統とゲルマン的伝統の融合のうえに、新しい中世文化が形成 あイタリア史 される契機となった事件である。これ以後、中世初期、コム ーネ時代、プリンチパート principato 制 ( 君主制 ) の時代 〔イタリア史の特色と時代区分〕 ( ルネサンスの時代 ) と続き、一六世紀以降、スペインがイ 〔古代〕ローマ以前 / ローマ時代 〔中世〕中世の開始 / カロリング朝 / 商業と都市の発タリアの大部分を支配するようになる。スペイン継承戦争以 達 / 南イタリア / ルネサンス / 外国勢力の進出 / サ後オーストリアの勢力が侵出し、やがてそれにかわるナポレ オン一世の支配下でフランス革命の成果が直接イタリアに持 ポイア公国の台頭 〔近代〕フランス革命の影響 / ナポレオン体制 / 旧制復ち込まれたが、彼の没落後ウィーン会議に基づき、北イタリ 古とカルポナリ党 / マツツィーニと青年イタリアアにオーストリア支配が復活し、南イタリアには両シチリア 王国が生まれた。これに対して、イタリア諸国の自立性を回 党 / 一八四八 ~ 四九年 / 力。フールと外交政策 / ガリ 復し、国家統一を実現しようとする運動 ( リソルジメント ) バルディとイタリアの統一 / 右派と左派 / クリスピ 六一年に達成された。 が、サポイア王家の主導のもとに一八、 と権力政治 / ジョリッティ主義と第一次世界大戦 〔現代〕戦後の危機とファシズムの台頭 / ファシズム体ここに初めて真の意味におけるイタリア史のページが開くこ とになる。統一以降においては、ファシズムの台頭と政権掌 制 / 第一一次世界大戦 / 第一一次世界大戦後 握、没落、レジスタンス運動、ならびに共和国の成立が重要 〔イタリア史の研究史〕 な画期である。 彼らは非イン 行うなど、後のローマに大きな影響を与えた。 , 本項では、イタリアの通史として古代から今日までの歴史 古代 ド・ヨーロッパ系と考えられているが、起源や移住経路は不 を概説するが、古代ローマ時代に関しては、別に「ローマ 〔ローマ以前〕イタリア半島には旧石器時代から人が住んで明である。その一一 = ロ語はギリシア文字で記されているが、まだ 史」が立項されているので、詳しくはそれを参照されたい。 いた。新石器時代、金石併用時代の住民は古代地中海人種と解読されていない。エトルリア人の支配地域の南に、イタリ イタリア史の特色と時代区分 考えられている。サルデーニヤ島には巨石文化が存在した。キに属するラテン人、サビニ人、ウンプリ人などが居住して いた。↓エトルリア人 イタリア半島は地中海に架けられた橋であり、歴史上、つ紀元前一七〇〇年ごろに始まった青銅器時代にはアベニン文 〔ローマ時代〕前七、六世紀ごろ、テべレ川下流に定住して 化、ポー文化が成立した。後者は、新たに移住してきたイン ねにヨーロッパとレバント、アフリカとを結ぶ役割を果たし いたラテン人、サビニ人がしだいに台頭し、エトルリア人と てきた。したがって、その歴史は商業的、都市的性格が濃厚ド・ヨーロッパ語族のものと考える人が多い。湖畔や沼地に である。換言すれば、イタリア半島において形成された文化杭を打ち、その上に家を建てたり、平地に高床式住居 ( テ一フの交易を行いながら、集合して共同体を形成した。これがロ ーマの起源である。彼らは初めのうちエトルリア人の支配下 は、西ヨーロッパ的な性格をもっと同時に、地中海諸地域とマーレ式住居 ) を建てたりした。火葬の習慣、馬の使用な にあったと考えられているが、前六世紀末にはエトルスキ系 の共通性をもっているのである。もう一つの特徴は、権力のど、従来の地中海人種とは違った性格の文化が認められる。 インド・ヨーロツ。ハ語族の移住は、鉄器時代に入るとさらにの王を追放して共和政を敷き、勢力を拡大した。前四世紀に 分裂状態である。イタリア半島が一つの政治的共同体となっ たのは、ローマ時代と一八六一年の国家統一以降のことであ活発になり、前一〇世紀末 ~ 前六世紀にはエミリアとトスカは北方からのケルト人の侵入と略奪によって大きな損害を受 こつつば けたが、まもなく復興し、中部イタリアのエトルリア人やイ る。したがって、半島の諸地域はそれそれ独自の個性をもっナにビラノーバ文化が成立した。家屋型の骨壺がその特徴と タリキ系諸部族を制圧した。さらに南イタリアのギリシア植 されている。 ている。とくに南部と北部とのコントラストが大きい 前八世紀中ごろからシチリア島および半島南部にギリシア民都市との戦いに勝って前二七〇年ごろに半島の大部分を支 マ時代あるいはそれ以前において先進地帯であった南部は、 配した。前三世紀末にはカルタゴとの前後三回にわたる戦争 ~ 一三世紀にノルマン朝、ホーエンシュタウフェン朝の人の植民が始まり、シラクーザ ( シラクサ ) 、タラント、ナ ( ポエニ戦争 ) に勝ち、北イタリアや東地中海に支配を拡大 もとで独特の優れた文化を築いたが、北部の都市国家群の成ポリなどの都市が建設され、ギリシア文化が移植された。こ 長とポー川流域の農業発達に対して後れをとり、やがてスべれらの都市は経済的にも発展し、なかでもシラクーザは強大して、前二世紀には地中海の支配者となった。その後、社会 イン支配のもとで停滞し、産業革命以後、後進化した。このな海上勢力となった。ギリシア人が移住した地域は、前一一世的対立、ローマと同盟市との対立が激化して内乱状態になっ たが、前一世紀中葉カエサルが権力を掌握した。前二七年に 紀ごろになるとマグナ・グラエキアと総称されるようになっ ような多様性と地域間の著しい不均衡がイタリア史の特徴と た。一方、シチリア西部とサルデーニヤには、前七世紀にフォクタウィアヌス ( アウグストウス ) による元首政 ( 帝政 ) いえる。 ェニキア人が進出した。また、中部イタリアにはエトルリアが始まり、後二世紀初めに最大の版図に達した。ローマ支配 歴史上の画期としては、ランゴバルド族の侵入 ( 五天 五六九 ) と国家統一の達成とが重要である。前者は、西口ーマ人 ( エトルスキ ) が勢力を拡大した。彼らは都市国家を組織下の地中海諸地域では、パックス・ロマーナ ( ローマの平 し、アーチを用いた建築物を建てたり、大規模な土木工事を和 ) といわれる状態が成立し、ローマ法、キリスト教、ラテ 帝国の遺産を受け継いだ東ゴート王国が解体し、ローマ的伝 し ケルト 前 500 年ごろのイタリア イタリ ギリ 、、、。「 : : : コェトルスキ カルタゴ人 レーティ ス ウ プピ ラティー ナ ティレニア海 リグリ 7 工 前 38 リグリ ピキ ジ メ サ サルディ ー前 4 世紀にケルトが ー→・進出した地域 , 進路 シクリ シラクーザ りゴ 100 200km 382
った。家具はそれを所有する人の社会的地位や政治の混乱を収めてナポレオンが帝位につく ない折り畳み形式の椅子を用いて、来客用には す . グ、全体が前後に揺れ動く形式をロッキングと 権威を誇示する財産であったため、装飾性が重 ( 天 0 四 ) と、アンビール ( 帝政 ) 様式が始まっ 2 装飾の多い椅子を使用した。 た。これは古代ローマを理想としたもので、材 〔掎子と快適性〕新材料の開発と加工技術の向 ローマ時代は形式的にはギリシアのヘレニズ視され、階級に応じて形状と装飾が違ってい 料にマホガニーを使い、座面と背に赤色の布地 上によって、乗り物の座席はここ十数年の間に ムのものを踏襲したが、帝政時代になると豪華た。ローマからおこったバロックは、ヨーロッ ハ各国に広がっていったが、フランスではルイを張り、金の装飾をつけていることが特徴であ 長足の進歩をした。とくに機能性の向上のためな大理石の建物にふさわしい装飾的な椅子がっ 一四世時代 ( 一六四三 ~ 一七一五 ) に。フール boulle とる。この様式は一九世紀中ごろまで広くヨーロ くられた。材料には木材のほかにプロンズ ( 青 に人間工学の研究は大きく貢献している。最近 よぶ宮廷家具の様式が確立した。椅子は座面やツバで使われた。なお、この時代に椅子の座面 では個々の座席からさらに一歩進んで、車両の銅 ) や大理石が使われた。 〔中世〕ローマの伝統をもっ椅子はビザンティ背もたれに羽毛を詰め、草花模様のゴ・フラン織にコイルスプリングが組み込まれることになっ 室内の配置を対象にしたアコモデーション ac ・ ン帝国に伝えられた。六世紀につくられた「マやビロードで張りあげた豪華で重厚な様式であた。これは機能性のうえから画期的な進歩とい commodation ( 順応性 ) の研究も行われるよ えるものであった。生産の方法も手工芸から機 うになり、乗り物の快適性の向上に対して椅子クシミリアンの玉座」には、象牙の彫刻をはめった。イギリスは王権復古 ( 一六六 0 ) 以降、フラ しんちゅう 込んだ豪華な木製の椅子がある。 ンスの影響を受けながらジャコビアン様式に発械に変わり、材料も木材のほかに鉄や真鍮 の研究は大きく役だっている。 西ヨーロッパで椅子が支配階級の間に普及し展させ、分厚い板張りの椅子や挽物椅子が流行 ( 黄銅 ) などが必要になってきた。またこの時 椅子には二つの顔、すなわち形態的役割と機 期、オーストリアのトーネットは曲木の技術を 能的役割とがあるから、使用目的によって二つたのは一三世紀ごろからである。この時代には 〔ロココ様式、一八世紀〕バロックが荘重で躍開発して安価な庶民用の椅子を生産した。一九 の要素の組合せ方が違うわけである。たとえ経済活動が活発化し、ギルドが結成された。