し ひとくいよ・よ・ らさよひめつま 供たちを襲い、とって食う人食變が、逃げる子が、呪を効果あらしめるための縛りである。サ浦佐用媛夫恋ひに領巾振りしよりおへる山のれば、医業をなしてはならない」と定め、第一 せんか 八条では、「医師でなければ、医師又はこれに 供たちのよじ登る天からの綱に追いすがる。し ン、シメ、シメポシ、ツツダテ、ウケなどとも名」は、以下の伝承を踏まえている。宣化天皇 しらぎ さでひこ の時代、新羅征討に船出した大伴佐提比古を、紛らわしい名称を用いてはならない」とし、医 かし、綱は重さで切れて落ち、婆は石にぶつか 小枝、草、小石ものせる。異形をことさ とうきび やまと り死ぬ。植えてあった近くの畑の唐黍の根は、 らに誇示し、神・呪物とするのである。『大和佐用媛が鏡山から見送り、領巾を振り、別離を療に関する医師の業務独占、さらに名称につい だぎいだいに よしふる 婆から流れ出る血に染まり、赤くなった。ここ物語』の、大宰大弐小野好古と歌を唱和した檜嘆きながら、そのまま石に化したという。『古ての独占を規定している。法解釈上でのいわゆ あも がき では、石が赤くなったとは説かれないが、天降垣の御は、石を祀り、その来由を語り、信仰を今著聞集』にもみえる望夫石である。この望夫る医業とは、医師の医学的判断や技術をもっ ふじよ ひがしまつうらよぶこ るものが赤で表される。 説く巫女であった。福岡県太宰府市の観世音寺石は、佐賀県東松浦郡呼子町沖合い一一キロの加て、人体に危害を及ばしたり、または危険を及 たかいち ますがおおづく ~ ー ) は 4 っ べしま 奈良県高市郡真菅村小槻 ( 現橿原市 ) の宮に裏門前には、檜垣の御の上屋をしつらえた石墓部島佐用姫神社の社殿下にある。また、他の望ばすおそれのあるいっさいの行為を、反復継続 つるがあけばの 赤くへこんだ大岩がある。雷の落ちた跡だとい があるが、眼病に効ありと木札を下げたその右夫石は、福井県敦賀市曙町の気比神宮にも、する意志のもとに行うこととされている。 ふんどし う。雷は大日様に捕らえられ、褌を外され、わきの石にたまる濁り水は、、まは石はおろか 社殿下に白々とある。 医師の免許は、第二条で「医師になろうとす まつわらわ 二度とこの村に落ちぬと誓い、天に戻った。大信仰さえ影も形もない 〔神の石、石の白〕松浦・松王・松童などのる者は、医師国家試験に合格し、厚生大臣の免 岩のくばみには褌の縫い目まで残るらしい。こ 蛇枕石の伝えは愛知県岡崎市 ( 旧福岡町 ) に マツは、神に侍する意の「まつらう」、すなわ許を受けなければならない」と定められてい めかけ としん ひまちとりのまち れは、赤色に関していえば、人間以外の神・精ある。夫の妾狂いを恨み、妬心を募らせ、妻はち仕えることで、日待・酉待のマチと同じく祭る。この医師免許を受けるための受験資格をも じゅすい 霊が人間に近づく過程を表し、褌の縫い目は霊岬の海に入水して大蛇となる。大蛇は遊行の途事を意味している。松童などは、サヨ・サヤとつのは、次の三つのいずれかに該当する者とさ れんによ 威あるものの呪力を示すと思われる。 れる ( 一一条 ) 。 次の蓮如上人に会い、その説教をひたすらに聞似寄りの、石語りを説き歩く信仰者である。 ・一しき まないた 祭りを執り行う祭壇の石は甑石・俎板石とよ①大学で医学の正規の課程を修めて卒業した 舟玉 ( 船の守り神 ) として祀られる石もあき、彼岸の大石を枕に天女と化し、昇天する。 よ る。沖縄県宮古島の伝えである。遠く、長い航この伝えは、石に憑る霊魂を招き、眠りを契機ばれる。調理した供え物を捧げる。鮭・鯖など者。 海に出た父を慕う子供がいた。子供は父恋しさ に異形・変身を成就する信仰の継承を明示してが石の上に跳ね上がったとも言い伝えられる。②医師国家試験予備試験に合格したうえで、合 なかまだけ のあまり、仲間嶽の奇石を守護神として舟に乗 鯖は「産飯」に通じ、食物の少量を取り分けて格後一年以上の診療および公衆衛生に関する実 つまご うぶみ せ、海の果てに父を追う。波まかせの子供はお 〔夫恋いの石〕峠の山道の日なたや、田んばの鬼神などに供するもの。関西地方で、盆の生御地修練を終えた者。 たま たまはや ばれ死ぬ。航海から戻った父は子供の死を悲しあぜ道で抱擁しあい、屈託なげにくつろぐ爺婆魂のおりに、両親の魂栄しに刺鯖を持参し供え③外国の医学校を卒業し、または外国で医師免 みわささ めおと 許を得た者で、厚生大臣が前の①②に掲げる者 むが、舟の石を子の魂と思い定め、嶺に捧げ石・夫婦石はあちこちにある。田の神は爺婆のる例と同じで、古くは魚類以外をもさした。 なおらい と同等以上の学力および技能を有し、かっ、適 る。その後人々はこの山の石をいただき、赤糸姿で、山上から田畑を眺め渡し、実りを予祝す 神への供物は、祭儀のあとの直会に際し、 を巻き結んで箱に収め、舟に供えた。 るが、これは山見・作見の名で知られる。郷土人々に供される。祭りに加わらぬ人々は、祭壇当と認定した者。 ( ③で受験資格が認められな 〔異形の呪〕たとえば、石を縄で縛り、神仏に には登れす、供献の品々に触れることも許され い場合は、②に準ずる ) 芸能などに存するカマケワザも、豊饒を祈る性 このように、医師となる者は、①②③のいず 行うように願掛けをする行為がある。かなえば交呪術である。 なかった。神の石、祭壇は、清く保たれねばな おおとものたびと まっ れかによって資格を得たうえで、医師国家試験 縄を解く。縛り石・縛り地蔵などとも称する 『万葉集』にある大伴旅人の歌「とほっ人松 らず、汚穢は忌まれた。 白い石は、子供の夜泣きや女の乳房にかかわ に合格しなければならないわけである。ただ あとと 明地は東 る病を癒すと伝えられている。しかし、白色し、末成年者、禁治産者、準禁治産者、目が見 の真の 年者写ろ景 は、清浄のみを意味するものではなく、恐怖すえない者、耳が聞こえない者、ロがきけない者 療。こ風 ッ聖あ 医た , 業 ロ , で べき呪カ・威力をも象徴した。たとえば、夜更には、免許が与えられない ( 三条 ) 。 まるもち やま、つなな 一間人画 , てれ授 また、医師となった者でも、それが精神病 けに、炉端に座り込んだ山姥に、白丸餅のかわ 一版はっさ治の 長同たのでなな明で 上 りに白丸石を焼き与え、追い払う話は、炉辺に者、麻薬・大麻もしくはアヘンの中毒者、罰金 はっ末本にが ( 部 は者か紀日 , 立年学 生き続ける数多い口承とともに、村々の子供た 以上の刑に処せられた者、医事に関し犯罪また 師て療多世「 2 確医 医っ医カ 1 〔、 ・、 5 冶位四大 〈石上堅〉 ちを喜ばせてもいる。 は不正の行為のあった者である場合には、厚生 回石上堅著『新・古代研究』全三巻 ( 一九大・雪大臣が医道審議会の意見を徴したうえで、免許 を取り消したり、または、期間を定めて医業の 華社 ) ▽同著『日本民俗語大辞典』 ( 一三・ 停止を命じることができると定められている 桜楓社 ) いし医療を業として行う者をいし ( 四条、七条 ) 。 医師 わが国では法律上、アメリカやイギリスのよ 俗に医者ともよばれる。現在の日本における医 師の場合は、医師法 ( 昭和二三年法律二〇一 うな専門医制度を導入していないため、医療法 において、診療科目として広告することのでき 号 ) の定めに従うこととなっている。すなわ ち、医師法の第一条では、「医師は、医療及びる科目の名称が規定されているにすぎない。そ つかさど / 保健指導を掌ることによって公衆衛生の向上の科目とは、一九八二年 ( 昭和五七 ) 現在、次 及び増進に寄与し、もって国民の健康な生活をの三〇科 ( 括弧内を含む ) である ( 医療法七〇 確保するものとする」とあり、医師の定義がな条 ) 。 内科、精神科、神経科 ( または神経内科 ) 、 2 されている。さらに第一七条は、「医師でなけ ふなだま 、ゞ ひれ
いでんが ② ① ったもので、ギリシア語の genesis ( 生まれきるようになった。したがって今日では、遺伝れた。また、遺伝現象の基本は生殖細胞内の染みいだすことはできなかった。これに対しオー ストリアの遺伝学者メンデルは、エンドウの一 学を、遺伝情報の構成、伝達、発現に関する科色体上に存在する ( と仮定された ) 遺伝子の行 る、起源 ) という意味の語からきている。 動によるところから、染色体を対象とする分野つ一つの形質に着目し、それそれについて別個 遺伝学は、もともとは育種の観点から発生し学と定義することもできる。 に遺伝現象を追究した。このためには、あらか は早くから発展し、細胞遺伝学または核遺伝学 〔遺伝学の分科〕一九〇〇年にメンデルの法則 た学問で、初期の間は、対象とする形質が子や じめ数代にわたり注意深く形質について観察 孫に伝達され発現する過程の法則性を把握するが再発見されてから、わすか八十数年の間に遺とよばれた。↓細胞遺伝学 し、対の形質として取り扱えるもの七対につい 形質の発現は、遺伝子が本来もっている設計 ことをおもな研究対象としていたが、当然のこ伝学はたいへんな進歩を遂げ、現在では多数の とながら研究者の関心はその機構の解明に向け専門分科に分かれている。初期においては遺伝図を基に、環境条件の影響を受けながら完成さてそれそれをかけ合わせる方法をとった。この られた。現在では遺伝的物質の本体を遺伝子と学の研究には、異なった形質をもっ二つの系統れる。この過程を生理学的に取り扱う分野を、実験結果をメンデルは一八六六年に〕。