〇人、ソ連に、 移民は、ラテンアメリカを除き事実上禁止され力需要の増大である。七〇年代初めの西欧諸国五万六〇〇〇人、フィリビン、グアム各五万人、が推進され、集団農業移民Ⅱ分村移民という形 るに至った。 には家族を含め一五〇〇万人の移民労働者が存カナダ三万五〇〇〇人、メキシコ一万五〇〇〇で、全国農村地域、なかでも、長野、山形、熊 ④第二次大戦以降第二次大戦以後現在に至る在した。こうした西欧への大量の下層労働者の人などであった。このなかには中国東北部 ( 旧本、福島、新潟、宮城、岐阜の諸県から多くの 開拓団、義勇隊が移住した。敗戦までの満州開 までの移民の特徴は、その変動の激しさであ流入こそ、この時期のもっとも特徴的な移民の満州 ) への開拓農の移住三二万人は含まれてい 流れであった。 ない。一八九六年 ( 明治二九 ) 制定の移民保護拓者の数は約三一万八〇〇〇人に達した。 る。国際間の政治的、経済的関係の変化、なら 戦前における上述の海外移住により、一九四 これと並ぶいま一つの問題として、少数では法における移民の定義は「労働ニ従事スルノ目 びに送出国、受入れ国の国内条件により、国際 しんかん 移民の流れはその方向、規模および構成を著しあるが、高度の技術をもつ人々の移動、つまり的ヲ以テ ( 清韓 ) 両国以外ノ外国ニ渡航スル者〇年 ( 昭和一五 ) の外国在留日本人移民数は一 これ く変えてきている。四つの段階に区分して考え頭脳流出 brain drain がある。これはやや貧及其ノ家族ニシテ之ト同行シ又ハ其ノ所在地一一七〇万人 ( 満州八二万人、中国本土三七万人、 てみよう。 しい資本主義国、もしくは発展途上国の科学渡航スル者ヲ謂フ」とされていたからである。プラジル二〇万人、アメリカ一〇万人、ハワイ 旧満州への移民を含め、戦前移民の合計は約一九万人、その他の地域一二万人 ) に達したが、 第一段階は一九五〇年代初めまで。この時期者、技術者がより高い報酬と機会を求めて豊か これらは大戦後、南北アメリカ・ハワイを除く 一〇万人と考えられる。この数字は、ヨーロッ の最大の移住は、戦争とそれに伴う政治的後始な先進国へ流出することで、受入れ国では頭脳 地域からこと。ことく引き揚げるに至った。 ハ諸国の移民、とくにイギリス ( 植民時代から 末の直接の結果としての本国送還や難民の移動獲得 brain gain という。一九六〇年代前半ま 第一一次大戦後の海外移住戦後の海外移住者 で、世界全体で五〇〇〇万人以上に達した。だでは、カナダ、イギリス、西ドイツ、オラン大戦前まで二〇〇〇万人 ) 、イタリア ( 一〇〇 ダ、スイス、スウェーデン、日本からアメリカ〇万人 ) のみでなく、ドイツ ( 五〇〇万人 ) と数は一九八一年 ( 昭和五六 ) まで累計二三万九 が、これと並行して戦前の移民の流れも再開さ 六七九人となっている。その年次別の推移をみ 比べても、はるかに少ない。 への流出が顕著だったが、六〇年代からは、イ れ増大し始める。 六年 ( 明てみると、一九五一年以後、移民は増加し始 日本における本格的な移民は一八八、 ンド、パキスタン、フィリビン、メキシコなど 次の段階は一九五〇年代。この時期にも新た からの医師、看護婦、科学者のアメリカ、イギ治一九 ) 日布渡航条約に基づく布哇 ( ハワイ ) め、五七年には一万六六二〇人とピークに達し な難民が生まれるが、数は前の段階よりはるか リス、カナダへの流出が中心となった。その数への移民とともに始まる。条約締結の前年に九た。しかし、以後は減少、いったん四〇〇〇人 に少なく、移民の数を下回った。移民のおもな もっ いえみつ

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いぎりす C. △を . N 囈 . B ST 囚 、 CO 公 S に 03 ン 1 一 をこし ORA よく外国旅行をした日本人が、「列車の中で 向かい合って同席したアメリカ人やフランス人 4 やイタリア人とは、すぐ仲良しになり打ち解け 合えるのに、イギリス人は数時間たっても一一一一一口 も口をきかず、にこりともしない」といって苦 情をこばす。しかし、・ 22 ・プリーストリー きっすい という生粋のイギリス人の弁論に耳を傾けよ う。イギリス人は決して人づきあいが悪いので はない。人間は四六時中愛想よくしているわけ し。いかないのだから、外づらの悪いイギリス 人は、家庭内や親しい友同士では実に温かい人 あいきよう 間なのだ。見知らぬ人に愛嬌を振りまく人間 は、親密な温かい家庭をつくることができない のではないか。 〔芸術〕イギリスの芸術こそ、まさにイギリス 人のもっ二元性がもっとも顕著に表れた一例で ある。シェークスピアという世界に誇る異才を 生み出したイギリスの文学について、ますこれ を考えてみよう。 北欧やゲルマンの神話には、暗い運命に対し て勝ち目のない戦いを挑む人間の雄々しい悲劇 リア王やマクベス 的な姿を描いたものが多い。 やハムレットの世界は、これを如実に示したも のといえよう。しかし、シェークスピアはこれ おうか と同時に、明るい楽天的な、生きる喜びを謳歌 するラテン文学の陽光を取り入れることもでき た。『真夏の夜の夢』の世界がまさにそうであ るし、『ロメオとジュリエット』の世界は、悲 。跡もさスの 土人に・か 劇的ではあるが、若さと情熱に満ちあふれた地 部流ち る本た 西新た 中海文化を思わせ、けっして、霧と人生の不条 あ日し南日者 ではの ド 4 若理のカーテンに閉ざされた北欧の暗い空を連想 在む人ンく させるものではない み一・ー・存しスラ族行 グ家を ゲルマンとラテンの人生観、世界観の混合の し慈ギンた街 着をイイ来一 なかから、シェークスピア独特のユーモアが生 , 密然に②にビ クナ まれる。行為は不道徳だが人間味の大らかさで , ーを物ー 1 活 , そ々ッ 生し 人ニカ観客を魅了するサー・ジョン・フォールスタッ はるすむクの 園あわしビン フ ( 『ヘンリー四世』の登場人物 ) は、シェー し公で失楽へ 心はを園ン クスピアの創造した最高の人物といわれる。ま 馬田口 るり熱 た端役として登場する道化たちの人生の知恵に ああはと乗にる ・一つけい せりふ でが人ゆで日あ あふれた滑稽な台詞もこのことを裏書きする。 肺地スのク休が の緑リ心 一③気 さらにシェークスピアの用いる一一 = ロ語は、英語 スいキも 広イて の集大成、その詩的表現力の絶頂を極めたもの ギはもし である。これは、英語のルーツたるゲルマン系 イくに帯イ浴こ は多存停るハの のアングロ・サクソン語に、ラテン系のフラン 園も保がれの代多 公にの済わン時が ス語が加わり、この混合によって驚くべき言語 町財経がドマ店 かン一ド の自己増殖力が生まれたからである。上流階級 活さ文るうロロ一 生小や似が①のモ の教養人の雅語と、一般庶民の俗語が融合し、 川 3

