かんじよう す・地に勧請するという「稲荷勧請」が一段と盛し、第二次世界大戦後に縄文早期の土器研究が を 進み、撚糸文土器のうちでも新しく位置づけら 行したからである。稲荷神は宇迦之御魂神と 分む 部刻 いわれる。「 , つか」 は「うけ」「け」と同意で食れている。稲荷台式土器は、縦方向のまばらな おおとのほがいののりと うかのみたま ル茎を 物を表すが、『大殿祭祝詞』に宇賀能美多麻を撚糸文で特徴づけられるが、夏島式との差が明 いわのみたま うかのみたま 5 文 この遺跡からは、局部磨製石斧、 稲霊と注し、『神代紀』に「倉稲魂」とある確ではない。 すりいし せきぞく 裏例 ように、「うか」は主として稲をさしている。打製石斧、石鏃、石皿、磨石も出土している。 長字の 要するに、この神は稲の精霊が宗教的に高めら現在は住宅地の下となっている。〈十菱駿武〉 やましろ ふどき 文売 ニ - - ロ れて成立したものであろう。『山城国風土記』回『板橋のあゆみ』 ( 一九七 0 ・板橋区 ) - 一うしよく いねなりお 鉄表文 いなりやま長野県更埴市の一地区。 土に銘 逸文に、「伊禰奈利生ひき」が「伊奈利社」の稲荷山 出間は 名となったとあるように、「いなり」は「稲生」旧稲荷山町。千曲川左岸にあり、明治年間まで 墳のの 古 5 す 「稲成」「飯成」とも書かれるが、一般に「稲県下の一大商店街をなし、いまもそのおもかげ 山田示 や 荷」を用いており、その神像の多くも稲を荷が残っている。稲荷山温泉もある。信越本線屋 稲除上 〈小林寛義〉 ( にな ) った農民の姿で表現されている。これ代駅からバス五分。↓更埴 ( 市 ) がもう れ、近世初期からは若松城の支城として蒲生氏の日橋川の侵食復活によって湖面が徐々に低下 は稲作に従事する農民の姿が、そのまま稲荷神囮二万五千分の一地形図「稲荷山」 の姿であるという生業即実相の思想によるもの稲荷山経塚しなりやまきようづか京都市伏の重臣が居城した。若松から二本松、福島に通して現在の高度になった。 湖岸付近の状況を地誌的にみると、ます北岸 見区深草町の稲荷神社の境内に存在する鎌倉時じる要地でもあった。猪苗代湖へ注ぐ長瀬川の で、そこに稲荷信仰の救済の原理もあり、ひい ながせ ては日本の伝統的な労働神聖の源泉をみいだす代初期の経塚。一九一一年 ( 明治四四 ) に土砂三角州は標高五〇〇を超えるが、広い水田帯には、上流から砂礫を連び出す長瀬川がデルタ てんじんはま へんべい になっている。磐梯山や猪苗代湖一帯は磐梯朝を形成する。その一部が天神浜湖水浴場であ ことができる。稲荷神の始原は稲、養蚕、食物採掘中に発見され、礫で覆った扁平石使用の小 の神であるが、中世から近世にかけて商工業が石室状遺構中に東西に並列して二個の陶製外筒日国立公園の一部。国の天然記念物に磐梯山爆る。その他の部分は浅い泥質の湖岸で、冬季ハ ときん みね クチョウが飛来する。西岸には、長浜、翁島、 盛んになると、町屋へと拡大され、生産や商業がみいだされた。外筒の一つには、経軸、鍍金発のときの見禰の大石、国の重要文化財に明冶 」っん ~ はま・ じゅうろっきよう ぎん 1 一うす のべかね だきにてん の神ともなった。さらに仏家でも荼枳尼天と習銀製平形合子 ( 砂金入り ) 、銀塊、延金、玉類、建築の天鏡閣などがある。また野口英世の生家十六橋、銀の浜、崎川浜などの観光スポット きようづっ 跡には野口記念館、隣接して会津民俗館があや、猪苗代湖の水を利用する発電用取水口、戊 合して祀り、また、稲荷神の使いをキツネとす古銭などが収められた銀製経筒が入っていた。 よこむき しん - 一しゅう おったて かんざし 辰戦争の戸ノロ原古戦場などがあり、国道四九 る民間信仰が生じ、その信仰は亜流とはいえ、 その周囲からは簪、提子、和鏡、湖州鏡、白る。押立、川上、沼尻、横向など温泉も多い 〈坂詰秀一〉人口一万九七一七。 〈安田初雄〉号が湖岸を四キ。にわたって走っている。南岸に 根強いものがある。 〈三橋健〉磁平形合子などが検出された。 とこなっ すが ふなづ いなりやまこふんしゅ五万分の一地形図「磐梯山」「二本松」 は常夏川、菅川、舟津川の河口付近に砂浜を伴 いなりずし油揚げの中にすし飯を詰めた稲荷山古墳出土鉄剣 さしびよ・つぶ けん一い ぎよ、つだ さきたま う小平野が広がる一方、鬼沼の砂嘴、屏風岩の 兼載 もの。キツネが油揚げを好むという説があり、 つどて。けん埼玉県行田市埼玉にある埼玉古墳猪苗代兼載いなわしろけんさい 0 またキツネが稲荷神社の使い姫であるという伝群の一基、稲荷山古墳 ( 前方後円墳 ) より出土猪苗代湖いなわしろこ福島県のほば中央に湖食洞、立石の柱状節理などの自然景観があ じよ・つこ こおりやま あさかそすい した鉄剣。一九六八年 ( 昭和四三 ) 発掘調査のある湖。湖岸の北と東は猪苗代町、南は郡山る。東岸北端の上戸には安積疏水の取入口、旧 説もあるので、稲荷ずしの名称がつけられた。 れきかく しのだ 疏水路、志田浜湖水浴場などがある。弱酸性湖 また信田の森のキツネが人間の姿となり、人妻際、墳頂部の第一主体部の礫槨から出土した。市、西は会津若松市に含まれる。南北一四キ 〈中村嘉男〉 となったという伝説から、信田ずしの名称も使剣の長さ七三・五垰一、身幅三・一五。七八年東西一〇キ。はどの卵形の輪郭をもち、面積一〇なので魚種はあまり多くない さび てんほう われている。いなりすしは、天保 ( 天三 0 ~ 四四 ) 保存処理のため錆落とし作業中、剣身の表裏三・九平方キロ ( 全国第四位 ) 、湖面高度五一四五万分の一地形図「磐梯山」「猪苗代湖」 きんぞうがん 一一五文字の金象嵌銘文が発見された。銘 のころ名古屋で創作され、まもなく江戸にも伝 、最大深度九三・五、湖岸線の長さは四九猪苗代盆地いなわしろばんち福島県のはば わかたける ( ろ ) し・ん嚇ない キロである。湖盆の形成史は単純ではなく、第一一一中央にある盆地。猪苗代湖が盆地面積の約七〇 来した。初めは両国橋付近で、房総 ( 千葉県 ) 文中の「辛亥年七月中」「獲加多支面」「杖刀 かわげた 方面に旅をする人たちを相手に売られている程人」、八代にわたる人名など、五世紀の古代紀末から第四紀初めころの地殻運動 ( 東縁を限 % を占める。東は比高五〇〇岩ほどの川桁断層 ばんたい さんろく ながせ かわげた かえい ~ 五四 ) に、次郎史・考古学研究のうえできわめて重要な史料とる川桁断層の活動 ) に始まり、断層角盆地の生崖によって限られ、北は磐梯山の山麓と長瀬川 度であったが、嘉永年間 ( 天哭 めのびき 吉という人が行商に成功してから流行したとい なっている。現在は保存処理され、鏡、環鈴な成を端緒とする。南西縁での会津布引山溶結凝のつくりだした低平な三角州からなる。西から たいせき ねこま ばんだい いなりずしに用いる油揚げは、薄手のものど他の出土品とともに現地の「さきたま資料灰岩層の堆積、北縁での猫魔ヶ岳、磐梯山の形南にかけては比高二〇〇前後の止陵と、会津 めのびき 館」に保管展示されている。八三年国宝に指定成などと並行して、この付近に現湖水面より六布引山に発して猪苗代湖に注ぐ中小河川下流部 を特製して用いている。これを「かます」とい された。↓埼玉古墳群 ^ 柳田敏司〉〇ほど低い位置に原猪苗代湖ともいうべき湖の小平野などが広がる。盆地の形成は、第四紀 う。形は長方形であるが、愛媛県松山市のもの おきなじま は三角形である。 〈多田鉄之助〉猪苗代 ( 町 ) いなわしろ ( まち ) 福島県中央部、水が誕生した。その後、湖盆北西部に翁島泥の初めころ、川桁断層の活動により断層角盆地 流の押し出しと堰き止めが行われ、湖面は急速が形成され、その低所に湖水がたまり、やがて いなりだいいせき東京都板橋区耶麻郡にある町。猪苗代湖北岸に位置する。一 稲荷台遺跡 おきなじま 北西部での翁島泥流による堰き止めと湖水位 八九年 ( 明治二一 D 町制施行。一九四一年に上昇してほば五三〇に達し、同時に面積も 稲荷台町にある縄文時代の遺跡。一九三九年 につばし しらさきたかやす いわせ ( 昭和一四 ) 白崎高保の発掘により、褐色土層 ( 昭和一六 ) 磐瀬、磐保の二村と合併、五五年現湖水面よりも広いものとなった ( 古猪苗代の上昇 ( 湖面の拡大 ) を経て、日橋川の侵食作 あかいやち よりいともん せんてい ちさとあづまっきわおきなじま とローム層の境付近から、撚糸文の深鉢尖底土千里、吾妻、月輪、翁島、長瀬の五村と合併。