⑩高架第 5 ホーム 9 番線 10 番線 ⑩高架第 6 ホーム 1 1 番線 12 番線 ⑩地平第 1 ホーム 13 番線 ⑩地平第 2 ホーム 14 番線 15 番線 ⑩地平第 3 ホーム 16 番線 17 番線 ⑩地平第 4 ホーム 18 番線 ⑩浅草ロ改札 ⑦新幹線乗り継ぎコンコース ⑩新幹線改札 ⑩新幹線コンコース ⑩新幹線直上コンコース ①公園ロ ⑩地下第 1 ホーム ②大連絡橋連絡通路 19 番線 コー上越新幹線 ③臨時改札ロ 20 番線 ④大連絡橋通路 @ 地下第 2 ホーム ⑤公園ロ通路 21 番線 ・コ -- ・ -- 東北新幹線 ⑥高架第 1 ホーム 22 番線 1 番線ー京浜東北線 ( 大宮方面 ) ⑩中央乗換通路 2 番線ー山手線 ( 内回り ) @ 駅本屋 ⑦高架第 2 ホーム ④中央広場 3 番線ー山手線 ( 外回り ) ①中央ロ改札 4 番線ー京浜東北線 ( 横浜方面 ) @ 正面玄関 ⑧高架第 3 ホーム 5 番線 地下鉄 ( 日比谷線 , 銀座線 ) 6 番線 連絡通路 ⑨高架第 4 ホーム 7 番線 ④浅草ロ 8 番線 ⑩地下鉄銀座線 注 : わかりやすくするために建物の一部を省略してある。 新幹線ホームは , 地下約 25m の深さにある 在来線 在来線 406
し記したカタルシス説とは、演劇の機能の本質 ( 歴史劇、神話伝説劇、社会劇、家庭劇、民話 劇 ) 、目的から ( 政治劇、宗教劇、教育劇、娯をとらえた重要な見解だといえる。人間は、こ 楽劇、祝祭劇、慰問劇、公共劇 ) 、形式からのようにして、わざわざフィクションの世界を っそ , っ つくりあげ、そのなかに遊びながら、 ( 室内劇、野外劇、円形劇場 ) などと、演劇の 分化発達に即してほとんど無限に分けられる。高い別の次元の人生を味わい、そこにこそ人間 むろんギリシア演劇、イギリス演劇、アメリカの生きる意味や喜びを実感としてとらえる。そ の意味で、芝居 ( 演劇 ) は人生の真実の投影だ 演劇などの各国別分類、あるいは日本を中心に ともいえよう。『ハムレット』のなかの「芝居 大きく分けて、国劇と西洋演劇とに区別するな せりふ は人生を映す鏡だ」という台詞や、ラテン語の どの分け方もできる。そしてもっとも大局的な 見地にたてば、これらのうちで世界の演劇の主「全世界は劇場なり」ということば、中国にい けんこん 流を占めてきたのは、いわゆる西洋演劇であう「乾坤一戯場」の語など、いずれもその本質 る。その西洋演劇はギリシアに出発し、フランを示している。 優れた演劇は、したがって、見る者の心を楽 ス古典劇からイプセンへつながる古典主義演劇 しみのなかに清め、人生の真実、理想へと高め の流れと、中世に出発してシェークスピアから ぜあみ ゲーテ、シラーを経て今日の反自然主義に至る導くものとなる。能の大成者世阿弥は、これを 非古典主義演劇の二つの流れがあり、この二大「そもそも芸能は、諸人の心を和らげ上下の感 じゅふくぞうちょうもと かれいえんねん 潮流の相克の歴史によって形づくられているとをなさんこと、寿福増長の基、遐齢延年の法 なるべし」と述べている。 みることができょ , つ。 しかし芝居は俳優の肉体により、実人生に酷 演劇の機能 似した形で、しかも感覚的に訴えかけるために 演劇が単に娯楽や鑑賞のためではなく、人生共感陶酔の度合いが強く、現実と虚構との境界 に必要不可欠なものとして発生したものであるが失われる場合もある。日本では若侍が歌舞伎 ことは前述のとおりである。つまりそれは、生の悪役に切りつけ、止めに入った男を殺害した 産とか、病、死とか、戦いや天災地変などの生例もあるし、アメリカでも車人が『オセロ』の 活の危機に直面したとき、なんとかしてその不なかの悪漢ィアゴーに扮した俳優を銃殺して自 安を乗り越え、かき消し、自らの生を体ごと確殺するという事件が起こっている。また強く集 認しようとする人間の無意識な働きだったので団心理に作用するため、政治運動や教育にも役 だっかわり、堕落や危険を招くおそれも生す ある。それは現在でも、原始的な生活をしてい る未開人種の間に明らかにみられる。そしてそる。プラトンの憂いにも一理あるわけで、歌舞 ゅうかく の演劇的行為に、重大な要素として模倣と遊戯伎が徳川幕府に遊廓と並ぶ悪所として取り締ま られ、役者や作者は河原者として低い地位に置 性が含まれていることはいうまでもない。 かれたこと、また大正から昭和前期にかけて新 模倣とは、アリストテレスによって位置づけ 劇運動が革命連動として弾圧されたことなど られた概念である。その師プラトンは、演劇、 文学をはじめ造形美術などいっさいは、イデアも、演劇の社会的影響の大きさを裏づけてい すなわち理想的な存在 ( 真存在 ) の模倣であるる。東西ともに、演劇が本質的な人生との関係 において評価され、芸術として肯定的に位置づ 現実や実物を、さらに模倣したものにすぎない けられたのは比較的近代のことである。 から、真実から遠いもの、堕落したものだとし 」れ・つい つばうちしようよう 日本では明治以来、坪内逍遙や森鵐外らの て否定した。アリストテレスはそこで、模倣と いうことを解釈し直すことによって、演劇肯定先覚者によって演劇の重要性が高唱されたが、 説を打ち立てた。つまり、人間は赤ん坊のときそれが一般社会に認識されたのは第二次世界大 から模倣本能がある、と同時に、模倣されたも戦後である。戦時中に軍隊や勤労者の慰問で地 のをみて喜ぶ本性がある。模倣ということはか方にまで演劇への関心が行き渡ったことも、戦 後の地方演劇や自立演劇、観劇組織、学校演劇 ように人生にとって不可欠のものであり、演劇 などの普及発達に役だった。視聴覚教育という キ、はこの本能に結び付いたものにほかならない。 ことばも生まれ、現在では「文化の顔」とさえ 演劇の場合の模倣は、しかも事実そのものでな いわれて国際交流にも大きな役割を果たしつつ んく、人生の真実らしいもの、あるべき姿を描く ある。ことに科学技術の急速な発達により、人 , んことだ、と論じたのである。この模倣説と、前 ふん 一九 0 ニ 一九 0 四 一九 0 八 一九一 0 一九宅 天全 ( 明治一一 0 ) 史上初の天覧劇 〔イギリス〕グライン独立劇場創立 〔フランス〕ロスタン作・コクラン主演『シラノ・一〈〈〈 ( 明治一二 ) 壮士芝居おこる。新派の発生 一〈九一 ( 明治一一四 ) 新派で男女合同改良演劇。川上 べレジュラック』 音一一郎大阪より上京 〔ロシア〕モスクワ芸術座創立 ベルナール、 一兊四 ( 明治一一七 ) 坪内逍遙『桐一葉』を書く 〕このころよりテリー 一〈究 ( 明治三一一 ) 初世市川左団次、松居松葉「悪 ドウーゼの三大女優活躍 源太』上演、局外作家作品の始 カ匕アイルランド国民劇協会設立 め 〔ドイツ〕ラインハルトの反写実的演出の試み一九 0 = ( 明治三五 ) 花房柳外、イプセン『民衆の敵』 を翻案上。イプセン劇の先駆 〔ロシア〕チェーホフ『桜の園』 一九 0 一一 ( 明治一一一六 ) 川上音一一郎「オセロ』「ハムレ 匕アベイ劇場開場 ット』を翻案上演 一九 0 六〔中国〕東京に春柳社創立。話劇の祖 一九 0 五 ( 明治一一一八 ) 『不如帰』『金色夜叉』など新派 『リリオム』 一九 0 七 ハウガ〕モルナール『悪魔』 の黄金時代 ( 、一九一 ll) 〔朝鮮〕円覚社創立、新劇運動はじまる 一九 0 六 ( 明治三九 ) 前期文芸協会創立 〔 ~ 、ルキー〕メーテルリンク『青い鳥』 〔ロシア〕メイエルホリド花道を演出に応用一九 0 九 ( 明治四一一 ) 後期文芸協会・自由劇場創立 ・コロンピエ座創立一九 = ( 明治四四 ) 帝国劇場開場。イプセン『人形 〔フランス〕コボー、ピュ の家』松井須磨子主演で初演 〔インド〕このころタゴールの近代的演出進む 一九 = = ( 大正 (l) 島村抱月と須磨子芸術座創立 プン〕イエーツの能様式詩劇『鷹の井戸』 〔ドイツ〕ゲーリング『海戦』、カイサー「カレ一九一四 ( 大正三 ) 宝塚少女歌劇生まれる 一九一七 ( 大正六 ) 沢田正二郎新国劇をおこす ーの市民』、表現主義流行 一九一九 ( 大正八 ) 須磨子自殺、芸術座解散 〔アメリカ〕オニール『皇帝ジョーンズ』 〔イタリア〕ピランデッロ『作者を探す六人の登一九 = 0 ( 大正九 ) 菊池寛『父帰る』初演 一空一 ( 大正一 0 ) 浅草オペラの全盛期。プロレタ 場人物』 リア演劇連動おこる 〔ソ連〕イワーノフ『装甲列車一四ー六九号』 一空四 ( 大正一三 ) 築地小劇場創立 にて社会主義リアリズム確立 〔ドイツ〕ピスカトール政治的アジプロ劇演出一九 = 〈 ( 昭和三 ) 早稲田大学に演劇博物館建つ。 二世市川左団次の訪ソ歌舞伎 〔ドイツ〕プレヒトーワイル『三文オペラ』 一九三 ( 昭和六 ) 前進座、人形劇団プーク、ムー 一九 = 一 0 〔中国〕梅蘭芳京劇に活躍 ランルージュ、テア , 「ル・コメ 〔アメリカ〕グループ・シアター創立 ディなど創立。