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いたりあ イタリア / 相手国別輸出入 ( % ) フランスサウジアラビア 西ドイツアメリカコ 輸入 1976 年 17.2 13.8 16.8 1 980 輸出 1976 1 980 が機械・化学工業製品によって占められてい 〇万人に増加した。第二次大戦では第一次大戦 ラテイウム地方のテ・ヘレ川下流左岸に住んでい 島を縦貫する「太陽道路」 ( アウトストラー のような大量の犠牲者を出すことはなかったも る。輸入のほうに目を転じると、各種の工業製ダ・デル・ソーレ Autostrada del Sole) は有たローマ人は、エトルスキ族にかわって半島の のの、バリ条約による東部国境の割譲で人口は 品のほか、とくに原油 ( 全輸入額の一 、八七名である。 支配を確立するようになる。 % ) と牛・食肉 ( 四・一〇 % ) が比較的大きな 交通・通信部門の代表的企業といえば、航空 このように、イタリア人は、旧石器時代以来減少した。一九五一年には四七五〇万人、一九 比重を占めていることがわかる。八〇年の貿易会社のアリタリア、ラジオ・テレビ放送会社の数多くの民族、種族が混合して形成された。現六一年には五〇六〇万人、一九七一年には五四 相手国についてみると、輸入の四四・三 % 、輸、高速道路会社の在の住民は大部分がイタリア人であるが、人種一三万人である。このように、戦争による人口 出の四七・五 % が諸国によって占められて、海運会社のイタリア海運、電話会社の (J)— 的に異なる少数民族が散在する。北部では、ドの減少を除外すれば、イタリアは年ごとに著し いる。おもな輸入国は、ドイツ ( 一六・八 % ) 、 などがあげられるが、それらはいずれも ィッ系が住むトレンティーノ、アルト・アディ い人口増加をみた。その原因には幼児死亡率の フランス ( 一四・一 % ) 、アメリカ ( 七・〇 —翼下の企業である。 〈堺憲一〉 ジェ、フランス系のバツレ・ダオスタ、スラ。フ低下 ( 出生一〇〇〇人につき一五・三人。一九 % ) 、サウジアラビア ( 六・五 % ) 、オランダ 系のフリウリ、ベネチア・ジュリアなどがあ七九 ) 、平均寿命の延び ( 男性六八・九七歳、女 ( 四・二 % ) である。主要輸出国は、ドイツ る。これらの地域に対して特別の自治が認めら性七四・ 八歳。調査年一九七 0 ~ 七一 l) 、疫病の減 % ) 、フランス ( 一五・一 % ) 、イギ〔イタリア民族の形成と言語〕ムスティエ文れている。また南部イタリアやシチリア島に、 少などがある。 リス ( 六・一 % ) 、アメリカ ( 五・三 % ) 、スイ 化、オーリニャック文化の遺跡が発見されたこ陸の孤島のようにギリシア人やアルバニア人の イタリアの人口問題を考える際に、見逃すこ ス ( 四・四 % ) の順となっている。ちなみに日 とで、イタリア半島には旧石器時代にグリマル町が存在する。ギリシア人の場合は、古代ギリ とのできない現象がある。それは、統一後百数 本との貿易は輸出入とも一 % 前後の比率となっ デイ人種の祖先を含むさまざまな種族がいたこ シアの植民地がそのまま残ったものと考えられ十年の間に、国内における著しい人口移動があ ている。 とが推定される。ただし、半島の人種的形成がる。アルバニア人の場合は、一四世紀にトルコ ることである。その一つは、のちに移民に関連 〔交通・通信〕一八三九年にナポリーポルティ 明らかになるのは、青銅器時代以後のことであの支配を逃れた集団が住み着いたものである。 して述べるように、農村から都市へ、南から北 チ間 ( 七・七キ。 ) に最初の鉄道が敷かれて以 る。紀元前一七〇〇 ~ 前一二〇〇年の青銅器時 イタリアでは国民の圧倒的多数が、ラテン語 への移動である。もう一つは、イタリア王国が 来、鉄道は長らく陸上交通の主力をなしてき代に、半島にはアベニン文化圏とポー文化圏が から派生したロマンス語の一つであるイタリア 八六一年にトリノを首都と定めたのち、一 た。一九三八年に至っても、陸上貨物輸送量の存在していた。前者はポローニヤからタラント 語を使用している。ただ、イタリアは方言の差六八年にフィレンツェ、一八七一年にローマへ 七〇 % は、鉄道によって担われていたといわれ にかけて広がっているが、その人種的系譜とし が著しく、一般に標準語とされるのはトスカナと遷都したことである。この遷都に伴って、役 る。ところが、その後自動車が普及し、道路網てバルカン半島から移動した種族が中心である方言である。そのほかに、バツレ・ダオスタで人、宮廷人などの多量の人口移動が行われた。 が整備されたために、鉄道と道路の比重が逆転 とい , っ説が強い。彳 麦者はポー平野とリグリア海はフランス語が話され、公用語としても認めら この二つの原因により、一 八六一年に二万人以 し、一九七〇年末ごろ岸に多くの遺跡が発見され、他のヨーロッパ地れている。オーストリアとの国境に近いアル上の都市に住む人の比率が一九・六 % であった ′ 4 0 ) 00 0 ・一うじよう 一自 ( 万ル 00 月 には鉄道の比率は三〇域にもみられる杭上住居を特徴としているこ ト・アディジェではドイツ語が、ユーゴスラビのに、一世紀後の一九六一年には四七・七 % 、 公む 百米 2 8 6 7 % に低下している。