植物雑種 してとらえ、さらに遺伝子がどのようにして必の間で、かけ合わせを行い、その子孫を観察す生理遺伝学、化学的に研究する分野を遺伝生化の研究』という論文にまとめて発表した。この よかには、のちに「メンデルの法則」と名づけ 学という。また、発生過程をおもな対象とする るいわゆるかけ合わせ実験の方法がとられた。 要な情報を蓄え、それを細胞から細胞に伝え、 られた遺伝の基本原則が含まれていたが、当時 形質として発現していくかの仕組みまで解明で日本では、初期の遺伝学は、実験遺伝学とよば分野を発生遺伝学という。表現型間における個 体変異を扱う学問を変異遺伝学というが、これこの論文の重要性に気づくものはだれもいなか の 版メ表さの った。↓メンデルの法則 彖云 は統計的手法によって数量的取扱いをするので 0 工 / ー トっキ にたを収遺 それから三五年後の一九〇〇年になって、三 数量遺伝学または統計遺伝学ともよばれる。こ が離 と 実 日とロ 究分 ・カ のはか日本では、突然変異を研究対象とする分人の遺伝学者、オランダのド・フリース、ドイ 翌なる研の , れ交れ学繭 ツのコレンス、オーストリアのチェルマクがほ し〈心コ 野を変異遺伝学とよぶ場合もある。遺伝学の対 表らさ 場を記工 とんど同時に、独立して同じ考えに到達し、メ 象は多くの場合個体であるが、その集団全体と 圃験ルチ 発め仁用起扉 の実デ を認カ適術の中 して遺伝子の動態を扱う分野が集団遺伝学であンデルの論文の価値が世の脚光を浴びることに コの 祥雑ン像紙文は 学 ( こイ 発交メ石表論価 年ー学 る。同様に分子のレ・ヘルの問題を取り扱う分野なった。それ以来、多くの人々により植物や動 」のはの に真 6 物大カ眸 ル究年の囲動斗め 0 則ウ在 を分子遺伝学とよぶ。このほか研究対象によ物を用いた遺伝の研究が行われ、メンデルの指 ー・にゆ・つ 法ド現デ研そコか第含 ンのはは り、微生物遺伝学、昆虫遺伝学、哺乳動物遺伝摘した原則の普遍性が認められるようになっ とやまかめたろう た。日本においては、外山亀太郎がメンデルの 学、人類遺伝学などという分け方もある。 デが中は雑当太大」 ンルと端 , 物 ル , 亀の帝地蚕① 遺伝学の応用場面を扱うものとしては、優生法則再発見後まもなく、メンデルの指摘した原 学メデ院左ノ植デが山ル 京 ンた外デ真た図 伝「ン道 則が動物であるカイコにも適用されることを報 学、育種学、遺伝子工学などがあげられるが、 遺①メ修るプ②メし③ン陳写れ原 原子力利用や化学工業の発展に伴い、遺伝子を告した。これが動物でメンデルの法則の普遍性 保全する目的から放射線遺伝学、環境変異原学を確認した最初の例である。ところで、メンデ 純れや ル以前においても、遺伝の担い手は卵細胞およ などという分野も最近急速に発展をみせてい る。 び精細胞の核によるものであることが、細胞分 〔遺伝学の歴史〕人類が遺伝現象や動植物の交裂や受精の際の染色体の行動観察などから推定 釜黄・永条戈 配について関心をもった記録は、遠く新石器時されていたが、メンデルは統計的な手法を用い ◎当 ; 永条を代の昔までたどることができる。バビロニアのて、遺伝の担い手である遺伝子 ( メンデルは要 どうくっ 区のおまの当 洞窟の壁にウマの系統図が描かれたものが発見素とよんだ ) は受精によって互いに混合しあう されているが、これは紀元前四〇〇〇年ごろのようなことなく、生殖細胞形成にあたって、ふ 亘永久ネ たたび分離することを指摘した。 ものといわれる。また、アッシリア時代につく ( 台 られた浮彫りにナツメヤシの人工受精のようす〔遺伝子と染色体〕遺伝子と染色体との関係に ・日 永久交 が描かれたものがあるという。家畜や作物の改ついて具体的な考察を行ったのは、アメリカの 細胞学者サットン W. S. Sutton ( 一 0 七ー一九 良は人知の発達とともに行われたに違いなく、 中世の暗黒時代にも家畜や作物の改良はたゆみ一 0 やドイツの動物学者ポペリ Th. Boveri ー一九一五 ) である。彼らは、遺伝子が染色 なく行われたものと思われる。しかし、遺伝に 関する科学的研究が始まったのは一八世紀に入体にあると仮定することによって、メンデルの 法則が十分に理解できるという考えを強力に主 ってからで、その始祖はドイツの植物学者ケー ルローターとされている。彼は多くの植物を用張した。この考えは、一九一一年ごろからアメ リカの遺伝学者モーガンによって開始されたキ いて実験を行い、植物が生まれるには性物質の 混合が必要なことを唱えた。その後、ドイツのイロショウジョウバエの遺伝学的研究により確 植物学者ゲルトナー c. F. Gärtner は三五〇実な証拠をもつようになった。このハエでは核 種類もの異なる雑種を研究したが、個体の全性にわすかに四対の染色体をもつだけである。多 質を一団として扱ったために、そこに法則性を数の突然変異を材料として、その遺伝関係を調 4 山äffJ 第一■■ Ve 「 suche 加 n - tlybriden, ④
いすらむ じゅじゅっ った。彼の改革思想は、その後息子や孫に引き継がれ、政治 スーフィズムはますます呪術化し、「神への帰依」 ( タワッ 成立するが、一五二六年のムガル朝の登場によってムスリム の全インド的支配はいちおう確立し、イスラム化はさらに進クル ) が積極的活動のなかで理解されるのではなく、無為、的運動へと組織化されていく。 これに対してワッハープは、イスラム共同体の衰退と堕落 行する。こうして一六世紀後半のアクバル大帝のときにその無活動、現世への無関心として理解され、スーフィズムは無 きようざっ はスーフィズム的夾雑物の付加によるとして、それを除去 気力と沈滞を正当化するイデオロギーとなっていく。 最盛期を迎える。イスラムが東南アジア、中国、プラック・ でんば し、コーランとスンナの純粋な原始イスラムへ復帰すべきこ アフリカなどに伝播していったのもこのころのことである。 現状と動向 とを主張した。そして、ネジドのサウド家のイプン・サウド こうしてイスラムは、アラブ・ムスリムが活動の舞台から姿 沈滞したイスラム共同体のあり方に批判を加え、それを改と結んで、その主張の政治的実現を目ざした。こうしてその を消すと、モンゴル人征服者を改宗し、トルコ人、イラン 革しようという動きが一八世紀に出てきた。インドのシャ地方を支配するオスマン朝政府と衝突することになるが、こ 人、インド人、マレー人、インドネシア人、中国人、アフリ ・ワリーユッラー ( 一七 0 三ー六三 ) と、アラビア半島のムハンのアラブによるトルコ人政府への反抗という構図は、中世的 カ人のなかにその担い手をみいだし、新たな発展を遂げたの イスラムから近代イスラムへの転換を象徴するものである。 である。そして、この発展とイスラム化に活力を与えたのがマド・イプン・アブドル・ワッハープ ( 一七 0 三ー九三 ) である。 スーフィー的イスラムであり、スーフィー教団の聖者や商人前者は、イギリスのインド進出のなかで、ヒンドウー教徒やワッハープ派の運動はオスマン朝政府の弾圧によって失敗に かくせい シーク教徒の覚醒に刺激され、内部改革を通して、衰退する終わるが、運動そのものがそれで終わったわけではなく、一 であった。 ムガル朝の復興を図ろうとするものであった。これは中世的九三二年にサウジアラビア王国として実を結ぶ。ワッハープ こうした発展も一六、七世紀のピークを過ぎると終息し、 イスラム世界はふたたび衰退に向かう。スーフィーたちが体イスラムを全面的に否定するものではなく、スンナ ( 預一 = 〕者派のもっ偶像破壊的な改革思想は、ムスリムのなかに眠って いた共同体意識を広く呼び覚まし、共同体の現状に目を向け 験を重視するあまり知識を軽視し、理性による規制を離れたの範例 ) とスーフィズムを純粋な形で結合したイスラムであ イスラム教で公式に定められた祝祭には、巡 り、あらかじめ代理人の間で、男性が女生に支賭博・利子賭け事や占いはコーランによっ - ん、し イスラム教徒の生活・風習 礼月の「犠牲祭」と「断食明けの祭り」があ 払うマフル ( 婚資 ) の額や支払い方法、その他て明確に禁止されている ( 二章二一九節、五章 ー ) についても同じである。これはいずれもコーランやスンナによって 食生活ムスリム ( イスラム教徒 ) の食生活の条件を定めたうえで執り行われる。イスラム九〇節 ) 。利子 ( リ る ( 二章二七五 ~ 二七六節 ) 。ただイスラムの定められたものである。このほかに、のちに祝 の特徴として知られているものに「四人妻」が にはさまざまな宗教上の規制がある。たとえ 丿バーは、金銭のみならず、小麦その他の貸付われるようになったものとして、預一一 = ロ者ムハン ある。これは、元来、孤児の救済に関連して下 ば、禁酒や豚肉の食用禁止はよく知られてい マド ( マホメット ) や聖者の生誕祭がある。ま された啓一小 ( コーラン四章三節 ) に基づくものけに対しても貸付量以上のものをとることをさ る。これらはいずれもコーランの規定による た、シーア派にはムハッラム月 ( 第一月 ) の一 ( 五章九〇 ~ 九一節、二章一七二 ~ 一七三節なであるが、その啓示についてもさまざまな解釈す。かっては売買その他の形式をとることによ って事実上利子をとる形態があったが、最近で〇日 ( アーシューラー ) のイマーム・フサイン ど ) 。そのほか、ムスリムが神の名をたたえてがある。