エノケン、ロ / ・ 〔スペイン〕ガルシア・ロルカ『血の婚礼』 はかの軽演劇このころから盛ん 一九一宅 〔ソ連〕スタニスラフスキー「俳優修業』決 一九 = 入 ( 昭和一三 ) 久保栄「火山灰地』 定版成る 一九四 0 ( 昭和一五 ) 新協、新築地両劇団強制解散 〔フランス〕ジロドウー『オンディーヌ』 一九四四 ( 昭和一九 ) 決戦非常措置令で大劇場閉鎖 一九四ニ〔中国〕郭沫若『屈原』 一九四五 ( 昭和一 (0) 森本薫「女の一生』 一九四 = 一 〔フランス〕サルトル『蠅』 〔アメリカ〕ウィリアムズ『欲望という名の電車』一九四九 ( 昭和一一四 ) 演劇学会創立。木下順一一『タ鶴』 一九五 = 一 ( 昭和一一八 ) 放送開始。俳優座劇場成る 〔フランス〕ジュネ『女中たち』 ッパ公寅 一四 ( 昭和一元 ) 能狂言初のヨーロ 一九四〈〔中国〕田漢『関漢卿』 一九六 0 ( 昭和三五 ) 新劇団訪中公演。初の歌舞伎ア 一九四九 〔アメリカ〕ミラー『セールスマンの死』 メリカ公演 一 0 〔フランス〕イヨネスコ『禿の女歌手』 一九六三 ( 昭和三八 ) 史上初のユネスコ主催国際演劇 一空ニ 〔フランス〕べケット『ゴドーを待ちながら』 シンポジウム東京で開催 一六 〔イキリス〕ォズボーン『怒りをこめてふり返れ』 一九 〔アメリカ〕ミュージカル『ウエスト・サイド物語』一九六、 ( 昭和四 0 ) 三島由紀夫『サド侯爵夫人』 一九六六〔中国〕文化大革命で京劇改革、現代京劇一九六六 ( 昭和四一 ) 国立劇場開場 一突支昭和四一一 ) 安部公房「友達』。小劇場、アン 一九六〈 〔アメリカ〕ロック・ミュージカル『ヘアー』 グラ演劇さかん 一九七五 ラ〕カントール構成演出『死の教室』 一九〈一 = ( 昭和五八 ) 国立能楽堂開場 一九実〔中国〕江青ら批判され京劇は伝統復活 一九〈四 ( 昭和五九 ) 国立文楽劇場 ( 大阪 ) 開場 一九 〔イキリス〕・シェーファー『アマデウス』 一九呈 735
じゃもん けいせき こ閉山している。石灰石、ドロマイト、珪石、蛇紋岩などが津は、臼杵、津久見、佐伯が海大分県 / 略年表 久見市を中心とする九州山地に大量に埋蔵され、とくに石灰上交通の基地をなしている。 たけたっ 旧石器時代清川村岩戸、宇佐市小倉池など お石の生産量は全国一位で、全国生産量の一五・一 % を占めた竹田津ー徳山、別府ー広島・ やわたはま 縄文時代山香町川原田洞穴、本耶馬渓町枌洞 ( 研磨材用の鉱阪神・松山・八幡浜、佐賀関 お ( 一九含 ) 。そのほか、宇目町木浦のエメリー 穴などの縄文遺跡 ゅふいん ー三崎、大分ー東神戸、臼杵 石 ) 、湯布院町の白土、玖珠町のカオリン ( 陶磁器、耐火材 弥生時代日田市吹上、宇佐市台ノ原、国東町 すくも ここのえくじゅう おう 安国寺などの弥生遺跡 ー八幡浜、佐伯ー宿毛にはフ の原料 ) 、九重町九重の硫黄がある。 景行天皇、菟名手に豊国を治めさせ、硯田と名 エリーポートが通じる。旅客 〔工業〕第二次産業人口の割合 ( 一九〈 0 ) は、全国の三三 づけ、土蜘蛛を征伐 ( 『日本書紀』景行一一一年 ) % に対し、二五・三 % と、その後進性を示しているが、近年港としてもっとも重要なのは 古墳時代大分市御陵、宇佐市赤塚、臼杵市下山などの 工業の伸びは顕著である。工業は第一次産業に基礎を置くみ別府港で、貨物港としては大 古墳 六九 0 ( 持統四 ) このころ豊国が豊前と豊後に分かれる そ、しようゆ、清酒などの食料品と木材、木製品 ( 家具 ) の分、佐賀関、津久見、佐伯の 実九 景三和気清麻呂、道鏡排除の宇佐八幡の神託を奏 両工業が、事業所数と従業者数からはそれぞれ一、一一位を占産業基地が栄える。航空路は 上し、大隅に配充 % と二七・九 % を占めるが、製造品出大分空港から大阪、名古屋、 め、合わせて四七・ 一一九六建久七 このころ大友能直、豊後守護職兼鎮西一方奉 荷額からみれば少なく、二兆一〇五四億円 ( 一九〈 0 。全国の東京、鹿児島への路線があ 行として入国する = 毛四文永二蒙古襲来、大友頼泰、博多で戦う 〇・九 % ) のうち、金属工業三七・四 % 、化学工業二八・四る。 一天一弘安四蒙古再来、都甲惟親、肥前鷹島で戦う 0 〔社会・文化〕〔教育・文化〕 、機械工業八・五 % 、食料品工業八・〇 % 、木材工業四・ 八大友頼泰、「豊後国図田帳」を幕府に注進 江戸時代の藩校は、一七二六 八 % 、窯業六・八 % 、繊維工業一・九 % 、紙パルプエ業二・ 元弘三大友貞宗ら、九州探題北条英時を滅ほす 正慶二 一 % 、その他二・一 % の順である。一九五二年まで首位であ年 ( 享保一一 ) 岡 ( 竹田 ) 藩一吾西天文一一大友義鑑、勢場ヶ原で大内軍と戦う ゅ・つかく ほじん った繊維工業の比重は近年著しく下がり、軽工業中心から重の輔仁堂 ( のち由学館 ) が早一 一一 0 サビエル、府内にくる。大友宗麟布教を許可文区 ゅうえん きっき 重木 . . 、、は十ハ 府内藩の遊焉館、杵築藩弘治一一アルメイダ、府内に病院を開設 真 化学工業中心となっている。製造品出荷額の六一 、つすき ハリニャーノ、府内に学校を開き、翌年少年像 一犬一天正九 王市 分市が占める。なお、工業用水使用量は七八年二一・七億立の学習館、臼杵藩の集成館、 ひじ 遣欧使節を連れて長崎出港 明田 志高 方、全国一三位である。なお、在来工業として別府市の竹日出藩の致道館、佐伯藩の四 一四島津軍、日向、肥後方面から豊後に攻め入る 威後 教堂など、各藩に藩士子弟教一式 = 文禄一一豊臣秀吉、大友義統から豊後を没収、検地大豊 製品、日田市の家具、中津市の和傘などが知られる。 やっかん 一発四 一一秀吉、豊後を諸将らに分 〔開発〕瀬戸内海地域では、山国川・駅館川総合開発事業、育のために設けられた。佐伯 一発七慶長一一秀吉、朝鮮出兵、豊後諸大名渡海 国東用水事業、大野川上中流開発事業などが進められている藩は図書八万冊を集め、佐伯 一六 00 五オランダ船リーフデ号佐志生沖漂着。石垣原 が、もっとも重要なものは大分地区新産業都市の建設であ文庫として知られる。森藩 合戦。翌年にかけて豊後諸大名大きくかわる ペドロ・カスイ岐部、マカオに追放 る。遅れていた工業化の中核をなす大分臨海工業地帯の造成 ( 修身舎 ) を除く諸藩校は、 一六 = 三元和九福井藩主松平忠直、府内に配流 が一九五九年 ( 昭和三四 ) スタート、まず六〇年に工業用水幕末には洋学、医学を取り入 菱 = 一一享保一七両豊地方に大飢饉起こる ( 翌年餓死者多大 ) 道第一期工事、六一年に大野川河口左岸の一号埋立地工事がれ、府内、岡藩などは病院を 一〈 0 = 一享和三岡藩唐橋世済撰述の『豊後国志』完成 完成した。六三年別府湾沿岸三市七町の大分地区新産業都市もっていた。庶民教育として 一〈一 0 文化七伊能忠敬、豊後各地を測量 指定が閣議決定をみ、一方、石油、鉄鋼の二大基幹産業の誘の寺子屋は、現在確認されて 八翌年にかけて大百姓一揆発生 一〈 = 九文政一二広瀬久兵衛、呉崎新田を完成 いるものが七三五ある。この 致に成功、六四年九州石油、六九年九州電力、昭和電工、七 いちはた ぶんご 一〈三六天保七帆足万里『窮理通』八巻を完成 二年新日本製鉄がそれそれ操業を開始した。五九年九州四位うち、一畑村 ( 豊後高田市 ) 一会一嘉永四臼杵藩、海岸五か所に台場着工 の戴星堂は一五七三年 ( 天正 であった県工業出荷額は、六八年以降二位となった。 一〈六四元治一四国連合艦隊、姫島で石炭を積む 一 ) と、きわめて古い設立を 〔交通〕北部から東部のほば海岸寄りに通じる国道一〇号 一〈六〈明治一日田県設置。別府築港 につまう 四豊後は大分県、豊前は小倉県となる 伝えるが、多くは幕末の設立 ( 北九州市ー鹿児島市 ) と、日豊本線 ( 一九二三年全通 ) が しようや ほうひきゅうだい 九宇佐・下毛二郡を大分県に編入 大動脈をなし、日豊本線大分駅から分岐する豊肥、久大両で、寺院、庄屋、武士宅など 一 0 西南戦争。西郷軍、県南部に侵入 がその場となった。私塾は明 本線 ( 一九二八年と三四年開通 ) と、国道五七号 ( 大分市ー 一一一一市町村制施行、一四町一一六五村となる くるめ 長崎市 ) と国道一一一〇号 ( 久留米市ー大分市 ) がそれぞれ大治のころまで含めると一六六 一一六大分銀行設立 ばいえん 三一一大分ー別府間に電車開通 が確認されている。三浦梅園一九 00 野川と大分川、筑後川の河谷を走って筑肥に通じ、二次的な わきらんしつ 三七別府町に県下で初めて電灯つく 一九 0 四 動脈をなす。別府阿蘇道路 ( やまなみハイウェー ) は観光道の梅園塾、脇蘭室の菊園、広 たんそうかんぎ ほあしばんり 一九 0 九 四一一別府町に県下で初めて電話開通 路としての色彩が強い。陸上交通の不便な豊後水道沿岸で瀬淡窓の咸宜園、帆足万里の 」いき さがのせき ( 景行朝 ) へぎ 西洋医術発祥記念像 をレ鬆誌呼をら一大分市 を、 0000 須恵器台付壺 宇佐市鶴見古墳出土を , 、ネ、こ - ォ 宇佐市教育委員会 鶴崎盆踊り大分市 862
