えほん いおう 囮二万五千分の一地形図「秋田駒ヶ岳」 硫黄三〇以上の加硫ゴムをいう。長時間加熱し海北西部、オホーック海、べーリング海にも生し、読者を子供に限らす大人をも対象とするよ 寺せば 息が知られている。さらに、広範囲の温度や塩うになった。 えばしだけ長崎県佐世保市の背て得られる樹脂状物質。硬質ゴムともいう。加 烏帽子岳 〔絵本の楽しみ〕子供時代に始まる読書習慣の 後にある山。佐世保富士ともいう。西海国立公硫時に加える配合剤によって美しい光沢と色分変化に耐える特性のため、おそらく船によっ 園中の最高峰で、標高五六 て運ばれ、カリフォルニア沿岸 ( 一九二〇年形成に関して、だれもがロにするようになった 山頂から佐世 ( 褐色 ~ 黒色 ) を示し、引張り強さは一平方 くじゅうく ひらど 保港、九十九島、大村湾さらには平戸、五島の メートル当り七〇〇キログラム、伸びは三 % 程度代 ) 、ヨーロッパ ( 一九五三年 ) 、オーストラリ 表現であるが、「絵本は、人間の長い読書生活 島々を望む展望は絶景で、キャンプ場の施設も のなかで、初めて出会う本である。子供時代 と、ゴムというよりプラスチックである。八〇ア南東部 ( 一九七二年 ) に移住し繁栄してい ある。標高三〇〇までは第三紀層で、この山度 0 程度で柔らかくなるが流動性はなく、耐酸る。寿命は一年から一年半で、放卵放精後に親 に、その子が、絵本のなかに楽しみをみいだす 〈西川輝昭〉 かどうかで、生涯、本好きになるかどうか決ま 腹で大正時代には炭坑が開かれたこともある。性、耐アルカリ性、電気絶縁性、機械加工性が 個体は死亡する。 三〇〇以高は玄武岩で、ダブルメサ ( 二重の優れている。電気絶縁体、ライニング材、万年工ホラ Evora ポルトガル中南部、アルる」 ( ドロシー・ホワイト ) とさえいわれる。 ト・アレンテージョ地方の中心都市。人口二万〔遊びを楽しむ〕遊びに動機や型がないよう 台地状地形 ) を呈する。下位の台地面上には、筆の軸などに使われていたが、一九六〇年前後 ゅうしゆっ 新旧溶岩の間に発達した地下水が湧出してでから優秀な性能をもっ各種プラスチックが生産四〇〇三 ( 一九七 0 ) 。リスポンから東方への交通に、幼い子供が絵本に接することに動機や型は 一わ 路と、ポルトガル東部を南北につなぐ交通路のない。のびやかに絵本を眺め、ページをめく きた横池、重池などがあり、付近には縄文遺跡されるようになり、その用途は狭められてい 〈福田和吉〉 がある。佐世保駅からバス四〇分。〈石井泰義〉る。 交点に位置し、ローマ時代から発達した。一一り、母親の読む声に耳を傾け、笑い、驚き、あ ぞうしゆく 囮二万五千分の一地形図「蔵宿」 六五年イスラム教徒の支配を脱し、ジョアン一一一るいは考える楽しさで、その子の内面生活が広 工ホバ 0 ャーウェ 工ホシドリ〔烏帽子鳥〕 touraco 鳥綱工ホバの証人ーーのしようにん Jehovah's 世下では宮廷都市として絶頂期を迎え、数々のがっていく。本来子供の遊びは、体を動かす遊 ホトトギス目工ポシドリ科に属する鳥の総称。 Witnesses, Watch Tower キリストの再臨文人、芸術家を擁したが、スペインとの併合びでも、空想的な遊びでも、自由奔放である。 同科 Musophagidae はサハラ砂漠以南のアフと千年王国の出現を信じ、現実の制度を否定し ( 一六六三 ~ 六五 ) 以降は衰微した。マヌエル様式や優れた絵本は、子供を遊ばせ、日常の束縛から リカに分布し、一八種がいる。大部分の種が全て、一九世紀後半のアメリカに発生した異端的ルネサンス様式の華麗な建造物があり、ダイア子供を解放する。『ぐりとぐら』 ( 中川李枝子 ゆりこ ~ 一三世紀の大聖堂、考古文、大村百合子絵・一九六三 ) 、『ひとまねこざる』 長約四五だが、カンムリエボシドリ C ミ・宗派。ニューヨークのプルックリンに本部があナ神殿の遺跡、一二 き c 、ミミのように八〇にもなる大きなもる。教会の伝統と組織と教職制度を否定する思学博物館などが有名。〈田辺裕・柴田匡平〉 ( レイ文・絵、光吉夏弥訳・一九五四 ) 、『どろんこ ー』 ( ジオン文、グレアム絵、渡辺茂男 えほんわが国では、古くは絵巻、絵 のもいる。どの種も尾は長めで、頭上にはよく想を激しく表明するため、制度的なキリスト教絵本 えぞうし 目だっ冠羽がある。全体に緑や青や赤の光沢あ界では異端と評価されて孤立しているが、一般手本、絵草紙などを絵本と称し、時代の変遷に訳・一九六四 ) などその例である。 〔空想を楽しむ〕子供時代の特徴は、現実と空 る美しい羽色をしている。熱帯降雨林やサバン社会では、キリストの再臨と聖書研究を強調つれ、絵を中心とする子供の本を意味するよう 想の間を自由に行き来することである。縫い ナなどの樹木のある地域に限ってすんでおり、 し、輸血や柔剣道など格闘技の拒否、兵役の拒 になった。表現形式、内容ともに多様であり、 木の実を主食にしている。いちばん外側の足指否を主張する一教派とみられている。この派の絵のみで表現するものに始まり、絵を柱としてるみの動物に話しかけ、花や石に話しかけるの は、相手を自分と同じように生きているとみる を前後左右に動かすことができ、これを利用し教義は O ・・ラッセル ( 一会一一 ー一九一六 ) が提唱数語のことばを添えたもの、絵と文章が対等に て枝上を巧みに伝い渡る。樹上に小枝を重ね合し、・・ラザフォード ( 天六九ー一九四一 I) が体補完しあい、一つの物語を語るもの、さらに文幼い時代の感性である。小さな主人公が、森の わせて平らな巣をつくり、白い卵を二個産む。系化した。現世拒否のモチーフ ( 権力批判 ) が章の比重が増え、それに挿絵をつけた絵物語形中で、ライオンやクマやコウノトリやサルやウ 羽毛の緑と赤は、それそれッラコバジンとッラキリストの再臨信仰と結び付いているため、緊式のものまで含まれる。取り扱う題材も、昔話サギや、そのほかの動物たちに出会いし ょにピクニックをしたり、かくれんばをしたり 〈樋口広芳〉張の固持が信者の日常的一一 = ロ動を包み込み、そのや創作の物語に限られず、文字、ことば、自 シンという独特の色素による。 することは現実にありえないとしても、『もり 熱意は世俗の生活者と制度的宗教家をときに刺然、科学、社会などあらゆる領域にわたってい 工ポダイ 0 イボダイ あかし のなか』 ( ェッツ文・絵、間崎ルリ子訳・一九六三 ) 工ホナイト ebonite 天然ゴム、あるいは激する。日本での最初の指導者は明石順三。一る。また、最近の傾向として、グラフィック・ は、読者の子供を森の中で遊ばせてくれるばか アートの発展とともに表現形式、内容が高度化 などの合成ゴムの生ゴム一〇〇に対して九二六年 ( 昭和一 ) 日本支部の灯台社が創立さ りか、大人の童心をもよみがえらせる。『てぶ れ、太平洋戦争後は四八年に日本支部が、五三 くろ』 ( ウクライナ民話、ラチョフ絵、内田莉 莎子訳・一九六五 ) のように、ネズミやカエルやオ 群オカミやクマなどの大小の動物たちが、森の中 体 に落ちていたたった一つの手袋に入れるはすは ないが、読者は、なんの不思議も感じないどこ す 生ろか、動物たちのように手袋の中に入って、暖 かさを感じたりする。この秘密は、空想カ豊か 岩な画家の絵筆の動きにあり、その表現力が、世 で にも不思議なできごとをリアルにみせるのであ り、この芸術が子供の空想力を育てる。 長 〔絵を楽しむ〕鳥羽僧正の作といわれる『鳥獣 、を〕 (. ・ヤ人物戯画』であれ、コールデコットの絵本であ = れ、躍動する素描の描き出す姿態と表情、構図 6