ロ ば、裁判官の椅子は権威が強く求められるからマネスクの素朴な技術にかわってゴシック家具動的な美しさの時代であったのに対し、次のロ世紀の後半になると進歩的なグループによる家 ココは繊細で軽快な美しさを求めた時代であっ 具の創作活動が始まった。モリスの美術工芸運 快適性は多少犠牲になってもよい。喫茶店の椅がつくられるようになった。この時代の椅子は かまち 子は見かけの美しさが必要だが、掛け心地がよ従来と形が変わって框組板張り構造で、座面をた。当時の貴婦人は幅広いスカートを着用した動、マッキントッシュの活動、アール・ヌーポ ー運動などがそれである。なお、アメリカでは すぎると客の回転が悪いので、経済効率はよく 蓋に使った収納兼用の箱形になった。また背もので、椅子の形もそれにあうように座面は前幅 この時代にウインザーチェアやシェーカー家具 たれは上に伸びて背高になり、天蓋のついた長が広く、肘掛けは短い。また、座り心地も改善 ない。一方、学校やオフィスでは形の美しさも などが広く使われている。 椅子も現れるようになった。いずれも権威の象されている。イギリス人も軽快で華麗なクイー さることながら、機能性がより重要である。 なお、クッション性についていえば、柔らか徴としての役割が主であったから、豪華な装飾ン・アン様式を発展させたが、その後さらに建築〔アール・ヌーポー様式から現代まで〕一九世 紀の末から二〇世紀の初めにかけて、植物の曲 が施された。寺院の中では建築の一部としてゴ家のケント William Kent ( 一六会ー一七四 0 によ すぎると脳への刺激が弱いから眠くなる。また ってクラシック・アー リー・ジョージア様式が線をデザイン要素に取り入れたアール・ヌーポ 体の支持が不安定なため、無意識のうちに筋肉シック様式をもっ椅子が使われた。なお日常の ー様式が流行し、フランス、ベルギー、イギリ を働かせることになるので、座っているだけで生活のなかでは高い背もたれと肘掛けのついた生まれた。材料はそれまでウォールナットが主 ス、オーストリアなどで新しい形の椅子がつく くたびれてしまうことになる。 長椅子や、板構造のスツールなどが用いられて材であったが、植民地の拡張によって新しくマ ホガニーが輸入されて、これにかわることにな られた。二〇世紀になると、材料と生産技術の 椅子の歴史 った。イギリスでは一七四〇年代から家具師チ革新によって、さまざまな椅子がつくられるこ ルネサンスは古典復活の時代であったから、 トイツのバウハウスから生まれた 〔西洋の椅子〕〔古代〕エジプトでは古王朝の椅子はふたたび古代ローマの形式が反映されッペンデールによるチッペンデール様式が流行とになった。、、 時代から埋葬の風習として、生前愛用した身のた。豪華な彫刻を施したもののほかに、座面やし、家具の黄金時代を築くことになった。それ金属バイプの椅子や量産方式の椅子などがその っ・つれ はロココを基調としたもので、装飾性を抑え、 例である。フランスでもまた現代を象徴する椅 回りの道具を墓の中に収めた。現存する最古の背もたれに綴織を張ったものも現れてくる。ま 椅子に、第四王朝のスネフル王の妻へテプレスた長椅子も愛用されたが、生活のなかで広く使背もたれに透彫りを入れ、実用と美しさを調和子のデザインが生まれた。一方北欧ではデンマ させた庶民のための品位ある椅子であった。な ーク、スウェーデンなどを中心に工芸的な味わ の墓から出土した黄金の肘掛け椅子がある。有われたのは、板構造に彫刻を施したスガベルロ お、この時代に、ウインザー地方の農民によっ いをもっ木製の椅子の名作が数多く生み出され 名なのはツタンカーメン王の椅子で、一九二二 sgabello とよばれる小椅子であった。 イタリアでは最初はダンテスカ dantesca とてつくられた地方色豊かな椅子は、のちにアメて注目を浴びた。またアメリカでは工業生産技 年にイギリスの探検家・カーターによって発 ぞうげ リカに移ってウインザーチェアとして広く流行術に重点を置いた椅子がつくられ、従来のイメ よぶ力強い形の椅子がつくられたが、しだいに 掘された。全面に金を張り、銀、宝石、象牙な ージを変えるうえで大きな役割を果たした。さ どの装飾を施した豪華なもので、エジプトの最貴族向けの豪華なものになった。フランスはイ 高権威者ファラオの玉座の典型的なものとしてタリアに倣ったが、過剰な装飾を排し、挽物を〔ネオクラシック、一八世紀後半〕イタリアのらにイタリアはデザインの自由さと創造性の豊 かさで独特の地位を築いてきている。 よく知られている。なお貴族が使用した椅子は使った軽快な椅子がつくられた。またスペインポンペイの発掘や古代ローマの遺跡の発掘など 〔日本の椅子〕日本では昔から平座式生活であ 装飾がそれより簡単で、階級によって意匠が違ではイスラム教徒の伝統的な手法を加味したエが契機になって新古典様式が生まれた。フラン スではルイ一六世時代 ( 一七七四 ~ 九一 D に椅子の脚った。その理由は気候、風土にあると考えられ っていた 芸的で簡素な椅子が使われた。イギリスはその ギリシア時代は市民社会が成立する紀元前五ころまでは家具の水準が低く、挽物を使った素は先細りの直線形になり、背もたれは丸形になるが、温暖多湿にあう開放的な住まいづくりが った。イギリスでは建築家アダム Robert Ad- 大きく影響したことは否定できない。椅子はす エリザベス時代になる 朴なものが多かったが、 世紀ごろから、権威の象徴としての椅子のほか am ( 一七天 ー九 (l) によってネオクラシズムの椅でに奈良時代に中国から輸入されて、朝廷およ と実用性を重視した椅子がつくられるようにな に実用的なものもっくられた。これらの椅子は った。なお北欧はヨーロッパの中央とは違った子がつくられ、また家具師ヘップルホワイトとび一部の公的な場所で使われていた。倚子、 装飾が減り、簡素な形状になっている。クリス しょ・つじ きよくろく シェラトンらによって、庶民のための美しくか床子および曲彖がそれである。現存するもの モス klismos とよばれる女性用の椅子はその独自の様式の椅子をつくっていた。 あかうるしつきのこしよう っ機能的な椅子がつくられ広く普及した。 でもっとも古いものは正倉院の赤漆槻胡床で 代表的なもので、形は軽快で座りやすく、貴族〔・ハロック〕カトリック教会の勢力の回復とと ししんでんみちょうだい の家庭用として愛用された。男子は背もたれのもに、各国に絶対王権制度の確立した時代であ〔アンピール、一九世紀〕フランス革命に続くある。京都御所紫宸殿御帳台の御倚子も同じ ふた てんがい
ったチューダー朝に絶対主義の時代を迎える。以上の中世史 イギリス史 / 略年表 すイキリス史 から近代への移行期に位置づけられるのが、エリザベス一世 前七世紀 ) 窄ケルト人、渡来開始 の治世とスチュアート朝である。 〔イギリス史の特色と時代区分〕 発・カエサルのプリタニア遠征 後四三 ローマのプロウインキアとなる 一七世紀に戦われた二つの革命、すなわちピューリタン革 〔先史時代とケルト・ローマ時代〕先史時代 / ケルト・ 五ー六世紀アングロ・サクソン人の侵入 命と名誉革命とを転機として、イギリスと大陸諸国との関係 ローマ時代のプリタニア 五世紀初め ローマ軍撤退 〔アングロ・サクソン時代〕アングロ・サクソン人の移は逆転する。植民地帝国の形成、産業革命の遂行、議会政治 四四九ヘンギスト、ホルサ、サネフト島上陸 ト王、アウグステイヌスのキ 五九七ケントのエセルバ 住 / へプターキーとイングランド統一 / デーン朝との確立など、イギリスはそれまでの大陸諸国に「学ぶ」立場 へんばう リスト教布教を許可 から、「学ばれる」模範としての存在へと変貌を遂げた。「世 ノルマン・コンクエスド おうか 六六三ウィットビー宗教会議 〔中世盛期のイングランド〕ノルマン朝 / アンジュー帝界の工場」としての繁栄を謳歌した一九世紀のビクトリア時 七九三デーン人、リンディスファーン修道院を襲う 八二五ウェセックスのエグバ ト王、マーシアをエラン 国、プランタジネット朝と「マグナ・カルタ」 / 百年代が、イギリスの歴史の絶頂であったといえよう。しかし、 ダンで破る 戦争の開始と農民一揆 / 封建社会の展開 / 百年戦争二〇世紀に入って、二つの世界大戦を経験したイギリスに 王、ノーサンプリアをドーアで破る 八二九エグバート 〈今井宏〉 は、もはや昔日のおもかげはな、 の終結とばら戦争 八八六 アルフレッド王とデーン王グスルムとの協定 ノルウェー王オーラフ一世、エセックスのモール 〔絶対王政と市民革命〕チューダー朝の成立 / スチュア 先史時代とケルト・ローマ時代 ドンに来襲、デーンゲルドの徴収始まる ート朝とビューリタン革命 / 王政復古 / 名誉革命 一〇一六クヌード大王の即位 ( デーン朝 ) 〔議会政治の形成と産業革命〕ハノーバー朝と議院内閣〔先史時代〕旧石器時代のイギリスは、ヨーロッパ大陸と陸 ヘースティングズの戦い ( ノルマン・コンクエス 一〇六六 ト ) 、ウィリアム一世の即位 ( ノルマン朝 ) 続きであり、南方の温暖な地方からきた旧石器時代人が、打 制 / 産業革命と自由主義 一〇八六 『ドウームズデー・ブック』編纂 〔大植民地帝国から連邦へ〕帝国主義と第一次世界大製石器を使い、狩猟、漁労を行っていた。