伝統的には上限が四人と解釈されてい とさっ は預金者が共同経営者として利益の配当にあずの受難祭、および同月一八日のガディール・ホ 一定の作法に従って屠殺した動物以外の肉にったが、最近では同じ箇所に述べられている「も ンム ( メッカとメディナの中間にあるホンムの かる「イスラム銀行」の形態が模索されてい いても同様の禁止がある。その理由についてし妻を公平に扱いかねることを心配するなら一 池 ) でのイマーム・アリーのイマーム指名を記 は、法的、歴史的、衛生学的にさまざまに解釈人だけを」という条件を厳しく解釈して、事実る。 かつれい 割礼男女の性器の一部を切開、除去する割念する祭りなどがある。 されているが、結局それを禁じた神の意志は完上一夫一婦制を法制化している国が多い。 宗教的指導者スンニー派イスラム教にはも 礼は古来広くみられる習慣で、今日でもムスリ 離婚についても、従来、男性の側からの一方 全には知りえないとされる。 女性女性が・ヘールやチャドルで顔や身体を的宣言による方法 ( タラーク ) がもっとも一般ムのほかユダヤ教徒や世界各地の諸民族の間でともと、神と人間を仲介して人間の救いにかか ーレム ( 家屋内の女性専用の場的であったが、その悪弊が批判され、最近ではみられる。ユダヤ教では割礼は神とイスラエルわる聖職者の制度はない。それに相当するもの 覆う風習や、 としてはウラマーがいるが、彼らはあくまで信 の民との契約のしるしとして重視されるが、イ 所 ) に女性を隔離することがムスリム社会の特女性の側の言い分もより多く認められるように スラム教の聖典にはなんの言及もなく、アプ一フ徒の義務規範 ( 聖法 ) や教義についての専門学 徴のごとくいわれてきた。しかし、それは、女改革されつつある。 ハムの割礼を伝える伝承によるものである。法者でしかない。神との関係では一般信徒と同様 性 ( および男性 ) が他人に自分の身体をあらわ遺産相続コーラン ( 四章七 ~ 一二節、一七 である。 に見せることを禁じたコーランの教え ( 三三章六節 ) や預一一 = ロ者の伝承に基づいて細かく規定さ的にはかならずしも義務ではないが、ムスリム しかし、シーア派ではイマームが仲介者的位 五九節など ) によるといわれる。その背景にれている。特徴的なことは、孤児や寡婦にも財の象徴として七 ~ 一二歳ころに施され、家族の 置を占めるようになる。そして九世紀末にこの は、人間は弱い存在であるから、男女の接触と産権を認め、男子の二分の一ではあるが女性に者は盛大なお祝いをする。 暦・祭礼・行事イスラム教ではヒジュラ暦イマームが最終的に身を隠して「隠れイマー 身体の露出によっておこるかもしれない罪を未も相続権を認めたこと、財産の三分の一を遺一一 = ロ ム」すなわちガイバの状態に入ると、ウラマー によって処分することができるとしたこと、被と称する独自の暦が用いられる。ヒジュラ暦は 然に防ぐという考えと、男性は外の仕事、女性 はその代理としてよりいっそう精神的権威をも は家事と子供の養育という分業観がある。この相続人の殺害者や異教徒は相続から排除された完全な陰暦であるために一年は三五四日とな つようになり、アーヤトッラー・オズマ、アー り、ヒジュラ暦によって算定されるラマダーン こと、などである。相続による財産の分割を防 風習も女性解放の運動とともに変わりつつある だんじき 月 ( 第九月 ) の断食やズール・ヒッジャ月 ( 第ャトッラーといったウラマー間の位階制度的な ぐために、ワクフ ( 慈善財産 ) として寄進し、 が、表面的にはムスリム社会は男性社会である その用益権を家族全体が引き継ぐ方法が従来と一二月 ) のメッカ巡礼その他の行事は、太陽暦序列が明確になってきている。〈中村廣治郎〉 ことに変わりはない。 に基づく暦とすこしすつずれることになる。 婚姻イスラム教では婚姻は一種の契約であられてきた。 きえ 300
くふうによって、草木花の形姿を美しくつくることがなされ って、そこへ神を迎え入れ、その年、その土地、その家の安 いけ花 たが、物合の花も優劣を競う遊びのなかで、おもしろさ、珍 全と幸せを祈った。 「いけ花の歴史〕いけ花以前 / いけ花の誕生 / 立花の大 いけ花は花よりも枝を立てることのほうに基本的骨格があしさへの趣向が凝らされた。こうした趣味性をもった花への 成 / 抛入花から生花へ / いけ花の近代化 / 戦後社会るが、それは民俗信仰の依代の習俗を投影しているといって指向が、民俗信仰や仏教のもっ宗教性から花を解放し、いけ といけ花 花の誕生を促すことになる。 一方、咲く花は、死霊をよみがえらせる具として考え いぎなみのみこと 南北朝から室町時代にかけては、政治的意味あいを込め られた。『日本書紀』にみえる伊弉冉尊の死霊供養の祭祀 「いけ花の技法〕花のいけ方 / 花型 / 切り方 / ため方 よりあい 留め方 / 水揚げ / 花器 / いけ花の鑑賞 / いけ花の習 に、花の盛りには花を供える土俗があったというのは、霊のて、平素の共同性を確認する機会としての寄合がしきりに催 じゅじゅっ い方 よみがえりを図る呪術的儀式にほかならず、そこには花をされた。それは酒宴その他の遊興を名目とするもので、公 そ・つりよ かつれい 活霊としてみる民俗があったことを物語る。そして、花は咲家、武家、僧侶間で盛んに行われたが、こうした寄合の流行 たなばた そうか 日本独自の伝統的な挿花の技法。いけ花は時代の変遷に応 くがゆえに散り、散るがゆえに咲くという死滅と再生の象徴のなかで花合という催しも流行した。とくに七夕に際して多 ・ : つようき く、『迎陽記』によると、一三九九年 ( 応永六 ) の七夕に、 じていろいろな様式を生じ、それがその時代のいけ花の名称として民俗のなかでとらえられ、そこに花の生命に対する強 しよう 1 」いんみちもと しようれんいんのみやたかみち あしかがよしみつ 北山の足利義満邸に青蓮院宮尊道親王や聖護院道基以下多 となっている場合が多いしレ 、ナ花の初期は「たてはな」とい い関心が注がれた。花見が本来、ムラのその年における農作 なわしろみなくち りつか 、それが江戸初期に様式を完成させて「立花」の形式を生物の吉凶を判断する予祝行事だったことも、また苗代の水口くが集合、七種の花の瓶に挿したものを競べ合わせ、賞品に かんもんぎよき こそで ) 、すこう 小袖を贈ったとある。また後崇光院の『看聞御記』「 むと、立花が当時のいけ花の名称となった。また茶の湯の流 に花を挿して田の神を祭る行事のあることも、花の活霊に対 行により茶室の花が生まれると、単に「花」とよび、「お花」する神秘畏敬の念の表れであり、こうした感覚が花の生命を四一六年 ( 応永二三 ) から四三年 ( 嘉吉三 ) にわたって毎年 なげいれ やがて一回限りの花の生命をひ七夕法楽の記事がみえる。その座敷飾りの室礼にはかなりの などという呼び名もここからおこった。江戸時代に「抛入凝視する日本人の心を培い、 つわ 花」が愛好され、やがて「生花」を生むようになる。生花ときわ高揚させようとするいけ花を生む精神的土壌となって技巧を凝らしたことが記されている。それは常の御所を会所 はながた として座敷を飾り、日ごろ出入りの廷臣や僧俗が種々の花器 は、江戸中期ごろからおこった天地人三才格の花型をもつい きこうでん に入れて献上した花を置き並べ、そこで乞巧奠にふさわしく しかし、呪術や信仰のうえでの植物の扱いは、依代の樹木 け花様式の一つだが、その広範な普及によって、いけ花がい つか一般的な名称のように用いられ、今日に至っている。江であろうと、供える花であろうと、自然の状態のままの花や和歌の会を催し音楽を奏するものであった。こうした七夕の 戸時代には「瓶花」「挿花」「活花」などの字をあてて「いけ枝を切ったり採ったりするにとどまり、そこに人工的改変を花献上の習俗は、有力な公家や将軍家、守護大名の間にも広 かどう ばな」とよぶ場合も多く、また別に「花道」といった呼び名加えられることはないが、花を好みの場に移して生かし育てまり、また献上者間に競争意識が働き、珍しい花器を求め、 もおこるようになった。明治以後「盛り花」「投入れ」様式ることについては、古代貴族の屋敷内に花園をつくることで花の形も考えるというくふうが凝らされ、かっその技法に長 が新しく生まれると、それとの区別の必要からも、生花をまず現れた。いわゆる庭の前栽として植え込みをつくり、そじた専門家も出現するようになった。 〔いけ花の誕生〕こうした風潮のなかで、挿花の風が室内装 うした前栽の花を前に、貴人の邸宅で酒宴を張り歌を詠むこ 「せ、か」「しようか」とよんでいけ花様式の一つとし、 花が一般総称として用いられるようになった。いけ花の近代とが盛んに行われ、それはやがて瓶に花を切って挿すという飾としてさらに重きをなすに至ったのは、床の間の発生であ 、つらん まくらのそうし 化に伴い、盛り花、投入れから「自由花」「現代花」が派生鑑賞へと移行する。『枕草子』には、「勾欄のもとに青きかめる。日本に床の間が発生するのはおよそ一五世紀ごろと推定 される。南北朝から室町時代にかけて中国絵画がおびただし の大いなる据ゑて、桜のいみじくもおもしろき枝の五尺ばか し、第二次世界大戦後には「前衛いけ花」が生まれるなど、 いけ花は多様な様式の歴史を展開している。いけ花は、そのりなるを、いとおほくさしたれば」とある。