うおらす による思考の過程はともに、社会・政治生活と え漁獲物の配当も一般の網子の倍が与えられ あわない場合や足指の変形などによる場合が多生い立ちを語ることを嫌い、生年については一 〈野口武徳〉固く結び付いていると考えたのである。彼はま 、歩行時に痛みが強い。治療としては、ます九二八年、二九年の異説がある。フィラデルフた これらの持続的圧迫刺激を避けるくふうをする ィアに生まれ、ビッツバーグのカーネギーエ科ウォームキャ worm gear 歯車伝動装た、テクノロジーの発達による「大社会」の出 らせん ことで、外用薬としては、スピール膏などを賺大学に学ぶ。五二年ニューヨークに出て商業デ置の一種。一条または数条の螺旋からなるねじ現が人間生活に及ばすゆがみを指摘し、専門家 せんせつ しし、その形は円筒形での対応を求めた。主著に『政治における人間 り、数日後に角質が軟化したときに剪截するザイナーとして活躍したのち、画家に転身。六状の歯車をウォームと、 ( ( 小林丈児〉 二年シドニー か、角栓をくりぬく。なお、まれではあるが、 ・ジャニス画廊で開かれた「ニュある。このウォームとかみ合う歯車をウォーム性』 ( 一九 00 がある。 ウォームとウォームホイール ー・リアリスツ」 new realists 展に出品してホイールと、、、 回石上良平・川口浩訳『政治における人間性』 悪性黒色腫である場合も考えられるので、診断 ( 一九夭・創文社 ) の一組をウォームギャという。ウォームホイー は原重に行う必要がある。 〈水谷ひろみ〉注目を集めた。漫画の一こま、新聞報道写真の ルは、はすば歯車に似て歯溝が斜めに刻まれてウォ一フストン William Hyde Wollas ・ 一場面、映画女優のプロマイドなどマス・メデ ゥー・オー ータ U Awbatha ( 一七 ton ( 一七六六ー 一 00 イギリスの化学者、物理 いてウォームの螺旋によって送られる。ウォー ? ) ビルマのコンバウン王朝第一期ィアの媒体を、シルクスクリーンでカンバスに そうりよ ム生まれ。 ムとウォームホイールの軸は直角の場合が多学者。ノーフォーク州の東ディーハ 転写拡大する手法で著名。六三年から『スリー に文人として活躍した僧侶。ミンブー・ウー ぶった 。ウォームギャは一組で三〇〇分の一程度まケンプリッジ大学で医学を修め、一七九二年に ータとも称される。仏陀前世物語であるプ』『エンパイア』など実験映画の製作を行い、 丿力開業するが、一八〇〇年には化学に転向し、白 『ジャータカ』の一〇大作品のうち、『ウェッタ さらに商業映画にも手を染め、小説も出版するでの大きな減速比が得られる。またホイーレゝ らウォームに回転を伝え増速することもでき金の可鍛状態をつくる研究を始める。研究中、 ンターヤー』 Wethantaya 、『マホウタダー』 など、多方面に活躍して六〇年代芸術のスター 丿カ白金鉱石の分析により新元素パラジウム ( 天 〈石崎浩一郎〉 る。歯の構造によっては、ウォームホイーレ、 的存在となった。 Mahawthada 、『ウイドウャ』 WidVYQ など八 らウォームへ回転が伝えられないようにするこ 0 (l) 、ロジウム ( 天 0 四 ) を発見。〇五年には可 つを、韻文を交えたビルマ語散文でザットージ回ビーター・ジダル著、チハーコヴァー・ヴラ ともできる。 〈中山秀太郎〉鍛性白金の製法を考案し、極細の白金線 ( ウォ ーとして書き上げたが、これはビルマ風仏教説 スタ訳『アンディ・ウォーホル』 ( 一九大 ラストン線 ) をつくり、販売して大きな利潤を 話である。文体が簡潔で滑らかなため、広く大 ルコ出版局 ) あげた。二〇年には王立協会会長となる。 〈奥平龍二〉 衆に親しまれた。 魚見うおみ海に面する小高い所や船上で 理論化学においては、ドルトンの原子論に対 ャ 「魚蛭〕ミを 0 ミさ、魚群の来遊や動静を監視する役目。普通は海鳥 ウォビル ギ ャ ム する彼の態度が興味深い。〇八年いち早く、塩 環形動物門ヒル綱フンビル目ウォビル科に属すの群がりや水面の動き、風向きなどによって判 オ ム 類の構成成分がドルトンの倍数比例の法則に従 る海産動物。海産の硬骨魚類に外部寄生し、東断するが、経験と勘がものをいうむずかしい役 ウ オ うことを一小し、原子論の受容に貢献したが、数 目である。漁村でとくに地引網や定置網などに 北地方以北に分布する。体長四内外、幅六 ~ 円 ウ 年後、分子中の原子数決定法には根拠がなく、 七、リで、頸部と胴部にはっきり分かれる。背面よる共同漁が行われる場合に魚見がつくことが ふめいりよう はんもん に。不明瞭な褐色の斑紋がある。前吸盤は大多く、内に魚群が入れば、大声で叫んだり旗ウオムジャ Lonüa ポーランド北東部、原子の実在にも疑問があるとして、原子量のか きく、その底のほば中央にロが開く。目は三対 などを合図として漁船や網子に知らせ網を入れマズール地方ウオムジャ県の県都。ビスワ川のわりに「当量」の採用を提案した。さらに、酸 支流ナレフ川に臨み、人口四万四四〇〇 ( 一九素を一〇とする各元素の当量を計算し、対数目 で前の二対は前吸盤上にある。頸部に胴部が接させる。所によっては魚見は監視役だけでなく 盛りによる計算尺で示した。原子論に対するこ <II)O 九世紀起源の古い商業都市で、とくに一 する位置に環帯がありその腹面に雌雄生殖口が漁労全体の指揮を務めることもある。島根県八 〈今島実〉束郡島根町野波で行われていた村共同のイワシ五 ~ 一七世紀に、政治、経済、文化上重要な都の実証主義的懐疑と当量概念は、のちに彼が原 開く。後吸盤は半球状で大きい 地引網の場合、交代制で務める網元 ( カリヤ ) 市であった。第二次世界大戦で市街地の七〇 % 子論に復帰したにもかかわらす大きな影響を及 ウォー卞ル Andy Warhol ( 一九き ? ) アメリカのポップ・アートの代表的画家。自身が魚見を兼ね漁の采配を振るった。それゆが破壊された。ビスワ川以東は経済的後進地域ばし、一九世紀なかばまで化学界に混迷をもた であるが、一九六〇年以降は工業化政策が進めらす原因の一つとなった。 他の分野においては、結晶学における反射測 られている。食品、家具、日用品生産に特色が ある。 〈山本茂〉角器の改良、食塩型の結晶構造の提唱、光学に ー一九三一 l) おける収差をなくすようにした顕微鏡用複合レ ウオラス Graham wallas ( 天夭 八一年オンズ ( ウオラストンレンズ ) やメニスカスレン イギリスの政治学者、社会学者。一、 ズ、カメラルシダなどの器具の改良、太陽ス。へ ックスフォード大学卒業。ハイゲート・スクー クトル中の暗線 ( 後のフラウンホーファー線 ) ルの教師を経て、九五年にロンドン・スクー ル・オ。フ・エコノミックスの講師となり、一九 一四年から二二年まで教授を務めた。その間た びたび渡米し、大学の講座を担当したり、講演 旅行を行ったりした。またフェビアン協会の会 員となり ( 一公六 ~ 一九 0 四 ) 、とくに加入以来一 九五年までその執行委員を務めた。彼は、人間 が手段を合理的推論によって選ぶとする「主知 主義」の一面性を超え、政治のなかにある情緒 や衝動の観察の必要を説いた。潜在意識と意識 ・一う あみこ ウォーホル「 20 人のマリリン』 1962 年シルクスクリーン ウオラストン