湖。約二万年前 ) 。この時期、現在の赤井谷地、用による急速な排水と湖面低下などの過程をた ばんえっ おしがた どった。盆地の気候は猪苗代湖の影響が大きく 器と押型文土器が発見された。ローム層に接し国鉄磐越西線、国道一一五号、四九号が通じ付近、湖北平野の大部分、湖東、湖南の低地 〈中村嘉男〉 などが湖面下にあって、湖岸線は屈曲の多い 湖上を吹く風により夏は涼し、 て出土したこの稲荷台式土器は縄文文化最古のる。中心市街は磐梯山南麓にあり、鎌倉時代に かめ は蘆名氏の一族猪苗代氏の居城亀ケ城が置かアス式の特色を示していた。その後、排水河川 囮五万分の一地形図「磐梯山」「猪苗代湖」 土器型式とされ、学界の注目を集めた。しか しろ あしな ばんだい さきん れき なんろく せきふ 〔表〕辛亥の年七月中、記す。乎獲居の臣。上祖、名は意富比境。 其の児、 ( 名は ) 多加の利足尼。其の児、名は弖已加利獲居。其の児、 名は多加披次獲居。其の児、名は多沙鬼獲居。其の児、名は半弖比 〔裏〕其の児、名は加差比余。其の児、名は乎獲居の臣。世々、杖 刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。獲加多支面の大王の寺、斯 鬼の宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、 吾が奉事の根原を記す也。 が 一れき 508
〈上島正徳〉究、留学後の原生動物胞子虫類の研究で、先駆 、、こインの市販を開始。ワイン醸造所のワイン城お楽客が多い。人口二万〇六七二。 えんてい 〈原田英司〉 的役割を果たした。 ナ - よび十勝川の秋サケ捕獲場、千代田堰堤が主要 2 五万分の一地形図「大垣」 いけだうじ池田荘、池田郷などの地 〈古川史郎〉 いけだ ( ちょう ) 徳島県北西部、三 観光地。人口一万一九〇二。 池田氏 池田 ( 町 ) つね 囮五万分の一地形図「十勝池田」「高島」「常好郡にある町。吉野川の屈曲部に位置する。一名にちなんだ氏族。美濃国 ( 岐阜県 ) 池田郡池 てしま むろ 九〇五年 ( 明治三八 ) 町制施行。五六年 ( 昭和田荘から興った池田氏、摂津国 ( 大阪府 ) 豊島 室」 すふ みなわ いまだて いけだ ( ちょう ) 福井県中部、今立 三一 ) 客蔵村、五九年佐馬地村、三縄村を合郡池田から出た池田氏、伊予国 ( 愛媛県 ) 周敷 池田 ( 町 ) どさん 郡にある町。一九六四年 ( 昭和三九 ) 町制施併。土讃本線が通じる。讃岐、土佐、伊予に通郡池田郷から出た池田氏など。江戸時代初期に あすわ 行。足羽川上流の山村で、中心の荷は、福井じる交通の要所で、中世末期には吉野川南岸の姫路藩主となった池田氏がとくに有名である。 かんせい その祖は摂津池田氏とする説もあるが、一 市からバス ( 国道四一七号 ) が通じ、南部は魚上野台に大西城が築かれた。寛政年間 ( 一天九 ~ しよう 一年 ( 文政四 ) 美濃国池田庄本郷村の龍徳寺境 見坂により武生と結ばれる。いまは過疎地とな天 (1) ごろから手刻みたばこがつくられ、一 つねとし おくえっ ったが、昔は武生と奥越を結ぶ交通の要地であ九八年 ( 明治三一 ) には専売公社池田工場の前内から、池田家の祖恒利の戒名「養源院殿心光 った。スギの育林業が盛ん。稲荷に室町時代の身である池田葉煙草専売所が設立されている。宗伝禅定門」と刻まれた五輪塔が発見されてい す絣 すわあすぎ 本殿をもっ須波阿須疑神社、同時代の民家の堀池田ダムが一九七五年完成し、香川用水、北岸ることから、美濃池田氏と考えられる。その遠 井 よりみつ やすまさ みずうみ ロ家 ( ともに国指定重要文化財 ) があり、水海用水の水利事業が進められている。北部に四国祖は源頼光四代の孫泰政で、初めて池田を称し のりより うんべん たという。泰政の九代の孫教依は内藤満之の娘五年 ( 元和一 ) 死去し、弟忠雄が岡山藩主とな の楸神社は国指定重要無形民俗文化財である霊場六六番札所の雲辺寺と番外の札所箸蔵寺が くすのきまさつら めと り、忠継遺領のうち十万石を弟輝澄、政綱、輝 〈高木秀樹〉を娶った。彼女は、最初楠木正行に嫁したが、 田楽能舞を伝える。人口四五一〇。〈島田正彦〉ある。人口二万一二九一。 しそ、つ あ - 一う その討ち死にののち教依に再嫁した。その産む興に分与し、宍粟藩 ( 三万八千石 ) 、赤穂藩 囮五万分の一地形図「池田」「川口」 回『池田町史』 ( 一九七七・池田町 ) しょ・つず いけだ ( ちょう ) 香川県北部、小豆ところの教正は正行の子と信じられ、池田氏楠 ( 三万五千石 ) 、佐用藩 ( 二万五千石 ) をたて 五万分の一地形図「大野」「冠山」 池田 ( 町 ) しょ・つど いけだ ( まち ) 長野県北西部、北安郡にある町。小豆島の南西部を占める。一九一一胤説は池田光政以後根強く続いた。教正の五代る。忠雄は母良正院の化粧料四万石を賜り三十 池田 ( 町 ) 二万石を領す。一六一六年利隆が死去し、嫡子 爨郡にある町。松本市の北方に位置し、一九一九年 ( 昭和四 ) 町制施行。五四年「一生村、三都の孫が恒利である。その妻養徳院は織田信長の のぶてるつわおき ~ ・ごっ 五年 ( 大正四 ) 町制施行。五五年 ( 昭和三〇 ) 村と合併。主として花崗岩からなる山地が海岸乳母となり、恒利の子信輝 ( 恒興 ) は信長に仕光政が姫路藩主となったが、幼少のため鳥取藩 はしばとよとみ り / 、 1 = っ あいそめ え、本能寺の変後は羽柴 ( 豊臣 ) 秀吉に加担し主三十二万石に移される。一六三二年 ( 寛永 に迫り、平地に乏しい。七六年の台風一七号に 会染村を合併。五七年陸郷村と広津村の各一部 九 ) 岡山藩主忠雄が死去し、嫡子光仲幼少のた よる集中豪雨では花崗岩の風化したマサ土が崩た。信輝の子輝政は最初秀吉に仕えたが、徳川 を編入。高瀬川の左岸で、中心部の池田地区は 松本盆地の一角を占め、水田農村部の地方的買れ、土石流災害で多数の死者を出した。高松と家康の娘富子 ( 良正院、督姫 ) を継室に迎えてめ、同年光政、光仲に国替を命ぜられ、以後光 が就航する。手延べそうめん家康の信任を得た。関ヶ原の戦いの恩賞として政の子孫は岡山藩主、光仲の子孫は鳥取藩主を 物町をなす。はとんど水田であるが、東部は止の間にはフェリー はりま 〈柴田一〉 世襲して明治維新に至る。 陵地帯でタバコや桑畑になっている。明治末期の主産地で、その歴史は古く約四〇〇年といわ播磨五十二万石を賜って姫路藩主となり、つい けいさいえいせん ただかっ ただつぐ びぜん いといがわ いけだえいせん 0 渓斎英泉 まで糸魚川街道の宿場町で、昭和初年までは製れる。卉栽培も盛んで、五〇年電照ギクの試で次男忠継に備前二十八万石、三男忠雄に淡路池田英泉 おおいと 六万石を賜り、輝政が総管したから俗称百万石池田温泉いけだおんせん島根県中央部、大 糸業が盛んで町勢も発展したが、国鉄大糸線や作に成功し大産地を形成する。 せいろく ながよし た 、こんべ かぶき といわれる。輝政の弟長吉も、関ヶ原の戦い後田市三瓶山西麓にある冷泉 ( 泉温二一度 0)0 文化財には農村歌舞伎 ( 県指定無形民俗文化 国道一四七号が通過しないことや、製糸業の衰 しやか かすが 退で人口は第二次世界大戦後減少している。広財 ) の舞台 ( 春日神社境内 ) や明王寺釈迦堂因幡のうち六万石を賜り、鳥取藩主に封ぜら泉質は含炭酸食塩放射能泉で「ラジウム鉱泉」 びつ ( 国指定重要文化財 ) などがあり、誓願寺のソれ、その子長幸のとき一六一七年 ( 元和三 ) 備として有名。一九一四年 ( 大正三 ) の調査でラ 津には安曇野焼陶芸村がある。人口一万〇六一 ちゅう しやそう ドンが測定され、一九三九年 ( 昭和一四 ) には 〈小林寛義〉 テッ、皇子神社社叢 ( ウバメガシなど ) は国の中松山藩六万五千石に移されたが、その子長 〇。 ししがき 含有量が世界一とされた。慢性リウマチや神経 回仁科宗一郎著『信濃池田町史話』 ( 一九六四・柳天然記念物。山間部には石造の猪垣も残る。人常に継嗣なく、一六四一年 ( 寛永一八 ) 断絶。 ^ 新見治〉 一六一三年 ( 慶長一八 ) 輝政の死後、遺領の痛によい。山陰本線大田市駅からバスが通じ ロ六七一、 原書苑 ) としたか しなの 〈野本晃史〉 うち四十二万石を長男利隆が相続、十万石は岡る。 囮二万五千分の一地形図「草壁」「土庄」 囮五万分の一地形図「信濃池田」 ーー九 llll) 動物山藩主忠継に加増される。しかし忠継は一六一囮五万分の一地形図「三瓶山」 いけだ ( ちょう ) 岐阜県南西部、揖池田岩亠順いけだいわじ ( 天七一一 池田 ( 町 ) しんくみ のうび 学者。新潟県新組村 ( 現長岡市 ) に生まれる。 斐郡にある町。濃尾平野の北西部、揖斐川右岸 に位置する。一九五四年 ( 昭和二九 ) 町制施第二高等学校を経て一八九九年 ( 明治三一 l) 東 池田氏 / 略系図 みやじやはた 行。五五年宮地、八幡の一一村と合併。五六年養京帝国大学理科大学動物学科を卒業、大学院で みつまさ つれとしのふてるつれおき 杣利ー信輝 ( 恒興 ) 輝政 」久生光政綱政ー継政ー宗政ー治政ー斉政Ⅱ斉敏 基村の一部を編入。近畿日本鉄道揖斐線が通研究ののち、一九〇三年新設の広島高等師範学 まさのりあ、、まさ つれもと じ、大垣へは車で二〇 ~ 三〇分 ( 国道四一七校教授となり、動物学を担当、博物学部主幹。 長吉 忠継恒元政一言ー ( 略 ) ー政詮 ( 章政 ) てるとし ・に・・カっ 号 ) 。石灰工場や電気、ゴム、樹脂などの各種〇九年から三年間イギリスに留学。一九年 ( 大 長政忠雄ーーー光仲輝録 てるすみ 工場が多く、池野地区には料理、飲食関係の店正八 ) 参画した京都帝国大学理学部生物学科設 さんろく 輝澄 が多い。町の西辺の池田山 ( 九一一四 ) 山麓の扇置と同時に動物学講座担当教授となり、瀬戸臨 みの 政綱 状地は美濃揖斐茶の最大の産地である。古墳が海研究所の創設に尽力したが、開所直前に急 がんじよう てるおき 多く、なかでも願成寺古墳群は一〇〇基を超逝。ホウキムシ類、ユムシ類、ホシムシ類の分 輝興 かまた : える。霞間ケ滝のサクラは国の天然記念物で行類や発生のはか、広く海産動物についての研 でんがく きたあ さめき み みつまさ みの てるまさ みつなカ つなー・・ 0 つを、まさ ーりち上・う、あ、、まさのりまさ わ」たまさのぶー・・ 0 、政茂政ⅱ章政ー詮政ー偵政ー宣政 くにがえ おお 168
いわむら シ、イワイソメ、エムシ、ホンムシ、イソべ、 ↓セキレイ 〈坂根干〉 かでない。南北朝期には益田氏など在地領主の 市となった。札幌に近いことから文教都市とし 間で複雑な抗争が繰り返されたが、一三六四年ドロムシなどとよばれ、二〇以上の別名があ いわみのくに島根県の西半部にあた ての面ももつ。人口七万八三一 一。〈柏村一郎〉 石見国 おおうちひろよ ( 貞治三 ) 大内弘世が守護となるに及んで平定る。体長三〇 ~ 五〇弩で赤褐色。前部は丸いが る旧国名。日本海と中国山地に挟まれた狭長な 回『岩見沢市史』 ( 一九六三・岩見沢市 ) へんべい おうえい 後部に向かうほど背腹に扁平になる。第三〇節 に向かった。大内氏は応永の乱 ( 一三究 ) で守護 囮五万分の一地形図「岩見沢」 地形。石見の語源が石海あるいは石満であると やまな おうにん ごうがわたかっ いわみじゅうたろう生没年不 いわれるように、大部分が山地で、江川、高津職を失い、山名氏が入部するが、応仁の乱 ( 一四付近から体の両側にえらが生じ、初めは一本で 岩見重太郎 げんほ ちくぜん こばやかわ 詳。桃山時代の豪傑。筑前 ( 福岡県 ) 小早川家 川など数条の河川が日本海に注いでいるが、沖六七 ~ 七七 ) 後はふたたび大内氏に還補された。戦あるが、それに四 ~ 五本の糸状の鰓糸が増え かたき 国時代に本格的開発が行われた石見銀山 ( 大田て、櫛の歯のようになる。マダイ、マコガレ の臣岩見重兵衛の子で、父の敵広瀬軍蔵を討っ積平野は発達していない。 とよとみ あの なかおおち あま」 もうりおがさわら たのち豊臣家に仕え、一六一五年 ( 元和一 ) の 大化改新後、安濃、摩、那賀、邑知、美濃市 ) は、大内、尼子、毛利、小笠原ら諸豪の争イ、スズキ、ペラ、アナゴ、キス、イサキ釣り ・一うじりよう などの好餌料となる。近年は、台湾、フィリピ 大坂夏の陣で討ち死にしたという。同じ戦で勇の五郡が置かれたが、八四三年 ( 承和一〇 ) 美奪の的となるが、のち徳川幕府の直轄地とな すすきだはやとかねすけ ン、韓国などから釣り餌用として生きた虫や塩 名を得た薄田隼人兼相と同一視する説もあるが濃郡から鹿足郡が分立した。国府の所在地につり、一七世紀前半最盛期を迎えた。江戸時代の つわの よみほん 信用はできない。講談や読本 (r 岩見英雄録』 いては浜田市周辺説が強いが、現在のところ確石見は、銀山領、浜田藩、津和野藩に三分され漬けにしたものが輸入されている。〈今島実〉 あだうち かきのもとのひとまろ など ) には、天ノ橋立で仇討をするまで諸国を認されていない。八世紀初め、柿本人麻呂が たが、近世初頭、銀山領を中心とする石見東部岩村 ( 町 ) いわむら ( ちょう ) 岐阜県南東部、 でんば 武者修行し、ヒヒや山賊を退治する豪傑として石見掾として赴任したといわれる。石見の豪族に、浄土真宗が伝播し、石見門徒とよばれる強恵那郡にある町。一八八九年 ( 明治一一一 l) 町制 かぶき ますだ みかもと ・一くがかんじん 八六施行。一九五四年 ( 昭和二九 ) 本郷村と合併。 活躍、歌舞伎にも扱われている。〈松井俊諭〉益田 ( 御神本 ) 氏は、平安末期、国衙官人とし固な地盤を形成したことは注目される。一 しよう あけち て下向、土着したもので、益田荘 ( 益田市東六年 ( 慶応一 l) 長州再征のとき、親藩浜田藩は国鉄明知線が通じ、国道二五七号、三六三号が イワミセキレイ〔岩見鶺鴒〕 forest wag ( ail \ こききミぎ s ぎミミ s 鳥綱ス部、美濃郡・那賀郡の一部 ) を中心に、主とし長州軍の攻撃を受け、藩主は逃亡、城は炎上し走る。岩村藩 ( 一七〇二年以後松平氏 ) 三万石 ′一うぎ の城下町を母体とし、恵那郡南部の商業中心町 ズメ目セキレイ科の鳥。全長約一五・五。背て石見中西部に勢力を扶植した。 た。一方、津和野藩は長州に好誼を通じたの びはん さだつな として発達したが、中央本線の開通以後は伸び 面はオリープ褐色で、黄白色の眉斑があり、翼 一一九三年 ( 建久四 ) 佐々木定綱が初代石見で、明治新政府のもとで活躍する人材が輩出し じゅっさい 悩んでいる。江戸時代の儒学者林述斎、佐藤 の二条の白帯と胸の二条の黒帯が顕著である。守護に補任されたが、以後の鎌倉期守護は明ら おき いっさい 一八六九年 ( 明治一 D 銀山領、浜田藩は隠岐一斎や下田歌子ら多くの名士を生んだ所で、町 な一り 県とともに大森県となったが、翌年浜田県と改並みに城下町の名残をとどめる。岩村町郷土館 がある。標高七二一の城山にあった岩村城 称。七一年には津和野藩が編入され、まもなく んげん ~ / 」 は、鎌倉時代、加藤景廉によって築かれた山城 隠岐が移管されて石見一円が浜田県となった。 七六年に浜田県は島根県に編入された。↓島根で、城跡からの眺めが雄大で、夏にはテント村 〈上島正徳〉 ( 県 ) 〈藤岡大拙〉が開かれる。人口五九一一。 かの いわみばんし石見国 ( 島根県 ) 鹿回『岩村町史』 ( 一九六一・岩村町 ) 石見半紙 せきしゅう 足郡を中心として生産される和紙。石州半紙鷓一万五千分の一地形図「岩村」 く : さきじへ ともいう。この地方の紙漉きは、風東治兵衛が岩村田いわむらだ長野県佐久市の中心集 あ、こま なかせんどう 『紙漉重宝記』 ( 一七九 0 のなかで、万葉歌人の落。旧岩村田町、のち旧浅間町。近世、中山道 かきのもとのひとまろ 柿本人麻呂がこの地へ赴任してから始めたとの宿駅と城下町 ( 内藤氏 ) として発展、近代的 しようちょうえいきよう はなづらいなり 記しているように古い。また、正長・永享年な商店街をなし、鼻顔稲荷神社がある。国鉄小 うみ よしみひろのぶ 間 ( 一四一天 ~ 四一 ) のころに吉見弘信が津和野の領海線岩村田駅がある。↓佐久 ( 市 ) 〈小林寛義〉 ・一もろ 空 主となってから、製紙業として確立されたとも鷓一万五千分の一地形図「小諸」 しなの むる いわむらだはん信濃国佐久郡岩村 伝えられる。