その後、北海の地 一一〇六タンシプレーの戦い、ヘンリ ー一世、ノルマンデ 盤が沈下してイギリス海峡が陥没し、イギリスは島となった 戦 / 第一一次世界大戦と戦後の諸問題 ィー公領を併合 一一三九マチルダのイギリス上陸、スティープン王と対決 が、紀元前三〇〇〇年ごろ大陸から農耕文化をもった新石器 〔イギリス史の研究史〕 して内乱 時代人が渡来して、水はけのよい白亜層丘陵に定住し、その 一一五四ヘンリ ー二世の即位 ( フランタジネット朝 ) イギリス史の特色と時代区分 丘陵が集合するソールズベリー平野を中心に集落生活を営 一一七〇カンタベリー大司教トマス・べケット殺害される リチャード 一世、ドイツ皇帝により逮捕される 世界史のうえでイギリスは、経済、政治を中心に近代化のみ、農業、牧畜を行った。なかでもイベリア半島から南西イ 一二〇四ガイヤール城陥落、ジョン王の大陸領喪失 先頭を切って歩んだ最先進国というイメージでとらえられてギリスに渡来した人々が、前二〇〇〇年ごろまでに、高度な 一二一五ジョン王、マグナ・カルタに署名 きた。しかしこの把握が妥当するのは、一七世紀末以降一一〇社会組織と独特な宗教生活をうかがわせる巨石文化を伝えた シモン・ド・モンフォールらオックスフォード条 項で改革要求 ことが注目される。その後、前一八〇〇年ごろビーカー形の 世紀初頭までのきわめて限られた時期のことにすぎない。 一二六四ルーイスの戦い の時期以前のイギリスは、ユーラシア大陸の辺境に位置した陶器を用いたいわゆるビーカー人が大陸から渡来して、青銅 一二六五ィープシャムの戦い 器文明を持ち込み、ソールズベリー平野で先住民族の巨石文 後進的な存在にすぎなかった。地中海周辺でギリシア、ロー 一二六七マールバラ法の発布 一二八四ウェールズ法の制定 マの古代文明が華を咲かせていた時代のイギリスには、末開化と融合した。この地の有名なストーンヘンジ ( 環状列石の 一一一九五模範議会招集 のケルト系諸部族連合があったにすぎず、やがて紀元後一世一種 ) はその遺跡である。 一三二七エドワード二世の廃位 〔ケルト・ローマ時代のプリタニア〕前一〇〇〇年ごろから 紀にはローマ帝国に属州として組み入れられた。ここまでが 一三三七フランス王フィリ ップ六世、イギリスのガスコー ニュ領没収宣言 大陸ではケルト人が鉄器文明を生み出したが、前六〇〇年ご 古代史である。 クレシーの戦い しかし、ローマ化は社会の深部には達せず、四世紀末の民ろと前四〇〇年ごろにケルト人がイギリスにも渡来して、優 一三四八黒死病の流行 ( ー四九 ) 族移動の開始とともに、アングロ・サクソン諸部族国家の併秀な陶器や青銅器、鉄器を伝えた。彼らは森林の開墾や農耕 一三五六ボアチェの戦い ワット・タイラーの農民一揆 立から統一への動きとなり、さらに一一世紀のノルマン・コ技術を発展させ、そのため人口も増加したが、また丘陵上に じようさい 一三九九ランカスター公ヘンリーの挙兵、リチャード二世 城塞を築き、鉄製の武器を用いた。ケルト人渡来の最後の ンクエストによって本格的な封建制社会が成立する。イギリ を廃位、ヘンリー四世となる ( ランカスター朝 ) ス中世史は、アングロ・サクソン人と征服者との融合の過程波は前七五年ごろのベルガ工人で、彼らはすでにローマ文明 一四一五アサンクールの戦い 一四二九ジャンヌ・ダルクの出現 と接触しており、南イギリスにベルガ工人の国家を建設して であるとともに、この島国が大陸と一体となった時代であっ 一四五〇ジャック・ケードの反乱 カリア遠征中のローマの将軍カエサル た。ことに一二世紀のプランタジネット朝の成立によってイ貨幣を使い始めた。。 一四五一一一イギリス軍、ポルドーより引き揚げる ( 百年戦争 が、前五五年、前五四年の二回にわたりイギリスのベルガ工 ギリスは、フランスに展開した「アンジュー帝国」の属領た 終わる ) 一四五五ばら戦争始まる る観を呈した。フランスからの解放の動きが百年戦争であ人討伐を企てたが、所期の目的を果たさなかった。このころ ヨーク公エドワード、 り、並行して国民国家の形成が進み、閉鎖的な島国にとどまベルガ工人は、ローマ人によりプリタニ人 Britanni ( 英語 し 四世として即位 ( ヨーク朝 ) 1 12
いわて 地球観測衛星ランドサット撮影の画像 ( 高度 約 91 5 km ) 。県最高峰の岩手山はコニーデ式 複合火山。高山植物で有名な北上高地の早池 峰山は , 岩体が残丘となったものである。北 上高地の黄色がかった地域は , 広葉樹の紅葉 を示している。三陸海涬は宮古を境に地形 , 景観が異なり , 北は隆起海涬 , 南はリアス式 海岸である き一い力し が多く、冷霧を伴う冷たい風とよばれ塞外とされた。岩手県が日本全体の歴史に登場する七年 ( 永保三 ~ 寛治一 ) に、前九年の役の戦功によって陸奥 とおだ いえひらたけひら ( やませ ) が内陸部にまで吹のは、七四九年 ( 天平勝宝一 ) 遠田郡で砂金が採取され、国の大族となった清原氏の一族家衡、武衡らの内紛を、陸奥守 き込み、冷害の原因となるこ司によって中央に献納されたことによる。これを契機に中央源義家が平定したものである。しかし朝廷は後三年の戦いを とがある。 による奥州開発が始まったが、蝦夷の抵抗は大きかった。八 義家の私戦とみなし、彼を解任し、戦いの途中で義家にくみ わが さかのうえのたむらまろ ぎよひら 〔歴史〕〔先始・古代〕和賀〇〇年 ( 延暦一九 ) ごろ、征夷大将軍坂上田村麻呂は蝦夷した家衡の兄藤原清衡が奥羽の実権を握ることになった。 郡湯田町から発掘された大台攻略のため北上川をさかのばり、胆沢城、志波城の造営に成〔中世〕藤原氏は砂金、馬、漆などの豊かな経済力をバック ・カしこ。 野遺跡は後期旧石器時代から に、いわゆる藤原三代、平泉文化をつくりあげた。初代清衡 やよい もとひらもうつ 弥生時代にかけての遺跡であ 平安時代中期の前九年の役は、一〇五一 ~ 六二年 ( 永承六 は中尊寺を、一一代基衡は毛越寺を、三代秀衡は無量光院を建 ふしゅ ) っ あべのより り、また縄文遺跡は県内各地 ~ 康平五 ) に奥六郡の司、俘囚長 ( 現地出身の郡司 ) 安倍頼立、仏教文化の移入に努めた。しかし一一八九年 ( 文治五 ) むつのかみよりよし きょはらの やすひら に出土している。 時・貞任らの反乱を陸奥守源頼義と出羽仙北の俘囚長清原四代泰衡のとき、鎌倉幕府を開いた源頼朝の奥州征伐によっ たけのり 古代には、岩手県は蝦夷地武則が平定したものである。また後三年の役は一〇八三 ~ て、藤原氏一〇〇年の歴史は終わった。 一三三三年 ( 元弘三・正 けんむ 慶二 ) 建武新政の際、後醍 醐天皇は奥羽地方を親王任 きたばたけちかふさ 国にするため、北畠親房 あきいえ の子顕家を陸奥守に任じ、 義良親王とともに奥羽へ赴 かせた。顕家は多賀 ( 宮城 県 ) に国府を置き、奥羽両 国を平定した。一三三五年 あしかがたか・つじ ( 建武一 l) 足利尊氏の反乱 にったくすのき には、顕家は新田、楠木氏 らと、尊氏を九州へ敗走さ せた。しかしその後勢いを 盛り返した尊氏により、顕 いずみ 家は和泉 ( 大阪府 ) で敗死 このころ、県南部の胆 一えさし けせん 沢、江刺、磐井、気仙の四 郡に葛西氏、中西部の和賀 ひえめき ~ 郡に和賀氏、稗貫郡に稗貫 氏、岩手郡に工藤氏、中東 部の閉伊郡に閉伊氏、北部 の九戸郡に二階堂氏らが割 拠していたが、顕家の死後 は南朝、北朝に分かれて抗 ぬかのぶ 争が続いた。糠部 ( 九戸周 辺 ) から津軽 ( 青森県 ) ま でを勢力圏としていた南部 氏は、配下の大浦氏 ( のち 珒軽氏 ) に津軽を奪われた とき さだと・つ のりなが よりとも ひでひら
きと、つ け入れ、総合的なイスラム文化がまず発達し始 ヨーロツ。ハよりもはるかに大きい。そのなかで獣文、聖樹文、アーチ ( 祈疇用 ) などのタイプが主となり、装飾技法もすこぶる複雑である。 ース朝時代 ( 七五 0 ~ 一一一五 0 となっ も金属工芸は、陶芸、染織とともにもっとも重に分類することができる。 トルコ・。フルーの青釉はその典型で、呈色剤にめた。アッパ 要な位置を占める。工芸諸分野における共通し 〔ガラス〕古代ローマとササン朝ベルシアのガは炭酸銅が用いられた。前代からの染付やラスて、政治の中心がイラクに移ると、長年その地 た特質の一つは、建築装飾と同様、過剰な装飾ラスの伝統を継承している。 一一世紀に ター彩、掻き落し文様のガ、、フリ手、色彩で文様方を支配してきたベルシア系の制度、文化が盛 を施すことにより、器物本来の機能性や質感な は、おもにベルシアやメソボタミアで、浮彫を現したラカビ手、白釉面に絵付したミナイんに取り入れられた。またアラビア語を学んで せいらん どが著しく損なわれていることである。 り、線彫りやカット技法が盛行し、一方、一二手、青藍釉地に上絵付したラジュ・ヘルディナ多分にアラブ化した。ヘルシア人のなかから各方 しんちゅう 〔金属工芸〕青銅、真鍮のほか、金、銀、銅、 一四世紀には、地中海沿岸地方、とくにシリ 手、白釉面に上絵付して再度透明釉をかけた白面で頭角を現す者が輩出し、イスラム文化の発 鉄を素材とし、鋳造、打ち出し、彫金、象眼、 ア、エジプトで多彩なエナメル彩画の技法が新釉藍黒彩陶など加飾法はきわめて多彩で、百花展に寄与するところが大きかった。 きんばくすかし りようらん めつき、金箔、透彫りなどの技法によって、 一方、ギリシアの古典類の研究や、その翻訳 たに流行した。イスラム・ガラス独特の形式と繚乱の感がある。一四世紀の終わりにイル・ しよくだい 燭台、香炉、水差し、。ヘンケースなど多様な しては、モスク・ランプ、各種のバラ水瓶、扁 ハン国が倒れたのち、一時期、作陶は総体に低事業もますます盛んとなり、九世紀はその最高 イ品がつくられた。象眼には、金、銀、銅が使壺形巡礼瓶などがある。 