続行したが、〇七年一月辞任して、一時政界か たが、捕らえられて佐賀に送還された。 要を理由に遺子七名が死罪に処せられ、大名や代 八六八年三月参与兼ら引退、四月早稲田大学総長に就任した。第一 明治政府成立に際し、一 官で連座し失脚した者もいたが、その真相は不 次憲政擁護運動ののち、ふたたび政界に復帰 外国事務局判事に登用され、キリスト教処分問 お詳。むしろ長安の奔放性、巨大な在地支配力と 題でイギリス公使バークスと交渉にあたり、つし、一四年 ( 大正三 ) 四月第二次大隈内閣を組 財力、西国大名への接近を危惧した家康の政治 いで外国官副知事に昇進した。六九年 ( 明治織、内務大臣を兼任した。第一次世界大戦に参 的措置とみなされるふしが強い。現在、新潟県 さえぐさあやこ ぎやくしゅう あいかわ 一 D 二月三枝綾子と結婚。同年三月会計官副知戦し、一五年には対華二十一か条要求を提出、 佐渡郡相川町の大安寺に逆修塔、島根県大田 また一一箇師団増設などの軍備拡張を行った。同 事兼任、七月大蔵大輔、ついで民部大輔兼任と 市大森町の大安寺跡に墓碑、山梨県甲府市城東 がんか なり、贋貨問題、鉄道電信建設、エ部省設置な年八月内閣を改造して外務大臣を兼任し、一六 一丁目の尊躰寺に卵塔がある。大森町、相川町 どに尽力し、七〇年九月参議となり、七三年一年七月侯爵に叙せられたのちの一〇月に総辞職 や東京都八王子市に陣屋跡がある。〈村上直〉 きよう おお 〇月大蔵卿を兼任、八〇年一一月参議専任となっ 大久保彦左衛門おおくばひこざえもん 0 大 ともみ くばただたか 大隈は政治家であると同時に広く明治文明の た。この間、岩倉具視一行の遣欧中の留守政府 久保忠教 」か、、当り 内では西郷隆盛らの征韓論に反対の立場をと推進者としての功績をもっている。早稲田大学 大熊 ( 町 ) おおくま ( まち ) 福島県中東部の太 としみち ふたば の創設をはじめとして終生教育事業に力を尽く り、ついで大久保利通の下で財政を担当しつ 平洋岸、双葉郡にある町。一九五四年 ( 昭和一一 ちつろく くままち あ し、また国書刊行会、大日本文明協会の設立、 つ、秩禄処分、地柤改正を進め、大久保没後は 九 ) 大野、熊町の二村が合併して成立。西は阿 ぶくま 『新日本』『大観』などの雑誌の主宰、『開国五 参議筆頭となって殖産興業政策を推進した。い 武隈高地、東は海岸平地からなる。国道六号 りくぜん じよ - つばん わゆる大隈財政が展開されたのがこの時期で、十年史』『開国大勢史』の著述などによって、 ( 旧陸前浜街道 ) と国鉄常磐線が東部を南北に みつびし そうま 立憲君主制の国家にふさわしい国民の養成に精 他面、三菱と親密な関係をも結んだ。八一年三 通じる。相馬藩と平藩の境界の地で、相馬藩の 月国会開設意見書を提出して政党内閣制を基軸励した。一度も洋行せず、弁論家であったが直 開拓地以来、農業中心の生活を展開してきた ぶろしき とする即時議会開設を主張するとともに、おり筆を残さず、また、博覧強記で「大風呂敷」と が、一九六六年から東京電力が海岸段丘を利用 しつばを形づくる部分で、星座名ではない。ギからの北海道開拓使官有物払下げに反対したた陰ロもされたが、民衆政治家と目されていたこ して原子力発電所を建設し、景観が一変した。 さっちょう とも事実であった。大正一一年一月一〇日胆石 〈原田榮〉 リシア神話では、ニンフ ( 森や泉の精 ) カリスめ、薩長勢力および宮廷グループに排斥され、 人口九二九六。 ひびや アルファ なみえ トの化身とされている。北斗七星の先端星一〇月参議を辞任し、同時に大隈派官僚多数も症で死去。日比谷公園で国民葬が行われた。墓 囮五万分の一地形図「浪江」「磐城富岡」 れんべい 所は東京都文京区護国寺。↓大隈重信内閣↓ ー天六 0 と日星の間隔を約五倍北にたどっていくと北極連袂辞職した ( 明治十四年の政変 ) 。 大隈一一 = ロ道おおくまことみち ( 一七九ハ ちへいどう 八二年条約改正↓明治十四年の政変↓立憲改進党 政変後、政党結成を実行に移し、一 江戸後期の歌人。通称米屋清助。池萍堂、萍堂星がみつかり、北の方角を正しく知るときに便 あずさ ちくぜん 〈佐藤能丸〉 ↓早稲田大学 と号す。筑前福岡薬院 ( 福岡市中央区 ) の商家利である。北斗七星の柄の先端から二番目の四月矢野文雄、小野梓らと立憲改進党を結成し きなえ ゼータ ふたがわすけ ( 星ミザールには、アルコルとよばれる四等てその総理となり、また一〇月小野や高田早苗回大隈侯八十五年史編纂会編・刊『大隈侯八十 に生まれ、幼時から書と歌を福岡藩書家一一川相 五年史』三巻・別巻一 ( 一九一一六 ) ▽中村尚美 近に学ぶ。三九歳、家業を弟に譲り、今泉 ( 福星が角度にして約一二分ほど離れてくつついてらの尽力を得て東京専門学校 ( 一九〇二年早稲 いんせい 著『大隈重信』 ( 一九六一・吉川弘文館 ) ▽柳田 岡市中央区 ) の池萍堂 ( ささのや ) に隠棲、歌おり、肉眼二重星となっている。小望遠鏡で見田大学と改称 ) を創立した。八四年一二月名目 泉著『明治文明史における大隈重信』 ( 一九 に専念する。これより先の三五歳ごろから新しるとミザールのすぐそばにもう一つ四等星がつ上、立憲改進党を脱党。八八年二月第一次伊藤 きょたか ひろぶみ たん ひた 六一一・早稲田大学出版部 ) ▽河野昭昌「大隈 いているのがわかるが、 ( 星ミザール自身一つ博文内閣の外務大臣となり、ついで黒田清隆内 い道を模索し始め、四二歳のとき日田の広瀬淡 そう 重信論著目録」 ( 『早稲田大学史記要』六 ~ 八 の星ではなく、まったく同じ明るさの三・二等閣にも留任して条約改正交渉にあたったが、外 窓に入門、また香川景樹の言説にひかれる。一 所収・一九七三 ~ 七五・早稲田大学史編集所 ) 八四四年 ( 天保一五 ) ごろ歌論『ひとりごち』星ふたつが回り合う分光連星という複雑な体系人裁判官任用問題で世論の大反対にあい、翌年 くるしまつねき げんよう 玄洋社員来島亘喜に爆弾を投げつけられて負傷大隈重信内閣おおくましげのぶないかく明 成る。「吾は天保の民なり、古人にはあらず」をなしている。明るい星雲としては九七ふく 治後期・大正初期、大隈重信を首班として組織 し右脚を切断。一一一月外相を辞任して枢密顧問 すなわち自分のいま生きている時代を自覚するろう星雲とよばれる惑星状星雲がある。このほ ただこと された第一次、二次の内閣。 こと、実情実景を直語で詠むこと。それを終生か、八一、八二、一〇一などの銀河があ官となった。議会開設に伴い、九一年一二月立 . 、月ムロ 三 0 ~ 天九〈 ノ日 , こイ る。 〈藤井旭〉 憲改進党に復党し代議士総会長に就任。九六年〔第一次〕 ( 天九〈一 徹底的に実践する。六〇歳のとき歌風を世に問 ひろぶみ わいはん ーー九 llll) 三月同党を中心に進歩党を結成して党首とな三一 ) 隈板内閣ともいう。第三次伊藤博文内 うべく大坂へ上り、六年後の六三年 ( 文久三 ) 大隈重信おおくましげのぶ ( 天三〈 まっかたまイ、よし てんまう けいお - っ 」ら′はい り、九月薩派と妥協して第一一次松方正義内閣の閣は地租増徴案を第一一一特別議会で通過させる 『草径集』出版、数年後帰国、慶応四年七月一一明治・大正期の政治家。天保九年二月一六日肥 たいすけ しようわい のぶやす ぜん 前国佐賀会所小路に、佐賀藩砲術長の父信保、外務大臣となった ( 松隈内閣 ) 。翌年三月農商べく自由党と提携を進めたが、党首板垣退助の 九日没、薬院香正寺に葬る。自筆歌稿『大隈言 道家集』『今橋集』『続草径集』が現存する。弟母三井子の長男として生まれる。幼名八太郎。務大臣を兼任したが、薩派とあわす一一月辞入閣に閣僚が反対したため、自由党は提携を断 任。九八年六月板垣退助とともに自由党と進歩念、伊藤は議会を解散した。ここに自由党と進 一八六四年 ( 元治一 ) 藩当局に経済政策を建言 子に野村望東尼がいる。↓草径集〈穴山健〉 党を合同して憲政党を結成し、最初の政党内閣歩党 ( 党首大隈重信 ) は合同して一八九八年 回佐佐木信綱・梅野満雄編『大隈言道』限定版し、藩の代品方として長崎ー兵庫間を往来、こ ・つ・つばい わいはん のころより長崎でオランダ系アメリカ人宣教師第一次大隈内閣 ( 隈板内閣 ) を組織した。しか ( 明治三一 ) 六月二二日憲政党を結成。狼狽し ( 一九天・竹柏会 ) やまがた し、両派の対立と閣内確執のため、党は自由党た伊藤は自ら政党を組織しようとしたが、山県 フルべッキに英学を学び、翌年長崎に英語学校 おおぐま座〔大熊座〕おおぐまざ七個の ちえんかん 明るい星が柄杓の形に並んだ北斗七星を含む星致遠館を設立しその経営にあたった。六七年系の憲政党と進歩党系の憲政本党に分裂し、内有朋らに反対されて辞表を提出。しかも元老ら よしのぶ 座。ほば一年中北の空に見えるが、春の宵のこ ( 慶応三 ) 三月、将軍徳川慶喜に大政奉還を勧閣は四か月で総辞職した。一九〇〇年 ( 明治一一一が後継の任にあたらなかったので、伊藤は天皇 じよ、つ広 - く そえじまたねおみ 大隈、板垣両人に大命降下を奏上、大隈を首 ろがもっとも見やすい。北斗七星は大熊の胴と告しようとして副島種臣とともに脱藩上洛し三 ) 一二月憲政本党総理に就任し、政党活動をに そんたい ひしやく たいら M82 M81 アルコル ミサール 北斗七星・・ M101 M97 おおぐま座 ひ たいすけ ありとも 888