しかしこれを特産としたのは、の岩村田藩 望あ たごさねます をが ちの亀井家の家老多胡真為の方針による。原料田 ( 長野県佐久市 ) に陣屋を置いた譜代小藩。 街駅 まィ一とも 市沢 はコウゾ ( 楮 ) で、きわめてじようぶなことか 一七〇三年 ( 元禄一六 ) 内藤正友が関東散在所 れ岩 ら、書道用紙のほか障子紙などにも重宝され領から佐久郡一万六千石に入封したのに始ま じようばん さる た。一九六九年 ( 昭和四四 ) その製紙技術 ( 石る。翌年 ( 宝永一 ) 大坂定番就任に伴い一万 画わ かえち かわち 区交 州半紙 ) が国の重要無形文化財に指定された。 石は摂津、河内両国内に替地となったが、一一 ま、こゆき 〕状ど ↓半紙 〈町田誠之〉年 ( 正徳一 ) 二代正敬がふたたび佐久、小県 格線 イワムシ〔岩虫〕ミミ -p をき sangz 、 inea 両郡内一万石と替地。うち千石を弟正直に分知 まキすけ ら本 か蘭 環形動物門多毛綱遊在目イソメ科に属する海産して一万五千石を領し、以後正弼、正興、正 まさあきら 空室 動物。日本各地の浅海に広く分布する。岩のす国、正縄、正誠と七代存続して廃藩に至る。 まっしろ 方線 当初から財政難が深刻で藩内外の豪農商や松代 きまに潜っているものが多いのでこの名がつい 南本 はった たのであろうが、砂泥中にもすむ。環境によっ藩城下町商人八田家からの借財でしのぎ、再三 市函 ごようたし て体色など多少体質が異なる。各地で釣り餌と御用達の反抗を引き起こし、家紋にかけて「金 7 しまのかみ 見手 岩左 して用いられているので、地方によってアカムは内藤志摩守、すそからばろが下がり藤」と皮 7 . :. 第をい かのあし いわうみ あし まさつな うたこ ふだい ちいさがた やまじろ かわ
いんど を足場にして生成発展したイギリス人の植民者叫 型企業とがある。後者は、プランテーション、 ジュート、石炭など古い分野の事業において支 配的であったが、今日では弱体化しつつある。 かわって前者のタイプのものの拡大が顕著であ って、このため外資系企業のシェアは漸増傾向 にある。 しかし、インドの対外経済政策は、他の発展 途上国よりは民族的性格が強いため、外資は強 い規制政策を受けがちで、民族系企業がこうし た規制政策に守られて支配的な地位を維持しつ つある。民族系企業のうちで大規模なものに、 タタやビルラなどがある。これらは金融業を除 いて重要な各種の分野に巨大な事業を営んでお り、経営の多角化が著しい。両者はそれそれ、 インドの全民間会社のおよそ一割を支配してい る。また、それそれ三〇万の従業員を雇用して いると推定される。両者はもとより、他の大財 閥も経営が多角化し、多くの企業を傘下に擁す るけれども、経営の実権は所有家族ないし同族 の手中にある。独占的価格、政府との癒着、独 そじよう 断経営などが世論の俎上に上り、政府も独禁法 を制定 ( 一九六九 ) し一定の規制をしつつある。 〔財政・金融〕インドは中央集権志向の強い連 邦制の財政制度をとっている。中央・州ともに てとん 国物 財政は経常勘定と資本勘定の一一本立ての予算よ 国っ盛ュ 有も りなり、毎年会計年度の始まる四月より一、一一 で地 は作デ ラ 車各 核シ楯 か月前に議会に上程されて決められる。中央政 のウ 産の 府の場合、このほか鉄道特別会計がある。中央 の財政規模と、諸州合計の財政規模とはほば同 どれ 6 るてて んさ ていか 額とみてよい。また、中央・州ともに経常勘定 立ロ 界でな達ア ほ栽 世んの発 の歳入に占める税収のシェアは約三分の二であ のか 。糸産か燥 几又 一三ロ 車花 丿畜 る。税収のうち、中央・州ともに間接税のシェ タ取の施の アが圧倒的で、その逆進的性格がしばしば問題 ンにド【】既 セ的ンん羅ラ の原 視されている。 はガ 高 カ極イ 方ウ 子積 中央と州とは税目が別で、中央のおもな税目 イカ 原に場地ト ハ発市の は所得税、法人税、関税、内国消費税などで、 こ多っ 場な査フ開シ 州では販売税、州消費税などである。一般に中 工大検バカウ 車広のる子の植きの 央財政の管轄下にある税目のほうが税収増が弾 地あ原ル田引料 の頭辛 自場布にどア 力的であり、税収不足にいっそう悩みの多い丿 のるエのイなツ 閥あ花場ペ電ッるドはい の対中央政府依存度が高まり、州自治のたてま 財に綿エン発リあナ作な タ下の物ロカムて・耕せ えが脅かされる傾向にある。 タ限州る織ト子アっルるか 中央の経常勘定の歳出の最大の費目は国防費 業る制ラいるの原州一ミよ欠 あ入トてあ交 , プのタに シで、約四分の一も占めている。次に大きい費目 に輸ュしに近は一の イなシ達イイドャもドウ料 は国債費 ( 元利払い ) で、近年上昇しつつあ ド重ラ発ペペンジなン。ド ン厳ハがンンイン要イるン り、一九八一年度予算では歳出全体の五分の一 ポはマ場ポポるハ重南あイ イ①車②工③あ⑤も⑥で⑦ 強に上った。経済開発費は独立後急増した項目
いぎりす イギリスの自然 ①イングランドの典型 的な田園風景。農地は 石垣などで囲まれて工 ンクロージャー ( 囲い 込み ) の跡を残し , 放 牧地が多く , 山地はな だらかな丘陵状てある ②イングランド北西部 の湖水地方には大小 15 もの氷食湖が点在し , ワーズワースらの湖畔 詩人を生み出した ( ウ インタミア湖 ) ③スコットランドのハ イランド地方西部の谷 グレンコー ノ、イラン ドは高い所でも標高千 数百 m ほどの高原であ るが , 険しい地形も多 くみられる は、このウェールズのカンプリア山塊からとっ たものである。 〔北アイルランド〕アイルランド島北東部の約 六分の一を占める地域で、一九二二年以来、現 」連合王国の一部を構成する。一一院制の議会をも つなど、若干の自治も認められている。おもな - 一 ' 産業は農牧業と工業で、中央部の低地を中心 かきん に、ウシ、プタ、家禽などの飼育や酪農と耕作 を行う混合経営がなされている。耕作農業の主 要作物は大麦、オート麦、ジャガイモなどであ る。工業は・ヘルファストとロンドンデリーの二 都市に集中し、ベルファストでは造船やリネン 製造、ロンドンデリーでは機械、化学、繊維な どの諸工業が盛んである。ベルファストは北ア イルランド第一の港湾をもち、政治、経済、文 化の中心である。北アイルランド住民の三分の 二はプロテスタントで、一九六〇年代後半以 降、対立する少数派のカトリック教徒との間で 〈井内昇〉 流血の争いが続いている。 歴史 グレート・ プリテン島には、その地理的位置 のゆえに、古来、数多くの民族が移住してき て、融合しあって歴史を形づくった。古代には ケルト人の定住、ローマの征服が行われ、中世 には、五世紀以降アングロ・サクソン人、デー ン人、ノルマン人、さらにはフランス人が次々 とイングランド王国を支配した。したがってイ ギリスは、島国ではあったがけっしてヨーロッ ハ大陸から孤立した存在ではなく、一二世紀中 毒葉のプランタジネット朝の成立によって、大陸 に広大な領土を有するフランスのアンジュー家 の帝国に組み入れられた。フランスとの百年戦 ~ 争は、イギリスが自立的な国民国家を形成する ための戦いであった。しかしイギリスでは、羊 毛工業の発達により封建社会の解体が他のヨー ロッパ諸国より早く、一五世紀末にはチューダ ー朝のもとで絶対主義時代を迎え、ヘンリー八 世のときローマ教会から分離し、エリザベス一 一一謇、一一一世の治世には海外への進出の機運が高まった。 一一次のスチュアート朝のもとで、国王と議会の抗 一ニ一一一一争」、りピ = ー。 , , 革命が勃発し、国、が処 後は議会を中核とする立憲君主制の政体が定着 し、それに歩調をあわせて近代市民社会が展開 した。国内では地主寡頭支配の続くなかで、一 八世紀には大西洋のかなたに植民地を建設し、 ばつばっ