うるしかわ 大甫 ( 町 ) おおうら ( ちょう ) 鹿児島県南西部、 が、戦後は多くの産地で絶滅し、日本産大形ヒ バロックの混合様式であったが、七五年 ( 明治町と漆川村が合併して成立。町名は中世の地 かわなべ さつま 川辺郡にある町。薩摩半島南西部に位置する。 ョウモンのなかではもっとも少ない種となっ 八 ) 改造され、塔は中央の一基のみとなった。頭大江氏にちなむ。西部一帯は朝日山地を源と つきめの もがみ 一九六一年 ( 昭和三六 ) 町制施行。東シナ海に た。外国では朝鮮半島、中国に分布する。近縁開国当初の洋風建築、ことにゴシック様式建造する月布川流域の山村で、最上川との合流点に ふきあげはま 面し、西は野間半島、北東に吹上浜が続く。江の普通種ウラギンヒョウモンに似ているが、後物としてはもっとも古いものである。 発達した左沢は、江戸時代には最上川舟連の河 うらかみ あおそ 戸時代、加世田郷の一部であった。北部に広がろばね裏面外縁の銀紋の形が二山形であるこ 一八六五年 ( 慶応一 ) 三月、浦上村民の一団岸があり、青苧、生糸などの集散地として発達 る大浦干拓地は第二次世界大戦中、食糧増産のと、雄の前ばねの黒色発香鱗条が一本であるこ が大浦天主堂にプチジャン司教を訪ね、カトリ した。国鉄左沢線の終点。『最上川舟唄』の発 にほんいち 必要から着手されたもので、戦後農林省直営のとによって区別できる。はねの開張七〇 ~ 八〇 ックの信者であることを告白した。これが「信 祥地の碑が日本一公園にある。人口一万一三七 事業として六五年に完成した。住民の半数以上 リ程度。年一回発生し、暖地では五月下旬ごろ徒発見」とよばれる歴史的事件である。大浦天四。 〈中川重〉 が農業に従事する純農村。おもに米、茶、ポンから、寒冷地では七月中旬ごろから発生、草地主堂は、実に二五〇年間のキリシタン弾圧に耐回『大江町史資料』 ( 一九 ~ 〈 0 ・大江町 ) カンを栽培するほか、・ フタや肉牛などの畜産もの草花にくるものが多い。幼虫の食草はスミレ えてひそかに信仰を守り続けてきた潜伏キリシ地五万分の一地形図「左沢」 盛んである。県無形民俗文化財に指定された類、一齢幼虫で越冬する。 〈白水隆〉タンが復活した記念の地となった。一九四五年大江 ( 町 ) おおえ ( ちょう ) 京都府北西部、加 瘡踊は毎年二月に行われる。過疎地で人口三九大浦慶おおうらけい 〈四 ) 幕末・維 ( 昭和二〇 ) 原爆のために破損し、五二年補修佐郡にある町。一九五一年 ( 昭和二六 ) 河守町 ありじかみ 〈平岡昭利〉新期の女性貿易商で日本茶輸出の開拓者。肥前 再建された。三三年に引き続き、五三年二度目 が河守上、河西、河東、有路上、有路下の五村 囮二万五千分の一地形図「野間岳」「加世田」 国 ( 長崎県 ) 生まれ。オランダ通詞品川藤十郎の国宝指定を受けている。 〈宮崎賢太郎〉を編入して成立。由良川が貫流し、北部には大 でじま ふくちゃま ( 天五 0 ー一九一 0 大甫兼武おおうらかねたけ の紹介で、出島在留のオランダ人テキストルに回桐敷真次郎著『大浦天主堂』 ( 一九六〈・中央公 江山がそびえる。江戸時代には福知山と河口の うれしの 明治 ~ 大正時代の官僚政治家。子爵。薩摩藩出肥前嬉野茶の販路開拓をもちかけた。一八五三 論美術出版 ) ▽村松貞次郎・片岡弥吉監修由良 ( 宮津市 ) とを結ぶ由良川の水連が栄え、 身。戊辰戦争に従軍後、東京府邏卒小頭とな年 ( 嘉永六 ) ついにトランクに身を隠して国外 『長崎の天主堂』 ( 一九七七・技報堂出版 ) その中継地であった。大部分が山地で、水田は しんシャンハイ り、以後警察官僚の道を歩む。台湾出兵、西南脱出に成功、清国上海に渡り製茶・交易法を学大浦半島おおうらはんとう京都府北東部、 少ないが、養蚕が盛んで、養鶏、酪農も行われ わ。か、こ 戦争にも従軍、一 八二年 ( 明治一五 ) 大阪府び、帰国後、日本茶の輸出を実現させた。多く 若狭に向かって北に突出する半島。西側に舞る。北部の宮川沿いに内宮、外宮という集落が りよ、つま しんさく づる 警部長となり、大阪事件の関係者逮捕に手腕をの利益を得たが、坂本龍馬、高杉晋作らの幕末鶴湾、東側に内浦湾が湾入し、北東端に成生岬あり、伊勢に遷座する以前は皇大神宮が置かれ やまがたありとも ばってき 発揮した。八八年内相山県有朋に抜擢され警保の志士に援助を惜しまなかったことでも知られが突き出ている。山地が大部分で、平地に乏していたと伝えられ、俗に元伊勢とよばれる。外 きゅうがい 局次長となり、九二年の選挙大干渉では民党弾ている。 〈加藤章〉 い。沿岸は急崖をなし、海岸美に富み、若狭宮にある豊受大神社の社殿は伊勢神宮と同じく みなみ しんめい 圧にあたった。島根、山口、熊本、宮城各県の大浦天主堂おおうらてんしゅどう長崎市南湾国定公園に含まれる。北岸には冬季、若狭湾神明造である。人口六五二〇。 〈織田武雄〉 やまて 知事を歴任、九八年に第二次山県内閣の警視総山手町に残るカトリク教会堂。一 八六四年を還流する海流にのって。フリが回遊し、田井、回『大江町史』 ( 一九会・大江町 ) 監、一九〇一年 ( 明治三四 ) 第一次桂太郎内閣 ( 元治「 ) フランス人宣教師フューレは、大浦成生などの漁村では。フリ定置網漁業が行われ囮五万分の一地形図「大江山」 やましろ る。 の警視総監、さらに〇三年には逓相に転じ、鉄 にフランス人居留民のための教会堂を建立し、 〈織田武雄〉大江氏おおえうじもと大枝氏。山城国 ( 京 たんごゆら 道国有法案の立案や京釜鉄道の速成を図った。 翌年二月、長崎で殉教した日本二十六聖人に献地五万分の一地形図「丹後由良」 都府 ) 乙訓郡大江郷の地名に由来する。七九〇 さらに〇八年第二次桂内閣の農商務大臣としてげた。大浦天主堂は当時、俗にフランス寺とよ大江 ( 町 ) おおえ ( まち ) 山形県中央部、西村 年 ( 延暦九 ) 一二月桓武天皇の勅に、天皇の外 あてらざわ はじのすくね あそん は帝国農会の設立や工場法の成立に努めた。こ ばれた。創建当時は三基の塔をもっゴシックと山郡にある町。一九五四年 ( 昭和二九 ) 左沢 祖母氏である土師宿禰に大枝朝臣賜姓のことが らつわん の間、山県直系の官僚として政党工作に辣腕を みえ、八六六年 ( 貞観八 ) 一〇月氏人の改姓を おとみどち 振るい、官僚派政党である大同倶楽部や中央倶 ュ両小ょにツに国 求める上書をいれ、大江氏と改めた。音人、千 、こと ちふるま、ひらま、二ふイ、 フン梁に初リ年 楽部を支援して、立憲政友会に対抗させた。一 里、千古、匡衡、匡房など著名な歌人や学者を ャい楝カ最トた こういんじよううん 堂ジの協でカれ 二年 ( 大正一 ) には第三次桂内閣の内相とな 輩出している。〕。尊卑分脈』や〔。本朝皇胤紹連 さ 主チ草の本た。 天プ天進日れ堂建 り、立憲同志会の創立にも参画した。一四年第 録』『大江氏系図』などでは大江氏の出自を平 おおくましげのぶ 浦 , と之 , さ会再 大レ父秀て造教修 一一次大隈重信内閣に農商務相として入閣、さら 城天皇の皇子阿保親王の系とし、平城天皇ー阿 に一五年内相に転じて選挙干渉を指揮して与党 を大勝させたが、前年に増師案実現のため議員 大江氏 / 略系図 千里 ( 大枝 ) ( 大江 ) 買収を図った事実が発覚、七月内相を辞任する おとんし はしのすくわ 上師宿禰ー ( 略 ) ー本ー音人千古ー時ー重光ー匡衡ー周 とともに政界を引退した。 〈宇野俊一〉 回香川悦次・松井広吉編「大浦兼武伝』 ( 一九 衡ー匡房ー缶ー繻光匡範ー周房ー ( 以ト略 ) ひろもと ら 0 ひろ いろとき まさひろ 一二・博文館 ) ム元親広ー広時ー政広ー元顕ー オオウラギンヒョウモン〔大裏銀豹紋 ときいろ 時広 ( に歩 蝶〕 F 、、ミミミ、昆虫綱鱗翅目タ むれみつ 示光 ( 那波 ) 、フテハチョウ科に属するチョウ。アジア東部特産 すえみつ 一んのヒョウモンチ「ウの一種で、日本では本州、 季光 ( 毛利 ) お四国、九州の平地から山地の草原に産し、第二 2 成 ( 漑東 ) お次世界大戦前はとくにまれな種ではなかった かつら さつま 覧 を せい ちふる ( 以ト略 ) 871
おおさか 人口密度世帯数 ( 人 /km2) 17 225 7 895 . 5 31 089 14 263 . 5 21 349 12 842.1 25 428 6 689 . 7 4 579 . 2 10 355 10 188 . 8 20 164 33 022 11 672.6 9 184.8 27 933 11 811.3 20 271 12 493 . 9 15 126 13 082.0 20 734 9 806.7 16 222 6 912.4 31 214 12 575 . 7 59 560 19 764.5 29 407 21 090.2 54 650 18 687.7 40 762 18 553.1 53 840 19 393 . 9 43 198 18 209 . 4 62 127 16 218.9 54 140 20 326.1 64 181 12 137.6 57 796 10 949.0 28 146 6 679 . 8 39 502 12 964.8 61 100 「 00290 こ 第 31 ・を ① 大阪市 / 区一覧 面積人口 (km2) 北区 43 741 5 . 54 きた 都島区みやこしま 5 .86 83 584 甲を福島区 60 101 4 .68 此花区 10 . 