いる。このほか『大阪新聞』 油や各種原料、製品の輸出入港の役割を果たしている。大阪 大阪府 / 略年表 六、湾南端の深日港 ( 岬町 ) は淡路島と結び、近年フェリー埠頭などの地元新聞やスポーツ新 聞などがあり、総発行部数約 旧石器時代交野市神宮寺遺跡、羽曳野市新池遺跡、藤井 おも整備された。 寺市国府遺跡、枚方市三ッ池遺跡 お 航空には大阪国際空港 ( 豊中市、池田市と兵庫県伊丹市 ) 四四九万部 ( 一九八一 ) に上り、 縄文時代枚方市穂谷遺跡 ( 早期 ) 、箕面市瀬川 ( 前期 ) 、 がある。関西の空の玄関をなし、国内線は西日本を主に全国東京都に次いでいる。 東大阪市日下目 ( 塚 ( 後期 5 晩期 ) の主要都市と、国際線は東南アジアを中心に世界の主要国と 放送面は、日本放送協会 弥生時代大阪市瓜破遺跡、堺市四ッ池遺跡 ( 前期 ) 、東 : 結んでいる。航空騒音などの問題から、泉州海岸沖に関西新大阪放送局が一九 大阪市瓜生堂遺跡、豊中市勝部 ( 中期 ) 古墳時代古市古墳群、百舌鳥古墳群など 二五年 ( 大正一四 ) ラジオ放 空港設置が計画され、関西国際空港 ( 株 ) の設立をみた。八 ( 垂仁朝 ) 依網池、狭山池などを築造 尾空港はト」 / 型機用の商業空港として利用されている。 送したのに始まる。民間放送 かみがた ( 応神朝 ) 難波大隅宮に遷都 には毎日放送、朝日放送、関 〔社会・文化〕近世以来、大坂は京都とともに「上方」とよ ( 仁徳朝 ) 難波高津宮に遷都 ばれ、江戸と対照的な地位にあった。その伝統は今日でも、西テレビ、読売テレビ、テレ ( 反正朝 ) 河内丹比に柴籬宮を造営 三 ( 推古一 ) 聖徳太子、難波に四大王寺を建立 ビ大阪などがある。 教育・文化に特色ある性格を発揮している。 六 0 九 ( 遣隋使小野妺子、隋使を伴って難波に帰津 〔教育・文化〕江戸時代、大坂の学問所の開設は町人の力に 文化施設としての公民館、 六四五大化一孝徳天皇、難波長柄豊碕宮に遷都 負うことが多かった。一七一七年 ( 享保一 l) に住吉郡平野郷図書館、博物館、美術館など 六大天武七難波に靴城を築く がんすい につくられた郷学含翠堂も郷内の有力者の出資によるものは、大阪市を中心に各衛星都吉四天平一六聖武天皇、都を一時難波宮に移す 天平六唐僧鑑真ら、難波津に到着 で、陽明学、古学、朱子学を教え、明治初年の学制公布まで市にみられる。「大阪市」の しゅうあん 力いとく 七会延暦四淀川下流を三国川 ( 神崎川 ) に疎通 続いた。一七二四年に開設した中井甃庵の漢学塾の懐徳堂項に記述するもののほか、万 おおっきげんたく 〈四四承和二難波鴻臚館を摂津国府とす 国博覧会場跡の記念公園内の も好学の大坂商人らの出資によるものであった。大槻玄沢門 一 0 一一 0 寛仁四源頼信河内守となる ( 河内源氏の起源 ) そうきち らんがく 下の橋本宗吉は大坂で医業を営むとともに蘭学を教え、多く国立民族学博物館、国立国際一 = 0 一建仁一後鳥羽上皇、水無瀬宮に行幸 の門下生を集めた。門下に中天游がおり、彼に蘭学を学んだ美術館、大阪府立国際児童文 = = = 一厩一一楠本正成、河内赤坂で北条討伐の挙兵 てきてきさい おがたこうあん 一三一 = 〈暦応一北畠顕家、足利軍と阿倍野で戦う 緒方洪庵は一八三八年 ( 天保九 ) に適々斎塾を開いた。医業学館、大阪日本民芸館や、豊 , 貞種四四條畷の合戦、楠本正行戦死 一兀山ー九 のかたわら蘭学を教え、約二〇年間に三〇〇〇人余の塾生を中市の日本民家集落博物館、 明徳三大内義弘が和泉守護となる いつおう 育成した。国指定史跡の「緒方洪庵旧宅および塾」 ( 大阪市池田市の逸翁美術館、堺市博 一 = 一九九応永六大内義弘、堺で敗死 ただおか 一四長禄一河内に土一揆起こる 東区北浜 ) は一八四三年に移転したときの建物である。適々物館、泉北考古資料館、忠岡 一四九六明応五本願寺蓮如、石山別院を創建 斎塾の蘭学を源流とし、一八八〇年 ( 明治一三 ) に発足した町の正木美術館、和泉市の久 ばそ、つ 一 0 天文一九サビエル堺に上陸、キリスト教を伝える 府立大阪医学校は、大阪医科大学、大阪帝国大学医学部を経保惣記念美術館や箕面市の箕 一五吉天正一一織田信長、本願寺と争う ( 石山戦争 ) て、現在大阪大学医学部となっている。阪大にはこのほか面公園昆虫館などがある。 八本願寺顕如、織田信長と和睦し、大坂を退去 羽柴 ( 豊臣 ) 秀吉大坂入りし、大坂城築造を 理、エ、法、文、経などの学部があり、千里止陵に立地す〔生活文化〕府民の生活文化 開始 に関しては、昭和の初期まで る。このほか国立大学は大阪教育大学、大阪外国語大学があ 一五九四文禄三太閤検地始まる り、公立大学には大阪府立大学、大阪女子大学、大阪市立大は摂河泉の旧国ごとに、その 一六一四慶長一九大坂冬の陣、徳川・大坂方の和議なる 学がある。私立大学には、関西法律学校を前身とする関西大自然環境と歴史を背景にし 一六一五元和一大坂夏の陣、豊臣氏滅亡。松平忠明大坂に移 封、市街を復興 学のはか、近畿大学など二八校、また短期大学四二校 ( 一九て、食住の生活、民俗芸能、 五幕府、大坂を直轄領とし、大坂城代、大坂町 含 ) があり、このほか多くの高専、高校が整備している。大伝説や文化遺産、特産物など 奉行を置く に地域色を色濃くみせていた 学の傾向としては、多種多様化した大学のなかでも、商、 一六ニ六寛永三大坂立売堀川開削。安井九兵衛、道頓堀に芝 が、第二次世界大戦中の経済 経、工学系など実学的大学が多い。 居設置の許可を得る 一六六亠寛文五大坂城大守閣に落雷、全焼 マスコミも西日本の中枢として重要な地位を占めている。統制や戦後の都市化の進展で 一六〈四貞享一河村瑞賢、安治川をつくる。竹本義太夫、道 一八七六年 ( 明治九 ) 創刊の『大阪日報』は八八年『大阪毎生活文化の近代化と画一化が 頓堀に竹本座を開く 日新聞』となり、『朝日新聞』は一八七九年に大阪で創刊し急激に進み、地方色は薄れて 一吉四宝永一大和川付け替え工事完成 たのに始まる。『サンケイ』も一九三三年 ( 昭和八 ) 大阪できた。そのなかにも文化の伝 一耋九享保一四大坂堂島に米市場を開く 一実七明和四お陰参りが大流行 統は根強く自 5 づいている。こ 創刊された『日本工業新聞』を前身とする。現在ではこのほ か『読売新聞』『日本経済新聞』などが大阪に本社を置いてこではそれらにつき、大阪市一戔一安永一天満青物市場の問屋株・仲間株が免許される みさき たみ 埴輪女子頭部 堺市出土宮内 . , 笋 : 898
うかがいごときろく室町幕府の伺 くて、資本の利潤率と利子率とが等しいとき、伺事記録 浦の奥に位置する農漁村。近年奥志摩観光の拠 らっきょ て ↓阿児 ( 町 ) 点として開発が著しい 事に関して、その内容および落居 ( 裁定 ) の結 迂回生産の度合いが決まる。これがべーム・ ベルクやハイエクのオーストリア学派による生論を記録した控え。前後二冊。一冊は幕府奉 うがち戯作の発想法の代表的なもの。本来 ぎようにんいのおもとつら 「穴をうがっ ( 穿っ ) 」とか「穴をいう」ことの 産構造論であったが、最近、ケインズの貨幣的行人飯尾元連の一四九〇年 ( 延徳一 I) の記録、 たかつら 意で、この場合「穴」とは社会生活万般におい 一冊は元連の孫で同じく幕府奉行人の飯尾堯連 利子論に対するマネタリズムの批判のなかで、 てみいだされる欠陥をさし、それが個人的に現 〈一杉哲也〉の一五三九 ~ 四七年 ( 天文八 ~ 一六 ) の間の記 見直されつつある。 ゅうひっ れる場合はその人の癖や気質をさすことにな うがいてつじよう ( 天一四ー九 I) 明録。後者には、将軍の諮問に幕府右筆方などが 養鷓徹定 る。「うがち」はその欠陥を鋭く指摘すること 治前期の浄土宗の僧。化一一年三月一五日筑答えた意見状の写しが多く含まれている。 こきよう しようおう で、ややもすれば気づかれずに放置されている 伺事とは、室町後期、従来の訴訟制度であっ 後 ( 福岡県 ) に生まれる。松翁、古渓、古経 どう きゅうどうじん くるめ ひきつけ 穴をいち早く指摘するときに、その「うがち」 後、公職追放。解除ののち五三年 ( 昭和二八 ) 堂、杞憂道人などと称した。六歳で久留米西岸た引付制が形骸化したのに伴い制度化されたも ぜんりゅう ていはつじようらく は賞賛される。「うがち」の姿勢はおおむね無 寺の禅龍について剃髪、上洛して儒仏二道をので、幕府の奉行人が訴訟その他の事項に関し参議院選挙に出馬、全国区最高点で当選した。 〈北河賢三〉責任であり、あくまで「笑い」のための発想法 昭和三一年四月三〇日死去。 学ぶ。幕末・維新期には諸宗同徳会盟に加わて合議した結果を将軍に上申してその決裁を仰 ぶつばうふかしやくろん である以上、「 風刺」や「教訓」との間には懸 ぐ手続をいう。伺事の内容は訴訟が主体である回井上清著『宇垣一成』 ( 一九七五・朝日新聞社 ) り、『仏法不可斥論』を著して排仏論に反駁 あしかがよしのり しようやろん びやくじやかんけんろく 〈中野三敏〉 ~ 七一・みす隔がある。 ▽『宇垣一成日記』全三巻 ( 一九交 し、『闢邪管見録』『笑耶論』などを著してキが、広く一般政務にも及び、六代足利義教 ( 在 いわっき はいせき 回中村幸彦著『戯作論』 ( 一九六六・角川書店 ) ず書房 ) リスト教排斥に努めた。また武蔵国岩槻 ( 埼玉位一四一一九 ~ 四一 ) 以降、実質はともかく形式的には でんずう 県 ) の浄国寺、東京小石川の伝通院を経て、知極度に強化された将車親裁の動きに見合った制于学忠うがくちゅう ( 一会九ー一九六四 ) 中国の羽化登仙うかとうせん人間の身体に羽が生 0 〈千々和到〉軍人、政治家。