都市民でも同じである。商業での血縁的な本家・分家関係 のれん はもとより、本店・支店の関係、暖簾分けに伴う別家の関係 は、同族団関係に擬せられた。手工業者における親方・子方 関係は、そのまま家父長制的関係を意味している。 こうして、農民・都市民でも、一七世紀末には、その生業 を家業ととらえ、個々人の努力は家の発展と永続のためにあ るという観念が一般化していた。この各小社会の共通項とし ての家観念は、武士階級の支配の論理の基底をなすものであ つつ 0 将軍が「公儀」として最高で不可侵の家父長であることが 確定すれば、その将軍との関連において、武士・都市民・農 民の区分と関連の独自性とが論理化されればよかった。こう して、士・農工商・被差別民の身分編成が確定し、農民や都 市民の社会は独自の論理をもちつつも、その論理そのものを 武士社会の論理によって位置づけ、その存在意義を確定する こととなった。 武士社会と都市民・農民社会との間の共通性と固有性と 共通性において都市民 は、この社会の矛盾の根拠となった。 や農民が家の発展と繁栄とを徹底的に追求しても、ついにそ の固有性を武士社会のそれと取り替えることはできない。そ して、その都市民・農民の固有性への固定は、けっして都市 民・農民社会が必然的にしているのではなくて、国家が体制 支配を通じて決定しているものであった。人の生き方や努力 と体制との矛盾はここで明らかとなる。そのことが見通せた わいきよく ときに、人々の生き方は歪曲され、退廃した。町人文化 げんろく とくに一兀禄文化がその退嬰的な性格を上層都市民から醸し出 していたことは、そのことを示していた。↓元禄文化 〔身分制社会と幕藩制社会〕以上のような武士・都市民・農 民の社会を身分制的小社会と総称すれば、この身分制的小社 会は互いに並列的に存在していたわけではない。江戸時代の 幕藩制社会とよばれる社会は、これらの身分制的小社会を階 級的に組成した社会である身分制社会として成り立ってい た。そこでは、武士社会が総体として、都市民・農民社会を 階級的に支配・搾取している治者の社会として位置づけられ ていた。その位置づけを確定していたのは、基本的には武士 の間で位階制的に秩序・編成されていた封建的土地所有関係 Ⅱ幕藩領有であり、その土地所有関係を再生産するための、 ヾこ都市民・農民に対する人格的強制支配としての経済外強制で じあった。都市民社会においても、農民社会においても、土地 と所有の原則を貫くことによって、この階級的支配の背骨が確 , ん立していた。 一会一天保一一一囲米布令株仲間解散令 一一一 3 物価引下令 7 異国船打払令を やめ薪水食糧の給許可 一四 3 人返令 9 上知令⑨上知令撤 回忠邦失脚 一会四弘化一 7 オランダ国王の親書慕府に届く 一〈四六 三 2 江川英龍、伊豆七島巡視 4 、 英仏米船など日本に護来幕府、 朝廷に外国船来の状況を報告 一〈哭嘉、水一 一会九 一会 0 一会三 一会五 一会六 一会七 一会九 一一ⅱ軍艦製造▽英龍、韮山に反射 炉を建造 四 3 十組問屋はか株仲間の再興許可 六 6 ペリー来航、開国迫る 7 ロシ怩幕府、菱垣廻船間屋仲間株 2 関東地震▽瀬川如皐「話情浮名横櫛 ( 切ら れケ三 ) 』初演 ア使節フチャーチン長崎に来航の制度を廃止 ▽各地で打毀・強訴など農民騒優起こる 一会四安政一 3 日米和親条約 8 日英和親条約 ▽佐久間象山「省譬録』できる 9 オランダに下田・箱館を開港 怩日露和親条約 安政大地震 一一 2 全蝦夷地収公怩日蘭和親条約 5 蝦夷人を上人とよび、日本語の習熟、内地人と 三 7 ハリス、下Ⅲに来航 の同化を奨励 8 江戸に箱館産物会所大▽長崎奉行所、横文諸を蘭製鉛活字で印刷 四 1 蕃誓調所開校 2 クルチウス、 アロー号事件を通告 5 下田条約坂明奉行、問屋仲間に対し冥▽凶作、米価騰貴農民騒動頻発コレラ流行、 加金を命しる 「虎俍喇治準』出版 6 日米修好通商条約・貿易章程に 3 大坂に箱館産物会所 ロ日 -. 7 外国奉行設置 9 安政の 大獄 六 5 オールコック来日 一〈六 0 万延一 3 桜田門外の変 一尖一一文久二 1 坂下門外の変 8 生麦事件 7 桐生三五か村、生糸輸出の▽川手文治郎、金光教を開く永常「広益国産考』 禁止を江戸町奉行所に請願ロ寺子屋の開設、もっとも降盛 1 河竹新七「三人吉三卵初買」初演▽横井小楠 ③五品江戸廻送令 「国是三論』口かっぽれ、すちゃらか節流行 ▽諸国で重税、特産物買上げ反対の騒優象山、 幕府の夷狄観を批判オランダに留学生派遣「官 版バタピャ新聞』 長崎・江戸・京都市中に大誅の張紙 一〈六三 三 7 薩英戦争 8 八月十八日の政変 7 象山、開国論を昭え暗殺京都・大坂に物価 一〈六四元治一 3 大狗党挙兵 7 蛤御門の変 8 騰貴・征長・外国貿易非難の張紙▽へポン夫人、 四国連合艦隊、下関を攻撃 横浜に女槊を開く ( キリスト教久教育の初め ) ▽津Ⅲ真道訳『西洋各国盛袞強弱表』 一全五慶応一 3 物価引下げを命す浦条約を勅許 一一 1 薩長同盟▽各地に世直しの騒 1 生糸蚕種改印令 9 大坂富▽西周『万国公法』福沢諭吉『西洋事情』初編 商に御用金外国米輸入可刊 動頻発 三 6 大政奉還の薩土盟約討幕の 9 嘉永四年の仲間再興の際登 2 ハリ万国博覧会に参加、お陰参リ ( ええし 密勅・大政奉還怩王政復古の大録した以外の者の営業中止やないか ) 大流行 号令 5 新政府、新紙幣 ( 太政官札 ) 2 新政府、京都で機関紙「太政官日誌』を創 一〈六〈明治一 1 戊辰戦争 2 三職八局の制 3 五か条の誓文④し官両局の制にを発行し歳出を補う、合計一一 3 神仏判然令、以後排仏毀釈の運動起こる④諭 吉、塾を芝に移し慶応義孰 ( と改称▽へポン、日 改正 5 奥羽越列藩同盟 7 江戸一八八万両余を製造発行 本最初の和英辞典を完成 ( へポン式ローマ字の綴 を東京とする詔書 9 明治と改元、 一世一元制を定める 五 諸大名の専売を禁止 ①「御触書天保集成』昌平黌に庶民の聴講許可 6 絵草紙などの出版を統制 ▽中台芳昌『老農夜話』 ▽帆足万里『東替夫論』 9 幽学「徴味幽玄考』▽藤Ⅲ東制「弘道館記述 義』初稿成る ▽鉛活字をオランダより購入橋本左内『啓発録』 ▽成島司直ら『徳川実紀』 567
えどじオ 11 ワ】 ^. 0 藩制的な政治・社会のあり方を問数数 。こ江戸時代えどじだい しようとく い直そうとした正徳時代、その 問い直しが改革となって政策的に 〔範囲と概観〕時期区分 / 土地と人口 きようほう 石 「農民社会〕小農生産 / 村切り・村請制 / 本百姓 / 村共強行された享保時代を含む。 総高四 2 5 3 5 一 .0 ワ」 -0 ・戸 0 LO ③経済・社会の面に、幕藩制を否ん石 同体 / 村民の関係 / 村方地主 / 農民と商業 / 百姓身 ナ・公心 -8 一 00 「 / -0- ワ】 定する要素が形成し始め、そのこお 分 ロ内 っワ朝 -0 ワ】《 0 〔武士社会〕知行制 / 公儀 / 格・禄・役・職 とが、文化・政治の面にも影響を世 人 近 長保禄政治 戸 0 《 0 -0 -0- 。 0- -8 ー 11 -0 0 11 っ -0- 「 / 戸 0 る 〔都市民社会〕江戸時代の都市 / 町人の形成 / 町人支配及ばし始めて、幕藩制に解体の兆 慶正元文明 ワ】 -9 、 11 L.n CO 尸 0 0 ′ 0 0 《 0 4- CO 戸 0 11 -0 -0 ワ】 -4 ・ 9 、 -8- 4 ・【 8 -8 -4 ・ O -4 ・ 4 4- 0 11 -4 ・ ( 0 ( ト一 L.O 【 / 00 しが現れた時期 ( 一八世紀なかば Ln -8 1 よワ 0 「ー 11 11 ワ -0 -0 11 1 よ 1 よワ】 1 よっ 0 ー / 町人の階層 表 (. 0 -4 ワ」尸 0 11 、 .0 ワ」戸 0 11 -8 【 / ワ」 -0- -0 《 0 -0- 年 1 ー一 11 1 よ 11 、ー - 0 - -0 1 よ 0 ) -0 ワ -0 0- -8 -4- (. 0 い 0 ワ -0 「特殊生産諸カ〕商業的農業 / 特産物生産 / 特権的手工から一八世紀末 ) 。小商品生産の 代 展開に基づき新たな農村分解が進行していくという基礎状況 業 / 生産諸力と諸需要 《 0 11 っー 11 っ 0 、ー 0 ワ尸 0 っ 0 、 ^. 0 -4 ・ 0 、 1 一 -0 11 一 -0 11 11 「身分制社会〕身分制的小社会の固有性 / 身分制社会とのうえに、百家争鳴ともいえる文化的イデオロギー的状況が は、つれき 江 保保保享延暦暦和永永明政政化政政保化 開花した宝暦時代、新たな政治・社会のあり方を模索し政治 幕藩制社会 / 身分制社会と文化 享享享延寛宝宝明安安大寛寛文文文天弘 たぬま 1 人、ー 0 ワ」 -4 ・ -0 、 .0 ワ」 -8 4 ・ -0 《 0 ワ -4 ・ワ -4 ・ ^. 0 ワワ】 -4 ・戸 0 戸 0 《 .0 ー -8 一 -8 ) -0 ワ」ワ」っ 0 -4 ・ 〔解体過程の江戸時代〕 的転換を図った田沼時代、これに対し、幕藩制的な体制への表 、ー・・ー - 11 、ー - 、ー人 1 ー 1 ー - 1 よ 11 11 1 よ、ー人 1 人 1 ー人 1 よ 1 よ 11 11 立て直しに努めた改革が行われた寛政時代、幕藩制の解体過 〔略年表〕 程の進行とそれに対する幕藩制的体系・秩序の立て直しの政なかばで四二〇石であった。 