97 73 386 このはな : 東区 27 109 5 .92 ひがし 西区 53 695 5 . 27 港区 96 416 8 . 26 みなと 大正区たいしよう 84 041 9 . 15 天王寺区てんのうし 55 277 4 .68 南区 36 982 2 .96 みなみ 浪速区 3 . 83 50 104 なにわ 丿ご定一区おおよど 4 . 51 44 228 西淀川区にしよどがわ 13.12 90 691 大阪市 / 歴史 東淀川区ひがしよどがわ 13.15 165 370 ①安治川河口を出航する菱 東成区ひがしなり 4 . 51 89 138 垣廻船。江戸時代 , 大坂は 「天下の台所」といわれ , 全生野区 173 783 8 . 24 いくの 国の産物の取引が行われた。旭区 6 . 11 114 182 あさひ 含粋亭芳豊画大阪城天守城東区しようとう 157 145 8 . 47 阿倍野区あべの 117 527 6 .06 ②近世末期の大坂城。本丸 住吉区すみよし 166 798 9 . 16 東側の諸櫓で , 戊辰戦争に 東住吉区ひがしすみよし 9 .68 156 999 よる焼失以前の 1865 年ころ の撮影と思われる。左から西成区にしなリ 150 820 7 .42 淀川区よどがわ 12.71 154 269 馬印櫓 , 月見櫓 , 糒櫓 ③明治末期の道頓堀 ( 人工鶴見区 8 . 10 88 687 つるみ 着色写真 ) 東京石黒コレ 住之江区すみのえ 17 . 25 115 227 クション 平野区ひらの 15 . 34 198 880 注 : 1985 年 1 月現在。人口は 1980 年国勢調査による 0 ② 3 商業地域の中心地は、東、西、南、北の四田、天神橋筋、京橋、上本町、難波、係野耨川 区、旧大坂三郷の地にあたる。総合商社や問屋筋など、駅付近に発達し、興行界、飲食店など が集中し、その年間販売額は全市の八二 % を占を擁して盛り場商店街をなしている。とくに梅 せんば しまのうち めている。とくに船場 ( 東区 ) 、島之内 ( 南田を中心とする一帯は「キタ」、難波の一帯は ほりえ 区 ) 、西船場 ( 西区 ) 、堀江 ( 西区 ) の一帯は同「ミナミ」と称し、それそれ地下商店街と結ん 一業種の並ぶ問屋街を形成している。おもな問で二大繁華街区をなしている。このほか盛り場 どしよう からもの つうてんかく には通天閣をもつ新世界が知られている。 屋街に、東区では道修町の薬種、本町・唐物 どぶいけすじ みなみきゅうほうじ 大阪経済の基盤を支える大阪港の外国貿易 町・丼池筋の繊維、南久宝寺町の化粧品・小 たちばなどおり 間物、西区では立花通の家具・仏壇、西横堀は、一九八〇年現在、輸出一兆九六二七億円、 かわはら 筋の瀬戸物、南区では河原町の家具・道具類、輸入九六四二億円で出超型である。おもな輸出 おくらと こつまんばし 品は鉄鋼、ラジオ受信機、金属製品、合成繊維 御蔵跡町の履き物、本橋筋の電気器具や東・ まっちゃまち がんぐ 南区に延びる松屋町筋の菓子・玩具・文房具街織物などで、輸入は原料品、食料品などであ などがある。これらの問屋街地区も都市再開発る。↓大阪港 〔工業〕市の工業は阪神工業地帯の中核をなし が進められ、北区梅田の繊維問屋街は淀川区の 新大阪繊維卸売団地に、船場の繊維問屋の一部ている。一九八〇年現在、総工場数三万四七七 ひらかた みのお は箕面市に、東区谷町筋の既成服問屋街は枚方二、従業員数三八万六〇七九人、製造品出荷額 六兆九〇八一億円に上り、東京都に次ぐ。業種 市に移転するなど、しだいに変容を示してい る。 別にみると、工場数では金属製品、一般機械器 一方、銀行、証券、商社、事務所などの金具、出版・印刷、繊維織物、電気機械器具、食 どつじま 融、流通管理機関は、北区の梅田、堂島、中之料品の順であるが、製造品出荷額からみると、 きたはまみどう 島から東区の北浜、御堂筋、堺筋などに集中し 鉄鋼、化学、一般機械器具、金属製品、出版・ ている。北浜には大阪証券取引所があり、一帯 印刷、電気機器の順で、市の工業は重化学工業 。かン」′トでつ と軽工業からなる総合型工業であるといえる。 は証券街として、東京の兜町と並称される。 しんさいばし えびすばし 工場を規模からみると、従業員二九人以下の小 都心商店街としては心斎橋筋、戎橋筋がある。 国鉄、私鉄に結ばれるターミナル商店街は、梅規模工場が全体の九五・一 % を占め、三〇〇人 以上の大規模工場は〇・二 % にすぎない。しか し製造品出荷額からみると、大規模工場で総額 の二九・一 % を占めている。 工場地域は北部、東部、西部の三地区に大別 できる。北部工業地区は、淀川とその支流神崎 Ⅱ流域に発達し、淀川工業地区ともいう。明冶 初年に旧淀川右岸に設けられた造幣寮の影響 で、その上流に金属製練所や紡績、染色、晒工 場などが立地し、神崎川流域には製薬、肥料、 染料などの大規模の化学工場が進出して、現在 では化学工業地区の特色を現す。 東部工業地区は平野川流域に発達し、城東エ 業地区ともいう。明治初年大阪城内に設置され た造兵司の下請業として金属、機械部品、衣料 などの小工場が立地し、その後、城北運河、城 東運河 ( 現在新平野川 ) の開削に伴い、その流 域一帯に広がった。金属、ミシンなどの機械器 具、電気器具、出版・印刷、メリャス、せつけ 【一ん、薬品、食料品、家具、玩具、紙・樹脂加工 品、レンズ・眼鏡類など多種多様である。労働 力に依存した軽工業地区で、 ・零細規模の町 工場が多い。近年、騒音、振動などの都市公害 まもの 1 一め」い
おおすみ かん 根茎は短く、稈は直立して高さ〇・五 ~ 言 本列島の主要植物分布を網羅している。国鉄松 大隅 ( 町 ) おおすみ ( ちょう ) 鹿児島県東部、として報告された。以来、鹿児島県下の他産地 からも、イタリアやアメリカなどからも発見さ 曽於郡にある町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 岩川 阪駅から大杉までバスの便がある。中・上級登五、六月に稈の先に円柱形の花序をつける。 つねよし 山コース。 〈伊藤達雄〉穂は長さ四、五、やや紫色を帯びる。葯は町、恒吉村、月野村の三町村が合併し、大隅町れた。ほかに、グラニュライト相に属する塩基 ひしだ 西アジ と改称。旧国名を町名とした。菱田川上流にあ性変成岩の合分として産したり、玄武岩や安山 回菅沼孝之・鶴田正人著『大台ヶ原・大杉谷の 二・五 ~ 三 = 、リ、濃黄色。ヨーロツ。ハ、 しぶし たり、大部分がシラス台地。国鉄志布志線、国岩中の捕獲岩中にも産する。なお第一鉄よりマ ア、北アフリカの原産で、ときに野生化する。 自然』 ( 一九七五・ナカニシャ出版 ) かのやみやこのじよう セトガャトをを s Steud. はこれに似る道二六九号が通じ、鹿屋、都城、志布志、国グネシウムの多いものは、苦土大隅石 osumi ・ 囮二万五千分の一地形図「大杉峽谷」 lite-(Mg) という別種扱いになる。その名称 大須事件おおすじけんメーデー事件 ( 東が一年草で、小穂がやや長く、淡黄緑色を帯分への交点にある。江戸時代は島津氏の直轄 すいた 〈許建昌〉 領。明治に入り、岩川に郡役所が設置され、現は原産地 ( 咲花平は大隅半島にある ) に由来す 京 ) 、吹田事件 ( 大阪 ) と並ぶ戦後三大騒乱事び、葯は約一ミリ、淡黄色。 〈松原聰〉 件の一つ。一九五二年 ( 昭和二七 ) 七月七日名大洲藩おおすはん伊予国 ( 愛媛県 ) の中西在も官公庁の出先機関が多い。基幹産業は農業る。 古屋市大須球場で開かれた中ソ訪問議員歓迎報部、肱川が貫流する大洲盆地を中心とする外様で、とくに肉牛、プロイラー、プタなどの畜産大隅海峡おおすみかいきよう鹿児島県の大 とうどうたかとらわきさかやすはるやすもと 告集会後、約三〇〇〇人がデモ行進に移った藩。藤堂高虎、脇坂安治・安元父子の後を受が盛んである。農林水産省や県の種畜牧場があ隅半島と大隅諸島との間の海峡で、最狭部九州 たわがしま まうき やごろう けんじゅう が、わずか五分後、警官隊は拳銃発射を含むけ、一六一七年 ( 元和三 ) 信耆国 ( 鳥取県 ) 米る。県下三大祭りの一つ弥五郎どん祭は、巨大最南端の佐多岬と種子島との間の幅は約四〇 さだやす 。水深一〇〇 ~ 二五〇、東シナ海と太平洋 実力行使でデモ隊を解散させ、デモ隊は死者一子から加藤貞泰が六万石を得て就封、一三代約な人形を山車に乗せて練り歩くもので、毎年一 はちまん 一月初旬に岩川八幡神社で行われる。人口一万を隔てる。