山東省の人。一九一一年通州隨えて、天上の仙人世界へ登っていくこと。羽を 恩院七五世の住職となり、宗学西部本校を創立度であるとされる えい もって空中を飛行することは、古来、中国人の し、一八八五年 ( 明治一八 ) 三月浄土宗管長と回桑山浩然校訂『室町幕府引付史料集成上』営学校卒業後、軍に入り、呉佩孚から張学良に えいじゅ つく。三〇年東北軍の入関に伴い平津衛戍司一つの理想であり、仙人となって、世俗のいっ ( 一九ハ 0 ・近藤出版社 ) なった。書画、詩文にも優れ、仏教考証史家、 かんしゆく うがきかすしげ ( 天六〈 ー一九五六 ) 軍令、三二年河北省主席、三五年甘粛省主席、さいの煩わしさを逃れるのも、これまたその理 鑑識家としても著名である。明治二四年三月一宇垣一成 そう そしよく せきへき しようかいせき けいおう 〈金田諦応〉人 ( 陸軍大将 ) 、政治家。慶応四年六月二一日西安事件のさい蒋介石に内戦停止を主張して想の一つであった。宋の詩人蘇軾の『前赤壁 五日示寂。 ひょうひょう・一 わす ばうえき round-about 岡山県に生まれる。一八九〇年 ( 明治二三 ) 陸主席を罷免される。山東省で日本軍と戦い、四賦』に「瓢瓢乎として世を遺れて独立し、羽 迂回貿易 ) 一と じゅうけい 化して登仙するが如し」とあり、この世の憂さ trade 為替操作などのために、二国間の直接軍士官学校卒業、一九〇〇年 ( 明治三三 ) 陸軍一年以降は戦線を離れ重慶で軍事顧問委員会 副主任。日中戦争後は国民党革命委員会の結成を忘れてなんとも楽しい気持ちになっている状 大学校卒業。参謀本部員となり、軍事研究のた 取引によらないで、第三国を経由して迂回的に 行う貿易をいう。第二次世界大戦後、外国為替め日露戦争前後二度ドイツに駐在した。一一年に参加、新中国に残り、五二年河北省人民政府態や、転じて、酒に酔って陶然としているさま 〈田所義行〉 管理が厳しく行われていた時期には、輸出代金軍務局軍事課長となり、二個師団増設のために委員。五四年から没年まで国防委員会委員を務を例えることばとなっている。 うがやふきあえすのみこと 〈加藤祐三〉 鵜葺草葺不合命 は原則として米ドルなどの標準的な外貨で受け活躍、一三年 ( 大正一 l) 山本権兵衛内閣のときめた。 とよたまびめのみこと すずか ひこははでみのみことやまさち 取ることが必要とされた。しかし、標準的な外には軍部大臣現役武官制廃止に反対の立場をと宇賀渓うがけい三重県北部、鈴鹿山脈の彦火火出見命 ( 山幸 ) と豊玉毘売命の間に生 じんむ しやか りゅう った。一六年参謀本部作戦部長に就任、一八年竜ヶ岳と釈迦ヶ岳の間を東へ流れる宇賀川のまれた子で、神武天皇の父 ( すなわち、日向三代 貨以外で受け取るほうが貿易業者に有利な場合 うおどめ つばめ にはシベリア出兵方針の策定にあたった。その上流にある渓谷。御所滝、魚止の滝、燕滝、長の神の三代目 ) にあたる。この神の名は、豊玉 には、為替管理の抜け道として迂回貿易という 方法がとられた。たとえば、英ポンドがまだ交後、陸軍大学校校長、第一〇師団長、教育総監尾滝など多くの滝と急流の景観は鈴鹿山系渓谷毘売命が、海神の国から地上の国にやってき かや て、海岸のなぎさにつくられた鵜の羽を葺草に 換性をもたなかった時期には、イギリスからア部本部長、陸軍次官を経て、二四年清浦奎吾内でも随一といわれ、鈴鹿国定公園に含まれる。 さんき わかっき たかあき した産室の屋根を葺き終わらないうちに出産し ハイキングコース、キャンプ場がある。三岐鉄 閣の陸相となり、加藤高明内閣、第一次若槻礼 メリカへの輸出代金は、米ドルあるいはアメリ やひろわに 道宇賀渓口駅からバス便がある。〈伊藤達雄〉たことからつけられた。八尋の鰐になって出産 カ勘定の英ポンドで受け取らねばならなかっ次郎内閣と留任。この間、四個師団を廃止し、 しているところを彦火火出見命に見られたため 経費節減分を戦車、飛行機など装備の充実にあ囮二万五千分の一地形図「竜ヶ岳」 た。一方、ヨーロッパ大陸との間の決済に用い すおう うかしま山口県南東部、周防大島東に、豊玉毘売命は海神の国へ帰った ( 古事記 ) 。 られる振替可能ポンド勘定の英ポンドは、自由て、軍の近代化を図り、同時に学校教練、青年浮島 たちばな 訓練所制度を実現した。二九年 ( 昭和四 ) 浜口方にある島。大島郡橘町に属す。面積二・三海神の娘が海岸で出産し、生まれた子が皇室の に米ドルと交換することはできなかったが、イ ひくま おさち 一平方キ。。大島北岸の日前から北東五キ。にあ祖神となるというのは、海上漂着型の始祖神話 雄幸内閣のときふたたび陸相となったが、三一 ギリス以外のヨーロッパ大陸では、公定のレー すえ トよりも低いレートでなら米ドルと交換でき年、桜会を中心とするクーデター計画である一一一り、大部分花崗岩からなる。中世には陶氏水軍の典型といえよう。なお、この神は海童神であ いつくしま る。 〈守屋俊彦〉 宇賀島衆の根拠地であったが、厳島の戦い 月事件に関与し、事件後辞職した。その後三六 た。そこで、アメリカの貿易業者がイギリスか がわ Rio UcayaIi 南ア 年まで朝鮮総督として、朝鮮の軍需工業の育成 ( 一五五五 ) で全滅した。島内はよく耕地化され、ウカヤリ日 ら商品を輸入する際に、それを一度ヨーロッパ と農村振興運動に力を注いだ。三七年広田弘毅ほとんどがミカン園。漁業はイワシ網、小型底メリカ、ベルー東部の低地 ( セルバ地方 ) を北 大陸の国に輸入して、それをさらにアメリカに 引網を行う。夏はキャンプ地、海水浴場として流する川。イキトスの南西約八〇キ。の地点でマ 再輸入するという迂回的な操作をすることによ内閣総辞職後、組閣の大命を受けたが、陸車が 〈三浦肇〉 ラニョン川と合流してアマゾン川となる。上流 にぎわう。人口三九四。 って、低いレートの振替可能ポンドで決済が可反対し、軍部大臣現役武官制を利用して陸車大 では、アンデス山脈への入口付近で、ウルバン 囮二万五千分の一地形図「久賀」 臣を出さず、組閣を流産させた。翌三八年には 能になり、利益を得ることができたのである。 このえふみまろ ヾⅡとタンポ川に分岐する。タンポ川の源流か うがた三重県中南部、志摩郡阿児町 しかし交換性が回復 ( 一九五 0 してからは、この近衛文麿内閣の外相、拓務相についたが、興亜 〈志田明〉 院設置をめぐって陸軍と対立、辞任した。戦の中心地区。旧鵜方町。志摩半島英虞湾の鵜方らマラニョン川合流点までの流路長が最長で一一 ような迂回貿易は消滅した。 ごんべえ 宇垣ー成
おおこう おおたき 六日、旧大多喜藩 ( 千葉県大多喜町 ) の藩主大 た。そのため尊が怒って女神を殺したところ、 納する専用の桶となり、苧桶となった。おも まさただ あわ 河内正質の長男として東京に生まれる。第一高 女神の頭から蚕、目から稲種、耳から粟、鼻か に、ヒノキを曲げて成形するが、ほかに、ろく 等学校に学び、一九〇三年 ( 明治三六 ) 東京帝 ら小豆、陰部から麦、そして尻からは大豆が生 ろで木をくりぬいたもの、竹籠のものもある。 国大学工科大学造兵学科を卒業、同大学講師、 容量は用糸量と関係するので、各地で統一されまれた ( 古事記 ) 。五穀の起源が語られており、 ノノ / 1 〕ー ) レでつ ズ 助教授 ( 海運技師兼任 ) を経て、〇八年一〇月 ている。 〈角山幸洋〉 これはハイヌウエレ ( 死体化生 ) 型神話の一種 なると ンる からドイツ、オーストリアに私費留学ののち、 レび 大毛島おおげしま徳島県北東部、鳴門海峡である。なお、粟や麦、小豆などの穀物が生ま 凸伸 一一年東京帝国大学教授に就任した。火兵学会 東西一一れたとする基盤には焼き畑耕作があり、この神 にある島。鳴門市に属する。南北六キ。、 でんば 体長 を創設し、火砲構造や砲外弾道学を研究し、一 キ。の細長い島で、面積七・八四平方キ。。北端の話は中国南部から伝播したとも考えられる。 うけもちのかみ 殻よ 三年 ( 大正二 ) 工学博士の学位を得た。その 『日本書紀』では保食神の話として扱われてい 孫崎と淡路島との間は一・三キ。の鳴門海峡をな る。 後、貴族院議員に選出され、一一一年財団法人理 〈守屋俊彦〉 イ周 している。南は小鳴門海峡に臨み、小鳴門橋に マの 化学研究所の第三代の所長に就任、二七年 ( 昭 よって鳴門市本土と結ばれる。小鳴門海峡に臨オオケマイマイ〔大毛蝸牛〕 hairy snail イ殻 どまり きのつらゆき マが 和一一 ) には理化学興業株式会社を興し、会長と む土佐泊の集落は紀貫之が京への帰途立ち寄っ ム eg ミき軟体動物門腹足綱オ ケ毛 オ皮 なった。さらに四二年産業機械統制会会長をは たと伝えられる所。孫崎にある鳴門公園は「鳴ナジマイマイ科のカタッムリ。殻高一三 : じめ、研究動員会議会員、技術院参与、軍需省 門の渦潮」を臨むのによい。北方の島田島とは 、殻の周縁は鋭い竜骨のようで、全体 顧問などを務めたが、四五年 ( 昭和二〇 ) 戦犯 鳴門スカイラインによって結ばれ、一九八五年はレンズ形をしている。殻底はやや膨らみ、広批判した。経済学説史の分野でも『スミスとリ 容疑で東京の駟謝拘置所に収容され、翌四六年 い臍孔 ( へそあな ) がある。臍孔の周囲はいくスト』 ( 一九四一 (l) によって優れた業績を残した。 ( 昭和六〇 ) には本州四国連絡橋の一つ大鳴門 〈高木秀樹〉 らか角立っている。殻ロは四角形で肥厚し、周戦後は日本の労働問題の実態調査を精力的に指出所、公職追放となり、理研所長を辞任した。 橋が開通した。 むや 理研所長時代、彼は研究所の組織を改革し、 縁は白い。