鉄とから、スイス東部から南下したインド・ヨー アに近いウディネやトリエステではスラブ語 一九七一年には五二・四 % と高くなっている。 ク 道の総延長距離は、一一 ロッパ語族にその人種的系譜を求める説が有力が、サルデーニヤ島のアルゲーロではカタロ一一また、統一時に一〇万人を超える都市はわずか ーレ 一一であったのに、一九六一年には三六都市、 万〇〇八三キ ( 一九七九 ) である。この南下したインド・ヨーロッパ語族ア語が、シチリア島のピアーナ・デルリ・アル ン ハネージではアルバニア語が、南イタリアのア で、その八〇・三六 % のイタリキは、北西部のリグリ族などの種族と 一九七一年には四七都市に増えている。このこ セ ク スプロモンテではギリシア語が話されている。 が国有鉄道である。近の融合や、地中海人種の前シクリ族、シカニ とは、都市への人口集中と農村の過疎化を引き . レ cn ) 年その総延長距離は延族、エリミ族の文化の吸収によって、鉄器時代〔人口と移民〕イタリアでは、一九六一年、七起こした。 ンアギ びていないが、一二本 に火葬墳墓を特徴とするビラノーバ文化を形成一年と、一のつく年に一〇年ごとに国勢調査が 一フビル の路線によって隣接諸する。したがって、古代イタリアの人種的、文行われる。一 八六一年、すなわちイタリア統一 国と結ばれている。他 化的主体は、インド・ヨーロッパ語族のイタリ の年の国勢調査では、総人口二二一二万人であ 方、道路の総延長のほキといえる。 った。ただ、これにはベネト地方 ( 一会六併合 ) 、 うは、同年に二九万四 前六世紀に中部イタリアを支配し、半島の歴ローマ ( 天七 0 併合 ) 、トレンティーノ、アル 史で重要な役割を演ずるのは、エトルスキ族 ト・アディジェ地方 ( 一九一五 ~ 天併合 ) が含まれ イ四二三キ。に達してい ていない る。そのうち国道が四 ( エトルリア人 ) である。この種族の系譜は、 。この地域の住民を加えれば、一 万五一七六キ 、高速道その文字が解読されていないため、まだ明らか 一年の段階で一一六〇〇万人の人口を擁していた 路が五九〇〇キ。を占めでない。ただ金属加工の技術や祭儀にアジアの 一年には三〇〇〇 ことになる。その後、一八八 成 る。イタリアは、ヨー 種族との類似性がみられることから、エトルス万人、一九〇一年には三三〇〇万人、一九一一 構 ロッパ有数の高速道路キ族は小アジアから移動してきたという説が有年には三六〇〇万人と増加している。 ロ男女 網を誇り、なかでもミカである。前四世紀初めにケルト族が北から侵 第一次世界大戦で六〇万人という大量の戦闘圦 0 「 男年 ラノ、フィレンツェ、 入してくると、エトルスキ族の支配は崩壊す における犠牲者を出したのち、一九二一年の国 齢 ローマ、ナポリ、レッ る。このケルト族に対決しえたのは、北部ラテ勢調査では、ベルサイユ条約に基づくトレンテ年 一 1 ′フー -. 0 ( -0 【う ) 【 0 内っっ 0 フ」っこ ジョ・ディ・カラブリ イウムを中心に支配し、古ラテン人とよばれる ィーノ、アルト・アディジェ、・ヘネチア・ジュ アを結び、イタリア半イタリキであった。そのイタリキ人のなかで、 リア、イストリアなどの併合もあって、三八五 イギリス 4. その他 43.1 43.8 210 1 40 1981 年「世界人冂年鑑」による 140 210 万人 369

6. 日本大百科全書 2

えば銀婚式の日などという書き方でもよい。遺 6 ギリスでは遺言の習慣がやや廃れたものの、今 ん教との「二重信仰」が続いたために、異教の要 遺言書 日の世界においてもっとも多く遺一一一一口が行われて一一一一口書の文中、加除その他の変更をしたい場合 ′」素を摂取したイコンを制作することによって、 いる国といえよう。 は、遺言者はその場所を指一小し、変更した旨を 、異教からの改宗を容易にしたからである。 ようろうりよう 遺一一ⅱ者甲野一郎は、この遺言書によって 〔日本〕すでに養老令 ( 七一 0 に「存日処分」付記して署名し、変更の場所に押印しなければ ロシアにおけるイコンの普及は、教会におけ 左記の遺一言をする。 として、遺言処分が認められていたが、中世に変更の効力がない。もっとも簡易で、もっとも る大型イコンとイコノスタス ( 会堂の内部にイ しろうと 一、遺一一一口者甲野一郎の相続財産の六分の一 おいては、生前に処分状を作成し財産分けをす秘密が守られる方式であるが、反面、素人が一 コンを何段にも並べて、内陣と一般信者の座る を〇〇県〇〇市〇〇町〇〇番地、乙山次 るのが普通で、遺一一 = ロ処分は例外になった。封建人でつくるので、方式どおりでなく無効になる 場所とを壁状に仕切ったもの ) のほか、信者の 郎に贈する。 時代には、武士階級と庶民とでは事情が異なつおそれがある。また文意があいまいで争いを生 家庭 ( ということは全ロシアの各家庭を意味す 二、相続人甲野千代の相続分は相続財産の 六分の一一とする。 ていた。すなわち、武士はその主たる財産を主ずることもあり、偽造、変造、隠匿などの危険 る ) にそれそれのイコンが二つや三つは存在し ほ - っ - っ′、 も大きい 君から封禄として受けている関係で、これを自 ていたことを考えれば、たいへんな数であった 三、相続人甲野太郎の相続分は相続財産の 六分の一一とする。 由に処分することはできなかったので、遺一一一一口 公正証書遺言証人二人以上の立会いのもと といえるだろう。それらイコンはロシア人の信 四、相続人甲野百江の相続分は相続財産の は、まったく私的な財産についてわすかに行わ 、遺言者が遺言の趣旨を公証人にロ授し、公 仰生活と密接に結び付いており、ロシア人の精 六分の一とする。 例れたにすぎなかった。これに対して、庶民の間 証人がそれを筆記し、これを遺一一一口者と証人に読 神形成に徴妙かっ深刻な影響を与えた。 こうしてロシアではイコン制作がノブゴロド 言では遺一言相続がむしろ原則となり、その内容もみ聞かせ、遺言者と証人が筆記の正確なことを 右遺一一一〔書の全文、日付および氏名を自署遺 派 ( 一二 ~ 一四世紀 ) 、モスクワ派 ( 一五世紀 書財産の分配のみにとどまらず、相続人の指定、承認したのち、各自これに署名押印するという ー ) 、・目ら田・印「 ) こ。 