範囲と概観 石高制のもとでは、耕地面積についての統計は例外的にし 治的・社会的努力との相克のなかで、独自の文化的高揚をみ かせい かっくられていない。一七一六 ~ 四七年 ( 享保一 ~ 延享四 ) 厳密には、江戸に幕府が開かれた一六〇三年三月二四日せた化政時代を含む。 ④幕藩制解体の動向が各方面で進行していく時期 ( 一九世紀の記録によると、わが国の全耕地 ( 田、畑、屋敷など ) は二 ( 慶長八年二月一二日 ) から、一八六九年四月五日 ( 明治二 初めから開港の直前 ) 。外圧の危機感が現実的なものとして九七万〇七八〇町歩であり、そのうち田の比率は五五・六 0 年二月二四日 ) 事実上の東京遷都が行われた日までの二六六 年間をさすと考えられるが、一般には一六〇〇年の関ヶ原の迫りつつあるという状況認識のもとで、幕藩体制の政治的立であったとされている。この総耕地地積は、明治初年の地租 てんほう 戦い以降、一八六七年 ( 慶応三 ) の大政奉還に至る間の、将て直しの最後の努力が改革としてなされた天保時代、改革の改正直前の耕地地積三〇一万九七四一町歩とほとんど変わら 。こうして、一八世紀前半での土地状況の大略は、反当 失敗後、国内経済・社会の変動と鎖国制の危機とが結び合っ 車を君主とする幕藩制国家の時代をさしている。 あづち り石高九斗余、一村当り平均地積四七・三町歩前後であると この時代は、前代の安土桃山時代をあわせて近世とも後期て進行した、開国前夜の時代を含む。 いってよい ⑤幕藩制の解体が決定的となり、幕藩制国家が倒壊するに至 封建制時代ともよばれ、また、幕藩体制という独特な政治体 同じく幕府の公式調査によると、江戸時代のわが国の人口 制をとっていたことから、幕藩制時代ともよばれる。そしる時期 ( 開港から大政奉還まで ) 。開国と開国の政治的・経 変遷は表 2 のとおりである。しかし、この調査には除外され て、この二六〇余年のうち、一六四二年五月一一日 ( 寛永一済的影響が急速に波及していった時期、そのなかで社会的・ ぶんきゅう 八年四月二日 ) から一八五四年三月三一日 ( 嘉永七年三月一一一政治的状況の転換期となった文久三年 ( 天六三 ) 八月十八日ている者が少なくないので、人口の実数はこれより四〇〇万 ~ 五〇〇万人ほど多かったであろうと考えられている。一七 の政変を前後とする時期、激しい社会的変動状況のなかで幕 日 ) に至る二一二年間は、鎖国制が敷かれていたこともあっ はロい」わ、つ 一六世紀末にはおそらく一八〇 世紀の人口はわからないが、 て、この時代は、政治・経済・文化思想の各面で、世界史上府の倒壊に至った慶応年間の時期を含む。 〔土地と人口〕江戸時代は封建制の時代であったから、政〇万人ぐらいと推定されており、一七世紀を通じて人口もま でも独自の発展がみられた時代であった。 一一くだか 〔時期区分〕江戸時代は大きく分けて、次のように時期区分治・社会経済の基礎は土地と農業にあった。その土地は石高た著しく増大したことが明らかである。なお、一八七二年 制に基づいて所有関係が定められていたから、公式には耕地 ( 明治五 ) の総人口は三三一一万〇八二五人であった。これ される。 らの人々は、それそれの身分に区別され編成されていた。そ ①幕藩制的な政治的・社会経済的・文化的要素と関係が確や屋敷地などもすべて米の生産力に換算されて、石高によっ て表現されていた。公式に把握されている石高の総計は、豊の身分別人口区分は、おおよそ、士が五 ~ 六 % 、農が八〇 ~ 定・確立していく時期 ( 一六世紀末から一七世紀なかば ) 。 せんみん けいちょうげんな 八五 % 、エが三 % 前後、商が六 % 前後、賤民が一・七 % 前後 関ヶ原・大坂両陣の国内戦争を中心とした慶長・元和時代臣秀吉政権時代をも含めて、表 1 のとおりである。公式に は、一七世紀、とくにその前半は石高の増大が著しかったこであり、ほかに神官僧尼が一 % 前後を占めていた。一八世紀 と、鎖国の確立前後の寛永時代を含む。 前半の一村平均の人口は約四〇〇人であったとみてよい 朝幕藩制的諸要素とそれに基づく政治的・社会的・文化的諸とが示されている。これらの石高は村ごとに分けられてい おおあぎ 士・エ商 ( 町人 ) は都市に住んでいたが、江戸時代には、 た。村 ( 明治以降の大字にあたる ) はその地域内の石高を村 関係が完成し整備されていく時期 ( 一七世紀なかばから一 世紀なかば ) 。諸側面での全国的な制度的整備が行われた寛高と称していたが、その村の数も公式には、表 1 に示される江戸・大坂・京都の三都をはじめ、各地に城下町・門前町・ げんろく ぶんえんほう 文・延宝時代、固有文化の一つの高揚期である元禄時代、幕ように、五万 ~ 六万か村に及んでいた。村高平均は一七世紀港町・宿場町などの商業都市や、鉱山町などの手工業都市が かんえい かん とみ かんせい むら 内女数 年 12 514 709 14 407 107 12 099 176 12 228 919 12 136 058 13 818 654 13 933 311 13 785 400 13 230 656 11 8 5 5 810 12 194 708 13 427 149 14 160 736 14 053 455 13 854 043 13 040 064 13 010 452 13 053 582 554
は荘厳な悲劇 ( トラゴイディア ) が生まれてア劇を生む。いずれも合理的、調和的な構成に特 演劇 / 略年表 イスキロス、ソフォクレス、エウリピデスなど徴があり、筋・時・所の単一を旨とするいわゆ こつけい 西暦外国 の作家が輩出し、冬の田舎祭りからは滑稽な風る三単一 ( 三一致 ) が鉄則とされた。これはイ 刺の喜劇 ( コモイディア ) が生まれてアリスト 〔エジプト〕オシリス受難劇 タリアでしだいに形づくられたものが、一七世前一冒小 尸〔中国〕殷王朝に覡 ( 男女のみこ ) の歌舞 フアネスが出た。 紀フランスの宮廷文化を背景に、合理、調和、 六世紀マリシア〕アリオン指揮によるディオニソス受 それからやや遅れた哲学者アリストテレスの秩序の理念によって完成された観念で、その頂 ちみつ 演劇の萌芽 難劇のド舞合唱 著作『詩学』は、悲劇の名作を分析して緻密に 点にたっ理論がボアローの『詩法』である。 0 夭以降〔ギリシア〕アイスキロス、ソフォクレス、エウ 論究した優れた労作で、西洋の演劇論の源流と 一六、一七世紀の西欧では、これとは別にス リピデス、アリストフアネスらの作 していまなお重要な位置を占めている。ことに ペインにローベ・デ・べーガやカルデロン・ 兄〔娵小」八用、わしい十・旧・上偶。 上演される。ギリシア古典劇の全盛前三世紀 悲劇はそれ自身で完結した、つまり初めと中とデ・ラ・バルカが現れて自由奔放な戯曲を書 呪術的芸能の時代 四 00 一 ~ 〔ギリシア〕アリストテレス『詩学』 終わりをもっ厳粛な行為の模倣であり、演じ出き、イギリスではシェークスピアが自由な作劇 はつらっ 一六五 〔ローマ〕テレンテイウスの喜劇『義母』 タ一ム阨・女によるシャ されることで恐怖と同情を引き起こし、情緒の術に剌とした詩情と修辞を織り込んで生き生 マニズム的鎮魂祈蔔舞踊。上 カタルシス ( 浄化 ) を行うものだという、悲劇 きと人間を描き、エリザベス朝演劇の花を咲か 俗歌舞の貢献芸能。男女混交 後一世紀〔インド〕『ジャータカ』成る。仏教詩劇さかん 群舞の歌垣など の定義は有名である。 せた。しかし当時は古典主義が支配的で、シェ 〒一世紀〔中国〕傀儡 ( 人形劇 ) おこる ギリシアを受け継いだローマの演劇は、より ークスピアの天才も高く評価されたわけではな 後四五 = 一 允恭帝葬儀に新羅よリ楽人参列 四 00 〔インド〕カーリダーサ『シャクンタラー』。 五六四 ( 欽明一一五 ) 百済より楽人渡来 動物的、現世的で、スペクタクルを好み、悲劇 い。だが一八世紀後半に至り、ドイツにレッシ サンスク リット古典劇全盛 六世紀〔中国〕隋・唐に百戯 ( 散楽 ) 栄える ( ー儿六一 = ( 推占一 (0) 百済の味摩之帰化し伎楽を伝う の伝統を生かすよりは、むしろ卑俗な喜劇や即 ングが出て『ハン。フルク演劇論』において古典 六九 0 ( 持統四 ) 舞楽・散楽の流入さかん 世紀 ) 。朝鮮・日本へも伝播 興的パントマイムのたぐいへ流れて、豪華な大主義の行き詰まりを批判するとともに、正しい 吉一 ( 大宝一 ) 大宝律令により推楽寮設置 〔朝鮮〕新羅統一後、仏教楽舞さかん 野外劇場の装飾を誇った。したがってギリシア古典復活とシェークスピアの評価を行い、さら = ( 人十勝 ) 東大寺大仏開眼会に舞楽・散楽 一 0 世紀〔中国〕宋に雑劇さかん 劇の流れをくむ劇詩人たち ( セネ力、テレンテ に続いてゲーテ、シラーがドイツ・ロマン派を イウス、プラウトウスら ) の作は、貴族や学者導き、フランスのデイドロも市民劇の理念を提 〔一一「ロ〕復活祭劇・降誕祭劇確立。各地に吟一 0 一〈 ( 寛仁一一 ) 貴族の間に延年行われる の間で朗唱される程度で大衆のものとならず、唱して、近代劇への動きを促した。総じて近世 このころよリ田楽大流行 一 0 九六 ( 求長一 ) 遊詩人が出る 質的にもギリシアの模倣の域を出なかった。