殻表は灰褐色の殻皮に覆われ、その導し、『戦後労働組合の実態』 ( 一九五 0 ) で日本の 地三万五千分の一地形図「鳴門海峡」「撫養」 労働組合を「企業別組合」と規定した。また各研究室を独立させ、主任研究員にテーマ、予 オオケタデ〔大毛蓼〕 P 号ミ、ミ殻皮が周縁から毛状に伸び出している。本州の れいめい 。ミミ e L. タデ科の大形の一年草。全体 に中部以西と四国北部に分布し、山地の落ち葉の『黎明期の日本労働連動』 ( 一九五一 l) 、『暗い谷間の算、人事を一任し、研究費も自由に使わせた 〈奥谷喬司〉労働運動』 ( 一九七 0 ) 、『戦後日本の労働運動』 ( 一九また理研コンツェルンにおいて、研究成果を、 白い軟毛がある。茎は直立し、よく分枝して高下にすんでいる。 せた たとえば合成酒 ( 利久酒 ) 、ビタミン ( 理研 さ二に達する。葉は互生し、長さ一〇 ~ 二〇大胡 ( 町 ) おおご ( まち ) 群馬県南部、勢多郡 ) の三部作によって、「出稼型労働力」論に なんろく にある町。赤城山南麓の中心地。一八九九年基づく独自の労働史観を樹立した。『日本労働ビタミン ) などの形で商品化して研究所の資金 弩、幅七 ~ 一五、広卵形で先は鋭くとがり、 へんさん さや ) の編纂にも取を獲得し、財政を確立、数多くの世界的な研究 基部は心臓形で柄は長い。鞘は筒状、膜質で毛 ( 明治三一 l) 町制施行。中世に大胡氏が築城、運動史料』全一一巻 ( 一九六三 ~ り組む。なお、社会保障制度審議会会長、社会業績を生み出した。こうした活動の背景とし があり、辺縁は緑色で広がる。花は八 ~ 一〇近世は大胡藩牧野氏二万石の城下町、さらに前 経済国民会議議長なども務めた。日本学士院会て、彼は一九三五年ごろから「科学主義工業」 月、各分枝の先に密な穂状花序をつけて下垂す橋藩に属したが一七四九年 ( 寛延一 l) 廃城とな そうか る。花被は紅色で五裂し、長さ三・五ミリ。痩果った。現在も城の遺構を残して県指定史跡。ま員。自伝的作品として『社会政策四十年』 ( 一九という思想を掲げ、日本資本主義の性格からく ぜいじゃく へんえん 〈神代和欣〉る技術的基礎の脆弱な面を批判し、東北農村 七 0 ) がある。 は扁円形で約三、、リ、光沢はない。東南アジア原た三、八の日を市日とする市場町で繭、生糸、 〈一・労働旬の冷害や昭和恐慌による農村の疲弊を救済する 産で、日本では観賞用に栽培する。葉はマムシ雑貨などを取り扱った。一九二八年 ( 昭和三 ) 回『大河内一男集』全八巻 ( 一九含 ~ じようもう 「農工両全主義」を唱えた。これらは一定の体 報社 ) の毒を消す作用があるといわれ、ハプテコ。フ一フ上毛電気鉄道が通じ、繊維、製材の小工場が 制批判もあり、当時の知識人たちに強い影響を の名がある。 〈小林純子〉あり、前橋の衛星都市的性格が強い。人口一万大河内伝次郎おおこうちでんじろう ( 天九〈 おおべますお 〈村木定雄〉 ー一九六一 I) 映画俳優。本名大邊男。福岡県生ま与えたが、結局、資本主義に対置された科学主 大気都比売神おおげつひめのかみ日本神話一九四八 すさの れ。劇作家を志して新国劇文芸部に入ったが、義は経済体制の変革につながるものではなく、 のなかに出てくる食物をつかさどる女神。素戔地二万五千分の一地形図「大胡」「鼻毛石」 おのみこと のち俳優に転向し、一九二六年 ( 大正一五 ) 日農村の救済も安い労働力と封建的な人間関係を 嗚尊がこの女神に食物を求めたとき、鼻やロ、大河内一男おおこうちかすお ( 一九 0 五ー だいすけ したや 活へ入社した。伊藤大輔監督に認められて利用した工学中心のものであった。これらの主 尻から食べ物を取り出して料理し、差し出し経済学者。明治三八年一月二九日東京・下谷に ちょ・つこん 以来同監督の張は結果的に戦時経済体制下で、科学技術動員 生まれる。第三高等学校を経て『長恨』 ( 一九一一六 ) でデビュ ちけむり ちゅうじ める 一九二九年 ( 昭和四 ) 東京帝国『忠次旅日記』三部作 ( 一九 = 七 ) 、『血煙高田馬場』の役割を果たすものとなった。三三年ピストン のら大学経済学部卒業。卒業と同時 ( 一九一一 0 などに主演、重厚な顔だちとまじめな 賞み に同大学の助手となり、四五年演技で人気スターとなる。『新版大岡政談』 ( 一九 観も たんげさぜん 産教授、六三年総長に就任した一一 0 で演じた丹下左膳は彼の当り役となった。 なま 原野 トーキー以後は訛りのある独得の発声が逆の魅 が、六八年に大学紛争のため辞 アは ジで任、退官。『独逸社会政策思想力となり、現代劇にも重厚な演技をみせた。晩 おぐらやま ア部 南一史』 ( 一九三六 ) 、『社会政策の基本年に造営した京都小倉山の山荘は、大河内山荘 らくせい 東 問題』 ( 一九四 0 ) 、『社会政策』総として洛西の名園となっている。〈長崎一〉 カ デる 論、各論 ( 一九四九、五 0 ) などによ回富士正晴著『大河内伝次郎』 ( 中公文庫 ) タれそロ ケさ って、社会政策の生産力理論を大河内正敏おおこうちまさとし ( 天大 オ培 オ栽展開し、分配政策論や政治論を FII) 機械工学者、実業家。明治一一年一二月 かひ 7 あずき あかぎ 4 、 1 大河内正敏 891
えんぜっ 人情を知るための、きわめて貴重な資料となっ を勧告、ついに 縮し始め、最後にここから切れる。延性の大小 一六年三月、袁は帝制取消しをさせること。たとえば、タンバク質の水溶液に は加工素材としての塑性加工しうる能力を示す宣一言した。その直後、討袁の続くなかで没し硫酸アンモニウム ()H 、 )2S04 を加えるとタンている。写本で伝えられたが、一九〇七年 ( 明 ぜいせい 〈南里知樹〉 ハク質が析出し、せつけんの水溶液に多量の塩治四〇 ) 国書刊行会によって三巻本として刊行 しいわゆる脆性破壊をするか否かを判定た。 化ナトリウム NaCl を加えるとせつけんが析され、以後その続編として『続燕石十種』 ( 二 する目安になるので、構造物設計上も重要な因厭世主義えんせいしゅぎ 0 ペシミズム 子である。↓展性 〈須藤一・山崎昶〉塩生植物えんせいしよくぶつ植物体中の塩出する。一般に、有機物の水溶液から有機物を巻 ) 、『新燕石十種』 ( 五巻 ) が新たに編集、刊 〈宇田敏彦〉 行された。 ( 一会九ー一九一六 ) 中華民分濃度を高くして、海水に浸っても生きていけ分離する化学操作として、生化学や工業化学の 袁世凱えんせいがい こっしん 国の初代大総統。河南省項城県の生まれ。印清る植物。わが国では砂州で囲まれた波の静かな分野で利用されることが多く、せつけんの製造回『燕石十種 ( 正・続・新 ) 』全一七巻 ( 一九七九 ~ 全・中央公論社 ) における重要な工程になっている。 戦争前は、朝鮮で政治、軍事に手腕を発揮し、海岸沿いの塩沼地 ( 塩湿地 ) に生育する。塩沼 り - : っー ) っ 李鴻章の信任を得て、総理交渉通商事宜とし 地だけでなく、干拓地や塩田跡地の塩だまりに 無機塩を多量に加えると溶液のイオン強度が円積問題えんせきもんだい与えられた円と てソウルに駐在し、朝の内治、外交に干渉し もみられる。しかし現在では、このような場所変化し、有機物に作用していた水和水が減少す同じ面積をもっ正方形を定本とコンパスで作図 て属国化した。日清戦争の敗北後、軍制、軍隊が少なくなっている。アッケシソウ、チシマドるので、有機物の溶解度が著しく低下するのができるか、という問題をいう。古代ギリシアの 〈岩本振武〉 三大作図不能問題のうちの一つである。半径 1 の近代的改革を断行し「新建陸車」を組織し ジョウッナギ、ウミミドリなどは北海道に、本原因と考えられている。 そうしょ の円の面積はであるから、この問題は た。これが後の北洋軍閥および袁の政界進出の 州各地にはハママツナ、ホソバノハマアカザな燕石十種えんせきじ。しゅ江戸末期の叢書。 あまろ かっと・つし たるま どが分布する。また、シチメンソウ ( 九州」 礎石となった。このとき、袁の養成した部将が 達磨屋活東子が養父花の屋蛙麿 ( 達磨屋五一 ) の長さの線分を定木とコンパスで作図 民国後の北洋軍閥の首脳となる。李鴻章の没部 ) 、ハマサジ ( 本州中部以南 ) 、フクド ( 紀伊の助けを得て編集したもの。一集一〇部、六集できるか、という問題と同じである。 ちよくれい 有理数を係数とする多項式 ( 係数が全部ゼロ ( 一九 0 一 ) 後、直隷総督兼北洋大臣となり、自己半島以西 ) なども塩生植物の代表的なものであよりなるが、最初は一〇集、一〇〇部を予定し のとろ 八六三年 ( 文久三 ) 成立。「燕石」である場合を除く ) の根になっている複素数 の勢力を強化拡大していった。日露戦争後、袁る。北海道能取湖畔のアッケシソウの秋の紅葉たという。一 、代数 の伸張に対する満州人官僚の巻き返しによっ は美しく、よく知られている。 〈小滝一夫〉は玉に似た石、まがい物の意である。『高尾考』 ( 実数の場合も含む ) を代数的数といし しんがい きんせいてん めいキ一 ( 吉原の名妓高尾に関する諸家の考説 ) 以下、的数でない複素数 ( 実数の場合も含む ) を超越 て、一時下野を余儀なくさせられるが、辛亥革遠星占えんせいてん 0 近星点 江戸時代の興味深い風俗書を集大成したもの数という。単位の長さが与えられたとき、これ 命の勃発によってふたたび車事の全権をゆだね延性破壊えんせいはかい材料が外力によっ から定木とコンパスで作図できる線分の長さは られ、一九一一年一一月に内閣総理大臣となて破壊する様式の一つ。材料に荷重を加えるで、当代の市民社会におけるできごとや世態、 代数的数である。もし ~ 、が作図できれば、 り、清朝政府の実権を掌握した。