これら二海洋を結ぶ航路として重要 人のほか多数の重軽傷者を出した。その後、名二五〇余年間続いて明治維新に及んだ。一六二 そ・つじよう 〈平岡昭利〉で、通過船舶が多い。日本海流 ( 黒潮 ) の主流 古屋地検はデモ行進に対し騒乱罪 ( 騒擾罪 ) 三年新谷藩一万石を分知し、実質五万石ながら六〇五九。 とから 部は吐鳴喇海峡を流れて太平洋に入るが、その を適用、翌五三年末までに一五〇人を起訴し六万石の格式で遇された。一六三五年 ( 寛永一回『大隅町誌』 ( 一九六九・大隅町 ) かぎはや くわむら 分流は本海峡を北流し、海峡部の流速は一・三 た。以降「デモ行進の自由を守れ」と支援運動一 l) 風早郡、桑村郡の飛び地を松山藩と交換し五万分の一地形図「岩川」「末吉」 きた ノット ( 毎時約二・四キ。 ) と速い。〈塚田公彦〉 が進められるが、六九年名古屋地裁は被告九九て所領を喜多、伊予、浮定の三郡にまとめるこ大隅石おおすみいし六角短柱状結晶ないし おかえち 人に対し騒乱罪有罪判決、七五年二審もこれをとができ、新領を「御替地」とよんだ。一六五微細な粒として石英安山岩の空原あるいは石基大隅諸島おおすみしよとう鹿児島県大隅半 たるみずさつかびら まさき 八年 ( 万治一 ) 御替地漁民が松山藩領松前漁民中に産する鉱物。鹿児島県垂水市咲花平で産す島から大隅海峡を隔てた海上に散在する島々。 支持、七八年最高裁の控訴棄却により判決が確 くちのえらぶ やくしまたわがしま きんせい 定した。三大事件中唯一騒乱罪有罪となった事と漁場論争を起こしたが、土佐藩主の調停で事る本鉱は、最初菫青石と考えられていたが、一屋久島、種子島、ロ永良部島、馬毛島の四島か うち みやしろあきほ なきを得た。一七五〇年 ( 寛延三 ) 内ノ子騒動九五三年 ( 昭和二八 ) 都城秋穂によって新鉱物らなる。付近には竹島、硫黄島、黒島、草垣群 件であるが、一一六年に及ぶ史上まれな長期裁判 くちの いっき ばつばっ 島があるが、草垣群島を除く三島を一般にロ之 とよばれる大規模な農民一揆が勃発したが、新 の間、署名一八〇万、支援カンパ三億円という bC みしま 三島とよび、大隅諸島には加えない。行政区と 〈荒川章一一〉 谷藩と寺院の調停で一人の犠牲者も出さず農民 大衆的裁判闘争が展開された。 して屋久島の北半部とロ永良部島を上屋久町、 回関根庄一著『被告ーー大須事件の二十六年』の願いが達せられた。陽明学者中江藤樹が若き 南半部を屋久町、種子島の北部と馬毛島を西之 日に仕えたこの藩は好学の藩風で知られ、藩校 ( 一九大・労働旬報社 ) ▽田中一一郎他編『戦後 しぜん ときわ ス帯 E Z 表市、中部を中種子町、南部を南種子町と区 華ラ ~ し 政治裁判史録第二巻』 ( 一久 0 ・第一法規出止善書院明倫堂や常磐井家の私塾古学堂が人材 o 六約約暗ガ白な 分している。屋久島の面積は五〇三平方キ。、最 を出した。 〈伊藤義一〉 版 ) みやのうら ひじ 名式 高点は宮之浦岳の一九三五で九州全体の最高 大洲盆地おおすばんち愛媛県西部、肱川の オオスズキ 0 アラ 英成 点でもある。この島の基盤は熊毛層群とよばれ オオスズメノテッポウ〔大雀鉄砲〕下流域に発達した盆地。面積約一〇平方キ。。盆石 . 組 - か・ : っ たいせき 隅名 る中生代の堆積岩で、その上を第三紀の花崗岩 と。をミ s ミ L. ィネ科の多年草。地床の標高は一〇 ~ 一五で低く、河口から一 大学化 類が覆い、これが高い山体を形成している。こ 五 ~ 二〇キ。の距離にあ きよう こは日本の最多雨域の一つでもあり、この島で あい 生育した樹齢一〇〇〇年以上の杉を屋久杉とよ 隘となり、先行性河川 練に年う び、よく知られている。屋久島がほば円形であ を胴いとなるので、豪雨のた第ノ - ( 。中の 7 と 街み。ル るのに対し、種子島は細長く、面積四四六平方 びに湛水し、洪水被害 キ。とやや狭い。最高点も二八二で地形は 剽 = 、をもたらした。藩政時第 で起伏の小さい島である。基盤は屋久島と同じ ホ竹腰代から苦しめられた かの で、その上を二枚の新第三紀の堆積岩類が覆 が、鹿野川ダムの完成学 穫形月の う。古くはポルトガル人による鉄砲伝来 ( 一五 ~ 【、 - 収人大人や護岸工事などによっ うちのうら のんの隼 産 四三 ) の島として、近年は大隅半島内之浦と並び 一秋ど隅て被害は減少した。秋 市 。郎大 水 宇宙ロケット発射基地の島として知られる。ロ から冬にかけ放射霧が新、 永良部島は活火山島である。各島の平地は亜熱 県 どの , 起発生し、寡照となる。 帯性の気候を示し、ガジュマルが茂り、ハイビ ゞ 郎。せ蜂水田のほか桑や茶の栽 児 五 5 着て 鹿 スカスが咲く。本諸島近海は初夏のトビウォ漁 弥丈をし培が盛ん。〈深石一夫〉 6 の衣殺 町身のを が盛んである。↓ロ永良部島↓種子島↓屋久 9 五万分の一地形図 ( 、 ~ を】 " ー、一 隅くめ守 島 〈塚田公彦〉 9 大 大歩染国 「大洲」 たんすい く とギ、ま つきの ー 2 30 ・ 副成分 結晶系 硬度 比重 色 光沢 条痕 劈開 第 おもて ロ さた おう にしの
えべると イ挙当 あるいはチョモカンカール Chomo-kangkar エーベルト Max Ebert ( 天七九ー一九 = 九 ) しんびよう ドイツの考古学者。ベルリン大学で学び、ベル などであるが、いずれも信憑性は乏しい。ネ リン国立博物館、ケー一一ヒスペルク大学、リガ バールではサガルマタ Sagarmatha 、一九二 大学を経て、コッシナ G. Kossina ( 一ハ夭ー 一年にはチョモ・一フンマ Chomo-Lungma ( 国 三 I) の後任として・ヘルリン大学教授となる。 の女神を意味する ) の名も浮かび上がったが、 ルト海沿岸地方などの先史時代を研究したが、 特定の山峰というよりはエベレスト山群の俗称 もっとも大きな業績は『先史学大事典』の編と考えられてきた。しかし中国側はこのチョ 集・刊行事業で、全ヨーロッパの学者を動員しモ・ランマを主張し、現在はエベレストまたは たこの大事典は、以後の考古学研究の基礎を築チョモ・ランマで通っているが、このような論 くものであった。 〈寺島孝一〉争は無益であろう。 工べレスト山はクンプ氷河やロンプク氷河な 工ベルネ Epernay フランス東部、マル ヌ県の副県都。マルヌ川に沿い、ランスの南一一どで囲まれている。これらの谷氷河は厚く、重 七キ。に位置する。人口二万八八七六 ( 一九〈 = ) 。力に従って下方へ徐々に移動する。河水と違っ 「シャノ。、 、ノーニュの土」とよばれる陶器はここて重く、塑性的にふるまう氷河氷の侵食は激し でつくられる。ランスに次ぐシャンバー いもので、山稜はたちまちプルドーザーで削ら ワインの産地であり、白亜の岩に掘られた地下れたようになり、三、四面体からなる鋭いピラ きつりつ 室にワインを貯蔵している。一二八四年にフラ ミツ . ド峰が至る所に吃立している。 工べレスト山とその周辺の地質は、登山隊に ンス領となった。第一次世界大戦の激戦地の一 〈大嶽幸彦〉随行した地質学者により観察と調査が行われて 工べレスト Sir George Everest ( 一七七九 きた。一九二三年にはヘロンが八二〇〇まで 一会六 ) イギリスの陸軍技師、数理地理学者。登り、エベレスト山の上部は北へ緩く傾く明る たいせき ウェールズに生まれ、一八〇六年に士官候補生 い色の堆積岩からなることを明らかにした。二 としてインドに駐在し、その地で生涯の大部分四年にはオーデルが、エ。ヘレストの山頂は石灰 を過ごした。一四 ~ 一六年にはインドネシアの岩よりなることを初めて明らかにした。ついで ジャワ島の調査に従事し、その後は主としてイ ワーガーが八七〇〇までの地質を調べた。山 ンド測量事業、とくに三角測量の大事業を完成頂から下方へと順次、エベレスト石灰岩、泥岩 させ、その功により六一年にナイトの称号を授および下部石灰岩質層と重なっている。中部の 与された。世界の最高峰、ヒマラヤ山脈中のエ泥岩、粘板岩質岩石は暗緑色で、近くのローツ べレスト山は彼の名にちなんで命名されたもの 工山もこの地層から成り立つ。これらの地層を である。 〈市川正巳〉貫いて通称マカルー花崗岩が、エベレスト山の 工べレスト山ーーさん Mount Everest 東、南、西の三面を取り囲むように分布してい ネパールと中国チベット自治区の国境上にそびる。この花崗岩は細粒質で著しく白色が強い。 える世界最高峰。標高八八四八。地形的には 地質時代第三紀の中新世以降に貫入したもので 、こんりよう 東西、南北に走る山稜上にあり、北西、北東、ある。