調であったが、一六世紀のイランにサフアビー 潮の時代であった。とくに第七代カリフのマー ぞうげ われ、とくに鉄、鋼鉄製の武器・武具に金線や 〔象牙細工〕古代から長い伝統が踏襲されてき朝が興り、ベルシア人による帝国が興ると、製ムーン ( 在位ハ一三 ~ ハ三三 ) の時代は、都バグダー ドに建てられた「知恵の家」 ( バイト・アル・ 銀線で象眼を施したタイプは、ダマスコ細工たが、イスラム時代には地中海沿岸のシリア、 陶も復活して旧来の伝統がよみがえった。しか みん ( ダマスキーン ) として知られている。イスラ ヒクマ ) を中心にギリシア語古典の翻訳が盛ん エジプト、スペイン、南イタリアがおもな製作 し新味はやはり明代中国製の染付磁器の模倣に えんげん ム金工の淵源はササン朝ベルシアとビザンティ 地となった。小箱、角笛、チェスなどのゲームあった。イランのメシッドやトルコのイズニー であったが、それらは、哲学、天文学、数学、 ンにある。東方イスラム世界 ( イランのタバリ ク窯が名高いが、いずれも磁器ではなく、陶胎医学、地理学などをおもな分野とし、文学作品 の駒、櫛のほか装身具類がつくられ、これに浮 , 4 ・つい・れ スターン、ホラサーン ) には、いわゆる「ポス彫りでアラベスク、鳥獣図、狩猟図などが表現か半磁胎で柔らかく、独特の風韻がある。なかの翻訳はほとんど行われなかった。この事業に はシリア人、ことにネストリウス派のキリスト ト・ササン」の作品が数多く残存しているのに された。現存する遺品は、大半が一一世紀からでも各種の色絵の具を使って文様を透明釉下に 対し、西方イスラム世界の初期の作品は少な 一三世紀の間にもつばら西方イスラム世界で製描いた明るく温雅な色絵陶器は、俗にクバチと教徒の貢献が著しく、一度シリア語に訳された 、。最盛期のセルジューク朝からモンゴル時代作されたものである。 〈杉村棟〉よばれて珍重されている。これはイラン西部のものから、アラビア語に訳されることが多かっ た。文学関係では、ササン朝時代の中世ベルシ にかけて銀象眼の技法が流行し、一六、一七世〔陶器〕西アジアは中国と並ぶ二大製陶地であアゼルバイジャン方面で焼造されたものと推測 せゅうとう 〈矢部良明〉 ア語からの翻訳にもっともみるべきものが多 紀まで続いた。その中心はしだいに西漸し、イ り、施釉陶の技術を世界に先駆けて開発くふう されている。第丁 アラビア語散文の発展に功績の著しかった ラクのモスル、続い てダマスカスとカイロが有した実績がある。古代文明の発祥の地であるこ回岩村忍編『グランド世界美術 8 イスラムの ( 七五六没 ) の『カリー 美術』 ( 一九七六・講談社 ) ▽深井晋司編『大系イ・フヌル・ムカッファー 力な製作地となった。ベルシアでは具象的な狩の地方は施釉陶器の面でも画期的な発明を行っ ラとデイムナ』 ( 寓話集 ) その他が代表的なも 世界の美術 8 イスラーム美術』 ( 一九七六・学 猟図、鳥獣図などが、またシリア、エジプトでており、アケメネス朝。ヘルシアの多彩釉陶はこ はアラベスク、銘文など抽象的なデザインが盛とに名高い。その後も施釉陶の伝統は続いた 習研究社 ) ▽・・グルー・ヘ解説、杉村のであり、『アラビアン・ナイト』の母体であ まっこう 棟訳『イスラムの絵画ーー・・トプカプ・サラる『千物語』 ( ハザール・アフサーナ ) なども 行した。 が、イスラム教が勃興して清新な文化が生み出 中世ベルシア語から、九世紀中にアラビア語に イ・コレクション』 ( 一九大・平凡社 ) ▽・ 〔染織〕技法、デザインともにササン朝ベルシ されたのち、九世紀ごろから西アジア ~ エジプ ト各地に新窯の胎動が始まった。この時期がイ ・チャールストン著、杉村棟訳『西洋陶磁訳されていた。また、サンスクリット語による アとビザンティンの伝統を引き継いだ。紋織、 れいめい つづれ インドの天文学、医学その他の文献も早く八世 大観 4 イスラム陶器』 ( 一九七九・講談社 ) 綴織、錦、ビロードなどのほか、刺しゅうもスラム陶器の黎明期である。この新しい焼物作 ぶんかイスラム文化は 紀後半からアラビア語に訳され始めた。アッ 盛んに行われた。装飾としては、アラベスク、 りにはササン朝。ヘルシアやビザンティンの製陶イスラム文化 ース朝の初めから第五代のハールーン・アッラ 幾何文、鳥獣文が好まれ、アラビア語の銘文も活動を基礎にして、多量に輸入され始めた中国七世紀にアラビアで発展の緒につき、アラブの シードの時代にかけて、歴代のワジール ( 宰 欠かせない装飾要素であった。八世紀にさかの陶磁の影響が色濃く反映しており、大きな刺激大征服によって他地域の文化に接触すると、そ 相 ) を出していた中央アジア出身のバルマク家 ばる王室直属の織物工房テイラーズは、エジプとなったことは疑いない。鉛釉を使った各種のれらを取り入れてしだいに変化し、発展してき た。しかし、どこまでも、イスラム教の精神は、インド医学やイラン文化を取り入れること トのみならず、のちに各地に設置された。ここ色釉をかけあわせた三彩、錫を溶媒剤に使った に中、いとなって活動した。また、アッパース朝 ではリンネル類がつくられたが、とくに論功行失透性の白釉では、その形や文様は明らかに九と、聖典コーランの用語であるアラビア語とが の初期から、中国の製紙の技術が中央アジアを 賞としてカリフから臣下に下賜された上衣 ( ヒ ~ 一〇世紀の中国陶磁を手本としたものが圧倒二つの根本的要素であることは変わらなかっ た。発展を遂げたイスラム文化には統一性と多経てイスラム世界に広まったが、絵画や織物な ラート ) が織られている。イスラムの染織のな的に多い。ただ、黄褐色の素地に白化粧して自 かったっ どの面でも、中国から若干の影響があった形跡 かでもっとも重要な位置を占めるのは、じゅう由闊達な線描の文様を加えたり、銅によるラス様性との二性格が目につくというのも、このよ がある。中央アジアを経て仏教思想もイスラム うな発展過程をたどってきたためであろう。 たんである。各種の。ハイル織じゅうたんのなか ター彩、コバルト顔料で下絵付して後の染付の で、ベルシアじゅうたんが質量ともに群を抜始原をなすなど、すでにこの段階でイスラム陶〔諸文化の摂取時代〕古いアラビアの伝統文化世界にある程度まで伝わったことが認められて ぎんしん をもって半島から進出し、シリアやエジプトを き、トルコと中央アジア諸地域のものがこれに らしい斬新な創意が示されている。 このように外来文化の摂取が流行した時代 一一世紀から一五世紀にかけてイスラム陶器征服したムスリム・アラ・フの人々は、古くから 続く。バイル織じゅうたんには、竪機か水平機 はもっとも発達し、豊富な実りがもたらされそれらの地域を支配していたビザンティン帝国は、ムウタジラ派という合理主義を重んするイ むが使われ、経糸に文様となる色糸を結ぶのを特 スラム神学の一派が勢力を張った時代とほば一 、ら色とする。結び方にはベルシア結びとトルコ結 た。やはり中国陶磁が重要な祖型となっているの文化と接触した。ウマイヤ朝時代 ( 六六一 ~ す・びがある。装飾によって、メダイオン、幾何が、作風は多様な展開を示している。色彩豊か 0 ) はシリアが政治の中心とな 0 たから、こ致し、カリフのマームーンはその学派の保護者 めいせき 文、アラベスク、花瓶文、庭園文、狩猟文、鳥 な三彩が消え、青、藍、白などの明晰な単色釉の時代に早くもギリシア系統の学問や工芸を受として有名であった。 ぞうがん 3 ( ) 7
仕方がヨーロッパの歴史発展のあり方とは非常に様相を異に しインド史 するものであったことなどによるものと考えられる。たとえ 〔インドの範囲とインド史の特徴〕 ば、前近代のヨーロッパ社会は、土地所有関係を基軸として ん 「考古時代〕 理解することができるが、インド社会の発展は土地所有関係 の変化イコール発展として理解することは困難である。この 〔古代〕部族国家の誕生から統一国家へ / マウリヤ朝 カースト制 ような西欧社会とインド社会との質的相違が、いままでイン 〔中世〕ヒンドウー時代 / ムスリム時代 / ムガル帝国 ド社会 ( インド史 ) の内在的理解を困難にしてきた原因であ ると考えられる。 在地領主層の成長 / ムガル ~ マラータ時代の社会 インド独立後、とくに一九六〇年代に入ると、インド人に 「イギリスの植民地支配」インド社会の変質 よるインド史研究が多数の優れた業績を生み出し始めた。こ 〔帝国主義時代〕 れらによってインド史発展の特徴、インド社会の固有のあり 「両大戦間期〕 方といったことが今後ますます明らかになると期待される。 「独立後の国家建設」 語 ム 考古時代 インドの範囲とインド史の特徴 珸語 諸諸ラ インド史においてもっとも古い文化は、インダス文明とよ インドとい , っことばは、ヒンドウーと同じ源から出てき 系系マ アダ たことばで、西方の人々、とくにアレクサンドロス大王の軍ばれているものである。インダス文明は、インダス川の流域 リヒ 勢がインダス川岸に到達したとき、そこに住んでいた人々をから東はデリーのすぐ西まで、南はグジャラート州のナルマ アド ヒ ( シ ) ンドウー、その土地をヒンド ( インド ) とよんだこ ダ川の河口周辺まで、東西約一六〇〇キ。、南北約一四〇〇キ。 とに始まるとされている。したがって、インドというよび方という広大な範囲に広がるもので、地域によっていくらか差 は外国人によるものであり、当時のインド人自身は、自分のがあるが、だいたい紀元前二五〇〇年ごろから前一七〇〇年 ー一フトとは『マハ、ー ごろまで栄えた。