一二年二月、 と、まず弾性変形を生じ、さら ンか 変集こ も作図でき、したがっては代数的数でなけ に荷重を大きくすると一般にあ 南方政府の譲歩を引き出し、清帝退位と引き換 性が , 巧一の 塑力と径 , コる ればならない。一 八二年リンデマン C. L. えに臨時大総統の地位につき、中華民国が成立る面ですべりを生じ、除荷して な応る直 % かい F. Lindemann ( 一会一一 ー一九三九 ) によっては超 する。その後、袁は、帝国主義列強の支持を背も変形が残る塑性変形を伴い きにけは ) 宀なて し 大分続真 0 越数であることが証明されたため、円積問題は 景に革命の成果を骨抜きにしていった。大総統ついには破壊する。破壊までの と部え写率鋼呈 るれ 加。有素を 作図不能であることが示された。↓作図不能問 の権限を制約しようとする議会の動きを、国民塑性変形量は、材料や試験片の 張びをる含炭状 そうきようじん つく力す素たプ 〈菅野恒雄〉 題 党首脳宋教仁の暗殺によって抑制し、さらに 形状、応力の条件や環境温度に , 断炭れッ をるめ切 それを契機に起こった「第二革命」を武力鎮圧よって大きく影響される。破壊 ( さカる演説えんぜっ多数の人の前で自分の意見 壊料じたで鋼壊がか した。一三年一〇月には正式に大総統となっ に至るまでの塑性変形量の大き 破材生る分素破右わや主張を述べる方法。古代ギリシア・ローマ時 代に発達した。弁論術の大家としては、ギリシ 、単純 て、国民党の解散を命じるとともに新約法を公 い場合を延性破壊といし 性おをす部炭よ アの哲学者ゴルギアス、その弟子でアテネの法 布して独裁を強化し、一五年には帝制運動を開な応力条件のもとで延性破壊す 廷演説家イソクラテス、イサイオス、イサイオ 始した。袁の政府には、自国の利権の扶植を図る材料を延性材料という。一 スに修辞を学んだデモステネス、その論敵のア る多くの外国人「顧問」がおり、帝制運動の画方、ほとんど塑性変形すること イスキネスなどがあげられる。ローマではキケ 策に大きな役割を果たした。しかし、日本の一一なく破壊する場合を脆性破壊と " 、 ロ ( そのカティリナの陰謀を摘発した演説はと 十一か条要求に対する中国のナショナリズムの いい、常温では延性を示す鋼も 工拿っキ、 くに有名 ) 、カエサルの追悼演説に雄弁を振る 高揚、一五年末の雲南起を契機に各地で起こ低温では脆性破壊をする。軟鋼 って人望を集めたマルクス・アントニウスなど った反袁運動の拡大により、列強も帝制取消しの丸棒を引っ張ると弾性変形の がいる。このような雄弁術は、ポリス ( 都市国 のち、大きな塑性変形を伴い 家 ) における古代市民の自由から生まれたもの 試料の一部がくびれて、まず中 で、アテネにもっとも多くの演説家が出たが、 心部で分離破壊し、引き続いて 帝政の成立とともにこのような演説はとだえ、 周辺部がすべり破壊して、いわ ゆるカップ・アンド・コーン型 中世では説教がそれにかわった。議会制度がお となる。 〈林邦夫〉 こると議会の政治演説が盛んになり、イギリス では、雄弁で頭角を現したピット、ヘースティ 塩析えんせき salting out ングズのインド統治政策を弾劾した・ ある物質の水溶液に多量の無機 世 ク、 O ・フォックス、・シェリダンらの演説 7 塩を溶解させてその物質を析出 ばつばっ 2
こ。トーマス・モアが つエンクロージャー enclosu 「。「囲い込 の 『ュートピア』のなかで 期 み」と訳される。従来共同利用が認められてい た土地に、生け垣、塀などを巡らして私有地で「羊が人を食う」といっ 第 ん たのもこのときのことで あることを明示することをい , つ。イギリス史に 9 え ⑥ おいて、エンクロージャーが大規模に行われ、ある。土地を追われた農 民は浮浪人となって全国 社会の大問題となったのは前後二回ある。 をさまよい歩いた。そこ 〔第一次丨ー農民的、領主的エンクロージャ 第 ー〕第一次エンクロージャー運動は、一五世紀で政府は、エンクロージ 9 ャーによる治安の乱れと 末から一七世紀中ごろにかけて起こった。第一 ② 壁 次エンクロージャーには二つのタイプがみられ人口の減少を恐れて、し 蓋後 ロ塊 頭 ( 目 た。一つは、農民たちが共同体的規制から解放ばしばエンクロージャー 下 軟食舌喉気① ④ ② ⑥第ま され、個人主義的農業を営むために、その分散禁止令を出したが、これ ①始 した保有地、地条を相互の合意によって交換を抑止できず、そのため にエンクロージャーに反対する農民一揆が各地われ、農業生産力は著しく上昇した。とくに一訂刊行し、金星の日面通過の観測により太陽視 し、まとまった農地にする農民的エンクロージ 七九三 ~ 一八一五年のナポレオン戦争時には、差を決定した。イギリスの王立協会の金賞を受 ャーである。いま一つは、領主的エンクロージで頻発した。 〈島村福太郎〉 〔第ニ次ーー議会エンクロージャー〕ついで一国内市場および軍需用の食糧需要増大を背景けた。 ャーで、これは領主が主として牧羊場にするた に、農業は繁栄し、それがまたエンクロージャ嚥下えんげそしやくによって、かみ砕か 八世紀初めから一九世紀中ごろまで続いた第一一 めに、農民の利害を無視して暴力的に耕地や共 だえき ーをいっそう促進した。一方、囲い込みによっれ唾液と混じり合った食物や、吸い込まれた液 同地を囲い込んだもので、ミッドランド地方を次エンクロージャーが起こった。これは改良農 し′ルごっ 中心に吹き荒れ、大きな社会問題を引き起こし法の必要のために起こったもので、大地主が議てヨーマン ( 独立自営農民 ) ないし小土地所有体は、舌の上に集められ、ロ腔、咽頭の協同連 会を通じて個別的にエンクロージャー法を獲得者の没落が促され、彼らは工業労働者として都動によって食道を経て胃に送られる。この一連 し、合法的に土地を囲い込んだので、これを市へ流出するか、農業労働者として農村にとどの動作を嚥下という。これらの過程は三つの時 し ・いワ ー」とよんでいる。議会まった。ただ、ヨーマン層の没落については、期に分けられる。第一期はロ腔から咽頭に入る 「議会エンクロージャ までの時期で、おもに舌の動きによっておこる 一八世紀中ごろまでに姿を消していたという旧 エンクロージャーは、四種輪作法など新農法が 普及し始めた一八世紀中ごろから急速に増加来の説に対し、最近では、没落期をナポレオン随意運動である。第二期は咽頭から食道に入る までをいう。まず軟ロ蓋が上がり、鼻腔との通 し、都市における産業革命の進展に大きな役割戦争後の不況期以後に置く説が有力である。こ うした農業革命の結果、イギリスの農業人口の路がふさがれ、舌根が後下方に動き、舌骨およ を果たした。 - : っレ」、つ 比率は、一七五〇年ごろには約七〇 % であったび喉頭が挙上する。次に、喉頭筋の収縮がおこ しかし、個々の立法措置によって囲い込むこ 八三一年には二四・六 % 、一八五一年り食道の入口が開いて、食物が食道へ移動す とは、弁護士とか調査員、技術者の経費、垣をのに、一 には二一・七 % へと急激な減少を示したのである。これらは、食塊が咽頭粘膜を刺激して反射 つくる経費などが高くついたので、その経費を ぜんどう 〈角山 . 榮〉的におこる。第三期は食道の蠕動運動によって 八三六年および四五る。↓農業革命 少しでも緩和するため、一 年の法令によって、一定の条件さえ整っていれ回小松芳喬著『イギリス農業革命の研究凵 ( 一九胃に運ばれる過程である。第二期、第三期は反 えんずい 六一・岩波書店 ) ▽椎名重明著『イギリス産射により行われ、その中枢は延髄にある ( 嚥下 ば囲い込みできることになった。こうして、イ 業革命期の農業構造』 ( 一九六一一・農業総合研究中枢 ) 。このように多くの筋肉、神経が協調し ギリス全土はほば完全に囲い込まれてしまい さんま て働くので、舌の運動麻痺、ロ腔内の炎症、食 所 ) 中世以来の三式開放耕地、共同牧草地、荒蕪 きようさく 道狭窄、神経疾患などがあると、嚥下は困難 エンケ Johann Franz Encke ( 一七九一ー 地は姿を消して、私有化された耕地になった。 〈市河三太〉 ~ 0 ) ドイ〉 0 天文学者。プ ~ ク生まれなも 0 となる。 ただ、一 八六五年以後「共同地保全協会」 八一一年ゲッティンゲン大学でガウスに数園芸えんげい農業の一部門で、園や畑ま Commons Open Spaces and Footpaths Pres- たは温室、フレームなどで、生活に必要な果 ervation society その他の自然保護団体の運学、天文学を学び、一三 ~ 一五年砲兵士官とし そ寺 ~ い ーの荒地をはじめ、ウインて従軍、一六年ガウスの推薦でゼーベルク天文樹、蔬菜、花卉など栽培植物を生産、改良、加 動によって、北部諸廾 工し、さらには装飾の用などにも供するもので 台助手、一三年台長となった。二五年ポーデの 。フルドン・コモン WimbIedon Common 、ハ 後継者としてベルリン大学天文学教授兼同大学ある。広義にはこれらを総合したものとしての ンプステド・ヒース Hampstead Heath など 全国で約一五〇万エーカー ( イングランド・ウ付置天文台台長に就任し、六三年まで在職し造園 ( 庭づくり、都市づくり ) が含まれる。 しんのうほんぞう 園芸に関する中国の農書としては『神農本草 エールズの全面積の約四 % ) の共同地が囲い込た。おもな業績は、彗星・小惑星の軌道を研究 のう きょ・つしっちゅう 経集注』 ( 五 9 一 ~ 五五六 ) 、『新修本草』 ( 六五九 ) 、『農 し、一八年出現の彗星が短周期三・三年で以前 みを免れた。 ぐんほうふ そうしゅうよう 三回も発見されたことを同定、これはエンケ彗桑輯要』 ( 一天六 ) 、『群芳譜』 ( 一六一一 D 、『農政全 〔第ニ次エンクロージャーの影響〕ところで、 かきょ・つ 囲い込まれた耕地では、地代が騰貴するととも星とよばれる。また黄道精細星図の作製により書』 ( 一六三九 ) 、『秘伝花鏡』 ( 一穴 0 などがあり、 に、穀物生産のための資本主義的大農経営が行海王星発見に寄与し、『ベルリン天体暦』を改園芸の源流と思われる字句がみられるのは『群 工ンクロージャー / 第 2 次囲い込みによる村落の変化 囲い込み前 囲い込み後 4 、 4 、 4 、介 4 、 4 、 4 、 4 、 4 、卒 4 、 4 、阜 菻 4 、 4 、 4 、 4 、 4 、 4 、 44 、、 4 、 4 新道路 小さな 囲い込 放 耕地 也 牧 地 共同牧草地 または荒蕪地 会場 荘園庁 休閑地 C ABC は三圃式開放耕地 放牧地 いっき 0 ③ ⑤ - : っし まひ ⑦ 730