一方、仏教信仰く流入し、これが珍重され、これらの絵画のほとんどが軸物 形式の成立は、室町時代の座敷飾りの室礼から発展したものが上流貴族に受け入れられてきたのと並行して、仏前の供花であったところから、これを掛けて鑑賞する施設として床は くんだいかんそうちょうき へいしつば だが、これが確立する前提としては、日本人の花に対する感を瓶子や壺や皿などに挿して献ずる風が一般化し、また寺僧発生した。一五世紀の終わりごろの『君台観左右帳記』は、 からえからもの の勤めとしてシキミやハスの花などを挿し供える仏前供養の室町時代の唐絵や唐物、器物の鑑賞と座敷飾り方式を述べた 覚の系譜というべきものをたどる必要がある。 献供の作法も入り、日本人と植物とのかかわり方は、日本人秘伝書だが、これによると、正式な床の飾り方式として三具 いけ花の歴史 本来の民俗信仰行事を受けつつも仏教的な潤色が加えられ、足を掛軸の前に置くことになっている。すなわち、三幅一 対、五幅一対の掛軸の前に卓を置き、その上に向かって右に 〔いけ花以前〕祭りにはかならず木を立てるということが、屋外から屋内の花へ、さらには美しく加工が施されるといっ しよくだい 燭台、中央に香炉や香合、左に花瓶を置くのが定式となっ 日本の民俗信仰に一貫して流れている特徴である。神霊が樹た過程をたどるのである。 しよう - ん よりしろ あもり 積極的に美しい花をつくりだそうとする傾向を促したものていた。この方式は仏前荘厳の飾り方式を踏襲したもので、 木に天降すると考えたからだ。樹木は神の依代である。樹齢 ものあわせ うたあわせ かいあわせくさあわせ 、歌合から派生したともいえる貝合、草合などの物合のそこに床の間のもっ儀式的機能をみることができるが、一 なを重ね大空にそびえ立つ大本などは、そのままで神霊のより そう かき やしろ はなあわせ つくかっこうな神の依代と考えられた。そこに社、すなわち一類としての花合があった。当時中国宋代の花卉園芸の影方、床の間は美術鑑賞の機能もあわせもっところから、略式 になるほど娯楽鑑賞の側面が強調され、そこではいけ花が鑑 け神社ができた。また神への祈願として、松や杉や榊など色の響もあって、園芸が平安時代の公家生活のたしなみ事とさ ときわぎ 、変わらない常磐木を選び、これを地上に直立させることによれ、品種の多様化とともに葉を摘んだり枝を整えたりという賞の花として重きをなすようになる。 しつらい 亠こかき 175
ど 位さ リング紡績機などにより大量生産化と均一な品 うな意味で、人間の心理も、意識的に統制するに浸透するが、地下に水を通しにくいか通さな ちみつ 単き 質の糸を生産した。また日本では西欧の技術に ことのできない未知の力によって規定されてい い緻密な地層 ( 不透水層 ) があると、それに遮 4 手大 がうんたっち されき かんげき 番の 依存せずに、臥雲辰致によりガラ紡 ( 和紡績 ) ることを表すために、イドという用語が使われられて水がたまり、砂礫などの間隙が水で満た が発明されている。さらに化学繊維・合成繊維る。その意味では、生得的な衝動のようなものされて地下水面が形成される。そして水は地中 0- 0 さ E 0 の発明は、絹にかわる繊条糸を生み出し、飛躍である。 を高所から低所に向かって移動する。この地下 かんよう の 的発展によって近代繊維工業は確立した。現在 フロイトの初期の理論によれば、心は一つの水面は涵養量と流出量との関係によって自由に 位 では綿花から糸まで生産が連続している一貫連装置のようなものと考えられ、この装置は、無昇降しうるので、自由面地下水または不圧地下 続処理装置が完成し、製造設備の合理化と更新意識、前意識、意識という三つの系からっくり 水という。これに対し不透水層の下の地層内の への道を歩んでいる。 あげられているものと考えられる。後期 ( 一九地下水は、上流で降水や湖や川からの流入を受 糸の撚りは、その性能を維持するため適度の 二〇年以降 ) になると、心の装置は、イド、自 けて地層の傾斜に沿って流下し、不透水層に抑 方位 撚り回数が必要である。撚り方向は右 ( ) 撚我、超自我という三つの系からなるものと考え え込まれた形で存在している。したがって不透 りと左 ( N ) 撚りに分けられるが、繊維の種類られる。無意識、前意識、意識はイド、自我、水層に孔 ( 井戸 ) をあけると、この地下水は井 の号 や製織、仕上げ方法の違いによって一定してい ニ = ロ 超自我とそれぞれ対応するものではないが、イ戸内に上昇してくる。このような地下水を被圧 手 番 ない。原始的手紡法では地域的に統一した方向ドは、おおむね無意識に対応するものとみなす地下水という。井戸地点の地面高以上に水面が 手手手手 ス 番番番番 番考 をとるが、日本では右撚りが弥生時代からの特 ことができる。初期の考えでは、意識される上昇する場合には自噴する。涵養水量に比べて スル 手手毛参 ク 番番梳 ( ッ ュ 徴であったが、近代的機械紡績では一般に左撚か、されないかということが抑圧の概念を中心 取水量が増すと水圧が低下し、やがて自噴を停 工 メ綿麻英 りのものが多い。撚り回数は、織物の強伸度や 方 にして現象論的に考えられているが、後期にな止する。 手 風合いとも関係するので、普通糸の太さに応じると、生物学的、発生的に、まずイドが仮定さ 自由面地下水の水面は平野部では一般に浅く 恒長式 恒重式 て決められるが、特殊なメリャス糸などには撚れ、そこから自我や超自我が分化してくるもの地表面下数 ~ 十数にあり、比較的容易に汲み りの少ない甘撚り糸、縮緬などには強撚糸 ( こ と考えられるようになっている。この意味で出せるので古代から広く利用されてきた。これ わより糸 ) を使う。この撚りを単糸にかけたも は、無意識とイドとはまったく異なる考え方に を浅井戸という。これに対し深井戸は、一般に もろ のが片撚り糸で、いく本も撚り合わせると諸撚由来するといわなければならない。精神分析を被圧地下水を汲み出すものをさす ( 図 < ・ n)0 り糸となる。またその撚りかけの順序によっ生物学的でなく心理学的に考えようとする人〔自由面地下水の取水〕浅井戸には垂直井戸と した うわ て、下撚り、上撚りと区別している。 は、イドを生物学的な意味でなく、言語学的に 水平井戸とがある。垂直井戸は地下水面の下ま 亠 糸の太さは、一定の重量または長さを標準と考えようとしている。↓精神分析〈外林大作〉で縦に穴を掘ったもので、大口径に掘り下げた ろ して決められているが、糸の種類や慣習的事情井戸いど well 地下から用水などを汲みものを筒井戸、鉄管を打ち込むなど細いものを の により異なる。①恒重式による番手は、おもに出すために掘った穴。古くは水を汲み取る所管井戸という。地下水を井の底面から流入させ 6 ゅうせん 糸 綿糸、化繊糸などに使われ、標準重量に対する ( 湧泉や川辺 ) を井または井戸と総称したが、 る開端井戸では底面に、また井の下部の周囲か 糸の単位長をその糸の番手としている。たとえ現在では撼井一尸のことをさす。地中に求める資ら流入させる閉端井戸では周囲に、濾過の目的 市糸糸 ば重さ一ポンド ( 約〇・四五キ。 ) で長さ八四〇源によって水井戸、温泉井戸、石油井戸、天然で砂利や砂を敷き詰める。水はつるべ、手押し ププ糸 ン ラ , ・奈糸旋糸糸 ャード ( 約七六 ) の糸を一番手とし、同じガス井戸などがあり、また使用目的により生産や電動のポンプを用いて、また風車や畜力を利 螺壁も杢 糸ノス《輪鎖 重量で一六八〇ャードの糸は二番手となり、番井、還元井 ( 注水井 ) 、観測井などがあるが、 用して汲み上げる。井戸は地下水位の低下して ているが、糸を材料として網、編物、織物へ発手数が多くなると糸は細くなる。毛糸、麻糸でここでは日本の水井一尸を中心に記述する。 いる時期に掘削し、井壁は土の崩落を防ぐため 展するためには、さらに紡績技術の向上と製織は、この標準重量、単位長が異なる。②恒長式 地下水は飲用水源としての量的安定性と水質古くは石または木材、最近はコンクリート管で がわ いづっ 技術が導入されねばならなかった。ニューギニ によるデニールは、おもに長繊維の生糸、ナイの良好さの点で河川水や天水よりも一般に優れ保護する。これを井戸側 ( 井筒 ) と、 しし、地上 わ ア高地人のように、現在なお編物文化しかもた ロンなどに使われ、標準長の重量中に含まれるているので、人々は古くから地下水が湧き出た部の囲いを井権という。井筒の外側と井桁の周 ない種族も、まだ世界各地にみられる。日本で単位重量の数値で表す。たとえば標準長四五〇泉に依存して生活を営んだ。泉は地下水流の自囲は、地表からの汚水の浸透を防ぐため粘土や は、紡錘を台上でこすり合わせ回転を与える で単位重量〇・〇五のものを一デニールと然露頭であり、扇状地の末端や段丘、山腹、モルタルで締め固める。 ふもと 「手すりつむ」が、古代から中世にかけて一般するので、九〇〇〇の重量をグラムで表す数火山の麓など特定の地形の所にしか存在しな 砂地、扇状地、段丘などでは不透水層の位 〈角山幸洋〉 に行われたが、中世末には中国から紡車が舶載値がデニールとなる。 。のちに平野部への農耕定住と水汲み労働の置、したがって地下水面が深く、地表面から数 ちりめん ラテ フロイトの精神分析の用語。 軽減のため、自然の泉に恵まれない地からも土十も掘ってやっと水を得られる事例も多い されて紡績の能率は著しく向上し、また縮緬のイド id きようねんし ための強撚糸をつくる撚糸八丁車も幕末には ドイツ語の非人称代名詞のエス Es が英語にを掘って水を得る知恵が生まれた。丸太をくり平安時代には崩れやすい表層を広く掘り下げた くばち 発明された。蚕糸は長繊維であるため撚りをか翻訳されるとき、ラテン語のイドを使用したたぬいて地中に埋めた井戸が、弥生時代の遺跡か うえ地の底から垂直に孔をうがつなどの方法 ける必要はなかったが、近世にはすべて一定のめ、一般に使われるようになった ()s は英語 らみいだされている。奈良時代になると、地形で地表から十数の井戸を掘っている。戦国時 撚りがかけられることになり、独特の光沢を増の it にあたる ) 。外国語の非人称代名詞は、 判断と掘井戸の技術は仏教僧によっても広めら代の城も小高い要害の地ほど深い井戸が掘られ 加させた。一八世紀後半に始まる産業革命は、 しばしば自然を支配する非人格な力を表すものれた。 ており、水を得る苦労がしのばれる。 紡績機械に画期的発明をもたらし、ミュール・ であるが ( たとえば it rains) 、これと同じよ 〔地下水の存在形態と井戸〕雨水の一部は地中 中近東など乾燥地帯で紀一兀前から発達した井 9000 m kg 29029 1000 1 開 0 29029m km kg 453.59 g 274.34m 453.59 g 1 0 くるま 768. 1 m 453.59 453.59 768.1 274.34 やよい