ENCYCLOPEDIA NIPPONICA 201 日本大百科全書 ◎ SHOGAKUKAN 1985 昭和 60 年 2 月 20 日初版第一刷発行 定価 7 , 800 円 2 編集著作 出版者 発行所 印刷所 本文 相賀徹夫 小学館 郵便番号 101 王子製紙株式会社 凸版印刷株式会社 販売・東京 03 ー 230-5763 業務・東京 03 ー 230 ー 5333 電話編集・東京 03 ー 230 ー 5620 振替東京 8 - 200 番 東京都千代田区ーツ橋 2 ー 3 ー 1 ( 特抄百科用紙 ) ( 特抄デート紙 ) 三菱製紙株式会社 表紙 タイニック株式会社 ( 特製クロス ) 製本凸版印刷株式会社 若林製本株式会社 * 本書に掲載した日本関係地図は , 国土地理院発行の 2 万 5 千分の 1 地形図 , 5 万分の 1 地形図 , 20 万分の 1 地勢図を使用したもの です。 水路図誌複製「海 E 保安庁承認第 5900111 号」。 * 造本には十分注意しておりますが , 万一 , 落丁・乱丁などの不良 品がありましたら , おとりかえいたします。 * 本書の内容の一部または全部を , 無断で複写複製 ( コヒ。ー ) するこ とは , 法律で認められた場合を除き , 著作者および出版者の権利 の侵害となりますので , その場合はあらかしめ小社あて許諾を求 I S B N 4 ー 0 9 ー 5 2 6 0 0 2 ー 5 Printed めてください。 in Japan
いわたとよだ しーを学 / 静岡県磐田郡豊田町西部の一 生したり、紫紋羽病にかかって枯死すること じて池上新田を開いたのをはじめ、各地を開形成している。飲料水は真空蒸留装置によって池田 みようじ もある。 地区。旧池田村。天竜川下流東岸に位置し、農 〈飯島亮〉墾、その功により六八年 ( 明和五 ) 苗字帯刀を海水を淡水化し、住民に無料で供給している。 かがみいけ めいわ いけがみ東京都大田区のほば中央、許された。明和年間 ( 一七六四 ~ 七一 l) には製糖技術池島港は、鏡池を切り開いて港湾化した人工業地帯。東海道を東へ下る場合の天竜川の渡 池上 山手台地末端にある本門寺を中心とする一地を完成させ、関東各地にその技術を普及させ、港で年間一二〇万トンに上る石炭の積み出しが行渉地点で、宿駅として鎌倉時代以来紀行文に とおとうみ させ まつのお えばら かんしょ こうのうら 区。旧荏原郡池上町。東京急行電鉄池上線が通また甘蔗の栽培を奨励した。そのはか、製塩、われるはか、神浦港 ( 外海町 ) 、長崎港、佐世しばしば登場する。また、松尾神社領遠江国池 しよう のりしり さくゆ のり じ、西側を第一一京浜国道 ( 国道一号 ) が走る。海苔、製硝、搾油、養魚、果樹栽培など多角的保港から定期船が出入りしている。〈石井泰義〉田庄の中心地でもある。源範頼の母は池田宿長 むねもり せんぞくいけ 者の娘。平宗盛と長者の娘熊野の悲恋物語は謡 北方にある洗足池の上にあたることが地名の由な経営を試みるなど、殖産興業に大きな貢献を二万五千分の一地形図「池島」 おがイ一 〈川崎文昭〉 いけしんでん静岡県小笠郡浜岡町の曲『熊野』で有名。↓豊田 ( 町 ) 来という。鎌倉時代、この地の豪族池上宗仲が した。文人とも交わり、多くの記録、随筆を残池新田 〈福島要一〉 日蓮を迎えて本門寺を建立してから有名とな 一地区。旧池新田町。浜岡町の中心地区。近世鷓一万五千分の一地形図「磐田」 しゅうえん ほんもんじ 。しーを学 / 大阪府北西端にある市。 初頭に潟湖の新野池を干拓、新野池新田を造池田 ( 市 ) り、日蓮終焉の聖地でもある。寺域は地形の池上本門寺しけがみはんもんじ 0 本門寺 しょ - っとう 名川を隔てて兵庫県に接する。一九三九年 変化に富み、五重塔、多宝塔、松濤園のほか、 いけがわ ( ちょう ) 高知県中央部、成、のち池新田と略称した。↓浜岡 ( 町 ) 池川 ( 町 ) ろはん こよど いけす漁獲した魚貝類を販売また ( 昭和一四 ) 市制施行。北摂山地の南端五月山 幸田露伴ら多くの著名人の墓があり、大田区の郡にある町。仁淀川上流、愛媛県境の山間生け簀 緑地の一つとなっている。南側に門前町の景観部に位置する。一九一三年 ( 大正一 D 町制施は食用に供するまでの一定期間飼育しておくたの山塊と猪名川の古扇状地からなり、市街地は が残る。 〈沢田清〉行。四一年 ( 昭和一六 ) 富岡村を合併。平地にめの施設。生け簀は、材質や形によって、箱生同川の谷口に発達する。阪急電鉄宝塚線と国道 囮五万分の一地形図「東京西南部」 恵まれず、かっては焼畑農業やコウゾ、ミツマけ簀、生け簀、船生け簀、掘り生け簀、網生一七六号 ( 旧能勢街道 ) が通じる。 さんろく いずみ 五月山山麓は先史時代から開け、縄文、弥生 け簀などに分けられる。沿岸の浅海、湖沼、溜 池上遺跡しけがみいせき大阪府和泉市池上タの栽培が盛んで、和紙の産地であり、近世に そんばち 町と泉大津市曽根町にまたがる、畿内でも最大銅山 ( 安井 ) の開発もみられたが、いずれも衰池などに施設され、マダイ、ハマチ ( プリ ) 、式遺跡や尊鉢塚などの古墳も多い。『日本書紀』 くれはとりあな おうじん やよい 規模の弥生時代集落遺跡。正式名称は池上・曽退した。県境近くの平家集落の伝承のある椿カンバチ、スズキ、トラフグ、ヒラメ、コイな応神天皇の条に記載の大陸の渡来人呉織、穴 くれは 1 」レ一り 根遺跡という。和泉平野中央の微高地を選び、山は、最近まで焼畑が残存したことで有名。近どの魚類のほか、クルマエビ、イセェビ、アワ織はこの地に機織業を伝えたといわれ、呉服、 ビ、サザ工、マダコなどの一般に高価な水産動伊太の両社はこれらの人々を祭神とする。中 弥生前期後半以後弥生時代全期間にわたる遺世には伊予松山に通じる街道がここを通過し、 構・遺物がみられる。一九六九 ~ 七〇年 ( 昭和土佐藩の番所なども置かれたが、近代以降、国物が対象とされる。近年盛んになっている魚類世には池田氏が築城、その治下となったが、近 え 四四 ~ 四五 ) に第二阪和国道敷地が発掘された道筋から離れ、過疎化現象が著しい。池川神社の養殖や、カツォ釣り漁業で使用する撒き餌の世廃城後は能勢街道沿いの市場町として、山地 かぐら の炭、クリ、本材、平地の米、塩、古着などの ほか、府・市教育委員会による部分調査が行わの神楽は、国の重要無形民俗文化財。人口三四イワシの蓄養には網生け簀が用いられている。 みのお 〈大脇保彦〉 網生け簀を利用した養魚は小割式養魚ともよ交易で栄えた。一九一〇年 ( 明治四三 ) 箕面有 れている。それらの結果から、弥生中期には幅 ばれ、水面上の枠に網生け簀をつるし、この中馬電気軌道 ( 現阪急電鉄宝塚線 ) が通じてから 三 ~ 四の人工の大溝が、約一〇万平方の区回『池川町誌』 ( 一九七三・池川町 ) いしづちゃま かみど で魚を飼育する。この方法は、施設の経費に対住宅地化が進み、大阪市の衛星都市となった。 域 ( 居住区 ) を囲っていたことが証明され、大囮五万分の一地形図「石鎚山」「上土居」 して経済性が高い。また、魚の取り上げも容易産業には、在来の酒造、製材業などのほかダイ 溝を含めて約一二万平方が国史跡に指定され居消質奉公いげししちばうこう江戸中期以 ハッ ( 自動車 ) 、リコー ( 感光紙、現像液 ) な た。大溝の外側には一群六 ~ 七基からなる方形後の奉公人の一形態。居崩れ ( 居腐れ ) 質奉公であるため、現在では稚魚養成や成魚養成の主 しちもっ ともいう。質物奉公の原型は、前借金の質物と 流をなしている。網生け簀の構造は、形が正方どの進出をみる。植本栽培は全国に知られる。 周溝墓群が少なくとも三群以上分布し、また、 きゅうあんじ 後期の集落の範囲は南北五〇〇以上に広が して人間を差し出し、前借金が返済されるまで形、長方形、六角形、八角形、円形などがあ久安寺は行基創建と伝えられ、室町時代の楼 門は国の重要文化財。阪急の創業者小林一三旧 り、一辺の長さは普通三 ~ 六。枠は、木、 る。遺跡の総面積は五〇万平方を下らないら質物たる人間に奉公労働させるという形であっ いつおう た。つまり質物奉公人の労働は前借金の利子分竹、ビニル管で組み立て、竹束、ドラム缶、邸には逸翁美術館がある。人口一〇万一一一 たる 〈位野木寿一〉 土器、石器、木器や自然遺物は膨大で、近畿に相当していた。これに対して居消質奉公は、樽、合成樹脂製の浮きなどを使って浮かせ、 いかりどのう ぎんし 弥生人の日常生活用具や、食料資源残滓 ( 動植質物奉公人の労働により、前借金の一部または杭、錨、土嚢などで固定する。