ナンガ・パルバト山、チョー・オュー 丿影南東稜の三面から成り立つ。ヒラミッド峰であ山、ムズターグ山、マカルー山などもみなこの 岩石からできている。工べレスト石灰岩は、下 モ明 インド測量局番号でピーク燔とよばれていた 部は有名なイエロー ハンドで、そこは片状の石 無名峰は、一八五二年に世界最高峰であること灰岩からなり、その上は灰色の砂質、片状の苦 の峰 か西 が判明した。しかし、この山の現地名は不明で灰岩質石灰岩である。工べレスト頂上から採取 さ山 あった。そこで時のインド測量局長官アンドリ されたサンプルを調べたアウグスト・ガンサー をエ 可ン によると、細粒質で薄い層状の石灰質片岩か板 ュー・ウォーは、先任のサー・ジョージ・エベ 氷プ フヌ レスト大佐の困難な測量事業遂行の功績を記念状の石灰岩からなり、ウミュリの破片が含まれ ク右し、この無名峰をマウント・エベレストと命名ていた。これは世界でもっとも最高所の化石だ が、残念ながら地質時代を確定するには保存が した。山名に個人名がつけられたのは例外的な よくない ことである。その後、この山にも現地名らしい 。しかし古生代の石炭紀から下部ベル ものがあることがわかった。、、 カウリサンカールム紀という従来の考えと矛盾するものではな 〈金子史朗〉 Gauri Sankar とか、デバドンガ Devadhunga 632
えちおひ 工チオピア サク彡ララビア カ : サル岬 : 0 も 海勹 ラ共和国 ノダシャ、 ( 4 0 アッサ伀 ゴンタ、ル \ ファ 、、・プチ デブラコス = ' 、、 -1 、一 , アイス・ア・パ、个 ゲ山 4 、サヌア・ ハルトウーム 200 400km マラ小 1 : 25 , 〇 0 〇 , 〇 0 ノ主人民共和国 ーアデン ガデン アハヤ : 青ナイル川タナ湖に源を発するナイル川の ニ大支流の一つで , ェチオビア高原のほほ、中 央部をスーダン国境まで西流する。高原と谷 底との高度差は最高 1 500 に及ぶ く分布するが、地表の大部分はその下位にくる にみられる。 先カン。フリア時代 ( 約六億年前以前 ) の基盤ジュラ紀または白亜紀 ( 約一億年前 ) の海成層 岩類 ( 結晶片岩、片麻岩 ) は、エチオピア高原によって覆われている。先カンプリア時代の基 の北部や西部の標高一五〇〇以下の高原周辺盤岩類は南西部では標高二〇〇〇以下、南東 部に露出している。漸新世に始まった著しい上部では一〇〇〇以下の地域に広く露出し、そ のほかハラル地方に地窓様に露出する。東端部 昇運動のために、海成ジュラ紀層は最高標高一一 には始新世 ( 約四五〇〇万年前 ) の石灰岩が分 五〇〇の所に露出する。 東部高原は、西端部では漸新世の溶岩類が広布する。この地域も著しい隆起を示しており、 。 ) ・日皿 量以巧悧団 ~ 線均 0 0 0 0 0 日皿エ・ O O L.n っ乙つ」竺寸 ~ 年・ 日皿 ェチオピア / 地形と地質 [ こ」第四紀海成・湖成堆積物 匚 : コ第四紀火山岩類 第三紀トラップ [ こ」中生代海成堆積物 ( 砂岩 , 石灰岩 ) アファー凹地匚こ」先カンプリア紀基盤岩類 マッサワ / - ダシャン山丿 30 。 30 。 20 。 イス・アへ へんま 25 。 30 。 アディス・アへヾ 工チオピアの気象 アスマラ 25 。 20 。 400km 200 200 年齢別人口構成 1980 年男 アティス・アベノ、 400 300 200 100 っ乙っ 0 い ) 4 ・つこワ」 1 ー 一 0 【 0 L-n ′ 4 「・ 4 つ」フ」 1 ・ 1 ー (C) 0 Ln 0 Ln 0 一う ) O L.n C) Ln 一日 ) 【う ) 0 ( 、 0 ( 0 L.n LS¯) 4- CO CO つ」フ」 1 ー , ー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 101112 1 2 3 4 5 6 7 8 9 101112 月 年平均気温 17 ℃ 15.8 ℃ 降水量年降水量 467mm 1237mm 緯度 / 経度 15 。 17 ' N / 38 。 55 ・ E 09000'NZ38044'E 2321m 2360m 標高 1985 年版「理科年表」による 240 160 80 0 80 160 1981 年「世界人口年鑑」による 5 15
あげかえ 。ゝ融けて水になるという意味である。春の李の改良、共同揚返しによって品質の統一を図 て渦の一種である。つまり境界層は渦の層であ臼井うすい千葉県佐倉市西部の一地区。 〈根本順吉〉 り、共同出荷によって地方商人を排除して、大 旧臼井町。印旛沼の南に位置する。一一一四年語。 る。境界層が物体表面からはがれて流れの中に 押し出していくと大小さまざまな渦ができる。 ( 永久一 l) 千葉氏の一族臼井氏が築いた臼井城碓井 ( 町 ) うすい ( まち ) 福岡県中部、嘉郡量の生糸を横浜へ売り込んだ。 この成功により創業の翌年には組合員が二一 にある町。一九四一年 ( 昭和一六 ) 町制施行。 〔渦の量子化〕液体へリウムは絶対温度二・二があり、城跡が残っている。その近くに名大関 なりた らいでんためえもん 一〇人に増大し、明治二〇年代には碓氷郡全体 雷電為右衛門の分葬された墓がある。成田街道南西部は古第三紀層の小止陵地であり、東部に 以下の極低温では超流動性をもつ。超流動流 とね に広がり、明治三〇年代には群馬県下全体から 体では量子効果が現れ、ケルビンの循環定理はの宿場町で、印旛沼を通じて利根川水運の港では嘉麻川沿いに低地が開けている。国鉄上山田 うす もあった。一帯は京成電鉄本線に沿っていて大線が通じ、駅名は臼井。明治中期から筑豐炭田埼玉、長野など他の県にも拡大した。一九一〇 Ⅱ O, 1.2 : 32 規模な宅地開発が進められ、キャンプ場印旛沼南部の炭鉱町として発展したが、近年、明治平年 ( 明治四三 ) には産業組合法の適用を受け、 れんごう あきよし 有限責任信用販売組合聯合会碓氷社と改組し、 〈山村順次〉山、昭嘉など六炭鉱の閉山により、水田農村に の形になる。ただし、カはプランク定数、襯は山荘もある。↓佐倉 ( 市 ) えいせん あきづき 戻った。秋月藩主の替提寺永泉寺があり、平山事業の拡大を図った。しかし、資本家による器 ヘリウム原子の質量である。このように循環は囮二万五千分の一地形図「佐倉」 械製糸との対抗から、大正末年以降衰退を余儀 地区に藩主に奉呈してきた獅子舞が伝わってい 量子化されてとびとびの値をとる。循環は閉曲雨水うすい二十四節気の一つ。陰暦正月 〈春日豊〉 なくされた。 〈石黒正紀〉 る。人口六 線を貫く渦糸の強さにほかならないから、これのなかで、立春後一五日、新暦では二月一 一九日にあたる。雨水とは「気雪散じて水と為囮二万五千分の一地形図「大隈」 は渦の量子化を意味する。液体へリウムの中に 薄板うすいた sheet 厚板 plate に対す しゅう 隹土うすいしゃ明治前半期に群馬県に結る用語。鋼板では一般に厚さ三 = 、リメートル以下 る也」 ( 『群書類従』第一九輯『暦林問答集・ イオンを打ち込むとき、イオンによって小さい ; 、ド失オ料ではもっと薄いもの 渦輪がつくられるが、その強さが前の式の上』 ) といわれるように、雪が雨に変わり、氷成された農民の組合製糸結社。横浜開港によるのものをいうカ丿金本 生糸輸出の増大、生糸をいうこともある。鋼板では低炭素鋼、ステン Ⅱ 1 で与えられることが実験的に証明され 町 レス鋼、電磁鋼板 ( 電気鉄板ともいう ) など種 価格の高騰によって、 た。これは、液体の運動というマクロの現象に 田 郡井 群馬県西部地域では幕類が多い。このうち生産量のもっとも多いのが も量子的効果が現れることを一小すものとして重 氷公横 ィ一ぐり 末・維新期に座繰製糸低炭素鋼板であり、これには、赤熱状態で圧延 〈今井功〉 要である。↓流れ↓流体力学 かんむり い斉 による農民の生糸生産されたままの熱延鋼板と、室温で圧延仕上げさ 髻華つず古代、儀式のとき、冠につけ が広範に行われた。それた冷延鋼板、および圧延後めつきや化学処理 た飾りの一種。髪を頭上に結って束ねた根元を 積 もとどり イ 皹号れに伴い、地方商人のなどを施した表面処理鋼板がある。熱延鋼板は 髻というが、冠をかぶり、髻の位置で冠と同 誉積 霧本 坂道生糸の買いたたきや生表面状態をとくに要求されないものや、あとで 質の絹で結び、そこに髻華と称する花形の飾り ー崎 糸の粗製乱造の弊害も塗装仕上げをして使用される鋼板である。