式 したり、京都鳥羽の勝光明院の造仏にあたっ 人に認識しえた事情および行為者が現に認識し生活のものとはすこしずれる。 ていた事情を基礎とする折衷説がそれである。 さて、日常生活で、二つの事象、の間にて、西院邦恒堂の定朝作の像を仏像の模範であ 0 開 右の諸説のうち、学説上は、相当説が通説で因果関係を認めるようになるのは、が生じたるとして、弟院朝とともに、その寸法を細かく あり、そのうち折衷説が多数を占めている。こ のちが生ずるということが繰り返し観察され測定するなど、定朝の作風にあこがれ、研究し陣式 射 6 6 戸 . ー -4 ・ 4 れに対して、民事判例においては相当説の立場たのちであることが多い。しかし、このようなていたようである。法金剛院の像にも、そうし 点密一 が採用されているが、刑事判例では、下級審に 繰り返しがあったからといって、将来もに続た傾向がはっきりと表れている。〈佐藤昭夫〉 火 ・田・田 ・田 は相当説によるものも多いが、最高裁は基本的 してがおこると期待できるかといえば、かな 陰核いんかく女性外陰部 ( 外生殖器 ) の引 テ ルン・〕曲一 には条件説的立場によっていると考えられる。 らずしもそうではないことは、よく経験されて細い割れ目、すなわち陰裂の前縁を囲む位置に ドシン一ダ なお、近年、公害などその詳細なメカニズムが いるところである。ここから、現在は確立されあり、男性の陰茎に相当する。左右の恥骨下枝製製リエ油ンマピタン 油由ソ油油スヒ質一一 科学的に解明されていない事案に関して「疫学ているようにみえる因果関係も、将来の経験に にそれそれ付着する、長さ三 ~ 四の小円柱状石石ガ行炉ガス軽タモシ の陰核脚 ( 陰核海綿体 ) が前方で合して逆 > 字 的因果関係」、すなわち、疫学上の統計的手法よって破られるおそれがあるのではないかとい がいぜん 定には密閉式法と開放式法の二法があるが、前 に従い、行為と結果との間に一定の蓋然性が認われることがある。とくに一八世紀イギリスの形をつくる。先端部は陰核体で、その先端は小 きとう められれば足りるとする考え方がみられる。し哲学者ヒュームがこのことを指摘したので有名隆起の陰核亀頭となり、この部分の外面は陰核者は引火点の低いものについて用いられる。こ れは、黄銅の容器に試料を入れて加熱し、とき かし、このような疫学的因果関係論についてである。統計学は、この指摘を受け入れ、因果包皮に覆われているが、知覚性神経終末が多く せん は、損害の公平な分担を目的とする民事事件に関係を相関関係に置き換えたうえで、相関関係分布している。陰核包皮には粘液腺、脂腺もあおり蓋をあけて小炎を近づけて炎の発生を調べ ついては支持する者も多いが、刑事事件に関しの推定も絶対に正確ではないとし、さらにこのる。陰核は性的興奮によって海綿体組織の充血る。潤滑油のように引火点の高いものでは開放 〈嶋井和世〉式の装置が用いられる。↓燃焼〈山崎昶〉 を生じ、勃起する。 ては「疑わしきは被告人の利益」という基本原推定の精度をなるべく高めることを目ざしてい しやしんいんがし 則に反するとして批判が強い。 〈名和鉄郎〉るといえる。このように、因果関係をめぐって インカーネーション incarnation 神が 印画紙いんがし <> 写真印画紙 いんかしよくぶつ花をつけないで人間の形をとること。「肉体化」を意味するラ 〔哲学〕ヨーロッパ流の原因と結果の関係をい は種々な立場から哲学的な議論が行われてい隠花植物 テン語インカルナーティオーに由来する。受 うが、原因・結果の概念は日常生活でもよく使る。 〈吉田夏彦〉胞子で繁殖する植物の総称。リンネ C. von われているものであり、改めて解説するには及インカ裂ーーぎれ南アメリカのエクアド Linnéが「植物の種』 ( 一七五三 ) で植物界を二四肉、託身ともいう。神が一時的に人間の姿に変 、。ただし、哲学者のなかには、この概念 ルからチリ中部にかけての海岸地帯は、フンポ綱に分類し、そのなかでシダ類、コケ類、藻わることとは区別される。インカーネーション の思想は種々の宗教のなかにみられるが、とり の使い方に制限を付け加える者があるので、ま ルト寒流の北上によって砂漠化が進み、このア類、菌類を一つにまとめて隠花植物とした。の さんみ ずその点を紹介する。右手をあげようと思えば ンデス地帯で生活する人たちの死体埋葬の風習ちにフランスの植物学者プロニャール A. T. わけキリスト教では、三位一体の第二位格であ 普通は右手があがるし、また空腹になればいら は、それに伴い多量の副葬品の保存に役だって Brongniart が植物界を花の有無で大別し、花る子が、イエスにおいて人間として歴史に現れ たことを意味し、基本的な教理となっている。 いらすることも多い。このように、精神の状態きた。この出土染織遺品をインカ裂またはプをつけるものを顕花植物、花のないものを隠花 が原因となって身体の運動が結果し、また逆に レ・インカ裂とよぶ。インカ帝国成立 ( 一三世植物にまとめた。隠花植物は胞子で繁殖し、維ここには、イエスは「真の人」であり、「真の 身体の状態が原因となって精神の状態の変化が 紀 ) 以後のものだけでなく、紀元前四、五千年管束のない簡単な体制をもつが、系統発生上は神」であるという逆説が含まれる。この教理の を 4 / 、い・ん 結果することは、普通はあたりまえのことと考のものから、スペイン征服 ( 一五四三 ) 以後のもの異なる分類群なので、普通これを葉状植物、コ主要な聖書的根拠である「ヨハネ伝福音書」 えられている。しかし、古典物理学では、物体まで含まれる。染織種類は豊富で、旧大陸で知ケ植物、シダ植物に分けて扱う。葉状植物は生 ( 一章一四 ) は、世界に先だって存在し、神の ちゅうはしゃ られなかった織物組織のものさえある。おもな殖器官が単細胞で、その外側を栄養細胞が囲ん世界創造に仲保者として関与し、永遠の命をも の運動を記述するときに精神に言及することは シダ植物には維管束がよく発達したち、神ともよばれる「一司 ( ロゴス ) が肉体とな なく、すべて物質に関する概念だけを用いてこ 服装形態は、貫頭型のポンチョ、キルト風の腰でいない。 の記述を行う。ここから、物体の一種である身衣、肩掛け袋、手提げ袋など。繊維材料はラク茎と葉があり、無性世代が優勢である。コケ植った」と宣言している。こうしてイエスは神と 体の運動もまったく物質的なものであり、したダ科のアルバカと木綿で、これを適切に交織さ物は有性世代がよく発達し、生殖器官は多細胞してのロゴスの受肉者であり、神の完全な啓一小 がって心身の間に因果関係を認めるのは間違い せたが、簡単な原始機で組織を丹念に拾いながで、茎と葉の分化は小さい。このように隠花植者であるが、人間に対する神の救済的意志の啓 だとする考えが生まれる。この考えを奉ずる哲ら、時間を問題とせず複雑な組織を完成させ物は種子をつくらない植物群の人為的分類に基示は十字架と復活に至るイエスのできごと全体 において与えられるので、受肉の教理はそのす づいたものであり、現在の分類学上ではほとん 学者にとっては、先ほど例にあげた心身の相関た。とくに装飾化された文様と鮮明な色調は、 〈川島貞雄〉 〈杉山明子〉 べてにかかわる。 を、因果の概念を使わずに説明するには、どう 近代の人たちに驚嘆を与えている。〈角山幸洋〉ど用いられていない。 ー・・・びじゅっ南アメリカ中央 したらよいかという問題が生ずる。これが心身院覚いんかく生没年不詳。一二世紀のな 引火点いんかてん flash point 揮発性のインカ美術 のアンデス地方に、一五世紀から一六世紀初め かばごろに活躍した院派の仏師。院助の子また液体や固体から発生する蒸気の圧力が、周囲の 問題の一つの発端である。 にかけて栄えたインカ帝国が開花させたインカ よく、自然科学では、変化や運動を支配するは弟子ともいわれ、院派、すなわち七条大宮仏空気と可燃性の混合気体をつくるまでに高まる 法則を微分方程式の形で与える。このとき、初所の主宰者として、これを隆盛に導いた。京都と、火を近づけることによって発火する。この文明の美術。ただしこのインカ美術は、二〇〇 あみだによらい ときの最低温度を引火点という。さらに昇温を〇年にも及ぶ古代アンデスの先行文化の帰結と 期条件が決まればすべての時刻における状態が法金剛院の阿弥陀如来座像は、文献からみて、 もいえるので、一般にインカを最後とする古代 ひ決まることが多いので、初期条件を原因、注目一一三〇年 ( 大治五 ) に彼がつくったものと推続けると、火を近づけたときに連続して燃焼が 力している時刻における状態を結果ということが定される。現存する彼の作品はこれだけだが、 おこる温度となるが、これは燃焼点とよんで引アンデス美術を、インカ美術とよんでいる。 んあるが、この初期条件は末来の時刻のものでも当時の記録には彼の作が数多く記されている。火点とは区別する。つまり引火点では、点火用〔インカ文明以前の美術〕アンデス高地のあち じようちょ - っ こちの岩や洞穴に、氷河時代後期のものと思わ 7 よいので、この際の原因・結果の概念は、日常また彼は平等院本堂の仏像を定朝の作と鑑定の炎を除くと燃焼はやんでしまう。引火点の測 ばた ばっき ふた 38 ~ 74 93 188 204 232 279