かきおき 証 後見人の指定にまで及んだ。これらは書置、方式の遺一一一一口。ロ授さえできれば文字が書けない 以降 ) などによって精力的に行われたが、この 昭和〇〇年〇月〇日 筆 ゆずりじよう 東京都〇〇区〇〇町〇丁目〇番地 譲状などとよばれ、普通は自筆・捺印のうえ者でもでき、公証人が関与するので文意の不明 ほかウラジーミル派、プスコフ派などの仕事に かはん 遺言者甲野一郎⑩ もみるべきものが少なくない。もちろん、イコ = 言五人組などが加判し、町内に寄託された。このや方式どおりでないなどのおそれは少なく、紛 ように庶民の間で広く行われた遺言の慣行も、失、隠匿、破棄のおそれもないという長所があ ンは宗教美術の枠を出るものではなく、あくま いごん死後、法律効果を発生させる明治時代に入ると急速に衰え、諸外国と比べてる。その反面、公証人や証人に遺一言の内容を知 で信仰の対象であるが、ロシア人がギリシア正遺 = = ロ 遺一言の行われることが比較的少ない。現行民法られるという短所がある。 教を国教として選んだ背景には、その美的儀式ことを目的として、本人の独立の意思に基づ 3 秘密証書遺一一 = ロ遺言者が遺言の書かれた証書 への感動があったといわれており、ロシア正教き、法律に定められた方式に従って行われる意では、遺言に関する事項は「相続編」の三分の 一以上を占め ( 民法九六〇条 ~ 一〇二七条 ) 、 ( 自筆または代筆 ) に自ら署名押印し、その証 会でのイコンの美的世界は、それなりに大きな 思表示をさす。一般には「ゆいごん」ともよば 書を封じ、証書に用いた印章でこれを封印し、 比重をもっているといえよう。 れる。遺言は本人の死亡によって法律効果を発その内容において改正の影響がもっとも少ない 公証人一人、証人二人以上の前に提出して、自 ロシア・イコンの歴史では、一四世紀中ごろ生するが、遺言によりその死後にも自己の財産部分である。 にコンスタンティノープル ( イスタンプール ) を自由に処分できることになる。これは遺一言自〔遺言能力〕遺一言は、死者の最終意思を尊重す分の遺一言である旨と、筆者の氏名、住所を申し 述べて、公証人がそれを証明する方式の遺一一一一口。 ることを根本に置く制度であるから、できるだ からノブゴロドへ渡来し、多くの弟子を育てた由の原則とよばれる。 ちおうの意思能力遺言書の文中の変更などは自筆証書遺言と同じ フェオファン・グレッグ ( ギリシア人テオファ 〔歴史〕古代ローマでは、紀元前五世紀ごろのけその効力を認めるため、い ネス ) 、その弟子でロシア・イコン画家の頂点 『十二表法』にすでに遺一一 = ロ法がみられ、前二〇を備えると思われる満一五歳を標準として、そ方法で行う。秘密証書遺言としての方式に欠け にたつアンドレイ・ルプリョフ、その作風を受〇年ごろには遺言は一般の慣行になっていたとれに達した者は自分で遺一言することができるとる場合であっても、自筆証書遺言の方式を備え されている。また、禁治産宣告を受けた者でているときは、後者としての効力をもつ。この いわれる。古代ローマの遺一言は元来、相続人指 け継ぎ、色彩のうえで新しい仕事を残したディ オニーシーの三人を特記しなければならない。 定のためのもので、家の財産を家にとどめ、一も、正常な精神状態に復したときは、二人以上方式は、の秘密が守れないという欠点を除い たものであるが、公証人の関与を要する点でめ の医師の立会いがあれば遺言できる。 もともとイコンの制作は工房単位で行われるこ人の相続人に受け継がせるための手段であっ とが多く、作者名が明らかなイコンは少ない た。これが近代になると、財産の終意処分に重〔方式〕遺言は本人の死亡後に効力を発生するんどうである。 ぞう なお、未成年者、禁治産者、準禁治産者など ものであるから、それがはたして本人の真意で が、上記三人のイコンは例外的にその傑出した 点を置く遺贈遺一一一一口になってくる。古代のインド あるかどうかの証明がむずかしく、真偽を本人のほか、遺一言者の推定相続人、受遺者およびそ やギリシアには遺言に関する古い歴史はなく、 美的世界を今日に伝えている。 今日、イコンはその宗教的性格を離れて、純ゲルマニア時代のゲルマン民族もまだ遺一一 = 口を知に確かめるすべもないので、遺言には厳格な方の配偶者ならびに直系血族は、これらの遺言の 証人または立会人となることはできず、これら 粋に美術品として評価されることが多くなってらなかった。ドイツやフランスで遺言が一般庶式が定められている。その方式に従わない遺言 いる。しかし、ロシアにおいてもイコンをその民により行われるようになったのは、ほば一二は法律的に効力がないとされる。大別して普通の者の立ち会った遺言は無効となる。 〔特別方式による遺言〕①死亡危急者の遺言 ような目で評価しだしたのは二〇世紀になって世紀以後のこととされている。こうした遺言の方式による遺言と、特殊の場合の特別方式によ ひんし 瀕死の病人が遺一一 = 口をしようとするとき、証人三 る遺言とがある。 からである。フランスの画家マチスはかって口 置行はやがてイギリスにも伝えられ、・ T) ・ 〔普通方式による遺一一 = ロ〕①自筆証書遺一一一一口遺一言人以上の立会いのもとにその一人に遺言の趣旨 シア・イコンについて「これこそ真の民衆芸術ミルらの「遺一一一一口自由の原則」の主張によって、 おういん 者が遺言書の全文、日付、氏名を自書して押印を口授して筆記させ、これを遺一一一口者と他の証人 であり、芸術探究の源泉である」と喝破した一八世紀までにはスコットランドを除くイギリ に読み聞かせ、各証人が筆記の間違いのないこ が、今後ともイコンの美的世界はますます再評ス全域で、遺言の自由が認められるようになっする方式の遺一一一一口。他筆やタイプライター、肓人 とを承認したのち、これに署名押印する方式に 価されていくであろう。 〈木村浩〉た。しかし一九三八年の相続財産法の制定によ用点字機で書かれたものは無効とされる。日付 回浜田靖子著『イコンの世界』 ( 一九大・美術出って、家族の相続権保護の立場から、この自由は年月だけでは不十分で、年月日まで必要であよる遺一一 = ロ。遺言の日から二〇日以内に家庭裁判 所の確認を得なければ効力を生じない にも大幅な制約が加えられるようになった。イるが、何日であるかが確定できればよく、たと 版社 )