降りて、大量のアリを含む昆虫類を求める。驚 1 生まれる。少年期に肺 結核にかかり、スイスで 6 くと後肢だけでかなり長距離を走り、安全な樹 ま 〈松井孝爾〉 療養中にロシア娘ガラ 上に逃げる。 に出会い、のち結婚す エリマキバト〔襟巻鴿〕 jacobin 鳥綱 かきん え る。第一次世界大戦中 ハト目ハト科の鳥。家禽化したドバトの観賞用 は看護兵として戦争の 、 ) 、「 ( ~ 一 ) 3 走人為品種で、カッラバト ( 鬘鴿 ) ともよばれ 惨禍を体験、反戦詩集 る。一六世紀中期すでにオランダ、ベルギーで 岸 『義務と不安』 ( 一九一七 ) 、 ー作出され、ヨーロッパに広まった。姿として 東 くび の 『平和のための詩』 ( 一九 は、上体がやや立ち、頸の羽毛が襟巻状に巻い 一 0 を発表する。戦後 て、頭はその中に入るのがよいとされる。白、 び ・ッ ~ ル驚 る はバリのダダ運動に参 赤茶、黒のほか、灰二引き ( 灰色地に黒い線が ち てれ 力さらにプルトン、 二本ある ) などの羽色があり、日本にも古く入 を アラゴンらとともに ↓ド・ハト〈黒田長久〉 ったが、現在は少ない とづ 地名シュルレアリスム連動 えりも ( 町 ) えりも ( ちょう ) 北海道中南部、 ほろ の代表的詩人となる。 すか 日高支庁南端の町。一九五九年 ( 昭和三四 ) 幌 えりも いずみ 『苦悩の首都』 ( 一九一一六 ) 、 泉町として町制施行。観光で知られる襟裳岬 ケ にちなみ、七〇年えりも町と改称。「幌泉」は 木し 着接の生』 ( 一九三一 I) など アイヌ語「ポロエンルム」 ( 大なる岬の意 ) か 票 てんか 高がの詩集においては、生 ら転訛したもの。江戸時代初期からアイヌと和 マ , 員 人の交易地で、その後も海産物取引が盛んであ く組来の明央流麗な文体に 工 強乗 大胆な実験的語法が加 った。日高山脈の南端が幾段もの海岸段丘をつ ・カ わり、平易な語句の意 くり、岬周辺には海食台が発達してコンプ漁場 へ渡る。日本には旅鳥として渡来するが数は多 節難 季遭想外な組合せから驚く くない。全長は雄約三二、雌約二五拜一。翼長となっている。黄金道路の異名をもつ国道二三 のが 南船べき超現実的イメージ は雄約一、 、雌約一五。夏羽の雄には襟巻六号が国鉄日高本線様と広尾線広尾を結ぶ。 はの 帯藩が出現し、華麗なエロ 状の飾り羽があり、その色は個体によってさま襟裳道立自然公園に含まれ、襟裳岬、歴史と防 しょや ざまに異なる。雌と冬羽の雄では上面は黄褐色風林で知られる百人浜、庶野のサクラなど観光 岬盛ティシズムが脈動して じゅうはん しる。また、プルト で黒い縦斑があり、下面は淡褐色。繁殖期に資源も多く、日高コン。フの産地として知られ 裳人 ン、シャールとの共著 〈柏村一郎〉 る。人口七五二〇。↓百人浜 は雄はレックとよばれる一定の場所に集まり、 『エ事中徐行』 ( 一九三 0 ) 、 飾り羽を広げて向かい合って争う。レックを訪回渡辺茂編『えりも町史』 ( 一九七一・えりも町 ) 鉄日高本線様似、広尾線広尾からバスの便があ。フルトンとの共著『処女懐胎』 ( 一九三 0 ) があ れた雌は気に入った雄と交尾するが、乱婚的で囮五万分の一地形図「幌泉」「庶野」「襟裳岬」 る。 〈柏村一郎〉 えりもみさき北海道中南部、日高山る。 何羽かの別の雄とも交尾する。渡りのときには 襟裳岬 ガラと別れたあとは第二の妻ニュッシュを迎 地三万五千分の一地形図「襟裳岬」 入り江、水田、湿地などにいて、浅水中で動物脈の末端が太平洋に突出した岬。日高支庁えり も町にある。東側は標高九〇 ~ 八〇、六〇 ~ 〈高野伸一一〉 エリヤ E 三 ah 紀元前九世紀の中ごろ、イえ ( 一九三四 ) 、国際的シュルレアリスム運動の活 質の餌をあさる。 ひょくめ 四〇、二〇前後の三段の海岸段丘が発達スラエルに登場した戦闘的な預一一 = ロ者。『旧約聖動家として活躍、『肥沃な眼』 ( 一九三六 ) 、『自由な エリマキトカケ frilled Iizard/8Chla- はちゅうゆうりん きミ bs ミ s ・ ~ 爬虫綱有鱗目アガマ科のし、南西側は中位段丘が海に臨み海食崖となっ書』の「列王記」上 ( 一七 ~ 一九章、二一章 ) 、手』 ( 一九三七 ) 、『自然な流れ』 ( 一九三 0 、『見せる』 ~ 二章 ) にその言行が記されている。 ( 一九三九 ) などの中期の秀作には、平明な言語に トカゲ。オーストラリア北部、ニューギニア島ている。岬突端はこの延長で断崖となり、沖合同下 ( 一 より万人に親しみやすい作品を書こうとする配 いには海食台が延びて数キ。の岩礁が続く。寒暖当時の北イスラエル王国の王アハ・フ ( 在位前 南東部に分布し、低地の森林地帯に生息する。 〈七 0 ころ ~ 前会 0 ころ ) は、フェニキアから迎えた妻慮がみられる。ファシズム台頭、スペイン内乱 全長七五 ~ 九〇垰一、尾はその三分の二ほどを占両流の合流する所で、とくに五 ~ 八月には海霧 の発生が多く航海の難所とされ、一八八九年イゼベルのためにイスラエル古来の宗教を圧迫を契機としてしだいに政治問題に関心を深め、 める。頸部には、舌骨が長く伸びてできた軟骨 一九三八年プルトンらのグループと決別する。 の支柱に支えられた、大きな襟巻状のひだ飾り ( 明治二一 D に灯台が開設され、その霧笛は観し、フェニキアの神バールの宗教を導入した。 エリヤはこれに抵抗し、イスラエルとフェニキ社会正義と同胞愛を詩の目的とみなす詩論『詩 がある。普段は肩に垂れているが、興奮すると光客の旅情をそそる。岬付近は好漁場で日高コ アの国境に位置するカルメル山上でバールを奉的証明』 ( 一九三六 ) や詩集『ゲルニカの勝利』 ( 一九 ンプの産地として知られ、東側の低位段丘面に ハラソルのように広げ、直径二〇 ~ 三〇にも 達する。襟飾りは体を大きくみせる効果があは襟裳の漁村があり、付近には旅館、キャンプじる預一一 = ロ者たちと対決、イスラエルではヤーウ三 0 などの作品にはこの間のエリュアールの内 工が唯一の神であることを示した。〈木田献一〉的変化が反映している。第二次世界大戦中は対 り、敵に対する威嚇や求愛行動のときに広げる場などの施設も多く、夏季はとくににぎわう。 ー一九独抵抗運動に加わり、共産党に再入党。抵抗詩 一九八一年 ( 昭和五六 ) 日高山脈襟裳国定公園エリュア ール paul Eluard ( 天九五 が、広い皮膚面積が体温調節のラジェーター FII) フランスの詩人。本名ゥージェーヌ・グの傑作「自由」を含む『詩と真実一九四二』 に指定され、濃霧と岬の荒波のはか、幕末の遭 ( 放熱器 ) の役割を果たすものとも考えられて ( 一九四一 D 、『ドイツ軍駐屯地で』 ( 一九四四 ) などは広 いる。樹上性であるが、降雨のあとなど地上に難悲話の百人浜などが北国の印象を強める。国ランデル。一二月一四日パリ北郊サン・ドニに えさ 3