インダス文明の特徴は都市遺跡で、整然とプを通り、ヒマラヤ南麓に沿って東に進み、ガンジス川上流 住んでいる土地をバーラトと称した。バ 計画された都市の内部には穀物倉庫、浴場などの公共施設が域に定着したことに始まる。彼らはガンジス川の河谷の湿潤 ーラタ』とい , つ物衄々にも残っているよ、つに、もともとは かんばく あった。しかし、神殿や王宮の跡は発見されておらす、インな灌木地帯を切り開きながら農耕村落を形成していった。そ 北インド、とくにガンジス川中流域をさすことばであった。 このように、インドにしろバーラトにしろ、もともとは狭ダス文明が同時期のメソボタミアなどの文明とは異質な要素れには鉄器が大きな力となったと考えられ、また、この地域 い範囲の土地をさしていたが、一九 ~ 二〇世紀になると、とをもっていたことを示している。インダス文明の文字 ( インで発見される灰色彩文土器も彼らがつくったものとされてい ハングラデシュ三国を含ダス文字 ) はまだ解読されていないが、遠距離交易に用いたる。こうして、ガンジス上流域からさらに中流域 ( 現在のビ もに現在のインド、パキスタン、 ふうでい ハール州 ) へと農耕が拡大していくなかで、インド史上最初 と考えられる封泥が多く発見されている。インダス文明の中 む、インド亜大陸全域をさすことばとして使われるようにな カリバンガの国家が形成されていった。 った。それはイギリス植民地支配下に、インド亜大陸全体を心的な遺跡はモヘンジョ・ダーロ イギリス人がインドとよぶようになり、同時に、イギリス支ン、ロータルなどである。インダス文明は前一七〇〇年ごろ〔部族国家の誕生から統一国家へ〕前六世紀ごろ、この地域 には多数 ( 仏典によれば一六国 ) の国々が存在したが、その 急速に衰えるが、その原因としては、アーリア人などの外来 配に抵抗するインド人の民族運動の側からも、自らの国をバ ーラトと称するようになったからである。現在のインド国内民族による破壊を重視する見解や、気候条件、地形的条件の多くは基本的には、部族国家あるいは氏族国家の段階にあっ 変化を重視する見解などがあって、結論が出ていない。最たと考えられる。しかし、これらの国々のうちでも、とくに ではバ ーラトという国名を用いている。 インドは、エジプト、メソボタミア、中国と並んで最古の近、インダス文明を担った人々は、現在南インドに居住して農耕が発達し、村落形態での定住が安定的に行われるように いるドラビダ諸族と同一系統の人々であったという見解が有なった経済的先進地帯の国は、部族的あるいは氏族的国家の 文明発生地とされている。したがって、インドの歴史は長 段階を抜け出し、専制的古代国家の形成へと進んでいた。そ く、その文化は独自の展開を示している。しかし、一九世紀力になってきている。ただ、インダス文明がその後のインド 以来、ヨーロッパの社会科学、人文科学においては、インド史の発展とどうつながるのかという点については、よくわかのなかでも強大だったのは、現在のウッタル・プラデシュ州 、、、、ール州に位置したマガダ国の両 に位置したコーサラ国ヒノ は「歴史なき」アジア社会の一典型とみなされ、太古以来、っていないのが現状である。 国であった。これらの諸国による対立、抗争が繰り返され、 凝固したように発展しない社会であると考えられてきた。こ 古代 数多くの国々が滅ばされていったが、最後にマガダ国がコー のようなインドのイメージは、一九世紀、歴史の激動のなか インドにおける歴史時代の始まりは、前一〇〇〇年ごろ、サラ国を破って、ガンジス流域を統一した。このマガダ国の にあったヨーロッパ人の目には、インドが相対的に変化が緩 後を継いだナンダ朝を滅ばして、インド全域に及ぶ最初の古 アーリア人と称される人々が、インド北西部からパンジャー 慢なようにみえたこと、さらに、インド社会の変化、発展の し , ラフンダ語广シ . ノ インド諸言語 アッサム語 ピハール語 / 、べンカ ) ジ語「ノ カルカッタ、 オーリャー バンジャープ語 ・デリー、 ン - バシュト語 、ル ) チン / なんろく 7 グジャラート語 ゴンデイ語 ノイ ポンべイ々つ カンナダ語 マドラス タミル語 500km 8 1 ( )
え やまと かるのいちかわち は大和 ( 奈良県 ) に軽市、河内 ( 大阪府 ) に餌も増えると、国司、荘園領主、地頭らは代官、 ぶギ一よう つばき あとのくわ ち一〔スペインの異端審問〕異端審問の制度は、まる。こうした「周縁性」は、市という表現がよ り正確に当てはまるいわゆる「定期市」のよ , っ香市、六世紀に入って大和に海石榴市、阿斗桑目代、奉行を置いて、その管理や市場税の徴収 4 、すフランス、ついでイタリア、ドイツに展開し にあたらせ、市を自己の新しい財源とみなして たが、イギリスや北ヨーロッパ諸国には受け入な制度にも、市のもっ空間的・時間的非日常性市などが開かれていたことが判明する。これら の市はおもに各地方の氏族共同体、あるいはそ支配を強化する者も現れた。この時代の定期市 として形をとどめている。ナイジェリアのティ れられなかった。遅れて導入されながら、もっ プ族の間にみられる五日ごとの市は、市の所有の首長たちの間の物々交換のため開かれたものでの交換は、荘園領主などへの貢納物の調達、 ともよく定着して猛威を振るったのはスペイン だいせんのう りつりよう である。設立は一四七八年、スペイン王国の成者たちが管理する強力な魔術によってその平和であろう。大化改新後、律令制時代に入ると、代銭納のための現物年貢 ( 米や絹布など ) の販 かんしりよう 立 ( 一四七九 ) とほば同時期である。審問官任命権が維持される一種の聖域であり、紛争中の集団市は唐の制度に倣って関市令に基づいて平城売換貨、地方社寺、在地領主らの需給のための みようしゆさくにん にとっての中立の交渉場ともなっている。西ア京、平安京内にそれそれ官営の東西市が設けら交換、さらには名主・作人や手工業者など非 は国王が握り、完全に王国統治機構の一環に組 れるようになったが、藤原京にも設けられたこ農業民の広範な参加が大きな特徴をなしてい フリカはこうした市の制度をよく発達させてい み込まれて、教皇の統制から逸脱し、一人で一 かんが 〇万件を審理して火刑台の煙を絶えさせなかることで知られている。たとえば、ヨルバ族のとが伝えられている。これらはおもに官衙、貴た。また、市が荘園村落や在地領主の領域を中 心とした地域経済にとって不可欠の役割を果た 間では、輪環制という市の制度があり、約一〇族、社寺など支配階級の余剰物資の放出、必要 ったという審問官総長トルケマダ Tomås de キ。メートル間隔でほば環状に配置された七つの物資の調達などの目的で開かれたが、東西のすようになることも、この時代の市の新しい歴 Torquemada ( 一四一一 0 ー九 0 のごとき、なかば伝 せきちょう いちのつかさ 説的な人物すら出現した。初め主たる犠牲者は地点で市が順繰りに開かれてゆく。七日で一巡市司の管理下に置かれ、籍帳に登録された市史的な機能といえよう。 いちくら 南北朝から室町時代には、国内における分業 し一日の市なし日が入るので、各地点では八日人が肆で、指定された物資の販売に従事して ユダヤ教徒、厳密には偽装改宗ユダヤ人であっ にちみんにつちょう いた。市は正午に開かれ、日没に太鼓を三度鳴のいっそうの発展、日明・日朝貿易の展開な に一回すっ市が立っことになる。こうした市の たが、のちには風紀事犯一般に対象が拡大され どを背景にして、市はいよいよ普及し、月六度 らして閉じる習わしであった。これら東西市に た。犠牲者総数は知る由もないが、全一四地区周期は、人々にとって一種のカレンダーの役割 あき めたのしよう は人々が群集したので、見せしめに盗犯などのも開かれる六斎市さえ登場し、安芸国沼田莊 もしている。 法廷のうちトレド地区だけをみても、第一ビー きんぜい くうやしよう いちひじり こばやかわ 市が経済制度であることは指摘するまでもな処刑が行われたり、市の聖とよばれた空也上地頭小早川氏のように、領内市に禁制を発布し クたる一四八五年に処罰者約七五〇人、第二ビ そうりよ て市場の支配権の確保、市場商人と武士との分 いが、そこに同時にみられる社会的、政治的、など僧侶たちの説教の場でもあった。 ーク一六五〇年に約二五〇人、一八世紀以降は らん 平安時代には地方にも多くの市が開かれるよ離を試みる事例も現れた。そして市場内での乱 しし。し力ない情 毎年平均五〇人程度であった。ナポレオン支配宗教的な側面も軽視するわナこよ、、 ぼうろうぜきけんかこうろん 期における中断を別にすれば、正式に廃止され報交換の場、娯楽を伴う祭礼的な機会を提供うになったが、そこでは中央官衙に貢納するた暴狼藉、喧嘩口論を禁止し、また市日に集まっ ちょうよう こうえきぞうもっ しようえん た商人からの債務取り立てを禁止することを内 し、しばしば紛争解決といった司法的活動や宗めの調庸物、交易雑物、あるいは荘園領主に たのは一八三四年のことであった。 ^ 渡邊昌美〉 容とした市場法が各地の領主によって発布され 回ギー・テスタス、ジャン・テスタス著、安斎教行事とも結び付く、といったぐあいに、市は納める年貢、公事物の交易、調達が行われてい た。一方、この時代には鋳物師、細工人ら各種るようになった。 和雄訳『異端審問』 ( 白水社・文庫クセジュ ) 多数の人々の集結が必要とされるほとんどあら 室町から戦国時代には、各種の市が全国的に の手工業者たちが自己の製品・米・衣料など日 ゆる目的と結び付いた多機能的制度である。