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いぎりす い霧がかかっていると考えられる。物事をはっ 絶対の権威をうさんくさいものとして嫌い、す 2 きりと、くつきりと認識し理解するのではな べてを相対的に眺めたいからである。なりふり く、もやを通して屈折して受け取る習慣がつい かまわす、まなじりを決して、ある一方向に突 てしまった。 進するのは、・ ケームとして実に下手なやり方で 初めからできあがっている理論や思想体系にあることを知っているから、人生においても絶 従って割り切る、という考え方に、彼らはいっ えすルールを忘れず、いかに上手にプレーする も疑惑を抱く。自分の目で、経験によって、何かを念頭に置く。自分も他人も等しく距離を置 度も何度も確かめ、自分自身の肌で納得がいっ いて眺め、客観化することができるのは、それ たときに、初めて確信をもつ。イギリスの哲学をゲームと考えることができればこそである。 が観念論を退けて、経験論を重んずるのも無理 同じことがユーモアについてもいえる。ュー ン町 カ市 からぬことであった。しかも、性急に二つに一 モアとは、自分をも他人と同じくわきから眺め つの決着をつけるのではなく、そのどちらをもて、そのおかしさを笑うことのできる能力ある ダ館 の城 とり、両者の間にバランスを保ち、融合を図る いは感覚である。他人だけを一方的に笑う人、 スな という、しなやかで、しかししぶとい思考を身自分が他人の目にどう映るだろうかと冷静に考 マの多 につけたのも、相矛盾する二つの要素に挟まれえることのできない人は、ユーモアに欠けると つ。とて生きなければならなかったイギリス人の宿命 いわざるをえない。自分を高い地位に置いて他 あのこ 人を見下して笑ったり、自分をわざと卑下して から得た処世上の知恵であった。 でもう 守の補 中庸の美徳というものが、イギリス人の生活おせじ笑いするのではなく、自分と他者を同じ 太紀を の世費感情のなかに深くしみ着いてしまっている。一 高さに置き、しかも相手に思いやりをかけて笑 あらし 六世紀ヨーロッパを襲った宗教改革の嵐のさな うときにこそ、真のユーモアが生まれ、そのと ラ物 、・グ建し かでもイギリスは、形のうえではプロテスタン きこそ笑いが人間の心を結び付ける固いきすな トを選びながら、内容や祭式のうえでは古い力となりうる。 , か公 ドるで トリックを切り捨てすに中間の道をとった。 真の意味でのスポーツ ( ゲーム ) にもユーモ ンあ料 ラが有「中道」 ( ビア・メディア ) というのがイングラ アにも共通している特質は、それがなにかほか 説が ノ風族 ンド教会の基本的精神である。このような聖なの目的のための手段でなく、それ自身を目的と コる貴 る問題からずっと下って、日常の俗なる次元 にする純粋の行為、無償の行為であるという点 つか 話題を移すと、イギリス庶民の多くは、さまざ だ。ここにイギリス人独特のアマチュアリズム 城係ほ ス関の まな刻みたばこを適度に混ぜたミーディアムをの精神が生まれ、彼らの多様な趣味の世界が広 ラ害管 ハイプに詰めてふかし、二種類の酒を混ぜた がる。はたの人間からみれば、子供じみたばか グ殺村 「ハーフ・アンド・ハ ーフ」をパプで注文し、 らしい遊びに思えること、たとえば、小さな球 これに協力している。この事業の大部分は、世れ以下の貧困者は七七年に六〇〇万人、それよ ビフテキもミーディアムに焼くよう命する。 ころがしや、役にもたたぬがらくたのコレクシ 話を必要とする老人や身障者のための保健サー り二〇 % 上のレベルまでのポーダーライン層が このようなイギリス人独特の二元性を、以下ョンに目の色を変えているのも、働き中毒にな ビスである。孤児や精神錯乱者を救助すること四〇〇万人もいることがわかった。国民の五人具体的な実例によって示そう。 るのを防ぐ安全弁である。。ハンを得るため、生 もある。身障者には生活上の問題で助言した に一人が貧困状態にあるのである。〈犬童一男〉 〔国民性〕イギリス人気質といえば、すぐ連想活するために必要切実な手段である実社会の仕 り、電話やテレビの取付け、旅行や遠足の段取 するものにスポーツ愛好とユーモアがある。 事だけに目の色を変えて、それだけを生きがい 文 りをしたりする。仕事につくための訓練・教育 彼らがスポーツを好むのは、それがあくまでとしていちすに突進するよりも、実際の利害と の世話もする。老人対策は、できるだけ長く自〔イギリス思想・文化の伝統と特質〕イギリスあるルールのもとで行われるゲーム ( 遊び ) だ無関係な子供じみた行為にふけるほうが、はる 宅に住めるよう配慮され、食事の配達、身の回人が単一民族による簡単な構成でなく、もとも からである。ルールが法や掟と違うのは、法やかに危険が少ないことを知っているのである。 りの世話、洗濯サービスなどが行われている。 とグレート・プリテン島に先住したケルト系、掟があらゆる場合に通用する絶対の権威をもっ このような仕事と遊びの使い分けは、イギリ ス人の公生活と私生活の演じ分けにつながる。 福祉国家イギリスで最近深刻な問題となりつドイツから侵入してきたゲルマン系、さらにそているのに反して、ルールはある一定の約束ご つあるのが、失業と貧困である。一九六〇年代の後移住してきたラテン系というように、雑多とのもとでしか通用しない点である。殺人や盗「イギリス人の家庭は城である」とよくいわれ までは完全雇用に近かったが、七〇年代にこれな民族の混成であるから、当然なことであるみはいかなる場合でも禁じられるが、ポールをるように、彼らは自分の私生活、プライバシー めいせき が崩れて、七六年には失業者は一三三万人が、彼らの国民性、思想、文化もまた単一明晰手で持っていけないのはサッカーのときだけをかたくなに守り、また、外界に対して閉鎖的 だ。