演演劇は、職業的俳優の劇団活動が盛んになり、 一 = 世紀〔中国〕北宋の雑劇に対し金に院本おこる。一一六五 ( 水万一 ) 楽座・Ⅲ楽座が発生 劇論 にはホラテイウスの『詩論』があるが、ア屋内劇場での多幕物上演が増え、劇的内容はし 一天 0 ( 弘安「 l) このころ一遍上人念仏踊を創始 北戯と南戯の分立 リストテレスの『詩学』の分析的美学的理論体だいに各国各様の、いわば国民劇の性格が醸成 文中三 ) 足利義満、観世父子の猿楽を見る ョロ〕宗教劇発達し、大規模、多様化 」に宀女七 系に対して、実用的技法が主である。 されて、神や英雄にかわって一般的な人間が描 一四 0 ニ ( 応、水九 ) 世阿弥の『風姿花伝』成る。こ 〔中国〕元曲全盛、関漢卿ら輩出 中世に入ると、いわゆる暗黒時代一般の傾向かれる方向へと展開していったのである。 のころ能・狂言はほ完成 一笹紀〔朝鮮〕仮面劇・山台戯おこる そ - つりよ として古代劇の伝統は表面から消え、僧侶がキ 一九世紀初頭のロマン主義演劇を経て、後半 一四 = 一 0 ( 、水享二 ) 『中楽談儀』成る ロ〕人文主義者の古代劇研究おこる。 このころ幸若舞都中心に棗行 宗教劇最盛期 リスト教布教のために教会で行う宗教劇が支配 には進化論の提唱や物理、天文など自然科学お 一三 ( 文明五 ) 歌舞伎の源流の念仏風流さかん 〔フランス〕『。ハトラン先生』はかの笑劇 的となる。それらは、初めはラテン語によってよび機械技術の発達に伴い、近代自然主義の演 一哭 0 ( 文明一二 ) 琶・ 白子による浄瑠璃この 〔ドイツ〕謝肉祭劇・市民劇の萌芽 いたが、しだいに各国各様になって庶民も参加 劇がおこった。イプセン、ストリンドベリ、ハ ころか、ら〕土 6 る 一四九 0 〔イキリス〕道徳劇『エプリマン』 する一方、ギルドの発達とともに民俗的演劇ウブトマン、チェーホフらの作家が現れ、写実 がいレ、よら・ ( 世俗劇 ) が興隆して近世劇の母体をつくり始主義的近代劇運動の牙城としてアントアーヌの 一 = ( 人文二 ) 奈良・京都で風流踊はやる = 笹紀〔イタリア〕コメディア・デラルテ ( 、一八世紀 ) めた。たとえばローマのミモスの流れをくむ卑自由劇場、グラインの独立劇場、プラームの自 くろ・つと このころ琉球よリ蛇皮線輸入。 〔ドイツ〕工匠詩人ハンス・サックスら活躍一五六 0 ( 永禄三 ) 俗だが専業的な玄人芝居は、やがてイタリアの由舞台、ネミロビチ・ダンチェンコとスタニス 国産化した三味線流行し始める 〔イキリス〕最初の公衆劇場シアター座創立。工 コメディア・デラルテとなって、モリエールそラフスキーのモスクワ芸術座などが創立され 一犬一 ( 大正九 ) 京都御所にて「ややこ踊」あり リサベス朝演劇はしまる の他に重大な影響を及ばす。しかしこの時代に た。俳優中心の商業主義演劇を脱して人生探究 〔イタリア〕現存最古の劇場オリンヒコ座成る一五 ( 文禄四 ) 秀占・家康ら能狂言に興しる。 は、演劇論としてはみるべきものはない。 を第一義とし、作の内容尊重と調和ある全的表 このころ浄瑠璃・三味線・人形 一五九〈〔中国〕湯顕祖『牡丹亭還魂記』。南曲さかん ルネサンスを迎えると、まず一六世紀のイタ現を求めて、演出という仕事が重視され確立さ 戯が合体して人形浄瑠璃 ( 後の 一六 00 〔イタリア〕フィレンツェで現存最古のオ - ヘラ リアでアリストテレスの「詩学』翻訳をはじめれたのはこの時期であった。もちろんそれは、 文楽 ) 成立 『エウリディーチェ』初演 として古代研究が進み、遠近法を採用した舞台 一つには装置、照明などの技術的発達により、 一六 0 = 一 ( 慶長八 ) 装置も発明されて屋内劇場が発達、オリンピコそれら各要素を統一する必要が生じたためでも 〔イキリス〕シェークスピア「ハムレット』 一六 0 支慶長一一一 ) ドー ~ 尸体て興 , 〔イギリス〕ジョンソン『ポル - ポー、不』 座やファルネーゼ座などがつくられ、近世、近ある。 / 彡ⅱ十・・ " 戈尓 ) 社・尸で " ツ「占阜に紆、つ 〔イキリス〕ウエプスター『モルフィ公爵夫人』。 キ、代の額縁舞台をもっ劇場の基礎が確立した。一 しかし二〇世紀に入ると、さらにそれを超え 一六言 ( 竟永一 ) 猿一一川汀尸に ~ 流血悲劇さかん 七世紀には古代劇の伝統がフランスで復活し、 て、人間の内的本質に直接迫ろうとする反自然 衆歌舞伎繁盛 〔スペイン〕ローベ・デ・べーガ『国上こそ無二の一六 = 九 ( 霓永六 ) 攵歌舞伎禁止、 主義の傾向が現れ、第一次世界大戦ごろからは んルイ一四世治下の古典劇全盛時代の幕が開き、 ハロック劇黄金時代一六五一 ( 慶安じ若衆歌舞伎禁止 判官』。スペイン、 , えコルネイユやラシーヌの悲劇、モリエールの喜急速に活発化し、象徴主義、表現主義、構成主 9 ケ 一六 0 五 西暦 ( 和暦 ) 日本 733
えすとに つうちょ - っ や肉牛の育成と畜産が重要な役約不履行を非難する最後通牒を発し、翌日同工ストラジオール est 「 adiol 脊椎動物叫 割を占めている。〈山本茂〉国を占領した。単一候補者名簿による選挙が行の雌の卵巣から分泌されるステロイドホルモン 4 〔歴史〕一二世紀末にリポニアわれ、その結果成立した議会は七月二一日にソで、女性ホルモンの代表的なものである。 のる 連との合併を決議し、八月八日にソ連最高会議体および日体の二つの異性体があるが、一般 式れ ( エストニア南部とラトビア北 には日ーエストラジオールをさす。一九三五 は連邦を構成する社会主義共和国としてエスト クみ部 ) がドイツ騎士団の支配下に 年アメリカの生化学者 ニアを正式にソ連邦に編入した。独ソ開戦後、 、′多入り、エストニア北部も果敢な コ カ ドイジーがプタの卵巣 エストニアは三年にわたりドイツの東部領土に 抵抗のすえ一一三七年にデンマ レ 世突風 から発見した。このは ークに屈服、一三四六年にはデ編入されたが、四四年九月にソ連は同地の支配 をる 〈木一尸蓊〉 , 天すンマークは同地をドイツ騎士団を回復した。 オか胎盤、妊婦尿などか オ でが在 ら検出される。雌の生 〔文学〕古来、沿バルト海東岸地域は民間伝承ジ に売却した。騎士団の衰退とと ラ 都塔点 ラ 古尖が 殖腺を発達させ、二 の宝庫とされてきた。エストニア語で書かれた るの地もに、一五五八年にエストニア 工 残 ) 沢ヒ、ゝ ス 次、三次性徴を表す 」部がスウェーデンの、また一一一記録は一八世紀になってようやく現れるにすぎ 刀ロ 0 3 ほ冖にゆ - っ 工 後 が、とくに哺乳類では ないが、彼らの伝統的な頭韻形式民謡 ( レキバ 年後にはリポニアがポーランド カ ルス regivärss) は、その豊富な民話や伝説と発清をおこさせる。一般に女性ホルモンとして 物会のの所有地となり、一六二九年に 築教林 ともに「書かれざる年代記」とよばれている。発売されているものは日ーエストラジオール、 建一樹全体がスウェーデン領となった のキ葉 が、北方戦争でスウェーデンを一九世紀のなかばにクロイツワルト Friedrich またはこの誘導体であり、卵巣や子宮の発育不 世ス針 R. Kreutzwald ( 天 0 三ー 全 ) の手で編まれた民全をはじめ、更年期障害、月経不順、月経過 破ったロシアが、一七二一年の ドで ちっ 街と平ニスタット条約でバルト海地方族叙事詩『カレビポエク』にしても、ロマン的多、無月経、月経痛、機能性不妊症、老年性腟 市 ) 低 炎などに用いられている。また、経ロ避妊薬の 全体を獲得した。一八世紀後半民族主義の産物であると同時に、この土壌に深 ン会体 く根ざしたものであった。そこにはまた不屈の主成分としてエチニルエストラジオールが使用 にはエスト一一ア語新聞も発行さ 丿教全 タテは ^ 藤本善徳〉 祖国愛を歌い、国民演劇の母としていまなお愛されている。 都ス土れ、民族意識が高まった。 首リ国 一九一七年の二月革命後、ロ され続けているリティア・コイトウラ Lydia エストリル Estoril ポルトガル、エスト 左右 〈六 ) や、ゲルマン、スラブの レマドウーラ地方南西部の海浜保養都市。人口 シア臨時政府はエストニア人地 K0idula ( 天四三ー ア 域を統合し自治を与える政令を圧迫や支配の下で過ごした長い歳月の間に、過一万五七〇〇 ( 一九七四 ) 。カスカイス湾に面し、 発布、七月の選挙を経て一〇月酷な運命を生き抜くために鍛えあげられた一一一口語温暖な気候と温泉を有する避寒、湯治の町。熱 ス 工 にはペッツ Konstantin Päts の象徴主義を駆使してエストニアのランポーと帯的な公園とカジノが有名で、多様な催し物や ( 天七四ー一九五六 ) を首班とする臨称せられるユハン・リー。フ Juhan Liiv ( 一会四娯楽施設があり、近年、国際的な社交の場とな っている。 〈田辺裕・柴田匡平〉 〈菊川丞〉 ーー九 llll) らの詩人がいる。 」時政府が組織された。十月革命 からふと えすとる南樺太の西岸、間宮海峡に ーーごウラル語族のフィン恵須取 後、同地にもソビエト政権が樹エストニア語 語系バルト・フィン諸語の一つで、フィンラン臨む都市。ソ連ではロシア共和国サハリン州 立されたが、一八年二月ドイツ ド語に近い。