冷延 を挿した。『日本書紀』推古天皇一九年 ( 六 ll) 君 すなわ 現れ、農民の利益を著鋼板は自動車や冷蔵庫など表面性状の美しさが の項に、「各髻華を著せり。則ち大徳、小徳は ・一がね ひょ・つ しく阻害した。この事要求される場合に用いられ、またスズ引き鉄板 並びに金を用い、大仁、小仁は豹の尾を用い、 - 」う だいらい C フリキ ) や亜鉛めつき鉄板 ( トタン ) の原板 態を打開するために、 大礼より以下は鳥の尾を用う」とある。また孝 ひがしかみいそペ つばこうぶり に用いられる。屋根葺きなどに用いられる着色 同県碓氷郡東上磯部 徳天皇三年 ( 六四七 ) の項には、鐙冠につける あんなか うず 村 ( 現安中市 ) の豪農亜鉛鉄板 ( カラー鉄板 ) は亜鉛鉄板の両面また 髻華 ( 鈿 ) には、金、銀、銅を用いたとある。 は一わらりようたろう かギ ~ し は片面に塗装、焼き付けたものをいう。塩化ビ 萩原鐐太郎ら三人が なお、平安時代以降に用いられた挿頭華は、こ 中心となり、同村の農ニルの皮膜をつけたものが塩ビ鉄板である。ビ の髻華からきたものと思われる。〈高田倭男〉 ール缶はプリキなど表面処理鋼板でつくられ 民一二三人が参加して ウスアカイソギンチャク「淡紅菟葵・ - ごっちょ - っ 一八七八年 ( 明治一る。 淡赤磯巾着〕 ~ ミきミぎ s ミミ s 腔腸動 非鉄材料の薄板は、プレス加工して種々の製 一 ) 五月に碓氷座繰製 物門花虫綱六放サンゴ亜綱イソギンチャク目ウ 星 品に成形されるほか、打ち抜いて小さい部品を 糸社が結成された。設 スアカイソギンチャク科に属する海産動物。モ 腑図離 き、 ) か「み 西 右距 立時には組合員が自家つくる素材として用いるための帯板 ( フープ モイロイソギンチャクともいう。相模湾以南に プ , 平 ^ 須藤一・三島良績〉 の繭を組合に差し出 hoop) とされる。 ソ、ら・小 分布し、日本特産種。二〇以深の八放サンゴ まっ マかを し、それを組合で混合碓氷峠うすいとうげ群馬県碓氷郡松井田町 亜綱のヤギ類の骨軸上に群生する。足盤はヤギ 空さ きたさく かるいぎわ 一上高 と長野県北佐久郡軽井沢町との境界をなす峠。 して組合員の子女らに の骨軸を巻くために広がっており、多数の個体 なかせんどう そうし プュの 繰糸させる方法をとつ新旧の峠があり、旧碓氷峠は、中山道第一の天 が骨軸上をすきまなく巻くために、一見群体を ッビ山の る莪。もる ていた。しかし、この険として、東海道の箱根峠と並び称せられた。 マ 形成しているようにみえるが、各個体は足盤で うすひのさか よ妙たあ 方法は繭の評価に対す『日本書紀』に碓日坂、『万葉集』に宇須比坂と 連なることはなく、はかのイソギンチャクと同 一夕方望し 記載されて、当時から関東平野と中央髙地をつ る農民の不満が多かっ 様に単生である。体壁の直径、高さはともに二 ュ一東眺張 とうろく なぐ重要な峠であった。東麓の坂本は標高五〇 たため翌年には廃止さ AJ ~ 四弩で、ロ盤は広く、触手は長い。隔膜下端ビ「一南を誇 ヒ上以に やりいと れ、製糸は各組合員が 二なので、比高約四五〇を、八キ。登って峠 に槍糸をもつが、他種の槍糸より著しく太く、 ンは図位Ⅲ へいたん コ , の 3 となり、峠の西は平坦な高原となる。中山道に 一行 , っことになった。組 す・ほとんど刺胞を含まない。縦分裂による無性生氷 よ・一かわ の図線約 合では養蚕・製糸技術は新旧があり、旧道は横川、坂本から北方を回 〈内田紘臣〉碓下瞰赤の 、フ殖を行う。図イソギンチャク 長 群 ・軽井ラ 南軽井沢 妙山 碓水峙 旧軽井沢 を碓水峠 矢ヶ崎亠 信越本線 子持亠 入亠峠 旧中山道 碓水湖 霧積第ム ノ、 碓氷バイバス 程村亠 入山川 ふ 1 1 1
は社会性昆虫の兆しと考えられて リングの製法の発明など工学部門での優れた業 オる ウあ いる。木質部を食べ、腸内にもっ 績もあり、彼を記念して五五年大河内賞が制定 トで イ種ている共生微生物の力を借りて消 ダ亜 おされた。主要著書に『農村の工業』「資本主義 るの化する。本州から九州の屋久島に 〈井原聰〉 工業と科学主義工業』がある。 お 布モまで分布するが、家屋には入らな 大河津分水おおこうづぶんすい新潟平野の しなの すちょう 分ウ ↓ゴキプリ 〈山崎柄根〉 中央を流れる信濃川の州頂につくられた分水路 の古くからの呼び名。いまは新信濃川とよぶ。 島オ大御所時代おおごしよじだい いえなり 東ワ第一一代将軍徳川家斉の治世中の ↓信濃川↓新信濃川 ぶんかぶんせ いてんばう 大ビ ク文化・文政・天保 ( 一八 0 四 ~ 四四 ) に オオコウモリ「大蝙蝠〕 flying fox, かん ほにゆ - っ ラ わたる時期をいう。この時代は寛 fruit bat 哺乳綱翼手目大翼手亜目に属する ダ ウモ マ 政の改革と天保の改革に挟まれ、 動物の総称。この亜目 Megachiroptera には ゴ オ 幕政の緊張が緩んだ時期である。 オオコウモリ科 Pteropodidae だけが含まれ オオ オ 家斉は一七八七年 ( 天明七 ) 四月 る。同科の仲間は旧世界の熱帯および亜熱帯地 域、すなわちサモア諸島以西、アフリカの西端一〇日ごろ目を開く。母親は六週間はど子を胸 に将軍を襲職し、一八三七年 ( 天保八 ) 四月にオオゴマダラ〔大胡麻斑蝶〕こき いえよし りんし くちのえらぶ 将軍職を家慶に譲って大御所となったが、死ぬ conoe 昆虫綱鱗翅目マダラチョウ科に属する に抱き続ける。バナナなどの果実の栽培場では 以東、鹿児島県ロ永良部島とパキスタンのパン りゅうきゅう さだのぶ これら大形種の大群による食害があるが、一方まで実権を握っていた。その初政には松平定信チョウ。日本では沖縄本島以南の琉球諸島に ジャープを結ぶ範囲以南、オーストラリアとマ よろん おきのえらぶ ダガスカル島およびアフリカ南部を結ぶ範囲以それらの肉は美味で、東南アジアではしばしばの主導する寛政の改革があり、定信退隠後の幕普通、現在では与論島、沖永良部島にもまれで のぶあきら あまみ どうくつはいきょ 北の地域に分布する。森林、洞窟、廃墟をねぐ 食用にされる。また、果実食のものは、飼育が政は松平信明らの寛政の遺老により運営されなく、すでに土着種と認められる。奄美大島、 きかいがしま ットになる。 たが、漸次家斉の影響が直接に幕政に及び、と喜界島、吐鳴喇列島、屋久島でときに発見さ らとする。大きさはさまざまで、小形のものは容易で、性質がおとなしく、ペ ただなり グ一フ、 くに水野忠成が幕閣の中心となった文化末 ~ 天れるものは南方からの迷チョウあるいはそれに 前腕長三・七、翼開長二四、体重二〇ム 約二〇〇種があり、大形で果実を主食とする オオコウモリ亜科、舌が長く、口外に突き出す保初年には、改革期にみられた政治的緊張もな由来する一時的な発生個体と考えられる。外国 大形のものは前腕長二三、翼開長一 らんじゅく くなり幕政は緩んだ。同時に爛熟した大江一尸では台湾、フィリピン、ポルネオ島、ジャワ 体重一・二キ。に達する。小翼手類にみられる耳ことができ、花枌を主食とするシタナガオオコ 珠、迎珠、鼻葉などがなく、目が大きく、超音ウモリ亜科、鼻孔が円筒状に突き出て、尾が比文化が生まれた。しかし一八〇五年 ( 文化二 ) 島、スマトラ島、マレー半島、タイ、ビルマ 波を発しない。耳介は卵形で筒状である。前肢較的よく発達している果実食のテングオオコウの関東取締出役の設置、二七年 ( 文政一〇 ) の ( 南部 ) に分布するが、中国には産せす、マレ こんせき ー半島系のチョウである。はねの開張一三〇、、リ の第二指にもつめを有し、外尾はないか痕跡的モリ亜科、中形で尾をまったく欠き、後肢が短文政の改革、組合村の結成、積極的な貨幣改鋳 などの政治が行われる一方、末期には天保の飢内外。日本産のマダラチョウ科では際だって大 なことが多いが、ポリネシア産のセョクシタナいオナシオオコウモリ亜科の四群がある。わが ・一くはん おおしお きん 形で、はねの地色は白色で多少の黒斑を散布 ガコウモリ ~ ミ、 e s ミ do き斗のように腿国にはオオコウモリ亜科のオガサワラオオコウ饉が続き、大塩平八郎の乱をはじめ一揆、打 - 一わし かん し、日本およびその周辺地域にはこれに紛らわ 間膜から突出した長い尾のあるものもある。腿モリ、オキナワオオコウモリ、クビワオオコウ毀が激発するなど、経済的、社会的に矛盾が でんぶ 〈吉行瑞子〉進行して封建的危機が深刻化した。