だから、ゲームの間はむきになるが、ゲー ( 五・七 % ) となり、八〇年に入って激増し、 なものではなく、複雑多様なものである。 な態度を示し、胸の奥底を容易に他人に明かさ また地理的にみても、ヒゝ 八三年一月に三一三万人 ( 一三 ・八 % ) に達し 」カらの寒流と南からムが終われば禁止条項も、罰則も、いや相手に ない。他国民がイギリス人に対して疑心暗鬼と た。この水準の失業が長期化するとされてい の暖流とがあわさり、イギリス名物の霧を生み対する敵意すらが消えてしまう。 なり、不可解だと首をひねるのは、これが原因 である。 る。こうしたなかで、生活扶助手当レベルかそ出しているわけだが、イギリス人の精神にも濃 彼らが人生をゲームとして考えるのは、唯一 壅竹をを おきて

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こうぎん こんせき あるが、続成マレー人は短頭 ( 八五 ) である。 湾の高山族の諸一一一一口語。また、ミクロネシアのサは、他の語派では痕跡的ないし軽微にしか認めとができる。 ノラオ島のられない。 イバン島、グアム島のチャモロ語、。、 以上のように原マレー人はモンゴロイド的特 ことに接中辞はインドネシア語派を 原マレー人は、かっては東南アジアに広く分 ハラオ語もここに含められる。 特徴づける ( タガログ語 s ・ um ・ ulat 「書く」、布していたものであるが、南下してきた南部モ徴が希薄である。これについては、白人的特徴 インドシナ半島で一七世紀末まで王国 ( チャ h-um ・ iråm 「借りる」 ) 。このような接辞法の ンゴロイドに圧迫され、今日ではインドシナ半が混入しているからだという解釈もあるが、む ンバ ) が存在したチャム族の言語チャム語も、活用によってフィリピン、台湾、ミクロネシア島では奥地の山岳地帯に住むようになった。モしろ、特殊化される以前のモンゴロイドの姿を 示すものだと考えたほうがよいであろう。今 インドネシア語派に含められることがあるが、 の諸一一一一口語では、動詞に文中の要素の重点形式、イ諸族はその代表的なもので、そのほか、アッ 後、検討を加えるべきことである。〈香原志勢〉 オーストロアジア語族の言語の残した基層的特テンス ( 時制 ) やアスペクト ( 相 ) を表すためサム、雲南、ビルマなどにもみられる。また、 と - っしょ 大小の多 徴に基づいて、これをインドネシア語派から外の体系的な方法を発達させている。〈崎山理〉島嶼地方に関しては、大島ではその内陸部、そインドネシア料理 す説もある。 くの島々から成り立ち、多種族、多宗教、多習 インドネシア人・・・・・・・じん 0 インドネシして多数の小島に分布している。これらの地方 じえしゅ マレー語はもともとスマトラ島東部沿岸の一 ア・マレー人種 では、彼ら以前しイ 」こ受入していた少数者のネグリ 俗をもった約一億五〇〇〇万の人口を抱えるイ たいカく Univer- ンドネシアには、食物の種類も多種多様にあ トの要素を包含した形跡がみられる。原マレー 地方語であったが、早くから交易用の共通語とインドネシア大学 して使用されていて、七世紀からの碑文があ sitas lndonesia インドネシアの国立大学。人の例としては、ポルネオ島 ( カリマンタン ) る。赤道にまたがった熱帯に位置し、国の東西 り、ジャワ語の前身、古ジャワ語 ( カウイ語と 独立 ( 一九四五 ) 後まもない一九五〇年、首都ジャ のダヤク族、フィリピンのイゴロット族、ジャ の延長は非常に長い距離があるので、主食は米 も ) も八世紀からの記録をもち、一〇世紀前後カルタに設立。発足当初、ボゴール、バンド ワ島のテンゲレル族、スマトラ島のバタック族飯だが、料理の味は一様ではない。辛味好みの たかさ 1 一 には『ラーマーヤナ』『マハー ーラタ』のよ スマトラ人、甘い料理の好きなジャワ人、酸味 ン、スラバヤ、マカッサルの四都市にもキャンなどが著名であり、台湾の高砂族の一部もこの うなインド起源の大翻案文学を残している。 パスがあったが、現在ではおのおの独立の大学なかに入れられる。これまでは、比較的原始的のきいた料理を好むパレンバンおよびジャカル ずれも文字は南インドのパッラバ文字の系統 タの人など、料理の味は地方によって異なる。 になっている。八四年現在、一〇学部 ( 医学、 な生活を営むものが多かった。 で、これは現代のジャワ、バリ、バタック、・ インドネシアに多いイスラム教徒は豚肉を食べ フ歯学、理学、工学、法学、経済学、文学、心理 続成マレー人は、マレーシアの海岸地帯およ ちゅうみつ ギの各文字や、近年まで用いられていたフィリ 学、社会科学、公衆衛生学 ) 、一六付置研究所、びジャワに稠密に分布している。原マレー人ないが、そのかわりにヤギの肉が好まれてい ピンのミンドロ島のマンギアン文字、バラワン夜間コース ( 法学、経済学 ) からなる。学生数 に比べて、モンゴロイド的特徴をはるかに多くる。暑い気候のなかで健康を保っためには、新 弉な野菜もよく使われる。 島のタグバヌア文字へとつながる。文字のほか 一万二〇〇〇、教員数一二〇〇。二学期制をと もっている。おそらく、南部モンゴロイドが比 インド文化の影響は語彙にも現れる。紀元前後 り、教授用語はインドネシア語。 料理は、牛肉、ヤギ肉、豚肉、鶏肉や、海水 〈馬越徹〉較的最近になって、高度なインド文化を携え とうなん の原インドネシア語期に、すでに多くのサンスインドネシア文学ーーぶんがく 0 東南アて、大陸のより中央部からマレー半島およびス魚、淡水魚などの主材料を、ココナツツミルク ふんがく クリットの借用語がみいだされ、それらはイン ジア文学 ンダ列島沿いに侵入し、原マレー人と混血した といろいろなスパイスで味つけして、焼いたり じ′ルー ) ゅ ものであろうと推測される。その流れをくむ集揚げたりするものが多い。