ーエンシュタウフェン家の没落とともに、シチ ー文学の所産ともいうべき近代小説は十分に発 て、教会の権威を感覚的に訴えようとするものイタリア文学—・ぶんがく リア派の詩人たちも四散して、彼らの詩法は北 達しなかった。政治面においても列強との遅れ であった。なお彫刻家としてもこの時代を代表 イタリアに広まり、ポローニヤ派の詩人たちと を取り戻すために急激な近代化を図ったファシ 「イタリア文学の特徴」 するべルニーニの作品には、感情表現の強調に 、スム期において、イタリア・プルジョアジー文微妙に影響しあって、トスカナ地方に「清新 「イタリア文学の歩み〕中世からルネサン 伴う技巧の過剰が否めない。 ス期の文学 / 古典主義からロマン主義学は一定の発達を遂げつつあった。しかしこれ体」派を生み出した。その代表的詩人がフィレ 一七世紀の絵画は、当時ともにローマに居住 ンツェ市国のダンテ・アリギエーリである。彼 していたカラバッジョとアンニバーレ・カラッ を打ち砕いたのが、政治的には反ファシズムの へ / 近代文学から現代文学へ 国民運動であり、文学的にはネオレアリズモでは散文に叙情詩を混交させ、『新生』 ( 一元三 - チに代表される。迫力のある人物表現と人工的 イタリア文学の特徴 あった。それゆえ、第二次世界大戦後イタリアを著して、「愛」をめぐる新しい詩的地平が開 な光で特徴づけられるカラバッジョの誇張され かれたことを告げ、これを中世神学の宇宙観と た自然主義は、海外まで影響力をもつに至っ イタリア半島は地中海世界のほば中央に位置文学の基調は反。フルジョアジーの文学であり、 こまとめ 合体させて、俗語による壮大な叙事詩。 た。一方ラファェッ口に強く感化されていた力し、紀元前には南部およびシチリア島を中心に 反小説であり、責務の文学である。ネオレアリ さんみ ズモ文学の基盤が叙事・叙情の手法にあったこあげたのである。三位一体説に基づき、地獄・ ラッチは、よりアカデミックな画法によってド多数のギリシア植民市を擁し、いわゆるマーニ とは、古典文学の伝統を受け継ぐ現代イタリア煉獄・天国の三界を、三行韻詩によって遍歴し メニキーノやグイド・レーニを育成している。 ヤ・グレーチャ ( 大ギリシア ) の文明を築いた てゆくこの作品のなかで、生きながら地獄の底 紀元後には、キリスト教を基盤にローマ人が強文学の特徴を明確に表しているであろう。 〔近・現代〕一八世紀中期からイタリアでは、 を旅する詩人ダンテの導者は、ラテン世界最高 バロックに対する反動としての新古典主義の胎固なラテン文化を繁栄させ、長く東西両世界の イタリア文学の歩み の詩人ウエルギリウスである。ウエルギリウス 動が始まる。ポンペイの発掘やローマ滞在中の中心となった。このようにして前八世紀から紀 は北イタリアのマントバ近郊に生まれ、ギリシ ウインケルマンやメングスの活動に刺激され、元後一二世紀までの二〇〇〇年間にわたり、古〔中世からルネサンス期の文学〕文章語とし 古典美術に規範を求めて、それに準拠しようと代ギリシア文学とローマ文学の流れを直接に受て、また公用語として、もつばらラテン語が使アに旅して、ナポリに埋葬された。ダンテは自 らを、ギリシアのホメロス、ラテンのウエルギ する新傾向である。イタリアにおいてこの傾向け継いだイタリア文学は、それゆえ、他の諸国われていた中世末期において、イタリア語によ リウスの叙事詩的伝統を受け継ぐ者とし、さら に比べて、ヨーロッパ古典文学の正統を守り、 る最初の文学的表現は、一人の革新的な宗教者 に同調し、それにふさわしい才能を発揮したの にこれを超克したイタリア語の詩人として自負 によってなされた。アッシジの聖者フランチェ は彫刻家カノーバである。ロマンチシズムはイつねに古典への回帰を図ってきた。俗語によっ している。しかも、天国へ向かうダンテの最後 スコの『被創造物の歌』 ( 一一一一一四 / 一一五 ) である。 タリアにはほとんど浸透しなかったが、一九世て古代ギリシア精神の再生を目ざしたルネサン ス期のイタリア文学はその代表的な例であり、教皇を中心とする正統の説教者たちー・・・・・彼らはの導き手は、「愛」の化身であるべアトリーチ 紀においては象徴的な風景画で知られるセガン に対して、あェであった。 つねにラテン語を用いていた ティーニとマッキアイオーロ macchiaiolo ( 点その後も、たとえば一九世紀前半のアルフィエ 中世神学を締めくくったダンテの文学が本質 えてイタリア俗語による布教活動を行った清貧 ーリにおいて、あるいはザンテ島生まれのフォ 描派 ) とよばれる一群の画家たちのみが、ヨー の宗教者は、聖者に列せられなければ異端の徒的に過去へのまなざしを内蔵していたのにひき スコロにおいて、さらに一九世紀後半のシチリ ロツ。ハ的水準に達する作品を残している。 かえ、ほとんど同時代に生きながら、フランチ に転落させられかねない危険な立場に置かれ、 イタリアの現代美術の先駆をなしたのは一九ア島出身の小説家ベルガの場合にも、さらにま た一九五九年度ノー・ヘル文学賞を受けた抵抗詩文学に依拠したのである。やがてそれから一世エスコ・ベトラルカもジョバンニ・ポッカチオ 一〇 ~ 二〇年に展開されたディナミズモ dina ・ mismo を信条とする未来派運動と、キリコに人クアジーモドの場合にも、つねに古典文学へ紀を経ぬうちに、俗語による「神曲』を著しても、「愛」に対する考えをーー前者にあっては けいじじよう よって創始されたいわゆる「形而上絵画」であの復帰が唱えられ、その再生が前衛的な手法のダンテが教皇庁の腐敗を鋭く批判してゆく芽ラウラが、後者にあってはフィアンメッタが存 在するとはいえーー・ー一転させて、近代へ向かっ は、すでにここに胚胎していたと考えてよい る。モランディの質朴にして高雅な、そしてモ下敷きになった。 ところで、一三世紀初頭に、俗語文学は早くて大きく進み出た。ダンテにおいては「愛」の 周知のように、古代ギリシア、ローマ文学の ディリアニの感受性豊かな絵画表現については ぜいげん 寓意である・ヘアトリーチェはつねに天上の光と 贅一言を要しない。二〇世紀後半のイタリアの美基調をなしたのは叙事詩であり、かっ叙情詩でもイタリアの北部において盛んに流布してい 一体化するが、ベトラルカの叙情詩におけるラ 術家たちは、写実から抽象に至るあらゆる領域ある。それゆえイタリア文学の流れも、まず叙た。そして吟遊詩人たちがオイル語やオック語 タンテ、ポッカの文学をしきりに北イタリアの諸都市にもたらウラは、むしろ失われた光を嘆いている。まし で活躍しているが、彫刻家マリノ・マリーニと事詩を基軸に展開していった。、、 していた。そのころ、シチリア島パレルモに宮てやフィアンメッタ ( 「小さな炎」の意味もあ マンズーはともに叙情味の濃い素朴な表現をもチオ、アリオスト、タッソなどというヨーロッ ハ文学最大の詩人たちの営為はこの系列に属し廷をもっホーエンシュタウフェン家のフェデリる ) は、ポッカチオの肉欲を焼く業火にほかな って、現代の巨匠としてそれそれ独自の境地を らない。そしてポッカチオの大作『デカメロ ーコ二世は、各地から文才に富む人材を集め、 示している。建築はファシズム時代、わすかのている。またベトラルカを頂点とする叙情詩の ン』 ( 一三四九 ~ 五一こしは『神曲』と同じように完 世界は、二〇世紀に至るまで、イタリアの詩人プロバンスの恋愛詩を積極的に取り入れたの 例外 ( ジョバンニ・ミケルッチ、ジョバンニ ばっ・一う 全数一〇の二乗すなわち一〇〇にこだわり、十 ポンティ ) を除き事大主義によって禁圧されたや小説家たちの思索と表現の母体になってきで、ここにシチリア派が勃興した。フェデリー 彼の真日百話の体裁をとってはいるが、主題の「愛」 コ二世自らも優れた俗語詩を表したが、 , が、その後、環境と機能を重視するイタリアのた。そして叙事詩にせよ叙情詩にせよ、イタリ が〕しレっ の意図は、ラテン文化の牙城である教皇庁に向は絶対的なものではなく、すでに「愛」と 伝統に、現代感覚を織り込んだ建築活動が盛んア文学の表現の核心をなしたのは、端的にいっ たいじ 「運」と「才」に分割されて、近代小説の心理 〈濱谷勝也〉て、「愛」にまつわる思索であった。一方、フかって新しい文化を対峙させることにあった、 に進められている。 ノチリア派の宮廷詩人たの世界を描き出しつつあった。そしてポッカチ ランス、イギリスなどいわゆるヨーロッパ列強 と考えねばならない、、 回『原色世界の美術 3 ・ 4 イタリア 1 ・ 2 』 ひわい 諸国よりも遅れて近代国家の統一を果たしたがちのなかには、たとえばソネット ( 十四行詩 ) オの描く地上の、むしろ卑猥で、辛辣で、日常 あ ( 一〈〈〈・小学館 ) ▽ R. salvini 】 Li ミミミ 的な俗世界は、人間個体に基礎を置くルネサン の創始者といわれるジャコモ・ダ・レンティー storia ミ ( 196 分 Firenze) ▽ G. ために、中世都市国家の形態を遅くまで残存さ 彼らの主ス精神と相まって、フランコ・サッケッティ、 C. Argan 】 S 、 0 一ミ e 7 きロ 973 , せたイタリアは、文学の面においても、ある種ニのような卓抜な人材が輩出したが、 , の遅れを近代に生じた。すなわち、プルジョアジ題は「愛」をめぐる論争であった。しかし、ホマッテーオ・バンデッロなどの短編物語の系譜 3 Firenze) れんごく しんらっ