キ、本線高尾駅、仙山線山寺駅、紀勢本線那智駅、 につはう 橋鉄よ , え日豊本線宮崎神宮駅など著名な寺社を近くにも を 道 っ駅は寺社建築の様式を取り入れ、中央本線国 歩れ性 どさん をさム月 立駅、東海道本線三島駅、土讃本線琴平駅など 場用機 利るつ 広 は付近の観光地や都市の性格にちなんだ特徴の ていも ある様式である。やや大形の駅でも、奈良駅は 駅るしての とし駅 古都に、長野駅は仏都にふさわしい寺院風建 駅て場た 台し車果し 築、すこし古いが京都の二条駅、同じ山陰本線 仙離駐を結 おもむき た分や能直 の大社駅などは神殿風で、他の駅とは趣を異 れにル機が さ的ナの街 にしている。 装体ミ」店 〔第一一次世界大戦後の駅〕第二次世界大戦によ 改立一ぎ商 てをタな下 る戦災の結果、国鉄、私鉄ともに主要都市の駅 っ両スっ地 と 伴車バ「 は大きな被害を受けた。輸送力増強のためには にとはのロ 業者場と札 駅舎の復興が急務だったが、当時の国鉄の切迫 開行広関改 の歩前機 した資金事情から、民間資本による民衆駅方式 線 , 駅通ロ が出現した。一九四八年 ( 昭和二三 ) の東海道 幹き。交東 能新巻駅の駅 本線豊駅が第一号で、七一年までに五〇駅以 ヒ丿敷他宿め やえす の東取倉と新高 上の駅ビルが完成した。東京駅八重洲ロ、山手 駅①が②道③り 線池袋駅、関西本線天王寺駅、鹿児島本線博多 より大きな操車能力を求めて、市街部から離れ 駅などがそれで、駅本来の業務に必要な部分以上交通の王者に成長すると、旅客の乗降、貨物提供した事実が多数明らかにされている。 駅の正面がどちらを向いているかによって、 ていく傾向が強かった。 外の地下や上部施設を、商店街、デパート、ホの積み卸しの行われる駅は、地域社会の玄関と 〔交通機関の接点〕駅は鉄道と他の交通手段と して重要な意味をもつようになった。駅は比較駅周辺の地域の発達には大差が生じた。かって テルなどに利用する方式である。市街の中心に あって経済的価値の高い鉄道用地を経営に活用的広い面積を必要とするので、既存の都市や集の駅は一方にしか出入口のないものが多く、駅の接点である。したがって、二つの交通手段の するため、七一年日本国有鉄道法施行令が改正落の外縁部や市街からある程度離れた位置に設裏の発展はかえって阻害され、寂しい景観がみ「つなぎ」がスムーズに行われるような配慮が 必要である。初期の駅はもつばら徒歩の旅客の され、国鉄が駅ビルを建設・運営する会社に出けられるのが通例であった。その意味で、駅のられた。鉄道線路や駅によって線路両側の交流 が妨げられるからである。近年は広い横断コン集散を主として考えればよかったので、この面 資することが可能になった。以後、七三年の平位置は建設時の市街の広がりと密接な関係をも コースや橋上駅の導入によって、このような例の配慮は希薄であった。自動車交通の発達によ 塚ステーションビル、七四年の名古屋ターミナっている。駅ができると、人や貨物の集散地点 は少なくなった。 って、駅は単に鉄道の施設であるだけでなく、 となるため、商店やさまざまの施設が立地し、 ルビルなどが次々に建設され、八一年度までに 〔駅の拡大と専門化・離心化〕鉄道創業時につ都市、集落の地域計画のなかで総合的に考慮す 五五会社五九の駅ビルが国鉄の出資で建設されしだいににぎやかな市街を形成して新しい中心 くられた駅は一般に「よろず屋」であった。頭べき存在となった。たとえば駅前広場は、現在 地をつくるようになり、二つの中心地を結ぶ道 た。八三年四月に完成した大阪ターミナルビル 一つの駅が旅客の駅の機能にとって不可欠で、地域再開発の重 初の新橋駅や神戸駅のように、 は地上二七階地下四階と、在来の駅ビル中最大路沿いの地域も市街地化した。たとえば、一 の規模である。民衆駅、国鉄出資をあわせる七四年 ( 明治七 ) に開業した大阪駅は、当時も貨物も取り扱い、機関庫や客貨車庫、工場ま要な要素である。自動車の駐車場、バスターミ と、八三年度現在の駅ビル経営主体は約一一〇「大阪三郷」とよばれた市街地の北の外れに位でも含んでいた。しかし、駅の扱う旅客、貨物ナル、あるいは自転車置場など、新しい時代の そわぎき 交通を反映する機能の追加要求が行われて、駅 置し、西成郡曽根崎村字梅田の広々とした水田が地域経済の発達とともに膨張すると、敷地の 社にのばり、今後ますます増加の傾向にある。 における「つなぎ」の機能はつねに見直しを迫 拡大が必要となり、やがて、旅客駅、貨物駅、 土地の取得難、線路上空の利用、駅両側の均を埋め立ててつくられたし、名古屋駅 ( 一、 ささじま られる宿命にある。そのため、駅の設計にあた 六年開業 ) も市街地の西方に遠く外れて笹島と貨車操車場、工場などの機能がそれそれ分離独 等な開発などの理由から、橋上駅が増加してい っては、将来を予測した「つなぎ」の機能を先 立して、専門化の道を歩むようになる。駅機能 るのも最近の傾向である。橋上駅は都市近郊のよばれた水田地区に設けられ、市街地と駅を結 六 ) 幅の の専門化は大都市から始まり、比較的大きな地取りする必要があるが、これはけっしてやさし 中間駅などに採用されていたが、最近では新設ぶ一〇 ~ 一三間 ひろこうじ い道ではない。駅のもっ他の交通機関との「つ 広小路が後年の繁華街に成長した。このような方都市に及んでいく。たとえば、最初の駅であ だけではなく改築にもこの方式が多くなってい る。東北新幹線・上越新幹線の大宮駅は現在で例は全国の都市、集落でみることができる現象る新橋駅 ( 一八七二年開業 ) は、一九一四年なぎ」の機能と同時に、駅に密着してさまざま ( 大正三 ) 、旅客専門の東京駅の開業とともに貨の商業、娯楽機能が立地する。とくに日本の大 は日本でいちばん大きな橋上駅で、在来の東側であった。 しおどめ 鉄道創業の時代には、人々の鉄道に対する理物専門となって汐留駅と改称され、工場設備は都市では、交通量の大きい鉄道相互間の乗換駅 の駅ビルと西側の新幹線高架駅とを結んで、線 を中心として、副都心とよばれる独特の繁華街 路上に新築された駅ビルを一体化させている。解が十分でなく、鉄道のルートを忌避したり、大井工場に移された。一般駅の構内で行ってい た貨物列車の組成も専門の貨車操車場に移されをつくりだした。東京の新宿、渋谷、池袋、大 今後もこのような広い鉄道駅構内の上空利用の駅の位置を集落から遠ざけたという一言い伝えが なんば 駅舎は多くなるものと思われる。〈松澤正二〉多い。しかし、確実な史料によって証明できるていった。京浜、名古屋、京阪神の大形駅で阪の梅田、難波などは、郊外と市街地を結ぶ鉄 は、一九一〇年代から三〇年代にかけて機能が 道の乗換駅を中心として発達したが、それは大 〔駅と地域社会〕〔地域社会の玄関〕蒸気機関事例はきわめて少なく、最近の研究によれば、 正後期以降の郊外住宅地域の発達に伴うもので 車の実用化によって鉄道が世界中に普及し、陸むしろ積極的に鉄道を誘致し、駅設置の便宜を専門化し、とくに広い面積を占める操車場は、 ① 408
えんずい 遠心分離機 パスケット型 ( 固・液体分離 ) 原液 けっしょ・つ 牛乳の脱脂、血漿の分離などである。この際力のこと。これは物体の慣性によるものであを通る半直線全体のつく り、通常のカ ( その作用によって物体に加速度る面を円錐面、 0 を頂 は毎分五〇〇〇 ~ 一万回転の高速回転をする。 ません 点、各半直線を母線とい を生じさせる ) とは異なり、回転座標系で生じ 脱水機のように円筒に穴のあいているものは、 う。円錐面と平面とで る見かけ上のカである。物体に作用し加速度を 濾過用として使われ、遠心濾過機ともいう。砂 糖の結品分離、ジュースの液を清澄にするとき生じさせている外カ ( 円運動の場合は向心力 ) 囲まれた立体を円錐 ( 斜 しし、平面上 に対する反作用と考えることもできる。半径円錐 ) と、 などに利用されている。 の円を底面、頂点 0 から 遠心分離機は、重力の何倍の遠心力を生じるの円周上を速さ气または角速度の ( Ⅱミこ かによってその性能が表される。これを遠心効で円運動を行っている質量襯の物体に作用する平面へ下ろした垂線の 遠心力は、大きさきュ、またはミ、 ~ で、半長さを高さという。底面 果とよんでいる。すなわち、 径に沿って外向きである。これは、円運動を続の半径が、高さがカの である。 けさせている力、すなわち向心力と大きさが同円錐の体積はⅡ ( 1, 、 3 ) 円 ミゞである。円錐を底 遠心力の大きさは、ま x x ( 沖瀛 ) ~ じで向きが逆である。 ずいのう 遠心力の存在は、回転座標系に乗ることによ面に平行な平面で切り、この平面と底面の間に延髄えんすい髄脳ともいう。