し・よ・つ しゅじよう 北嶺の天台宗はいっさいの衆生はすべて成六などには、良源の勝ちとして おうわ んオウレンシダ〔黄連羊歯・渓洞碗蕨〕 ぶつ いっ」いかいじよう s 、ミミこさ、ミ (Moore) Christ コ仏するという一切皆成説を主張、南都の法相あり、『応和宗論日記』、『本朝 バノイシカグマ科の夏緑性シダ。葉は淡緑色で宗は衆生が先天的に備えている素質に五種ある高僧伝』巻九などには仲算の勝 ほ・つ、しの - っ ごしようかくべっ ほとんど無毛。胞子嚢群は葉縁につく。水湿地 という五姓各別説にたって、成仏しないものちを伝えるが、勝敗は決しなか お があることを主張した。講経は毎日朝夕二座行 ったというのが真相であろう。 を好み、谷川に沿った岩場に多い。東アジアに ほんがく この問題は、仏教における本覚 広く分布し、日本では北海道から九州にかけてわれ、両方から講師と問者が相互に出て論義問 しかくもん りよ、つげん もん 生育する。 〈栗田子郎〉 答したが、第三日朝座に天台の良源が南都の 門思想と始覚門思想、理想主義 一は・つ一て・つ 凹レンズおうーー中央部が周縁部よりも法蔵を論伏するに及び、第五日朝座には南都のと現実主義との対立ともいうべ ちゅうざん じゅちょう きもので、その止揚解決は鎌倉 薄くなっている単レンズ。平行光線が凹レンズ仲算が天台の寿肇を痛論し、ついに勅令によ り同日夕座には良源と仲算が討論し、激論を戦仏教にゆだねられたとみること の軸に平行に入射すると、レンズの前方の焦点 げんこうしやくしょ ふそうりやっき 〈薗田香融〉 から発散してきた光線としてレンズから出射すわせた。『元亨釈書』巻四、『扶桑略記』巻一一ができる。 over- るので、発散レンズともいう。凹レンズの前方 O O オーエイチシー head camshaft engine の略 にある物体の像は、物体と同じ側に、物体より 称。四サイクルの内燃機関で O も小さく、物体と同じ向きをもっ虚像である。 > (overhead valve) を作 これを見るには、凹レンズから出てくる光の中 動させるカムシャフトがシリン に目を置いて見ればよい。↓レンズ〈三宅和夫〉 ダーヘッド ( 気筒頭 ) 上にあ 女王禄おうろく「女」を略して「おうろく」 あおうまのせちえ り、直接バルプを作動させる方 と読む。正月八日 ( 「白馬節会」の翌日 ) と ぺいしゅ・つきこう にいなめ によおう 一一月の新嘗祭の翌日、女王に禄を賜る儀式。 式。構造は複雑になるが、動弁機構の慣性抵抗 O<T オーエーエス 0 米州機構 天皇、皇后の出御をはじめ、尚侍、典侍なども が小さくなるため、より高回転、高出力が得ら御会式おえしき本来、集会して式を行うと にちれん ししんでん れる。このため最近の乗用車では小型大衆車で いう意味であるが、もつばら日蓮宗で、宗祖日 参加、紫宸殿の庭に幄 ( 天幕 ) を張り、女王た もを採用するものが少なくない。 蓮入滅の一〇月一三日を中、いに、門下が宗祖を ちに絹や綿などを賜った。禄を賜る順序は年の しけカみ なお、実用車ではカムシャフトが一本の T) O 追慕して行う法会をいう。東京都大田区の池上 順ではなく、世次によった。禄を賜る女王は二六 たいや ほんもんじ えんぎしき O (single overhead camshaft) が多いが、本門寺の御会式は著名で、とくに一一一日の逮夜 二人もいた、と『延喜式』にある。〈山中裕〉 まんどう うちわだいこ 高性能スポーッカーやレーシングカーでは、カ には、数多くの万灯と団扇太鼓の行進があり、 王魚日彦おうろげん / ワンルーイエン ( 一九 0 一ー 亠こんけい せつこう ムシャフトを二本にして、いっそうバルプの作数十万の参詣者でにぎわう。日蓮は一二八二年 四四 ) 中国の小説家。本名王衡。浙江省鎮海県 みのぶさん ひたち ろじん 動生をよくした O O (double overhead ( 弘安五 ) 病のため身延山をあとにして常陸 生まれ。魯迅の影響を強く受け、また郷土作家 むわなか ベキン camshaft0 ツインカムともいう ) が用いられ ( 茨城県 ) に向かう途中、信徒の池上宗仲の邸 ともよばれた。高等小学二年中退後、北京「エ だいばうほん一ようじ る。↓ O > 〈高島鎮雄〉 に休息し、同年池上邸 ( 現在の大坊本行寺 ) 読互助団」に加入、北京大学の聴講生となる。 みとおがいつう みえいこう 一みよ・つ、ごっ この間エスペラント語を修得。一九二二年より 通信オーエイチつうしん 0 見通し外通で入滅した。日蓮忌は、御影講、御命講など しゅうえ といわれ、門下が毎年それそれの本山に集会し 湖南・福建で教員をするかたわら創作に励み、 ってんしかい力いきみよ、つほう ヘッド・ て日蓮をしのび、「一天四海皆帰妙法」の理想 オーエイチピーオー 文学研究会会員となる。このころ農村の善良な プロジェクター を確かめ合ったが、時代とともに庶民の間に行 プチブルの悲劇を同情を込めて描いた『黄金』 ョウズ O オーエイチプイ overhead valve の事化されていった。江戸時代には万灯行列が盛 を執筆、短編集『柚子』 ( 一九一一六 ) 、『黄金』 ( 一九 略称。四サイクルの内燃機関で、シリンダー内んになり、江戸市中におけるそのにぎわいぶり 一一 0 を出版した。抗日戦争中は長沙『抗戦日 ばしよう けいりん へ混合気 ( ディーゼルでは空気 ) を吸入させる は芭蕉の句「御命講や油のやうな酒五升」など 報』副刊を編集、四二年一月桂林で『文芸雑 〈渡辺宝陽〉 に伝えられている。↓本門寺 吸入バル。フ、および燃焼後のガスを排出させる 誌』を創。著書はほかに『童年の悲哀』 ( 一九置 ー一九四六 ) 三 l) 、『野火』 ( 一九三七 ) などがある。また少数民酉 排気バルブをシリンダーヘッド ( 気筒頭 ) 側にオェッティ Ugo Oje 三 ( 天七一 備える形式。頭上弁式ともいう。それまでのシ イタリアの批評家、小説家。ローマ生まれ。写 族の文学作品の翻訳を多数手がけた。解放後 の ン リンダープロック側にバルプがある CO> (side 実主義の小説で出発、とくに『わが息子・鉄道 『魯彦選集』 ( 一九五四 ) 、『魯彦散文選』 ( 一九五 0 が ジ valve 。側弁式 ) よりも高出力を得られるの員』 ( 一九一一 D は佳作とされるが、本領は文芸・ 〈白水紀子〉 出版されている。 で、現在の自動車用エンジンは例外なく OZt> 美術批評家としての華々しい活躍にある。一九 応和宀不論おうわのしゅうろん九六三年 ( 応工 むらかみ である。 二一年からミラノの新聞に連載した『私の見た 和三 ) 八月二一日から五日間、村上天皇御願の せいりようでん まけきよう なお、という場ムロ、 OZZO (overhead まま』は六巻にまとめられ、イタリアにはまれ 『法華経』書写の成就にあたり、宮中清涼殿に ほくれし せきがく camshaft engine) との対比において、カムシなエッセイストとして名を残した。〈磯辺馨次〉 南都と北嶺の碩学各一〇人を招いて『法華経』 ほっそう おえどにほんばし俗謡。曲名 の義理を講ぜしめた際、法相と天台の両宗間で O ヤフトをクランクケース内の低い位置に備えたお江一尸日本橋 I x 0 0 ものをさすことが多い 。↓〈高島鎮雄〉は「お江戸日本橋七つ立ち」という東海道五十 行われた教義論争。 の O ⅱ C ( ダブルÖHC カムシャフト SOHC シングル OH ・ / 、ルフ ロッカー アーム ロッカー フッシュ ロッド カムシャフト ノヾ丿レフ シリンダーヘッド シリンダープロック↑ ビストン 0 ノヾ丿レプ カム シャフト しん 1 まうえ 御会式日蓮入減の 10 月 13 日に行われる追慕の法会。 池上本門寺は , 逮夜 ( 忌日前夜 ) 万灯供養でにぎわう 850