魚が飛び出さな回『池田市史概説編』 ( 一九七一・池田市 ) そう ) い いように、水面上の枠に網を張り巡らすが、風囮二万五千分の一地形図「広根」「伊丹」 物遺存体 ) のはとんどすべてを出土している。全部が相殺される形で、質物奉公の変形であ いけだ ( ちょう ) 北海道中南部、十 信仰関係の遺物である鳥形木製品は有名であるり、年季奉公に至る過渡的形態といえる。ここ波が強くて生け簀が沈む危険があるときや、鳥池田 ( 町 ) かち が、このほかにも、竜らしい動物を線刻した後では、前借金が事実上質物奉公人の労働に対すの襲撃を防ぐために、天井網を張ることもあ勝支庁にある町。一九二六年 ( 大正一五 ) 町制 つば 〈曽根ひろみ〉る。天井網を張ったものは、水面下に生け簀を施行。元鳥取藩主池田仲博侯爵所有の農場内に 期の長頸壺形土器、終末期に土器とともに投棄る報酬とみなされつつある。 としべっ どうたく すもうなだ いけしま長崎県南部、角カ灘に浮か沈めることによって風波を避ける利点があり、置かれた駅名を町名とした。十勝川、利別川の されたらしい銅鐸の断片など注目すべき資料は池島 こしそのぎそとめ 〈石部正志〉ぶ炭鉱の島。西彼杵郡外海町に属する。面積沈下させる場合は投餌用に円筒状の網をつけ河谷と標高二八〇以内の止陵からなり、国鉄 ちまく ねむろ 回石部正志著『原始古代集落の変遷ーー泉北平〇・九二平方キ。。炭田の閉山が相次ぐ一九五一一る。網目は収容する魚の大きさによって変え根室本線、池北線、国道二四二号が通じる。入 植開始は一八七九年 ( 明治一一 l) ごろで、一九 野』 ( 『地方史マニュアル 9 』所収・一九七七・柏年 ( 昭和二七 ) に開坑され、六〇年には営業。へる。 ースにのり、従業員一八〇〇、月産一〇万トンを 網生け簀養魚の欠点は、網の破損による魚の〇四年 ( 明治三七 ) 鉄道開通後開拓が進み、利 書房 ) - う、けがみたろうざえもん 出炭するビルド鉱に成長した。松島炭鉱池島鉱逃亡のほか、付着物による網の目詰まりによる別、池田に市街地が発達した。インゲンマメ、 池上太郎左衛尸 むさしたちばな ー九 0 江戸中期の豪農。武蔵国橘樹郡大業所の経営。開鉱前は戸数八〇の半農半漁村で水流の悪化 ( 溶存酸素の欠乏の原因 ) で魚を死アズキ、サトウダイコン、ジャガイモなどの畑 亡させることがある。このため、網替えを随時作と酪農が基幹産業。六三年 ( 昭和三八 ) 町営 け・師河原 ( 神奈川県川崎市 ) の名主。名は幸豊。あったが、現在は高層アパートが建ち並び、 〈小橋二夫〉でワインの試験醸造に着手し、六六年に十勝ワ 1 一七六二年 ( 宝暦一 (l) 多摩川河口に私財を投 さな島に人口六〇〇〇を超え、人口集中地区を行う必要がある。 ( 一七天 やまのて にちれん むら一きもんは やま つばき せきこ はまおか ため さっき と
いわとび じじよう しみどう 制施行。一九五四年 ( 昭和二九 ) 西大備館は国の史跡に指定されている。特産に凍豆耳状突起がある。椀形の包膜をもった小円形の まうしのう しちくり まやま 、崎、一栗、真山の三村と合併。国鉄陸腐、竹細工、納豆などがある。人口一万六五六胞子嚢群を両縁の近くにつける。本州中部以北 れん 〈後藤雄二〉 の深山の岩石上に好んで生育する。デンダは連 デ羽東線が通じる。北西部は丘陵、南東四。 えあい 〈西田誠〉 ノダの古名の一つ。 朶とも、 部は古い扇状地上にあり、中央を江合回『岩出山町史』 ( 一九七 0 ・岩出山町 ) こしうすきたかち 川が南東へ流れる。戦国時代には大崎囮五万分の一地形図「古川」「岩ヶ崎」 岩戸いわと宮崎県北西部、西日杵郡高千 イワデンダ〔岩連朶〕きを 03 ・町の一地区。旧岩一尸村。五ケ瀬川の支流岩戸 、一 ) 氏の重臣氏家氏が支配した。一五九一 あまのいわと だてまさむね 川が南流し、険しい峡谷をなす。天岩戸神社 年 ( 天正一九 ) より伊達政宗が岩出山 0 斗 s Eaton オシダ科の夏緑性シダ。直立 あまてらすおおみかみまっ 城を本拠とした。政宗の仙台移居後、 した塊状の根茎から、一回羽状に分裂した、長があり天照大神を祀る。秋季には地区ごとに かぐら むね 一六〇三年 ( 慶長八 ) に政宗の四男宗 さ二〇 ~ 四〇弩の線状披針形の葉を数多く束生岩戸神楽とよばれる夜神楽が催される。↓高千 やす 〈横山淳一〉 泰が領主となった。江戸時代末には馬する。全体に毛をまばらにつける。羽片は中軸穂 ( 町 ) ゅう だえん 産に加え養蚕が興った。旧学問所の有からほば直角に出て、長楕円状、基部の上側に四一万五千分の一地形図「三田井」 きよかわ いわといせき大分県大野郡清川村 岩戸遺跡 うすお 腑の望 南る 大字臼尾字岩戸にある旧石器時代遺跡。一九六 ったな夜用農て , れ山があ ら倣め富季利 士ば手広がフ海を 七年 ( 昭和四一 l) に東北大学チームが、七九年 くかに始豊冬をでとる富よ岩がど ツの域 町づ代腐り 。と温の業れ部もの野な マ図倍 には清川村教育委員会が、それぞれ発掘調査を 山 - 腐時豆くう水低も副さ南と容牧場 の 2 出と豆戸や野つい下のたの造 行った。ローム層中には八枚の旧石器文化層が 士山は牧一東線約 岩凍江高てと地問し家製山富なに井、南赤の あるが、上から二番目の約一万八〇〇〇年前と 手片麗麓岩 せんとう ビ東図離 岩部秀南小 推定される文化層中にはナイフ形石器、尖頭 る市左距 よ戸 , 平 器、スクレー ーのほかに緑泥片岩製のコケシ せきぐう タ・方・かは 形石偶が含まれ、また河原石を配した集石墓と 一東空さ 〈芹沢長介〉 思われる遺構も発見された。 ュ北上高 岩戸神楽いわとかぐら『古事記』『日本書 あまのいわとびらき ンは圓の 紀』に記された天岩戸開の神話を劇化して演 あまてらすおおみかみあめのうずめのみことたちからおのみこと の図万た ずる神楽。天照大神、天鈿女命、手カ雄命 下瞰 1 し などの神々が仮面をつけて登場し、多くは黙劇 風に神話の世界を展開する。九州の神楽はこと に岩戸開の曲を重要視しているために岩戸神楽 にしうす とよばれることがあるが、なかでも宮崎県西臼 たかちほ 杵郡一帯の高千穂神楽をとくに岩戸神楽とも称 いずも する。岩戸開の曲は全国的に分布する出雲流神 楽のなかで、もっともポピュラーな曲として知 〈高山茂〉 られている。↓高千穂神楽 おおっき 岩殿山いわどのさん山梨県大月市にある岩 山。標高六三七。南面に鏡岩 ( 古くは大黒 岩 ) とよばれる大岩壁 ( 礫岩 ) がそびえ立ち、 かずの 南と東を桂川と葛野川に挟まれ、西と北は山々 おやまだ に囲まれる要害の地で、都留郡の領主小山田氏 かつより の城があった。この城には、武田勝頼が小山田 のぶしげ 信茂を頼って新府城から岩殿山へ向かう途中 で、信茂が裏切ったため、武田氏が滅んだとい う哀史を秘めている。中腹の丸山は公園として 整備されているほか、山頂の展望台、峰続きの ん ~ かン一 兜岩、稚子落としなどの景勝地がある。中央 〈吉村稔〉 本線大月駅下車、徒歩四〇分。 二万五千分の一地形図「大月」 イワトビレイヨウ 0 クリップスプリン 岩手山 / ヒュー・ 至ひろさき 秋田県 / 花輪第亡雨 森き亠 八物平 協 54 熱年電斤〇 ) 谷流 】熱発 手亠姫岳 小岩井有料、路東山田岩手県 060 △に 35 遠別岳 田沢湖線 国道 46 号 盛岡市 東北新幹線 車北いハ 道せんだい 小岩井有料道路 池崎亠 i440 岩手亠 山田線 北上川 国道 106 号 ひしん 国道 282 号 姫祥岳 花輪線 国道 4 号 東北本線 かつら れき 699