ソ連のエストニア共和国の人口一 に属し、ウグレゴルスク YrJ1eropcK/Ugle ・ 軍の進攻により崩壊した。一一 gorsk とよぶ。港があるほか、林業総合企業、 月一一日にドイツが降伏する五〇・七万人のうち約七〇 % のエストニア人に と、同じ日にエストニア臨時政より話されている。北と南の方言に分かれ、そ製紙工場、「サハリン家具」工場などが操業し 府は独立を宣一言したが、ソ連車の差は大きく、北方言に基づいてエストニア文ている。人口一万八四〇〇 ( 一九七五 ) 。第二次世 語がつくられている。九つの母音と一六の子音界大戦前は、港湾と漁港をもっ海岸部の市街 が東部から攻撃、イギリスとフ と、二キ。ほど恵須取川をさかのばった内陸東方 インランドがエストニアを支援からなり、 lina 「市」、 linna 「市の」、 linnna の工場町に分かれていた。小さな漁村であった 「市へ」のように、母音と子音に三段の長さの した。二〇年二月二日の講和に よってソ連はエストニアの独立区別がある。形態的には、名詞は単数と複数が、一九二五年 ( 大正一四 ) 創業の樺太工業社 を認め、六月一五日に憲法が制で、一四格に変化する。動詞は人称と数によのバルプエ場が建設されてから発展し、王子製 定され、エストニア民主共和国り、現在と過去に活用し、直接法、条件法、命紙、太平炭砿などが立地、近郊には南樺太第一 くつかの連立政令法、伝聞法の四つの法をもつ。最古の文献との炭坑 ( 昭和初期には年産約四〇万トン ) が操業 が発足した。い 権が続いたが、三四年三月にべしてはバンラッド Wanradt とキヨル Koell していた。一九四二年末の人口は三万九〇二六 ^ 渡辺一夫〉 による『教義問答』 ( 一五一一五 ) があり、クロイツ人。 ツツは非常事態を宣言、独裁制 を敷いた。三九年八月の独ソ不ワルトの手になる民族叙事詩『カレビポエク』 機エストールき short take-off and landing aircraft の略称。エスティーオ 可侵条約後、ソ連は九月一一八日 誉 lev きミ g ( 天五七 ) も国民文学の基として知ら 〈小泉保〉 ーエル機ともいう。短滑走離着陸機のことで、 にエストニアと相互援助条約をれている。↓ウラル語族 通常形の飛行機に比べはるかに短い滑走距離で 結び、四〇年六月一六日には条エストラゴン 0 タラゴン 3 たんこう せん せきつい
えいせい 6 6 6 6 6 海王星↓火星↓天王星↓土星↓本星 0 0 0 0 0 0 0 ワ」軌 11 、ーム 1 よ 11 1 星 冥王星 〈大脇直明〉 る 0 衛 衛星海羊学えいせいかいようがく satellite 量 質 、 1 っ 0 oceanography 人工衛星を利用して海洋の観 戸 0 ワ】 血年 測・調査・研究を行う学問。宇宙開発技術の進 -8 1 人 00 - -0 1 よ -0 0 0 0 0 -0 -0- - -0 0 0 -0 門 / 11 -4 ・ - リ】 - 履・ 0 8 戸 0 -8 - -0 ) cr¯ä 1 -4 0 っ 0 -0- 戸 0 戸 0 ワ】 -0 0 -0- ~ 坦 1 人《 0 00 -0- -8 -4- っ 1 人 11 、 1 、 1 3 1 11 ワ】戸 0 ス ) 「 / 戸 0 、 1 1 人 -8 ) 0 《 0 -4- -. 0 戸 0 8 ーワ 0 、 1 門 0 轣衄展に伴って、一九六〇年代なかば以降発展しつ 半 11 、 1 ワ】ワ 星版 つある比較的新しい海洋学の一部門である。人 惑年 黄赤 赤 赤 赤赤乢圏 赤 工衛星による海洋観測は、その対象がおもに海 っ 0 / っー -0 4 0 頃 面 L.n 0 、 1 - い》っ 0 ーワ】《 0 1 人 00 ワ】 、 1 -0 -0- 4 11 ワ」 -4 -4 「 / 1 よ 11 0 0 - -0 面付近の現象に限られるが、船舶やプイを用い 道月 道 た観測に比べて、短時間のうちに広い海域の状 1 よ 11 1 人 1 ーよ の 星② 況が把握できる長所があり、今後海洋学の多く 率 母値 の分野への応用が期待されている。 の 、 1 ・ 4 -0 ) ワ】 -0- 0 ・》っ 0 CO -9 》 -0- 11 0 CO 一 -0 LO -8 人工衛星による海洋観測は、衛星の通信・測 の 0- -4 -0- ワ 1 ・ 1 -8 4- 8 《 0 / 0 -4 っ 0 0- 0- 1 人 t•—ワ」 -8 / -8 道平 ワ】 -0 -0- -0 ・ワ」 -0 ・ワ (. 0 0- 0 0 黄の 0- -0- -0 -0- -0- 0 0- 0 1 人ワ】つん 14 ワ朝 11 11 0 -0 -0- -0 0 -0- -0- 0 1 人 0 1 人 0 0 0 位機能を利用するものと、そのリモートセンシ れ月 - 由〒 0- -0- -0 -0 0 0- 0 -0 -0 0 0 0 0 0 0 0 ング機能を用いるものとに大別される。前者の れ そ なかで現在までのところ海洋学の進歩にもっと 軌す も貢献しているのは衛星航法システムである。 赤意 これにより世界中どこの海域でも高精度 ( 約一 を 黄と 〇〇以内 ) の測位が実現され、正確な海底地 欄る 形の観測や、海中に係留された測器の回収など のあ 00 Ln が可能となった。このシステムは、極軌道をめ ′ 0 L.n ワ 0 1 人 14 ( 0 傾斜 t•— 0 / 00 戸 0 -4 、 1 《 0 ( 坦圓〔 ぐる航海衛星からの電波 ( 一五〇メガおよび四〇 1 人、 1 り 0 、 1 ワ 11 軌の 〇メガヘルツ帯 ) の周波数のドップラー効果によ る偏移を船上で測定し、これをもとに船位を決 定するものである。これと同一の原理により、 て 海面を浮遊する小型。フイからの電波 ( 四〇〇メガ し」 位 ヘルツ帯 ) を上空の軌道衛星で受信したときの 径の周波数偏移をもとに、プイの位置を測定しなが 半も ら、海面水温や気圧とともに海面流を観測する 赤し 漂流プイもある。↓衛星航法↓海事衛星 -. 0 4 4 / ・ 4 の、こ 1 ー人 11 1 ・よ 1 ー - 1 ーよ 一方リモートセンシング機能の利用は、電磁 惑単 母を は星波を利用して海面付近の状態を観測するもの 「 / 「 / -0- -0- 0- -0- ワ 0 -4 -0 -8 4 8 -8 11 -4 」 -9 -4 ・ス一・ワ 0 【 8 11 8 0 0 0 0 0 0 -0- 11 11 / 行 / 8 00 8 又或 5 【 / 11 11 1 ・、 1 -0 ・・ 0 -0- 11 尸 0 「 / 「 / ( 8 ( ト ) -4 -8 8 -8 8 8 -8 8 8 7 7 9 8 9 9 半乢で、海面付近から自然に放射されている電磁波 、ーよ 1 ・よ 1- よ 1 ー 4 、ー・ 1 ー - 1 ・よ、・ 1 、ーよ、ーム 1 ・人 1 ・人 1 ー 4 1 ー、ー・ 1 ー 4 長は を人工衛星上で検知する受動型と、人工衛星か の量 ク 道質 ら発射した電磁波の海面付近からの反射および ン Ⅱ グャ 等散乱波を検知する能動型とがある。リモートセ ン 、ン にーンン ンンンン ス 一ルル マ文一一 の均 ン ク トャヤ工工 工天ャヤャルルエエ一ル一テき平 ンシングに用いられる電磁波は、観測目的に応 ドニカク一 スとの ッ車ジジジセセシシ セ ルルレレレレナララツルルルルルッジジシシニ じて可視光線や赤外線からマイクロ波までの広 一口ココココワノイイ一 一シシシインシッスルク - イイノ・イツツ あと カラカク ホホガガガガ ニコシポポ カカカホポカピパクララ米ボポポララ 範な波長帯に及んでいる。おもなセンサーとそ 位あ レ ア ス の観測目的は次のとおりである。 ス ス ス 文置 ウ ンウ ウ テ ア ウ 工 工 大位 ①可視放射計海面の輝度や水色を観測し、海 、不 スス スス オトべ デトテアアベアケ ト、不トソステラルリアンダンドン の ラフ一テメン ポモ ロメスル べライススオン ペ一スメオスプラメド 名 エフニロントイロは衝 氷、植物色素、赤潮の分布や、河川水の流入状 レャ径は ママラシノシルナダ一 ドテマンチィアタベアエヌピイレリトロン ンタベラ 星 況を把握する。 アウチオミトネキ シリカアレテアメミエテデレチヒイフャエデテカアフハ フダイユガ力アヒ工 衛 長光 表 赤外放射計海面から水温の四乗に比例する 標の Ⅱ —ⅡⅢⅣ > のも Ⅱ—ⅡⅢⅣ > ⅥⅦⅧⅨ刈ⅦⅧ—ⅡⅢⅣ > ⅥⅦⅧⅨ刈Ⅶ畑灯料 強度の赤外線が自然に放射されているので、上 星 星星道た 空でその強度を測定し海面水温の分布状況を知 星 王王 星球星星 地火本 海冥 る。一般に赤外線は大気中の水蒸気等により吸 発見年光度 ( 等 ) 軌道の標準長半径軌道の長半径周期 ( 日 ) 60 ". 27 539 . 7 2 . 76 12 . 94 12 6 . 92 32 . 37 5 5 . 91 581 . 57 6 9 . 40 925 . 34 5 1 476 . 01 6 2 596 . 15 26 . 36 13 249.55 2 . 53 14 15 840 160 . 7 16 16 199 164 . 