さ ほんじよ 市 普及する一方、公家、大社寺などを本所にいた 常消費物資を担ぎ、販売のため廻国するように らに、市の制度がみられる多くの社会におい だく座商人が、市の一定の販売座席を占め、特 て、市で取引される物資がかならすしも生活必なるが、地方港津などに開かれた市は彼らのか 〔日本〕 〔ヨーロツ。、 ノ〕古典古代の市 / 内陸文化時需品目ではない、市での価格が人々の生産活動っこうの取引の場であった。このように交換が定商品の独占的な取引を行う、いわゆる特権的 えと な市座商人が現れたが、戦国大名は城下町の建 の指針とはなっていない、売り手も買い手も市発達してくると、地方の市は干支にちなんだ特 代の市 / 新しい市場関係へ 設、領国内市場振興のため多くの商人を集める 〔中国〕独自の発展を遂げた中国の市場網での活動に生活の大部分を頼っているわけでは定の日に開かれる定期市の性格を帯びるように たっ わのいちうま 必要に迫られると、城下町や六斎市などにおけ なり、それらは子市、午市、辰市、酉市などと ない、といった一連の事実が指摘されている。 「市の民俗〕 よばれ、地名として今日まで残るものも現れる座特権を否定し、自由営業を保証する、いわ 経済的な面では、市はむしろ周辺的な役割しか らくいちらくざ ゆる楽市楽座令を発布したため、市における座 決まった期日に、特定の場所で、売り手・買演じていないともいえるのである。もちろん、 平安末期から鎌倉時代にかけて、稲作を中心商人の特権はしだいに後退していった。 い手がお互いに出向いて物資の交換を行う交易市が演じている役割は、個々の具体的な事例に 中世では時代とともに都市の成立、発展が進 とした農業生産力の向上、手工業の発達などに 即して検討されねばならぬことはいうまでもな の場。 につそう 。わが国の市についても、中世以降、経済的象徴される社会的分業の進展、日宋貿易による行したが、鎌倉・室町時代の鎌倉や奈良、戦国 交易は、本来、共同体内部に根ざした活動と からものとうせん 時代の山口のように、店舗商業発展のかたわら 唐物・唐銭・宋銭などの大量の輸入に基づい な役割が顕著であるとはいえ、古代の市につい いうよりは、共同体間の、それもしばしば文化 的同質性すら共有しない共同体間の活動であっては起源の問題とも絡めて祭礼との結び付きがて、商品貨幣経済がいっそう発達すると、市は定期的に開かれる市における取引も並行的に存 た。コンゴ森林のビグミーとサバンナの農耕民論ぜられることが多い。市をマチとよぶ地方は全国の荘園、公領内に成立するようになる。そ続したのであった。また、京都のような大消費 の間でみられるような、生業や文化に違いのあ多いが、マチは語源的には祭礼と同義であるとれらの多くは一定の日に月三度、たとえば一一都市と西国の生産地とを結節する中継港津であ よどのうおいち 一 , れ一い やましろ 日、一二日、一三日に開かれる、いわゆる三斎った山城国 ( 京都府 ) 淀魚市には、すでに鎌 る集団が、無人の中立地帯や互いの共同体の周もいう。近代以降の市の衰退と絡めて、市を、 じとうやかた 縁部で、無言で、あるいは互いに顔をあわせな経済的には市場原理が中心的な役割を占める以市で、地方の国府、社寺門前、地頭館や荘園倉時代から塩などの海産物の卸売市場が、また まんどころ いようにして物資をやりとりするという「沈黙前の経済に特徴的な制度であるということもで政所の周辺、宿駅、港津など交通の要地に開京都では少なくとも室町時代から米穀の卸売を 〈浜本満〉設された。市での交易は当初仮小屋で行われた業とする米市場が成立していた 交易」のような形態に、これははっきり現れてきよう。 」い : つまち きない 江戸時代には、畿内地方ではいわゆる在郷町 が、商人はしだいに市に定住するようになり、 いる。古代国家や西アフリカの伝統的王国にみ いちばぎいけ 日本 取引はいわゆる市場在家で営まれる例が増えての成立、城下町の建設につれて六斎市など定期 られた「交易港」やエンポリウムのような制度 いった。市での交換が繁くなり、市場在家の数市は衰滅の傾向をたどったが、東国など都市の わが国では『日本書紀』によると、五世紀に も、同様な交易の場の「周縁性」の実例であ とり もくだい
ぬ科の動物の骨をみつけた。シリア地方にはシリアオオカミと回、仲間をリードしていた ( 一回は不明 ) 。また、この雄は、古代エジプトの遺跡から出土している。古代メソボタミア、に ジャッカルが生息しているが、出土した骨はいずれの野生種知らない個体のマーキング ( 印づけ ) に対し、回数多く上塗インダス文明時代にもこのタイプのイヌが存在した。各種の ハウンド類がこれに属する。 とも異なり、家畜化されたイヌに近いものであった。この洞りのマーキングを行っている。 〔。フルドッグ型〕 C. ト ~ ・き s 、ミミミ ~ ・チベットあたりが発 〔コミュニケーション〕では、これら仲間の間でのコミュニ 穴には、五万年前から一〇万年前の一時期、石器時代の人々 が住んでいたので、これからみるとイヌの家畜化の歴史はすケーションはどんな方法によるのであろう。イヌたちは音声祥地とみられ、前一〇五〇年、中国の周の時代に皇帝への贈 っと古くなる。 のほかに、耳や尾の動き、体の動きなどを用いて感情を表り物にされている。前九〇〇〇年の中石器時代にデンマーク ア犬型のイヌに北方オオカミの からも発見されている。パリ ヾー引でまよく理解され、大きな ではどのような経過でイヌは人と暮らすようになったのだす。感情の表出は同じメンノ尸。 血を混じたものとみられている。極地犬、ピレニアンマウン ろうか。イヌの祖先たちは、現在の野犬にもみられるよう闘争に至ることは少ない。イヌの行動のうち顕著なものは、 に、人の住居近くに出没し、残り物をあさっていたと考えらあちこちに尿をかけることである。この尿によるマーキングテンドッグ、オフチャルカ、オールドイングリッシュシープ は、雌より雄のはうが多く行う。また、自分の行動圏内にあドッグなどがこれに属する。 れる。彼らは末知のものに対し警戒心が強く、排斥しようと したり、警戒したりしてほえ立て、これが人間にも有利に働る未知のものに対し、何度も繰り返し尿をかけることがあ〔猟犬型〕 C. ト i' ミ、、・ミ斗、 s オーストリアの青銅器時代 いたと思われる。現在でもある地域では、居住地の汚物の処る。変わったにおいのするものに体をこすりつけることもあ層から出土。前二〇〇〇年ごろ。ハリア犬型のものからグレー ハウンド型のものを生じ、さらに猟犬タイプに移行したとみ 理にハゲワシ、ハイエナ、ジャッカルなどのいわゆる掃除屋る。尿によるマーキングは、異性に対してはアビールの役目 ホインター、、、フラッドハウンド、一丁 られる。スパニエル類、。、 が働いて、それなりの評価を受けている。石器時代の人々もを果たし、同生に対してはときに排他的になることもある。 また、かぎなれないにおいに対し、自己のにおいを上塗りすィアハウンド、プラッケなどがある。 また、周りに小動物が徘徊しても、とくに追い払おうとしな リア犬型、 かったと思われる。しだいに取方は接近し、順化されたものることで、それをなじみのあるにおいに変化させる効果もあ〔新大陸のイヌ〕新大陸には人の移住に伴い る。変わったにおいを体につけることも、体臭と混ぜ合わせテリア型のもの、ブルドッグ型のもの、大形のテリア型のも も生じて家犬への道へ進んでいったものであろう。 のなど四つの系統が認められている。 〔生態〕〔イヌの社会〕オオカミの群れの研究については多ていぶかしい感じを和らげようとする行為だとみる学者もい 〔日本犬〕以上七系統のほかに、わが国には日本犬の系統が くの報告がみられる。オオカミ社会はつがいを基盤とする家る。 〔イヌの系統〕現生するイヌは、畜産文化研究家である加茂ある。日本ではイヌの骨は縄文時代の遺跡から出土してい 族群で、普通最強の雄が群れを率いる。イヌの生態について はどうだろうか。オーストラリアの野生犬ディンゴの研究で儀一の区分けに従いその祖先をたどれば、おおむね次の七系る。当時わが国にはニホンオオカミやエゾオオカミが存在し たが、日本のイヌはオオカミを順化したものでなく、大陸か は、単独で行動している個体がもっとも多く、七三 % を占め統に分類される。 らの人の移住のときに、ともに渡来したものとみなされてい る。つがいが一六 ・二 % でこれに次ぎ、三頭の群れは五・一 〔。ハリア犬型〕 C. トをミ、ぎ ~ ・もっとも古い型のイヌで、 ア犬は現在でる。↓日本犬 % であったという。単独生活者はときに集旧石器時代後期の遺跡から出土している。パリ 。、四頭は二・ 〔繁殖と寿命〕オオカミは性成熟に達するのに二年はかか も南アジアの村落に半野生状態で生活しており、ディンゴに まってルーズな群れをつくったりもする。彼らは遠ばえをし たり、ほえたりして互いに連絡し、ほえ声は繁殖周期と関連似て野生大の形質を多く保持している。体格は中ぐらいで変り、繁殖は早春から初夏にかけてなされる。しかしイヌの性 成熟はずっと早い。早熟なものでは生後四か月で発情が認め 化に富み、立ち耳のものや、垂れ耳のものがいる。グレー して多くなる。調査されたディンゴは、獲物としてウサギな しばいめ ウンドや猟犬の祖先ともみなされている。日本の柴犬もこのられるが、大方のものは八 ~ 一〇か月で性成熟に達する。繁 どを狩り、腐肉なども利用していた。またアメリカのメリー 殖は周年認められるが、春と秋にやや多い。