また鎖国下しい近似種はない。高所を飛ぶが、飛び方は緩 間膜も多くは退化し、大腿部と臀部の内側を縁モリの三種がすむ。 にあって、外交問題が生じ始めたのもこの時代やかで、花に舞い降りるものはたやすくとらえ どる程度にすぎない。翼は比較的短く幅広い。 大越 ( 町 ) おおごえ ( まち ) 福島県中東部、田 きゅうし がんか 〈山田忠雄〉 られる。幼虫の食草はキョウチクトウ科のホウ 頭骨では後眼窩突起が著しく発達し、臼歯、前村郡にある町。一九四一一年 ( 昭和一七 ) 町制施の特徴である。 あぶくま うす ライカガミであるが、ガガイモ科のリュウキュ 臼歯の歯冠部は滑らかな臼状で、果実食に適応行。国鉄磐越東線が通じる。阿武隈高地中央部オオゴマシジミ〔大胡麻小灰蝶〕ミミ・ りんし 〈白水隆〉 する。 に位置し、町域は標高四〇〇以上の高原で凍守ミミ & ミ斗 s 昆虫綱鱗翅目シジミチョウ科ウガシワも食べるという。 おしま 日中は大きな樹葉の茂みや洞窟に普通群れを霜害も多い。かっては馬産地であったが、現在 に属するチョウ。日本では北海道の渡島半島南大佐 ( 町 ) おおさ ( ちょう ) 岡山県北西部、阿 おさかべ は葉タバコの主産地。大規模な石灰石鉱山があ部、本州 ( 東北、関東、中部 ) の山地に分布哲郡にある町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 刑部町 なして休息し、日没前後にねぐらを飛び出す。 おおたき たじべ ひしよう ときに日中も飛翔するが、採食は普通夜間行り、セメント工場が立地する。町境にある大滝し、深山の渓谷にみられるチョウである。外国と丹治部、上刑部の二村が合併して成立。町名 ねたかしば きゅうかく 根、高柴などの山地は阿武隈高原中部県立自然では朝鮮半島、ソ連の沿海州に分布する。ゴマは、旧三町村にまたがる大佐山 ( 九会 う。視覚や嗅覚が小翼手類より優れ、熟した たかはし おさかべ シジミに似ているが、より大形、はねの開張四なむ。高梁川支流の小阪部川の流域を占め、町 公園の一部である。人口六八四七。〈渡辺四郎〉 果実や花のある場所を求めて、しばしばかなり きしん 〇ミリ内外。後ろばねの裏面は強く灰緑青色を帯域の大部分は中国山地。中央を国鉄姫新線が横 の長距離を飛翔する。冬眠はしないが、季節的囮二万五千分の一地形図「上大越」「柳橋」 びる。年一回発生し、七、八月に出現するが、断する。農林業が中心で米、和牛、シイタケ、 な渡りをする種もある。食物は軟らかい果実、オオゴキ " フリ〔大蜚蝋〕ミ s 花の蜜、花粉、花弁などで、おもに果実を食べ s. をミ昆虫綱ゴキプリ目オオゴキ。フリ科の七月下旬から八月上旬が最盛期。ゴマシジミは抑制キュウリ、木材を産する。大佐山頂ではハ ふもと ンググライダー滑空が行われ、麓には県和牛試 草原に生息するが、本種は山間渓谷の森林の川 る大形のものは片足で枝からぶら下がり、他の昆虫。体は黒色ないし黒褐色の頑丈なゴキプリ ^ 由比浜省吾〉 沿いの草地に発生する。幼虫の食草はシソ科の験場がある。人口四五六六。 足で食物を口に運ぶ。しかし、花枌や花の蜜をで、体長四〇 ~ 四五ミリ。ほかのゴキ。フリと異な 食べる小形のものは、花に止まり、あるいは飛り、体形が厚く、雄の前胸背板の前部左右は丸カメバヒキオコシ、クロバヒキオコシの花穂。回『大佐町史』 ( 一九七九・大佐町 ) ▽『山間盆地の し 産業と生活ーーー岡山県大佐町』 ( 一九〈 0 ・岡山 く突出する。触角は短く、肢部に鋭い棘が多数四齢幼虫はクシケアリによってその巣中に連れ びながら空中に静止し、先端がブラシ状になっ 大学教育学部 ) た長い舌で食物をとる。大形種では妊娠期間は生ずる。朽ち木の中にトンネルをつくり、そこ込まれ、アリの幼虫を食べて育つ。越冬態は幼 〈白水隆〉五万分の一地形図「勝山」 に成虫や幼虫が入り混じって群居するが、これ虫である。 約四か月、閉眼で有毛の一子を産む。子は生後 みつ ばんえっ 4 ・ 4- / み いっき てつ 892
えべると いー ) め ~ り 〈西本晃二〉 久一戯曲『開けぬ時』 ( 一九六六 ) など。 した。また、グリフィス Fred Griffth ( 一、 ーーしょ『新約聖書』のなかの手江別 ( 市 ) えべっ北海道南部、石狩平野に 工ペソ書 ー一九巴 ) の発見による肺炎双球菌の形質の転換エーベルソン Philip Hauge Abelson ある市。札幌市東部に隣接する衛星都市の一 紙の一つで、パウロがエベソの教会あてに書い はこだて びと ) アメリカの物理学者、化学者さら たとされているもの。「エベソ人への手紙」とつ。一九五四年 ( 昭和二九 ) 市制施行。函館本現象に注目し、三二年ころより、この転換物質 ( 一九一三ー に編集者。ワシントン州タコマに生まれる。ワ もいわれる。工ペソ Ephesos は小アジアの海線、国道一二号などが通じる。地名はアイヌ語を分離する試みを行い、四四年これが の「ユベオッ」 ( サケのいる川 ) 説その他があ ( デオキシリポ核酸 ) であると発表した。これシントン州立大学、ついでバークレーのカリフ 港都市エフェソスのことで、確かにパウロの伝 る。一八七八年 ( 明治一一 ) 岩手県から一〇戸は遺伝子がであることを示す最初の重要ォルニア大学に学び、一九三九年カーネギー研 道活動と密接な関係にあった。ところが、異邦 〈石館三枝子〉 究所に助手として入所。マクミランを助けて核 人教会の問題をめぐる教理的論述と道徳的勧めが屯田兵の先駆で入植し、続いて八六年二個中な結果であった。 ( 一七五七分裂の研究を行い、最初の超ウラン元素ネブッ ル Jacques ・ René Hébert とからなる手紙の内容は、かならずしも、バウ隊三七八戸が配置を完了した。九〇年新潟県人工べ せきやまごぎえもん ー九四 ) フランス革命期のジャーナリスト、政ニウムを発見 ( 一九四 0) 、またウランの同位体の 関矢孫左衛門が「北越殖民社」を組織して一一〇 ロ神学の核心を正面から扱ったものとはいえ のつばろ す、また、エベソという地名が記されている箇四戸を市内野幌に移住させ開拓にあたった。札治家。アランソンの富裕な金銀細工商の子。母分離を研究 ( 一九四一 (l) 、四六年カーネギー研究所 所は、本文批評のうえで問題があるため、今日幌近郊の典型的な酪農地域であったが、大正時は貴族出身。九歳で父が死亡、家連が傾き、弁のスタッフの一員となる。五三年に地球物理部 門の部長となり、岩石中の脂肪酸などを研究 では、これをパウロの真正な書簡とはみなさな代以降市内を流れる江別川と石狩川の合流点に護士を志して法律を学び、一一六歳のときバリに ばっ 王子製紙工場、北海道電力火力発電所が立地出、ポヘミアン生活の窮乏をなめる。革命が勃 ( 一九五六 ) 、『地球化学研究』一、二巻 ( 一九究、六七 ) い説が有力になってきた。もちろん、キリスト し、野幌地区ではれんが、農業排水用土管など発する ( 一大九 ) と、新聞、パンフレットなどのを編集した。『地球物理学研究雑誌』 7 ミこミ や教会をめぐる思想には、パウロとのつながり の窯業が盛んで工業都市的要素が加わっていっ盛行をみてジャーナリストたろうと決心、野卑 G き、をミや s き、の副編集長 ( 一九五九 ~ も認められ、その展開の仕方は「コロサイ書」 六五 ) 、『サイエンス』 Science の編集者 ( 一九六一一 ~ との相互関係を示唆する。おそらく一世紀終わた。一九五五年以降札幌市のべッドタウン化すな文章で人気を得たアンリクの『くそくらえ』 〈道家達将〉 ) なども務めた。 りごろ小アジアにおいて執筆されたものであろる傾向にあり、とくに道営大麻住宅団地が洪積紙にヒントを得、一七九〇年『デュシェーヌ親 エーヘルト KarI Joseph Eberth ( 一八三五 父』紙を発刊する。民衆そのままのこの人物に 〈土屋博〉台地の末端、屯田兵駐屯地跡に造成されて約一一 ー一九一一六 ) ドイツの解剖学・病理学者。チフス 万の住民が居住するようになっ俗語、卑語で日々の事件を語らせ、たちまちパ 王のメ第ジ で盛ア 4 工 リ下層の急進的な民衆に対するプロバガンダの菌の発見者。ウュルツ。フルクに生まれ、ウュル た。またこの団地と国道、国鉄 で形ア ト角た像 ロの・かイ ップルク大学を卒業。スイスのチューリヒ大学 線を挟んだ南側、野幌丘陵の一代表たる地位を獲得する。これを足場に政治に プ三け立ロ 一人ンウ画 一つ世イヨ婦ロ 解剖学・病理学助教授となり、一八六九年教授 部は、札幌から移転したものを進出、コルドリエ・クラ。