中枢神経系 で表されるから、したがって遠心効果は、遠心 は脊髄と脳とからなっているが、その脳の最下 って日常しばしば感じられる。たとえば、遊園ある円錐の部分を円錐台という。円錐で、頂点 分離機の半径と回転速度によって決まる。回転 地にあるループ・コースターなどの回転連動を 0 と底面の円の中心を結ぶ直線が底面に垂直の部が延髄で、脳の延びた部分という意味であ 速度は毎分一〇〇〇回転から数万回転のものま はにゆ・つ とき、この円錐を直円錐という。直円錐は、二る。延髄の上方は、哺乳動物の場合では後脳 行う乗り物に乗ると、外側に強く引かれるよう である。遠心効果一〇〇以下のものを低速遠心 きょ - っ に感ずるが、これが遠心力である。遠心力を応等辺三角形を、頂角の二等分線を ( 橋と小脳 ) へと続き、鳥類以下では橋がなく、 分離機、一万程度のものを高速遠心分離機、一 小脳だけに続く。延髄の下方は脊髄につながる 〇万以上のものを超遠心分離機という。遠心分用したものとしては遠心分離機や電気洗濯機の軸として一回転してできる立体とも考えられ が、その境は明確ではない。 一般には、脊髄の 〈阿部恭久〉る。このとき、角を直円錐の頂角とい 脱水機などがある。↓向心力 離機は、選鉱、製薬、食品など工業用に広く使 きかんしつ 、 0< が回転してできる線分が直円錐の母線第一筑神経が出る部分までを延髄下端とするの 〈中山秀太郎〉 用されている。 エンジンルーム 0 機関室 トこである。底面の半径が / 、母線の長さが / の直が適当であろう。延髄長軸の長さは約二・五 円運動のように固定円錐えんすい平面上に円周、タし 土、いカえんしんりよく 点の周りを運動している物体が外向きに受ける点 0 があるとき、 O を端とし、上の任意の点円錐の側面積は S Ⅱミである。〈栗田稔〉で脊髄より膨らみ、やや横に押し延ばされたよ うな円柱形をして、後頭 骨の斜めになった後下部 固体 コ下 「斜台」にのっている。 て プっ こうした全体の形から脳 球という呼び方もある。 のカ動 地心く延髄の下半部は脊髄と外 園遠な 遊 , と形もよく似ており、横断 カ一る面の中心部には脊髄から 心タち 遠ス落の中心管がそのまま続 き、上半部は延髄全体が 左右方向に扁平となり、 細い中心管が急に第四脳 室へと開いている。つま りこの部分では、延髄の 背側部は外側に割れるよ うな感じで移動し、天井 が開放されたようにな る。天井の覆いとなるの は小脳の後半部である。 延髄の表面には脊髄と同 じ溝と索状隆起がみられ 「戔」るが、腹側面では正中線 に前正中裂という溝があ り、脊髄の前正中裂に続 いている。とくにこの溝 7 亠佼 原 ディスク型 ( 液・液・固体分離 ) 重液ー ー軽液 体 0 0 0 こ 0 0 ↓液体 → シャープレス型 ( 液・液・固体分離 ) 又土 重 デカンター型 ( 固・液体分離 ) 再三 朝愈前ー 固体 固体 液体 遠心力 の = ど / 厂 ッ , 斜円錐 遠心力 求心力 回転座標系 ( 回転物体上 ) せキ一ずい 、。はノ物 直円錐 へんべい
えんじん なななる 炎色反応えんしよくはんのう flame reac ・ クトルにより新元素であることを確認したことエンジン engine 火力、水力、電力など 然悪がか 自劣化わ tion アルカリ金属、アルカリ土類金属などのはとくに有名である。↓分光分析〈成澤芳男〉 のエネルギーを、継続的に機械的エネルギーに はの変に 較で性相瞭塩類をブンゼンバーナーの無色の炎中にて強熱援助的行動 えんじよてきこうどう他人の危変換する機械装置。利用するエネルギーによっ 比明色色明 の照演はが すると、各金属元素特有の色を示す反応。発見急を救ったり、めんどうをみたり、持っているて、風力を利用する風車、高圧空気を利用する 性色、 , で者ドイツのプンゼンの名にちなんで・フンゼン反ものを分けたり、寄付行為をしたりとい 0 た困空気タービン、水力を利用する水車、熱を利用 演昼 ) ン 応ともいう。この反応を利用して金属の定性分っている人を助ける行動の総称。この種の行動する熱機関、電力を利用するモーター、電子や ラる の 源よるムい 析を行うことを炎色試験といい、定性分析の補の社会心理学的な研究は、一九六四年春ニュー イオンを利用する電気工ンジン、化学反応など 光のえウて / 性見リ 0 助法として重要である。この炎色の現象は、揮ヨークで、若い女性が、三八人の目撃者がいたを利用する濃度差エンジンや窒素酸化物エンジ 色色にトな 発性塩の解離で生じた励起金属原子が発する輝 演演色ナ にもかかわらずなんの救助も得られすに惨殺さ ンなど、種々のエンジンがある。しかし一般に 線スペクトルのうちで、特定の波長の光が強く れた事件がきっかけとなって取り上げられるよ は、燃料が燃焼するとき放出する熱エネルギー 発光することによる。波長と炎光強度の関係を うになった。援助的行動をとらせる要因としてを利用する熱機関、とくにシリンダーなど機関 測定したものを炎光スペクトルという。 は、相手が実際に援助を必要としているかどう内部で燃料を燃焼させるものをさす。 普通、炎色反応を観察するには、ガラス棒のかの認知、自分が助けなければならないかどう 〔要素と原理〕エンジンは次の五つの要素から 先端につけた白金線を塩酸に浸してから何度も かの状況判断、そのときの自分の感情状態、援なる。 焼いて清浄にし、試料の少量をつけて炎中に入助的行動によって生じる自分への利害得失の計 ①作動流体加熱され、高温・高圧になり、エ れ、低温部からしだいに高温部に移す。炎色を算、相互扶助、互恵性の社会的規範または困窮ネルギーを連ぶ流体。熱容量が大きく分子量が 直接目で見るほかに、携帯用の直視分光器を使者・弱者救済の社会的責任に対する認識などが 小さいこと、有毒物質でなく入手が容易である えば便利であり、またナトリウムとカリウムがあげられる。他方、援助的行動を抑制する要因ことなどの理由で、水、空気、燃焼ガスが使用 共存する場合のように、コバルトガラスを用い としては、援助によって受けるかもしれない過されている。また原子力発電、低温タービンな てナトリウムの黄色を吸収して、カリウムの紫大な損失のおそれ、ほかのだれかが援助するか どでは、用途に適した水素、フレオンなども使 タ 色を観察するという方法もよく用いられる。炎もしれないという社会的責任の拡散、大都市住用される。 色反応は主として定性分析に用いられるが、こ民などにみられる環境の刺激入力過多からくる 加熱部作動流体に熱を与える部分。直接作 の炎色は各元素に固有な波長の光の発光現象な冷淡さ、などが指摘されている。〈辻正三〉動流体 ( この場合、酸化剤を含むもの。はとん ので、これをさらに正確に知るためには、炎の エンシレージ 0 サイレージ どが空気 ) の中で燃焼させる内燃式と、外部で 色を分光器 ( プリズムあるいは回折格子 ) によ って確かめればよく、その強度から定量分析を 行うことができる。この分析法をフレーム分光 分析または炎光分光分析という。 分光分析は一八六〇年ドイツのキルヒホッフ と。フンゼンによって確立され、セシウムの発 見、ついで六一年ルビジウムの発見につながっ たことは有名であり、その後一八九八年キュリ ー夫人によるラジウム発見にあたり、分光スペ 炎色反応 コノヾノレトカ・ラス 元素 炎色 を通した色 リチウム 紫 ナトリウム カリウム 紫 ルビジウム 深赤 セシウム 青紫 カルシウム 橙赤 橙緑 ストロンチウム バリウム 青緑 青緑 ー 4 ら址ヒ 冂イ、 インジウム 、本冂 タリウム 黄緑 青紫 ホウ素 黄緑 冂イく 注 : エタノールを加え , 蒸発皿で点火したときの炎の周辺の色 ① ② ③ ④ 炎色反応①カリウム②ストロンチウム③ナトリウム④銅 751