そのほか、市民の食 ドネシア、フィリピンの諸一一一口語に共通に継承さインドネシア・マレー人種 れ、その一部は台湾やミクロネシアの言語にま Indonesian-MaIay race インドシナ半島か団は、海洋民族として太平洋やインド洋に雄飛事に欠かせないのは、ダイズからっくるタフ ( 豆腐 ) やテンペ ( ダイズを煮て、発酵させた で及ぶ。また、現代ジャワ語で顕著な発達をみらマレー諸島にかけて東南アジア一帯に広く分したという想定もあり、ポリネシア、メラネシ せる敬語法のうち、平常体 ( ヌゴコ ) に対する布する複合人種をいう。人口は九〇〇〇万人以ア、日本などに渡来・植民したとも考えられる納豆に似たもの ) で、これらは各種の料理に用 いられている。 尊敬体 ( クロモ ) には、このサンスクリット借上とみられる。概括的な分類によればモンゴロ が、確証はなし彳 、。記元麦数度にわたってインド 多種多様なインドネシア料理のなかで代表的 用語が一般に使用される。 イドに属するが、モンゴロイドの特徴を典型的洋を越え、マダガスカル島に移住し、当地に住 インドネシア諸言語の音韻的特徴としては、 な形でもつアジア・モンゴロイドと区別されんでいたニグロイドと混血した。それがマラガなものは、ナシ・ゴレン、ガドガド、サテ、ク て、しばしばインドネシア・モンゴロイド I n ・ シーである。 原オーストロネシア語の祖語音をよく保持し、 ルブックで、辛い調味食品であるサンバルも欠 また語形は通常 CV(C)CVC ( O は子音、 > は donesian ・ MongoIoid ともよばれる。この東南〔形質〕インドネシア・マレー人種は、程度のかせない熱帯の味である。これらの料理は広く 母音 ) のように一一音節となり、それ以上の分析アジア諸地域は、地形の複雑さと有史前からの差はあるが、かなり色の濃い皮膚をしている。 インドネシアの人々に好まれるだけでなく、こ は困難なことが多く、祖語の段階で語根の大半歴史の変遷に伴って、人種・民族の吹きだまり鼻は低く、とくに鼻根部がくばむ。髪は直毛での国に住む外国人にも好評である。 ひげ ナシ・ゴレンは、ご飯、卵、小さく切った鶏 はすでに語基となっていたと考えられる。文法となっており、交通不便な地区にはさまざまなあるが、原マレー人ではやや波打つ。髭や体毛 とつがく の中枢をなすのは接辞法で、接尾辞と比べて接特徴をもつものが分散している。 は少ない。唇は比較的厚く、歯槽性突顎がみら肉、小ェビなどにスパイスを混ぜて炒めた焼き 頭辞は種類が多く、また接頭辞どうしが複合す インドネシア・マレー人種は、モンゴロイドれる。ほお骨は張り出す。続成マレー人の顔は飯で、これにサラダとクルブックを並べて盛り 付け、いっしょに食べるのが普通である。 ることもある。接頭辞と語基とが結び付くと同様、その起源や系統について諸説があり、決平面的で、上下に短く、下顎が張っているた ガドガドは、インドネシアのサラ、ダのこと。 き、形態音韻論的な前鼻音化現象をおこすのは定的なことはいえない。インドシナ半島平地部め、角張った顔になる。原マレー人はそれより この語派の特色で、おこさない場合と文法的に ダイズもやしやキャ・ヘッなどゆでた野菜に厚揚 に居住するアンナン人やタイ人などをインドネ細長い顔である。原マレー人の眼裂は水平で、 シア・マレー人種に入れることもあるが、これ内眼角ひだを欠く。しかし、続成マレー人の目 げ豆腐を混ぜて、ピーナツッソースにいろいろ 区別されるほか ( タガログ語 sulat 「書くこ と」↓ ma ・ nulat 「著作する」 ma ・ sulat 「書け らは南部モンゴロイドに入れるほうがよい はつり上がり、内眼角ひだをもつものがみられのスパイスを加えたドレッシングをかけて食べ ねる」 ) 、現象的には ma ・ nulat のような鼻音代〔分類と分布〕・ > ・バロアによれば、このる。身長は世界の平均より低く、そのうち原マる。さ 0 ばりした味で甘辛く、昼食にふさわし い料理である。 レー人 ( 一五五 ~ 一六〇弩 ) は続成マレー人 AJ 償と mang-hi 「åm 「借り歩く」 ( ↑ hi 「åm 「借複合人種は便宜上、原マレー人 p 「 oto-Malays しし力、肉を」 サテは、どんな種類の肉でも、 りた」、なお ma ・ hiråm 「借りれる」 ) のよう ( インドネシア人 ) と続成マレー人 Deutero ・ 六三弩 ) よりなお低い。原マレー > な鼻音前出とがある。接頭辞、接尾辞の使用 Malays ( 第二次マレー人 ) の二群に分けるこ人は一般に中頭 ( 平均頭長幅示数七八・五 ) でさく切って串に刺し、日本の焼きとりのように 839

9. 日本大百科全書 2

セサンヌ首つりの家 1873 年油彩 55.5 x 66.5cm バリ印象派美術館 1874 年第 1 回印象派展に出品され た作品で , セサンメの印象主義時代の代表作。このころ ビサロの影響で明るい印象主義的傾向に移ってきている。 しかし , 前景の岩山や左右の家の量感のある形態による 造形感覚は , セザンヌ独自のものである セサンヌ『トランプをする人びと』 1890 ~ 92 年 油彩 45X57Cm バリ印象派美術館このモチーフ で少なくとも 5 点の作品を残し , そのうち 2 人の構図 は 3 点ある。一般には 5 人から 4 人 , そして 2 人へと しだいに単純化して厳しい構築性を求めたとされる。 5 点中この作品がもっとも小さいが , 緊密さにおいて 他に遜色なく晩年期に入ったころの代表作の一つ

10. 日本大百科全書 2