いなりし しもうイ一 を編入。国道一五六号が走る。一三九〇年 ( 元業などの工場も立地する。人口二万七六〇九。れた。のち一時、下総国 ( 千葉県 ) 海上郡に隠方キ。で、北極海斜面に入る。周囲の針葉樹林は うながみずいおう ずい しやくによ ラッブ人の生活領域で、トナカイ飼育が盛んに ↓印南野 〈二木敏篤〉棲、海上随鵐と称したが、晩年京都に出て蘭学 中七・明徳一 ) 本願寺五世綽如がこの地に瑞 れんによ えっ を教授した。門下の藤林普山は、『波留麻和解』行われるが、豊富なサケ・マス類が内水面漁業 泉寺を建立、八世蓮如のとき信徒が増大し越回『稲美町史』 ( 一九全・稲美町 ) たかさご が大冊で少部数である不便を軽減すべく、簡明を支えており、観光客による釣りや狩猟との調 中 ( 富山県 ) の本願寺浄土真宗の拠点であっ囮五万分の一地形図「高砂」 やつけん き ) つき ) なりまさ 〈塚田秀雄〉 な『訳鍵』を作成した。『波留麻和解』は、の和が問題となりつつある。 た。一五八一年 ( 天正九 ) 佐々成政に焼かれた 印南野いなみの兵庫県中南部、旧加古郡一 あかし いなりこう京都市伏見区にある稲荷 が藩政期に再建され、ふたたび門前町として栄帯の台地。東は明石川、西は加古川、北は美嚢ちオランダ商館長ドウーフ Hendrik Doeff が 稲荷講 はりまなだ 川で境し、南は播磨灘を望む、東西二〇キ。、南長崎のオランダ通詞を督励して編纂した蘭和辞神社などに対する信仰から結ばれている講。稲 えた。現在真宗大谷派別院、山門は県指定文化 荷の作神的性格から農耕神としてはもちろんの 北一〇キ。の地域である。畿内の西の玄関口であ典を『長崎ハルマ』というのに対して『江戸ハ 財、本堂は県下最大の木造建築物である。ま ふんか ふどき らんま こと、豊漁を願う漁業の神、商業の神、ひいて ルマ』ともよばれる。文化八年一月一六日没。 り、『播磨国風土記』には印南野、『万葉集』に た、欄間、獅子頭などの木彫屋が多く、毎年日 いなびの 〈片桐一男〉 は鍛冶の神として広く全国的に普及している。 は印南野、稲見野、稲日野として詠まれてい 京都東山の大恩寺に葬られた。 展入選者を出すなど芸術性豊かな町として知ら きんや いちのみや れている。高瀬神社は越中国一宮。人口一万一る。平安時代には禁野であった。水利条件が悪イナモリソウ〔稲森草〕 Pse 0 をざ s 神棚に祀るほかに、邸内や一定の土地の一区画 〈深井三郎〉 く、江戸時代はワタ作を主としたが、日 ~ 目 月冶蔔期斗 es き Miq. アカネ科の柔らかい多年草。など屋外に祭場をもっ形態、いわゆる屋敷神と おう′一 して祀られている場合が多い。これを大別する に衰退した。一九一五年 ( 大正四 ) の淡河川 地下茎は細く、地中をはい、地上茎は高さ一 回『井波町史」上下 ( 一九七 0 ・井波町 ) じようはな と、屋敷稲荷などとよばれる個人持ちのもの 山田川疎水の完成で水田化が進展した。大小無五 ~ 一〇弩。花は五、六月に開き、白または淡 囮二万五千分の一地形図「城端」 あぎ 〈二木敏篤〉紫紅色で美しい。子房は五室、各室に一個の膠と、小字や組、町内単位で管理にあたる共同の 印南 ( 町 ) いなみ ( ちょう ) 和歌山県南西部、数の溜池景観はみごとである。 珠が各室の基部から上向きにつく。果実は乾果ものとがある。これらを中心にして稲荷講が行 日高郡にある町。一九〇〇年 ( 明治三三 ) 町制囮五万分の一地形図「高砂」 施行。五六年 ( 昭和三一 ) 稲原村を編入。五七稲村ヶ崎いなむらがさき神奈川県鎌倉市ので、五個の核をもつ。関東地方以西の本州、四われるのである。 ふどき にったよしさだ きりめ あずみ 稲荷講の盛んな神奈川県の事例から前者をみ 年切目川、安住の二村を合併。『紀伊続風土記』海岸の中央に突き出た岬。新田義貞徒渉伝説地国、九州の山地の木陰に生える。名は、江戸時 しよう うなへ は印南を海部の転語という。中世の印南荘と切で、国指定史跡。江ノ島電鉄の駅があり、鎌倉代に名古屋の花屋が三重県稲森山からとり、イていくことにする。個人のとは別に、二月初午 かたせ に数戸が集まって祀る稲荷をナカマイナリとい 目荘を含む。印南川と切目川の流域を占める。駅、小田急電鉄片瀬江ノ島駅からもバスが通すナモリソウと名づけて売り出したことによると いう。イナモリソウ属は日本特産の属で、胎座う。甘酒はかならす供えるので、前年と本年の 紀勢本線、国道四二号 ( 熊野街道 ) 、四二五号る。岬は由比ケ浜と、七里ケ浜とを分け、相模 型や果実など特異な形態をもち、属の類縁はま宿の主婦が二日ほど前に仕込む。あらかじめ当 が通る。「平家物語』などで知られる五体王子湾を一望に収められる景勝地。この海岸は古く イかキ一 だよくわかっていない。 。まかにシロバナイナモ番の家の一画、その四隅に橋を立てて斎場とし からの交通路で、鎌倉時代には鎌倉の大手口 社の一つ切目がある。両川の河口部が中心で、 のはり サヤエンドウなどの施設園芸が盛ん。人口一万で、四境祭の西方の祭場にされたこともあった リソウ P. 、 e 、を (Miq. ) Maxim. が関て赤飯を供える。そのそばには幟を立てる。当 〈小池洋一〉 が、風波が激しく難路として知られていた。元東から近畿地方に分布する。花は小さく白色日は講中の子供が太鼓をたたきながら、各家の 〇七六七。 ほんぜん こう 〈福岡誠行〉 稲荷を回る。夕方から本膳が始まる。祭りが終 弘の変 ( 一三三 D に新田義貞が鎌倉の北条氏を攻で、七、八月に開く。 五万分の一地形図「田辺」 ひがしやま ) 一くらくじきり いなり京都市伏見区の東山山地南端わるとすぐに幟を次の当番に送る。なお、天神 稲美 ( 町 ) いなみ ( ちょう ) 兵庫県南部、加古めたとき、西側の攻撃ロとしていた極楽寺切稲荷 どおし の地区。渡来人を氏が七一一年 ( 和銅四 ) に創講のように一定の年齢、あるいは男女別の集団 郡にある町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 加古、天通の守備が堅くて破ることができず、稲村ケ お の講もあるようだが、事例も少なく、古くから 満、母里の三村が合併して成立。このあたりは崎の岩頭から、自分が佩びていた黄金づくりの始したという伏見稲荷大社の鳥居前町である。 ほうじよ・つ たち しくいものである。〈佐々木勝〉 『万葉集』にいう「いなみの」 ( 印南野 ) の地太刀を海中へ投げ入れて、竜神に潮の引くこと五穀豊穣から商売繁盛の神としての信仰が広の形態とは考えこ さんけい いなりしんこう稲荷神および稲荷 で、町名もそこに由来する。地形は東高西低のを祈り、伝いに一挙に攻め込んだという伝説がり、正月と二月の初午には数十万の参詣客で稲荷信仰 にぎわう。素朴な伏見人形は全国の土人形の源神社に対しての信仰。稲荷神を奉祀する稲荷神 隆起扇状地で、水利の便が悪く、近世の開発ではあまりに有名。岬の西側の高台は公園になっ ため 〈織田武雄〉 社は、全国津々浦々に及んでおり、『稲荷神社 ようやく水田化が始まった。大小一一〇余の溜ており、新田義貞の碑や、「真白き富士の嶺」流とされる。 略記』によると、その数は三万〇七五〇余社に 池がある。神戸市の西郊に位置し、野菜、花卉の歌で知られる逗子開成中学生のポート遭難の囮二万五千分の一地形図「京都東南部」 などの園芸農業が発達するが、近年は川崎重工碑がある。 こ lnarijärvi フィンラン上るといわれている。これに個人の邸内に卍ら 〈浅香幸雄〉イナリ湖 ド北部、ラップランドの湖。面積約一〇〇〇平れている稲荷社まで加えると相当数の稲荷神が 囮二万五千分の一地形図「鎌倉」 奉祀されていることになり、稲荷信仰の広くて ( 一七天 稲村三伯いなむらさんばく らんがくしゃ へんさん 厚いことがわかる。稲荷信仰がこれほどまでに 江戸後期の蘭学者。日本最初の蘭和辞典の編纂ノ 普及した事由として、①平安時代の初期に教王 者。名は箭、号は白羽。三伯は通称。鳥取藩 おおっきげんたく モ 護国寺 ( 東寺 ) と結び、その鎮守神として勢力 医。脱藩して江戸に出て大槻玄沢について蘭学 ナ を築き上げた京都の伏見稲荷大社が、各地に信 を学んだ。当時、蘭和辞典のないのを遺憾とし イ 仰組織を形成していったこと、②「稲荷念持」 て辞典編纂を志し、ハルマ Fraqois Halma の や「おだいさん」のような民間布教者が広めた 蘭仏辞典により、オランダ通詞出身で白河藩主 さだのぶ こと、③民間の「田の神祭り」に乗じて広まっ 松平定信に仕える石井恒右衛門 ( 旧名馬田清 ていったこと、などを掲げることができるが、 吉 ) の翻訳、協力を得て、『 波留麻和解』を編 とくに江戸時代の中ごろから飛躍的に発展をし 纂、成就した。一七九六年 ( 寛政八 ) 八万余語 ふしみ たのは、総本社である伏見稲荷大社の分霊を各 5 の原語を木活字で三〇部印刷し、訳語を書き入 せん ちゅう 稲村三伯画像 東京早稲田大学図書館 ためいけ ゅ きない さがみ みの しゅ - はっ・つま - ふしみ ふぎん まっ まっ 1 」っ・つま・