いんど ・。癶イ ・をを些を物ヤい 5 AUSÅDHÅL ⑧オリッサ州フリ , ジャガ ンナート寺院のラタ・ジャ トフ不。神像を乗せた巨 大な山車 3 台が巡行する通 りには , インド中から集ま ったヒンドウー教徒がひし ーめき , すさましい熱狂ふり を示す ⑨タミル・ナド州マハバリ フラムの彫刻学校 ⑩カルカッタのシアルダー 駅付近 . アチャルヤ・ジャ ガディッシュ通りの雑踏 教に属する不可触民を含んでいない。カースト は理念上はヒンドウーだけのものであるが、多 かれ少なかれほかの宗教にも類似のものがみら れる。↓カースト 〔民族〕インドの各州は一九五〇年代からは言 語別に構成されそれそれの公用語をもってい る。ヒンディー語だけは六つの州で用いられて いる。言語が違うそれぞれの集団を民族と考え ることができる。つまりインドは多民族社会、 多民族国家である。 インド社会を構成する要素はこのように複雑 であるが、その中身は政治的、経済的な動きを 反映して変化しつつあるのであり、これを固定 的なものとみてはならない このような複雑さ をもつインドの社会が一つにまとまりうるもの であるかどうかは大きな問題であるが、政治と 宗教の分離、諸民族と諸一一一口語の平等、政治・経 済・社会の各分野にわたる民主化によって可能 になると思われるし、インド国内でも多くの 人々がそれを望んでいる。 〔住民・言語〕インドでは一〇年ごとに国勢調 査を行っている。最新の一九八一年の国勢調査 の数字によると、人口は六億八四〇〇万人であ る。出生率は少しずつ低下しているが、死亡率 も同様に低下しているため人口増加率は高く、 前回の七一年の国勢調査からの一〇年間で、二 五 % 、一億三七〇〇万人の増加を記録してい 二二の州の間の人口規模の差は非常に大き 一億を超えるウッタル・プラデシュ州をは じめ、一〇〇〇万人以上の州が一五ある反面 で、二〇〇万人末満が四州ある ( 表 1 ) 。憲法 には、一〇〇〇万人以上の州の公用語となって いる一一の言語、すなわちヒンディー語、マラ 一丁ィーー五ロ、・ ヘンガル五、テルグ五ロ、タミル 語、カンナダ語、グジャラート語、オーリャー 語、マラヤーラム語、アッサム語、。、 ノンジャー プ語に、広くムスリムの間で用いられるウルド ゥー踝ジャム・カシミール州の公用語力シミ ール語、現在パキスタンに属するシンド州から のヒンドウー難民が用いるシンド語、古典語の サンスクリットを加えた一五語の尊重がうたわ れている。州が一言語別に構成されているといっ ても、州の区画と住民の一一一口語的な区分は一致し ないので、各州はそれそれ少数一一一一口語集団をいく つも含み、それそれが多かれ少なかれ多民族的 構成になっている。したがって、州の人口とそ 7
イ らなる社会をもっていたと推定できる。↓イン神族が合体し、宇宙秩序の維持のために三種の よ る紀 ド・ヨーロッパ語族↓インド・ヨーロッパ諸族機能神が協力しあうという体制ができあがった 乗世 ど 〈板橋作美〉 と信じられた。この構造は、アース神族とバン ん神話 ル神族の戦闘を物語ったゲルマン神話にとくに インド・ヨーロッパ諸族神話 ラ窟 そくしんわインド・ヨーロッパ諸族は、人間のよく保存されている。またインド・ヨーロッパ イ 社会が、①王を含む司祭たち、②戦士、③これ諸族は、以上の三種の機能神のほかに、三種の あが の窟 ら二種の支配者に服属して食糧と富の生産に従機能のすべてに関与する神威広大な大女神も崇 , 、ウ石 事する庶民、の三階級で構成されると考え、こめている。この多機能的大女神の性格は、河水 ャ の構成に対応する三種の原理あるいはカの協同の神格化された存在としてインドのサラスパテ ィーと、イランのアナーヒター両女神にもっと が、宇宙の運行のためにも不可欠と信じてい 〈吉田敦彦〉 もよく伝えられている。 た。その根強い観念によって、インド・ヨーロ 金彫 ハ諸族の神話は支えられ、また組み立てられ回吉田敦彦編著『比較神話学の現在ーーデュメ 一学 ラの ている。このことを発見したのは、フランスの ジルとその影響』 ( 一九七五・朝日出版社 ) ▽ジ ンド ヨルジュ・デュメジル著、松村一夫訳『ゲル 比較神話学者一丁ュメジル Georges Dumézil ) で、インド・ヨーロッパ諸族神 マン人の神々』 ( 一九含・日本プリタニカ ) 心事であり、食べ物と祭事の縁も非常に深い 話の基本を形成しているこの三分的世界観をインドラ lndra 古代インドの武勇神、英神の一つとなって東方の守護に任じた彼は、仏 たいしやくてん しやくだいかんいん しいてインド料理の特徴をまとめれば、ます 「三機能体系」とも「三部イデオロギー」とも雄神。古くはイラン、小アジア、メソボタミア教に入ると釈提桓因、あるいは帝釈天とよば 〈原実〉香辛料を調味の主役とした、いわゆるカレー料 名づけ、その三種の身分の役割に対応する自然 にも知られ、もとは雷霆神であったものがしだれて仏法の守護神となった。 0 ラーテル 理、食用油として欠かせないギーをはじめとす の摂理をそれそれ「第一機能」「第二機能」「第 しに擬人化された。イラン高原からインドへ侵インドラーテル る乳製品の発達、ダールと総称される乾燥豆類 三機能」とよんだ。 入したアーリア人は、この神をアーリア戦士のインドリ indri, indrisZ81ndri き d こ ほにゆ・つ さらに、この「三機能体系」に従って神界理想像とし、また『リグ・べーダ』における全哺乳綱霊長目インドリ科の動物。一属一種の原の利用があげられよう。 また、食習慣のうえからは、浄・不浄を気に も、①術を使って宇宙に王として君臨する第賛歌の約四分の一はこの神をたたえたもので、猿。マダガスカル島の固有種で、東部の多雨林 にすむ。原猿のなかでもっとも大きく、頭胴長してすべて右手で食物を口に運び、使い捨ての 一機能の神々、②風、雨、雷、稲妻など自然現ペーダ神話のなかでももっとも重要な神であ ひげ 象をおこしながら悪魔的現象と戦う第二機能のる。頭髪や髭をはじめ全身が茶褐色で、その偉六〇以上にも達する。同科のシフアカに似る ハナナの葉を皿がわりにするか、あるいは個人 ま・つじよっ 神々、③地上の豐穣と生殖およびその条件で大な体驅は宇宙を威圧し、暴風神マルト神群をが、尾が約三弩しかなく、鼻ロ部が長い。絹毛用のターリ ( 盆 ) と金属の小鉢ぐらいしか使わ もある平和、健康、美などをつかさどる第三機従えて空中を馳せ巡る。神酒ソーマを飲んで鋭が密生し、黒褐色と灰白色のまだら模様であるないこと、料理にコースがなく一度に出してし - 一ん ) につしょ まうこと、などがあげられる。同じ国でありな が、部位ごとの配色には個体差がある。後肢は 能の神々、の三種から成り立っていると考え 気を養い、手には武器バジェラ ( 金剛杵、雷 とうてき ふたはしら 大きくて前肢より長く、第一指に対向性があがら極端に違っている点は、イスラム教徒が羊 た。もっとも主要な第一機能神は、二柱の最撃 ) を持つが、これを投擲して蛇形の悪魔。フリ - 一うとう きのう る。歯式は で三〇本。喉頭部に気嚢肉、牛肉を多量に消費し、カレーの主材料とし トラを退治し、人間界に待望の水と光明をもた 高神で、一つは神秘的かっ魔術師的な神、もう らした偉業は、数ある神話のなかでもとくに有がある。昼行性で家族的な群れをつくり、縄張ても用いながら ( 豚肉はタブー ) 、これに対し 一つは司法者的、祭司的な神とされ、前者はイ りがある。主食は葉で、花や果実も食べる。樹ヒンドウー教徒のとくに階層の高いものほど菜 名である。またこの神にまつわる神話は『。フラ ンドのバルナ、古代ローマのユ。ヒテルなどに、 後者はインドのミトラ、ゲルマンのテュールら ーフマナ』 ( 祭儀書 ) 以降伝えられ、ヒンドウ上性で体軸を垂直に保った姿勢で幹にしがみつ食主義者が多く、牛肉どころか鶏や卵も食べな き、後肢のばねを利用して幹から幹へ跳び移 い習慣が守られていることである。タンパク質 によく表されている。古代ローマのマルス、ギ ー教神話において、より人間的、個的に描か リシアのヘラクレスなどは、第二機能を代表すれる。妻はシャチー、息子はジャシタで、神都る。よく通る不気味な声を発する。 ^ 上原重男〉 は豆と乳製品のみに頼っている。 