統とゲルマン的伝統の融合のうえに、新しい中世文化が形成 あイタリア史 される契機となった事件である。これ以後、中世初期、コム ーネ時代、プリンチパート principato 制 ( 君主制 ) の時代 〔イタリア史の特色と時代区分〕 ( ルネサンスの時代 ) と続き、一六世紀以降、スペインがイ 〔古代〕ローマ以前 / ローマ時代 〔中世〕中世の開始 / カロリング朝 / 商業と都市の発タリアの大部分を支配するようになる。スペイン継承戦争以 達 / 南イタリア / ルネサンス / 外国勢力の進出 / サ後オーストリアの勢力が侵出し、やがてそれにかわるナポレ オン一世の支配下でフランス革命の成果が直接イタリアに持 ポイア公国の台頭 〔近代〕フランス革命の影響 / ナポレオン体制 / 旧制復ち込まれたが、彼の没落後ウィーン会議に基づき、北イタリ 古とカルポナリ党 / マツツィーニと青年イタリアアにオーストリア支配が復活し、南イタリアには両シチリア 王国が生まれた。これに対して、イタリア諸国の自立性を回 党 / 一八四八 ~ 四九年 / 力。フールと外交政策 / ガリ 復し、国家統一を実現しようとする運動 ( リソルジメント ) バルディとイタリアの統一 / 右派と左派 / クリスピ 六一年に達成された。 が、サポイア王家の主導のもとに一八、 と権力政治 / ジョリッティ主義と第一次世界大戦 〔現代〕戦後の危機とファシズムの台頭 / ファシズム体ここに初めて真の意味におけるイタリア史のページが開くこ とになる。統一以降においては、ファシズムの台頭と政権掌 制 / 第一一次世界大戦 / 第一一次世界大戦後 握、没落、レジスタンス運動、ならびに共和国の成立が重要 〔イタリア史の研究史〕 な画期である。 彼らは非イン 行うなど、後のローマに大きな影響を与えた。 , 本項では、イタリアの通史として古代から今日までの歴史 古代 ド・ヨーロッパ系と考えられているが、起源や移住経路は不 を概説するが、古代ローマ時代に関しては、別に「ローマ 〔ローマ以前〕イタリア半島には旧石器時代から人が住んで明である。その一一 = ロ語はギリシア文字で記されているが、まだ 史」が立項されているので、詳しくはそれを参照されたい。 いた。新石器時代、金石併用時代の住民は古代地中海人種と解読されていない。エトルリア人の支配地域の南に、イタリ イタリア史の特色と時代区分 考えられている。サルデーニヤ島には巨石文化が存在した。キに属するラテン人、サビニ人、ウンプリ人などが居住して いた。↓エトルリア人 イタリア半島は地中海に架けられた橋であり、歴史上、つ紀元前一七〇〇年ごろに始まった青銅器時代にはアベニン文 〔ローマ時代〕前七、六世紀ごろ、テべレ川下流に定住して 化、ポー文化が成立した。後者は、新たに移住してきたイン ねにヨーロッパとレバント、アフリカとを結ぶ役割を果たし いたラテン人、サビニ人がしだいに台頭し、エトルリア人と てきた。したがって、その歴史は商業的、都市的性格が濃厚ド・ヨーロッパ語族のものと考える人が多い。湖畔や沼地に である。換言すれば、イタリア半島において形成された文化杭を打ち、その上に家を建てたり、平地に高床式住居 ( テ一フの交易を行いながら、集合して共同体を形成した。これがロ ーマの起源である。彼らは初めのうちエトルリア人の支配下 は、西ヨーロッパ的な性格をもっと同時に、地中海諸地域とマーレ式住居 ) を建てたりした。火葬の習慣、馬の使用な にあったと考えられているが、前六世紀末にはエトルスキ系 の共通性をもっているのである。もう一つの特徴は、権力のど、従来の地中海人種とは違った性格の文化が認められる。 インド・ヨーロツ。ハ語族の移住は、鉄器時代に入るとさらにの王を追放して共和政を敷き、勢力を拡大した。前四世紀に 分裂状態である。イタリア半島が一つの政治的共同体となっ たのは、ローマ時代と一八六一年の国家統一以降のことであ活発になり、前一〇世紀末 ~ 前六世紀にはエミリアとトスカは北方からのケルト人の侵入と略奪によって大きな損害を受 こつつば けたが、まもなく復興し、中部イタリアのエトルリア人やイ る。したがって、半島の諸地域はそれそれ独自の個性をもっナにビラノーバ文化が成立した。家屋型の骨壺がその特徴と タリキ系諸部族を制圧した。さらに南イタリアのギリシア植 されている。 ている。とくに南部と北部とのコントラストが大きい 前八世紀中ごろからシチリア島および半島南部にギリシア民都市との戦いに勝って前二七〇年ごろに半島の大部分を支 マ時代あるいはそれ以前において先進地帯であった南部は、 配した。前三世紀末にはカルタゴとの前後三回にわたる戦争 ~ 一三世紀にノルマン朝、ホーエンシュタウフェン朝の人の植民が始まり、シラクーザ ( シラクサ ) 、タラント、ナ ( ポエニ戦争 ) に勝ち、北イタリアや東地中海に支配を拡大 もとで独特の優れた文化を築いたが、北部の都市国家群の成ポリなどの都市が建設され、ギリシア文化が移植された。こ 長とポー川流域の農業発達に対して後れをとり、やがてスべれらの都市は経済的にも発展し、なかでもシラクーザは強大して、前二世紀には地中海の支配者となった。その後、社会 イン支配のもとで停滞し、産業革命以後、後進化した。このな海上勢力となった。ギリシア人が移住した地域は、前一一世的対立、ローマと同盟市との対立が激化して内乱状態になっ たが、前一世紀中葉カエサルが権力を掌握した。前二七年に 紀ごろになるとマグナ・グラエキアと総称されるようになっ ような多様性と地域間の著しい不均衡がイタリア史の特徴と た。一方、シチリア西部とサルデーニヤには、前七世紀にフォクタウィアヌス ( アウグストウス ) による元首政 ( 帝政 ) いえる。 ェニキア人が進出した。また、中部イタリアにはエトルリアが始まり、後二世紀初めに最大の版図に達した。ローマ支配 歴史上の画期としては、ランゴバルド族の侵入 ( 五天 五六九 ) と国家統一の達成とが重要である。前者は、西口ーマ人 ( エトルスキ ) が勢力を拡大した。彼らは都市国家を組織下の地中海諸地域では、パックス・ロマーナ ( ローマの平 し、アーチを用いた建築物を建てたり、大規模な土木工事を和 ) といわれる状態が成立し、ローマ法、キリスト教、ラテ 帝国の遺産を受け継いだ東ゴート王国が解体し、ローマ的伝 し ケルト 前 500 年ごろのイタリア イタリ ギリ 、、、。「 : : : コェトルスキ カルタゴ人 レーティ ス ウ プピ ラティー ナ ティレニア海 リグリ 7 工 前 38 リグリ ピキ ジ メ サ サルディ ー前 4 世紀にケルトが ー→・進出した地域 , 進路 シクリ シラクーザ りゴ 100 200km 382