たかのす こんせんじ み、倒卵形で先端はヘこみ、長さ八 ~ 一 いたどり ( むら ) 岐阜県中西部、武番札所金泉寺、四番の大日寺、五番の地蔵寺が代の鷹巣城跡がある。↓安中 ( 市 ) 〈村木定雄〉 板取 ( 村 ) りよう ながら 果実は三稜形で長さ二・五 : リ、黒または黒褐色儀郡にある村。長良川の支流板取川の上流部にある。北部の大坂峠は、古くからの阿波と讃岐囮二万五千分の一地形図「下室田」「富岡」 で光沢がある。北海道から九州にかけての荒れあたり 、北は福井県に接する。標高一〇〇〇 いたび中世につくられた石塔の一種 を結ぶ重要な交通路であった。人口一万三五六板碑 こうなん いたいー ) 第 : つはな 0 地に普通にみられ、朝弉、中国にも分布する。 以上の山を抱える広大な山地に囲まれ、スギの 〈高木秀樹〉で板石塔婆ともいう。埼玉県大里郡江南村にあ る、嘉禄三年 ( 一一一一一七 ) 銘のものが初見で、南北 若葉は乾燥してたばこの代用とし、根茎は薬用造林地も広く、集落は川沿いに点在する。岐阜囮二万五千分の一地形図「引田」「大寺」 朝・室町時代にもっとも盛んとなり、一七世紀 にする。花が紅色のものをメイゲッソウ ( 明月方面からの交通の便も開け、板取川の清流沿い 板橋 ( 区 ) いたばし東京都、区部の北西部に には姿を消す。九州・四国から東北・北海道に 草 ) とよんで区別する。本州の日本海側には葉にはキャンプ場、バンガロー、民宿もあって、 あり、北は荒川を隔てて埼玉県と接する区。一 きたとしま わりま の裏面の脈上に毛の集まるものがあり、変種ケ夏を中心に春から秋にかけて訪れる人が多い 九三二年 ( 昭和七 ) 北豊島郡の板橋、練馬の一一至る全国各地に分布するが、関東地方の、秩父 しむら りよくでいへんがん イタドリとい , つ。 〈小林純子〉また繊維、縫製、研磨などの工業も導入されて町と志村、上板橋村、赤塚村、中新井村、上練産の青石 ( 緑泥片岩 ) でつくられたものが数 しやくじ も多く、よく知られている。青石は板状にはが いる。人口二三〇一。 〈上島正徳〉馬村、石神井村、大泉村の七村が合併して区が 回渡辺賢雄著『板取村の歴史』 ( 一九六七・郷成立。四七年 ( 昭和二一 l) 練馬区を分離して現れやすく加工もしやすいことから、厚さの薄い 土史発行後援会 ) 在に至る。地名は石神井川に架けられた板の橋石碑状の石に細かな彫刻が施されるなど芸術的 はちまん のう 1 一はくさん によるという。その板橋のある所は、江戸時代にも優れた形のものが多い。板碑という名称 囮五万分の一地形図「八幡」「能郷白山」 ながら なかせんどう に江戸四宿の一つといわれた中山道の板橋宿では、この石碑状の形から近世末に生じたもので いたどりがわ長良川の一支。 板取川 やまのて 岐阜・福井県境の平家岳 ( 一四四一ⅱ ) に水源をある。山手台地の末端の赤塚、西台、志村はかあるが、板碑は碑ではなく、両親など亡者の追 むぎ ほらど もち岐阜県武儀郡板取、洞戸の両村内を南っての地方豪族の居城地であり、その東部は荒善供養や生きている者の逆修供養のためにつ まきた・ - しんがし みの くられた供養塔であり、板碑のつくられた時代 。は流し、さらに牧谷を経て、美濃市で長良川 、新河岸右岸の沖積低地である。長く農村地 そとば し。特別な名称はなく、石塔、卒塔婆、浮図 に合流する。延長三七キ。。洞戸の中心部か帯であったが、昭和初期から東武鉄道東上線 かわごえ ら牧谷では、谷がかなり開けており、牧谷 ( 一九一四開通 ) や中山道 ( 国道一七号 ) 、川越街道などと供養塔を意味する名称でよばれていた。 ③ また刻まれている銘文も、その亡者などの名や は美濃紙の産地として有名。洞戸村の奥部 ( 国道二五四号 ) 沿いに都市化が進み、とくに から板取村では、板取川の谷は細長く奥深第二次世界大戦後の人口増加が著しい。高島造立趣旨と、経典の一句である偈と、紀年銘な だいら しゅうはん どで、記念碑的な意味の銘は刻まれていない いが渓谷美が至る所に展開し、岐阜、名古秋帆の名にちなんだ高島平には高層のアバ 屋方面から近いので、キャンプや清流の釣 ト住宅団地があり、都区内屈指の大きさを誇っ 板碑の形態は、頭部を三角形にし、二条の溝 ときわ 〈上島正徳〉ている。常盤台は東武鉄道によって一九三〇年が刻まれ、梵字 ( 種子 ) や画像で主尊とする仏 りなどに訪れる人が多い かんのん あだだい : ちしやか = - 板野 ( 町 ) いたの ( ち、う ) 徳島県北東部、代に建設された計画都市である。なお城北工業 ( 阿弥陀、大印、釈迦、地蔵、観音など ) を表 なんろく 板野郡にある町。讃岐山脈南麓、吉野川左地区の一部で、顕微鏡、カメラなど光学機械工現し、その下に銘文が刻まれているのが一般 ばん 岸に位置する。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 板業に特色をもっている。また、七六年に完成しで、この形態の起源については諸説があるが、 まっさかさかえ みた 西町と松坂、栄の二村が合併して成立。高た都営地下鉄三田線が区を縦断して走り、八一一一五輪塔の形態が転化したものとする説が現在も おおてら っとも有力である。石材は青石のほか、地方に 徳本線が南北に走る。中心は大寺地区で、年営団地下鉄有楽町線も通じ交通が便利になっ むや た。おもな観光名所として、旧板橋宿、旧中山よって安山岩、花崗岩、凝灰岩などが用いられ 一撫養街道と讃岐街道の十字路上にある。北 あまくら だいレ」・つ の甘蔵山を中心として古墳群があり、大唐道から移築された国指定史跡の志村一里塚、区るが、材質のつごうで厚手もしくは柱状になっ ・一うしん かんみよう 国寺跡からは、平安時代の経筒や経巻、経内最古の庚申塔のある観明寺 ( 板橋出世不たものもある。 がわら たあそび 板碑に込められた信仰は、偈の出典の経典や 瓦などが発掘されている。南部では漬物動 ) 、田遊 ( 国指定重要無形民俗文化財 ) で知 用のダイコン、白ウリ、キュウリや西洋一一られる北野神社 ( 徳丸 ) と諏訪神社、荒川戸田主尊から知ることができ、関東地方のものは八 ンジンが栽培される。山麓には四国霊場一一一橋緑地、区立美術館、区立郷土資料館、日本書割まで密教的浄土信仰に基づくとされるが、宗 道美術館などがある。なお地名由来の板橋は、派まで確定することは一般的にはできない。た , 治無 徳年寺 年正る日加。む福元福 一九七二年木製に模してつくられたコンクリー だ例外的に、鎌倉時代末期以降に多くなる「南 に」ー ) ゅ・つ なむみよう なかじゅく ' 碑刻 0 ′イ : . むあはだぶつ 立寛れ 2 士 ト橋として本町・仲宿間の石神井川に架けら無阿弥陀仏」と名号を刻む時宗系と、「南無妙 ~ 一造のら月武養を蔵福 にちれん はうれんげきよう 。期え 5 蔵供 る東 れている。人口四九万八二六六。 〈沢田清〉法蓮華経」と題目を刻む日蓮宗系とは宗派を知 一、群町考 を 回『板橋史』 ( 一九五四・板橋区 ) ▽滝ロ宏編『板ることができる。 一碑室と 3 こ追 板ら塔弘しの地像 板碑の造立者は、鎌倉時代には武蔵七党など 橋のあゆみ』 ( 一九六九・板橋区 ) ) 節図あ 斌を当ヂ一型か養伉に も道孤 の年と卓 とよばれるような在地領主層がほとんどである 囮五万分の一地形図「東京西北部」 本衆 3 おのえいだはち 道安職 芻を齶無寺 、拓結徳 第 が、一五世紀後半以降、とくに関東地方では、 参弘住 命坤照 ノいだはち 0 尾上伊太八 伊太、 つきまちこうしんまち あんなか 寺の代村。運貞乾円碑い ( いたはな群馬県安中市東部の一地区。月待や庚申待などの民俗行事に伴って農民たち 板鼻 板用年 光期歴川碑と家「 うす なかせんどう 気一 ~ 」慈末。幾板亡道げ偈玉養を引 旧板鼻町。碓氷川左岸の段丘上にあり、中山道が一結衆を構成して供養塔を造立する例が多く ようり きようみよう . 三 4 - 一①倉る都の減入の埼供号 . 、 ~ 。、鎌至県弘氏門元待年は なる。これらの板碑は、その交名を分析する の宿場町として発達した。付近で一時養鯉業が 碑に玉元条衛祖文月私亥 板問埼②北左学重③の辛 行われたことがある。国道一八号が通じ戦国時ことによって、東国の中世村落のようすを知る 3 2 三月日 さめき 初し む