えちおひ 年年 , -0 0 り -8 8 ク 11 、 1 LO 9 トーいへー -8 レ年万万訃 4 ・ 11 ア -0- -0- 2 1 2 2 教教 語ア O 万 亠思立思 -0- - け ~ E 11 スラ旧ヒ 0 0 レ 4 7 スラ ノ O = 8 ド 7 人デムチ意 5 出入リス 1 人 t—— 11 00 ワ朝ワ ・アア療工期貶輸輸キイ 五ロ 度加 一三ロ オⅲ 公心、 密増 チ積ロロロ都要貨 内易教 国い貿宗 工療面人人人首主通 〔総論〕 方に流れるかっこうになっている。黒ナイル 青ナイル川、 ソバト川、アワシュ川など 〔自然〕地形 / 気候 / 地質 / 植生 / 動物相 〔歴史〕 で、なかでも、大地溝帯沿いに北東流するアワ 〔政治〕 シュ川のように、末端部が砂漠に吸い込まれる 〔経済〕産業 / 貿易 / 資源 / 交通 ようになくなってしまう奇妙な川もある。 〔社会・文化〕 〔気候〕エチオピアは北緯三度から一八度まで 〔日本との関係〕 の熱帯の国であるが、涼しいことで有名であ る。標高によって三つの気候帯に分けられる。 〔総論〕アフリカ大陸の北東部にある共和国。標高一八〇〇までは熱帯で年平均気温は一一六 面積一一三万一九〇〇平方キ。、人口三一七九万度 0 、一八〇〇から二四〇〇までは亜熱帯 で年平均気温は一三度 0 、二四〇〇以上は温 出九〇〇〇 ( 一九七九 ) 。首都はアディス・アベバ 古代からの独立国としてアフリカでは特異な存暖帯で年平均気温は一六度 0 。亜熱帯と温暖帯 を在である。アフリカ諸国のうち独立を守り抜にはマラリアも発生しない。 き、植民地となることを拒否してきた唯一の国 六月中旬から九月中旬までの雨期に年降水量 ”大であるという自信に裏打ちされたエチオピア人の八割が降る。雨期には南西風がギニア湾やコ は誇り高き民族である。「エチオピア」はギリ ンゴ盆地から水分を運び、初め南西部に達する ので、南西部のカッフア州 ( コーヒーの原産 シア語で「日に焼けた人」を意味し、旧称のア ビシニアはアラビア語で「混血」を意味する。 地 ) などでは雨量が多い。エチオピア高原では エチオピア人の肌は、数千年もの間にハム系、雨期の三か月間、毎日熱帯性のスコールが降 る。そして、高原の北部では黒ナイル川、中部 しセム系、黒人などの混血によって生まれた微妙 では青ナイル川、南部では白ナイル川に奔流す デッ露な色をしている。 〔自然〕〔地形〕「アフリカのスイス」とよば る。ナイル川の水源の八四 % はエチオピア高原 岩 に降る雨である。しかし雨期の雨も北東部にい 」 ~ 霎盤れ、美しい国である。地形的には、西方のエチ くにつれて少なくなり、とくに大地溝帯の低地 オピア高原、東方の東部高原、この二つの高原 にはほとんど降らない。九月下旬から翌年の二 に挟まれたアフリカ大地溝帯の低地に分けられ いある。エチオピア高原は二〇〇〇以上の高原月にかけては乾期で、三月と四月には小雨期が で、最高峰のダシャン山は標高四六二〇、西訪れる。 高 のスーダンに近づくにつれて緩やかに低くな 〔地質〕エチオピア高原は、そのほとんどすべ る。東部高原も同様で最高峰のバトウ山は標高てが漸新世 ( 約三〇〇〇万年前 ) の玄武岩、粗 四三〇七、南東のソマリアに向かって低くな面岩などの溶岩類に厚く広く覆われており、第 り、砂漠となる。大地溝帯の低地はこの国の 北四紀 ( 約三〇〇万年前以降 ) の溶岩類も若干分布 。ア東から南西にかけて走っており、紅海沿いのアする。これら溶岩類の下位にあるジュラ紀 ( 約 ファー凹地には海面よりも低い区域がある。 一億五〇〇〇万年前 ) の地層は、主として青ナ 河川は首都アディス・アベバ付近から四方八 イルのように深く刻まれ侵食された谷底や谷壁 エチオピア Ethiopia 514
おおさか 大坂城 / 主要部 ( 江戸時代 ) 以下の建物が次々と焼け落ち、城は落城し、豊る。一八七六年 ( 明治九 ) 工部省船を委託され卩 た三井物産は、官営三池炭の輸出にあたり、石 9 臣氏は二代で滅亡したのである。 ただあき その後、城には徳川家康の外孫松平忠明が十炭を中心として世界的不定期船会社に成長し た。さらに一九二〇年 ( 大正九 ) 定期航路に進 万石で入ったが、幕府は一六一九年ここを直轄 矢ロ輪坂番 火造曲木大地とすると同時に大修築を加えることになつ出、四二年 ( 昭和一七 ) 船舶部を独立させ、三 石玉帯雁奥 た。このとき幕府は、豊臣氏時代の大坂城の上井船舶とした。六〇年 ( 昭和三五 ) 欧州同盟に せんべん に約一〇ほどの土盛りをし、石垣もすべて埋正式加盟、また完全自動化船の建造に先鞭をつ 〈田付茉莉子〉 めてしまったうえで、まったく新しい縄張りでけこ。 おおさかじようだい江戸幕府の職 徳川氏の大坂城を築き上げている。したがっ 大坂城代 て、現在目にする城の遺構はすべて徳川氏の手名。大坂在勤の諸役人を率いて政務を行うほ か、大坂城を守護し、あわせて西国諸大名の動 による大坂城である。城には大坂城代が置か れ、明治維新に至った。なおその間、 一六六〇静を監督した。一六一九年 ( 元和五 ) 大坂が幕 のぶまさ ふしみ 年 ( 万治三 ) 青屋ロの火薬庫に落雷して多大の府直轄地となって、内藤信正が伏見城番から転 被害があり、六五年 ( 寛文五 ) には天守閣に落じたのが始まりである。幕末まで延べ七〇名が この任にあたった。重職であったから、おおむ 雷して焼失してしまった。現在ある復興天守は 所蔵 一九三一年 ( 昭和六 ) に豊臣氏時代の天守を模ね五万 ~ 六万石以上の譜代大名のなかから選任 やぐら 門輪番矢 成曲門大火造してつくられたものである。現存の櫓としてされた。創設後しばらくの間、二年あるいは一 御厩桜表石 は西の丸の千貫櫓 ( 三層 ) 、乾櫓、二の丸の一年の交代制をとったことがあるほかは、定まっ やくち た任期がない役知は一万石、四位に叙し、任 番櫓、六番櫓などがあり、石造りの火薬庫とし ては全国唯一の煙硝蔵もあり、また大坂城の見期を勤めたのちは京都所司代、ついで老中へと どころともなっている巨石群 ( 蛸石、肥後石 ) 進む昇進コースが開かれていた。城代屋敷は城 堀居 やぐら しみずだに 堀空櫓土 などがあり、一万五〇〇〇個を超えるという石内千貫櫓の北にあり、城外の清水谷東町・西町 〈藪田貫〉 〈小和田哲男〉 の地に下屋敷が与えられた。 垣刻印も随所にみられる。 おおさかじようないけんぶん 回桜井成広著『豊臣秀吉の居城ーー大阪城編』大坂城内見聞録 ろく 一五八六年 ( 天正一四 ) 四月、豊後国 ( 一九七 0 ・日本城郭資料館出版会 ) ▽岡本良一 一五七〇年 ( 元亀一 ) から うすき そうりん ( 大分県 ) 臼杵城主大友宗麟が島津氏の豊後侵 編『大坂城の諸研究』 ( 一久一一・名著出版 ) 一〇年間にわたって信長を苦し とよとみ 守 めることになるが、これを普大阪商船三井船舶 ( 株 ) おおさかしようせん略のいきさつを豊臣秀吉に訴えるため、大坂城 天 の に赴いたときの書状形式の手記。国許の家臣に みついせんばく一九六四年 ( 昭和三九 ) 海連集 通、石山合戦とよんでいる。 〇年 ( 天正八 ) 和議が結ばれ本約により大阪商船と三井船舶が合併して発足。あてて堺の妙国寺で認めたもの。大坂城下町繁 ノ守 けんらん 層 ッ下当 栄のようす、城内の絢爛豪華なようすが詳しく 五天願寺は石山寺を退去し、信長は当初資本金一三一億円、所有船腹一三一万重量 つねおき 、運航船腹二四四万重量トンで、定期船、不定書かれている。宗麟が秀吉の案内で天守閣に昇 阪池田直興に守らせていたが、本 し 亠 ^ のうじ り、「近国近方之在々所々」を展望し、「三国無 能寺の変 ( 一夭 = ) ののち、この期船、専用船、油槽船の各部門を有し、日本郵 造 せんのりきゅう 地の経済上、地理上の位置に着船に次ぐ総合海運会社となった。現在ではコン双」の城と感激したことや、千利休から「内々 そうえき 秀 テナ化に伴い、コンテナ・ターミナルや陸上連之儀は宗易 ( 利休 ) 」にまかせ、「公儀之事は宰 目した豊臣秀吉によって翌八三 図 相 ( 羽柴秀長 ) 存じ候」と励まされた話などは 豊陣年三十数か国から数万の人夫を送にも進出、所有船腹五〇三万六〇〇〇重量ト一 〈北島万次〉 / 城夏動員して大修築工事が行われ、運航船腹九七七万五〇〇〇重量」ゾ、資本金四一一よく知られている。 回岡本良一著『大坂城』 ( 一九七 0 ・岩波書店 ) ▽ 七億円 ( 一九会 ) 。 大八五年はば完成したのである。 田北学編『大友史料第二輯』 ( 一九三〈・金洋 大阪商船は一八八四年 ( 明治一七 ) 設立。瀬 本丸、二の丸、三の丸のほか、 そうがまえ れんによ 堂書店 ) 三期に分けられる。一四九六年 ( 明応五 ) 蓮如のちには外郭 ( 総構 ) を整備し、天下統一の戸内海航路から出発し近海航路を開拓、一九〇 がここに別院を設けたのに始まり、一五三二年覇者にふさわしい大城郭で、本丸には五層八重九年 ( 明治四一 l) 北米航路、一三年 ( 大正二 ) 大坂商人おおさかしようにん近世において、 ふしみ やましな の天守閣が建てられていた。秀吉が伏見城に移インド航路に進出。第一次世界大戦後の不況期全国経済の中心であった大坂の商人をいう。大 ( 天文一 ) 山科本願寺が焼き討ちされたあと、 じないちょう ひでより しよう : よ には大型ディーゼル貨客船、快速貨物船を建造坂は、初め石山本願寺の寺内町として発展、 り病没したあと、子の秀頼が継いだが、一六 一〇世証如によって本願寺がここに移された。 はしばとよとみ 一五八三年 ( 天正一一 ) には羽柴 ( 豊臣 ) 秀吉 して船質の画期的改善を図り、業績をあげた。 証如は加賀から城づくりを呼び寄せ、堀を掘り四年 ( 慶長一九 ) 大坂冬の陣が起こり、そのと あづちひらのさかい じよ・つ一い きの講和条件によって、総構の堀、三の丸の堀五〇年 ( 昭和二五 ) の民営還元後は南米移民船の城下町として建設され、安土、平野、堺など 塀を巡らせ、城塞と化したのである。そのた にも力を入れ、また、計画造船で船隊整備に努畿内近国の商工業者を移住させた。大坂の陣に め石山本願寺は石山城ともよばれた。のち本願はもとより、二の丸大手の堀まで埋められてし ただあき しん めた。 よる豊臣氏滅亡後、徳川氏は初め松平忠明を封 まい、本丸だけを残す裸城となってしまった。 寺は天下統一途上の織田信長と対立し、武田信 もとなり ながまさ 三井船舶は三井物産から独立した会社であじ、ついで一六一九年 ( 元和五 ) 直轄領として 玄、毛利元就、浅井長政らと結んで信長と戦っいで翌一五年 ( 元和一 ) の夏の陣では天守閣 鴫野橋 仕切曲輪 玉造御蔵場 ー彡ーロ 伏見櫓 0 ロ 1 0 0 極楽橋 9 ′ 引橋 橋番 京定 御 0 0 ⑧ 山里加番 天 ( 0 代 7 0 0 0 坤 屋 加番 ⑩ 乾 0 中小屋 加番 雁木坂 加番 玉造御定番 Q3 御 ② 巽 3 大手 大西 東 大御番衆大御番衆大御番頭 頸 六番櫓 算用曲輪 番 ①②③④⑤ ⑥御目付 ⑦石造煙硝蔵 ⑧京橋ロ 〇筋鉄門 ⑩石造煙硝蔵 ほん ン た・一いし きない ふたい さい一く