3 16 32 425 329 . 3 18 32 530 330.4 15 908 18 161 . 4 18 31 230 316.0 29 341 18 297 . 0 22 15 318 155 . 0 16 306 178 1 . 81 176 1 . 79 255 . 80 3 . 09 328.18 3 . 97 406.27 4 . 91 520.35 6 . 29 726.68 8 . 78 20 . 36 1 684.61 2 042.0 24 . 68 4 909 . 4 59 . 34 17 861 215 . 9 209 2 . 52 209 2 . 52 520.35 6 . 29 406.27 4 . 91 406.27 4 . 91 190 2 . 29 192.14 2 . 32 195.38 2 . 36 発見者 1 . 230 x 10 ー 2 1 . 7 X 10 ー 27.3217 ( 2 0 . 3189 1 . 2624 1 . 7691 3 . 5 512 7 . 1545 16 .6890 0 . 4982 250.57 259 . 65 738.9 758 253 692 631 239 0 . 6746 0 . 2983 0 . 2949 0 .9424 1 . 3702 1 .8878 2 .7369 4 . 5175 15 .9454 21 . 2766 79 . 3302 550.48 0 .6988 0 .6943 2 .7369 1 . 8878 1 . 8878 0 . 6019 0 . 6130 0.6285 2 . 5204 4 .1442 8 . 7059 13 . 4632 1 . 413 5 .8768 359.9 6 .3867 -0 【 0 一 0 1 ー・ 11 11 11 -8 戸 0 1 人 0 6 . 6 X 10 1 . 3 x 10 ー 7 1 . 10 x 10 6 1 . 85 x 10 6 9 x 10 - 6 2.46 x 10 4 X10 ー 7 2 X10 1 ワ」ワ 11 1 よ -0- -8 4 11 -4 一 4 / -8 8 1 ー - 11 1 ー・、ー人 11 1 ー 4 、・ 1 、ー△ 0 . 0024 0 . 0042 0 .0033 0 . 0011 0 .0018 0 .0006 0 . 012 0 . 00 0 . 75 門 0 一 -0 っ′・、ー人 1 人 263 . 09 366 . 53 601.22 803.95 178.96 489.8 7 671 26
め知られる。繊維業は、江戸中期の白木綿の生産に始まり、明で、第三セクターによる建設 愛媛県 / 略年表 さきさらしたんし ひ治中期に織機を導入し、その後、織機改良や先晒単糸タオは赤字増加に直面している。 かのがわ 縄文時代上浮穴郡美川村上黒岩岩陰遺跡、東宇和郡城 , んル生産などに成功して急増した。中小企業が多いが、豊かな第二次大戦後は鹿野川、柳 川町穴神洞 ( 早期 ) 、南宇和郡御荘町平城貝塚 労働力、洗色用水利の便などで全国一の産地となっている。瀬、笠方、野村などのダム建 ( 後期 ) 松山藩では江戸中期に農家の副業として縞木綿の生産があっ 設が相次ぎ、工業用水、農業 弥生時代今治市阿方貝塚 ( 前期 ) 、松山市祝谷土居窪に たかばた かぎや いまず たが、京都西陣の高機の導入後、今出 ( 松山市 ) の鍵谷カナ用水の供給が安定した。 中期遺跡、松山市古照遺跡 ( 後期 ) よさん くるめびんご 古墳時代ム市相ノ谷第一号古墳、伊予市伊予岡古墳など が考案し、伊予絣と名づけられて、松山は久留米、備後とと〔交通〕国鉄予讃線が高松市 成務天皇の代、速後上命、伊余国造となる もに絣の大産地となった。第二次大戦後は染料の質の低下、から松山市まで開通したのは 五九六 ( 推古巴聖徳太子、伊予の湯 ( 道後温泉 ) に浴し湯の 問屋機能の衰退などで生産は減少した。松山市南郊の砥部は 一九二七年 ( 昭和一 D で、県 岡に温泉の碑を建てる 四国最大の陶磁器砥部焼の産地で、陶石を原料とした磁器生庁所在都市では全国でもっと 六 = - 九 ( 舒明一 I) 舒明天皇、皇后とともに伊予の湯に浴す 六四六大化二今治市南郊に国府置かれる 産に特色がある。大洲藩の奨励により始まったもので、中四も遅く、南予地方の私鉄を買 六六一 ( 斉明七 ) 斉明天皇、熟田津石湯 ( 道後温泉 ) の行宮に国 国の農山村に販路を開拓、第二次大戦前は東南アジアにまで収して宇和島市まで全線開通 きくま がわら 寄る 輸出した。菊間町の特産菊間瓦は、松山藩の保護のもとに株をみたのは四五年であった。 上一一和銅六『伊予国風土記』編集 仲間組織で生産を行い、明治初期には皇居造営用にも供した山地が多いため陸上交通の発吉一天平一一一一国分寺・国分尼寺を今治市桜井に建立 空六承平六海賊の頭領藤原純友ら日振島を拠点にして横 ほどである。最近は真空瓦方式で工程を短縮した。 達は遅れ、海運が先行し、今 行。『倭名鈔』に一四郡名 近代工業は、新居浜市の住友系企業が先駆で、一九三〇年治市が四国最初の開港場とな 一一 = 〈建保六河野通信、伊予国守護職に補せられる った。しかし松山市では、外 ( 昭和五 ) 住友肥料 ( 後の住友化学 ) が過リン酸石灰や配合 一毛一文永八一遍上人、浮穴郡岩屋寺に参籠 肥料の生産を開始、ついで人絹スフ生産の大江製造所、アル港の三津と道後を連絡した日 一き五嘉元三太山寺本堂 ( 国宝・松山市 ) 再建される = 一三五建武一一河野通盛、足利尊氏に味方して挙兵 ミ一一ウムの菊本製造所、別子鉱業所から独立した住友機械な本最初の軽便鉄道が一八八八 正呼六河野通盛、伊予国守護職に任せられる どが立地し、瀬戸内海沿岸で唯一の財閥系コンビナートとな年 ( 明治二一 ) 開通してい いそうら 一四奄応仁一応仁の乱。河野氏は山名氏にくみす った。このうちアルミニウムの磯浦工場は生産過剰のため、る。道路交通は、藩政期に松 一五会天正一三豊臣秀吉の四国征伐。小早川隆景、河野氏を服 こんびら 八二年に操業休止となった。昭和一〇年前後から川之江市の山から東へ金比羅街道、高知 属させ、伊予を平定し湯築城 ( 松山市 ) に入る みかめ 一五福島正則が湯築城主となる へは三坂峠を越える土佐街実七 富士紡、南予の三瓶町の敷島紡績など瀬戸内海沿岸に紡績工 一五空文禄四加藤嘉明、正木 ( 松前 ) 城主となる 場が立地した。これは労働力、海運、用水の便を求めたもの道、大洲への大洲街道などが 一六 00 慶長五関ヶ原の戦い。加藤嘉明・藤堂高虎は東軍に、 であったが、 現在は松前町の東レ、北条市の倉敷紡績など数あったが、これらは現国道一 池田・安国寺・来島氏は西軍にくみす 工場が操業しているにすぎない。第二次大戦後、松山市臨海一号、三三号、五六号がほば 七藤堂高虎、今治城を築く 一六 0 = 一 八加藤嘉明、松山城を築き松前城より移る 部に化学繊維の帝人 ( 株 ) が進出し、また石油精製の工場の同じルートを経由している。 一三藤堂高虎、伊勢に移封。富田信濃守、宇和郡 立地をみたが、 これら近代工業の多くは一次加工品の生産が四国八十八か所札所を巡る遍一六 0 〈 へきち 十万石の領主となる 路道は僻地連絡のルートで、 主で、最終製品の生産は行わず、地元産業との結合をみない 一六 0 九 一四脇坂安治、大洲五万石に封せられる ため、地域への波及効果は薄い。大正初期におこった造船業現在は廃れたものが多い。海一一高 一九伊達秀宗、宇和島十万石に封せられる は、今治市波止浜や大西町に集中立地し、輸出用船舶も生産運は本州や九州間をフェリー 一六宅元和三加藤貞泰、米子より大洲六万石に封ぜられる 九大洲藩主加藤泰興、一万石を弟直泰に分封、 するなど有力な産業となった。電機産業は、松下系列などのポートや高速艇が連絡してい 新谷藩設立 組立て工場が西条市、川内町、大洲市に進出し、雇用促進にる。松山空港は四国では最初 一六 = 七寛永四蒲生忠知、松山藩一一十四万石に封せられる のジェット機就航の空港で、 役だっている。 一一一松平 ( 久松 ) 定行、松山十五万石、松平定房 〔開発〕一九六三年 ( 昭和三八 ) に東予地方五市一二町村が滑走路を二五〇〇に延長、 今治藩三万石に封せられる ひうちなだ 一三一柳直盛、西条五万八千石に封せられたが、 新産業都市に指定され、燧灘沿岸埋立て造成、道路建設な年間利用客は一六〇万人に達 = ( = 六 死去のため嗣子直重西条藩三万石、次男直家 どが図られたが、企業進出は予想外に進んでいない。伊予一一一し、国内ローカル線では黄金 川之江藩一一万八千石、三男直頼小松藩一万石 島、川之江、新居浜各市では製紙や化学工業による公害が発ルートになっている。本四連 となる 生し、その防止に努力が払われた。南予地方では、足摺宇和絡橋の今治・尾道ルートの建 = 亳明暦三宇和島藩より三万石分知し、吉田藩成立 一六九一元禄四大坂町人泉屋が別子銅山開坑 海国立公園地域を中心にレクリエーション都市の建設が進 設は、大三島橋の完成に続い 一上一一正徳三下見吉十郎、サツマイモを広める み、交通整備や雇用拡大を図っているものの、観光客の減少て大島ー伯方島間の架橋が進 らぬ日 はかた 622