雌が雄を許容す ランド州でのイヌの研究でも、二頭連れでの行動が割に多か系統と関連があると思われる。 ったが、五〇・六 % は単独で行動しており、五頭の群れはわ〔テリア型〕 C. トを s ミ s 紀元前二八〇〇年ごろのスイるのは、出血が始まって一〇日目ごろからである。それまで は雌はあたりを徘徊し、普段より排尿回数が増え、何頭もの ずか一・九 % であった。さらにイリノイ州での野犬の研究でスの新石器時代層から初めて出土した。しかし北ヨーロッパ は、群れの成員は二 ~ 五頭で、約三〇平方キ。ほどの行動圏では前八〇〇〇年ごろの地層から発見されているし、西アジ雄に追従される。交尾はかならずしも特定の雄とだけ行われ るものではないが、雌によっては厳しく雄を選定し、他を許 ( ホームレンジ ) を有し、死肉、生ごみ、小動物など入手でアやエジプトでも新石器時代の遺跡から発掘されている。 容しないものがいる。妊娠期間は約二か月、一産一 ~ 六子が リア犬の流れをくむものとみなされている。ポメラニアン、 きるものはなんでも利用し、ほかの群れに対しては排他的 小形犬では一胎子数は少なく、大形犬では七、八頭を で、行動圏から追い払うのがみられた。群れにはリーダー的テリア類、そり犬などがこれに属する。 もっとも多くの子を産んだのは、 〔牧羊犬型〕 C. トきミ、を、ぎミ青銅器文化が東方から産むこともまれではない。 行動をとるものもいたが、成員間の順位争いといったもの めいりよ・つ ーリ州セン ヨーロッパに進出したときに、伴われていったものとみられフォックスハウンドのレナ号で、二三頭である ( 一九四四 ) 。ま は、あまり明瞭でなかった。さらにまた、ミズ トルイスでの雄二頭、雌一頭からなる野犬の調査では、自分ている。またこのころ興った牧羊業と密接な関連がある。そた、セントバーナードのケアレス・アン号も二三頭の子を産 み、うち一四頭が生き残ったという記録がある ( 一九七五 ) 。子 の順化の発祥地としてはイランが想定されている。コリー の行動圏内での群れは、五〇回の観察例のうち三七回は雌に シェパ イヌは初め閉眼しており、耳孔もふさがっているが、二週目 ードなど各種の牧羊犬がこれに属する。 リードされていた。しかし、何かを追跡するというようなと 〔グレーハウンド型〕 C. トミミ古くは前五〇〇〇年のごろから目が開きだす。乳歯は三、四週目ごろから生え始 きは、二九回の観察例のうち、雌が一三回、雄の一頭が一五
ちげつに 「丹波国桑田郡出雲神社」として名神大社に列帰って智月尼と称し、八七歳の高齢で没したと移って祭事に専念することになった。なお、律島家に受け継がれ今日に及ぶ。また、国造職の ろくしょ ひっ挙 相続にあたっての火継は、古式を伝える行事と し、丹波国一宮として栄えた。旧国幣中社。本もいし 、また一六〇七年 ( 慶長一一 l) 小田原で令制下の国府は今日の松江市大草町の六所神社 さんげんしゃながれづくり 〈門脇禎二〉 して有名である。 殿は三間社流造で、国の重要文化財。例祭一没したとするなど、諸説があり、いずれも信じ付近にあった。 よしきょ ふりゅうはなおどり 〇月二一日。四月一八日の花祭には風流花踊がたい 鎌倉期の守護は佐々木義清の系統が任じられ回門脇禎二著『出雲の古代史』 ( 一九七六・日本放 よりやすえんや 〈菟田俊彦〉 送出版協会 ) が奉納される。 一六〇〇年 ( 慶長五 ) 七月に、出雲国出身と たが、義清の孫頼泰は塩冶 ( 出雲市 ) に居を構 出雲の阿国いずものおくに生没年末詳。一名のる「クニ」が宮中に参入し、ややこ踊を演えて塩冶姓を称した。南北朝期に入り、守護塩出雲国風土記いすものくにふどき地誌。一 きよう 1 」く ときよしきようき かふき たかさだ 般に歌舞伎の創始者とされている女性芸能者。じたとの記録 ( 時慶卿記 ) がある。また、北冶高貞が失脚すると、かわって京極 ( 佐々木 ) 巻。現存する五風土記のうち唯一の完本。七三 もうす やまな たかうじどうよ 伝説によると出雲国 ( 島根県 ) 松江の鍛冶職中野社関係の文書に、「くにと申かぶき女」が登 高氏 ( 導誉 ) が守護となった。一時山名氏に奪三年 ( 天平五 ) 二月成立。出雲国九郡の地理、 めいとく 村三右衛門の娘で、出雲大社の巫女だったとい 場する。これらが出雲の阿国に関して信頼できわれたが、明徳の乱 ( 一三九 l) 後、ふたたび京極産物、伝説、神話などを郡ごとに記す。↓風土 と あま′」 げんま う。江戸時代の初め京に上り、大社修繕のためるごく限られた史料である。出身については多氏に還され、守護代として一族の尼子氏が富記 やまとしきのかみ かんじん つねひさおうにん の勧進と称して芸能を演じた。初めは北野天満 くの説があるが、いずれも決定的とはいえず、田城 ( 広瀬町 ) に入城した。尼子経久は応仁の出雲荘いすものしよう大和国城上郡 ( 奈良 えつつみ さんじよ まさつわ 宮境内や五条河原に小屋がけして、「ややこ踊」奈良近郊の散所出身の「歩き巫女」とする想像乱 ( 一四六七 ~ 七七 ) を契機として、京極政経の守護県桜井市大字江包、大西付近 ) の興福寺領荘 や「念仏踊」といった単純な踊りだったが、一 が現在の通説となっている。阿国歌舞伎の成功権力を排除して戦国大名に成長し、一六世紀前園。一〇七〇年 ( 延久一 D には二一町余 ( 一町 ぞうえきめんでんばた は約一一九 ) の雑役免田畠にすぎす、この段 六〇三年 ( 慶長八 ) 春のころ、男装して歌舞伎をみるや、直ちに模倣する者が輩出し、彼女ら半には山陰・山陽二道に勢力を拡大した。しか もう えんきゅう ふん あき 者に扮し、茶屋の女のもとへ通うさまをみせるも「国」を名のったことから複数の阿国が現れし、尼子義久の代に至って安芸 ( 広島県 ) の毛階ではまだ基本的には国衙領であった。延久 だいじよういん 「茶屋あそびの踊」を創案し、異常なまでの人る。後世に、阿国の二代目、三代目がいたとす利氏の攻撃を受け、一五六六年 ( 永禄九 ) 滅亡以後のいつごろかに興福寺大乗院の一円荘園 きんとうみよう になり、鎌倉時代にいわゆる均等名荘園とし 気を集めた。これが「歌舞伎踊」である。歌舞る説が出たのは、俗資料の間の年代的な矛盾をし、以後出雲は毛利の支配下となった。 まりおよしはる 〈服部幸雄〉 伎踊の創始については、夫となった狂言師三十解決しようとしたためであろう。 関ヶ原の戦い後、堀尾吉晴が入国、松江城をてその姿を現す。一一八六年 ( 文治一 l) の坪付 築いて本拠を広瀬から松江に移した。堀尾氏と帳によると総面積は三二町余で、そのうち一三 郎 ( 鼓打ちの三十郎とも、あるいは歌舞伎者の回吉川清著『出雲の阿国』 ( 一九五三・田中書房 ) なごやさんぎ 名古屋山三とも伝える ) の指導と協力があった そのあと入部した京極氏は、ともに嗣子がなか町余の田畠が一町余から二町までのほば均等な ▽服部幸雄著『歌舞伎成立の研究』 ( 一九穴 なお みよう 一六の名に分割、編成されていた。各名には原 というが確かではない。阿国の芸団は佐渡へ行 風間書房 ) ▽小笠原恭子著『出雲のおくに』 ったので断絶、一六三八年 ( 寛永一五 ) 松平直 ま ~ ったとも、 、工戸に下って千代田城内の能舞 ( 中公新書 ) 政が十八万六千石の藩主として入部し、以後幕則として一反の屋敷地が認められていた。一四 台で芸を演じたともされる。没年は、一六 出雲国いずものくに島根県の東半部にあた末まで松平氏の支配が続いた。その間、広瀬一一一世紀初頭には三名減って一三名になっており、 しんじこなかのうみ 年 ( 慶長一八 ) に六七歳で没したとも、故郷にる旧国名。宍道湖、中海に流入する斐伊川、飯万石、母里一万石の支藩を分出した。一八七一以後戦国時代まで一三名制が維持されたようで 梨川などの河川の下流域には沖積年 ( 明治四 ) 廃藩置県により松江、広瀬、母里ある。大乗院の根本所領一二か所の一つ。↓名 〈安田次郎〉 平野が開け、古代から農業生産力の各県が誕生したが、同年一一月これらを合併田 おぎ の豊かな土地であった。出雲を舞し、隠岐もあわせて島根県が成立した。その回渡辺澄夫著「増訂畿内庄園の基礎構造』 ( 一九六九・吉川弘文館 ) ▽島田次郎著『畿内莊 台とする神話が多く伝えられてい 後、島根県域には変動があったが、一 八一年 いわみ 園における中世村落』 ( 『日本社会経済史研究 ることから、大化前代の出雲地方 に旧出雲、石見、隠岐の三国域となり、現在に やまと きっこう 〈藤岡大拙〉 古代中世編』所収・一九六七・吉川弘文館 ) に、大和朝廷に拮抗する勢力が存至っている。↓島根 ( 県 ) ー会九 ) 平安 在したのではないかとする説もあ出雲国造いずものくにのみやっこ古代におけ出雲広貞いずものひろさだ せつつ ちゅうげ おう るが、現在のところ考古学的に実る出雲の豪族。出雲東部の意宇平野を本拠とし前期の医家。摂津国の人。侍医となり、中外 きてんやくのすけみまさかごんのじよう 証することはできない。 て台頭し、五世紀末から六世紀なかばには、出記、典薬助、美作権掾を兼ね、八〇五年 ( 延 4 かんむ せんしん 七三三年 ( 天平五 ) 撰進された雲全域にわたる地域国家を形成し王として君臨暦二四 ) 桓武天皇の治病に功あって爵一等を進 れ、国代 ふどき やまと 2 ト阿時 『出雲国風土記』によると、出雲した。しかし、六世紀後半から大和国家の制圧められた。