回大林文彦・玉井禮一郎訳『マルティン・フィ ーニョの際は、ベルーのアンチョビーの年間漁 6 んビア北岸に河口をもっマグダレナ川をさかのば ェロ』 ( 一一・たまいらば ) 獲量が平年の六分の一の二〇〇万トンに落ち込 6 り、グアタビタ湖に到達したが、エル・ドラド と エルナンデス Miguel Hernåndez ( 一九み、世界の食糧・飼料市場に大きな影響を与え つを発見することはできなか 0 た。しかし類似の 一 0 ー四一 l) スペインの詩人。生地オリウェラでた。ちなみに、一九七〇年の漁獲量は一二〇〇 え秘境の存在を信じる者が後を絶たす、第二、第 王ロた ー 1 羊飼いをするかたわら文学に親しむ。詩人ラモ万トンである。 三の伝説を手掛りに黄金郷の探査熱は一八世紀 国 , っ エルニ 〈寿里順平〉 ン・シヘーに勧められて詩や宗教劇を発表。マ ーニョは現象的にはベルー沖の局所的 末まで続いた。 一 ~ 人曲っ 一一見戯を ドリードでアレイクサンドレ、ネルーダらと交なものであるが、その成因は、太平洋全域の海 エルトン Charles Sutherland Elton 後のけ るこかわる。市民戦争で共和政府側で戦うが、戦後投 洋、大気の循環、とくに、気象の「南の振動」 ( 一九 00 ー ) イギリスの動物生態学者。・ハ ぐたっ 獄され病死する。ゴンゴラらの影響を受け、難 Southern oscillations に密接に結び付いてい クスリーのもとで動物学を学び、イギリスのは 一 ~ めいき を描る 解なイメージを駆使した叙情性の高い作風で知 ることが最近の研究で明らかになってきた。す かス。ヒッツベルゲン、カナダなどで個体群の周 、一 ~ 一、ゞ娘をす のい覇られる。代表作『月の名手』 ( 一九一一一三 ) 、『止まな なわち、貿易風が強いとき、赤道水は西太平洋 期変動と動物群集の調査に従事。一一六歳で著し 族争制 貴のを 〈上田早苗〉 い稲妻』 ( 一九三六 ) など。 のほうに吹き寄せられ、そこに滞留する。しか た『動物の生態学』は、食物連鎖、生態的地 い恋場 しの劇 ) スイスのし貿易風の風速が弱まると、この暖かい表層水 位、個体群動態を基本に、動物生態学に現代史 エルニ Hans Erni ( 一九 0 九ー 美ニが を開いた名著とされる。一九三二年オックスフ ナ劇画家、デザイナー。ルツェルン生まれ。同地のは東太平洋のほうに押し戻され、その結果エル ニル演 ーニョの ーニョがおこるわけである。エルニ 工芸学校を卒業後、一九二七年から二八年にか オード大学に動物個体群研究所を設立し、また ナ工の ル賊派 けてパリのアカデミー ジュリアンに学んだ。 及ぶ範囲は、観測の少なかったこともあり、従 同年「動物生態学雑誌』を創刊。その後、哺 一 - ~ 一ト一 ( 工山ン こゅう その後ピカソやプラックに影響され、また「抽来、わりあい岸寄りと考えられていたが、一九 乳類の個体群動態に独自の見解を示し、第二 七五年二 ~ 三月の場合には西経九〇度付近まで 次世界大戦後は群集の様式論を、個体群と生息山賊に身をやっす反徒エルナニと、貴族の娘で象・創造」のグループにも参画した。しだいに こいがたき 具象と抽象を融和させ、とりわけ有機的な線描高温水 ( 平年値よりの偏差、最大五 ~ 六度 ) 孤児のドニヤ・ソルとの悲恋物語。恋敵の一 場所の相互的散在を軸に深化させた。六八年に の広がりをみた。とくに一九八二 ~ 八三年の例 退職したが、その後も南アメリカ熱帯域での調人だったスペイン王ドン・カルロスが皇帝即位を駆使した独自の画風をつくりだす。社会的な 査に従事し、また大学付属の研究地域であるワをきっかけに仁慈を示して二人の結婚はいった主題を扱った作品が多く、それらはきわめて説では、赤道を中心としベルー沖から西経一六〇 イタムの森の群集に関する研究資料を同大学のん許されるが、ドン・リュイ・ゴメス老公爵得力をもっている。挿絵やポスターなどの分野度付近まで平年差二度 O 以上の海面水温域が広 がっており、エルニ においても大いに活躍があった。〈高見堅志郎〉 ーニョが局所的現象でな エルトン記念図書館に保存すべく、現在も整理 ( ドニヤ・ソルの後見人 ) の横恋慕で心中に追 、東太平洋の非常に広い範囲のものであり、 にあたっている。 〈川那部浩哉〉 ニョ EI N ョ 0 南アメリカのペ い込まれる。ロマン派的主題と騎士道風モラル アレク . サンドラン ルー、エクアドル沖で数年に一度、熱帯系の温台風の発生・来襲の少なかった日本をはじめ、 回渋谷寿夫訳『動物の生態学』 ( 一九五五・科学新を柔軟な十一一音綴詩句で華麗に展開して、国立 はん 劇場でのロマン派劇公認をかちとった。彼はこ暖水が突入する海洋の現象。この海域は南大洋汎地球的な気候異変の一因であることをはっき 興社 ) ▽川那部浩哉他訳『侵略の生態学』 ( 一九七一・思索社 ) ▽川那部浩哉訳『動物の生れに先だち『クロムウエル』序文で古典主義演 ( 南極海 ) から北上する寒流のベルー海流 ( フり示したことで注目される。 エルニ ンポルト海流 ) が流れており、また岸近くの冷 ー一一ョを国際共同観測・調査で解明し 劇批判と新演劇の展開を宣言したため、『エル 態』 ( 一九大・思索社 ) ▽同訳『動物群集のパ ゅ、つしよう たい湧昇流もあって水温は低い。ここに赤道ようという機運が高まり、一九七九年、海洋研 ナニ』初演は古典派、ロマン派の決戦の場とな ターン』 ( 一九会・思索社 ) ー一一ョで究科学委員会と政府間海洋学委員 った。「エルナニ合戦」の名は後世、この種の反流系の温暖水が突入するのがエルニ エルドン John Scott Eldon ( 一七五一ー ひゅ 会では共同で「気候変動と海洋に関する委員 一一 0 イギリスの法律家。スコットランドの商演劇上の衝撃的事件を比喩的にさすこともあるある。これが一度おこると、海洋的には異常高 ーニョの 〈佐藤実枝〉温水が広がり、気象的には海岸にごく近いベル会」 (0000) を発足させ、エルニ ほど著名である。 家に生まれ、オックスフォード大学に学んだ。 ー内陸部に豪雨、洪水をもたらす。海況がまつ大々的な観測調査の体制が確立した。このよう 一七七六年以来、衡平法弁護士として活動、有エルナンデス José Hernåndez ( 天三四ー にエルニ ーニョの問題は、海洋学、気象学、気 たく変わるため、魚類、プランクトン、とくに 会 ) アルゼンチンの詩人。牧畜業の家に生ま 名事件を手がけて法曹界の名士となり、政界に ガウチョ も進出した。フランス革命の波紋が及んだ時期れ、牧童の生活や考え方を体得。彼らの地位向カタクチイワシ ( アンチョビー ) の量が激減候学などの面から、その実態解明と、世界気候 えさ し、それを餌にする鳥類も死ぬか飛び去ってし に与える影響の調査研究が進んでいる。↓海洋 に人身保護令状停止法など、自由主義運動弾圧上を唱えて政治的にも活躍するが、一時亡命、 〈半澤正男〉 まう。世界有数の水産国ベルーにとって大きな災害 のための一連の法律を起草し、九三年には法務帰国後は著作に専念した。代表作である『マル ふん ティン・フィエロ』 一人のガウチョが戦い 海洋災害である。さらに、海鳥の糞をもとにすエル・バオ鉄山ーーてつざん EI Pao lron 長官 Attorney General として自ら弾圧を指 ヾレ羽北東部 に召集され、脱走し、帰郷すると家族は離散、るグアノ ( 肥料 ) 産業も大打撃を受ける。この Mine ベネズエラ東部のポリー 揮するなど保守的立場を貫いた。当時「イギリ にある鉄山。鉄鋼都市サン・フェリクスの南方 スでもっともまれた男」となったが、国王のふとしたことで人を殺し、警察に追われ放浪す現象はクリスマスのころにおこることが多いと ころから、エルニ ーニョ ( スペイン語で幼児、五〇キ。にある。南西約二〇〇キ。にあるセロ・ポ 厚い信任を得て一八〇一年には司法界最高の地る第一部『エル・ガウチョ、マルティン・フィ ヾレル不山と一と・も - こ、。 へネズエラ鉄鉱産地の Christ Child の意 ) とよばれるという。 位である大法官 Lord Chancellor に任ぜられェロ』 ( 天七一 I) 、家族と再会する第二部『マルテ ′一と エルニ は、スペ ーニョははば五年ないし一〇年ごとに中心鉱山である。スペリオル湖型層状鉄鉱床で イン・フィエロの帰還』 ( 天七九 ) た。法律家としては有能で「法曹は隠者の如く けんさん 暮らし、馬の如く働くべし」をモットーに研鑽インの英雄叙事詩『わがシードの歌』に匹敵すおこるといわれ、近年における顕著なものは、赤鉄鉱を産し、鉄分五五 % 以上の確定鉱量は五 〈井上達夫〉るもの、またアルゼンチンのもう一つの聖書と一九五三年、五七 ~ 五八年、六五年、七二 ~ 七〇〇〇万トンである。採鉱は露天掘りで、日産能 に励んだといわれる。 はくど もいわれ、国民すべてに愛唱され、内外の作三年、七五年、および八二 ~ 八三年におこってカは剥土一万六〇〇〇トン、鉱石一万二〇〇〇トン エルナニ Hernani フランスの作家ュゴ 〈安藤哲行〉 いる。二〇世紀最大といわれた七三年のエルニ に及ぶ。 〈房村信雄〉 ーの五幕韻文劇。一八三〇年初演。もと貴族で家、批評家に絶賛されている。 2