フに加入、各セクショ 工しを 3 カ館紀流プた一 ン代徴ント 物世上工っガンリ に昇進。七四年チューリヒ獣医科大学の病理 ンの急進派の一中心としてパリ・コミューンに 含め三大学と道立図書館などの 用なホロラ ロ古象ロハ朝博 プ〕をプム王 ャ文教文化施設が集中し、文教地勢力を確保、九二年八月一〇日の起に活躍、学・組織学・進化論教授。八一年からドイツの 工〔権エネプ祐「装期ム年ギ ハレ大学の比較解剖学・組織学・進化論教授、 区となっている。旧野幌屯田兵ジロンド派の憎しみ、恐れの的となり逮捕され 第二中隊本部は道の文化財に指るが、民衆蜂起の脅迫によりただちに釈放され一九一一年同大学名誉教授となった。一八八〇 ひぞう 定されている。人口八万六三四る。九三年五 ~ 六月のジロンド派追放の一翼を年、腸チフス死体二三例のうち、一二例の脾臟 せん と腸間膜リンパ腺に特定の細菌を発見し、翌年 〈奈良部理〉 担ったが、ロベスピエール派の権力掌握後は、 九。 これをなお穏健なりとするモンターニュ ( ジャ同じ所見を確認して腸チフス病原菌として発表 回『江別市史』上下 ( 一九七 0 ・江 〈藤野恒三郎〉 コバン ) 派左派のリーダーとなり、「理性の祭した。 別市 ) エーヘルト Friedrich Ebert ( 一 0 一ー 囮五万分一地形図「江別」「札幌」典」など非キリスト教化運動を推進したすえ、 一一五 ) ワイマール共和国の初代大統領 ( 在任一九 エーベリー OswaId Theo- 九四年三月、革命派を装う外人の陰謀事件加担 を理由に、同志とともに逮捕され、同二四日ギ一九 ~ 一一五 ) 。仕立屋の息子としてハイデルベルク dore Avery ( 天七七ー一九五五 ) ロチン上で刑死した。工べール派とよばれた左に生まれ、馬具職人の修業を積み、一八八九 アメリカの細菌学者。父親はイ ギリスから移民した牧師。コル派の切り捨ては、結果的にはテルミドールの反年、社会民主党に入党、実務家としての手腕を 〈樋口謹一〉 買われて、一九〇五年党執行部書記、一二年以 ゲート大学、コロンビア大学医動の一因をなしたといえる。 ) カ降帝国議会議員となり、一三年にはペーベルの ル Anne Hébert 学部卒業。ホーグランド研究所工べー ーゼと並んで党議長に選ばれた。第一 を経て、一九一三 ~ 四八年ロツナダの女流作家。詩人、小説家で劇作もある。死後、ハ フランス系。詩人サン・ドニ・ガルノーとは従次世界大戦では政府、軍部に妥協する「城内平 クフェラー病院の呼吸器病研究 部に勤める。主として肺炎双球妺。作品も、血縁でもあり同時代人でもあるガ和」 Burgfriede を積極的に推進、一八年一一 月のドイツ革命ではハーゼらと人民代表評議会 ルノーを思わせる。両者ともに病弱である点も 菌の研究を行ったが、その内容 は多方面にわたっている。伝染共通している。ケベック市を中心に活動。フラを組織したが、グレーナーら軍部の勢力と結ん 町病の問題から出発し、免疫学的ンス系カナダに独特の大家族と、それに君臨すで革命派を退け、一九年国民議会によって大統 領に選ばれ、内外の困難な事態の処理にあたっ な研究を行い、細菌の病原性とる母親あるいは教会の権威と束縛とに反抗し きよ、つまく こ。しかし右翼の中傷による裁判事件の疲労も 一。莢膜とよばれる外被膜の存在て、自己の実現と生命の充実感を求める感情をオ との関係、莢膜の化学組成によ繊細な文体で描く。おもな作品は詩集「平衡の加わり、二五年二月二八日、任期満了の直前 〈松俊夫〉 6 る免疫学的特異性などをみいだ夢』 ( 一九四一 D 、歴史小説『カムラスカ』 ( 一九七 0) 、死亡した。 おおあさ ばっ
うすた 大有珠 長流川 有珠山 / ビュー・マップ オガリ亠 有球新亠 胆振線 有珠山口一プウェー 昭和新亠 東丸亠 小有珠 、望っ 室蘭本線 亠温 国道 230 号 洞爺湖温泉 この 2 点のコンピュータによるヒ、ユー プ ( 俯瞰図 ) は , ①北西方の日本海上空から , ②南東方の室蘭市上空から , 右図赤線の図域 を眺望したもの ( 高さを水平距離の約 3 倍に 誇張してある ) 有珠新亠 オガリ亠 小有珠 トいの - ヒ 有珠山 1977 年 8 月 7 日 , 32 年ぶりに噴火 し , 翌年 1 0 月まで活動を繰り返した。その 間 , 大雨による火山灰の泥流が生じ洞爺湖 温泉などが被害を受けた 県。くつらやん ~ 市 田町洞湖温泉 壮暼温泉宅 有亠△ー - っ 至ひがしむろら 匹十三亠 壮瞥温泉 国道 230 号 だてもんべつ 洞爺湖温泉 大有珠 東丸亠 室蘭本線 昭和新亠 有珠山口一プウェー 胆振線 長流川 る。初めは故人の手紙などを漉 き返し、これに写経をして冥福 を祈るのに使用されたが、やが て公文書にまで用いられるよう りんじし せんじし 城塁 になると、宣旨紙、綸旨紙など 式土 とよばれるようにもなった。平、 の垣 安末期に権力が貴族からしだい 形石 みちのくがみ に武家の手に移り、また陸奥紙 ・五堀 などの優れた地方産紙が出回る ようになるにつれて、紙屋院の もと 地位も漉き出す紙の品質も低下 で地 国敷 し、薄墨紙は紙屋紙の代名詞の 全の ようになった。さらに江戸時代 も学る にしのとういん になると、京都の西洞院のほ ちりがみ とロて 郭田め とりの民家で漉く下等の塵紙を 稜はど 意味するようになった。しかし / 館城を 後世には、趣味的に紙料に少量 函岡型 竜原 の墨汁を加えて漉いた新しい薄 町 , の 田在そ 墨色の工芸紙も現れている。 臼現に 〈町田誠之〉 紙屋紙 立教育大学、ウースターエ科大学などの大学 ゥースター Worcester イギリス、イン グランド中部、ヘアフォード・アンド・ウースや、多くの博物館、展示館がある。発明家の ター県の県都。 ーミンガム南南西四〇キ。にあ・ホイットニーや・ハウ、歴史家・バン り、人口七万四二四七 (IR<I)O セバーン川のクロフトなど、有名人の居住地としても知られ 〈作野和世〉 渡河点近くに発達した交通の要衝で、 -cester ている。 みなみさ がつく地名の特徴からローマ時代起源と考えら臼田 ( 町 ) うすだ ( まち ) 長野県中東部、南佐 れる。一一世紀の『ドウームズデー・。フック』久郡にある町。佐久盆地南部に位置し、一八九 へんさん ( 征服王ウィリアム一世編纂のイングランド国三年 ( 明治二六 ) 町制施行。一九五五年 ( 昭和 たぐちあおぬま きりはら 勢調査書 ) には、「城壁とで囲まれた小さな三〇 ) 切原村、五七年田口青沼村と合併。町域 ちくま 町」と記載されている。一三世紀以降、手袋のは千曲川の両岸に広く広がり、中心街は左岸に - 一うみ 生産で知られ、中世には羊毛業の中心であつある。国鉄小海線が町域の中央を南北に通過 た。現在は一八世紀に始まった製陶工業が主要し、商店街は国道一四一号に沿っている。明冶 な産業で、ほかに金物、工具などの製造も行わ以後は南佐久郡の行政、教育の中心にもなって れる。わが国ではウースターソースの産地とし いる。全国厚生農業協同組合連合会の佐久総合 て知られる。中世以来の建築物も多く、大聖病院があり、農村医学のメッカといわれ、七階 ・スクールなどは建ての偉容を誇り、全県下より患者が集まる。 堂、ギルドホール、グラマー は - 一だて′一りようかく また田口には、函館五稜郭とともに全国で二 その代表である。一七 ~ 一八世紀の住宅も多く たつおか 残っている。ピューリタン革命を勝利に導いたっしかない星型の城郭竜岡城跡 ( 国指定史跡 ) 〈井内昇〉 がある。一 八六三年 ( 文久三 ) 田野口藩主大 ゥースターの戦い (IKFI) の地。 ぎゅう のりかた ゥースター Worcester アメリカ合衆国、給松平乗謨がフランスの築城法を取り入れて 建てた ( 完成は一八六七年 ) もので、函館の約 マサチューセッツ州中部の工業都市。人口一 ~ 万一七九九 0 〈〈 0 『機械、金属、繊維、衣料 ( 半分 0 規模。現在、城跡」小学校」な 0 = 」る 薬品、靴など多種の製造業が盛んで、印刷・出が、星型の堀はそのまま現存している。これよ り東一キ。の山麓には、室町末期建立の国指定重 版業も重要。一七一三年に町がつくられ、一、 ーし′れルい 二八年。フラックストン運河の開通により、急速要文化財の三重塔をもつ新海神社がある。人口 ↓竜岡城 〈小林寛義〉 な工業および都市発展がみられた。教育・文化一万六二〇八 の中心でもあり、クラーク大学、ウースター 囮二万五千分の一地形図「信濃田口」「臼田」 さんろく