八〇八年 ( 大同三 ) 勅を奉じて安部 まなお せん おう だいどうるいじゅうほう あいかたてめい 国は意宇、島根、秋鹿、楯縫、出が、まず西部に、ついで意宇平野の東部から及真直とともに『大同類聚方』一〇〇巻を撰 し を くすります じゅっ かんどいい 雲、神門、飯石、仁多、大原の九んでくると、国造の地位を受け入れた。出雲国述、また別に命を受け、唐制によって薬枡の すくわ かんよ′」と イ人描 を郡から成り立っているが、『風土造神賀詞は、祭祀権の貢上の形をとった服属の大小の量を定めた。のち内薬正にあげられ宿禰 いずもの 景館 の姓を賜った。『難経開委』の著があるという 』情華記』以後、意宇郡から能義郡が分ようすを語っている。このあと出雲国造は出雲 すがわらのみわっぐ きんらんほう おみ うわめ へ紙る文 が伝わっていない。子の菅原苓嗣は『金蘭方』 立して一〇郡となった。八世紀ご臣氏を称し、采女、トネリを大和朝廷に送り、 草れ和 ・一 4 わり みやけ 〈小曽戸洋〉 いを & 一覲大ろ意宇郡の大領であ「た出雲旧領内に屯倉、部民を置き、やがて評制も施行を撰した。 、 ) 4 。計」」・ ' / す歌霊良造は、天日命を祖先とする大された。さらに七〇八年 ( 和銅一 ) に国司ま部出雲平野」すも〈」や島根県東部、斐伊 、神戸川流域の沖積平野。簸川平野ともい 化前代からの豪族で、律令制下宿禰子首が着任すると、出雲国造は意宇郡大領 きづき う。東西約三〇キロ、南北約二〇キ。の長方形をな として一郡司とされたが、国内諸社の祭祀をつ では郡司であるとともに、杵築・ かさどるものとして「出雲国造」を称し続けす。北を島根半島の山地、南を中国山地の北辺 阿山熊野二大社の祭祀をつかさどった しんじ の屋 が、七九八年 ( 延暦一七 ) 郡司兼た。以後、国造交代のたびに上京して神賀詞をでくぎられ、西端に砂丘、東端に宍道湖があ せんげ 雲古色 る。斐伊川下流の三角州形成は著しく、平田市 2 出名着帯を禁じられ、杵築 ( 大社町 ) に奏上した。南北朝時代から、国造職は千家、 たんば 第、ま・こを 2 たいか のぎ よしひ寺一 つばつけ
むイスラム教 ら す・〔起源と背景〕ジャーヒリア時代 / ムハンマドの出現 「教義と実践〕六信 / 五柱 〔歴史〕正統カリフ時代 / ウマイヤ朝時代 / アッパ 朝時代 / スーフィズムとイスラム世界の拡大 〔現状と動向〕 〔日本におけるイスラム教〕 〔研究史〕 「イスラム教徒の生活・風習〕 すことばである。広義には、古代南アラビアの諸王国や北アの啓示を受ける。初めはそれが唯一神アッラーからのものと叫 ラビアのナバタイ王国、バルミラ王国の時代までも含まれるは信じられず苦悩するが、やがて預言者としての自覚を得て が、一般にはイスラム成立前一世紀余りの時代をさす。それ宣教を始める。天地の終末が迫っていること、そのために偶 きえ はアラブ部族間の闘争時代である。人々は自己の部族のため像崇拝をやめてアッラーに帰依し、争いや不正をやめ、貧者 に戦い、それを誇りにした。部族のみが人間に安全を保障や弱者を助けるように説いた。メッカの人々はムハンマドの ちょうしよう し、それがすべてであった。この時代に後世の範と仰がれる説教に耳を貸そうとはせず、彼とわずかの信徒たちを嘲笑 詩が突如生まれ完成した。詩人が活躍し、カーヒンとよばれし、迫害した。六一一一一年、彼は信徒たちとともにメッカを見 るシャーマンが神がかりして人々に託宣を伝え、砂漠ではジ捨て、布教の活路を求めてャスリプ ( メディナ ) に移る。こ ン ( 霊鬼 ) が人に危害を加えるとして恐れられ、人々は自然れをヒジュラ ( 遷行 ) という。ここに彼は、大多数のメディ 石や刻んだ石を聖石、神像として崇拝していた。なかでもカナの住民とメッカからの移住者の支持を得て、初めてイスラ ( 神の館 ) の黒石は方形の仕切りで囲われた程度のものムの信仰を実践する独自の共同体 ( ウンマ ) をつくる。とは いえ、こうして成立した共同体の前途は多難であったが、ム 西暦七世紀の初めにムハンマド ( マホメット ) が、アラビであったが、神殿の内外には多くの神像が安置され、メッカ ハンマドは宗教指導者、政治家としての優れた手腕によっ ア半島のメッカで唯一神アッラーの預言者として創唱した宗のクライシュ族のみならず、広くヒジャーズ全域の尊崇を集 教。ユダヤ教、キリスト教の流れをくむ一神教である。わがめ、人々は神聖月には戦いをやめて巡礼にやってきた。そのて、抵抗するメディナのユダヤ教徒を放逐し、周辺アラブ諸 力いきよ、つ 国ではマホメット教、回教、中国では清真教、フィフィ教機会に市が立ち、詩人たちが集まって詩作を競った。神々の部族を教化し、六三〇年にはついにメッカを征服する。そし なかでもアッラート、ウッザー、マナートの三女神は有名でて六三二年のムハンマドの死までには、イスラムの信仰のも ともよばれてきたが、 これらの呼称は今日ではあまり用いら とにアラビア半島のほば全域が統一されたのである。こうし れない。 これについて、聖典コーランには「わたし ( 神 ) はあり、アッラーも至高神としてとくにクライシュ族に信仰さ なんじ てムハンマドは、預言者として神の啓示を正しく伝え、それ イスラムを汝らのための宗教として認承した」 ( 標準エジプれていた。総じて当時のアラ。フの信仰形態は多神教とはい を聖典コーランとして残しただけではなく、政治的指導者と え、ア一一ミズム的性格を強く残した原初的なものであった。 ト版、五章三節 ) と述べられている。元来、アラビア語の してその教えを共同体のなかに根づかせることに成功したの ユダヤ教のアラプへの浸透は西暦七〇年のエルサレム神殿 「イスラム」 ( より厳密には「イスラーム」 isläm) とは、 きえ 「 ( 神の意志や命令に ) 絶対帰依・服従すること」を意味し破壊以降である。紅海沿岸の通商路に沿って南下したユダヤである。↓ヒジュラ た。のちには、広くそのような帰依の仕方を制度化した文化教徒は、多くャスリプ ( 後のメディナ ) やイエメンに定着し 教義と実践 的社会的複合体をさすことばとなった。ちなみに、イスラムていた。キリスト教も北部辺境の地に単性論派とネストリウ イスラム教は、ユダヤ教、キリスト教の歴史を、ムハンマ 教徒を表す「ムスリム」 muslim とは、元来そのように「帰ス派が浸透していた。また、ヒジャーズ地方や南部のナジュ 依した者」を意味したのである。イスラム教はまた仏教やキラーンの町にも多くのキリスト教徒が住んでいたといわれドが現れるまでの前史とみなしており、イスラムの教義や実 リスト教と並ぶ世界宗教である。一九六六年現在の統計による。しかし、当時のアラ。フの行動を深く支配していたのは、践のなかにはこれらの宗教と共通のものが多い。その基本は ろくしん・こちゅう ると、世界の総人口三三億六〇〇〇万人のうち、ムスリムは多神教でもなく、ユダヤ教でもキリスト教でもなかった。そ「六信、五柱 ( 五行 ) 」としてまとめられている。「六信」と 五億三〇〇〇万人といわれる。そのおもな内訳は、西アジアれは、「ムルーア」 murü'a ( 男らしさ ) とよばれる、部族のは、①神、天使、 3 聖典、④預一言者、来世、⑥予定とい のアラブ諸国に三〇〇〇万人、西アジアの非アラ。フ諸国 ( ト現世的繁栄に資する徳や価値であり、また「ダフル」 ( 時 ) う六つの信仰箇条のことである。「五柱」とは、①信仰告白、 だんじき きしゃ サカート ( 喜捨 ) 、④断食、 6 巡礼の五つの主要 ということばで表された運命観であった。当時のメッカは商 ルコ、イラン、アフガニスタン ) に七二〇〇万人、北アフリ 力のアラブ諸国に六〇〇〇万人、サハラ以南のアフリカ諸国業都市として繁栄していたが、その裏には貧困や悪弊があら義務をさす。 に六〇〇〇万人、スリランカ、ビルマを含むインド亜大陸にわになりつつあった。クライシュ族の一員としてムハンマド〔六信〕①神 ( アッラー ) コーランに繰り返し強調されて なんじ いることは、「汝らの神は唯一なる神」 ( 二章一六三節 ) とい 一億四五〇〇万人、東南アジア諸国に一億人、ソ連に三〇〇が生まれたのは、このような時代である。伝承によれば、南 う厳格な一神教の原理である。神は唯一絶対にして全知全 〇万人、中国に一五〇〇万人、バルカン半島に五〇〇万人、アラビアのヒムャル王国を滅ばしたアビシニア ( エチオ。ヒ となっている。今日の世界のムスリムの総数は統計上は明らア ) の将車アプラハが象の大軍を率いてメッカを攻めた「象能、人間を含めた天地万物の創造者、支配者である。この世 に生起することで一つとして神の意志と力によらないものは の年」 ( 五七 0 ) のことといわれている。 かでないが、世界の総人口が四〇億人とすれば、同じ割合の 〔ムハンマドの出現〕ムハンマドは幼くして孤児となり、おない。神が唯一であるということは、「神に比べうるものは 増加とみて約六億三〇〇〇万人となる。 じの手で養育された。二五歳のとき富裕な寡婦ハディージャ何一つない」 ( 四二章一一節 ) ということである。それは、 はんりよ 起源と背景 と結婚して安定した生活に入る。このころから商業のかたわ神は伴侶をもたないというだけでなく、その本質、属性にお めいそう いて人知を超え、被造物との類比を拒否する超越神だという 〔ジャーヒリア時代〕「ジャーヒリア」 JähiI a とは、イスら、しばしばメッカ近郊のヒラー山の洞穴にこもって瞑想に ことである。このように神と被造物の隔絶性が強調される一 ラム以前の「無知」の時代、またはその時代の生活様式をさふけるようになった。六一〇年、四〇歳のころに突然、最初 キ、よ , っ