とこやま ない。大道具方、小道具方、衣装、床山、狂言 とえその者が真の権利者でなかったとしても、 上、所持人としての地位に個性がないところか いられる。この場合裏書による譲渡はできない とうどり がくやくち はやしかた が、指名債権譲渡の方式と効力をもって譲渡す悪意、重過失がない限り免責される ( 手形法四作者、囃子方をはじめ、頭取や楽屋ロ番などが ら、戻裏書の可能性を認め、それによって手形 を取得した者はさらに裏書譲渡ができるものとることはできる。そのほか、無担保裏書と裏書〇条三項 ) 。このほか、裏書の連続ある証券を「裏方」にあたる。華やかに演劇が上演される している ( 手形法一一条三項 ) 。期限後裏書と禁止裏書とがある。無担保裏書は、裏書人が裏無権利者から善意かっ無重過失で取得した者背後にあって、直接観客の目に触れることのな いところで創造を支えている重要な役割の人た は、支払拒絶または満期後になされた裏書で、書をなすにあたり、後者全員に対し担保責任をは、これを返還する義務を負わないという、善 手形の流通証券としての機能が失われているの負担しない旨を記載してなされる裏書である。意取得の制度が認められている ( 手形法一六条ちである。これが転じて一般用語でも「縁の下 で、これも正常に流通させる必要がないため、裏書禁止裏書は、裏書人が裏書をなすにあたり二項、小切手法二一条 ) 。なお、裏書の連続をのカ持ち」的な役割をする人をこの名でよぶ。 ↓表方 〈服部幸雄〉 この裏書には通常の指名債権譲渡の効力しか認新たな裏書を禁ずる旨を記載してなされるもの欠いていても、証券所持人は自己の実質的な権 おんごく うらがぶぎよう江戸幕府の遠国奉 めす、担保的効力も人的抗弁の切断も認められであるが、この場合は振出人のなす裏書禁止と 利関係を立証すれば、その権利を行使できるこ浦賀奉行 しもだ 〈戸田修三〉 とはいうまでもない。 行の一つ。一六一六年 ( 元和一 l) 伊豆に下田奉 ない ( 手形法二〇条一項 ) 。 異なり、単にその裏書人について被裏書人の後 〔裏書の方式〕通常は証券の裏面になされるの者に対する担保責任を免れるという効力を有す浦賀水道うらがすいどう関東地方の南部、行が置かれたが、一七二〇年 ( 享保五 ) 一二月 に相州浦賀へ移った。その職務は、江戸に出入 で裏書といわれているが、法律上はかならずしるにとどまり、直接の被裏書人に対しては担保東京湾ロ部の水道。房総、三浦両半島の間にあ かいせん ふつつ りする廻船の積み荷と奥州から大坂へ送る米穀 も裏面にする必要はなく、証券の表面、謄本ま責任を負う。けっして文字どおり裏書禁止の効 たり、富津岬と観音崎を連ねる線以南の海をい はせん たはそれらの補箋にもなしうる。ただ裏書人の力を生ずるものではない。 う。東西の幅約一〇キ。。地質時代の第三紀に陥を検査し、あわせて近在の幕府領ならびに浦賀 署名のみによって裏書をする場合にはかならす ③資格授与的効力裏書の記載において、裏書没して水道となったもので、水深は三浦半島寄町中の民政をつかさどった。老中支配に属し、 裏面にしなければならない。裏書の方式には記の連続のある証券の所持人は、証券上の権利のりが深い。江戸時代に入ってから、江戸の日本高千石、平常は属僚を遣わして職務の遂行にあ 名式裏書と白地式裏書とがある。前者は、被裏行使につきいちおう真の権利者であるとの推定全国に果たす役割の重要性に伴い、この水道のたらせ、奉行は江戸にあって執務した。しかし 書人を指定して裏書人が署名してなされるものを受ける。証券所持人が権利行使をする場合、 防衛、流通上の機能は著しく増大した。そして幕末に異国船が江戸湾に来航するようになる かみがた かいせん つねに実質的な権利を証明しなければならない 上方をはじめ諸地方との間の廻船や荷船の往来と、高二千石となり、従来の職務のほかに、国 であり、後者は、被裏書人を指定しない裏書 でにぎわうようになった。幕末になり日本近海防上から沿岸防備をはじめ、異国船の取扱いま で、それには、裏書文句を記載して裏書人が署ものとすると、証券を取得するにあたりいちい 八六二年 ( 文久一 l) 以 で幅広く命ぜられ、一 名する場合と、単に裏書人の署名だけでなされちその点の調査を必要とすることになり、証券 に外国艦船の出没の報が伝わるようになると、 る場合とがある。このはか、証券の持参人に対の迅速な流通性を期しえない。そこで、裏書の幕府は東西両半島の沿岸を譜代大名領とし、数後、奉行は浦賀に駐在するようになった。元来 あんせい して支払うべき旨を記載した持参人払式裏書の連続ある証券所持人に権利者としての形式的資十か所に砲台を築いて江戸の防衛線としたが、長崎奉行の次席であったが、安政 ( 天五四 ~ 六 0 ) のころより要職として格式も高くなり、長崎奉 方式もあるが、これには白地式裏書と同一の効格を認め、権利行使を容易にしたのである ( 手それらのいくつかはいまも残されている。 〈柚木学〉 現在は、京浜、京葉両工業地帯へ通する国内行の上席に列するに至った。 力が認められている ( 手形法一一条 ~ 二〇条、形法一六条一項、小切手法一九条 ) 。 小切手法一四条 ~ 二四条ほか ) 。 〔裏書の連続・抹消〕証券の記載において、受 、国際間の幹線航路であり、多数の内外の大浦上っらかみ長崎市街北部の一地区。旧 〔裏書の効力〕譲渡裏書の効力としては次のよ取人が第一の裏書の裏書人となり、第一の裏書型船舶の航行がしきりである。それに房総、三浦上山里村、西浦上村。長崎本線浦上駅があ うなものがある。 の被裏書人が第二の裏書の裏書人になるという 浦両半島間のフェリーポートが加わって、海上る。中世末からキリシタンの里で、江戸幕府の ①権利移転的効力譲渡裏書により、証券上のようにして、現在の所持人に至るまで裏書が連の交通ラッシュがおこり、海難事故多発海面と弾圧開始後も信仰を守り続けたが、一七九〇年 いっさいの権利が裏書人から被裏書人に移転す続していることを裏書の連続という。たとえなっている。沿岸は、三浦、房総両半島とも夏 ( 寛政一 l) 以後四回の大きな弾圧を受けた ( 浦 ば、↓、↓ 0 、 0 ↓ Q となっていれば裏は海水浴場としてにぎわう。また、年中釣りが上崩れ ) 。一八六七 ~ 六八年 ( 慶応三 ~ 明治一 ) る。この効力は手形・小切手の場合にはとくに 一般の債権譲渡の場合よりも強力で、債務者が書の連続が認められるが、↓、 0 ↓の場楽しめ、京浜のレクリエーション地域としてよの四番崩れがもっとも厳しく、全村総流罪 ( 三 〈浅香幸雄〉 三九四人 ) の受難にあい、一八七三年にやっと く利用される。 裏書人に対してもっている人的関係に基づく抗合は裏書の連続を欠く。最後の裏書が白地式の 弁事由をもって被裏書人に対抗できないという ときは単なる証券の所持人が権利者であると推ウラカス島ーーとう Uracas 西太平洋、帰村している。明治時代は長崎市街地に隣接し ミクロネシアのマリアナ諸島北端にあり、富士ながらも農牧を主としていたが、大正時代に入 人的抗弁の切断が認められている ( 手形法一七定され、また、白地式裏書について他の裏書が みつびし って三菱兵器製作所や三菱製鋼所の設立があ あるときは、その裏書をなした者が白地式裏書火山帯に属する安山岩質の活火山島。別名バハ 条、小切手法一三条 ) 。 り、都市化が進み、文教、住宅地区として発展 ⑦担保的効力裏書人は、証券上の債務の履行 によって証券を取得したものとみなされるか ロス島 Pa 」 aros0 標高三一九で、大洋底か した。一九四五年 ( 昭和二〇 ) 八月九日、原爆 がなされない場合に、被裏書人などの後者全員ら、裏書の連続を欠かないことになる。また、 らの山体の高さは約二〇〇〇。島は径約一 えんすい に対し担保責任を負っている。これは証券の流抹消された裏書は、裏書の連続については記載五キ。で、古い大火口内に美しい円錐形の成層火投下にあい、浦上を中心に半径四キ。圏内は大き がないものとみなされる。裏書の連続の有無山をなす。一八六五 ~ 一九五三年にその山頂火な被害を受け、死者七万三八八四人を出し、街 通性を確保するために認められた制度であり、 一般に裏書が多いほどその証券の信用性が強化 は、証券上の記載から形式的に判断すべきであロで数回噴火し、一九三二年には溶岩流も発は焼失した。現在、浦上天主堂、平和公園、国 って、かりに同一人であっても表示上同一人と生。三四年には付近で海底噴火があった。第一一際文化会館のほか、長崎大学医学部や付属病院 される ( 手形法一五条一項、小切手法一八条 ) 。 などがある。↓長崎 ( 市 ) ↓浦上教徒事件↓浦 裏書にはこのような効力が認められているため認めがたい場合には裏書の連続を欠くことにな次世界大戦の結果、日本の委任統治領からアメ 〈石井泰義〉 リカ合衆国の信託統冫領になった。〈諏訪彰〉上天主堂 みに、それを回避する意味で裏書を禁止する場合る。裏書の連続のある証券所持人は正当な権利 おもてかた うらかた劇場用語。「表方」に対す囮二万五千分の一地形図「長崎西北部」 力がある。いわゆる裏書禁止手形 ( 小切手 ) はそ者としての推定を受けるから、権利行使に際し裏方 ひきまく 自己の実質的な権利を証明する必要がないし、 、らの一つであり、手形・小切手を担保の目的のた る名称で、舞台の引幕を境として、それよりも浦上氏つらがみうじ磨国 ( 兵庫県 ) 揖西 しよう 、フめに振り出し、ほかに流通せしめないために用また、この者に履行をした善意の債務者は、た奥 ( 裏 ) で働く演技関係者。ただし俳優は含ま郡浦上庄を本貫とする在地領主。南北朝期以降 2 日 ふだい