アマラー 中国やイタリアにみられるように、インドも りようり日本の九倍の国 る怪力の英雄的戦神で、第三機能のなかでもっ ハテティー ( アマラバティ ) に君臨しインド料理 北部は小麦を中心とする枌食、東・南部は米食 ともおもだった存在は美男の双子神であり、そ御者マータリが愛車ビーマナを駆る。彼の乗る土、五倍の人口をもっ広大なインド亜大陸の料 、北部ではロー一丁イとよば ゾウはアイラーバタといわれる。その庭園ナン理は、人種、一 = ロ語、宗教、風俗の多様さのゆえと分かれる。つまり の性格はインドのアシュビン、ゲルマンのニョ によいじゅ ーリジャータがあり、天人ガ に要約することはむすかしい。七五 % を占めるれるパン類が主食で、ナーン、チャパティ、パ ダナには如意樹パ ルドとフレイなどに継承されている。 ラーター、プーリーなどがある。米は、南部で また、この双子的豊穣神を頭領とする第三機ンダルバの音楽にあわせて天女アプサラスが踊ヒンドウー教徒と、北部を中心とするイスラム は白いご飯として、汁けの多い料理をかけて食 能神の数はきわめて多く、彼らはもともとは天っているが、彼は戦場で名誉の戦死を遂げた勇教徒では食事のタ。フーもまったく異なる。アー リア民族の侵入に始まり、イギリスの統治に至べるが、北部には明らかに中東の影響を受けた 上界の上位二機能の神々とは別個の神族を構成士をここに迎えると信じられていた。しかし、 るまで、絶えず強国の侵略の影響を受けてきた とみられるプラオとビリャーニーという炊きこ していたとみられていた。あるとき両神族の間 しだいに神界の長としての地位は名目的となり しばしば敵軍アスラに敗北しては奇計や策略を縦軸の変化と、北のカシミールと南のコモリンみ御飯がある。プラオはピラフと同じ作り方だ で抗争が起こるが、それそれが自己のつかさど 岬、東のカルカッタと西のポンべイというよう が、レーズンやナツツ類とスパイスを豊富に使 る機能の威力を十分に相手方に思い知らせあう用いてかろうじて苦境を脱した。その豪放性か な、気候風土の横軸の差も大きい。国土の大部 ビリャーニーはさらに具の量が多く豪華に と、最後に和解が成立した。その結果、第三機 らバラモン殺害や仙人の妻の誘惑などの大罪も かいぎやく 能の主神たちにも上位機能の主神たちと比肩す犯すが、一方諧謔性のために、悲壮感を伴わ分が農業地域で、しかも年々増え続ける人口をなる。 抱えるので、食糧生産と天候の問題が人々の関 る地位が神々の間で認められることになって両ない伝説や物語の主人公となっている。護天八 世界の人々に愛される料理としてはタンドー 2 ・ 1 ・ 2 ・ 3 2 ・ 0 ・ 2 ・ 3 852
いちいか 雄しべ一雌しへ 体 はマツやスギのような球果をつくらず、種子は の 単生し、被子植物の果実のような外観を呈する 体 のが特徴である。イチイ科は、枝先に密集する 換 はいしゅ 置 体 鱗片の腋に一個または二個の胚珠がっき、その かしゅひ 外側を仮種皮が包む。種子が成熟すると仮種皮 の体異 ( 「 ) は液質となり、赤色、褐色、黄色などになる。 ゼ異”川 ン置 世界に五属二〇種が知られ、日本にはイチイと べ位体 〈山崎敬〉 実力ヤが分布する。 図 〇〇 果イチイガシ Q ミミ、 s を、き BI. ブナ科 ン の常緑大高木で、幹はまっすぐに立ち、高さ一一 ン 体 ロ 五に達する。老樹では灰褐色の樹皮が落ちた 性 ひ 体 〇〇 跡にコルク層の渦巻模様がみられる。葉は倒披 きよし しん 置 性 針形で先端に鋸歯をもつ。裏面に黄褐色の短毛 位 異 ベジ 置 が密生し、他のカシ類と区別できる。堅果は当 O O オ」」るト , あテ の 〇〇 年の秋に熟し、そのまま食用となる。殻斗は ン 体 六、七層の輪があり褐毛を密生する。千葉県以体原 ン 西の本州、九州に多く、台湾、中国大陸東部の性素ル一ン 科 ひょく 異炭タペ 0-0-0 3 イ 暖帯に分布する。肥沃な土地を好み、神社など 〇〇 イ 亠図 によく残っている。材は粘り強く、船や艫の材 〈萩原信介〉 として使われた。↓カシ かしゅひ いちーー重力などのポ 近代に入って最初に一院制を採用したのはピ位置エネルキー 形、先端はとがり、下半部は鮮紅色の仮種皮で位置異性体いちいせいたいを s 三 on iso- ューリタン革命時代のイギリスで、ここでは国テンシャルカの作用を受けているとき、静止し 覆われ、九、一〇月に成熟すると、すこし青み mer 構造異性の一種である位置異性によって 王を処刑し上院を廃止した ( 一六四九 ) ため、一時た物体のエネルギーは、その占める位置によっ のある淡褐色となる。染色体数は雄花 n Ⅱ 12 生ずる異性体。主として有機化合物にみられ、 で、雌花 n=13, 2n Ⅱ 24 である。北海道から鎖式炭化水素での分鎖の有無、あるいは分鎖の期下院だけの時代が続いた。その後、フランスて異なっている。このように物体の位置によっ 九州まで分布し、樺太 ( サハリン ) 、千島、朝位置による異性、べンゼンなどの環式化合物の革命直後のフランス議会も一院制を採用したて定まるエネルギーを位置エネルギーという。 質量襯の物体をの位置からカだけ高い位置 鮮、中国東北部、アムール、オホーックなどに置換体における置換基の位置の差による異性な ( のちに二院制に改められた ) 。当時の上院は特 に移すにはミのエネルギーを外から与え どがある。炭素原子数五の飽和炭化水素を例に権階級の利益を代表していたので上院の廃止が 広く分布する。日本では北海道にもっとも多く なければならない ( 9 は重力加速度 ) 。このエ 強く望まれたものと思われる。それと同時に、 とると、ペンタン、イソペンタン、ネオペンタ 群生地がある。本州中部地方から東北地方にか ン ( 2 ・ 2 ージメチルプロバンまたはテトラメチ国民主権主義の立場から、国民を代表する会議ネルギーは、物体を墻に静止した状態から引力 けては局地的に群生地がある。 に抗してに静止した状態に移すのに必要なも やや浅根性で耐陰性の非常に強い陰樹で、母ルメタン ) の三種がある。一般に炭素原子数が体は単一でなければならないという考えが一院 のであって、点にある物体は点墻にあるとき 制採用の理論的根拠となったとも考えられる。 樹の下にも稚樹を生ずる。成長はきわめて遅増加するにつれて、異性体の種類も多くなる。 よりも mgh だけ多くの位置エネルギーを有す 有機質に富んだ適潤な土壌を好み、緩斜地べンゼンの二置換体にはオルト、メタ、。ハラの第二次大戦後の東欧社会主義諸国のほとんど が、また中華人民共和国などが一院制の代表機る。位置エネルギーの値は、ほかの位置での値 三種類があるが、三置換体になると、 C 。イ や平地を好み、急斜地にはほとんど生えない。 辺材は狭く白色、心材は紅褐色で美しく、木目型で三種、 C6H3X2Y 型で六種、 C6H3XYZ 型関を採用しているのも、国民の意志が正しく反に対してその差のみが意味をもつ。ダムの水が はまっすぐに通り、緻密で弾力性が強く、光沢では一〇種の位置異性体がありうる。ナフタレ映されるならば一院制でもよいという考えにた落下してタービンを回転させると電気工ネルギ ーが発生するが、この電気工ネルギーは、ダム ン環その他の環状構造でもさまざまな位置異性っているものといえよう。もっともソ連のよう がある。加工は容易で、仕上り面も美しい上 な多民族国家からなる連邦国家においては、その水の位置エネルギーがその形を変えたもので 重は〇・五一でやや重い。材は建築、器具、機体がありうる。↓異性体↓構造異性〈岩本振武〉 くしきょ - つき 一院制いちいんせい unicame 「 al system の代表機関は国民的部分と民族的部分を代表すある。摩擦力に抗して水平面上で物体の位置を 械、彫刻、ろくろ細工、櫛、経木、鉛筆などに 広く利用。また材、葉などは糖尿病などに薬効国民の代表機関である議会が一つの会議体だける二つの会議体から構成されている。 一院制の長所としては、立法や議事の決定が がある。心材は染料とする。中部地方以北の本で構成されているもの。二院制、両院制に対す そうりよ せんてい る語。議会政治の母国イギリスが、貴族・僧侶迅速に運び、一一院制の場合に生じがちな無用な 州、北海道では庭木、生け垣に用いる。剪定は みしよう 議事の遅滞を避けることができるという点があ に身分と庶民部分をそれそれ上院と下院に分属さ きくが、移植力に乏しい。繁殖はおもに実生 よるが、挿し木も可能。名は、昔この材からせ二院制の形態をとったため、その後の世界のげられるが、その反面、一院だけでは議事の決ギ しよういちい しやく レ ほとんどの国々がこの二院制を採用している。定の際に慎重さを欠くおそれがあるという批判 ノキ 笏をつくったことから、位階の正一位にちな ネ 日本も第二次世界大戦前には貴族院・衆議院、も聞かれる。資本主義国でも、スペイン、フィ 〈林弥栄〉 んでつけられたといわれる。 工 かさミ裸子植物、戦後は衆議院・参議院の一一院制によって議会を ンランド、デンマークなどが一院制を採用して置 イチイ科 〈田中浩〉位位 いる。↓二院制 ショウハク植物綱、イチイ目に属する。この目構成している。 珠心 仮種皮 胚珠 種子 花 雄 約 花糸 仮種皮 雌花 ( 断面図 ) 花 雄しべ りん・ヘんわき ① C6H3X3 の異性体 〇 : 〇、〇 〇、〇、〇 : 〇、〇、〇 3 個以 E の置換基の位置は 番号で示す ② C6H3X2Y の異性体 ③ C6H3XYZ の異性体 ワん 7 わ 7 」 位置、ネ ~ ギー 404