うちゅう 宇宙飛行 / 訓練 宇宙飛行士の訓練飛行士は打上げのシ ョックや長時間の無重量状態に耐えて任 務を遂行しなければならない。あらゆる 事態に対応できる科学的知識や技術が求 められる ①飛行機の自由落下による無重量の訓練。 使用機は KC -135 輸送機。 1 回数十秒で あり , 繰り返し行う ②水中での無重量の訓練。宇宙での作業 訓練に適している ③地球帰還に際して不測の事態もありう る。バラシュートによる訓練 ④宇宙船の操縦訓練。写真はスペースシ ャトル操縦席での訓練 ① ② ④」 4 1 が、無人の探査体は月のほか金星、火星にも軟 一九三一年に・ジャンスキーによって発見 着陸して探査に成功している。これら多くの探された宇宙電波は、その後の電波観測の発展と 査体により、地上からの観測では望めない多く ともに宇宙像を一変させた。それまでの可視光 のことがわかってきたし、精密な写真も撮られ にのみよっていた宇宙の観測は、比較的高温の た。なお、土星を観測したポイジャー二号は、 天体、主として恒星によって構成される宇宙像 一九八六年一月には、その外側の天王星に最接をつくりあげていた。これに対し電波は、光で 近して、その観測データを送ってくるであろ見ることのできなかった極低温の星間物質や、 う。宇宙探査の場合、観測対象までの距離が遠可視光領域ではすっかり衰えてしまったかって こんせき く、したがって探査体には長時間の寿命が要求の大爆発 ( 超新星や銀河爆発 ) の痕跡を明らか され、極度に高い信頼性をもっていなければな にした。爆発に伴う電波はシンクロトロン放射 らない 〈新羅一郎〉 とよばれ、長波長で顕著であるのに対し、暗黒 , っち - ゅ , っち一ゅ、つけ・、 宇宙空間を利の低温物質からの電波は、種々の分子がその回 宇宙中継 用する無線通信のうち、人工衛星を中継所とす転エネルギーによって発する線スペクトルを中 る遠距離間の通信をいう。一般的になじみのあ心とし、ミリ波とよばれる最短波長の領域に集 るのは、通信衛星を中継所として行われる衛星中している。現在の宇宙電波観測装置の発達 中継放送である。↓衛星放送 〈後藤和彦〉 は、長波長での大型干渉計、短波長での高精度 ハラボラ鏡において著しいものがある。↓電波 宇宀由通信うちゅうつうしん space commu- 天文学 〈海部宣男〉 nication 宇宙機の飛行が実現するとともに、 宇宙通信という通信の分野が大きく開けてき宇宙飛行うちゅうひこう space flight 地 た。これは大別して次の三つに分類される。 球の大気圏外での飛行をいう。広大な宇宙から ①宇宙機 ( 宇宙局という ) と地上 ( 地球局とい みれば、飛行空間は比較にならぬはど狭小であ う ) との間の通信。②宇宙局と宇宙局との間のるが、誕生以来、地球表面での生活を送り、一一 相互通信。③宇宙局を中継点とした地球上の一一〇世紀に至ってようやく大気圏内の飛行に成功 局間の通信。 した人類にとって、一九六一年四月一二日、ソ ロケットを打ち上げるときの地上からの誘導連のガガーリンが初めて宇宙を飛行したことは 制御指令送信、宇宙機からの各種の通信や写真まったく新しい経験であり、人類史上に記され 電送などは①の分類に入るし、衛星船どうしのる重大なできごとであった。 連絡などは②に入る。③に入る宇宙局は一般に 宇宙飛行は大気中の航空機の飛行とまったく 通信衛星とよばれ、目覚ましい発達を続けてい 異なる。大気圏の高さに対する明確な定義は確 る。宇宙通信には、指向性が強く、ト / 電力でも立していないが、その飛行空間はいわゆる真空 遠距離に到達できるように、一般にギガヘルツである。宇宙線その他の放射線、宇宙塵などが 以上のマイクロ波が用いられる。周波数が高い 飛び交ってはいるが、それらは、飛行体の運動 ために、通信回線が増大され、あるいはテレビ にはほとんどなんの力も及ばさない の中継にも役だっ。なお、宇宙局から出る電波 ロケットによって打ち上げられた宇宙機の連 の出力はどうしても小さいため、受信するのに 動は、ロケットの噴射を止めたあとでは、重力 感度の高いアンテナが必要であると同時に、信 だけによる自由飛行となる。自由飛行の状態で 号音を雑音から区別する技術を向上させなけれは、宇宙機も宇宙機の中の物体もまったく同様 ばならない。電波のほかに、レーザーを使う研 に重力に従って動くから、見かけ上、重力はな 究も進んでおり、その将来性も大きいと期待さ くなり無重量状態となる。宇宙飛行を続けるた れる。 〈新羅一郎〉めの動力は要らす、燃料も消費しない。宇宙機 宇宙電波うちゅうでんば宇宙から地球にやの姿勢制御とか経路変更のためだけにわすかな ってくる種々の電波を総称していう。宇宙にお推進剤を必要とする。地球の周りを数か月にわ ける物質の多様な運動はあらゆる波長域の電磁たり周回したり、はるかかなたの月や惑星にま 波を生み出しているが、電磁波のなかでもっとで飛行できるのも、このためである。 も長波長の領域である電波は、必然的に宇宙に しかし逆に、地球大気の外に飛び出すために おける低エネルギー現象、一般的には極低温のは、かってない高速度を与えなければならす、 物質領域において現れる。 そのためには、飛行機などでは経験しなかった 163
えべれす 工べレスト山登攀ルート・ヒュー・マップ ①北東稜ルート 1960 年プレ期 , 中国隊が初 登攀 ( ただしノース・コルまでは① B ルート ) 。 東ロンプク水河にべースキャンプを設け , ノ ース・コル経由のルートはイギリス隊の第 1 次 ( 1921 年 5 ~ 9 月 ) , 第 2 次 ( 1922 年プレ 期 , 8525m まで到達 ) , 第 3 次 ( 1924 年プレ 期 , 8572m まで到達 ) , 第 4 次 ( 1933 年プレ 期 , 8572m に到達 ) のルート。なお , 第 1 次 のみはラクパ・ラ (Lhakpa (a) から東ロン プク水河源頭部を経てノース・コルに達した。 また , 1980 年のメスナー隊 ( 単独 ) は、①の ルートをとった。 ① A は , 1980 年 7 ~ 8 月期 , メスナーの単独 登頂ルート。北東稜から上部で北壁に回り込 んだバリエーションルート。項上真下で西稜 直登ルートに合流している。 ① B ルートは , イギリス隊第 6 次 ( 1936 年プ レ期 ) から開拓され , 第 7 次 ( 1938 年プレ期 , 8300 m まで到達 ) もこのルートをとり , 以後 北東稜にルートをとったほとんどの隊は , ートを使用している。 このノレ ① c は , イギリス隊第 1 次の偵察ル ・ラまで登った。 ロ このコンピュータによるヒ・ユー・マップは , ①は下の位置図青線の図域を南東方向か ②は赤線の図域を北西方向から 俯瞰した眺望に , 各登攀ルート を示したもの ( 高さを水平 距離の約 5 倍に誇張し てある ) 3 2 2 2 2 3 イ 4 6 7 6 7 7 8 6 7 8 山ルル トココ山 工 ス レススッ エノサロ ④◎④② 7 7 6 5 3 2 4 2 4 2 3 2 3 ②西稜初登ルート 1963 年プレ期 , アメリカ 隊が初登攀。西稜から北壁に 回り込み , ホーンバイン・クーロ ワールを抜け , 項上下約 250 m 付近か ら③の西稜直登ルートを経由している。 ② A は , 1980 年プレ期 , 日本山岳会隊の北壁 下部直登ルート。上部はアメリカ隊の西稜ル ートに合流している。 ② B は , 1983 年プレ期 , アメリカ隊の北面 ( 中 国側 ) からの開拓ルート。ただし , この隊は 西稜初登ルートに入ったが , 8100m 地点で断 ③西稜直登ルート 1979 年プレ期 , ューゴス ラヒ・ア隊が初登攀。クンプ水河のべースキャ ンプからロー・ラに直登し , そこから頂上ま で西稜の全長を忠実にたどった直登ルート。 ④南西側稜ルート 1982 年プレ期 , ソ連隊が 初登攀。南西壁の左部岩稜から , 西稜直登ル ートに合流。 ⑤南西壁初登ルート 1975 年ポスト期 , イギ リス隊が初登攀。南西壁の中央部を , 左から 1952 年プレ期 , スイス隊によって初めて開か ⑦南東稜初登ルート 1953 年プレ期 , イキ、リ 右斜上して南峰に出て , ⑦の南東稜ルートと れたサウス・コルに手つたルート。 ス隊が初登攀。ローツェフェースをトラバー ⑦ B は , 1970 年プレ期 , 日本山岳会隊が開い スして , サウス・コルに至り , 南東稜沿いに ロ冫月し 0 1980 年プレ期 , ポーランド隊 ⑥南稜ルート たサウス・コノレヘのノヾリエーションルート。 登った工べレスト初登項ルート。そして今日 が初登攀。南西壁の右部側稜沿いに登り , 南 ⑧東壁初登ルート ( カンシュン・フェース ) まで , このルートが一番多く登られている。 1983 年ポスト期 , アメリカ隊が初登攀。東壁 峰に上がる。 なお , サウス・コルに市るローツェフェース ⑥ A は , 1981 年ポスト期 , アメリカ医学調査 下部のバットレス状岩壁を登り切り , 上部は のトラバースには , 初登ルートのはかにも , 隊が開いた⑥のルートの途中から , 右斜上に 雪稜沿いにたどり , 南峰下 8500m 付近で南東 数本とられている。 ⑦ A は , ジュネヴァ・スパー直登ルートで , 稜に合流する。 登り , 南東稜ルートに出る。 く内田良平 > 633 ロンプ 中 国 プモ・し山 698 、一 - 工べレスト山オ、シュン水可 弁ラ・。ッタな、 、 8848 ブツェ山 ~ サウス・こルり ネ / く一 ) プ ・ス・ローソェ山ー、へ : 河 △肥元・エ ・カルデ山歩←水み ー・インポチ・ , = ・を、
ん え円 は半径の二倍である。直径の長さに対する円周弧に対する中心角という。このとき二つの半直面で、中心の座標が ( b ) 、半径が / の円の方のものの酸性あるいは塩基性を表すものではな 。したがって酸性塩がかならずしも水溶液中 の長さの比はどの円でも一定で、この値を円周線でできる二つの角のうち、小さいほうででき程式は れつこ で酸性を示し、塩基性塩の水溶液が塩基性を一小 率という。したがって、円周の長さ / は、半径 る弧を劣弧、大きいほうでできる弧を優弧とい きようやく - 一 を、円周率をとすれば ~ Ⅱ 2 ミである。ま この二つの弧を互いに他の共役弧であるである。とくに、中心が原点、半径が 1 の円をすとは限らない 〔単塩・複塩・錯塩〕通常の塩、すなわち陽性成 〈柴田敏男〉 という。円周によって平面は円の内部と外部に 単位円という。 た、円の面積は S Ⅱ、 ~ である。 円はその中心に関して点対称であり、どの直分けられる。円の内部の二点を結ぶ線分上の点塩んん salt 酸と塩基との中和反応によっ分、陰性成分ともに一種類すつの塩を単塩とい はまた円の内部にあり、内部の点と外部の点をて生する化合物で、酸の陰性成分と塩基の陽性うのに対して、少なくともどちらかの成分が二 径を軸にとっても線対称である。円はこの整っ 成分からなるものをいう。たとえば、塩酸と水成分以上の場合を複塩という。たとえば三フッ 結ぶ線はかならず円周と共有点がある。 た対称性が活用されて、車輪、マンホールの 化マンガンカリウム KMgF3 ()F ・ MgF2 とも 円と直線の位置関係は三つある。円と直線が酸化ナトリウムとが反応して中和すると、水と 蓋、硬貨、円卓など、直線に次いで日常至る所 かっせん 書く ) などがそうである。その意味では酸性塩 塩である塩化ナトリウムとを生ずる。 二点で交わるとき、この直線を円の割線とい で目に触れる図形である。円の弦によって分け あるいは塩基性塩も一種の複塩である。これに う。円と直線がただ一つの点だけを共有すると られる円周の二つの部分を円の弧といい、弦と HCI + NaOH ーー↓ NaCl + H20 きゅうけい 対し錯イオンを含む塩を錯塩という。たとえば 、その共有点を き、この直線を円の接線といい ) 弧で囲まれる図形を弓形という。とくに直径 K2CPtC14J, K4CFe(CN)6 」 , 「 Co(NH3)6 」 C13 な 〔正塩と酸性塩・塩基性塩〕酸と塩基の中和 で分けられる図形を半円という。また、中心で接点という。接線は接点を通る直径と直交して どのように錯イオン CPtC14J2-, CFe(CN)614- は、酸および塩基の強さに応じて反応が完全に 直交する二つの直径で分けられる四つの図形を いる。第三の場合は円と直線が共有点をもたな しぶんえん 進行し、酸のすべての水素原子が陽性成分 ( 金〔 Co ( NH し。を含む塩であるので、これら それそれ四分円という。円の中心を端点とする い場合である。 は錯塩である。これを古く 2KCl ・ PtC12, 4K 二つの半直線のなす角を、その半直線でできる 二つの円の位置関係は五つの場合がある。二属イオンあるいは塩基 ) で置換される場合と、 CN ・ Fe(CN)2 のように書いて複塩としたこと つの円を、とし一部の水素原子だけが陽性成分によって置換さ て、円を固定して考れ、一部の水素原子がそのまま残っている場もあるが、これは誤りである。ミョウバンは典 の える。ます、円が円合、およびその逆に塩基の水酸化物イオンある型的な複塩の一つであり、これは K と ( SO ン・ 他 12H ~ 0 と書かれるが、実際は「 K ( H ~ 9 。〕「と いは酸化物イオンが一部中和されすに残ってい < < の内部にあり、それ ( H20 ) 。」 ( SO ンのような錯塩の複塩である。 + それの円周に共有点がる場合とがある。たとえば、硫酸にアンモニア 互合 が場 〈中原勝儼〉 ↓錯体↓複塩 ない場合である。とくを通ずると、始めは、 いんわん 円る 2 あ 縁えん 0 因縁 に中心が一致すれは、 NH4HS04 NH3 + H2S04 7 、 + いト 7 、田い 7 界購 二つの円を同心円とい 燕えん中国、春秋戦国時代の国名。周の武 しよう・一うせき う。次に円 22 が円 < の のように、二つある水素のうち一つだけが置換王の弟召公爽が薊 ( 現北京市内 ) に封ぜられ あ合 1_2 日勿 たのに始まるといわれる。西周、春秋時代の燕 され、さらにアンモニアを通じていると、 内部にあってただ一つ 立ロる に関しては諸書に記録がみられないが、これは の点を共有する場合 〃外す ちゅうげん NH3 + NH4HS04 ーー↓ (NH4)2S04 = の有 異民族の山戎によって中原地域との連絡が断 十で、円は円に内接 7 、 + い 7 羂 < 共 7 、十いト 7 、十いト たれたためと考えられている。戦国時代に入っ 円を = するという。第三は、 せいちょう か占 ~ のように完全に置換される。全部の水素原子がても初期は斉や趙に圧迫されていたが、紀元前 二円 < 、が二点を共 円て 前一一七九 ) が即位す 有する場合で、一一円は陽性成分で置換された塩を正塩あるいは中性塩四世紀末、昭王 ( 在位前三一一一 ~ = ④っ 交わるといし 、その二といい、塩化ナトリウムや、この場合の硫酸アると楽毅らの賢人名将を招き、前二八四年には 円る 点を結ぶ線分を共通弦ンモニウムがそうである。これに対し、陽性成楽毅の率いる軍が斉軍を破り、斉の都の臨滔を 心す はじめ、斉の都市の大部分を占領した。また、 同有 わという。第四の場合分の中に水素イオンが残っている硫酸水素アン ぞう 十 共 しばしば攻撃を受けた異民族の東胡も撃ち、造 モニウムなどは、酸性塩といっている。 は、円が円 <t の外部 を りよらこムう じようへい かいらし 点 三塩基酸では二種類の酸性塩 ( たとえばリン陽 ( 河北省懐来県 ) より襄平 ( 遼陽市付近 ) にあってただ一つの点 り上うねい , りつ乙 一が を共有する場合で、二酸二水素ナトリウム NaH2P04 とリン酸水素まで長城を築き、現在の遼寧、河北両省と朝 〃円 ナトリウム Na2HP04) ができる。また一塩基弉北部を領有した。しかし、昭王の死後は、楽 円は外接するという。 < 2 合 ③場 第五の場合は、二円が酸でも、たとえば CH3COONa ・ CH3COOH の毅が退けられたため、斉の地から軍が撤退する しん 互いに他の外部にあるように酸成分の付加化合物ないしは分子化合物結果となり、前三世紀なかば以降は秦の圧迫を 受けることになった。太子の丹は刺客荊軻を秦 場合である。第一の場を酸性塩といっている。 に送って秦王政 ( 後の始皇帝 ) の暗殺を謀った 塩基性塩とは、酸性塩とは逆の場合で、陰イ 劣合を除いて二円に共通 が失敗し、かえって前二二二年秦に滅ばされ な接線を引くことがでオン成分として水酸化物イオンまたは酸化物イ 〈太田幸男〉 き、その個数はそれそオンを含むものをいう。たとえば CuCl(OH) た。↓春秋戦国時代 こじゅうろっこく れの順に一、 や BiClO のような化合物をいう。ただし酸性燕えん中国、五胡十六国時代の王朝名。 四である。 塩とか塩基性塩とかいっても、これはあくまで鮮卑族慕容部が建てた前燕、後燕、西燕、南燕 9 〔円の方程式〕座標平も化学式における形式的なものであって、塩そと、漢人馮氏が建てた北燕の五王朝の総称。こ 7 ふた 円と直線の位置関係 ①円と直線が 2 ②円と直線か接③円と直線が共 する 点で交わる 有点をもたない 円 土ロ 直径 中心 O op= だ ( 一定 ) 半径 接線 割線 ニつの円の位置関係 ( 円 A の半径〃 , 円 B の半径わ , d=AB) ①円 B が円 A の内部にある場合②円 B が円 A の内部にあ ( 右は中心が一致する場合 ) り , 1 点を共有する場合 4 分円 ロ凵 円 半 優弧 中心角 弦 A 弓形 さんじゅう
外形は鳥のアウトラインのようにみえる。これ しるときに驚かされると、ケッキョ す をウグイスに見立てたのが和名の由来である。 ケッキヨーと鳴きたてるのを「鶯 る す左殻のほうが右殻より膨らんでいて、多少右殻 の谷渡り」とい , つ。 を抱くような形になっている。殻頂の下の足糸 〔形態・生態〕ウグイスの分布は比較 で 糸 孔から足糸を出す。 〈奥谷喬司〉 的狭く、日本と、アムール川 ( 黒竜 よ・つーす・・、う 江 ) から揚子江にかけての東アジアに ウグイスカグ一フ 8L をきミミ s おがさわら M ミ . スイカズラ科の落葉低木。一名ウグイ のみ産する。日本では小笠原諸島、南 ギ ャ スノキともよばれ、一説にウグイスが鳴き始め 西諸島などにも分布している。渡りに の 物 るころに花を開くため、この名があるという。 ついてはよくわかってはいないが、樺 動 腸高さ一・五 ~ 三。葉は対生、徒長枝の葉は大 太 ( サハリン ) 南部、南千島、北海道 売工 きく、葉柄が耳状となり、隣接するものと互い では夏鳥であり、海を越えて渡るもの つは イ に合着し、壺状となり、茎を抱くことがある。 があることは確かである。本州以南の ガ ス 花は下垂する細い枝の先に、この属では珍し ものは、平地に漂行する程度の、ごく イ グ 一つ ( まれに二つ ) すつつき、三 ~ 五月に 小規模な移動をするものが多いと考え ウ 開く。果実は赤く熟し、甘味があって食べられ られる。雌雄同色で、上面はオリー。フ おはく 褐色 ( いわゆる鶯色 ) 、下面は汚白色。雄が一 六もある黄と黒の配色が美しいコウライウグる。日本特産種で、北海道南部から本州、四 せんもう 回り大きく、全長約一六、 雌は約一三。繁イス科のコウライウグイスをさす。また、夜鳴国、九州に分布し、山野に多い。全体に腺毛の 殖期のウグイスは、山地の大きな樹木の生えてき鶯、小夜鳴き鳥などの異名がたくさんあるヨある変種をミャマウグイスカグラとよび、山地 に生える。 〈福岡誠行〉 いない明るいササゃぶを中心に生活し、巣はサ ーロッパ産の小鳥は、ヒタキ科ッグミ亜科のナ うぐいすざわ ( ちょう ) 宮城県北西 サの枝、または低本の地上一ぐらいのところイチンゲールである。 鶯沢 ( 町 ) 色きる 紅向な 日本のウグイスは、江戸時代から、鳴き声を部、栗原郡にある町。一九五一年 ( 昭和二六 ) につくる。巣の外形は、ササの葉を絡ませた球 淡下と ラ , ら用 形で、横に丸い入口があいている。卵の数は四楽しむために飼われ、夜間も照明を与えること町制施行。西部は丘陵、東部には水田が広が 冖」の 1 」々、士 6 ク日 ~ か〈良 カ 5 腋は り、細倉地区から流れる鉛川が二迫川と合流 ~ 六個で、鳥の卵としては珍しく光沢のある赤により、さえずりの始まる時期を早めて正月に し′、す : っ ス ~ 葉る実 褐色。営巣場所の決定、巣づくり、抱卵、育雛鳴かせる「夜飼い」、米ぬか、大豆粉、魚枌をし東へ流れる。東北本線石越駅から細倉へ栗原 イ 3 をけ果 グ〕花っ 右 はすべて雌だけが行い、雄はもつばら縄張り 混合したものを水で練って、ウグイスなどの食電鉄が通じる。室町時代には大崎氏の支配が及 ウ〔のに てんしよう すりえ ( テリトリー ) の防衛にあたる。 虫性の小鳥の飼養を容易にした「擂餌」などのんでいた。細倉鉱山は天正年間 ( 一毛三 ~ 九一 I) うぐいすばり床板を張る際には、表 食物は四季を通じて、昆虫類、クモ類がおも技術を発達させてきた。また、さまざまな変わより鉛を産出し、明治維新後鉱山の近代化が図鶯張り くぎ られ、一八九〇年 ( 明治一一三 ) 細倉鉱山会社が面から釘打ちすると見苦しいので、床板下の根 で、低木やササを飛び移りながら、体の上にあった鳴き声を競わせることも広く行われてきた だ めかすがい る枝や葉の裏側を見上げて獲物を探し、伸び上が、現在では自然保護の思想から、ウグイスも誕生した。その後、鉛需要の増減とともに盛衰太に目鎹を取り付けて床板を留めるのが高級 な手法である。目鎹は根太に固定され、上部の がって、または飛び上がって捕まえる。冬には含めて野鳥の捕獲と飼養は、「鳥獣保護及狩猟を繰り返した。近年はその不振により町の過疎 ニ関スル法律」によって厳重な許可制がとられ化が著しい。現在、鉛のほかに亜鉛、カドミウ先端が床板の側面の穴に突き刺さって、床板を 熟したカキなど、植物質のものも多少とる。ウ かぐらや 留める。そのため、床板の上を歩くと重みで床 ムを産する。町指定民俗文化財に鶯沢神楽、 グイスの好む明るいササゃぶは、日本の自然でている。なお、ウグイスの糞は美顔用として江 〈後藤雄二〉板が上下し、目鎹の先端と床板とが擦れ合って っ鹿踊がある。人口四九八三。 戸時代から用いられてきたが、各種の化学製品 は山火事や崖崩れのあとの裸地にのみ一時的に 音が出て、床板をきしませる。その音が鶯の鳴 が普及した今日では、あまり利用されていな回『鶯沢町史』 ( 一九大・鶯沢町 ) 生じるもので、いすれは森林に変わっていき、 くような感じになるものを鶯張りの床という。 〈竹下信雄〉囮二万五千分の一地形図「花山湖」「岩ヶ崎」 ウグイスはすめなくなる。しかし現在の日本で たいとう うぐいすだに東京都台東区北西部、国寺院や邸宅の渡り廊下など、人の往来によって は、森林の伐採や林道の建設などによって、図ウグイスカイ 「鶯貝〕 winged pearl 鶯谷 電山手線、京浜東北線の駅名 ( 一九一二年開多年の間に目鎹の穴が広がり、自然に妙音を発 らずもウグイスの好む環境づくりに人為的なカ mussel, wing oysterZ P 、 ( 」 4 、、 s 、き・ あんきょ が働いている ミ e 、 ) きミミ軟体動物門二枚貝綱ウグ設 ) 、およびその付近の通称名。現在、暗渠になするようになったものが多い。京都知恩院の本 おとなし っている音無川が駅の近くを流れていて、ウグ堂と付属建造物をつなぐ渡り廊下は有名であ 〔人間生活との関係〕「梅に鶯」の組合せは日 イスガイ科の二枚貝。房総半島以南、台湾まで - : っ↓っレっ に分布する。浅海の岩礁に着生する腔腸動物イスの名所となっていたのを駅名にしたものとる。なお、当初から意図して鶯張りとするに 本の伝統的な詩歌や画にしばしばみられ、また は、穴の大きさを加減するために試行錯誤を要 いう。現在の鶯谷にはそのおもかげをしのぶも 物事の組合せが適切なことのたとえに使われのヤギ類に足糸で付着し、共生関係にあると考 〈工藤圭章〉 し、むすかしい のはなにも残っていない。上野公園の裏玄関に えられるが、共生する理由ははっきりしていな る。この語がみられるのは、漢詩集『懐風藻』 もあたり うぐいすぶえ短い青竹の管でつくった い。殻長一〇〇ミリ、殻高五〇 = 、リ、殻幅一五、リ ( 七五一 ) 以降のことで、それまでは「竹に鶯」が 、北には江戸時代から文人墨客が多鶯笛 ねぎし はつね く住んで根岸の里 ( 初音の里 ) とよばれた風雅笛で、管の上に同じ青竹でつくった小さなウグ 普通であった。梅も、もとは日本に自然分布せらいで、殻表は赤褐色、成長線に沿って織物の ′、↓っ・はーし ちぢみ あすか 〈菊池万雄〉イスをつけたものもある。指で管の両端を押さ の地がある。 す、飛鳥時代に中国から持ち込まれたものであ縮のような殻皮をかぶっている。前耳が嘴の え、その指の頭で風ロの開き加減を調節しなが よ , つにとがり、背縁は後方にまっすぐ長く伸 囮二万五千分の一地形図「東京首部」 り、『懐風藻』の「梅と鶯」の詩も中国の詩が ら吹いて、ウグイスの鳴き声に似た音色を出 下敷きになっている。中国の「鶯」は、全長一一び、殻が後腹方へ傾斜して広がっているので、 ウグイスナコマツナ ルい、か、つ】て・つ しかおどり やまのて ゆかいた
うつのみ しれ観公 残さ ワ」 0 / 立日り刻さ眼は 観切彫高開場て 和のにでの広っ 平石面像年のな 谷谷壁巨前と 十ー . 1 ー 大大の 音園 橋田 のは 日本最初の駅弁が販売され、五年後に日光線を らる 分岐し、一九三一年 ( 昭和六 ) 東武鉄道宇都宮 かれ 線が通じた。また、東北新幹線も八二年 ( 昭和 駅を 五七 ) に開通した。 おおや 街中 〔観光・文化〕西部の大谷には、特別史跡・国 まがいぶつ 指定重要文化財の大谷磨崖仏があり、また近く には大谷平和観音や、大谷石利用の歴史や採掘 かへ 空町 法の変遷を展示する大谷資料館もある。付近一 上場 駅馬 帯は宇都宮県立自然公園。市街には、一一荒山神 はちまん くんべい 宮街 社を中、いに北に八幡山公園があり、蒲生君平を 都華 宇繁 祀る蒲生神社が公園南入口にある。また、国指 せいがん てっとうば 定重要文化財の鉄塔婆を有する清巌寺や、銅造 ・一 - 宮う あみだこよらいぎぞう いっ - ごっ 阿弥陀如来坐像のある一向寺がある。文化施設 宇向 には、県立美術館、県立博物館、県立図書館な おたばし ^ 奥田久〉 記され、奥州への街道が通じると小田橋駅とも〔産業〕耕地は水田が多く、米、野菜、畜産中どがあり、宇都宮大学もある。 宇都宮 ( 市 ) うつのみや栃木県の中央部に そうえん ある県庁所在地で、政治、経済、文化の中心 よばれた。一一世紀ごろ藤原宗円が宇都宮氏を 心の営農がみられ、ナシ、クリも栽培される。回『宇都宮市六十年誌』 ( 一九六 0 ・宇都宮市 ) ▽ 徳田浩淳著『宇都宮の歴史』 ( 一九六九・下野史 地。一八九六年 ( 明治二九 ) 市制施行。一九五名のり、市街の基礎をつくった。一五九七年市の東部のトマト栽培の施設園芸も特色で、 がもうひでゆき ひらいしきょはら みずほの ハ三・宇 料保存会 ) ▽『宇都宮市史』 ( 一九七九 ~ 四年 ( 昭和二九 ) 平石、清原、横川、瑞穂野、 ( 慶長一 l) 宇都宮氏没落後、蒲生秀行が市街を部ではリンゴも栽培される。姿川沿岸の西部の おおや しろやまくこもととみやとよさとしの 都宮市 ) 城山、風本、富屋、豊郷、篠井 ( 大部分 ) の各二荒山神社前の広馬場の西に広げ、一六一九年丘陵は凝灰岩からなり、大谷石として採掘され すずめのみや すがたわ まさずみ 村、五五年雀宮町、姿川村を編入。工業化と ( 元和五 ) ごろ本多正純が街道を東部の下町か る。第二次世界大戦中に東郊や南郊に近代工業五万分の一地形図「宇都宮」「矢板」 うわ ともに人口が増加し、人口三七万七七四六 ( 一九ら西部の上町に移すなど、城下町経営に努力し が立地し、一九六〇年 ( 昭和三五 ) 以後に宇都宇都宮氏うつのみやうじ中世の下野の豪 しもつけぬ 宮東台地や真岡台地に全国屈指の内陸工業団地族。その出自については、下毛野氏、中原氏、 含 ) は北関東諸都市のなかで最大である。市域た。日光東照宮が創建されたのち、日光、奥州 もおか きめ 藤原氏などの諸説があり、確証はないが、関白 は鬼怒川東岸の真岡台地から鬼怒川沿岸低地、両街道の分岐点の宿場町、市場町になった。一 がつくられ、電気機器、機械器具、金属製品、 みちかねそうそんそうえん 田川を挟んで宇都宮東、西台地にわたり、北部 八六八年 ( 明治一 ) 庚辰戦争で市街の大半は焼たばこなどが製造され、県内有数の製造品出荷藤原道兼の曽孫宗円が前九年の役 ( 一 0 五一 ~ うじいえかつやま あべよりとき に宇都宮丘陵や古賀志山地がある。内陸のため失した。八四年栃木県庁が栃木から移され、一額をあげている。広馬場付近が市の中心的商店に、安倍頼時調伏のため下野に下り、氏家勝山 キ一レ′ごっ ふち 街である。 ( 栃木県氏家町 ) の釜ケ淵で祈疇し土着したの 気温の変化が大きく、冬の冷え込みは北関東の九〇七年 ( 明治四〇 ) 第一四師団司令部が置か ともつな に始まるという。宗円の孫朝綱は、頼朝の奥州 県庁所在地のなかでもっとも厳しい れ、政治・軍事都市になった。四五年 ( 昭和一一 〔交通〕国道は、四号、一一九号、一二三号、 とおだ しもつけいちのみやふた 〔沿革〕宇都宮丘陵南端にある下野国一宮の一一〇 ) 戦災を受けたが復興は早かった。広馬場の 二九三号などが放射状に通じ、西部に東北自動征伐に功をたて、遠田郡 ( 宮城県 ) の地頭職を つりてんじよう 拝領し、また一一九四年 ( 建久五 ) 東大寺大仏 荒山神社の別号宇都宮 ( または宇津宮 ) から地南に釣天井の伝説で有名な宇都宮城の本丸跡車道や日光宇都宮道路も通じる。一方、一、 わみようしよう わきじ いけのべのごう がある。 五年 ( 明治一八 ) 東北本線が通じ、宇都宮駅での脇侍観音像を造立するなど、有力御家人とし 名が生まれたという。『倭名鈔』に池辺郷と 交通公園 らやま 卍県文 文商業高 卍図 日ロ「をつラ 学物中 ・県 宇都宮市 おてよ 、阜地気 東北′ 鶴Ⅲ町 した まっ しもつけ 178